何故に今さら漱石なのかと思うだろうが、盆休みに読むものがなかったので、書棚にあった本書を戯れに読み始めたら、思いのほか面白かったのということなのだ。文庫の発効日が昭和5×年とあるので、中学三年生の頃に読んだようだ。
当時は漱石を結構読んでいたようで、「虞美人草」「坑夫」「明暗」など、あまり読みやすいとは言えないような作品も本棚で埃をかぶっている。"読んでいたよう"などと他人事のような書き方をするのは、今回改めて「それから」を読んで気付いたのだが、小説の細部をほとんど覚えておらず、始めて読むがごとき新鮮さを味わうことができたからである。というよりも、中学三年生で「それから」を読んでいたとしても、読めたことになっていたのかとも思う。
ご存知のように「それから」は恋愛小説であり、前作の「三四郎」と続作の「門」で三部作となっている漱石の代表作のひとつだ。主人公の代助は30歳でありながら、働きもせず親からの支援でのらりくらりと生きている。その彼が、親友の妻である三千代と道をはずれた恋の道に落ちるというストーリーだ。
漱石は、代助という「食うために働くのは堕落だ」と思うような主人公を設定し、自分の信念も、家族も、親友も、全てを裏切って愛の道を取るというテーマを書ききった。今でもかつても不倫であることに変わりはないが、その重さも意味もまるで異なる時代においてのそれは非常にスリリングだ。後半に代助が三千代に愛を告白する場面、嫂に自分の思いを語る場面など、まさに手に汗握る展開である。
しかし、少し本を置いて考えてみると、これを単に代助と八千代の不倫の物語と捉えるのだけでは済まない問題が含まれているようにも思える。職を持たずに親の援助だけで生活しているモラトリアム人生の代助と、彼の親友であり、いち早く実社会で成功と挫折を経験している平岡との葛藤や対立、そして代助自らは意識しないところでの平岡に対するコンプレックスなどと絡め、何故代助が現在の安住した生活を捨て、八千代との茨の道を選んだのか考えなくてはならないようだ。
代助は父親の進める政略結婚によって父や兄の住む実業の世界に絡み取られることこそに反発を覚えた。食うために働くことは堕落であると自覚しながらも、結果としてそれを放棄しなくてはならない八千代との愛の路を選んだことは、彼の矛盾した心象を表している。いやむしろ、他人に絡み取られることを拒むが故にこそ、自らの墓穴を掘り、新たな世界に飛び出すために八千代との愛を選択したというように読めないこともない。
自立するために職を選ぶにしても、今の自分の世界を捨てる理由が欲しかったということなのだろうか。社会的道徳理念とは反するが、自らの心情に従った純粋な愛の形を漱石が書きたかったのかどうか、詳しい漱石論を読んでいないので真意はわからないが、代助の屈折した感情が印象的ではあった。このような、一見積極的な愛の形に見えるものが、一方で消去法的な逃避的な愛の形にも見えるてしまうのだが、気まぐれな彼の情熱が覚めた先の世界については、本書では語られていない。
それにしても漱石はなかなか面白い。休日にぶらりと、この小説の舞台となった今の神楽坂でも見てこようかという気にさせられた。
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