2006年10月6日金曜日

ファジル・サイ ピアノ・リサイタルin王子ホール

王子ホールでファジル・サイのリサイタルを聴いてきました。



  1. J.S.バッハ(サイ編):パッサカリア ハ短調 BWV582
  2. J.S.バッハ:フランス組曲 第6番 ホ長調 BWV817

    モーツァルト:幻想曲 ニ短調 K.397
  3. J.S.バッハ(ブゾーニ編):シャコンヌ ニ短調 BWV1004
  4. モーツァルト:「ねえ、ママ聞いて」による12の変奏曲 ハ長調 K265(キラキラ星変奏曲)
  5. モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 K330

    アンコール
  6. モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331《トルコ行進曲付き》第3楽章
  7. モーツァルト(サイ編):ジャズ風トルコ行進曲

  8. ガーシュイン:サマー・タイム
  9. ファジル・サイ:ブラック・アース


  • 10月5日(木)19:00 王子ホール
  • ファジル・サイ(p)





何と評して良いのでしょう。今までサイについて散々と語ってきたつもりでしたのに、私は今日のコンサートを聴いて、実は何も語れてはいなかったのではないかという疑念が沸きました。それほどに今日のコンサートは素晴らしく、感嘆の声しか出ないのでした。


モーツァルトの幻想曲 K397も素晴らしい曲ですが、それを演奏することを止め替わりにシャコンヌが演奏されました。これにより前半はバッハ、後半はモーツァルトと、性格の違う世界を描き分けたプログラムとなりました。


何しろ、パッサカリアの最初の数音が奏でられた瞬間に、電撃に撃たれたような感触を覚え、私はこの場に居合わせることのできた僥倖に思わず歓喜の声をあげてしまいそうになりました。音の凝縮力といい音楽への集中力といい、多摩の時よりも凄かったかもしれません。いったい何度、胃がひっくりかえりそうな想いをし、どれほど感興を抑え込むのに苦労しなくてはならなかったか。


《フランス組曲》も充分に素晴らしく、特に弱音部分で無数の真珠が無垢な斜面を煌きながら転がり落ちるかのような表現は、ほとんど奇跡的です。《フランス組曲》より《イタリア組曲》の方を聴きたかったというのは贅沢な望みでしょうね。


特筆すべきは《シャコンヌ》でしょうか。パルテノン多摩のリサイタルでは実は今ひとつシャコンヌには共感ができませんなどと書きましたが、今日の感想は全く異なったものとなりました。座った位置が前回は最前列の右端という、あまり良好な環境ではありませんでした。たかがピアノ1台で、これほどまでの表現をされてしまっては、圧巻という以外に書きようがありません。ガンガン弾いてるように思われますが(本当に全身の体重をかけて重い和音を奏でていますから視覚的にも迫力があります)、彼のピアニズムの特徴である柔らかなタッチ、左ペダルと右ペダルの微妙な使い分けによる繊細さや弱音はここでも健在です。バッハをベースとした音楽の大伽藍は、人間のあらゆる感情を飲み込み、人智を超えた救いさえ垣間見る思いです。壮大な内宇宙を構築してくれました。


演奏が終わった後、拍手をしようにも脇の下や手のひらに汗をかいてしまい、まともに拍手などできるような状態ではなく呆然としながらサイを見つめていました。


後半は打って変わって軽く、ト長調のモーツァルト。K265は「ねえ、ママに聞いて」という題のように、恋人のことを母に打ち明ける音楽です。サイは演奏しながら客席に向かって語りかけるような仕草をよくするのですが、CDで聴いていてもサイが音楽を通して「語っている」ことが良く分かります。サイの演奏からは快活で元気な女の子が色々な調子で語りかけてきます。前半は女の子といった感じなんですが、第11変奏になると彼女は、ひとつの時を経た乙女の表情を見せてくれます。活発だった女の子が恋を通してこんなにも綺麗になってしまいます。その音楽の、色彩と香りさえ感じるような対比。結婚式で娘の花嫁姿に愕然とする程に(そんな経験ありませんし、息子しかいないからこの先もありませんが)この変奏は美しい。


K330の楽しさには思わず聴き惚れてしまいます。こちらも声には出さずに鼻歌を歌い、足踏みをしながら聴いてしまいます。


かくも素晴らしき演奏会のアンコールは、お馴染みのレパートリー。まずは普通の《トルコ行進曲》をスピーディーに奏で、1拍手を受けた後、続けて《ジャズ風トルコ行進曲》に突入です。やっぱり客席は沸きますね。《サマータイム》に続いて《ブラック・アース》で締めですが、例の弦を押さえた特殊奏法の音でホールの隅々まで満たされた瞬間は、何か原始的にして根源的な力を感じました。中間部は以前も書きましたが例えようもないほどに美しすぎ、全くもって、そういうものをストレートに感じすぎる自分がイヤになるほどです。