私的なLife Log、ネット上での備忘録、記憶と思考の断片をつなぐ作業として。自分を断捨離したときに最後に残るものは何か。|クラシック音楽|美術・アート|建築|登山|酒| 気になることをランダムに。
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2001年8月5日日曜日
ゲルギエフ指揮/キーロフ歌劇場管弦楽団による「春の祭典」
ストラヴィンスキー:「春の祭典」(1947年改定版)
ワレリー・ゲルギエフ(cond) キーロフ歌劇場管弦楽団
July 1999 PHILIPDS UCCP-1035(国内版)
ゲルギエフがストラヴィンスキーの「春の祭典」を録音したとなれば、嫌でも聴かねばならないという気にさせられてしまう。国内版で多少高くても、あるいは宇野功芳の解説がうっとうしくとも、まずは聴かねば始まらない、ということで結構期待をもって購入した。
この曲を聴くには、少しはいい再生装置で聴いたほうがよいと、まず言っておこう。最初はCDウォークマンのチンケなヘッドフォンで聴いていたのだが、それから受ける感興とスピーカーや良いヘッドフォンを通して聴いたのとでは、全く別の曲を聴くような体験であった。
さて、「序奏」からして重低音が響き、荒々しきプリミティブな爆発前のエネルギーを感じさせてくれる。この数分間だけで、ゲルギエフの面目躍如たるべき音楽であるという期待が高まる。
「春のきざしと乙女たちの踊り」の部分の粗さと躍動感、そして全体に漲る生気はどうだ。ティンパニなどの打楽器の強打は大地を打ち鳴らすほどのもので、何と言う迫力であろうか。宇野功芳が絶賛するのも、わからないでもないかと思わせる。そして、どう言うといいのだろうか、体全体が浮き足立つ、細胞が立ち上がって喜びに震え出すような雰囲気なのだ。「レコード芸術 8月号」で山崎浩太郎氏が”踊る音楽”とか”肉体性”というキーワードを使って語っているが、的確な表現であると思う。
「クラシック招き猫」のBBSで誰かも評していたが、確かに粗い、「春の祭典」として変なところもあるらしい。しかし、それが一体どうしたというのか、この演奏の本質からは瑣末的な問題としか思えない。
「誘拐の遊戯」の部分などは恐怖さえ感じるような音楽に仕上がっているではないか。ここに至ってすでに脳天に直撃のような衝撃を受けてしまっている自分に気付くのだ。ゲルギエフの術中に完全にはまってしまっている。
「春のロンド」のコントラバスの地響きにも似たフレーズの作りこみ。何かが巨大な予感とともに再生し立ち上がってくる臭い。そしてティンパニと金管群による信じられないほどの叫びとフォルテッモ!!! ここから「敵の都の人々の戯れ」「賢者の行進」に至る音楽の勢いの圧倒的な迫力、粗いとはいうが弦楽器は結構滑らかだ。しかしこのリズムと勢いは何なんだ、なだれ込み、息をつかせる暇を全く与えない、まるで花火大会のスターマインを聴かされているかのような畳み込むような音の洪水は、まさにゲルギエフ節だ。 「大地への口づけ」のラストの不協和音の響きなどは戦慄さえ走る。こんなにもすさまじき和音であったか、「大地の踊り」に至っては、もはや音響に溺れてしまい助けを求めたくなる。
何と言うことだ、何と言う音楽だろう、あっという間に第一部が終了してしまっている。そして、さらに深淵なる第二部の「序奏」に突入だ。
ここの不協和音ときたら、現代音楽だ、クラシックだなどという範疇を超えてしまった音だ。この音を聴いて、魂が揺さぶられないものがいようか(=いるとは思うよ)。
第一部の怒涛の音楽を聴いて、ここでふっと一息つくかのごとくだが、先ほどの粗さと緊張感を維持しながら「乙女たちの神秘な集い」などがうたわれてゆく。繊細さとか精緻さというものは感じない。図太い音楽が迷いもなく進んでゆくという感じだ。
そして、「いけにえの賛美」だ。宇野功芳は嫌いだが、いまは素直に解説を認めたい。ここに至って音楽は沸騰し始める。それも、煮えたぎったという感じではなく、これほどの音楽でありながら、不思議なことに冷たく煮えたぎっているのだ。ゲルギエフは非常に効果的に音響を形作っている、一見熱く振っているようで、綿密なる計算があるのではなかろうか。
「祖先の呼び出し」のおどろおどろしくも呪術的な雰囲気は、「祖先の儀式」へと引き継がれる。単調に打ち鳴らされるリズムが次第にクライマックスへ向けての序奏になっていて曲を前に進めてゆく、ひとつの緩みもなくだ。音楽を聴くものはゲルギエフに首根っこを鷲掴みにされたまま、異教徒の集会を見せられ引きずりまわされてしまう。
最後の「いけにえの踊り」までもだ。もはや目をそむけることなど許されない。目を覆うばかりのこの雰囲気も、ついには原始の野蛮なまでの本能が刺激され、狂暴にして荒ぶる魂が完全に目覚めさせられてしまうのだ。ラストのあり方などどうだ、「これでもか!!」と棒を振り下ろした=いけにえを完全に屠ったかのような感じだ。
何度も繰り返すが、何という音楽で何と言う演奏であろうか。最初から最後まで慄然としたまま音楽が過ぎてしまった。聴かねばこの迫力は伝わらないと思う。ゲルギエフが好きなら迷うことなく買いなさいというところだ。
ただだよ、冷静に聴くならばこれが古今東西の「春の祭典」の決定盤ということにはならないと思う。何故って? これは、完全に「異教徒の祭典」の音楽なのだ。このエネルギーのあり方は、「春の祭典」を20世紀の現代音楽の幕開け的な位置付けや、解釈からの演奏とは目指す方向が異なると思うのだ。純粋に音楽的な世界だけがここでは展開されている。 私はそれほど多くの「春の祭典」に接しているわけではない。宇野功芳のような熱に浮かされたような感想を書いてはしまったが、それだけエキセントリックな一枚であることだけは確かなのである。
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