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2001年12月7日金曜日

村上龍:アウェーで戦うために


最初に断っておくが(笑)、私は熱心な村上ファンではないし、サッカーファンでもない。Jリーグにも疎いので、知っている選手の名前は数人だし、W杯が日本で開催されるからと俄かサッカーファンを気取るつもりもない。

それでもこの本は面白い。「フィジカル・インテンシティ」というサッカー・エッセーの第3弾であり、シドニー五輪予選からセリエAまで、ナカタを軸としながら日本と海外のサッカーの温度差、ナカタのありよう、さらには彼独自の日本観を提示しているものだ。

純粋にサッカーファン(?)ならば、彼の視点はうざったいかもしれない。日本のサッカーは海外のそれに比べ、スピードも技術もない。セリエAのサッカーが速く早いものであるが、日本には足の早い選手はひとりもいない。みな遅いから、足の遅いことに気付かないなど、熱烈なファンが読んだら熱くなる部分も多いのではないかと思う。

しかし、私はサッカーに疎い。村上のサッカー論は「そういうものか」という程度の受け止め方で、理解はしても共感はしない(だって知らないのだもの)。だが、本書を通した村上の主張はダイレクトに響いてくる。それは「最後の家族」でも述べていた主張だ。

端的に言ってしまおう。本書を前にして引用しているわけではないので、多少ニュアンスは異なると思うが、彼の主張は以下に尽きる。

「生きるためには、本当に好きなものが必要である。」

「本当に好きなものが見つかると、対象と自分の間には直接的な関係性しかなくなり孤独になる。そういうときに、人と同じことをする、同好会に入るなどのような行為を取らず、自らが個として向かってゆくことが重要である。」

「人と同じであれば良いという共同体の幻想はもはや崩れ去っている。」

「ナカタのようなポジティブな人生観をマスメディアをはじめ、日本では誰も正確に伝えていない。皆がナカタになりたいと希望をもち、努力させるような伝え方、教え方をしていない」

「個人としての責任の所在が不明確な日本。不祥事やミスを犯したときの個人の責任のとり方は、その個人があとで挽回できるような形では解決されず、それが不祥事を組織内で隠蔽する温床となっている」

「コスト対利益(ベネフィット)という考え方の重要性」

「このような観点でみたとき、ナカタも自分も日本では生きにくい。」

明確かつ鋭い視点だ。上の記述だけでは分かりにくいと思うが、琴線に触れた方は是非読んでもらいたい。私のレビュなど読むよりはるかにマシである。「ゆきひろの意見箱」でもたびたび書いているが、村上の「希望の国のエクソダス」を読んで依頼、私は日本における「幸福論」というものを考え始めている。

彼の本を読んでいると、居酒屋・カラオケ的なコミュニケーションも楽しいものではあるし、共同体を認識する上には必要な行為である、しかしそればかりでは、コミュニケーションから享受できるものは恐ろしく少なく、個としての自立を阻害さえしているのではないか、ということに気付かされる。彼に言わせると、日本人は「大人気ない」という以前に「子供である」ということになってしまい、ほとんどトホホ状態であるのだが、分からなくもない。

最後に付け加えておく。村上はこれを人生教訓本や日本人論を意図して書いたわけではないと思う。結果としてそうなったというだけだ。彼のエッセーは、沢木耕太郎のスポーツエッセーや小説を読むがごとく(比較して申し訳ない!)、スポーツの真髄に触れており、スポーツエッセーとして一流のものであると思う。スポーツを通して結果として上のものが見えてきてしまったという感じだ。

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