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2001年12月2日日曜日

村上龍:最後の家族

最初に断っておくが、私は熱心な村上ファンではない。したがって、村上龍たらしめているような、セックス・暴力・ドラッグなどを扱った小説に、親しんでいるわけでもなければ共感を覚えるものでもない。それでも、村上の従来からの読者にとって、この小説は異質な小説かもしれないと思う。あまりにも普通の家庭が(リストラされる者とひきこもりの息子という登場人物であっても)書かれているため、毒気がなく拍子抜けするファンも多いと思うのだ。逆に私のように村上に親しんでいない者には共感を呼ぶかもしれない。

「希望の国のエクソダス」「共生虫」を読んでくると、村上はひとつの共通のテーマのもとに考えを集約させているように思える。もっとも同じ”ひきこもり”を扱ってはいるが「共生虫」とは雰囲気がかなり異なる小説だ。村上のテーマを特定するのは難しいが、現在の日本のおかれた状況に対する閉塞感と、破壊的な欲求とともに再生への希望を見据えているような気がする。

ここに書かれた、「最後の家族」の「最後」という意味に込められた村上のメッセージについて考えてみたい。村上は家族そのものが崩壊し、希望も夢も喪失したということを書いているのではない。最後に彼は新たな家族像を彼は提示してみせている。崩壊させたのは、戦後の高度成長期以降の日本の家族像であり、父親が中心の家族像だ。父親が強大な権力を持ち、それでいながら家庭の事象にはあまり感心を示さず、会社に奉仕することで、それを家族のためと思っているような人物像。最後になるまで自分の立場を理解できなかった、主人公のひとり(秀吉)は、会社でもリストラされ、家庭からもリストラされ二重の悲劇を被るが、そうしなければ新たに出発できないほど旧来の考えに縛られていることに驚きを覚えてしまう。


題材としては、リストラされる父親、ひきこもりの息子を中心として、父(夫)・母(妻)・息子・娘のそれぞれの視点での数日間が記されている。引きこもりの息子を理解できない父親と、カウンセラーを受けながら次第に子供との距離間をつかむことの出来た母親、ジュエリーデザイナーの恋人(?)により自立を促された娘、そして、引きこもりをしていることで、たまたま隣の家で行われる、DV(ドメスティック・バイオレンス)を目撃し、引きこもりから脱してゆく息子。

この四人がそれぞれの立場で個を自覚してゆく課程はドラマチックで新鮮だ。また「誰かを救うことで自分も救われるということはない。他人を救うことができるのは、個人が自立する=ひとりで生きていけることを示すこと以外にない」というメッセージは強烈だ。

考えてみれば、暖かな団欒のある家庭像など村上が示す前にとっくに崩壊している。しかし崩壊しただけでは後が続かない。村上は、ここに新たな再生の道として、個々の自立ということを強く主張している。自立とは他人に頼らないことだが、「自分のことを自分の意志で決める」「自分の意見、意思を伝える、話す」ということの重要性を村上は説いているように思える。ある見方からは、現状の全否定であり、ぬるま湯のような中で、相手との衝突をさけ、回りに合わせ流されながら、積極的に生きることを止めている者達への痛烈な批判でもあるように思える。

「希望の国のエクソダス」と同様に、ここに村上の持つ過激なまでの希望を目にするのだ。「希望の国~」も本作品も、考え様によっては、楽天的過ぎる結末であり大甘のファンタジーだ。もっと否定的な結末をシニカルに用意しているのではないかと途中で不安になったが、クサイとまで思えるような結末を用意したことに、村上が希望と再生を心から願っているということを理解するのである。

��追記)
実を言うと、「共生虫」は出版されてすぐ読んだのだが、全く内容を忘れている(^^;;機会があったら読み直してみたい。


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