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2002年2月6日水曜日

大橋巨泉に対する失望

大橋巨泉氏が朝日新聞2月3日の「私の視点」に、今回の辞職に関する自身の考えを述べていた。副題は「妥協はしたくなかった」とある。1月30日に書いたが、彼は説明責任を果たしたと言えるだろうか。

大橋氏は「公約を果たせない状況になって辞職することがそれほど無責任か、ボクには結論が出せない」と書く。党執行部の締め付け=党議拘束などが相当であったことも伺える。彼の言うことにも、彼の気持ちにも一理はあると思うし共感するところはある。自分の信念に基づいて妥協なく行動するところには敬意を表する。

しかしそれでも、議員辞職という選択が正しかったかというと、私には責任放棄と思えてしまう。私は大橋に議員辞職という態度には出て欲しくはなかった。党内で浮こうが何をしようが、大橋の意見をもっともだと言う層を拡大してゆくことこそが、彼に求められたことではなかったのだろうか。

矛盾した組織の中で自分の処し方がわからなくなるということは、党に限らず、企業内でも同様である。例えば、会社存続さえ危うくなってきた雪印食品の社員にしても、全てがラベル張替えを是として行動したわけではなかろう。自らの信念を捻じ曲げながら、ラベルを貼りかえると言う愚行に走らざるを得なかった社員の気持ちを思うと、暗澹たる気持ちになる。

何故かれらは会社の犯罪を止めることができなかったのか。彼らとてサラリーマン、生活がかかっている。自らの信念と生活と地位を天秤にかけ、悪しき行動を取らざるを得なかったものも少なくないと思うのだ。そういうときに、組織内で声高に非を諌めるにはパワーと勇気が、そして賛同者が必要である。それも並大抵ではないパワーが。多くの組織員はそれができずに、会社と共に心中する羽目になる。バブルで倒産の憂き目に遭った企業は皆そうではないか。トップの暴走を分かっていながら止めることができなかったのだ。

そうやって考えると、大橋氏の取った態度がどういう意味を持つだろう。「むしろ議員職を離れた方が発言しやすい。ペンを捨てる積もりはない。『老兵は死なず、消え去りもせず』です」と大橋氏は結んでいるが、所詮アメリカのスポーツに関する感想を、オーストラリアから毎週送っていたような評論に堕すつもりだろうか。議員であることによってできることとできないことがあったのではないだろうか。彼には、生活と言う失うものなどは、一介のサラリーマンとは違って、なかったはずだ。どう言い訳されても、納得のゆく結論ではなかった。

ただ、もういい、大橋氏よりももっと考えなくてはならない問題は多い。

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