トリスタンとイゾルデを聴く (2002.06.30~02)
ローエングリン、タンホイザーと聴いて次に何を聴くべきかと逡巡したが、かねてから気になっていた《トリスタンとイゾルデ》を聴くことに決めた。
手っ取り早く、この楽劇について知るべく、Google検索を行ったところ、なんとヒット件数は4160! ワーグナー人気投票なるものを行っているサイトでは、堂々の1位を獲得している作品である。
ワーグナー無知な私は、この音盤を手に取った段階でどういう内容なのか全く分かっていない。「愛と死」だとか「ショーペンハウアー」などのキーワードを知るのも、後になってからである、そのくらい何も知らないで聴き始めた。(書いている今でもショーペンハウアーのことは名前しか知らないのだがね)
■ 登場人物と配役
- ビルギット・ニルソン(イゾルデ)
- フリッツ・ウール(トリスタン)
- レジーナ・レズニック(ブランゲーネ)
- トム・クラウゼ(クルヴェナール)
- アルノルト・ヴァン・ミル(マルケ王)
- ヴァルデマール・クメント(水夫)
- エルンスト・コツープ(メロート)
- ペーター・クライン(牧童)
- テオドール・キルシュビヒラー(舵手)
- ゲオルグ・ショルティ指揮
- ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
- ウィーン楽友協会合唱団(合唱指揮:ラインホルト・シュミット)
- 1960年9月
- ジョン・カルショウのプロデュース、ジェイムズ・ブラウンのエンジニアリングによるゾフィエンザールでのステレオ録音
- 239分収録
■ HMVの評価
当時絶頂期にあったビルギット・ニルソンと、人気ヘルデン・テナーだったフリッツ・ウールの共演。ウィーン・フィルも若きショルティによって迫力あるサウンドを聴かせており、この作品のオーケストラ・パートとしては異例と言って差し支えない起伏の激しい音楽が今聴くと実に新鮮。42年前のウィーン・フィルの濃厚な音色も個性的で魅力十分です。
■ あらすじ
ストーリーについては、以下のサイトに概略が簡潔に紹介されている。
- トリスタンとイゾルデよもやま話しはMIDI音源付きで端的に概要が分かる
- ワーグナーの歌劇な部屋~作品紹介はいつもお世話になっているサイト
- すずめの日記の解説は非常に詳しい
- トホ妻&いわんやトホホ芸術対談集は表現がストレートすぎるが分かりやすい(笑)
これらのサイトを巡回しながら物語をまとめてゆくと、強烈なる「愛」の物語であり、究極の愛を求めることは、最終的には死という選択になるらしい。一方で《トリスタンとイゾルデ》は、目のくらむような官能の音楽である、ということらしい。ワーグナーの官能の前には、スクリャービンの「法悦の詩」など男性サイドの一方的な官能に過ぎないと・・・とは誰も書いてはいなかったが、とにかくそういう曲らしい。
■ で まず一通り聴いてみた
全3幕、音盤にして4枚、ほぼ4時間の大作である。マジメに対訳を読みながら聴いていたのでは身が持たない、乱暴だが先ず聴いてみた。
ここでは細かな解説はしないが、通して聴いた印象は、やはりというべきか「よくわかんねーよ、前作よりも面白くなーい」というものであった。
まず、タンホイザーやマイスタージンガーのように中学時代に親しんだ経験がまるでないため、知っているフレーズに出会わない。タンホイザーのようなメリハリもあまりないように感じる。そして何だかずるずると音楽が続いてゆく(これが循環旋律?)、それにセリフが長い、音階や和音もとらえどころがない(これが半音階旋律やトリスタン和音?)。
《トリスタンとイゾルデ》は、《前奏曲》と《イゾルデの愛と死》が演奏される機会が多いようだ。前奏曲はいうまでもなく、一番最初のもの、イゾルデの愛と死は第3幕の歌だ。
そうなのだ、前奏曲からして捉えどころがないんだ。いままでの勇壮果敢なワーグナーとは雰囲気が全く異なっている、連綿と続く不安定な音律を聴いていると、なんだかふらふらしてくる。1幕はえらくイゾルデが勇ましい、2幕は言われてみればR15指定だ。3幕はトリスタンがひたすら歌いまくっている。音楽的にもどこで終わっているのか分からないから、気分的にもなんだか完結しない。リブレットを追っていないから展開もよく分からない。
そもそも音盤の構成も良くない。3幕なのに音盤4枚なんだ、どうしたって幕間で音盤を替えなくてはならない。しかも、切りの悪い終わり方なんだ・・・。でも、ひょっとして《トリスタンとイゾルデ》は長大な4時間で1曲なんではないかと思えてきた。いったいなんて曲を作曲してくれたんだ、ワーグナーというヤツは!
もうひとつ気づいたことがある。それは、ローエングリンで展開して見せた世界とは、全く違う音楽がここには形作られているということ。真綿の中で水あめのように引き伸ばされた時間を感じるのだ。と書いて、ハタと膝を打った。連続しているてことはアリアが終わった後に拍手ができないということなのだ。それこそワーグナーが「ロマン的オペラあるいはイタリア的歌劇」と決別したことを意味しているのではないかと。音楽が連綿と続くことで、物語を音楽に従属させるのではなく対等にすること、そういうことが見事に達成されているというわけか、なるへそー σ(^^)も、ちょっとだけワーグナーが分かってきたぢゃね-かよ。
それにしたって、《トリスタンとイゾルデ》は、登場人物も少なく物語りとしての起伏には乏しい。だって、ふたりの心内をひたすら吐露しているような劇だ、ある意味で平板で退屈というのも間違っていないと思う。
「はじめて聴くワーグナー」(この企画のことだよ)を《トリスタンとイゾルデ》から始めていたら、ワーグナーなんて聴かなかったかもしれない。いずれにしても、一度聴いただけで良さが分かるような音楽ではなさそうだ、そんな音楽としばらく付き合ってみたい。
■ 第3幕 最後の《イゾルデの愛と死》だけを繰り返し聴く (2002.07.02~03)
「いまひとつ面白くない、感動できない」という印象を受けるのが、馴染みのフレーズがないことに起因するのならば、刷り込みで馴染みのフレーズを作ってしまえばよい。一度聴いただけでは分からないのならば、繰り返し聴けばよい。つまりは飽きるほどリピートすることだ。そこで、有名な(有名と言われても聴いたことなかったのだが)《イゾルデの愛と死》を、寝る前に2回、朝通勤する前に2回、昼に2回、夕食前に2回と繰り返し聴いてみた(ホントだよ=寝る前から始めるところがミソだね)。
するってーとだ、ある瞬間に(松田聖子ぢゃないけど=古い!)「ビビビ」とキてしまったんですね。ああ、そうかァ、ていうような感じで、今まで「なんかネムイな」と通り過ぎていたメロディが、どこかに浸透するのを感じたわけです。ビビっとくるときは、延髄からつま先まで痺れちゃうものです(>病気ぢゃねーの?) で、何と歌っているのかと興味が沸きリブレットを読んでみると、これがまたキちゃってるセリフで、感動を新たにしたわけです。
ただしなんだ、《トリスタンとイゾルデ》は、俗世間が目に入る太陽が高いうちに聴いてはいけない、夜、暗闇の中で、ひとりしずかに聴かなくてはだめなようだ。それほど隔絶され超越した世界なのだ。
さあ、これでやっと《トリスタンとイゾルデ》を聴くカラダが出来あがった。それでは、最初からゆっくりと聴いてみましょう。
■ あらためて前奏曲を聴く (2002.07.14)
この10分足らずの前奏曲は、解説本によると、「トリスタンとイゾルデの愛の内面的進展を音楽により表現したもの」と説明されている。曲は冒頭の半音階進行による「あこがれの動機」にはじまり、「愛の動機」へと展開される。続いて、バイオリンによる強い希望を表す動機が現れるが、最後は「運命の動機」により再び冒頭の静けさに戻ってゆく。
《トリスタンとイゾルデ》は、なかなか捉えどころがないと書いたが、この前奏曲もしかりであった。何度か繰り返して聴いたが、暗く不安定な音楽はなかなか琴線に触れてこなかった。曖昧にして霧の中を歩むような音楽なのだ。
しかし、楽劇全体を一通り聴き通し、改めてこの前奏曲に接れることで、この曲の持つ魅力の一端にやっと触れた思いがする。それは魅力などという言葉では的を得ていない、信じがたいほどの魔力とさえ言っても良い。
冒頭のとらえどころのなき音階と、行き場と解決を示さない動機は、《トリスタンとイゾルデ》の物語のテーマそのものだとさえ言えるかもしれない。甘美でありながら、絶望に近い暗さを湛えた音楽といえようか。解説者たちはこの冒頭3小節を、「苦悩(半音階下降)とあこがれ(半音階上昇)のモティーフ」と読んでいるらしい。そういわれてみると、この短い動機が実に複雑なる心情とドラマを表現していることに改めて気付かされる。
中間部分で金管群を伴い盛り上がりを見せるあたりから、バイオリンが駆け上るテーマを奏する。ここの切ないまでの激しい憧憬ときたらどうだろう。憧憬といえば、私はマーラーの交響曲第5番の、有名なアダージョからも強烈なる甘美さと憧憬の感情を感じる。おなじキーワードでありながら、トリスタンのそれは、更に抗いがたき哀しさと暗さをもっている。このような感情を表現した音楽を私はほかに知らない。
クライマックスが崩れた後は、静けさが戻るのだが、そこに描かれた深淵は人間の持つ性や罪を全て飲み込んだ上での諦念さえ感じる。曲調は全く異なるのだが、ふとシベリウスの交響曲第4番をさえ思い出す。
そう、この前奏曲が沸き起こす感情はかくも複雑だ。たった10分間に、いや数小節に、これほど多くの感情を詰め込めることができるのだろうかと驚くばかりだ。この音楽を表現するには、私の知っている言葉をいくら並べたところで、何も表現することはできないと気付く。
弦が低いピチカートを鳴らした後に第1幕 第1場が始ると、どこからともなく若い水夫たちの声が聞こえてくる。私は水夫の声を聴くたびに慄然としてしまう。この声は、もはやこの世の声ではなく、黄泉の国からの歌声に聞こえる。かように、《トリスタンとイゾルデ》は冒頭からして、「死」というものを強く暗示しているように思えてならない。
ここまで書いて考えたが、こういう曲であるので、いくらでも情緒的に演奏することだって、甘美さを全面に打ち出して演奏することだって可能だろう。ショルティの演奏が、どのようなスタンスに立っているのかは、他の演奏を知らないので比較はできないのだが、ある引力と自制をもってトリスタンの演奏に望んでいるように思える。決して心情に溺れずにドラマを全面に打ち出しているように感じるのだが、勘違いだろうか・・・
■ 第1幕を聴く (2002.08.08)
第1幕は全て船上での出来事だ。イゾルデがトリスタンを問い詰め、共に死のうとするがブランゲーネに毒薬の変わりに愛の薬を渡され、二人は不幸にも愛し合うようになってしまう、というものだ。第1幕だけで1時間20分ほどあるのだが・・・
《トリスタン》の解説やリブレットを詳細に読んでいると、トリスタンとイゾルデはこの劇以前の段階で知り合っており、互いに惹かれていたことが分かる。
例えば第2場の若い水夫の二度目の歌の後にで、ブランゲーネとイゾルデが会話をかわしているところで、イゾルデはトリスタンを指して以下のように歌う。(ドイツ語表記は不正確、以下同様)
Isolde
Dort den Helden, ( That hero there )
der meinem Blick ( who hides his gaze )
den seinen birgt, ( from mine )
in Scham und Scheue ( and casts down his eyes )
abwarts schaut. ( in shame and embarrassment. )
Sag, wie dunkt er dich ? ( Say, how does he seem to you ? )
あるいは、第3場でのイゾルデが歌う<「タントリス」の歌>を聴いてみよう。彼女の許婚であるモロルトをトリスタンに殺されたということが分かっていながらも、彼女は彼に復讐するどころか傷口を治してしまう。
Isolde
Von seinem Lager ( From his couch )
blick't er her- ( he looked up, )
nicht auf das Schwert, ( not at the sword )
nicht auf die Hand- ( not at my hand )
er sah mir in die Augen ( but looked into my eyes )
Seines Elendes ( His anguish )
jammerte mich ! - ( touched my heart ).
Das Schwert - ich lieβ es fallen ! ( The sword I let fall ! )
どちらの部分にも上昇音階の「愛の動機」が実に巧みに表れ、彼女の復讐心と隠された愛情と憧れがせめぎあうような音楽になっていて、何度聴いても素晴らしいと思う。
リブレットからは、二人が互いに憎しみと屈辱を覚えながらも、惹かれてしまっていることが分かる。そうすると、船上でのイゾルデのヒステリックさも理解できる。一方で、トリスタンがイゾルデに呼ばれても応じなかったのも、彼の心情と役目を考えると潔癖さや主人への忠誠心からではなく、自らの心の中に隠された情熱を知っているがためと読むこともできる。わざとイゾルデを辱めるような歌を歌うのも、男性特有の子供じみた仕種とは言えまいか。(左絵:第1幕第2場)
こうした二人の抑圧され鬱屈した感情は、毒と思って互いに飲む「愛の薬」で解放されるわけだ。イゾルデがトリスタンに毒薬を勧めるのは、あたかも無理心中を誘っているようでさえある。第1幕はここで一気にクライマックスを迎えることとなる。
ここまでの音楽は、ほとんどトリスタンとイゾルデの会話なのだが、多くのテーマが溶け合うようにして立ち現れ複雑なメロディを形作っている。楽譜を見ながら聴いているわけではないので、テーマを追うだけで目が廻りそうになる。
第5場のトリスタンとイゾルデの歓喜にも近い二重奏を聴いていると、長々とした第1場は、用意されたこの場面のために存在しているような気さえする。イゾルデは以下のようなことを口走り、毒(愛の薬)を飲む。
Isolde
Betrug auch hier ? ( Betrayed here too ? )
Mein die Halfte ! ( Half is mine ! )
(She wrest the cup from him.)
Verrater ! Ich trink'sie dir ! ( Traitor, I drink to you !)
このセリフに私はイゾルデの屈折した感情を感じる。そしてこの後の音楽が凄い。まずティンパニのトレモロに乗って前奏曲で流されたテーマがそっくり繰り返される。二人の気持ちが憎しみと死の恐怖から、焦がれるような情熱へと変化してゆくようなさまが表現されているようだ。ここを劇ではどのように演出するのか興味深い。
そして、それに続く「愛の動機」に乗ったトリスタンとイゾルデの二重奏の最初のフレーズの美しさと哀しさときたらどうだろう、何度聴いても全身に鳥肌が立つ思いだ。
Isolde
( in a trembling voice )
Tristan !
Tristan
( beside himself)
Isolde !
Isolde
( sinking on his breast )
Treuloser Holder ! ( Faithless dear one ! )
Tristan
( embracing her ardently )
Seligste Frau ! ( Most blessed maid !)
( They remain in a silent embrace. Trumpets are heard from afar.)
もともと愛し合うように運命付けられていた二人が、薬を介してお互いの束縛を解いてしまった。このような愛の形は、最初から悲劇を予感してはいまいか。だからその愛の情熱が熱く強いほど、劇的さと悲劇性が高まる。それをワーグナーはいやというほど音楽的に見事に表現している。二人の後の不幸は、ブランゲーネのセリフに集約されている。
Brangane
Wehe ! Weh !
Unabwendbar ( Inescapable)
ew'ge Not ( eternal pain )
fur kurzen Tod ! ( instead of speedy death ! )
Tor'ger Treue ( Foolish devotion's )
trugvolles Werk (deceitful work)
bluht nun jammernd empor ! ( now blossoms forth in lamentation ! )
刹那的な死よりも大きな苦しみが二人を待っていることを歌っているのだ。二人の求めてしまったものは、当事としてはタブーである愛の形であり、終わりのない憧れである。時として官能的にさえ響く音楽は、やむことのない憧憬を表現しているようであるが、音楽は解放された明るさではなく、暗さが漂う。(右絵:第1幕第5場) 船上での二人の時間は長くは続かない。岸に着いてしまうのだ。お楽しみは第二幕というわけである。とことん凝縮したストーリーであるが、ドラマのと音楽の作り方もうまい。禁断の愛は究極の純粋さと深さと苦悩を内包しつつ、一気に進んでゆくわけだ。
第1幕を聴き終えるに当たって、「愛の薬」( Der Libestrank = The draught of love )というものについて考えてみたい。これは互いに惹かれあうようにイゾルデの母親が調合したものだ。「媚薬」と訳している解説文も目にするが、なにやら性愛補助薬じみてしまう。どうやら、そういうものではなさそうだ。当事は政略結婚が盛ん(?)であったろうから、愛のない結婚とならないようにと「愛の薬」が考えられたということらしい。
また、第3場でブランゲーネが、「母君の術を( Kennst du der Mutter )、ご存知じゃございません? ( Kunste nicht ? )」とイゾルデに語りかけている。イゾルデはアイルランドの娘であり、術を使う一族という面を持っているようだ。《ローエングリン》に登場した魔法使いオルトルートと通じるものがあるのだろうか。ここらあたりは、ケルト民話やゲルマン民話に詳しくないので、今はこれ以上のことは分からない。
■ 示導動機について (2002.08.12)
ワーグナーの音楽を聴くに当たって「ライトモチーフ(示導動機)」という言葉が必ず登場する。これは「作曲家別 名曲解説ライブラリー2 ワーグナー」(音楽の友の社)によると「一定の短い音楽動機に一定の意味内容を持たせ、それを主として管弦楽に使って、劇の表現をたすける手段」と説明している。第1幕で盛んに聴かれた「愛の動機」が聴こえると、セリフがそうではなくても、裏にはそのような感情が流れていることが分かるわけだ。
この示導動機が《トリスタン》でいったいどれほどあり、そして音楽家により命名されているのかは、拙い解説本だけでは知るすべもない。一方で「リヒャルト・ワーグナーの楽劇」(C・ダールハウス著)の中で、示導動機に関し以下のような見解を示している。
ワーグナーの諸所の指導動機に、硬直したかたちで同定するための名称を与えるやり方は、問題があると同様に避けられぬことでもある。問題があるというのは、音楽表現を概念に翻訳することは決して適当ではないからである(中略) そして避けられぬというのは、言語による媒介を断念して、音楽動機は言葉にならない感情を理解させるとする観念は、幻想にすぎないからである。
作品理解において、命名された動機は助けにはなるのだが、言葉による固定化されたイメージにより、音楽の持つ豊かさと深さが阻害されてしまうとすると、それは不幸なことである。まして、私は音楽解説者ではない、示導動機とその名前に固執することの愚は避けて、音楽の持つ力を感じる方が良いのではないかと思う。
それに、ワーグナーの音楽は聴いていても極めて複雑だ。音盤とモチーフだけの楽譜を頼りに、全ての部分を聴くことなど、100万分の1の地図を持って渋滞の抜け道を探るに等しい作業だという気もする。まだ私は《トリスタン》の1/3しか聴いていないというのに!
■ トリスタンとイゾルデの愛 (2002.08.13)
ワーグナーの《トリスタン》に関する解説を読むと、たいてい書かれている事だが、この物語は中世の詩人ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの題材を用いてワーグナーが自作したものだ。テーマとしては「姦通と不道徳」の物語であり、当事のドイツとしては冒涜以外の何者でもないものだ。それを、ワーグナーは究極の愛の物語へと昇華させてしまった。
ワーグナーは1854年12月、フランツ・リスト宛てに《トリスタン》について「あらゆる夢のうちで最も美しい夢に、これから記念碑を立てようと思っています。そこでは最初から最後までこの愛が1度まさに心ゆくまで満ちみちることになるでしょう」と書いている。一方、ワーグナーの最初の妻、ミンナ・ワーグナーは1961年に「このカップルはあまりに深く愛し合う、いやなカップルです」と言っているらしい。
ワーグナーがいつの段階で「記念碑」たる音楽(それはハッピーエンドを予感するものだろう)から、最後は悲劇にしかならない音楽に傾いていったのかを知ることは興味深いと思う。あるいは、究極の愛と憧れを求めた結果は、積極的な同一的な死に至ると考えたとしたならば、確かに厭世的な考えであると思わざるを得ない。
不倫の愛の果てには死しかないという考え方は、数年前に話題になった渡辺淳一の「失楽園」ではないが(読んでないから詳しいことは分からないけど)、現代でも通用する感情なのかもしれない。しかも、その愛のかたちは、純粋な精神的な愛だけではなく、肉体を伴った性愛でもある点においても、形式的には同じ様相を呈している。タブーを破ったものには死しか与えられないとするのは、あまりにも陳腐なテーマではある。
しかし、ワーグナーは第2幕以降は、そのような「よろめきドラマ」のような通俗話ではなく、違った形でトリスタンとイゾルデの物語を提示してくれているようだ。しばし、またワーグナーの劇進行を辿ってみたい。
■ 第2幕 第1場を聴く (2002.08.16)
この場面は、コーンウォール城でのイゾルデとブランゲーネの対話がメイン。マルケ王の部下でありトリスタンの親友であるメロルトの勧めにより、王は夜の狩りに出かけている。その間に、イゾルデはトリスタンと逢引したいとブランゲーネ迫る。
第2場は前奏曲から開始される。「光の動機」がffで弦楽器により奏でられた後に、バスクラリネットによる半音階上昇「愛と焦燥の動機」とフルートによる半音階下降「愛の喜びの動機」が奏でられる。「愛と焦燥の動機」とは良くぞ付けた標題だと思う。いかにもあたりをうかがい、その機会を待っているかのような音楽である。しかしあちこちで聴かれる半音階旋律は不安さと危うさを表しているようだ。
前奏曲が終わると、ホルンによる角笛の音が響き、マルケ王が夜の狩りに出たことを示唆している。イゾルデはブランゲーネの止めるのも聞かずに、松明を消しトリスタンに合図するよう歌う。ここで、愛の女神は夜を好んでいることを、愛は夜の中にこそ訪れると言っている。第1幕の最後でイゾルデは以下のように歌うが、ここの迫力は凄まじい、イゾルデが夜の女神そのものになったかのようだ。
Isolde
Frau Minne will: ( the goddess of love desires )
es werde Nacht, ( night to come )
daβ hell sie dorten leuchte ( that she may brightly shine there )
それにしても、どうしてブランゲーネはメロルトの裏切りを予感していたのだろうか。そして愛を夜と結びつけるところに、この音楽の宿命がある。
■ 第2幕 第2場を聴く (2002.08.17)
さて、いよいよ二人の短い一夜の逢瀬が始まる。この第2場は確かに凄い音楽だ。先のバスクラリネットによる「愛と焦燥の動機」に導かれ、夜の暗闇をいそいそとトリスタンがイゾルデの元へ走ってくるのが目に見えるようだ。そして、息が詰まるような弦楽器と金管群に続いて、愛の爆発!!である。
いやはや前半はめまぐるしく、そして信じられないほど激しい。リブレットを追う事を断念せざるを得ないほどだ。音楽を聴いてあらぬことを考えてしまう方がいることも、分からないでもない。
続いて、ひたすら夜への賛美が二人で歌われる。昼は偽りの世界であり、夜こそ真実の、愛の世界であると。トリスタンは「私たちは (O, nun waren wir )、夜に捧げられた者なのです ( Nacht-Geweihte ! )」とまで歌う、いやはや。
あまりに厭世的な発想ではないかと思い、思想には違和感を覚えるものの音楽は眩暈がしそうなほど美しい。有名な「ああ、われらをとざせ、愛の夜よ ( O sink hernieder, Nacht der Libe )、生きていることを忘れさせておくれ ( gib Vergessen, daβ ich lebe; )」に始まるトリスタンとイゾルデの二重奏ときたら、完璧に別の世界にいってしまっている。ここに至って《トリスタン》の音楽は官能美を極めていると言ってもよい。遠くから聴こえるブランゲーネの忠告さえ夢のように美しく響く。
第2幕の後半は二人は没我の境地にあり、永遠の愛を求めるがゆえにこそ、つまり終わりなき愛の世界を求め死ぬことを口走る。というか、リブレットを読んでいるとトリスタンはイゾルデに抱かれながら、既に心は死んでいる(^^;; 半音階を主体とした音楽はうねるようで、何時終わるとも知れぬ様相を呈している。音楽はおそろしく素晴らしいが、演出は難しいだろうなと思う。だって、二人が抱き合っているだけのシーンが延々と続くのだ。外的なドラマは一切ない。
《トリスタン》の解説を読んでいると、この曲の理解には性愛体験が不可欠である、とか、愛に対する経験値が曲に対する嗜好を左右するなどと書いているものもある。あるいは《トリスタン》はテーマや劇設定の点から(楽劇でななく劇進行=Handlungと称したことなど)、ワーグナー作品の中では少し特殊なものなのではないかと思う。それでもというか、それゆえに、ワグネリアンとしての踏絵的な語られ方をするが、私はそこまで深くこの音楽に没入できない。第2場後半の音楽を聴いていると、深く生暖かい泥沼にはまってしまったような錯覚に陥り「こんなことばっかりしてちゃダメだ」とさえ思う(^^;; わたしは理性的な人間なんである。
私はこんなに深く愛に囚われてしまったことがないので、二人の感情を完全に理解することはできないのかもしれない。完全なる愛の合一と永遠への希求の果てには、永遠の夜=死の世界しかないという発想にはついてゆけない。これが、ワーグナーが当初目論んだ「最も美しい夢、記念碑ともいえる愛」の姿なのだろうか。
第2幕の最後で二人は至福の時と恍惚の絶頂を迎えるが、それだけでは単なる不倫理なヨロメキドラマの域を出ないのではなかろうか。愛の絶頂の後にブランゲーネの叫びにより全ては悲劇の終局へと向かって物語は進んでゆく。さて、ヨロメキドラマはどのように変遷してゆくだろう。
■ 第2幕 第3場を聴く (2002.09.03)
ずいぶんと間が空いてしまった。久しぶりに《トリスタン》を取り出して聴いてみるが、相も変わらず連綿とした陶酔的な音楽が続いており、あっという間に《トリスタン》の音楽世界に取り込まれてしまう、オソロシき。
第3幕は、マルケ王とメロルトがトリスタンとイゾルデの不倫の場面に飛び込んできたところから始まる(右絵)。しかし第3幕のほとんどは、マルケ王の一人舞台だ。延々と、延々と、マルケ王はトリスタンに裏切られた痛手と恥辱を、イゾルデを妃として迎え情を覚えてしまったが故に苦悩を、延々と延々と歌いつづける。怒りを露にするというのではなく、深く嘆き悲しむ歌だ。それが逆にトリスタンの罪深さを印象付ける。
ところが、トリスタンは王の苦悩や裏切りに対する弁明は一切せず、イゾルデにむかって一緒に夜の国に行こうと誘う、イゾルデはそれを拒まない。この場面では、再び「あこがれの動機」が流れている、死への旅立ちというわけか。
劇を見ているわけではないので、よく分からないのだが、メロルトが「Verrater ! Ha ! Zur Rache, Konig ! Duldest du diese Schmach ? ( Ha ! Traitor ! Vengeance, o king ! Will you endure this dishonour ? )」と叫び剣を抜くき、トリスタンも応戦しようとするものの、トリスタンは剣を落として、あっけなくメロルトの刃にかかり深手を負ってしまう、勇者と称えられたトリスタンがである。
解説本では「自ら進んで刃にかかる」「自殺」と説明している。確かに、この前に「日も指さない夜の国」にこれから行くとイゾルデに語っているのだから、メロルトが剣を抜いたのはきっかけに過ぎず、自ら先に死を選んだ(イゾルデが後を追う事を望んで)というのも分からなくはない。
それにしても、トリスタンとイゾルデの飲んだ「愛の薬」は、あまりにも効き目が甚大すぎたのではなかろうか。マルケ王に向かい
Tagesgespenster ! ( Phantoms of day)
Morgentraume ! ( morning dreams )
Taushend und wust ! ( deceiving and vain )
Entschwebt ! Entweicht ! ( away, begone !)
と言うところなど、もはや正常な精神状態の言葉とは思えない。あたかも麻薬中毒者が幻影を見るかのごときセリフではないか。二人の愛は、いくところまでイってしまったと思わせる。二人の世界しか見えないという状態なのだ、ヤレヤレ。
最後に、彼の友人であったメロルトが何故トリスタンを裏切ったのか。彼もまたイゾルデにより目をくらませたとトリスタンは言う。しかし、メロルトが嫉妬したのはイゾルデに対してではなく、親友であったトリスタンに対してであった、という見方をする人もいる。
まあ、どちらでもよいことだ。とにかく麻薬的にして陶酔的な何時終わるとも知れない甘い世界はやっと断ち切られたのだ。さて、やっと第3幕である。
■ 第3幕 前奏曲と第1場を聴く (2002.09.16)
第3幕第1場への前奏曲は、弦による暗い響きで塗り込められている。1幕全体を印象付けるような、そして悲劇的にして救いのない結末であることを色濃く予感させるかのような、そんな音楽である。暗く低いところでテーマを三度繰り返した後に、上昇音型が現れ、ひたすら音階を上り詰めるのだが、その先に待ち受けているものは幸福と安寧ではないように思える。中間部で奏されるオーボエの響きも象徴的だ。牧笛を表すこの響きは、牧歌的雰囲気をもちながらも独特の暗さを漂わせる。1幕において、イゾルデが来る船がまだ来ないことを暗示させている音楽だ。
このような前奏曲により導かれる第1場は、カレオールの場内の庭園で、傷ついたトリスタンがクルヴェナールに付き添われ、イゾルデが船でやってくるのを待つという場面だ。トリスタンの傷を治せるのは女医たるイゾルデだけだと信ずるクルヴェナールがイゾルデを迎えにやったのだ。
まず、トリスタンが目を覚ます。自分がどこにいるのか、何をしていたのか分からず、クルヴェナールに問いかける。ここでは、トリスタンの暗い音楽とクルヴェナールの元気付けようとする快活な音楽の対比が見事だ。トリスタンの台詞を読んでいると、彼はほとんど心ここにあらずという印象を受ける。特に自分がまだ生き長らえ、夜の国から戻ってきてしまったことを嘆く。次にはイゾルデに会う事を渇望し、見えないはずの彼女の姿が目の前に現れたかのような異常な興奮を示すのだ。
ここらあたりは、トリスタンの一人舞台なのだが、この音楽を聴いていると、少々おそろしさに身が震える思いがする。そこまで、彼を虜にし狂わせた「愛」あるいは、その原因を作る役割をした「愛の薬」というもの。第1場を聴いているときに、「愛の薬」はもともと二人の間に芽生えていた、秘められた感情を解放したものに過ぎないと書いたが、確かにそうではあったのだが、薬の効果はトリスタンにおいて絶大であり、愛のポテンツを異常なまでに(麻薬的な破壊力を脳に与えて)高めてしまったと言えるようだ。
トリスタンは叫ぶ、
daβ nie ich sollte sterben, ( that I should never die )
mich ew'ger Qual vererben ! ( but should be left in eternal torment ! )
Der Trank ! Der Trank ! ( The potion ! The potion ! )
Der furchtbare Trank ! ( The terrible draught ! )
Wie vom Herz sum Hirn ( How madly it surged )
er wutend mir drang ! (from heart to brain !)
彼は薬のせいであると認識してはいるが、それ故にこそ理性というべきタガが完全に外れてしまっているのだ。あるいは、トリスタンの愛情が、瀕死の床で芽生えたものであり(タントリスとしてイゾルデに傷を癒してもらったそのとき)、あるいは未だに「死の薬」と信じたものを飲んだという思いが(トリスタンは「愛の薬」であったとは知らない)、より強く彼をして「死」に向かわせるのか。それとも、彼の生い立ち(生まれた時に母親が死んだこと、つまり彼は夜の国から来たということ)がより彼に死を意識させるのか。
いずれにしても、トリスタンの愛を覚えたが故の灼熱の苦しさと苛烈なる憔悴、そして、あがき苦しむ様は凄まじく音楽的な盛り上がりも痛々しいばかりである。冷静に考えると、私は感情移入するよりもトリスタンの常軌を逸した言動の異様さに違和感を覚える方が先に立つのだが、それでも鬼気迫る感情に打ちのめされてしまう。
前後するが、トリスタンは、こうも歌っている。
Die alte Weise ( The old tune )
sagt mir's wieder: ( tells me again :)
mich sehnen - und sterben ! ( to yearn and die ! )
Nein ! Ach nein ! ( No ! Ah, no ! )
So heiβt sie nicht ! ( It is not so ! )
Sehnen ! Sehnen ! ( To yearn, to yearn !)
Im Sterben mich zu sehnen ( Dying, still to yearn ! )
vor Shensucht nicht zu sterben ! ( not of yearning to die !)
これも分かるようでいて分かりにくい部分だ。憧れのために死ぬのではなく、死につつもあこがれる・・・。うーん、かくも強い、焦燥と死を帯びた憧れ。憧れの衝動から逃れるために、死ぬしかないという死への憧憬、しかしそれは、憧れからの逃避ではなく、究極の憧れへの要求・・・ついていけない、勝手に死になさい、と言いたくなるが音楽は見事に感動的だ。理性では理解できないと思っても、感情が動いてしまっているのに気付く。
ここまで読んでいて、トリスタンはメロルトの刃により傷ついている(自ら刃に飛び込んだ自殺だが)にも関わらず、こんなにも元気なのである。彼が病んでいるのは、身体ではなく精神=脳であることが分かるのだが、そのことも問わないことにしよう。第3幕は、あちこちに大きな疑問と矛盾に満ちているのだ。
さて、そうこうするうちに、やっとイゾルデの船がやってくる。喜びの旗を(お決まりの)はためかせながら、最後の難関である岩陰を潜り抜け、トリスタンのもとにイゾルデが、やっとたどり着くのだ。クルヴェナールは小躍りして喜び、トリスタンに無理をするなと言い、船へと駆けつける。さて、やっとトリスタンとイゾルデの待ちわびた再開が次に用意されるのだが、ワーグナーは我々(オレだけか?)が想像もつかないような展開を用意しているのだ。(右はクルヴェナールが船を見つけて喜んでいる場面)
■ 第3幕 第2、3場を聴く (2002.09.21)
いよいよ物語はクライマックスに突入である。イゾルデが船に乗ってやってくる。トリスタンは興奮の中で、信じられない行動に出る。彼は起き上がり、傷口から包帯を引きちぎり血を噴出させながらイゾルデを迎えるのだ!
(Er richtet sich hoch auf) (He gets to his feet.)
Mit blutender Wunde (Once with a bleeding wounde)
bekampft' ich einst Morolden, (I fought against Morold:)
mit blutender Wounde ( today with a bleeding wound )
erjag' ich mir heut Isolden ! ( I will capture Isolde ! )
(Er reiβt sich den Verband der Wunde auf. ) (He teares the bandage from his wound. )
Heia, mein Blut ! (Ha, my blood ! )
Lustig nun flieβe ! (Flow joyfully ! )
(Er springt vom Lager herab und schwankt worwarts. ) ( He springs from the couch and staggeres forward. )
Die mir die Wunde (She who will close)
auf ewig schlieβe- (my wound for ever)
sie naht wie ein Held, (comes to me like a hero)
sie haht mir sum Hiel! (to save me. )
Vergeh' die Welt (Let the world pass away)
meiner jauchzenden Eil'! (as I hasten to her in joy!)
彼は、わざと傷口を開いた、かつてモロルトに負わされた傷を、イゾルデに治してもらったその時を再現するかのように、あるいは、瀕死の場で、死にながらイゾルデの寵愛を受けるがために!
ここは音楽だけを聴いていても、このような異常な行動に出たということを理解できない。むしろイゾルデを向かえる喜びを歌っているかのようである。そう、イゾルデを迎える喜びに満ちているのだ。トリスタンの屈折した愛情は、死と隣り合わせであってこそ燃え上がり、そして成就すると言っているかのようである。
第2場では、このあとイゾルデの嘆きの歌が歌われる。彼の傷を治すために(生きてもらうために)わざわざやってきたというのに、彼は目の前で自殺ともとれるような死に方で、息絶えてしまったのだ。嘆き悲しむのも分かるというものである。最後に歌われる「イゾルデの愛と死」と同様に、美しくも哀しい歌である。
ここで、イゾルデはトリスタンと死ぬつもりで、ここにやってきたのだろうかという疑問が湧く。確かに「Isolde kam, mit Tristan treu zu sterben, (Isolde has come, faithfully to die with Tristan)」と歌っているのであるからして、死ぬ気でいたともとれる。
一方でトリスタン。彼はイゾルデに傷を治してもらうことを望んでいたのか。いや、それはありえないのだ、彼は死ぬつもりであったのだから医術を施してもらうことを望んでいたのではないのだ。すると、彼は何をしたかったのか。
もう一度思い出してみよう。トリスタンとイゾルデが愛に落ちたのは、まさにトリスタンがイゾルデのもとに瀕死になって転げ込み、傷を治してもらいながらも、イゾルデが婚約者の敵と剣を振り上げたその瞬間であったはずだ。生と死が微妙なバランスを保っていたギリギリの場で生まれた、いびつな形での許されざる愛であった。彼は、あのときのあの瞬間に立ち返り、永遠の愛をつかむことを望んでいたのではなかろうか。
トリスタンが包帯を引きちぎるというのは、その時の忠実な再現であり、同時にイゾルデに看取られて死ぬことに喜びを感じ、さらに彼女が後追いすることを望んだのだ。偏執的にして狂信的なまでの死への執着を感じる。
しかし、やはりしっくりこない。イゾルデが死の世界を望んでいたとしたら、彼女はもっと以前に(トリスタンが傷ついたその後に)自ら死を選んだのではないだろうか。しかし、彼女は死なず、そして彼の傷を治しに来た、トリスタンと死ぬためではなく、ともの生きるためであるように思える。彼女はトリスタンの行くところならば、どこでもよかったのではなかろうか。
第3場は、マルケ王やらブランゲーネ、メロルトなどが到着し、ひとしきりチャンバラ劇が繰り広げられ死体の山が築かれる。しかしこれらは刺身のツマにもならないような出来事だ。マルケ王の嘆きの歌さえ、劇進行にはまったく関係なく、ただむなしく響く。割愛しよう。
最後はかの有名な「イゾルデの愛と死」だ。彼女の歌は、もはや現実を見ていない、完全に没我の世界でトリスタンとの至福の時間を過ごしているようだ。ここで思い出すのは、タンホイザーでのエリザーベトの死だ。彼女はタンホイザーの贖罪を購うため自らの命をマリアに投げ出した(ことになっている)、いわゆるエリザーベトの聖変化である。わたしはここでも同じような思いにとらわれる。イゾルデが、何か聖なるものに変化しているかのような印象を音楽全体から受ける。ただ、エリザーベトのように誰かを救済するという姿ではない。しかし、いままでの世俗的な不倫の主人公から、一段と高いところに登ってしまったかのようだ。しかも、彼女は全く健全な身でありながら、至福の喜びに包まれながら、剣も毒も用いずに、自らの意思で死ぬのだ!!! おお、このようなことが信じられようか。ワーグナーというのはいったい、何と言う愛と女性を描いてしまったのだ。トリスタンが一歩先の天国(地獄か?)で小躍りしているのが見えるようだが、一方で、このような女性を表現してしまったワーグナーの、とてつもなく屈折した感情を感じてしまう。
ここでの音楽はこの世とも思えないような(今までに何度も聴いてきた)美しい愛の音楽である。そして十全たる和音でやっと、いままでのウネウネとした不協和音は解決をみることになる。4時間の巨大なる1曲という意味もここにある。最後の解決された和音を聴いていると、しかしながら、この荒唐無稽とも思えるラストのあり方に、疑問と違和感を理性では覚えながらも、またしても深く大きな至福と感動に包まれているのに気付くのだ。
■ トリスタンとイゾルデって、いったい何歳なの
CDの解説を読んでいたら、意外なことに驚かされた。トリスタンとイゾルデは、18歳そこそこであるというのだ。クルヴェナルやブランゲーネも同じような年齢なのだとか。ちなみに、マルケ王は30歳。
なんて、早熟なガキども! ガキの恋愛話に、いい大人が感動しているというのか、と考えるとちょっと白けてしまうが、日本でも昔は元服は15歳であったものなあ、まいいか。ワーグナーのスケベ親爺が《トリスタン》を書いたのは40歳前半、スケベ親爺じゃなくて、スケベ中年の時代であったわけだ。やはり屈折している!
■ ショーペンハウアーって・・
哲学を全くかじったことがない私に、ショーペンハウアーを解説することはできない。ワーグナーは《トリスタン》作曲中に、ショーペンハウアーの「意思と表象としての世界(Die Welt als Wille und Vorstellung - The World as Will and Representation)」(1818)を何度も読んだらしい。ショーペンハウアーの厭世的な哲学感が《トリスタン》に通低していると指摘する学者や研究者は多いらしい。かの、トマス・マンもそのひとりである。
生存への努力はむなしいもので、苦しみからは逃れることができない、楽しみは苦しみかを解放することはなく、苦しみから逃れるためには、意思の否定しかない、というような哲学らしい。意思というのは、will と訳されているが、「本能」「衝動」「欲望」というような意味合いらしい。彼の「意思の否定」というものが、ともすると仏教思想と通ずるものもあり、たとえば、ワーグナーの晩年の《パルジファル》に、ショーペンハウアーや仏教と通じるような哲学があると指摘する研究者もいるらしい。
しかし、《トリスタン》においては、あからさまな「愛の賛歌」がうたわれている。とてもショーペンハウアーの「意思の否定」というような精神は感じられない。
この点については、トーマス・マンは「リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大」(1933)の中で、ショーペンハウアーの「意思の否定は倫理的知的部分であって、本質にとってはそれほど重要ではない。それは二義的なものである」とし、ショーペンハウアーの影響を否定する説に異を唱えている。
先にも書いたが、哲学書を全く紐解いたことのない私には、とうてい解説できる内容ではない。それに《トリスタン》へのショーペンハウアーの影響の有無を考えたところで、作品そのものの価値に変化が生じるものでもない。よく分からないので、ここらへんでやめておく。
■ トリスタンとイゾルデの聴き所は
印象的な場面は多い。しかし、《トリスタン》はどこの断片も全体との連続性に存在しているため、そこだけを取り出して聴くことを拒否しているように思える。よく聴かれる「イゾルデの愛と死」でさえもだ。聴き所を抽出する作業を考えるだけで、私は眩暈がしてしまう。
おしまい。ここまで読んだあなたはエライ!