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2002年11月11日月曜日

ラトル/ベルリン・フィルの「マーラー 交響曲 第5番」

  • サイモン・ラトル(cond) ベルリンpo. 
  • 録音:2002年9月7-10日  Philharmonie, Berlin (Live) 
  • EMI TOCE-55463(国内版)
マーラーの交響曲を評することは難しい。特にマーラーの中でも比較的ポピュラーであると考えられているこの第5番交響曲さえも、作品解釈における正しい理解のもとに接しているかと自問するならば、否と答えざるを得ないだろう。
マーラーの交響曲としては、第1番交響曲に次いで親しみやすいため名演奏も多い。家にあるCDだけでも、定番とも言うべきバーンスタイン&ウィーン(1987)、同じくバーンスタイン&ウィーンの87年ロンドンライブ、テンシュテット&ロンドン響(1978)、ドボナーニ&クリーヴランド管(1988)、ショルティ&シカゴ(1970)、ガッティ&ロイヤル・フィルハーモニー(1997)などがある。
以上の演奏の中ではバーンスタインのロンドンライブの圧倒的な演奏、ガッティの熱い演奏、そしてショルティの精密機械のような演奏などが特に印象に残る。
意外なことに、私の持っているCDでベルリン・フィルのものがないことに気付いたが、そういう偏った方手落ちなCD試聴経験からラトル&ベルリンの新盤を聴いてみたが、今までのどれとも異なる演奏が展開されているように思えた。
演奏にはラトルらしい歯切れの良さ、そして独特の強調された強弱のつけ方や緩急などが際立ち、音楽的な立体像がくっきりと浮かび上がってくる印象だ。さらに、何か颯爽としており、瑞々しささえ湛えた演奏で、これが何度も聴き慣れたマーラーの5番かと思わせる部分がなきにしもあらずだ。少しただれたような、そしてとろけるような耽美的にして廃頽的な香りは、この演奏からは感じられない。
音楽の盛り上げ方シャープであり劇的である。例えば第一楽章冒頭のトランペットのファンファーのすぐあとに来るオーケストラによる表現なども、音のカタマリとなって聴くものを圧倒する、しかし決して暴力的ではない。よく耳をそば立てれば、随所で色々な音が聴こえてきて、曲の持つ構成にパースペクティブを与えているようにも思える。
ラトルはニコラス・ケンヨンとのインタヴュー(2002年8月2日)の中で「この曲は有名で、演奏される機会が多いという理由で、演奏は簡単だと思われがちですが、本当は演奏が大変難しい曲」と述べている。以前はラトル自身、曲の意味や構造を全くつかめなかったという。
ラトルはこの曲を録音するに当たり、随分と研究を重ねたらしい。もっともだからと言って、微分的に分析的な演奏というわけではない。むしろマーラーの心情(それがアルマへの迷える愛なのかは分からないが)が揺れ動く、しかも複雑な多層的心情の揺れが、あるときは時系列的に、あるときは過去も未来も前後して、混沌として渦巻く様を追体験しているような気にさせられる。音楽は感情的に高まるよりも、内省へと傾き最後に行き着くように思える。作曲者の心情と一体化するのではなく、かといって心理学者のようなスタンスでもなく、客観的に捕らえているという印象だ。
もっとも、これは私の個人的な感じ方だ。CD解説の中でコリン・マシューズはこの作品を「全体的に個人的感情を交えない作品」、4楽章のみを「ここだけ内面を見つめた個人的な内容」と記している。
一方ラトルは、先のインタビューでこの曲を「死すべき運命への答えは何か?」との問いに対する「愛との対位旋律こそが全てを癒す」というマーラーの答えだと述べている。
ところで私は、あまりにも、バーンスタインのような、思い入れの強い演奏に慣れ親しみすぎているのだろうかと思わざるを得ない。もしラトルの演奏に物足りなさを感じるとすると、そういう点だ。聴きながら握りこぶしを固めてしまい、音楽に没頭するような瞬間は少ない。
例えば第2楽章の「嵐のように激しく、いっそう大きな激しさで」という指示の曲も、泣きが入るような感情の吐露ではなく、一歩引いた、窓の外の実際の嵐を見ながら自らの心情を確認しているような響きを感じる。有名な第4楽章のアダージェットにしても演奏時間は何と9分半という短さだ。死の匂いのする耽美主義は感じられない。
だからと言って、ラトルが「死」というものを避けて演奏を意図したというわけではなさそうだ。彼の棒からオーケストラが奏でる響きは、時として残酷なくらいの深く鋭い人生の深淵を垣間見せている。そのざくりとした裂け目の暗さが冷たく鋭いがために、逆に曲の最終テーマであろうか、深淵からの復帰と勝利は、強い憧れととともに見事な賛歌となって我々を打つ。
あまり良い聴き方ではないが、ここで第5楽章の最後3分、いわゆる金管軍が咆哮するラストのコラールのみ、いくつかの演奏と聴き比べてみた。アルマが「取って付けたようで古臭い」と評し、マーラーが「だってブルックナーだってやってるぢゃない」と言った部分だ。(ラストのたった3分のみで比較することに意味があるとは思えないということは分かっているが、座興として読んでもらいたい)
まずはバーンスタインのロンドンライブ。ここの部分だけであっても、バーンスタインの演奏を聴くと、全身の細胞が熱を帯びたように振動し、涙腺は緩み、地に足がつかないかのような感じに私は陥ってしまう。たった数分間でバーンスタインの魔力にあてられ、押し潰され、演奏後の爆発するような拍手を聴きつづけることができない。
次にテンシュテット&ロンドン(全集盤)。バーンスタインとは全く違ったアプローチでありながら、ゆったりとしたテンポの中に、音の大伽藍が築かれており、思わず頭を垂れてしまうほどの荘厳さだ。
最後はガッティ&ロイヤルフィルだが、この演奏の構築力と旋律の対比の見事さは、他のどの演奏をも押して顕著でありクラシックを越えた新鮮さを感じる。
��これ以上やるとヲタクと思われかねないので、もうやらない)
振り返って、ラトルのコラールも、実に見事な立体像で我々に迫ってくる。スピード感とダイナミックさを伴い「颯爽」と駆け抜けるといった趣だ。聴き終った後にふと我に返って恥ずかしくなるようなことはない。
マーラーに「颯爽」は要らないと評するファンの声も耳にする。どちらが好きかは、趣味の問題だろう。ただ、バーンスタインの演奏を再び、そして何度も聴こうとは思わない。あまりにも特別なのだと改めて感じた。
ラトルとベルリン・フィルのこれから10年間を、私たちクラシックファンは、おそらく期待と不安、そして肯定と反感を感じながらも、無視することができずに眺めてゆくことになるだろう。そういう新しい時代を拓くという意味において、そして20世紀的なマーラー呪縛からの解放という意味でも、一聴の値はあると思う。(ブーレーズのマーラーというものあるが、あれは別物かもしれないので言及しません)

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