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2002年12月2日月曜日

ゲルギエフ指揮 キーロフ歌劇場管弦楽団 2002年日本公演

  • 日時:2002年12月1日 16:00~ 
  • 場所:札幌コンサートホールKITARA 
  • 指揮:ワレリー・ゲルギエフ 演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
  1. ムソルグスキー/歌劇「ホヴァーンシチナ」前奏曲 "モスクワ河の夜明け" 
  2. ムソルグスキー/交響詩「はげ山の一夜」 
  3. ボロディン/交響詩「中央アジアの創玄にて」 
  4. バラキレフ/イスメライ(東洋的幻想曲) 
  5. リムスキー=コルサコフ/交響詩「シェエラザード」OP.35 
  6. アンコール チャイコフスキー/バレエ音楽「くるみ割人形」より グラン・バド・ドゥ、トレパック

ゲルギエフの札幌公演に行ってきた。ゲルギエフは好きな指揮者の一人だ。彼の演奏を聴くのは2000年1月の東京公演(マーラー交響曲第2番「復活」)以来のことである。あのときは、ゲルギエフのマーラーということに聴く前は不安を持っていたのだが、終演後は、もののみごとに脳天を吹き飛ばされたかのような衝撃に震えていたことを鮮烈に思い出す。そういうことで、期待は大きいコンサートであった。
好きな指揮者ではあるが、彼のつくる音楽にいつでも全面的に賛同しているわけでもない。CDを聴いていても、極端な表現は作品解釈上の妥当性という点では疑問を感じることもある。しかし、理性を超えたところで彼の音楽に惹かれることに抗えないのも事実だ。彼の音楽は圧倒的な説得力で語りかけてくるように思えるのだ。どうも私は、こういうマッチョ性に弱いところがある。
 
最近の彼は非常に有名になってしまったようにも思える。一部ではカリスマ視するような傾向がなきにしもあらずだ。今日のコンサートもどのような客層なのかと思っていたら、老若男女入り乱れているのである。クラヲタのような人よりも楚々としたこぎれいな人(*1>が多いのを見て、私は大いなる戸惑いを隠せなかった。これほどまでに彼が支持されていることに、今の今まで気付いてはいなかった。
同じカリスマ性を称えられる指揮者であっても、ゲルギエフはラトルとは全く違った音楽を作るように思える(ラトルは生を聴いたことがない)。ゲルギエフの演奏からは、非常に生臭く「直情的で獣のような」、そして有無を言わさない熱狂を感じる。そこが万人受けする要因なのかとも思う。
 
だからといって、ゲルギエフの演奏が雑であったり感情のままに荒々しく歌い上げているだけではない。ことさらに深刻ぶるような歌い方はしなないものの、彼なりの音楽に対する統率力や計算や分析というものは、聴くことができるわけだ。
そういう点からは今日の演奏もゲルギエフらしいく、熱く歯切れの良い演奏であったのだろうとは思う。激しいところは逆巻く怒涛のように激しく、柔らかく美しいところは草原を吹き通す風か、揺れる草花のようであり、色彩豊かな響きを堪能することができた。彼の微妙な指先(*2>や、大げさな指揮により統率されるオーケストラは、まさに主兵というイメージである。
 
また、今回の曲目はソロイスティックなところが要求されるものが多く、その点も楽しめるものであった。クラリネットやフルート(*3)などの木管をはじめとして、金管も安定感のある素晴らしい音色であった。シェエラザードのバイオリンソロも、若干線の細さを感じたが決して不満足であったわけではない。一方クレッシェンドの頂点でのはじけるような音響や地鳴りのような重低音も聴く事ができた。あれだけの音響で音が濁らないというのも流石といえようか。
 
選曲は全て標題音楽的であるため親しみやすい。ロシア的色彩の強い音楽は、一幅の絵画か絵巻物を読むようでさえあった。禿山の一夜やシェエラザードなどの超通俗名曲(*4)を、これほどまでの迫力で演奏してくれれば、本来ならば満足と言ってよいのかもしれない。
しかし、実は私は大いに不満なのである。全ての演奏が終わった後、札幌ではなかなか聞くことがきないような拍手とブラボーの嵐(*5)のなか、何か煮え切らない感覚を私は味わっていた。
 
それは札幌でのプログラムに負うところも大きいと思う。ゲルギエフはどちらかというとロシアの作曲家のうち、比較的マイナーな歌劇などを録音して脚光を浴びてきたという経緯がある。今回の札幌でのAプログラムも、そういう彼らしい特色の一片が感じられるものだ。それでも、このプログラムはあんまりなんぢゃないと思うのは私だけだろうか。前半は馴染みやすい交響詩を、後半はシェエラザードでは、さながらアンコールピースの寄せ集めを聴くかのようと書いたら失礼だろうか。それとともに、Aプロはメロディアスでピアニッシモで終わる曲が多いことも特徴だ。熱狂の中にブラボーの嵐を迎えるという選曲ではない。あるいは深い意味が込められた深遠な曲でもない(*6)。
 
それと、私が期待したほどのゲルギエフらしさの薄い、どちらかというと(彼の演奏の範囲内においては)比較的理性的な演奏なのではなかったかということだ。ここについては、聴いた人により捉え方は全く異なるだろうと思う。大きな感動を覚えた人に対して異を唱えるつもりも、水を差すつもりも全くない。ただ私には、若干の不満(というか燃え滓つーか)が残ったことも確かなのである。手放しで「カンドーした!!」とは言えない。
ここで更に考えてみた。もしかするとゲルギエフは、いつでもどこでも、獣のごとく直情型に鳴らしまくるというタイプの演奏家(*7)ではないのかもしれないということだ。彼の演奏の中には荒々しさの中にも揺るぎのない統率力と、独特の美学があることは認めるところだ。札幌公演は、その美しさの方を強調した叙情的演奏を目指したのではないかと思い至ったのである。(おとなしい演奏というのではない。あくまでも彼の演奏の技芸の範囲においてということだ)
 
そう考えると逆に今日の選曲の意図というものも見えてくるように思える。ソロイスティックでありかつロシア的な叙情音楽を堪能させる、という意味においてはなかなかなもので、決してAプロを軽く扱ったということではないのかもしれない(*8)。
とは納得してもだ。シェエラザードだって悪くはないのだが、他プロの方が魅力的に見えてしまう。案外Cプロのプロコフィエフの人たちは、シェエラザードの方が良かったと思っているのかもしれないが。ちなみに、他のプログラムは、ブルックナー交響曲第4番(Dプロ)、マーラー交響曲第9番(B、Eプロ)、ストラヴィンスキー春の祭典(N響)、ショスタコーヴィッチ交響曲第7番(N響との合同演奏)(*9)である。美しい旋律でダンスするゲルギエフも良いのが、目をむき牙をむき出して襲いかかるゲルギエフも聴きたかったなあと・・・。
 
蛇足だが、アンコール最後のくるみ割人形は(*10)圧巻であったことは付け加えておこう。
  1. クラシックヲタク=クラヲタが、こぎたない(失礼な!) と言っているのではない。ただヲタクが深くなるにつれ、ある外観上のスタイルに収束する傾向はあるようだ。いくつかのパターンはあるようだが。
  2. 今日の振りは、すべて指揮棒あり。ただし指揮棒を持たない手が、時に長島の一塁への送球のあとのように(ひどい例え!)、あるいはテルミンを奏でるがごとく微妙に揺れながらオケに指示を出しているようであった。
  3. フルートは前半4曲は、曲によりファーストを入れ替えていた。女性のフルーティストは木管であった。
  4. シェエラザードにしても禿山にしても、ゲルギエフ盤が発売されていなければ、食指が伸びることはまずないだろうと思える。
  5. ゲルギエフが登場したときの拍手からしてすごかった。ゲルギエフにかける熱い期待が込められているかのようで、私は実は面食らってしまった。
  6. そんなことは、チケットを買う前にプログラムを見た瞬間にわかるぢゃないのと言うかも知れない。しかし私はオバカなので、ゲルギエフが来るというだけでプログラムを見もせずにチケットを買ったのである。コンサートの直前まで「火の鳥」だったっけ? などど考えていたのである。
  7. 書いて改めて恥かしくなってしまったが、そんな指揮者だったら、通年発情型の ただの、お○か である。
  8. こういうのを「すっぱい葡萄の論理」と言うのでしたかしら?
  9. 同日のN響アワーは、まさにゲルギエフのショスタコとハルサイを報じていた。タコ7は「一楽章のほんの一部」(有名なところね)とハルサイは全曲。ハルサイはNHK FM放送でも生放送をしていた。たまたま私は車中でこの演奏のラストを聴いた。カーオーディオがしょぼいので「なんだかフヌケなハルサイだなあ。間違ってもブーレーズやゲルギではないな」と思ったのである。怒号のような拍手の後に「演奏はNHK交響楽団、指揮はワレリー・ゲルギエフさん・・・、生放送でお伝えしています」と流れ、ナニイ!と思わず叫んでしまった。 昨日、TVで再び見てみたが、視覚による錯覚だろうか、それとも実際にそうっだったのだろうか、ものすごい演奏に今回は思えたのであった。実際、演奏の感想なんてそんなものでしかない、ということの査証だろうか。
  10. もである。いまでも頭の中で鳴っているのだ


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