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2003年9月3日水曜日

ゲルギエフ/ショスタコーヴィチ交響曲第7番


ショスタコーヴィチ 交響曲第7番 作品60 レニングラード
指揮:ゲルギエフ 演奏:キーロフ歌劇場管&ロッテルダム・フィル 録音:2003年 Live Recording ロッテルダムのデ・ドゥーレン
ショスタコーヴィチの交響曲第7番について、どのような背景の音楽として考えるかは大きな問題かもしれない。戦争を扱った表題音楽としての見方や、スターリン、ヒットラーなどから完全に自由になって解釈することの是非もあるとは思う。しかし、音楽をいつも成立背景と結びつけて聴くことについての疑問がないわけでもない。ゲルギエフの満を持して録音した演奏が、どのようなスタンスに立つ音楽であったか。
この演奏は、ロッテルダム・フィルとキーロフの合同演奏という形で、彼の最近の公演のパターンを踏襲した演奏になっている。合同演奏から醸し出される音響は圧倒的であり、私の現在の拙い音響装置を通してもその迫力がビシビシと伝わってくる。
第一楽章の冒頭の弦ユニゾンからして力強い。明るく重層的な深い響きに、しっかりした打楽器が打ち鳴らされ音響的にも盛りあがりを見せる。最初からこれはただ事ではない演奏であると期待は高まる。
中間部から始まる「戦争の主題」、スネアドラムに導かれボレロ風に始まるところが第一の聴きどころのひとつだ。徐々に緊張が高まって行くが、長調であるために雰囲気はグロテスクに明るい。次第に音量が大きくなって、刻みも力強くなるが、レニングラード包囲をやはり表わしているのだろうか。近づく軍隊を象徴しているのだとすると、こんなに諧謔的な音楽もないものだ。最初はオモチャの兵隊と思えたものが、いつのまにか鋼鉄の大編隊に変わっている。トロンボーンが奏でる当たりになると、繰り返されるテーマは変わっていないのだが不気味さが増してくる。それにしても、この劇的な破壊性はどうだ、裏で奏でる旋律が歪みまくり悪魔的な響きを醸し出している。どこまで音量が増大するのか計り知れない。切迫感と緊張をはらみ圧倒的な迫力で押し寄せるさまは凄まじいの一語に尽きる。
大音量は第一と第四の両楽章で極端で、第四楽章の次第に高まるテンションと壮大なラストは、まさに歓喜へ向けての爆発とも言える音楽になっている。どこかマーラー的な歓喜の片鱗を感じないでもない。
大音量で奏でるだけではなく、例えば第二楽章の叙情的にして寂しげなメロディなどは、実に丁寧にかつ美しいし、第三楽章のフルートソロも哀愁に彩られた美しい旋律を聴かせてくれる。少し力を入れて吹き過ぎているようにも感じるが、逆にそこに喪われつつあるものへのパッションが感じられる。
まさにブラボー連発の演奏と言えるが、では私はこの演奏で心底感服したかというと、今ひとつの印象も拭えない。彼のまさに得意とする分野の音楽において、更に音量的には全く申し分のない演奏ではありながら、どこか鬼気迫る切実なものが感じられない。それが何なのかは分からないが、もしも作品にロシア人の持つ、悲しみや絶望や希望が込められているのだとしたら、それが少し大味になって表現されてしまったという気がしないでもない。彼特有の、獣じみた、あるいはロシアの黒く冷たい大地をイメージするような生々しさが、少し薄いように感じるということだ。ロッテルダム・フィルとの混声だからというわけではないのだろうが。
決して演奏の質は低くないと思う、ゲルギエフの力量とオケの緊張は最高レベルかもしれない。別な日に聴くとまた違った感想を持つことだろう。
石原 俊は「クラシック・ジャーナル 002」において、『私の聴くかぎり、ゲルギエフの演奏に標題音楽的なわざとらしさは微塵もない(中略)ゲルギエフは七番を、普遍的な「交響曲」として描きたかったのではなかろうか』と書いている。演奏を聴いた後に彼の解釈を読んだので、先入観があったわけではないし、逆にこの曲を聴いた後でも、彼の考えに同調できるほどに、私はこの曲に親しんではいない。よってこれ以上コメントすることもできない。

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