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2011年7月4日月曜日

HNK日曜美術館 諏訪敦の写実絵画

日曜美術館で諏訪敦氏の写実絵画についての番組が放映されました。
    記憶に辿りつく絵画 ~亡き人を描く画家~
事故で亡くした娘の肖像画を描いて欲しいという画主の依頼に、画家がどう取り組んだかというドキュメント。



絵画とか写実の意味を問い直すという点で、非常に興味深い番組で、かつ日曜美術館にしては感動的な出来でしたので、忘れないうちに記しておきましょう。




私は美術フリークではありませんから、実は諏訪氏の名前も作品も、今年オープンしたホキ美術館に行って初めて接しました。というか、日本の写実絵画シーンについて、この美術館で初めて知ったといってもいい。そんなトーシローですから、まずホキ美術館での感想から書くこととします。

この美術館は、日本初の写実絵画美術館と銘打たれて建てられました。展示室には超絶的な技巧を駆使した絵画が、これでもかとばかりに並べられています。観客はみな「写真みたい・・・」と絵の前でため息をついています。ずいぶん昔のアメリカで流行ったスーパーリアリズムの画風とも大きく一線を画します。作品は本当に写真と見まがうばかり。

だからこそ「写真ではなく絵にすることの意味」が問い直されます。「そこまでそっくりに描くなら写真でいいぢゃん」ではなく、「何故絵でなくては駄目なのか」という必然が伝わってこなくてはなりません。それが風景であろうと、人物であろうと、静物であろうとです。画家は技量と熟練に溺れるがゆえに表層的に上滑りしする危険性を忌避しなくてはなりません。音楽で言うならば超絶技巧を有した奏者の演奏を聴いて、驚きはするものの、必ずしも感動するわけではなないことと同義です。

展示されている写実作品は、(作家を問わず)無垢で無防備な女性モデルが多いことに気がつきました。陶器のような肌、透けて見える皮膚の下の血管、上質な絹のような衣服、繊細な後れ毛の一本一本など。ひとつの理想化された女性像であるのだなと感じました。

ああ、美しいく心地よいものを見させてもらっているなあと。回廊を巡りながら感じていました。

ところが、最初は心地よく感じていたそれらの絵が、何枚も重ねて見るに付け、次第に生臭くなり、なんとも息苦しく思え、最後には胸が悪くなり、ついには正視することに耐えられなくなりました。これは、どうしたことなのか。

「なんでも描けてしまう」ということは、恐ろしいことです。対象への慰撫とか愛情を超え、画家の持つ自我やエロス、もっと言うと隠れた欲望までをダイレクトに表出してしまうのでしょうか。いや、そもそもが芸術作品とは、すべからくそういったものなのでしょう。

抽象的表現とは違い、写実表現という分かりやすさから、画家の身勝手さや子供じみたジェンダー感までをも、ダイレクトに感じ取りやすいのかもしれません。一緒に見ていた妻は「老人の妄想に付き合っている暇はない」とまでに辛辣でした。私は男性ですから、そこまでの酷評はしないのですけど、共感できる感覚を覚えたものです。もっとも、これは私(たち)の感じ方で、実際の作者の意図とかほかの人の感じ方は、ぜんぜんに違うものだとは思いますよ。

そんな、行きつ戻りつの印象の中にあって、諏訪氏の作品は少し異色でした。展示されていたのが、巨大な画家の父の死化粧であったせいもあるのでしょう。老いの醜さや、その裏にある人間というものの存在、生きてきた意味とか尊厳、画家の冴えた愛情あるいは愛憎か。そんなものが、厳かな死臭とともに漂ってくるような作品でした。

実のところ、最初はどうしてこんな作品を描くのだろうと、嫌悪感さえ感じたものです。しかし、結果的には、彼のこの作品がもっとも心の奥底に沈殿することになりました。腐臭を放っているようでいながら、そうではなく、一番に清冽な作品であると、後になって感じました。

そんな印象が諏訪氏の作品でした。

もっとも、日曜美術館で「写実絵画」というタイトルを見ても、画家の名前を聞いても、彼とは最初は結びつきません。しかし、番組で紹介された彼の数枚の作品を見て、ああ、あれかと。どうしても諏訪氏は、こういう作品を描いてしまうのだなと、番組を見進めながら思いました。

諏訪氏は描きながら「写真」と「絵画」の間を行きつ戻りつします。あるいは「絵画」を「現実」とか「記憶」と言い換えてもよいのでしょうか。番組のコメンテータが「想い出」と「記憶」の違いを強調していました。私はそういう言葉の本来的な意味ではなく、あるフィルターを通した「現実の再構築」ということ、それが作品造りそのものであると考えました。

それは、写実絵画の技法が写真に対抗するとか、越えるとかいうようなものではなく。「そういうもの」を「写真」で表現してしまう芸術家あるいはアーティストもおそらくは居ることでしょう。手段が絵なのか写真なのかが問題なのではなく、表出された結果=作品に、個々人が何を感じるか。

彼の絵から感じる、写実を超えたところにあるものとか、その真髄は、この番組を見ただけでは到底分かりません。

それでも彼の絵には、どことなく死の影が漂いうのを感じます。死と表裏にある生と性の仄暗さみたいなものとか。彼の衝動は片足をどこかに突っ込んでいる。それが、画家の本質的なものに結びついているように思え、それゆえに私は諏訪氏という画家に興味を感じました。

それにしても、この絵の依頼主である両親は、この絵に果たして癒されたでしょうか。描かれなかった腕時計の文字盤を受け止めることができる日が来るのでしょうか。毎日、絵の中の娘に語りかけ、どういう歴史が絵とともに刻まれていくのか。そして絵に何かが宿るのか・・・。それは、もはや画家の手を離れた絵としての運命なのでしょう。

九段の成山画廊で作品展も開催されているようです。機会があれば行ってみたいものです。→行きました