突然だが、スピリッチュアル系のことを考えている。というか、ふと思いついたこと。スピ系に傾いたり、そちら方面の考え方に同意しているわけではなく、彼ら彼女らが何を考えているのかを確認する意味で。
この宇宙、物理世界はやはり意識が作っているのではいかということ。宇宙として認識、観測できるということを超えて、宇宙のあり方も含めて。
ビックバンから宇宙は始まった、時間もそこから生まれた、ビックバン以前の宇宙はないというが、それは計算と認識される物質世界の論理。やはり物理ではこの世の成り立ちは解けない。
意識をどう定義するかは、諸説に通教しているわけではないけど、人間五感を通じて感じるような物質的なものが前提の意識ではなく。だから意識に神のような人格を求めるのも違う。
喜怒哀楽は当然物質世界のものではなくて、また、物質世界の結果でもなく、意識というものの一部なのかも。それを波動とか言っているのか。心はその意識の波動を受け止める受容体ということなのかも。
確かに邪悪な場、エネルギーというものはありそうだし、感じることまあある。結果としての物理現象として電磁波の揺らぎや電離層の乱れとして観測されることがあったとしても、起因は意識の場の変化なのか。
意識が何なのかはわからない。なぜなら物質的レベルで把握できるものでないから。
その意識が生命に宿って、生命としての意識になるというのは、根拠は示せないが仮定としてはあるのか。植物も喜怒哀楽を感じるのだとすると、実際感じるらいしいが、意識が何処に遍在しているのか。
敢えて物質に当て嵌めるとDNAという不可思議な物質が、なんらかの作用を及ぼしているのもしれない。DNAは光子の挙動に影響を与えるし、宇宙にあるという説もある。また、光子というのも不思議な存在かも。光子、電磁波がなければ世界を観測できない。
人が死ぬと魂が霊界にという、アニミズムとか宗教的なものではなく、宇宙を造っている意識の中に帰るということなのかもしれない。人間だった時のままの人格や意識状態で宇宙的意識世界に戻るというのは矛盾かもしれない。
ぢゃあ記憶とは何かとなるのだが、これはまだわからない。記憶も脳にたまたま格納されているとはいうが、化学反応の結果ではないし物質ではないのだから。
宇宙意識がそういうものだとすると、空間的距離は意味をなさないのかもしれない。時間はとなると分からない。
ただ物質に落とし込むと、現代物理学の理論では光速を物質は超えられず、光速に近づくに連れ質量は無限大になり時間は遅れる。今の物質世界が破綻するようにできている。
多次元内という概念は、宇宙的意識レベルが一つではないということなのかもしれない。そもそも意識に数の概念があるかも疑問だが。
違う意識レベルが違う物質としての生命体を造るということは仮定としてはあってもいい。
ここまで、何か新たに読んだり聞いたりしたわけではなく、思いついたこと。備忘録として。