2002年8月16日金曜日

【音盤】シドヴィル 忠実な羊飼い IL PASTOR FIDO

この曲は、かつてはヴィヴァルディの作とされていた。私の持っているベーレンライター版の楽譜でもヴィヴァルディの名前が表紙に書かれている。楽譜の解説は1955年、Dr.Walter Upmeyer とある。それによると《忠実な羊飼い》は、ヴィヴァルディの名前を冠しながらも長い間省みられなかったらしい。その理由を、この曲が楽譜タイトルにあるように、特殊な楽器 ( musette や viele ) のためとされていたことや、customary catalogues から作品13が失われていためと指摘している。だからといって、ヴィヴァルディの作であると疑うことは賢明でなはいと続け、曲は期待にそむくものではないと締めている。(musette:手風琴、バグパイプのような楽器)




ランパルがこのCDを録音したのはまだ1968年、ヴィヴァルディの作であると疑われていない頃だ。

最初にそれを疑ったのはPeter Ryomで、1974年のことであった。1737年版楽譜に書き添えられた文章から疑いを持ったらしい。最終的に1989年になって、Philippe Lescatが、ヴィヴァルディ作とされていた《忠実な羊飼い》が、フランスの作曲家ニコラ・シェドヴィルの作で、1737年にパリで出版したソナタ集であることを突き止めた。ヴィヴァルディの作ではないとする出版者本人の文書を、パリの The National Archives で見つけたのだ。

当事はヴィヴァルディは流行作家であったそうなので、ヴィヴァルディの名前を借りて楽譜を出版した方が知名度も高く、よく売れると判断したたのだろう。右は1737年版の楽譜表紙であるが、しっかりとヴィヴァルディの名前が記されている。(解説、写真ともPHILIPS グラフェナウアーのCDより)

「忠実な羊飼い」に含まれる各楽章にはヴィヴァルディの協奏曲(op4-6、4-7、6-2や7-2)のほか、J.メックのヴァイオリン協奏曲(RV Anh.65)やG.M.アルベルティのヴァイオリン協奏曲からの引用が含まれている。標題には「ミュゼットまたはヴィエール、フルート、オーボエ、ヴァイオリン、および通奏低音のためのソナタ」とあり、どの楽器でも演奏可能なように書かれているとのことだが、今ではフルート演奏が一般的なのではないかと思う。

全部で6曲からなるこのソナタは、ヴィヴァルディの作ではないとは言っても優雅さと素朴さ、そして推進力に富んだ名曲であると個人的には思っている。そして、どの曲にも楽天的な明るさを感じる。当事のパリはバグパイプやミュゼットといわれる楽器が流行していたらしく、この曲にも表現されているような田園情緒が好まれていたのだろう。作品背景に思いを巡らせたり、あるいは何となく浮かないときについ取り出して聴くのには最適な一枚である。



フルート曲ということなので、私の手元にはベーレンライター版の楽譜がある。いつかは全曲きちんと吹けるようになりたいと思う曲だ。




フルート:ジャン=ピエール・ランパル
Jean-Pierre Rampal
チェンバロ:ロベール・ヴェイロン=ラクロワ
録音:1968年
ERATO WPCS-4611/2(国内版)

このCDを何度聴いたことだろう。フルートを始めて間もない頃この演奏に接し、曲の魅力とランパルのフルートに魅了されたものだ。少しでも吹いてみたいと思い、楽譜を買い、第1番ハ長調や第6番ト短調などに挑戦してみるも、技術力なさにあえなく敗退(><) 以降は聴く事に専念している。

単純な音型に付けられる装飾音符の美しさや品のよさときたら、フリフリのレースのような趣さえあり聴き惚れてしまう、まさに黄金の響きと言えようか。一方で速いパッセージの流麗さには舌を巻く。ランパル特有の軽やかさと明るい響きに心ゆくまで浸ることができる演奏だと思う。田園風の曲調というよりも、もっときらびやかで高雅な雰囲気の漂う演奏だ。





フルート:グラフェナウアー
Irena Grafenauer
harpsichord&organ:Brigitte Engelhard
Philharmonisches Duo Berlin
録音:1990年
PHILIPS 432 138-2(輸入版)

グラフェナウアーのフルートは、実のところこれしか聴いたことがない。初めて聴いたときは、ランパルの華麗な演奏に馴染んだいたため、骨太でしっかりとした演奏で男っぽい演奏だと思ったものだ。どこが骨太に聴こえるのかと考えたが、フレーズの切り方の短さ、音のメリハリのためなのかしらと思うがよく分からない。また、ランパル版よりも、ずっと「田園風景」の雰囲気を感じることができるように思える。

一方で彼女の演奏を続けて聴いていると、どこからかチャーミングさも滲み出してくるようにも思える。いたずら好きな女の子が、楽しそうに戯れているような趣もある。伴奏もランパル版はチェンバロだけだが、こちらはオルガンや弦楽なども用いられていて、通して聴くと、ともすると飽きてしまうことから救っている。グラフェナウアーもフルートやピッコロを持ち替えて演奏しており、これも楽しめる。


2002年8月15日木曜日

【音盤】テレマン 無伴奏フルートのための12の幻想曲

テレマン(1681-1767)という作曲家はJ.S.バッハと同時代に活躍し、数多くの作品を残している。当事の人気としてはバッハを遥かに凌ぐものであったということである。この作品は通奏低音を伴わないフルートの独奏曲。楽譜には鉛筆でテレマンの名と「ヴァイオリンのための通奏低音を伴わないファンタジー」と記されているらしい。しかし、音域や書法からトラベルソ(1キーのフルート)のための曲というのが一般的である。

曲は全部で12曲からなる。音楽愛好家または器楽学生のために書かれたもので技巧的には難しくないと解説には書かれている。手元に楽譜があるので、時々思い出したようにさわりだけ吹いてみるのだが、とてもではないが私レベルのモノが吹きとおせるような曲では全くない。作曲当事はベーム式フルートではなくトラベルソであったことを考えると、当事のアマチュア楽器奏者のレベルの高さを垣間見る思いがする。

フルート独奏曲というと、バッハの無伴奏パルティータが思い出されるが、テレマンのこの曲は、バッハほどしかめつらしくはなく、どこか自由な軽やかさがある。「幻想曲」という形式にも、そのような性質が現れているように思える。

1曲が2分から5分弱と非常に短い曲であるが、通して聴いてみるとバロックやロココの雰囲気に浸ることができる。ひとりで暗い教会の中に座り、ガラスモザイクごしの光を眺めているような気にさせてくれる。それでいて、バッハのように内面的で宗教臭くならないところが、テレマンの良さだと思う。(逆にそれが限界であり、テレマンの音楽を深みがないと評する専門家もいるようだ)

私はそういうテレマンのこの曲が、それゆえにこそ好きである。楽譜を追いながら聴いていても、単調な音の並びからどうしてこんなにも豊にして心地よい音楽が響くのかと驚きを感じ得ない。アルペジオと音の跳躍だけで出来ているような曲も多く、まるで練習曲を見ているような気になる。

しばらく聴いていると楽譜を追うことをやめてしまう。小細工はいらない、ゆったりと羽根を伸ばすかのような気持ちで音楽に漬かるのが良いように思える。どの曲も良い、いつかはキチンと吹けるようになりたいなあ、と思うのであった。





フルート:ジャン=ピエール・ランパル
Jean-Pierre Rampal
録音:1972年10月30日 埼玉会館大ホール
DENON COCO-70461(CREST1000)~COCO-85024の再発売品

この演奏はランパル50歳のときの演奏である。彼は数知れぬ録音を残しているが、テレマンの無伴奏全曲は、埼玉会館ホールで録音したこのライブ録音だけであるということには意外な念にとらわれる。

現代の古楽器に慣れた耳でバロックを聴くと、ちょっと高いピッチときらびやかな音色に違和感を感じないわけではない。しかし、数分もすると、ランパルの音色や演奏は、決して嫌味のあるようなものではなく極めて素晴らしい演奏であるとことに気付かされる。誰が何と言っても、ランパルだ。今更、彼の演奏についてあれこれと言うべきものでもない。

DENONのCREST1000というシリーズで再発売されているこの演奏が1000円で手に入るのだから、幸せな時代である。

2002年8月6日火曜日

個人データとプライバシー

住基ネットとデータベースということについて、考えがバラけてきたのでページを改めた。

住基ネットには本人確認情報(氏名、生年月日、性別、住所、新たに全国民にふられる11桁の住民票コード及びそれらの変更情報)しか載せないと政府は説明してる。しかし、リレーショナルデータベースを構築してしまえば、ひとつのコードに情報を付与するのは容易なことであろうし、様々なコードを関係づけることも難しくはないだろう。システム的には、各行政機関や施設が固有の情報とコードを持ち、それをキーとなる個人コードと結びつけるという管理も可能だろう。

このようにさまざまな個人情報が電子的に結び付くことで利用しやすくなることは、IT技術を前提にすると当然の帰結かもしれない。為政者=管理者であれば多くの情報を芋蔓式に引き出せるシステムへの誘惑は避けがたいものがあると思う。「限定された事務処理」ではなく「広範なさまざまな処理」に使うことを、期待していると想像することはごく自然だろう。

しかし、全てに効率を求めることが前提という発想には陥穽もあるように思える。特に「国家が国民を管理する」ということについて、よく考えなくてはならないと思うのだ。我々国民は、個人の履歴情報=プライバシーをどこかに保管し外在化させた存在であることは望んでいない。

我々は個人情報を行政にサービスしていただいている、情報のユーザーでもないのだ。なぜなら個人情報は全て本人に帰するものだ。住基ネット=個人情報が必要なのは行政である。行政サービスを効率的に行うために個人情報が必要なのだ。前回も書いたが、行政がそんなに広範囲に、個人を特定する作業を行わなくてはならない、ということが理解できていないのだが・・・いったい、どういう情報が行政で流れているのかと、いらぬ不安を抱かぬわけでもない。

逆にいうと、個人情報を個人がどこまで管理できているのかということも問題になってくる。ある人には住所さえ重要なプライバシーだろう。一方で知りたくてもアクセス不能な個人情報というものも存在する。つまりは、プライバシーとは何かという問題にも行きつくので根が深い。

2002年8月5日月曜日

住民基本台帳ネットワーク稼動開始

「国民に十分な説明のないまま」住基ネットが本日から稼動を開始した。東京都 杉並区、国立市、神奈川県 横浜市、福島県 矢祭町などいくつかの行政単位は、個人情報保護に関する整備が不充分であることから住基ネットに不参加という立場を崩していない。
 
「国民総背番制」などという呼称でマスコミは懸念を示してているが、わたしはIT化社会において個人がコードで識別されることは、ごく当然の成り行きだろうと考ている。「国家が国民を管理する」ということに関する議論がまず重要であるとは思うが、議論の前提が私には整っていないし、諸外国の事例もよく分かってはいない。住基ネットに関しては総論では賛成ということになる。
 
だからと言って、現段階で諸手を上げて住基ネットに賛同しているわけでもない。以下の点を具体的に説明してもらった上で判断したいというのが本音だ。
  • 現在できることはどこまでなのか(10省庁・93事務)
  • 現段階での用途外利用の範囲は具体的にはどういうことか。
  • 利用範囲を拡大させることに関する手続きはどうなのか(264事務への拡大を含む)
  • 住基ネットを含め、政府が管理する個人データの将来像について(戸籍、年金、納税、健康保険、国勢調査レベル
  • の情報から公共施設利用状況などの情報などを含め)
  • 今回のシステム稼動に関する行政側のコストパフォーマンス(今までのコストとの比較、既にかかった投資額、今後のメンテナンス費用を含め)。行政機関は合理化されたのか(人件費、書類保管などに関わる経費を含め)
  • 今回のシステム稼動に関する住民側のコストパフォーマンス(時間およびコストメリットに関する評価)
住基ネットそのものについて、あまりにも無知すぎるのだ。そもそも「行政が個人を確定させるための作業」が、そんなに膨大に行われているということさえ実感を伴って理解できないのだ。
 
セキュリティやファイアーウォールについては説明は不要だ。聞いても専門的なところは分からない。おそらくハッキングも行われるだろうし、内部漏洩も生じるだろう。それについて今から懸念を表明してもムダなことだ、そんなことは私にはどうでもよい。まず、想定している効果とシステムコンセプトのみ簡潔に説明してもらいたい。総務大臣が「大丈夫、みんな便利になるんだから、使えば分かるよ」と力説しても説得力はない。当事者による数値が示され、さらにその数値の妥当性を第三者が客観的に評価するようになってはじめて納得できる。
 
以上が明確であれば、住基ネットの発想には賛意を表わしたい。私の目に触れていないだけで、以上が説明されたものがどこかで公表されていたかしら? 私もヒマではない。毎日隅からスミまで新聞を読んでいるわけでも政府のHPをくまなく見ているわけでもないので、周知の事実なのかもしれないが。

2002年8月3日土曜日

2002年7月29日月曜日

レッスンメモ

レッスンメモも随分と日があいてしまった。26日は時間がたまたまあいたので、久しぶりに受講してきた。モイーズの《ソノリテ》と《練習曲と技術練習》をやってみたが、低音になるにつれて音がぼやけてしまう、低中音域が焦点の定まらない音で響かないのだ。息が外に向きすぎているのではないかと注意されるが、どうもうまくいかない。

特に低音を吹くときは、唇を左右に引きすぎるクセがある。これは自分でも分かっているのだが直せない=直すほど徹底的に練習していない。基礎的なこととしては、以下の点を注意することだというのがまとめ。


  • 《ソノリテ》の息継ぎをしても、音が切れてしまわないように、フレーズとしてつながるように心がける。ムラマツから出ているビデオでマイゼンが詳しく説明している。
  • ソノリテにて中音のDisの音を暗めにとるように、響きが崩れないように均質に。
  • 低音に向かうときに唇を引きすぎない。すべての音域でアンブシュアは変わらないように心がける。
  • ソノリテや跳躍の練習は、常に自分がどういう状態であるか把握する。
  • 高音に向かう音形は緊張を、逆は弛緩を感じて。最高音だけを強く吹くのではなく、徐々に高めるように。高音部分は常にフルトーンで(例えば《練習曲と技術練習》#13)
  • 右手薬指と小指の練習をもっとすること。(例えば《練習曲と技術練習》#9)

曲はガリボルディOp131 #1と、プラヴェのソナタ f-molを持ち込んだ。プラヴェは昨年4月に練習していた曲。しかし、誰に教えてもらっても指摘されることは同じ・・・(^^;;マジメに直さないとだめだな。トリルは集中して練習するしか解決方法ななさそうだ。

  • アーティキュレーションを正確に、タンギングするところ、休符など音符を正確に。
  • タンギングで音楽が切れてしまわないように、大きなフレーズで歌う。
  • フォルテに向かっては大きな緊張を感じて。
  • プラヴェのソナタは、持ち込んだ楽譜は解釈が少し古い。アーティキュレーションなどは色々な演奏を参考にしてみると良い。
  • 同じフレーズが出てきたら、同じように吹かない。一方をmfで吹いたなら、もう一方はエコーとして処理することが多い。
  • 1楽章は、Triste(悲しく)という指示があるが、古典は喜怒哀楽を込めて音楽を作ったわけではない。しかし半音階進行などは一般的に、そういう感情を表すことが多いようだ。


驚いたことといえばだ、これらの曲を先生が耳元で吹いてくれるのだが、その音の重量感とメリハリだ。ガリボルディみたいな子供の練習曲のような曲でも、一音一音がしっかりと発音されることで、音楽としての語りになっているのだ。当たり前のことだが、たまげた。

先生の音を聴いて、指が速く廻ることよりも、音楽として成立させるためには、まず音ありきということを改めて感じたのだった。テキトーに吹いて鳴らないというのではダメなのだ。しっかり曲のテーマに合わせて響かせ、うたう=話すこと、その重要さを再認識したよ。



2002年7月26日金曜日

【音盤】ゲルギエフ/R=コルサコフ:交響組曲《シェエラザード》


リムスキー・コルサコフ:交響組曲《シェエラザード》
第1曲:海とシンドバッドの船 
第2曲:カランダール王子の物語 
第3曲:若い王子と王女 
第4曲:バグダッドの祭り-海-青銅の騎士の立つ岩での難破-終曲 
ボロディン:交響詩《中央アジアの草原にて》
バラキレフ:イスラメイ(東洋風幻想曲)

指揮:ワレリー・ゲルギエフ
演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
録音:2001年11月 サンクトペテルブルグ

ゲルギエフの新譜が出た。満を持してと言う感じの《シェエラザード》である。HMVのサイトでの評価を読むと、いやがうえにも期待が高まる。日本語版の解説はあいも変わらず宇野功芳である。

シエラザードはご存知のように《アラビアンナイト》を素材とした音楽だ。暴君となってしまったシャリアール王と、その暴虐を思いとどまらせるために、繰る日も繰る日も寝物語を聞かせるシェエラザードが音楽的には重要なテーマとして登場する。シェエラザードにより語られるのがシンドバッドの物語である。シャリアール王というのが、また凄い。女性の不貞から絶望し女性不信に陥り、夜ごと新しい生娘を迎えて翌朝になると首を刎ねて殺してしまうというのだ。シェエラザードはシャリアール王に仕える大臣の娘で非常に才色兼備、彼女の物語聞きたさに、ついにはシャリアール王は彼女を殺すことができなかった、というわけである。最後はシャリアール王はシェエラザードを愛するようなるという。

さて、こういう物語なので、暴君のシャリアール王とシェエラザードがどのように表現されるかがポイントとなるわけだ。ゲルギエフの演奏は凄まじいの一語に尽きる。第一楽章冒頭のシャリアール王のテーマは、肉食獣が虎視眈々と獲物を狙うがごとき不気味さをたたえているではないか。暗闇の中で目を爛々と光らせ、涎をたらし、獣くさい匂いを漂わせてでもいるような音楽に、思わず慄然とする。そして、その直ぐ後にハープ伴奏を伴って現れるシェエラザードのテーマの優美で妖艶なこと。これならば暴君シャリアールも、彼女の虜になったことも頷けるというものだ。ここテンポは遅い、この演奏を聴く者も、最初の数分間でゲルギエフの棒に虜となるか、あるいは嫌悪を感じるか分かれてしまうかもしれない。

続いてシンドバッドの航海を描写するような音楽が続くが、ゲルギエフは悠々とそしてダイナミックな音楽を形作っている。粗い低弦の響きは相も変わらず空気が振動しているようでさえある。それにしてもこの響きは尋常ではない。クライマックスでのフォルテッシモのオーケストレーションの巧みさには舌を巻く。粗く粗雑なようでいて、実は悠とした響きが全体を支配する、これほどに激しく荒くありながら統率がとれているというのは流石というところか。

第二楽章は冒頭からシェエラザードのテーマだ。「ああ、幸多き王様よ、わたしの聞及びましたところでは・・・」と物語が開始されるのだ。カランダールとは諸国を行脚する遍歴僧のことらしい。ファゴットの響きがノスタルジックで心に染みる。それにしても、改めて何度も聴くと、非常に変化に飛んだ発想豊かな楽章であることに気づく。ここでもゲルギエフは緩急強弱の変化を自在に操りながら音楽を推進させてゆく。宇野功芳もこの楽章はベタ褒めである。「ファゴットの心のこもり切った多彩な表情」とかいう表現はよく分からないのだが・・・(^^;;

第三楽章の官能的なテーマはあまりに有名だ。この流麗なる響きの中でもコントラバスの響きが低く小さく、そして粗く下支えしている。ゾクリとするような音響だ。中間部からの音楽はリズミックであるが、しかし後半はうねるようになって、なにか船酔いに近いものを感じてしまう。シャリアール王が感じた酔なのだろうか、あまりに見事な音楽であり表現である。麻薬の幻影に近いような歪みさえ感じる。(>麻薬なんてやったことないですよ!)

さて終楽章は再びシャリアール王のせかすようなテーマから、さらにシェエラザードの受け答えで始まる。この掛け合いの凄さよ! 脳天が一瞬白く弾けてしまいそうになる。ここからは一気呵成にジェットコースターに乗ったかのような、あるいは戦闘のような音楽が続く。アンサンブルのリズムは爆弾か砲撃の爆風のようだ。スネアドラムなどの打楽器のリズムは強く固く、ショスタコの10番かと思わせるほど、激しすぎる!! トランペットとスネアのタンギングは凄まじく速い! 小機関銃の掃射を浴びるようでさえある。どうしてゲルギの感想は、最後は戦争になってしまうんだろうか・・・。船の難破のシーンときたらもう、4mもあるかと思うような大波が押し寄せるようで、こいつはもうパーフェクトストームかよ。完全に参りましたというカンジ。

ラストのシェエラザードと、暴君たることを止めたシャリアール王のテーマが救いとなって音楽をしめてくれる。こいつがなかったら、荒ぶれた心の行き所がなく途方に暮れるところである。かつての猛獣もすっかり手なづけられたかのような表現で(=しかし不気味さはまだまだ漂わせながら)これまた良いと思う。

またしても最後は理性を失ったレビュになってしまった。しかし好みは分かれるかもしれない。この粗さと激しさについてこれるかがポイントだろう。逆にゲルギファンにはたまらない演奏といえるかもしれない。あと2曲あるのだが、疲れ切ったのでこれについては今回は触れません、あしからず。

2002年7月24日水曜日

高木綾子/Souvenir d'Italia



ヴィヴァルディ:フルート協奏曲 作品10 第3番 ニ長調 RV428「ごしきひわ」
マルチェロ:アダージョ~「協奏曲 ニ短調」より
ヴィヴァルディ:フルート協奏曲 作品10 第2番 ト短調 RV439「夜」
チマローザ:アンダンテ~「フルート四重奏曲 第6番」より
ロッシーニ/ブリッチャルディ:「ウィリアム・テル」の主題による幻想曲
ドニゼッティ:序奏とアレグロ
ヴェルディ/ブリッチャルディ:「椿姫」の主題による幻想曲
モリコーネ:ララバイ~映画「荒野の用心棒」より
モリコーネ:ガブリエルズ・オーボエ~映画「ミッション」より
アルビノーニ:アダージョ~「協奏曲ニ短調 作品9の2」より

高木綾子(fl) 新イタリア合奏団
COCQ-83597 (国内版)

高木綾子さんの新譜が出た。これで7枚目である。今回は「イタリア」と題して、イタリアの作曲家のものばかり集めたもの。伴奏は新イタリア合奏団。録音は、イタリアのパドヴァの近くにあるコンタリーニ宮という、美しくそして音響的にも優れた場所で成されている。舞台と共演者は整っている、高木さんと新イタリア合奏団がどのような音楽を奏でてくれるか期待は高まる。

高木綾子といえばJ-Classic界の旗手であるし、レコード会社としても名実ともに実力派として売り出したいところだろう。前回は無伴奏曲ばかりを録音したが、私は驚きをもって受けとめた。今回はどうだろうかと早速購入してみたが、さすが高木綾子というべきか。聴きなれた曲も、そうでない曲も、彼女の深い音色により新たな息吹を与えられたかのよう名演奏だ。録音のせいもあるだろうが、活きの良さとざらついた抵抗感を感じる仕上がりだ(前回も同じことを書いた。音色がざらついているというのではない)。こういう演奏を聴くとジャケットから連想される「お嬢さん芸」とはかけ離れた演奏であると改めて思う(いい加減、この反応は卒業した方が良いな)。

クラシックばかりではなく映画音楽なども並んでいるところは、なるほどなあと感心。クラシックファン以外の客層にも受けるようにという配慮か・・・などと考えるが、偏狭なことは言わない。奏でられる音楽が良ければクラシックだろうがポピュラーだろうが構わない。実はこのモリコーネの2曲がまた良いのだ(^^)

次にもう少し、聴きこんでみた感想を書いてみたい。

最初はマルチェロをはさんで、ヴィヴァルディのフルート協奏曲が並んでいる。ヴィヴァルディといえば「四季」や「調和の霊感」などで有名だが、彼の曲は独特のリズム感と弦楽器の色彩豊かな響きが魅力だと思う。

「ごしきひわ」というのは鳥の鳴き声を模したような音楽だ。フルートの装飾音がさえずりを連想させ躍動感に満ちており美しい。曲の出だしから惹きつけられる、音にふくらみがありキレの良さと天性の明るさを感じる。力感を伴った艶やかな音色は新鮮で生き生きとしており魅力的だ。さっと日が翳るような響きもの変かもなかなかで、表現力豊かだ。

「夜」でも同じような印象を受ける。この曲は最初のアレグロが「お化け」、中間部のラルゴが「眠り」と呼ばれており、夜に起こるさまざまな想念を曲にしたようなものだ。録音のせいかとも思うが、弦楽合奏の低音の響きがバランス的に多少強いと感じる。本当にこんな音を出しているのだろうかと、少し疑問に感じないわけでもない。高木さんの笛は、ここでも力強く響いている。中間部の掛け合いも見事だ。録音にコンタリーニ宮の外の「虫の音」が入りこんでいるが(最初はノイズかと耳を疑ったが)、これまた曲に趣を与えていると言えようか(^^;;

私は、ヴィヴァルディのこの曲をブリュッヘンの古楽器演奏(オリジナル版)で親しんでいた。従って、どちらかというと、今までくすんだ響きの曲として刷り込まれていた。今回、彼女たちの演奏(アムステルダム版)を聴くことで、曲の魅力を再認識した次第である。

本来ならこれは逆のアプローチだ。ふだんはアムステルダム版に親しんでいたところに、ブリュッヘンのオリジナル版を聴いて驚くというのが普通だろう(^^;; それほどにまで古楽器演奏が普及したということか。

オリジナル版とアムステル版のどちらがヴィバルディらしいか、どちらが曲として優れているかということには、今は言及しない。ブリュッヘンの演奏もこれを機会に、久しぶりに聴いてみたが非常に素晴らしいものであった。というか、アムステルダム版とはやはり「別物」である。

「もしかすると、ランパルの演奏よりも良いかもしれない」と感想を漏らす方もいる。そこで、試しにランパルの演奏(66年)を取り出して聴いてみた(家にあることさえ忘れていたよ)。ランパルの演奏は綾子版よりも少しばかりテンポが遅いためか、もったりと聴こえる部分がないでもない。伴奏を比べても、綾子版の新イタリア合奏団の方がシャキシャキした感じで、現代的な響きと言えようか。それが綾子の巧みな笛とのアンサンブルで、絶妙の活きの良さを曲に与えていると思う。もっともランパルはやはりランパルで、例えば「ごしきひわ」の終楽章などは聴き惚れしてしまうのだが。

これも前回書いたことなのだが、わたしは彼女の笛からは、ある種の抵抗感を感じる。例えばモーツアルトなどの古典を聴いても、軽さばかりではなく華麗さの中にもどっしりとした重みを感じる。前作の「Air Bleu」に収録されているマレの《スペインのフォリア》では、冗談を抜きに最初の1音で「ゴリッ!」というのが聞こえたものだ。フレーズのうたい方においては、最初からポーンと出るのではなく、中間で膨らませるような傾向が聞こえなくもない。古典を聴く場合においては、装飾の入れ方に趣味が分かれるかもしれない。逆にそれがにアヤコ節であり、彼女の魅力の一端であるのかとも思うが。

ロッシーニやヴェルディの曲を聴く限りにおいては、そのような奏法が非常に曲にマッチしているようにも思える。劇的であり、そしてフルートの名人芸を発揮させるために編曲されたこれらの曲だが、むしろあざとさを感じさせないくらいである。チマローザやマルチェロなどの有名な曲も、彼女独特の響きでうたうように聴かせてくれているようだ。

ドニゼッティの序奏とアレグロは、フルート吹き以外には馴染みが余りないかもしれない。わたしは、この曲をずいぶん前に、少しばかり練習したことがあるのだが、彼女の演奏を聴いて「こんな曲だったのか!」と思いを新たにした。ドニゼッティのこの曲も軽快にして軽やかな曲だが、さらに羽を生やしたかのような演奏は、非常に心地よい思いがする。

モリコーネの曲においても、アヤコ節が存分に聴かれる。こういうメロディアスな曲においてはアヤコ節がぴったりとはまる。音色の深さと太さも十分に堪能できる演奏に仕上がっていると思う。この2曲を聴いて思ったが、彼女の音の肌触りは、やはり独特だと。

数日に分けて書いたので、支離滅裂で、わけのわからないことを書いてしまったが、十分に楽しめるCDに仕上がっていると思う。彼女の笛には改めて目を見張り、彼女の求める地平がどこにあるのかと、ふと考えてしまうのであった。日本コロンビアの岡野博行さんが高木綾子「イタリア」録音レポートをウエブで公開している。CDと合わせて参照すると興味がつきない。ていうか、うらやましい仕事だなあ・・・と、岡野さんのサイトを眺めていて思うのであったよ。

2002年7月18日木曜日

真夏近しの怪談見るおもひ~靖国神社の遊就館

産経新聞HPに「今週の正論」という欄がある。毎日の社説ではなく、週変わりで誰かに意見を書いてもらうというものだ。今週は、東京大学名誉教授 小堀 桂一郎氏による【教育施設としての新遊就館】 「歴史の声」に深く耳傾ける体験を ≪「約束の日」における決断?≫というものであった(産経新聞HPの記事は、今週を逃すともう有料版サイトでしか読めなくなる)。遊就館というのは靖国神社の戦争資料館で、7月13日に新装開館する「日本近代戦史博物館」である。

小堀氏はご存知の通り、産経新聞的主張のオピニオンリーダーであるため、小泉首相が靖国参拝することに賛意を示し、早く戦争贖罪意識を払拭すべきであるというのが大きな主張だ。彼の文章を引用することに生理的な抵抗や、禍禍しさを感じてしまうが、論理の主幹となる部分のみ紹介したい。戦争贖罪意識に関しての部分だ。

彼等(現官房長官とその一派)の姿勢の根元には北京政府への迎合の心情に加へて、どうしても振ひ落すことのできない負の歴史認識、つまり平成七年の村山謝罪談話と通底する所の戦争贖罪意識が伏在してゐる。この罪責感を払拭しない限り、対中位負け外交にせよ、悪評高き国立追悼施設推進の企みにせよ、彼等の陥つてゐる誤謬と迷妄を根底から正すことは難しいであらう。
それは謂(い)ふ所の東京裁判史観の呪(のろ)ひから未だ解放されてゐない人々であつて、彼等を如何にしてこの古びた魔語の呪縛から解き放つかが、現下の国民の教育といふ大問題の中の極めて重要な一項目になつてゐる。

そして、この主張の後に、遊就館の展示内容が《此処には「東京裁判史観」から遂に完全に絶縁し得た、自らの眼で見、自らの理知で判断した歴史観が展開されてゐる》と説明しているのだ。

こういう論理事態は珍しいものではない。探してみれば廻りにも似たような考えの方がみつかるものと思う。ところで遊就館というのがどういう場所なのか、わたしには初耳であったので、サイトで検索したところ、見つけることができた(2004年5月に確認したところ、2002年当時とはサイトのイメージが随分変わっている)。

トップページを見て先ず絶句、一瞬思考が停止した。戦闘機の絵が大きく飾られたトップページ、戦史博物館だものさもありなんと思いなおす。次に、大ホールの紹介を見る。ここでは「彗星」「回天」「桜花」「九十七式戦車」の四つの写真が掲示されている。どうやら実物が資料館にあるらしい。ここで、背筋が寒くなるのを覚えた。「回天」といえば人間魚雷、「桜花」といえば自爆ロケットではないか・・・・! さらに写真をクリックして現れる説明文を読むに至り、全身に冷水を浴びせ掛けられたような寒さを覚えた。まさに怪談を見る思いである。

戦争で亡くなった兵士(国民)の御霊を祭る、という発想を、その説明文からはわたしは読み取ることが全く出来なかった。「回天」の説明は、当時の技術と殺人兵器を賛美する姿勢しか感じない。その必死兵器によって日本の民族を、国土を、身を捨てて護らんと願い馳せ参じた若人たちと共に、次々と南溟に征き、再び還らなかった。 という文章から何を感じるだろう。わたしの説明を読むよりもアクセスして判断してもらいたい、入館料は取られないのだから。もしかしたら、実際は戦争の悲惨さを訴えた展示になっているのかもしれない。世界平和を希求する思想が貫かれているのかもしれない。機会があれば実際に確かめてみたいものだ。

それにしてもだ。前回わたしは、田中元長野県知事の問題を通して、「情報の非対称性」ということに言及した。今まで何度も8月15日を迎えてきた。そのたびに、なぜ靖国がこれほど問題になるのか理解できないでいた。小堀氏の意見と靖国のHPを見てもその思いは弱まらない。靖国を守ろうとしているのは何故なのか。

そして、それ以上に、靖国がこういう存在であるということを報道しないマスコミとは、いったい何なのだろう。一体わたしは何を知らないのかと、絶望の念にとらわれる。愚民には知らせずということか、あるいはわたしが鈍感で無知で幼稚なだけなのか。だとしたら、なんと成功している情報操作だろうか。靖国を訪れた人のサイトも見つけた。興味があればこちらも読んでもらいたい。



2004年5月4日の朝日新聞社説による紹介(全て引用)
■靖国神社――遊就館を訪れてみては
 連休の昼下がり、東京・九段の靖国神社では、初夏の日差しの中を人々がゆっくりと行き交っていた。時間が静かに流れ、自然と厳粛な気持ちになる。
 拝殿の前に掲げられた遺書を読む。「神州日本が、一億皇國臣民が一路驀進(まいしん)する光景を、姿をはっきりと見た 私は信念を得た 私は戦ふ」
 第2次大戦の末期、ハノイ近郊で戦死した29歳の陸軍大尉が書いたものだ。
 神社の一部をなす「遊就館(ゆうしゅうかん)」に入る。日常とはよりいっそう異なる空間だ。
 「今甦(よみがえ)る日本近代史の真実。戦争を知らない世代に伝えたいこの感動」とポスターが入館を誘うこの施設こそ、靖国の思想を凝縮したような場所である。
 この博物館の紹介にはこんな文章もある。「我が国の自存自衛のため、皮膚の色とは関係のない自由で平等な世界を達成するため、避け得なかった多くの戦いがありました。それらの戦いに尊い命を捧(ささ)げられたのが英霊であり、その英霊の武勲、御遺徳を顕彰し……」
 展示されているのは、日清、日露戦争を経て「大東亜戦争」に至る日本の「武」の歴史だ。軍服や遺品、遺書など収蔵品は10万点に及ぶ。特攻機や人間魚雷「回天」といった兵器の陳列に目を奪われる。記録映画も「よく戦った日本」一色だ。そうした展示を通じて、国に殉じたことの尊さが強調される。
 「回天」搭乗員が出撃前に吹き込んだ録音を聴いた。「怨敵撃攘(おんてきげきじょう)せよ。おやじの、おじいさんの、ひいおじいさんの血が叫ぶ。血が叫ぶ」。雑音の向こうから聞こえてくる20歳の声は切ない。
 だが、館内を歩きながら奇妙な思いにとらわれる。ここでは時間が止まっている。英霊たちは今も戦い続けている。そんな強烈な印象が襲う。
 戦争には相手があった。しかし、展示や説明には、あくまでも当時の日本から見た敵国への憎悪や世界の姿があるだけだ。戦争をする日本を世界がどう見たのかという客観的な視点は、およそうかがえない。ただひたすら戦地に散った日本人の心の尊さをたたえるのだ。
 出口近くに来館者が感想を記すノートが置いてある。「息子は平和ぼけの日本に育ち、怠け者になっています。皆様が立派に守って下さった日本が今溶けかかっています」と書いた年配者がいた。
 「戦争を美化しているだけにしか思えない。すごく恐怖を覚えました」と綴(つづ)った19歳の大学生もいた。
 小泉首相の参拝写真もある。参拝は「自然な感情」と語る首相だが、見終わった所に飾られているだけに、靖国の歴史観を丸ごと認めているようにも映る。
 そんな遊就館を一度訪ねてみてはどうだろう。祀(まつ)られている死者を思う。同時に、そこに祀られていない死者のことも思いたい。空襲や原爆などで亡くなった日本人のことを。家族や国や民族を守るため日本軍と戦った他国の人々のことを。そして、首相がここに参拝することの意味をしばし考えてみたい。

■正論 東京大学名誉教授 小堀 桂一郎

【教育施設としての新遊就館】 「歴史の声」に深く耳傾ける体験を ≪「約束の日」における決断?≫

 四月二十一日の靖国神社春季例大祭清祓(きよばらい)の日に、首相就任以来二回目の公式参拝を果たされた小泉純一郎氏は、参拝は年一度で宜(よ)いと思ふ、本年は是で義理を果たした、といふ意味の発言をされた。それは本年の八月十五日停戦記念日の参拝についてはどうするお心算(つもり)か、との当然予想される質問に対して予めその回答を出されたとの意味にとれる。それは氏自身にとつても甚だ残念なことである。  と言ふのは、昨年八月十三日における小泉氏の参拝は、昭和六十一年八月の中曽根首相の対中屈服以来十六年の空白を置いてしまつた、我が国の国家主権の不可侵を証示する象徴的行為を十全に復活すべく、その寸前にまで迫り得た壮挙といつてよいものだつたからである。中国に対し、何らの引け目も有(も)たぬ、完全に対等の立場にたつての外交を爾後(じご)展開できる様になる、その機会を確立するのにあと一歩の押しが足りなかつた。しかし、その一歩の不足は今夏の「約束の日」における決断、そして参拝の実行を以て優に取返しをつけることは可能だ、と期待されてゐた。ところが国民の大多数が抱くこの期待を、総理は又しても自ら裏切らうとしてゐるかに見える。 ≪抜けない戦争贖罪意識≫  総理自身に英霊への畏敬の誠を捧げようとの心の丈(たけ)と、国家主権の尊厳を守らうとの気概があることはよくわかる。ただ北京への迎合に汲々たる現官房長官とその一派が総理の足を引張り、踏み出すべき一歩の妨害に是努めてゐるといふ事態が誰の眼にも明白である。彼等の姿勢の根元には北京政府への迎合の心情に加へて、どうしても振ひ落すことのできない負の歴史認識、つまり平成七年の村山謝罪談話と通底する所の戦争贖罪意識が伏在してゐる。この罪責感を払拭しない限り、対中位負け外交にせよ、悪評高き国立追悼施設推進の企みにせよ、彼等の陥つてゐる誤謬と迷妄を根底から正すことは難しいであらう。

 彼等と同じ錯迷に囚はれてゐる者は一般大衆の中にもその数はまだ多い。それは謂(い)ふ所の東京裁判史観の呪(のろ)ひから未だ解放されてゐない人々であつて、彼等を如何にしてこの古びた魔語の呪縛から解き放つかが、現下の国民の教育といふ大問題の中の極めて重要な一項目になつてゐる。 ≪これは「近代歴史博物館」だ≫  所で最近この緊要な課題の解決に資する甚だ有力な社会的手段が一つ提供されることになつた。それは靖国神社の境内なる遊就館が一年半を費した全面的な増改築工事を完了し、七月十三日のみたま祭前夜祭と日を同じうして新装開館の運びとなつたことである。遊就館の名称はその由来を聞かせられても、少々難しい命名だとの評が以前からあつた。その評を考慮して新開館のそれには「日本近代戦史博物館/遊就館」との説明的な付称がつくことになつたのだが、筆者はこれを「戦史」に拘泥(こだわ)ることなく、端的に「近代歴史博物館」と受取つてゐる。その内容も、広く国民一般が我が国の近代(大凡(おおよそ)黒船来航以降と考へて)の歴史の動きについて、極めて正確な、まさに然(し)かあるべき様な正しい知識を得ることができる、立派な教育施設として再生したものと評価したい。  現今の「博物館学」と呼ぶのが相応(ふさわ)しいのであらう、精密に体系化された展示・解説技術の水準の向上には実に眼覚しいものがある。小・中学生の見学者ならば、視聴覚的に色彩豊かで動きの多い、映画的手法を存分に駆使した展示に魅せられて、おそらく時間の経つのを忘れて館内を逍遥(しょうよう)し続けるだらう。成人の見学者にしても、その動的な展示と数多くの戦争記念物の「実物」に触れて尽きない興趣を覚えると同時に、効果的な展示の行間から切々と語りかけてくる「歴史の声」に深く耳傾けずにはゐられない思ひを経験するであらう。  筆者が靖国神社当局から依頼を受けたかの如き誤解を招くのも不本意なので、宣伝的辞句は控へておくが、とにかく一言しておきたいのは、此処には「東京裁判史観」から遂に完全に絶縁し得た、自らの眼で見、自らの理知で判断した歴史観が展開されてゐる、この一事である。加へて、同時代の国際社会が近代日本の歩みを如何に観察し、批評してゐたかといふ観点を十分に取込んであるのも賛成であるし、要所々々の説明には専門家による厳しい校閲を経たものといふ英訳文が付けられてゐるのも外国人見学者に親切な配慮である。八月半ばまで、日本全国が例年の如き歴史回顧の季節を経験する。新遊就館は疑ひもなく、その一の眼玉となり得るだらう。(こぼり けいいちろう)

2002年7月17日水曜日

情報の非対称性

田中康夫長野県元知事の問題について、情報が少ないと書いた。7月16日の朝日新聞朝刊は、田中氏失職のニュースを大々的に多くのページで説明しているものの、知事と県議の論点を具体的に説明している記事は全く見あたらなかった。新聞は紙面を割いていったい何を報道しているのだろう。「劇場型政治」などという言葉を作り出し偶像を祭り上げ、そしてそれを引きずりおろすことに躍起になっているのは、他ならぬマスコミなのではなかろうか。

同日の朝日新聞社説においても「不信任賛成の県議と田中氏の間で何が対立軸になっているのか、いまだに明確ではない」と書いているが、それをわかりやすい形で示すのが報道のなすべき事ではないのか。私は長野県民ではない、長野県で何が起こっていたのか逐次知っているわけではないのだ。いくらコメンテーターや評論家に意見を述べてもらっても、肝心の前提条件を説明されなければ、共通理解の土壌に乗ることがでず理解することが困難である。新聞社には既に問題点は整理済みなのかもしれない、私が読んでいないだけなのだろう。それでもあのような紙面作りでは、読み手は受身にならざるを得ない。

そんななかで、再び同日の朝日新聞の「私の視点」における杉原帝山大学講師(元長野県知事特別秘書)の意見は、まさに私が感じていることを代弁してくれていた。杉原氏はそれを、「情報の非対称性」という経済用語を用いて簡潔に説明してくれている。杉原氏は新聞の紹介によると、田中元知事の特別秘書として仕えたが、「脱ダム宣言」をめぐる意見の食い違いから辞任したとある。いうなれば、田中氏を一番よく知っている側近だったものの発言だ。

杉原氏の発言は、すべてが明確である。引用したいのだが、それをしていたら全文を引用する羽目になってしまう。朝日新聞が近くにある方で、興味があれば読まれることを勧める。それでも、少しだけ引用すると《テレビや劇場設定の枠の中に収めるため、争点や対立軸を単純化し、多角的な情報提供を前提にしていない》《不信任案決議の背景が市民に伝わらず、ダムを造るか造らないかという議論に矮小化されてしまう》などというスタンスだ。

こういう状況を杉原氏は、《情報の非対称性が劇場型民主主政治の「市場の失敗」》と説明している。まさにその通り、杉原氏が少ない原稿の枠内で提示した問題について、ひとづづつ検証し報道することこそが、マスコミに求められる役割なのではないだろうか。

例えば、県議は田中氏が知事に就任して以来、県経済が停滞しはじめている、と指摘しているが、それを具体的示すことが必要なのではないだろうか。それが田中元知事の政策によるものなのか、それとも前知事時代からの(オリンピック開催を含めた)継続的な負の遺産なのかも含め、双方の主張を提示してもらいたい。専門家に登場願うとすると、その主張や数値の妥当性に対する検証においてではなかろうか。

あるいは、脱ダムによる補助金問題についてもしかりである。補助金と地方自治体という切り口は長野だけの問題ではない。だからこそ田中氏は自立的発展ということを理念として掲げたのではなかったか。

田中氏の政策も小泉首相の政策も「具体的でない」とよくマスコミは報道する。私にはこの、「具体的でない」という主張そのものが具体的ではなく理解できないのだ。(>ばかなだけ? 政治経済欄を隅からスミまで読んでいないから?) できるなら、杉原氏に田中氏の政策のどこが間違っていて現実味がないのか、もう一度、具体的に説明してもらいたい(NHK日曜討論ででもやってくれないかね、サンデープロジェクトは問題多いから)。

同じく「私の視点」で蒲島東京大学教授が指摘しているように《田中知事が戦っている相手が戦後システムそのものであるならば》と指摘している。社会面でタレントの遙洋子さんは《田中さんの姿は「オヤジ」と格闘するキャリアウーマンの姿とだぶる》と書く。

長野県という一地方の問題ではあるものの、だからこそ、わたしを含め、田中康夫問題に敏感になっているのだ。感情論などやイメージ、風潮で論じてはいけないと思う。私には、田中氏のスタンスに協調できるかどうかの判断が、現時点ではできないでいる。

わたしを含めたものを、ここまで追いこんでいる「閉塞感」とはいったい何なんだろうか、と考えざるを得ない。元気のない経済という問題ではないことだけは確かだ。閉塞感の正体さえ掴めないとしたら、なんと不幸な状況だろうか・・・

2002年7月15日月曜日

 田中長野県知事の不信任決議

15日、田中康夫長野県知事が県議会から不信任決議案を提出されたのを受け、議会を解散せず辞職し再出馬する意思を固めたらしい。この問題についてどのように考えるべきなのか、私は戸惑ってしまう。

田中知事が「脱ダム宣言」により県議会と対立していたことは知っている。脱ダム後の治水問題についても研究もしていたと聞く(県治水・利水ダム等検討委員会、浅川及び砥川の「総合的な治水・利水対策について」の答申)。双方とも納得できる妥協点を模索していたのだろうとは推察する。

全国の自治体において、公共事業の見なおしの機運は高まっている。特に、素人目にはムダとしか思えない道路や港湾施設、農場空港などを紹介される報道に接すると、その思いは強くなる(ムダなダム=怪文だな ^_^; )。実際に、走行台数の極めて少ない高規格道路や高速道路を通ると、さらにその思いは強くなる。

しかし、これらの事象は本当に正確に伝えられているのだろうか。事業のコストパフォーマンスについて、公正かつ正確に説明されているかと考えると疑問を感じる。推進であっても反対であっても、双方の主張は判断可能な形で提示してもらいたい。だから、信濃毎日新聞の7月14日の社説を読んでも曖昧さが払拭しきれない。地元新聞でさえ「何が理由の不信任であり、何を争点に争う知事選かが明確にならなくてはならない」と書いている。

日曜日のサンデープロジェクトでは、田中知事と県議が出演し、意見を述べ合ってた。これを聞いていると、脱ダムはひとつのきっかけに過ぎず、根底には知事と県議の深い溝を感じる。田中知事になってから、県政、県経済は停滞しているではないか、というのが県議達の主張のようだ(県議の代表意見は毎日新聞の記事から伺い知ることができる)。この点は、小泉内閣の「痛みを伴う構造改革」とラップする部分があるように思える。

感情論で反対するなどという愚考は避けねばならない。不信任を出せば解決とかいうような問題ではない。小泉・田中に代表されるような、現状の閉塞感の中から改革を求める気持は私とてある、改革に対する期待もある。それは、より豊かで(物質面ではなく)住みやすい社会へ向けてという前提で、やみくもな破壊者を望んでいるわけではない。

理念としての「望ましい社会」と納得のゆく実現に至るアクションプランを我々は求めている(田中氏の理念は毎日新聞のインタビューから伺い知ることができる)。私はこの問題を考え始めると、情報量の少なさから先に進むことができない。


2002年7月12日金曜日

【本棚】スティーヴ・ビダルフ:男の子って、どうしてこうなの?―まっとうに育つ九つのポイント


恥かしい話しだが、私は教育熱心な方ではない。「子供のことは妻にまかせて」みたいにやってきていたので、子育てや教育に関して偉そうなことは全く書けない。で、この本のことにすぐ話しを移すわけなんだが、読んでイロイロと考えさせられたのである。

この本は、オーストラリアの心理学者が、女の子と男の子は、根本的に脳のつくりが違う(性差別ではなく!事実として)ということをベースにして、男の子とどうつきあうべきか、父親は母親のパートナーとして、何をしなくてはならないかを説明しているんだ。

「脳が違う」という観点からの説明は、新鮮で非常にわかりやすい。テストステロンという男の子を男たらしめているホルモンの役割と、男性と女性の脳の発育段階の違いなど(一般に男の子の方が、女の子よりも1~2年程度、子供のときは脳の発育が遅いこと。最終的には同じになる!性差別ではなく!)私達が子供達を観察していて経験的に知っていることだが、改めてキチンと説明されると目から鱗が落ちる思いだ。

オーストラリアと日本では、子供や大人を取り巻く環境や考え方が異なることも多いのではないかと推察する。特に性教育の部分は、理解はするものの違和感を覚えないわけではない。また男親に、子育てに参加することは、ときに自分の昇進や出世を諦めることも必要だと説くが、こういう感覚も日本ではまだ受け入れ難いんではないだろうか。保育園などに関する考え方にも違和感を覚える人もいるかもしれない。

でも、アタマからそんなの無理だと思い、この本を浮け付けないと、筆者の重要なメッセージを読み落とすことになってしまうんじゃないかと思うわけだ。各論はあるものの、ひとつだけ、この本は普遍的なことを説いていると思うのだ。それは「男の子をうまく育てる方法論」じゃなくて、家庭や家族が(夫婦関係、親子関係ともに)どうやったら幸せにすごせ、さらに次世代を担う健全な若者を家庭から生み出せるか、というもっと大きなことだと受け取った。

だからこの本は、男性が、妻であり子どもたちにとっての母親である女性の頼もしいパートナーとして、どう子育てに接してゆくべきかということにも言及しているんだ。

イロイロなことを割り引きながら、男の子を持つ親に限らず、子育ての最中にある親は、自分を振り返りながら読んでも、今なら後悔はしないかなと思うのであったよ♪(*^-゚)⌒☆

もっとも、わかったからって、明日から17時に帰宅できるわけぢゃあないんだけどね、トホホ・・・

2002年7月10日水曜日

経営者の若返りということ

日経ビジネス(2002.7.1)を立ち読みしていたら、「業績で分かった! 40代が社長の限界」とう記事が目にとまった。上場企業の成長度合いと社長の年齢を調査したところ、伸びている企業と停滞している企業では社長の年齢に歴然とした差があるというのだ。いくつかのデータと事例を示しながら、世代交替を求めるような論調になっていた。京セラの稲盛名誉会長も、いつまでも年寄りが重役として仕切っているようではだめだ(企業も政治も)とインタビューの中で述べている。

社長が若いから成長産業(企業)なのか、あるいは成長産業は得てして企業の成立そのものも若く、結果として社長も若いのか、そこのところは言及されていないので、わからない。

自分の属する組織を考えても老害というものは明らかに存在する。社長とまで行かなくとも、支社長や重要な管理職ポストは30代後半から40歳代前半のものが担うべきであるとは、常々感じている。

企業に60歳定年(場合によっては57歳での役職定年)というものが存在することを前提に考えると、50歳を過ぎて経営的に重要なポストについても、攻撃的にはなりにくい。つい退職金や再就職先を考え、あとの数年間をつつがなく、ミスをしないように過ごすという守りの姿勢が、どうしたって出てしまう。これは先の稲盛会長も「50代で志に殉じるのは困難」と指摘しているとおりだ。特に企業の人事評価や風土が加算主義ではなく減点主義であればなおさらだ。持点を増やさなくとも、減らさない限りはパージされないとしたら、成長は止まっているも同然である。誰だってリスクをおかしてまで自分の経歴に傷は付けたくないものだ。

成長することを目標とした企業経営を目指すとしたら、パワーと、ときに無謀さと大胆さが要求されるような気がする。その裏には、確たる理念と綿密なプランが必要なことは言うまでもない。若手は経験が少ない、という意見もよく聞く。経験不足を指摘するのは、、主には意思決定の場においてだろう。ただ、意思決定の本質は年齢とは関係なく、本人の資質で決まるという論もある。それでも、誤った判断をしないような情報整理=基盤整備が不可欠であろう。誰であっても、質と精度の高い情報(情報の量だけが重要なのではない)がなくてはよりベターな判断などできるわけがない。

成長を求める企業であるならば、企業や教育機関は、若く有能な経営者を育てるという努力が求められる。実務畑の人間が明日から経営者にはなり得ない。世代交替へ向けてランディングしてゆくためには、組織内の様々な意識・制度面での改革が必要なことはもちろんだが、意思決定システムの改革や、基盤整備などなど、手がけなければならないことは多いと思うのであった。

翻って、自分の組織を眺めるに・・・暗澹。


2002年7月3日水曜日

楽劇「トリスタンとイゾルデ」全3幕 ショルティ指揮/ウィーン・フィル



トリスタンとイゾルデを聴く (2002.06.30~02)

ローエングリン、タンホイザーと聴いて次に何を聴くべきかと逡巡したが、かねてから気になっていた《トリスタンとイゾルデ》を聴くことに決めた。

手っ取り早く、この楽劇について知るべく、Google検索を行ったところ、なんとヒット件数は4160! ワーグナー人気投票なるものを行っているサイトでは、堂々の1位を獲得している作品である。

ワーグナー無知な私は、この音盤を手に取った段階でどういう内容なのか全く分かっていない。「愛と死」だとか「ショーペンハウアー」などのキーワードを知るのも、後になってからである、そのくらい何も知らないで聴き始めた。(書いている今でもショーペンハウアーのことは名前しか知らないのだがね)


■ 登場人物と配役
  • ビルギット・ニルソン(イゾルデ)
  • フリッツ・ウール(トリスタン)
  • レジーナ・レズニック(ブランゲーネ)
  • トム・クラウゼ(クルヴェナール)
  • アルノルト・ヴァン・ミル(マルケ王)
  • ヴァルデマール・クメント(水夫)
  • エルンスト・コツープ(メロート)
  • ペーター・クライン(牧童)
  • テオドール・キルシュビヒラー(舵手)
  • ゲオルグ・ショルティ指揮
  • ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  • ウィーン楽友協会合唱団(合唱指揮:ラインホルト・シュミット)

  • 1960年9月
  • ジョン・カルショウのプロデュース、ジェイムズ・ブラウンのエンジニアリングによるゾフィエンザールでのステレオ録音
  • 239分収録


■ HMVの評価

当時絶頂期にあったビルギット・ニルソンと、人気ヘルデン・テナーだったフリッツ・ウールの共演。ウィーン・フィルも若きショルティによって迫力あるサウンドを聴かせており、この作品のオーケストラ・パートとしては異例と言って差し支えない起伏の激しい音楽が今聴くと実に新鮮。42年前のウィーン・フィルの濃厚な音色も個性的で魅力十分です。


■ あらすじ

ストーリーについては、以下のサイトに概略が簡潔に紹介されている。

  • トリスタンとイゾルデよもやま話しはMIDI音源付きで端的に概要が分かる
  • ワーグナーの歌劇な部屋~作品紹介はいつもお世話になっているサイト
  • すずめの日記の解説は非常に詳しい
  • トホ妻&いわんやトホホ芸術対談集は表現がストレートすぎるが分かりやすい(笑)

これらのサイトを巡回しながら物語をまとめてゆくと、強烈なる「愛」の物語であり、究極の愛を求めることは、最終的には死という選択になるらしい。一方で《トリスタンとイゾルデ》は、目のくらむような官能の音楽である、ということらしい。ワーグナーの官能の前には、スクリャービンの「法悦の詩」など男性サイドの一方的な官能に過ぎないと・・・とは誰も書いてはいなかったが、とにかくそういう曲らしい。


■ で まず一通り聴いてみた

全3幕、音盤にして4枚、ほぼ4時間の大作である。マジメに対訳を読みながら聴いていたのでは身が持たない、乱暴だが先ず聴いてみた。

ここでは細かな解説はしないが、通して聴いた印象は、やはりというべきか「よくわかんねーよ、前作よりも面白くなーい」というものであった。

まず、タンホイザーやマイスタージンガーのように中学時代に親しんだ経験がまるでないため、知っているフレーズに出会わない。タンホイザーのようなメリハリもあまりないように感じる。そして何だかずるずると音楽が続いてゆく(これが循環旋律?)、それにセリフが長い、音階や和音もとらえどころがない(これが半音階旋律やトリスタン和音?)。

《トリスタンとイゾルデ》は、《前奏曲》と《イゾルデの愛と死》が演奏される機会が多いようだ。前奏曲はいうまでもなく、一番最初のもの、イゾルデの愛と死は第3幕の歌だ。

そうなのだ、前奏曲からして捉えどころがないんだ。いままでの勇壮果敢なワーグナーとは雰囲気が全く異なっている、連綿と続く不安定な音律を聴いていると、なんだかふらふらしてくる。1幕はえらくイゾルデが勇ましい、2幕は言われてみればR15指定だ。3幕はトリスタンがひたすら歌いまくっている。音楽的にもどこで終わっているのか分からないから、気分的にもなんだか完結しない。リブレットを追っていないから展開もよく分からない。

そもそも音盤の構成も良くない。3幕なのに音盤4枚なんだ、どうしたって幕間で音盤を替えなくてはならない。しかも、切りの悪い終わり方なんだ・・・。でも、ひょっとして《トリスタンとイゾルデ》は長大な4時間で1曲なんではないかと思えてきた。いったいなんて曲を作曲してくれたんだ、ワーグナーというヤツは!

もうひとつ気づいたことがある。それは、ローエングリンで展開して見せた世界とは、全く違う音楽がここには形作られているということ。真綿の中で水あめのように引き伸ばされた時間を感じるのだ。と書いて、ハタと膝を打った。連続しているてことはアリアが終わった後に拍手ができないということなのだ。それこそワーグナーが「ロマン的オペラあるいはイタリア的歌劇」と決別したことを意味しているのではないかと。音楽が連綿と続くことで、物語を音楽に従属させるのではなく対等にすること、そういうことが見事に達成されているというわけか、なるへそー σ(^^)も、ちょっとだけワーグナーが分かってきたぢゃね-かよ。

それにしたって、《トリスタンとイゾルデ》は、登場人物も少なく物語りとしての起伏には乏しい。だって、ふたりの心内をひたすら吐露しているような劇だ、ある意味で平板で退屈というのも間違っていないと思う。

「はじめて聴くワーグナー」(この企画のことだよ)を《トリスタンとイゾルデ》から始めていたら、ワーグナーなんて聴かなかったかもしれない。いずれにしても、一度聴いただけで良さが分かるような音楽ではなさそうだ、そんな音楽としばらく付き合ってみたい。



■ 第3幕 最後の《イゾルデの愛と死》だけを繰り返し聴く (2002.07.02~03)

「いまひとつ面白くない、感動できない」という印象を受けるのが、馴染みのフレーズがないことに起因するのならば、刷り込みで馴染みのフレーズを作ってしまえばよい。一度聴いただけでは分からないのならば、繰り返し聴けばよい。つまりは飽きるほどリピートすることだ。そこで、有名な(有名と言われても聴いたことなかったのだが)《イゾルデの愛と死》を、寝る前に2回、朝通勤する前に2回、昼に2回、夕食前に2回と繰り返し聴いてみた(ホントだよ=寝る前から始めるところがミソだね)。

するってーとだ、ある瞬間に(松田聖子ぢゃないけど=古い!)「ビビビ」とキてしまったんですね。ああ、そうかァ、ていうような感じで、今まで「なんかネムイな」と通り過ぎていたメロディが、どこかに浸透するのを感じたわけです。ビビっとくるときは、延髄からつま先まで痺れちゃうものです(>病気ぢゃねーの?) で、何と歌っているのかと興味が沸きリブレットを読んでみると、これがまたキちゃってるセリフで、感動を新たにしたわけです。

ただしなんだ、《トリスタンとイゾルデ》は、俗世間が目に入る太陽が高いうちに聴いてはいけない、夜、暗闇の中で、ひとりしずかに聴かなくてはだめなようだ。それほど隔絶され超越した世界なのだ。

さあ、これでやっと《トリスタンとイゾルデ》を聴くカラダが出来あがった。それでは、最初からゆっくりと聴いてみましょう。


■ あらためて前奏曲を聴く (2002.07.14)

この10分足らずの前奏曲は、解説本によると、「トリスタンとイゾルデの愛の内面的進展を音楽により表現したもの」と説明されている。曲は冒頭の半音階進行による「あこがれの動機」にはじまり、「愛の動機」へと展開される。続いて、バイオリンによる強い希望を表す動機が現れるが、最後は「運命の動機」により再び冒頭の静けさに戻ってゆく。

《トリスタンとイゾルデ》は、なかなか捉えどころがないと書いたが、この前奏曲もしかりであった。何度か繰り返して聴いたが、暗く不安定な音楽はなかなか琴線に触れてこなかった。曖昧にして霧の中を歩むような音楽なのだ。

しかし、楽劇全体を一通り聴き通し、改めてこの前奏曲に接れることで、この曲の持つ魅力の一端にやっと触れた思いがする。それは魅力などという言葉では的を得ていない、信じがたいほどの魔力とさえ言っても良い。

冒頭のとらえどころのなき音階と、行き場と解決を示さない動機は、《トリスタンとイゾルデ》の物語のテーマそのものだとさえ言えるかもしれない。甘美でありながら、絶望に近い暗さを湛えた音楽といえようか。解説者たちはこの冒頭3小節を、「苦悩(半音階下降)とあこがれ(半音階上昇)のモティーフ」と読んでいるらしい。そういわれてみると、この短い動機が実に複雑なる心情とドラマを表現していることに改めて気付かされる。

中間部分で金管群を伴い盛り上がりを見せるあたりから、バイオリンが駆け上るテーマを奏する。ここの切ないまでの激しい憧憬ときたらどうだろう。憧憬といえば、私はマーラーの交響曲第5番の、有名なアダージョからも強烈なる甘美さと憧憬の感情を感じる。おなじキーワードでありながら、トリスタンのそれは、更に抗いがたき哀しさと暗さをもっている。このような感情を表現した音楽を私はほかに知らない。

クライマックスが崩れた後は、静けさが戻るのだが、そこに描かれた深淵は人間の持つ性や罪を全て飲み込んだ上での諦念さえ感じる。曲調は全く異なるのだが、ふとシベリウスの交響曲第4番をさえ思い出す。

そう、この前奏曲が沸き起こす感情はかくも複雑だ。たった10分間に、いや数小節に、これほど多くの感情を詰め込めることができるのだろうかと驚くばかりだ。この音楽を表現するには、私の知っている言葉をいくら並べたところで、何も表現することはできないと気付く。

弦が低いピチカートを鳴らした後に第1幕 第1場が始ると、どこからともなく若い水夫たちの声が聞こえてくる。私は水夫の声を聴くたびに慄然としてしまう。この声は、もはやこの世の声ではなく、黄泉の国からの歌声に聞こえる。かように、《トリスタンとイゾルデ》は冒頭からして、「死」というものを強く暗示しているように思えてならない。

ここまで書いて考えたが、こういう曲であるので、いくらでも情緒的に演奏することだって、甘美さを全面に打ち出して演奏することだって可能だろう。ショルティの演奏が、どのようなスタンスに立っているのかは、他の演奏を知らないので比較はできないのだが、ある引力と自制をもってトリスタンの演奏に望んでいるように思える。決して心情に溺れずにドラマを全面に打ち出しているように感じるのだが、勘違いだろうか・・・


■ 第1幕を聴く (2002.08.08)

第1幕は全て船上での出来事だ。イゾルデがトリスタンを問い詰め、共に死のうとするがブランゲーネに毒薬の変わりに愛の薬を渡され、二人は不幸にも愛し合うようになってしまう、というものだ。第1幕だけで1時間20分ほどあるのだが・・・

《トリスタン》の解説やリブレットを詳細に読んでいると、トリスタンとイゾルデはこの劇以前の段階で知り合っており、互いに惹かれていたことが分かる。

例えば第2場の若い水夫の二度目の歌の後にで、ブランゲーネとイゾルデが会話をかわしているところで、イゾルデはトリスタンを指して以下のように歌う。(ドイツ語表記は不正確、以下同様)

Isolde
Dort den Helden, ( That hero there )
der meinem Blick ( who hides his gaze )
den seinen birgt, ( from mine )
in Scham und Scheue ( and casts down his eyes )
abwarts schaut. ( in shame and embarrassment. )
Sag, wie dunkt er dich ? ( Say, how does he seem to you ? )

あるいは、第3場でのイゾルデが歌う<「タントリス」の歌>を聴いてみよう。彼女の許婚であるモロルトをトリスタンに殺されたということが分かっていながらも、彼女は彼に復讐するどころか傷口を治してしまう。

Isolde
Von seinem Lager ( From his couch )
blick't er her- ( he looked up, )
nicht auf das Schwert, ( not at the sword )
nicht auf die Hand- ( not at my hand )
er sah mir in die Augen ( but looked into my eyes )
Seines Elendes ( His anguish )
jammerte mich ! - ( touched my heart ).
Das Schwert - ich lieβ es fallen ! ( The sword I let fall ! )

どちらの部分にも上昇音階の「愛の動機」が実に巧みに表れ、彼女の復讐心と隠された愛情と憧れがせめぎあうような音楽になっていて、何度聴いても素晴らしいと思う。



リブレットからは、二人が互いに憎しみと屈辱を覚えながらも、惹かれてしまっていることが分かる。そうすると、船上でのイゾルデのヒステリックさも理解できる。一方で、トリスタンがイゾルデに呼ばれても応じなかったのも、彼の心情と役目を考えると潔癖さや主人への忠誠心からではなく、自らの心の中に隠された情熱を知っているがためと読むこともできる。わざとイゾルデを辱めるような歌を歌うのも、男性特有の子供じみた仕種とは言えまいか。(左絵:第1幕第2場)

こうした二人の抑圧され鬱屈した感情は、毒と思って互いに飲む「愛の薬」で解放されるわけだ。イゾルデがトリスタンに毒薬を勧めるのは、あたかも無理心中を誘っているようでさえある。第1幕はここで一気にクライマックスを迎えることとなる。

ここまでの音楽は、ほとんどトリスタンとイゾルデの会話なのだが、多くのテーマが溶け合うようにして立ち現れ複雑なメロディを形作っている。楽譜を見ながら聴いているわけではないので、テーマを追うだけで目が廻りそうになる。

第5場のトリスタンとイゾルデの歓喜にも近い二重奏を聴いていると、長々とした第1場は、用意されたこの場面のために存在しているような気さえする。イゾルデは以下のようなことを口走り、毒(愛の薬)を飲む。

Isolde
Betrug auch hier ? ( Betrayed here too ? )
Mein die Halfte ! ( Half is mine ! )
(She wrest the cup from him.)
Verrater ! Ich trink'sie dir ! ( Traitor, I drink to you !)

このセリフに私はイゾルデの屈折した感情を感じる。そしてこの後の音楽が凄い。まずティンパニのトレモロに乗って前奏曲で流されたテーマがそっくり繰り返される。二人の気持ちが憎しみと死の恐怖から、焦がれるような情熱へと変化してゆくようなさまが表現されているようだ。ここを劇ではどのように演出するのか興味深い。
そして、それに続く「愛の動機」に乗ったトリスタンとイゾルデの二重奏の最初のフレーズの美しさと哀しさときたらどうだろう、何度聴いても全身に鳥肌が立つ思いだ。

Isolde
( in a trembling voice )
Tristan !
Tristan
( beside himself)
Isolde !
Isolde
( sinking on his breast )
Treuloser Holder ! ( Faithless dear one ! )
Tristan
( embracing her ardently )
Seligste Frau ! ( Most blessed maid !)
( They remain in a silent embrace. Trumpets are heard from afar.)

もともと愛し合うように運命付けられていた二人が、薬を介してお互いの束縛を解いてしまった。このような愛の形は、最初から悲劇を予感してはいまいか。だからその愛の情熱が熱く強いほど、劇的さと悲劇性が高まる。それをワーグナーはいやというほど音楽的に見事に表現している。二人の後の不幸は、ブランゲーネのセリフに集約されている。

Brangane
Wehe ! Weh !
Unabwendbar ( Inescapable)
ew'ge Not ( eternal pain )
fur kurzen Tod ! ( instead of speedy death ! )
Tor'ger Treue ( Foolish devotion's )
trugvolles Werk (deceitful work)
bluht nun jammernd empor ! ( now blossoms forth in lamentation ! )



刹那的な死よりも大きな苦しみが二人を待っていることを歌っているのだ。二人の求めてしまったものは、当事としてはタブーである愛の形であり、終わりのない憧れである。時として官能的にさえ響く音楽は、やむことのない憧憬を表現しているようであるが、音楽は解放された明るさではなく、暗さが漂う。(右絵:第1幕第5場) 船上での二人の時間は長くは続かない。岸に着いてしまうのだ。お楽しみは第二幕というわけである。とことん凝縮したストーリーであるが、ドラマのと音楽の作り方もうまい。禁断の愛は究極の純粋さと深さと苦悩を内包しつつ、一気に進んでゆくわけだ。

第1幕を聴き終えるに当たって、「愛の薬」( Der Libestrank = The draught of love )というものについて考えてみたい。これは互いに惹かれあうようにイゾルデの母親が調合したものだ。「媚薬」と訳している解説文も目にするが、なにやら性愛補助薬じみてしまう。どうやら、そういうものではなさそうだ。当事は政略結婚が盛ん(?)であったろうから、愛のない結婚とならないようにと「愛の薬」が考えられたということらしい。

また、第3場でブランゲーネが、「母君の術を( Kennst du der Mutter )、ご存知じゃございません? ( Kunste nicht ? )」とイゾルデに語りかけている。イゾルデはアイルランドの娘であり、術を使う一族という面を持っているようだ。《ローエングリン》に登場した魔法使いオルトルートと通じるものがあるのだろうか。ここらあたりは、ケルト民話やゲルマン民話に詳しくないので、今はこれ以上のことは分からない。


■ 示導動機について (2002.08.12)

ワーグナーの音楽を聴くに当たって「ライトモチーフ(示導動機)」という言葉が必ず登場する。これは「作曲家別 名曲解説ライブラリー2 ワーグナー」(音楽の友の社)によると「一定の短い音楽動機に一定の意味内容を持たせ、それを主として管弦楽に使って、劇の表現をたすける手段」と説明している。第1幕で盛んに聴かれた「愛の動機」が聴こえると、セリフがそうではなくても、裏にはそのような感情が流れていることが分かるわけだ。

この示導動機が《トリスタン》でいったいどれほどあり、そして音楽家により命名されているのかは、拙い解説本だけでは知るすべもない。一方で「リヒャルト・ワーグナーの楽劇」(C・ダールハウス著)の中で、示導動機に関し以下のような見解を示している。

ワーグナーの諸所の指導動機に、硬直したかたちで同定するための名称を与えるやり方は、問題があると同様に避けられぬことでもある。問題があるというのは、音楽表現を概念に翻訳することは決して適当ではないからである(中略) そして避けられぬというのは、言語による媒介を断念して、音楽動機は言葉にならない感情を理解させるとする観念は、幻想にすぎないからである。
作品理解において、命名された動機は助けにはなるのだが、言葉による固定化されたイメージにより、音楽の持つ豊かさと深さが阻害されてしまうとすると、それは不幸なことである。まして、私は音楽解説者ではない、示導動機とその名前に固執することの愚は避けて、音楽の持つ力を感じる方が良いのではないかと思う。

それに、ワーグナーの音楽は聴いていても極めて複雑だ。音盤とモチーフだけの楽譜を頼りに、全ての部分を聴くことなど、100万分の1の地図を持って渋滞の抜け道を探るに等しい作業だという気もする。まだ私は《トリスタン》の1/3しか聴いていないというのに!


■ トリスタンとイゾルデの愛 (2002.08.13)

ワーグナーの《トリスタン》に関する解説を読むと、たいてい書かれている事だが、この物語は中世の詩人ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの題材を用いてワーグナーが自作したものだ。テーマとしては「姦通と不道徳」の物語であり、当事のドイツとしては冒涜以外の何者でもないものだ。それを、ワーグナーは究極の愛の物語へと昇華させてしまった。

ワーグナーは1854年12月、フランツ・リスト宛てに《トリスタン》について「あらゆる夢のうちで最も美しい夢に、これから記念碑を立てようと思っています。そこでは最初から最後までこの愛が1度まさに心ゆくまで満ちみちることになるでしょう」と書いている。一方、ワーグナーの最初の妻、ミンナ・ワーグナーは1961年に「このカップルはあまりに深く愛し合う、いやなカップルです」と言っているらしい。

ワーグナーがいつの段階で「記念碑」たる音楽(それはハッピーエンドを予感するものだろう)から、最後は悲劇にしかならない音楽に傾いていったのかを知ることは興味深いと思う。あるいは、究極の愛と憧れを求めた結果は、積極的な同一的な死に至ると考えたとしたならば、確かに厭世的な考えであると思わざるを得ない。

不倫の愛の果てには死しかないという考え方は、数年前に話題になった渡辺淳一の「失楽園」ではないが(読んでないから詳しいことは分からないけど)、現代でも通用する感情なのかもしれない。しかも、その愛のかたちは、純粋な精神的な愛だけではなく、肉体を伴った性愛でもある点においても、形式的には同じ様相を呈している。タブーを破ったものには死しか与えられないとするのは、あまりにも陳腐なテーマではある。

しかし、ワーグナーは第2幕以降は、そのような「よろめきドラマ」のような通俗話ではなく、違った形でトリスタンとイゾルデの物語を提示してくれているようだ。しばし、またワーグナーの劇進行を辿ってみたい。


■ 第2幕 第1場を聴く (2002.08.16)

この場面は、コーンウォール城でのイゾルデとブランゲーネの対話がメイン。マルケ王の部下でありトリスタンの親友であるメロルトの勧めにより、王は夜の狩りに出かけている。その間に、イゾルデはトリスタンと逢引したいとブランゲーネ迫る。

第2場は前奏曲から開始される。「光の動機」がffで弦楽器により奏でられた後に、バスクラリネットによる半音階上昇「愛と焦燥の動機」とフルートによる半音階下降「愛の喜びの動機」が奏でられる。「愛と焦燥の動機」とは良くぞ付けた標題だと思う。いかにもあたりをうかがい、その機会を待っているかのような音楽である。しかしあちこちで聴かれる半音階旋律は不安さと危うさを表しているようだ。

前奏曲が終わると、ホルンによる角笛の音が響き、マルケ王が夜の狩りに出たことを示唆している。イゾルデはブランゲーネの止めるのも聞かずに、松明を消しトリスタンに合図するよう歌う。ここで、愛の女神は夜を好んでいることを、愛は夜の中にこそ訪れると言っている。第1幕の最後でイゾルデは以下のように歌うが、ここの迫力は凄まじい、イゾルデが夜の女神そのものになったかのようだ。

Isolde
Frau Minne will: ( the goddess of love desires )
es werde Nacht, ( night to come )
daβ hell sie dorten leuchte ( that she may brightly shine there )

それにしても、どうしてブランゲーネはメロルトの裏切りを予感していたのだろうか。そして愛を夜と結びつけるところに、この音楽の宿命がある。


■ 第2幕 第2場を聴く (2002.08.17)

さて、いよいよ二人の短い一夜の逢瀬が始まる。この第2場は確かに凄い音楽だ。先のバスクラリネットによる「愛と焦燥の動機」に導かれ、夜の暗闇をいそいそとトリスタンがイゾルデの元へ走ってくるのが目に見えるようだ。そして、息が詰まるような弦楽器と金管群に続いて、愛の爆発!!である。

いやはや前半はめまぐるしく、そして信じられないほど激しい。リブレットを追う事を断念せざるを得ないほどだ。音楽を聴いてあらぬことを考えてしまう方がいることも、分からないでもない。



続いて、ひたすら夜への賛美が二人で歌われる。昼は偽りの世界であり、夜こそ真実の、愛の世界であると。トリスタンは「私たちは (O, nun waren wir )、夜に捧げられた者なのです ( Nacht-Geweihte ! )」とまで歌う、いやはや。

あまりに厭世的な発想ではないかと思い、思想には違和感を覚えるものの音楽は眩暈がしそうなほど美しい。有名な「ああ、われらをとざせ、愛の夜よ ( O sink hernieder, Nacht der Libe )、生きていることを忘れさせておくれ ( gib Vergessen, daβ ich lebe; )」に始まるトリスタンとイゾルデの二重奏ときたら、完璧に別の世界にいってしまっている。ここに至って《トリスタン》の音楽は官能美を極めていると言ってもよい。遠くから聴こえるブランゲーネの忠告さえ夢のように美しく響く。

第2幕の後半は二人は没我の境地にあり、永遠の愛を求めるがゆえにこそ、つまり終わりなき愛の世界を求め死ぬことを口走る。というか、リブレットを読んでいるとトリスタンはイゾルデに抱かれながら、既に心は死んでいる(^^;; 半音階を主体とした音楽はうねるようで、何時終わるとも知れぬ様相を呈している。音楽はおそろしく素晴らしいが、演出は難しいだろうなと思う。だって、二人が抱き合っているだけのシーンが延々と続くのだ。外的なドラマは一切ない。

《トリスタン》の解説を読んでいると、この曲の理解には性愛体験が不可欠である、とか、愛に対する経験値が曲に対する嗜好を左右するなどと書いているものもある。あるいは《トリスタン》はテーマや劇設定の点から(楽劇でななく劇進行=Handlungと称したことなど)、ワーグナー作品の中では少し特殊なものなのではないかと思う。それでもというか、それゆえに、ワグネリアンとしての踏絵的な語られ方をするが、私はそこまで深くこの音楽に没入できない。第2場後半の音楽を聴いていると、深く生暖かい泥沼にはまってしまったような錯覚に陥り「こんなことばっかりしてちゃダメだ」とさえ思う(^^;; わたしは理性的な人間なんである。

私はこんなに深く愛に囚われてしまったことがないので、二人の感情を完全に理解することはできないのかもしれない。完全なる愛の合一と永遠への希求の果てには、永遠の夜=死の世界しかないという発想にはついてゆけない。これが、ワーグナーが当初目論んだ「最も美しい夢、記念碑ともいえる愛」の姿なのだろうか。

第2幕の最後で二人は至福の時と恍惚の絶頂を迎えるが、それだけでは単なる不倫理なヨロメキドラマの域を出ないのではなかろうか。愛の絶頂の後にブランゲーネの叫びにより全ては悲劇の終局へと向かって物語は進んでゆく。さて、ヨロメキドラマはどのように変遷してゆくだろう。


■ 第2幕 第3場を聴く (2002.09.03)

ずいぶんと間が空いてしまった。久しぶりに《トリスタン》を取り出して聴いてみるが、相も変わらず連綿とした陶酔的な音楽が続いており、あっという間に《トリスタン》の音楽世界に取り込まれてしまう、オソロシき。



第3幕は、マルケ王とメロルトがトリスタンとイゾルデの不倫の場面に飛び込んできたところから始まる(右絵)。しかし第3幕のほとんどは、マルケ王の一人舞台だ。延々と、延々と、マルケ王はトリスタンに裏切られた痛手と恥辱を、イゾルデを妃として迎え情を覚えてしまったが故に苦悩を、延々と延々と歌いつづける。怒りを露にするというのではなく、深く嘆き悲しむ歌だ。それが逆にトリスタンの罪深さを印象付ける。

ところが、トリスタンは王の苦悩や裏切りに対する弁明は一切せず、イゾルデにむかって一緒に夜の国に行こうと誘う、イゾルデはそれを拒まない。この場面では、再び「あこがれの動機」が流れている、死への旅立ちというわけか。

劇を見ているわけではないので、よく分からないのだが、メロルトが「Verrater ! Ha ! Zur Rache, Konig ! Duldest du diese Schmach ? ( Ha ! Traitor ! Vengeance, o king ! Will you endure this dishonour ? )」と叫び剣を抜くき、トリスタンも応戦しようとするものの、トリスタンは剣を落として、あっけなくメロルトの刃にかかり深手を負ってしまう、勇者と称えられたトリスタンがである。

解説本では「自ら進んで刃にかかる」「自殺」と説明している。確かに、この前に「日も指さない夜の国」にこれから行くとイゾルデに語っているのだから、メロルトが剣を抜いたのはきっかけに過ぎず、自ら先に死を選んだ(イゾルデが後を追う事を望んで)というのも分からなくはない。

それにしても、トリスタンとイゾルデの飲んだ「愛の薬」は、あまりにも効き目が甚大すぎたのではなかろうか。マルケ王に向かい

Tagesgespenster ! ( Phantoms of day)
Morgentraume ! ( morning dreams )
Taushend und wust ! ( deceiving and vain )
Entschwebt ! Entweicht ! ( away, begone !)

と言うところなど、もはや正常な精神状態の言葉とは思えない。あたかも麻薬中毒者が幻影を見るかのごときセリフではないか。二人の愛は、いくところまでイってしまったと思わせる。二人の世界しか見えないという状態なのだ、ヤレヤレ。
最後に、彼の友人であったメロルトが何故トリスタンを裏切ったのか。彼もまたイゾルデにより目をくらませたとトリスタンは言う。しかし、メロルトが嫉妬したのはイゾルデに対してではなく、親友であったトリスタンに対してであった、という見方をする人もいる。

まあ、どちらでもよいことだ。とにかく麻薬的にして陶酔的な何時終わるとも知れない甘い世界はやっと断ち切られたのだ。さて、やっと第3幕である。



■ 第3幕 前奏曲と第1場を聴く (2002.09.16)

第3幕第1場への前奏曲は、弦による暗い響きで塗り込められている。1幕全体を印象付けるような、そして悲劇的にして救いのない結末であることを色濃く予感させるかのような、そんな音楽である。暗く低いところでテーマを三度繰り返した後に、上昇音型が現れ、ひたすら音階を上り詰めるのだが、その先に待ち受けているものは幸福と安寧ではないように思える。中間部で奏されるオーボエの響きも象徴的だ。牧笛を表すこの響きは、牧歌的雰囲気をもちながらも独特の暗さを漂わせる。1幕において、イゾルデが来る船がまだ来ないことを暗示させている音楽だ。

このような前奏曲により導かれる第1場は、カレオールの場内の庭園で、傷ついたトリスタンがクルヴェナールに付き添われ、イゾルデが船でやってくるのを待つという場面だ。トリスタンの傷を治せるのは女医たるイゾルデだけだと信ずるクルヴェナールがイゾルデを迎えにやったのだ。

まず、トリスタンが目を覚ます。自分がどこにいるのか、何をしていたのか分からず、クルヴェナールに問いかける。ここでは、トリスタンの暗い音楽とクルヴェナールの元気付けようとする快活な音楽の対比が見事だ。トリスタンの台詞を読んでいると、彼はほとんど心ここにあらずという印象を受ける。特に自分がまだ生き長らえ、夜の国から戻ってきてしまったことを嘆く。次にはイゾルデに会う事を渇望し、見えないはずの彼女の姿が目の前に現れたかのような異常な興奮を示すのだ。

ここらあたりは、トリスタンの一人舞台なのだが、この音楽を聴いていると、少々おそろしさに身が震える思いがする。そこまで、彼を虜にし狂わせた「愛」あるいは、その原因を作る役割をした「愛の薬」というもの。第1場を聴いているときに、「愛の薬」はもともと二人の間に芽生えていた、秘められた感情を解放したものに過ぎないと書いたが、確かにそうではあったのだが、薬の効果はトリスタンにおいて絶大であり、愛のポテンツを異常なまでに(麻薬的な破壊力を脳に与えて)高めてしまったと言えるようだ。

トリスタンは叫ぶ、

daβ nie ich sollte sterben, ( that I should never die )
mich ew'ger Qual vererben ! ( but should be left in eternal torment ! )
Der Trank ! Der Trank ! ( The potion ! The potion ! )
Der furchtbare Trank ! ( The terrible draught ! )
Wie vom Herz sum Hirn ( How madly it surged )
er wutend mir drang ! (from heart to brain !)

彼は薬のせいであると認識してはいるが、それ故にこそ理性というべきタガが完全に外れてしまっているのだ。あるいは、トリスタンの愛情が、瀕死の床で芽生えたものであり(タントリスとしてイゾルデに傷を癒してもらったそのとき)、あるいは未だに「死の薬」と信じたものを飲んだという思いが(トリスタンは「愛の薬」であったとは知らない)、より強く彼をして「死」に向かわせるのか。それとも、彼の生い立ち(生まれた時に母親が死んだこと、つまり彼は夜の国から来たということ)がより彼に死を意識させるのか。

いずれにしても、トリスタンの愛を覚えたが故の灼熱の苦しさと苛烈なる憔悴、そして、あがき苦しむ様は凄まじく音楽的な盛り上がりも痛々しいばかりである。冷静に考えると、私は感情移入するよりもトリスタンの常軌を逸した言動の異様さに違和感を覚える方が先に立つのだが、それでも鬼気迫る感情に打ちのめされてしまう。

前後するが、トリスタンは、こうも歌っている。

Die alte Weise ( The old tune )
sagt mir's wieder: ( tells me again :)
mich sehnen - und sterben ! ( to yearn and die ! )
Nein ! Ach nein ! ( No ! Ah, no ! )
So heiβt sie nicht ! ( It is not so ! )
Sehnen ! Sehnen ! ( To yearn, to yearn !)
Im Sterben mich zu sehnen ( Dying, still to yearn ! )
vor Shensucht nicht zu sterben ! ( not of yearning to die !)

これも分かるようでいて分かりにくい部分だ。憧れのために死ぬのではなく、死につつもあこがれる・・・。うーん、かくも強い、焦燥と死を帯びた憧れ。憧れの衝動から逃れるために、死ぬしかないという死への憧憬、しかしそれは、憧れからの逃避ではなく、究極の憧れへの要求・・・ついていけない、勝手に死になさい、と言いたくなるが音楽は見事に感動的だ。理性では理解できないと思っても、感情が動いてしまっているのに気付く。

ここまで読んでいて、トリスタンはメロルトの刃により傷ついている(自ら刃に飛び込んだ自殺だが)にも関わらず、こんなにも元気なのである。彼が病んでいるのは、身体ではなく精神=脳であることが分かるのだが、そのことも問わないことにしよう。第3幕は、あちこちに大きな疑問と矛盾に満ちているのだ。



さて、そうこうするうちに、やっとイゾルデの船がやってくる。喜びの旗を(お決まりの)はためかせながら、最後の難関である岩陰を潜り抜け、トリスタンのもとにイゾルデが、やっとたどり着くのだ。クルヴェナールは小躍りして喜び、トリスタンに無理をするなと言い、船へと駆けつける。さて、やっとトリスタンとイゾルデの待ちわびた再開が次に用意されるのだが、ワーグナーは我々(オレだけか?)が想像もつかないような展開を用意しているのだ。(右はクルヴェナールが船を見つけて喜んでいる場面)


■ 第3幕 第2、3場を聴く (2002.09.21)

いよいよ物語はクライマックスに突入である。イゾルデが船に乗ってやってくる。トリスタンは興奮の中で、信じられない行動に出る。彼は起き上がり、傷口から包帯を引きちぎり血を噴出させながらイゾルデを迎えるのだ!

(Er richtet sich hoch auf) (He gets to his feet.)
Mit blutender Wunde (Once with a bleeding wounde)
bekampft' ich einst Morolden, (I fought against Morold:)
mit blutender Wounde ( today with a bleeding wound )
erjag' ich mir heut Isolden ! ( I will capture Isolde ! )
(Er reiβt sich den Verband der Wunde auf. ) (He teares the bandage from his wound. )
Heia, mein Blut ! (Ha, my blood ! )
Lustig nun flieβe ! (Flow joyfully ! )
(Er springt vom Lager herab und schwankt worwarts. ) ( He springs from the couch and staggeres forward. )
Die mir die Wunde (She who will close)
auf ewig schlieβe- (my wound for ever)
sie naht wie ein Held, (comes to me like a hero)
sie haht mir sum Hiel! (to save me. )
Vergeh' die Welt (Let the world pass away)
meiner jauchzenden Eil'! (as I hasten to her in joy!)

彼は、わざと傷口を開いた、かつてモロルトに負わされた傷を、イゾルデに治してもらったその時を再現するかのように、あるいは、瀕死の場で、死にながらイゾルデの寵愛を受けるがために!

ここは音楽だけを聴いていても、このような異常な行動に出たということを理解できない。むしろイゾルデを向かえる喜びを歌っているかのようである。そう、イゾルデを迎える喜びに満ちているのだ。トリスタンの屈折した愛情は、死と隣り合わせであってこそ燃え上がり、そして成就すると言っているかのようである。

第2場では、このあとイゾルデの嘆きの歌が歌われる。彼の傷を治すために(生きてもらうために)わざわざやってきたというのに、彼は目の前で自殺ともとれるような死に方で、息絶えてしまったのだ。嘆き悲しむのも分かるというものである。最後に歌われる「イゾルデの愛と死」と同様に、美しくも哀しい歌である。

ここで、イゾルデはトリスタンと死ぬつもりで、ここにやってきたのだろうかという疑問が湧く。確かに「Isolde kam, mit Tristan treu zu sterben, (Isolde has come, faithfully to die with Tristan)」と歌っているのであるからして、死ぬ気でいたともとれる。

一方でトリスタン。彼はイゾルデに傷を治してもらうことを望んでいたのか。いや、それはありえないのだ、彼は死ぬつもりであったのだから医術を施してもらうことを望んでいたのではないのだ。すると、彼は何をしたかったのか。

もう一度思い出してみよう。トリスタンとイゾルデが愛に落ちたのは、まさにトリスタンがイゾルデのもとに瀕死になって転げ込み、傷を治してもらいながらも、イゾルデが婚約者の敵と剣を振り上げたその瞬間であったはずだ。生と死が微妙なバランスを保っていたギリギリの場で生まれた、いびつな形での許されざる愛であった。彼は、あのときのあの瞬間に立ち返り、永遠の愛をつかむことを望んでいたのではなかろうか。

トリスタンが包帯を引きちぎるというのは、その時の忠実な再現であり、同時にイゾルデに看取られて死ぬことに喜びを感じ、さらに彼女が後追いすることを望んだのだ。偏執的にして狂信的なまでの死への執着を感じる。

しかし、やはりしっくりこない。イゾルデが死の世界を望んでいたとしたら、彼女はもっと以前に(トリスタンが傷ついたその後に)自ら死を選んだのではないだろうか。しかし、彼女は死なず、そして彼の傷を治しに来た、トリスタンと死ぬためではなく、ともの生きるためであるように思える。彼女はトリスタンの行くところならば、どこでもよかったのではなかろうか。

第3場は、マルケ王やらブランゲーネ、メロルトなどが到着し、ひとしきりチャンバラ劇が繰り広げられ死体の山が築かれる。しかしこれらは刺身のツマにもならないような出来事だ。マルケ王の嘆きの歌さえ、劇進行にはまったく関係なく、ただむなしく響く。割愛しよう。



最後はかの有名な「イゾルデの愛と死」だ。彼女の歌は、もはや現実を見ていない、完全に没我の世界でトリスタンとの至福の時間を過ごしているようだ。ここで思い出すのは、タンホイザーでのエリザーベトの死だ。彼女はタンホイザーの贖罪を購うため自らの命をマリアに投げ出した(ことになっている)、いわゆるエリザーベトの聖変化である。わたしはここでも同じような思いにとらわれる。イゾルデが、何か聖なるものに変化しているかのような印象を音楽全体から受ける。ただ、エリザーベトのように誰かを救済するという姿ではない。しかし、いままでの世俗的な不倫の主人公から、一段と高いところに登ってしまったかのようだ。しかも、彼女は全く健全な身でありながら、至福の喜びに包まれながら、剣も毒も用いずに、自らの意思で死ぬのだ!!! おお、このようなことが信じられようか。ワーグナーというのはいったい、何と言う愛と女性を描いてしまったのだ。トリスタンが一歩先の天国(地獄か?)で小躍りしているのが見えるようだが、一方で、このような女性を表現してしまったワーグナーの、とてつもなく屈折した感情を感じてしまう。

ここでの音楽はこの世とも思えないような(今までに何度も聴いてきた)美しい愛の音楽である。そして十全たる和音でやっと、いままでのウネウネとした不協和音は解決をみることになる。4時間の巨大なる1曲という意味もここにある。最後の解決された和音を聴いていると、しかしながら、この荒唐無稽とも思えるラストのあり方に、疑問と違和感を理性では覚えながらも、またしても深く大きな至福と感動に包まれているのに気付くのだ。


■ トリスタンとイゾルデって、いったい何歳なの

CDの解説を読んでいたら、意外なことに驚かされた。トリスタンとイゾルデは、18歳そこそこであるというのだ。クルヴェナルやブランゲーネも同じような年齢なのだとか。ちなみに、マルケ王は30歳。

なんて、早熟なガキども! ガキの恋愛話に、いい大人が感動しているというのか、と考えるとちょっと白けてしまうが、日本でも昔は元服は15歳であったものなあ、まいいか。ワーグナーのスケベ親爺が《トリスタン》を書いたのは40歳前半、スケベ親爺じゃなくて、スケベ中年の時代であったわけだ。やはり屈折している!


■ ショーペンハウアーって・・

哲学を全くかじったことがない私に、ショーペンハウアーを解説することはできない。ワーグナーは《トリスタン》作曲中に、ショーペンハウアーの「意思と表象としての世界(Die Welt als Wille und Vorstellung - The World as Will and Representation)」(1818)を何度も読んだらしい。ショーペンハウアーの厭世的な哲学感が《トリスタン》に通低していると指摘する学者や研究者は多いらしい。かの、トマス・マンもそのひとりである。

生存への努力はむなしいもので、苦しみからは逃れることができない、楽しみは苦しみかを解放することはなく、苦しみから逃れるためには、意思の否定しかない、というような哲学らしい。意思というのは、will と訳されているが、「本能」「衝動」「欲望」というような意味合いらしい。彼の「意思の否定」というものが、ともすると仏教思想と通ずるものもあり、たとえば、ワーグナーの晩年の《パルジファル》に、ショーペンハウアーや仏教と通じるような哲学があると指摘する研究者もいるらしい。

しかし、《トリスタン》においては、あからさまな「愛の賛歌」がうたわれている。とてもショーペンハウアーの「意思の否定」というような精神は感じられない。

この点については、トーマス・マンは「リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大」(1933)の中で、ショーペンハウアーの「意思の否定は倫理的知的部分であって、本質にとってはそれほど重要ではない。それは二義的なものである」とし、ショーペンハウアーの影響を否定する説に異を唱えている。

先にも書いたが、哲学書を全く紐解いたことのない私には、とうてい解説できる内容ではない。それに《トリスタン》へのショーペンハウアーの影響の有無を考えたところで、作品そのものの価値に変化が生じるものでもない。よく分からないので、ここらへんでやめておく。


■ トリスタンとイゾルデの聴き所は

印象的な場面は多い。しかし、《トリスタン》はどこの断片も全体との連続性に存在しているため、そこだけを取り出して聴くことを拒否しているように思える。よく聴かれる「イゾルデの愛と死」でさえもだ。聴き所を抽出する作業を考えるだけで、私は眩暈がしてしまう。




おしまい。ここまで読んだあなたはエライ!