永田町方面から赤坂見附。
サントリービルの裏側に高層ビルが建設中です。
時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
今まで、氏の「予言」が的中しているか否かについては自ら検証してはいない。本書に書かれていることも10年先の未来のことではなく、まさに今年の事であるから、とりあえずメモしておこう。本書の要約はこうである。
副島本に共通する話題であるから、新規性は乏しいか。この話を信じるか否かについては賛否があろう。サブプライム問題を思い出しても、日本は当初は軽く見ていたらダメージは深かった。グリーンスパンが「100年に一度の危機」と称したが、思ったよりも早く経済は(日本を除いて)回復基調だ。マスコミは何を伝え、何を伝えない(知らない)のか、素人が経済新聞を読んでいるくらいでは、実際のところはよく分からない。
混迷は深まるばかりで、このような不安を政治的に払拭しようとする動きは全くに見えない。将来的に不安しかない状況が今の日本の現状であり限界なのであろうか。
丸の内パークビルのグランドオープンと同時に開館記念として『一丁倫敦と丸の内スタイル展』が開催されていますので、さっそく観て来ました。
多くのお客さんは、パークビルに入るテナント(ブランド)店に興味があるご様子で、幾つかの店には行列ができています。私はそれを横目に窓口で500円の入場料を払って1号館見学です。三菱地所の丸の内開発の歩みや、当時の日本の風俗資料などが展示されており、それなりに楽しめます。しかし圧巻は、本建物を復元させた、そのメイキングドラマにあります。
日本というのは、戦前戦後の名建築と呼ばれたものを、老朽化、陳腐化、土地の有効利用、耐震性向上など、さまざまな理由を付けて壊し、新しい(更に陳腐な)建築を作り続けてきました。最近では東京郵中央便局がマスコミの話題となりました。
歌舞伎ファンの間では東銀座の歌舞伎座建替計画も物議をかもしています。東京駅丸の内駅舎は創建当初の姿への復原工事が進行中です。三菱1号館はJ・コンドルの日本での代表作ともなる建物。明治初期の丸の内に赤レンガの英国風町並みが出現し、馬場先通りは「一丁倫敦」と称されました。
建設当時の図面や解体当時の写真などを参考に、三菱地所や学者、設計者、施工者など多くの方々が関わり、多大な情熱と労力をかけて復元したのが本建物です。できるだけ忠実に当時の技術を再現というコンセプトで、外壁のレンガも、手すりや避雷針の鋳鉄も、そして銅製の雨樋も、ドーマ飾りも、現代の職工の技術の粋を集めて作り上げています。
メイキングのビデオも流されていましたけど、それはそれは、気の遠くなるような熱意と執念です。鉄製避雷針は鍛造で、鉄製連続手すりは鋳造で再現されています。ドーマ飾は生の銅板金を叩き出し、経年変化で緑青が自然な色合いに変化することを期待するという拘り方。
明治の技術復元は当時の耐震技術にまで及んでいます。煉瓦の間に「帯鉄」と呼ばれる補強鉄板を挟み込んだ構造は、現在でも耐震効果が期待できるのですとか。煉瓦の製作は中国。当時の煉瓦の肌合いを再現するため、ほとんど手作業に近い工程で230万個もの煉瓦を製作しています。下のパンフレットの右写真が煉瓦工場で型に土を詰めている作業風景。本展を観に来ていた若い女性が「肌合いを再現するためですって!?」と、ほとんど煉瓦フェチとも言える様な執着に驚きを通り越した気持ち悪さを表明していたのは印象的でした(笑)。一個3kgの煉瓦を日本中から集めた煉瓦職人がひとつづつ積み上げた。屋根は本来は宮城県雄勝産のものであったのですが、量を確保できないためこちらはスペイン産の天然スレート。内部も、当時の空間を再現しており、木製の扉のや窓の金物ひとつとっても、いったい幾らかけたんだろうと余計なことを考えてしまいます。
展示室の最後には、本建物の復元に関わった職人の写真が、ドドーンと並べられており、これまた圧巻。いくらお金持ちやアタマのいい人たちの熱意と執念があっても、しょせん建築は泥臭い「ものづくり」の過程を避けることはできません。彼らが居てこその建物であることは確かに覚えておいて良いでしょう。
全てが特注品の建物。最近の建築物がのっぺりして、どれも金太郎飴のようでつまらないとお嘆きのあなた、歴史好き、建築フェチなあなた、きっと満足すると思いますよ。
感想というよりは、この長大なる小説を理解せんとして、読みながら書いた備忘録のようなもの。まとまった文章にはなっていませんので、ご容赦ください。最後は(自分で言うのもなんですが)支離滅裂になっています。
晴子と彰之の母子の物語であった「晴子情歌」続き、榮と彰之の父子物語となっている。叙事詩と言っていいほどに、語りが深く長い。政治家の一日にしても、曹洞宗の作法や教えについて、あるいは出家時代の話にしても、ここまで克明に語りつくすことが本当に必要なのか、何のために書いているのかという気になる。辛抱のない読者は最初の数十ページで投げ出してしまうかもしれない。小説の長さや改行のない文章について不平や苦痛を表明する人は多いようだ。瑣末的な事象、特に曹洞宗などに関する哲学問答に関する批判も多い。
しかし、本当にこの小説は「長すぎる」のか? 私は否と考える。それが高村氏の小説作法なのだろうと。瑣末な事柄を積み重ねることでしか見えてこないものがある。それは彼女の小説で一貫しているし、研ぎ澄まされることはあったとしても、緩むことはない。
彰之がこれ程の修行を通しても仏教的境地には達することができなかったという挫折感を書くためには、あえて冗長なる文章を連ねる必要があったか。あるいは、榮の永田町での一日も同様。政治家の一日とはどういうものか、政治家とは何を考え、どういう人種であるのかということを彫琢しようとするならば、克明な一人称的記述が適切との作家としての回答であったのだろう。
最初の数章の「くどさ」は皮膚感覚として強烈な印象的を残す。あえて瑣末という批判を覚悟で描ききった高村氏の筆力に私は脱帽する。何だか分からない力に押されて、とにかく読む進めるというのが、本書に対する読書作法か。高村氏は小説にミステリーどころか、ストーリーも求めてはいない。それを求めると裏切られることは『晴子情歌』で経験済みである。
本書は1980年の衆参同時選挙の頃を舞台としている。保守崩壊を予測したと帯にあるが、奇しくも2009年8月30日の衆議院総選挙では、保守逆転、初めて自民党が政権野党に転落するか否かが焦点となっている。
本小説では、政治とは政治家とはいかなるものか、ということが書かれているように思われる。政治とは我々の生活そのものであるという前提であれば、我々の代表としての政治という段階で、政治はある団体の利益代表であることを意味する。政党をpartyすなわちpartということからも、政治は誰かの代表であり、誰かの代表ではない。
高村氏が青森を舞台に政治を書くことを当初から意図して『晴子情歌』を書いたわけではないことは本人のインタビューにより明らかにされている。それでも戦後政治を書くにあたって、辺境の地と書くと地元の方には失礼を承知だが、まさに適切であったといわざるを得ない。
高村氏はクリスチャンであるのに、なぜ宗教の中で仏教をテーマとしたか。初期の作品から私は「解放と救済」のテーマを読み取った。ドン底からの救済であったとしても、最後に他律的な解放であったとしたら、余りに小説的ロマンでしかなく、現実味がない、あるいは最終的な救済に安易さを感じたことも確か。
それがキリスト教的な救済であるということではないにしても、解放の果実を得るにはもっと厳しい道程があるのではないかと。そういう観点から、修行を通じて悟りにいたるという仏教がテーマとなったか?
クリスチャンといえば高村氏もクリスチャン。それなのに曹洞宗の教義について、あそこまで深く掘り下げて挑んだということに興味が尽きない。禅宗的形而上世界での悟りと埴谷雄高の認識論的なものと対峙させようなどというテーマは、私にはちょっと壮大に過ぎ、これまた手に負えないという感じ。日経新聞で評判が悪かったのもむべなるかな、朝の通勤途中に読むには重過ぎる。(もっとも、渡辺淳一の小説も、朝から読む小説とは思えなかったが、こちらは人気を博したことは記憶に留めておいてよい)
小説の主人公になっている団塊の世代と私らの世代では思想的背景において新人類は大きな隔たりがある。たとえば丸山にしても吉本にしても、あるいは埴谷にしても、学生時代の読むべきときに読まなかったことを深く後悔するばかり。ドストエフスキーとかシェークスピアだって読んだと言えるか、だ。
父と子の微に入り、細にわたる応答は、政治と宗教の現実、理想化されていない意味において、身体的ともいえる実態を語ってはいる。その可能性と限界。
例えば政治は人間の生活そのものだとして、政治家は理念と理想を語るが、地元民、選挙民は具体的な見返り「銭コ」を求める。目先の地域振興と経済だ。かつての保守政治は、地元利益還元の代表として機能した。一方で宗教は、人の精神活動の一端といえるか。しかし菩提発心して悟りを求める修行を行っていたとて、禅的悟りにはいたることのできない中途半端な彰之がいる。あるいは酒呑みのナマクラ坊主としての内和田和尚だ。聖というには余りにも俗。それでも俗人の先頭に立つためには、聖であらねばならぬ。
いやいや、政治と宗教の対立は上巻には見られない。榮は雲水としての彰之の考え方こそ追求するが、それはわが妾腹の息子が何者であるのかを確かめたいがため。異物か自分の後継者かと。一方の彰之は「縁薄い」関係のため「生き直す」として送行し、冷静かつ無垢なる目で政治の現実を語る。
この両者が交わるところはあるのか。改めて両者を考える。全く父子という関係も感情も持たなかった二人が、一方は権力と地位を極めた自民党保守の代議士として、一方は仏家(雲水)として対峙する。
上巻に描かれるのは1987年の永田町、そして1980年福澤が絶頂期。しかし、その絶頂期のときに足元に忍び寄る影を、互いに二人は確認している。榮は衆参同時選挙の大勝利により、一時的にその影を短くしたとしても、息子優から感じる世代の違い、違和感と不信を拭うことはできない。
一方で彰之の心情も全く不明なまま。なぜ東大卒業の後、北転船に乗り込むというような進路を、そして上陸のたびには寺に通い、ついには出家してしまうのかという経緯については語られることはない。しかも初江との間にもうけた秋道の存在がどう展開するのか。一方で、榮がなぜ国会から脱走してきて青森にまで来たのか。さらに、滞在を秘書にさえ伝えず、彰之との対話が完結しないため滞在をずるずると延期するという異常さ。その理由も上巻では語られることはない。しかし、互いに失意と挫折の中で、互いの心情を次第に吐露し始めているということだ。
上巻を読んだ段階で、いくつかの読者評を拾い読みしてみる。どれも隔靴掻痒、咀嚼もできず感想にさえなっていない。しかしその中でひとつの指標もないわけではない。
彰之が仏門に入った理由。仏門の目指すところは菩提心、すなわち自分を超え一切の因縁から解脱し仏教的悟りの境地に至ることであるとする。彰之が捨てたかった因縁とは、すなわち福澤家という血統、血縁、まさに血族、自らの出生であったか。その自分を自分として成り立たせているものから解脱=解放を試みるということ。
一方で、福澤家の因縁全てを背負った父榮は、その縁を最大限に利用して成功し、またその縁により裏切られる。個人の生き方の両極端を象徴する父子が、政治と宗教という枠組みの二重構造の中で対峙する。やはりそこに和解と理解はあるのか、あるいは対立のみか。彰之は現世の縁を生き直すことで再度それを捨てるという解放を得ることができたのか。
「政治家と僧侶。二人の対照的な父子が交わす対話から、戦後日本の転換点が見えてくる。」そう、戦後政治の転換点ではない。戦後日本の転換点。秋道に対してこれが日本政治の結論かと嘆く榮。戦後日本が生み出したものが何であったかを問うているか。考えてみれば、団塊の世代の哲学論についても同様か。神なき後の理性による世界の認識とその敗北。確かに高村は「政治」というものを書いたが、政治の先にあるものは何か、それは日本のありようであり、すなわち日本人の生活と生き方そのものではないか。何を重視し、何を求めてきたかということ、それは極めて政治的な帰結であるといえる。簡単に「政治」というが、政治とは何かだ。
現代日本のありよう、精神的、政治的混沌と低迷は政治と宗教に因を求めるのか否か。
こうして上巻を読み終えて考えてみると、何も始まっていないし、何もまだ語られてはいない。そういう意味では、後半に「動」があるとするならば、まだその前哨でしかないのかもしれない。父子が一体どういう境遇にあって、いま二人は対峙するに至ったのかという。
進みが遅いといわれるかもしれないが、非常にスリリングな展開であるともいえる。上巻では二人の人物像が幾重にも語られてきた。今後、二人の言葉の中から、何が剥ぎ取られ、何が見えてくるのか。あるのは対立か理解か、あるいは絶対的な孤独か。
高村氏は何ゆえに仏教をテーマとしたか。阪神淡路震災のあと漠然と次は仏教だとは思っていましたが、とくに宗派は考えていませんでした
と本人は語っています。キリスト教にではなく仏教をテーマを求めたことの真意は私には分かりません。彰之が我執からの解脱=悟りを目指したということは、我執、すなわち自らの福澤的なるものからの解放ということになりましょうか。
一方で、その福澤的なるものの代表であり、更には日本の戦後保守政治を代表として登場する榮。その榮が対峙するものは我執を捨てんとする彰之と、自らの政治人生を否定するかのごとき優という二人の異母兄弟であるという、75歳にして到達したこの絶対的な孤独。榮は彰之が理解できずお前は一体何者なのだと問い続ける。ああ、いったいに高村氏は何を下巻に書こうとしたか。
高村氏いわく。
私の世代は、何かを語ることは~書くことも同じですが~、自分が人間として生きている証なのです。彰之もそういう世代です。だから、あれだけの言葉が出る。
言い換えれば、『新リア王』は80年代半ばだから成立する話です。2005年だったら成立しないですよ。父も語らないし、息子も語らないでしょう。
仏教論争の印象が強かった上巻だが、後半は保田英夫の死に向かって物語りは収束していきます。最後の終結の場面は、あたかも探偵小説の謎解きの場面を彷彿とさせます。しかしながら、小説形式が最後まで「対話」に終始することは変らず。ひたすらに「語る」ということが意味を持っていた世代や時代の物語を書ききったということなのでしょうか。
榮は息子優の造反を裏切りととり、小説最後で自ら福澤王国を解体してみせます。その後に残ったのは、もはや孤独でしかなく。そのときに初めてか、彰之の仏道に入りきれない緒縁と彼の孤独を理解し、もしかするとこの4日間において、一番理解しあったのはこの二人であったのかもしれません。
政治的風景は、単なる世代交代ではなく。戦後政治の代表たる榮、リベラリズムを目指す優、微妙に立場を変える官僚のなど、80年代から日本が徐々に舵を取ってきたありようが、彼らの対話の中に凝縮されています。民主党政権が圧倒的な勝利を収めた今回(2009年8月)の衆議院選挙を待つまでもなく、高村は保守の崩壊を予測しました。現実世界では、ニューリベラリズムの崩壊としてではあるが。
榮は利益再配分の戦後政治、田中型政治を体現してきた人物として描かれますが、2人の息子はその政治のあり方に造反する。3人が政治的対話を行っているシーンは、まるでドストエフスキーの小説のよう。微妙に立場の違う二人の息子を榮はついに理解できず。深い溝が残る。
戦いの結果は息子に軍配が上がるが、本当に勝利したのかはについては描かれない。息子の勝利により福澤王国どころか地方的な血族までもが崩壊するのは象徴的。日本の政治的風土が変革し、日本の戦後のいくつかあの神話が崩壊して行くのは本作品よりも後になる。
1980年代に宗教は明らかに死んでいたい。しかし別な形で宗教がまたは心の問題が取り上げられる時代を準備していたという点において、新リア王はまたしても次なる作品の序章でしかないことに気づかされる。新リア王は結論も解決も提示しない。一つの時代の崩壊を描ききったという点で、その小説の持つ内的世界は凄まじく大きく昏い。
全体として作品を眺めれば日本人としての方向性、それも戦後地方の貧しさから出発し、国民が同じ夢を見た時代から個人主義、ニヒリズム、ポストモダンと近代を否定し混迷の時代に突入するそのまさに転換期。 政治が変ったということは人間の心のありようも変ったということだ。
政治が人民を救済しえなくなったように、宗教も衆人どころか個人さえも救いはしない。 理念とか理想とかの共通認識が崩壊していいく。 本来的には共同や個をまとめるのが政治と宗教の役割であったとしたら、その双方が変質してしまった。
次なる時代に日本は阪神淡路のカタストロフを経験し、さらにオウムへとつながる。高村の関心は当然にそこに向かわざるを得ないだろう。
感想をまとめるに当たり参考にしたサイトを順不同で列記しておく。
衆議院議員選挙は、蓋を開けてみれば民主党の単独過半数確保、絶対安定多数確保の圧勝という結果で終わった。風が吹いたというより暴風というのが印象でしょう。
民主党の圧勝の理由として、国民の多くが、自民公明による一党独裁に近い戦後政治に嫌気がさしただとか、小泉政権が生み出した格差に対する不満とか色々な理由ありましょう。小泉政権下での郵政民営化を争点として争った前回の衆議院戦況。あの時は、鳩山代表などが伸び悩む当選者の報を前に暗い顔をしており、立場は逆転したものの、全く今回と逆の風景であったと思い出します。これが小選挙区制の怖さと言ってしまえばそれまでではあります。
今回の民主圧勝について考えるに、小泉政権が誕生した2001年あたりから、自民崩壊の芽は顕著になってきたのだと考えています。小泉氏は「自民党をぶっ壊す」というキャッチフレーズで、当初、国民の圧倒的な人気を獲得しました。小泉氏が持ち込もうとしている政治とか制度が何であるのかも理解せずに「変革」というムードに乗ったというのが当時。それと同様に、郵政を象徴的なものとして「解体=改革」するというイメージを刷り込み、自民分裂に追い込みながらも、自民対自民の構図を作り上げ与党圧勝を演出したのが前回の選挙。世界同時不況後の米国でのオバマ旋風は「改革」を旗印にしたエネルギーを感じ、翻って更にわが国の閉塞感に、みなもう嫌気がさしていたというのが本音か。マニフェスト選挙とか言われたとしても、民主党を完全に信頼するほどに国民もバカでも無知でもない。しかし、それであっても自公政権の顔ぶれとやり口には、もうウンザリというのが正直なところでしょう。
ですから、積極的な選択としての民主党支持ではありえず、あくまでも私はムードとしての変革であるのだと考えています。民主党が今後どのような政権運営をするのか。民主党政権は、小泉政権の進めた規制緩和と市場主義(新自由主義)の反動からの格差社会を是正することを目的としています。当面は外交問題などよりも、弱者救済、セーフティーネットの拡大、既得権益からの利益再配分、平均的消費拡大による内需拡大とその結果としての経済再生という方向で考えるのだと思います。
それはそれで悪くはありませんが、結局は限られたパイの中での利益再配分ですから、誰もが果実を得られるわけではなく、それに気づいたときには、どこかから反発と反動が生じることは予測されること。国民の圧倒的多数による支持政党というのは、もはやファッショでしかありませんから、それほど民主政権が安泰とも思えない、いずれまた反動が生じるのではないかと考えています。
東京オペラシティ アートギャラリーで開催されている『鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人』を観て来ました。
今回の展覧会は、鴻池さんの作品を「地球の中心への旅」をテーマに再編成したもの。展示場そのものが、作品を「体験」するような構成になっており、全体が大きなインスタレーション空間であると言えるかも知れません。詳細な説明は、公式HP(→http://www.operacity.jp/ag/exh108/index.html)かtakさんの『弐代目・青い日記帳』をどうぞ(→http://bluediary2.jugem.jp/?eid=1825)
鴻池さんの作品は、グループ展や絵本、挿絵などで観た事がある程度でして、こうしてまとめて鑑賞させていただくのは初めて。イマジネーションの抱負さには感心します。繰り返し用いられるモチーフの持つ意味とか、ついつい深読みしたくなりそうですが、どうやら鴻池さんの作品に、あまり「深刻」を求めるのは野暮のようです。どうして子供の上半身がないのとか、どうして下半身が人間なのとか。「見えない子供の上半身を見つけようとしてもムダ、それはもともとないのだから」という鴻池さんの挑発。イメージを爆発させるためには、美術館なんか徘徊していちゃダメだと。
何と言ってもテーマが「神話と遊ぶ」なのですから。最初の襖を入り、だんだんと「地球」の奥に入っていくという「体験」は、なかなかスリリングです。彼女の絵本の原画などを観てわき道にそれつつも、だんだんと地底深くに入っていくという、謎めいた体験。次に何がくるのか分からないので、例えは悪いですが「お化け屋敷」のようなワクワク感があるといったら良いでしょうか。
地球の中心の部屋はまさに驚きの一言。入った瞬間に「わぁ!」と声が出てしまいました。こうくるかと。眩暈のしそうな空間。乗り物酔いがある人は気分悪くなるかも、です。私はその芳醇なイメージ世界に思わず見とれてしまいました。ガラスと光の空間は、彼女の他の展覧会写真を見ると、これもよく使うモチーフ。でも使い方一つでこうなるかと。
「地球」というもののなかに、彼女の好きなものをギュっと詰め込んだ展覧会。彼女のエネルギーの一端に、あるいは自らの創造力のパワーに脱帽。彼女は、「ほら、こっちきて遊びなよ」と誘うけど、実は彼女の内実は、創造のステージにおいてはギリギリまで自分を追い詰めているようで、作品の厳しさを見せ方で覆い隠しているような雰囲気は感じましたね。ただ延々と普通に彼女の作品が壁に並んでいると、ちょっとつらいかも、です。
30日の選挙が近づいてきた。民主党が300議席確保かなどと新聞や週刊誌では予想されている。もはや政権交代は既成事実のような雰囲気さえある中で、自民党の民主党に対するネガティブ・キャンペーンも熱を帯びてきている。「一度でも民主党に政権を渡すと破滅」などと、まるで麻薬か何かのような書き方だ。英ファイナンシャル・タイムズ紙では、日本も一度ギャンブルをしてみては、などと揶揄される始末。
野党の政策を並べてみても、民主、社民、共産、新党日本など、微妙な部分での食い違いはあるため、民主の圧勝という結果は政治風景として望ましいものではなかろう。民主の中でも党員の出身母体から寄り合い所帯という批判もある。しかし、政権を取ればある程度まとまることは期待されようし、逆にその多様性が政策的議論も高まるということもある。
何と言っても、私たちは自民党政権しか経験したことがない。現状の閉塞感から「変革」を求めるムードだけで決定されてしまうことに恐れがないとも言い切れない。政治は対立を含む。対立とは並存する利益団体とそれに属する者たちと属さない者たちとの対立であり、パイが限られているならば利益の再配分を意味する。そういう点において、現在の政治風景は自分たちの利益代表が誰であるのかが見えにくい。地方農民にも都市農民にも、中小企業社員にも大企業社員にも、あるいは子供のいる家庭にもいない家庭にもフィットする政党の存在ということそのものに無理があるように思えます。
ランニングもやったりやらなかったりですから、ちっとも走力が付きません。どこかのマラソン大会に出るとかいうよりも「健康維持している気持ち」程度の目的に成り下がってしまいました。これでは湘南マラソン出場を目指している友人や東京マラソンに出ている同僚に「走っている」と自慢することもできません(><)。
しかし気を取り直してマイペースです。今年の夏は梅雨明け以来、あんまり暑くなりません。休日の今日も曇天で、気温もせいぜいが30度程度。早朝というには遅い時間(8時過ぎ)に走ったとしても、ジリジリと太陽に照らされ消耗するということもありません。いつものJ公園を1km6分のペースで5km走り、2分ほどストレッチした後にもう一度5km走ります。あまり暑くありませんから、トラックに行って800m2分走を2分程度のインターバルを置いて3セット。これくらいが今の限界です。
J公園は、石原都知事がこのごろ手を抜いているのか(笑)、烏が増えたような気がします。びっくりするようなデカい烏が梢からこちらを睨んでいます。蝉の鳴き声もひっきりなし、ミンミン蝉よりもアブラ蝉の方が多いかな。公園の人工的な流水はサラサラと涼しげな水音をさせ、野球の試合の歓声が聞こえ、老人たちのゲートボールの姿が見えかくれします。こういう風景を「平和」とか「幸福」というのだろうな、と思いながら走っています。
8月30日の衆議院議員選挙に向けて、各党のマニフェストが出揃いました。今回は「政権選択選挙」なのだという触れ込みで、民主党は悲願の政権奪取に向けて必死です。対する守りの自民も日本を守るのは自民だとばかりに抗戦しています。
マスコミはやたらと対立軸をあおりますが、そもそもが、自民も民主も「誰に向けての政治」であるのかが問題です。自民はかつては農村票を母体としていました。今では農村支持は民主のものでしょうか。都市の浮動票やサラリーマン票を狙うのは自民なのか民主になるのか。
「<国民>の生活を守るのはどの政党か」と麻生首相は問いかけます。格差社会を増長させ経済を疲弊させたという反省と責任は自民にはないかのごときです。しかし<国民>と一言でくくれるほどに、日本は単一ではない。都市住民も居れば、地方住民、農漁村住民も居ます。農民であっても都市近郊農民と稲作農家では全然違う。新富裕層も年収200万円世帯も<国民>。高齢者とか子育て世代、あるいは大企業、中小企業、役人とか自営業とかの軸もある。疲弊した産業には<国民>ではない労働力も注入されている。
各政党は誰の利権を守ることを政策の基本としているのか。逆に言うと、自分の属する枠組みをどこの政党であれば守ってくれるのか。<全国民>が、今よりも更に<利得に与る>社会は目指しようがないことだけは確かか。
<国民>という枠組みが複層的な枠組みの中にあり、それぞれが何らかの「既得権益」を有し恩恵にあずかっている。昨今の派遣切りとかフリーターは、既得権益から完全に排除された人たちといえます。既得権益は時代とか世代により異なり、本人能力を超えた偶発的な要因で決定されることが大きくなってきている。これは不可逆な流れなのか。政権を代えれば流れが変わるのか、漠とした期待はあっても実は誰も分からない。
日本は、そして日本の政治システムは疲弊しているという見方は当たっている。<疲弊から回復した後の日本>をどれだけイメージできるか。ここは観念的ではありますが、もう少しマジメに考えられても良い。
近所のコンビニで「川越ビール COEDO」なるものをみつけました。ラベルにはモンドセレクションやら欧州最大食品品評会iTQIでれ族三ツ星受賞とか華々しい経歴が。
5種類発売されている中で、コンビニには4種類のビールが。
地ビール系のアクのある味を想像していたら、以外に味も個性もあって、なおかつある程度の洗練も感じられる。確かにこれはおいしい。特に黒ビールの「漆黒」と川越産金時薩摩芋を使った「紅赤」は甘口ながらもなかなか。私は結構、甘口のお酒も好きなんですよね(クリーム・シェリーとか、貴腐ワインとか、本当においしいですよね、普段は飲みませんけど)。
本格的なビール好きの方からすると、物足りないという感想もあるようで。ベルギービール好きの私としては、 こういう個性的なビールを手軽に飲めることは歓迎です。味のあるビールでアルコール分が多少強いですから、ゆっくりと楽しむこともできますし、ちょっと贅沢な時間を過ごせます。
川越は目と鼻の先ですから、夏休み中に行ってみようかなどと考えています。
今度の総選挙では民主党を含む野党が地すべり的に政権を奪取するのではないかとの期待が多い。衆議院の定数480議席に対し、現在の野党は146議席(民主112議席、欠員2議席)ですから、過半数を獲得するには97議席以上の議席数の獲得が必要となります。自民公明が334議席が240議席以下になることを意味しますから実に3割も議席数を減らさなくてはならない。
前回の2005年の衆議院選挙では、自民が84議席も議席数を伸ばし、反面民主が64議席を失いました。小泉首相の郵政選挙での圧倒的な勝利であったとしても、この議席数です。このときほどのインパクトを持って政権交代となるほどの議席数の移動が本当に生じるのか予断を許しません。
2001年に小泉内閣が生まれたときを思い出します。<国民>は<改革>という言葉に酔いしれ、<小泉政権>を熱烈に支持歓迎しました。その当時、<小泉政権>が実現する<世界>がどういうものとなるのか、<痛み>とは何かを具体的にイメージできていた人はどのくらいいたでしょう。余りにも<国民>はイノセントでありすぎはしなかったか。
そして今回、<政権交代>という果実のみに着目することも、当時と変わらないイノセントさと<世界>に対する不明を思わずにはいられません。かといって、解決方法も見つかりませんけど。
クラシック音楽界で今年に入ってから黒田恭一さんなど鬼籍に入られた方は多い。その中で、黒田氏の訃報には反応しない私ですが、『カラヤンがクラシックを殺した』宮下誠氏(國學院大學教授)の突然のそれには驚かされました。5月22日か23日に、出張先のホテルで心不全で亡くなったとのこと。春先に入退院されていましたから、そのことと関係があるのでしょうか。詳しい情報は分かりません。1961年生まれですから、私と同い年なんです。
氏のブログは死の直前、5月15日「不在の代償」が最後になってしまいました。リンクしたページもいずれネット上からは消えてしまうかもしれません。
氏の提示した考え方には、クラシックファン以外の方々も反論を申し立てました。かなり激しいやり取りがネット上でかわされたようです。特に2チャンネルのそれは、凄まじかったと氏はブログで書いていました。私はそのような「熱い」議論に興味はありません。それでも、氏が提示した「音楽とは何であるのか」というテーマが投げかける社会に対する問題提起は、私にとっては小さくはないものであっただけに、氏の訃報を残念に思います。
『カラヤンがクラシックを殺した』の激しいやり取りの後、氏が2月16日にブログで書いたコメントを引用しておきます。
(上記書に関しての2チャンネルでの論戦、そして筆者の不明による謝罪などを説明した後に)しかし、そのような措置には、膠着状態が長く続き、文化の貫流が淀み、腐臭さえをも発している今日を生きる筆者の、絶望に裏打ちされた怨嗟と、明日への希望に対する渇望があった。何よりも、「目に見えないもの」に対する敬意のあまりの軽視への灼熱する怒りがあった。これだけは誤読されてはならないと思う。傲慢だが、これについてだけは大多数の同著に否定的な読者は間違っていると思う。
今日の文化、芸術、社会状況を肯定的に是認しうるだろうか?
(中略)
衆愚は良質の文化を、己の間尺に合わせて切り刻み凡俗へと凋落させる、恐ろしい力だ。権力だ。
こういう認識を現代社会で持っている方は、生き難いと思います。氏の前提である現代社会の「悪意」「世界苦」そしてそれゆえの「絶望」が理解できないと、氏の主張は「ハア~?」てなもんでしょう。真摯に哲学的なんです。
氏が指摘したかったことの一部は、『アレグロ・オルディナリオ~マーラーを中心としたクラシック音楽のことなど』というブログの「『カラヤンがクラシックを殺した』を創造的に読むために。(前編)」が、サブカルチャーと自我という点にまで敷衍し、非常に端的にまとめてくださっています。
氏の『逸脱する絵画』『迷走する音楽』も買っておかないと、絶版になっちゃうかもだな・・・。
しかし、よく考えると経済というか日本が、バブル時期の20年前と何も変わっていないこと、あるいは、新自由主義が崩壊した世界においても、相変わらずの対米追従であり、自国の論理を構築できないままの未熟国であることが露呈されたたに過ぎないのかもしれません。ドルの崩落の危険性について下村氏も指摘していますが、今でも同じ論調の本はあちこちに山積です。
下村氏は全8章で同じ理論を繰り返しています。下村氏は、とにかく「アメリカの言いがかりと詭弁」に怒っています。高名な経済学者でありながら語り口も平易ですから、読み物としてもあっという間に読めますし、イロイロな意味で深い感銘を受けます。
骨子はこうです。アメリカ国見一丸となって借金をしてまでの消費狂いのせいで双子の赤字が生じている、それを他国(=日本)のせいにして日本国内消費を増やせだの、輸出を減らせだの文句を言うことはオカシイ。キサマラこそ借金を止めて消費を縮小せよ。日本は輸出が減るから生産は減るけど、他国の消費に頼ってバブルを謳歌していることこそ間違い。生産を縮小して身の丈にあった経済に戻りなさい、というもの。
下村氏は、多国籍企業やグローバル経済にも異を唱えているようです。自由貿易やグローバル企業は進出先の産業を弱体化させ食い物にするというような植民地時代の考え方が今でも生きていると主張します。競争力の弱い自国の産業は保護が必要であると。
20年経った今でも、アメリカの消費はいよいよもって狂気の域に達し破裂しました。今回の経済不調の原因が市場主義にあったわけでもない。確かにサブプライム・ローンとかCDSなどの金融派生商品を生み出した金融業者と、それに信用を付与し続けた格付機関には大きな責任があります。そして、そんなワケの分からない商品を買いまくった銀行とか保険会社にも責任の一端はあります。
サブプライムで痛い思いをした日本経済は、「新自由主義」とか「市場主義」の悪弊を言い募り「資本主義」のパラダイムが変換しつつあると主張し、「縮小均衡」や「保護主義」に向かうべきという主張が目に付きます。20年前の下村氏も同じことを主張します。アメリカが本気で経済を立て直す(赤字を解消する)気なら、GNP縮小を覚悟の上で「歳出削減」と「増税」しか道はない、日本も多少の痛みを覚悟の上で(数年前のレベルに戻るだけのことと氏は言う)縮小均衡に向かえと。
自国を見直し、大切なものは育てるという認識は正しいと思います。ただし、ここまでグローバル化した世界において、グローバル化そのものの流れを止めることはもはやできません。保護主義(バイアメリカン条項などもそうでしょうか)も一時的には効果があるかもしれませんが長期的戦略ではない。そんなことをしていたら、更に経済は硬直化し新陳代謝をすることなく縮小してしまう。経済が一時的にオカシクなったものですから、「内向き」こそが是、「節約こそが是」という風潮も、ゆり戻しの範囲であれば受け入れるべき点はありましょう。
怒りまくっている氏の最後の結びは以下のような文言です。
(現在の異常な経済運営を改めるなかで)ただし、その際、忘れてならない基本的問題は、日本の一億二千万人の生活をどうするか、よりよい就業の機会を与えるにはどうすべきか、という点なのである。
これは自由貿易よりも完全雇用、経済活動はその国の国民が生きていくためにある、という氏の一貫した理念は明確で力を与えてくれます。
友人と話していると、私は世間に対する認識がひどく甘いらしく、特に派遣とか非正規雇用とか、または最低年収に対する常識が現実とズレていると厳しく批判されます。森永卓郎が「年収300万円で生きる」みたいな本を書きましたが、今や年収300万円ももらえればいい方なのであると。そう言われてしまう私は、弱者に対する思いやりや視点が欠けているのだろうとなと思わざるを得ません。彼ら彼女らの生き方や痛みも分からないのだろうなと。
だから、本書を読んだ第一印象も、この小説に描かれるような生活とか境遇の人に対してのシンパシーが生まれてこない。何なのこの小説、ごく狭い世界の個人的なことが、ダラダラと綴られている、大人になりきれないオトナたちの生活が描かれているだけで、一言で言えば「退屈」。これが最近の芥川賞の内実?などと思ってしまう。大して小説なんて読んだことがないくせに、偉そうにです。
でも、読み終えて読み捨てたハズの作品ではあったのに、ずっとアタマの片隅に何かが残り続けている。あたかもポトスの根が、水鉢の中でグルグルと根を張るかのように、何かがひっかかる。そんなに無視していい作品なのかと、自分の欠落に目を閉じていていいのかと。いや、やはり「芥川賞」ということに、何がしかの「意味」を見出そうとしていたのかもしれません。
さして長い作品ではありませんから、再読してみました。すると、主人公ナガセが何をもがいていたのか、やっと見えてきました。
ナガセは年収の低さとか、派遣という立場とか、30歳になっても独身であることとか、そういう分かりやすい不安定さだけが問題なのではない。以前の職場ではパワハラと気違いじみたパワーゲームに傷ついた。そもそもが、働くとか生きるということに対する意味が希薄になっていること、ムリにでも自由な時間を潰し何かしていなくては不安で仕方がないという精神状態こそがモンダイなのです。
自分の時間や人生を切り売りしているその代償として、働く動機や確実な成果が欲しい。働くためのモチベーションを得るために『今がいちばんの働き盛り』と腕に刺青を彫ろうとします。あまりにリスキーな行動ですから思いとどまり、次に年収全部をためて世界一周クルージングをするということを目標にします。たまたま目に留まった職場のポスターで思いついた程度のものであったとしても、とにかくすがらなくてはならない。自分に対する報償、ささやかだけど大切な失地回復運動。
ナガセは小説後半でヒドイ風邪で職場を休むことになります。そして、彼女の中で何かが変化していきます。休んでいる間にたまたま会社がボーナスをくれて、はからずも世界一周のお金が溜まっということもありましょう。休んだら、自分が根本から変ってしまうのではないか
とまで思いつめ、それでもそこまでして維持して、それからどうなるんやろうなあ。わたしなんかが、生活を維持して。
と考えていた彼女。病気で床に伏したことが、彼女の周りは何も変化していないのに、彼女には何がしかの意味を付与したことは、前半と後半の小説風景をがらりと一変させるほどのものがあります。
私は小説のラストに向けてさらにナガセに不幸や挫折が訪れやしないかと不安だったのですが、作者はそんな意地の悪いことはしませんでした。誰もが「小説」や「映画」の主人公のように強くはありませんからね。葛藤に対する克服とかも用意しません。村上龍氏の選評であるコントロールできそうにないものを何とかコントロールしようという意志
でもありません。そんなテーマからは遠い地平に作者(たち)はいる、そういう「マッチョ性」から最も遠いことを描いているのですから。作者はもっと現実的なものを提示したのです。
それとて、本当にささやかなもので、大きなドラマでも事件でも何でもありません、解決でさえありません。しかし日常のそういうものをいとおしく思う気持ちがなければ、このつまらない人生(=作品世界)などに本当に意味などないのかもしれないと思ったことも確か。これはハケンとかだけの物語ではなく、働くとか生きる人全てに対する、ごくごく控え目なメッセージなんですね。
ととらえました。浅いかな・・・、まあ・・・文春もそろそろ「芥川賞」なんて止めたらとは思いますけどね。