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2001年11月26日月曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ベルリン放送交響楽団(東ドイツ)による交響曲第6番

指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ベルリン放送交響楽団(東ドイツ) 録音:1970 BERLIN Classics 0031432BC(輸入版)
同曲異演を聴くという作業に意味があるのだろうかと考える瞬間がないわけではない。何の為に聴き続けるのか、そして書くのかということを自問する。ある演奏を聴いて感動したりイメージが固まったとしても、それが曲の魅力を十全に表してるかというと、おそらくそうではないと思うのだ。作曲家ならぬ演奏家の解釈の介在が大きな要素として立ちはだかっていることを、別の演奏を聴いて気付かされる。同じ曲をいくつもの演奏で聴き比べるという作業は、傍から見ると僅かな差異に拘泥しているだけにうつるかもしれないし、聴く時の体調や主観の入る極めて曖昧な作業でもあることも認めざるを得ない。それを分かっていながらもレビュを書くという行為を続けてみる。
ベルグルンドは最新盤の全集を含め、シベリウス全集を3つ録音している。ここでは、あえてベルグルンドの全集版ではなく70年にベルリン放送交響楽団と演奏したシベリウスの6番に耳を傾けてみた。
シベリウスの6番のレヴュを書くに当たっては、先のデイビス&ボストン盤を繰り返し聴き細部を確かめてきたつもりであった。しかしながら、ベルグルンドの演奏を耳にすると改めて驚きと発見に満ち溢れており、シベリウスの示した音楽的世界に深く打たれる思いがするのである。
この盤で聴くとシベリウスの作ったこの交響曲が、立体的に浮き上がってくるようのを感じる。音楽の持つ構成美や構造などが明確になりそして、雄大さと敬虔さのなかで聴くものに大いなる感興をあふれさせるような演奏に仕上がっている。
断っておくが、先のデイビス盤が平坦で音楽的に優れていないなどと評しているのではない。先のレビュを書いた時点ではストレートで立派な演奏であると感じたし、それは今も変わらないだろう。しかし、ベルグルンドの形作った音楽造型と比較すると、デイビス盤は宗教的な風景絵画を思わせる。一方でベルグルンドのそれは、立体感を伴った迫力のあるトルソ(彫像)のような趣さえ感じるのだ。音楽の作り方は、ドラマチックであり、意外さと霊感に満ちていると感じるのだ。これは演奏の出来不出来という問題ではなく、おそらくはアプローチの違いによるのだろうか。
ベルグルンドの音楽を通して感じるのは、シベリウスの示した世界の限りき美しさ(と書いた瞬間に言葉が陳腐化するが)と慈しみや祈りにも似たやさしさと、畏怖に似た敬虔さであり、それらが全て内側から音楽的な至福となって心を満たすのだ。なんと素晴らしき音楽であろう。
第一楽章の冒頭の弦によるテーマにしても、やさしさといたわりを感じさせ、喜びに満ちていると感じる。デイビス盤で感じたような雪や冬のイメージは全く浮かんでこない。むしろ暖かな光に包まれ祝福されているかのようだ。演奏によって内側に生ずるイメージがこんなにも異なることに改めて気付かされる。小休符の後から、リズミカルなバックに伴いチェロのテーマが奏でられる部分も旋律的な対比が艶やかである。一楽章ラスト、ホルンの和音で始まる部分からは雰囲気を一転させてることに見事に成功している。テンポを落とした曲調から煌然と立ち上がる存在の重さ、そしてそれに応える弦の音色は不思議な説得力がある。
第二楽章にしても、デイビス盤で聴くとどうも今ひとつピンと来なかったのだが、この盤で聴くと非常にインスピレーション豊な楽章に仕上がっていることに気付かされる。
終楽章の冒頭も、何度も聴き慣れたフレーズでありながら、ハッとさせられた。スタッカートやシンコペーションの扱いルバートのかけかたなどに工夫があるのだろうか、音楽的な説明ができないのがもどかしいが。切迫した走句からティンパニのアクセント音を伴いながら畳み掛けるような部分も見事で、去来する断片的なイメージが多くの回想を呼び起こす。テンションは一つもゆるむことなく音楽は進行しラストの結尾主題へとごく自然に導かれてゆく。ここに至っては納得づくのものを感じ、静かなるピアニッシモの消え入るような弦の音色に思わず目をつぶり何かに祈ってしまう。
シベリウスが交響曲第6番で何を表現したかったのかを推し量ることは難しい。彼の伝記やシベリウスの音楽に関する文献を読んでいるわけでもない。それでも解説などによくある「清明」「透明」「永遠性」などを指向した音楽であることは疑いもなく、ベルグルンド盤は見事に表現していると思えるのだ。ただ、先のデイビス盤と比べると無骨という印象を感じる部分もあり、流麗さという点ではデイビス盤の方が(ふたつだけを比較するなら)優れているかもしれない。

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