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2002年4月19日金曜日

ゲルギエフ指揮/ウィーンフィル 「展覧会の絵」


ムソルグスキー
組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)
  録音:2000年4月28日、ムジークフェラインにおけるライブ
歌劇「ホヴァンシチナ」前奏曲(モスクワ河の夜明け)(ショスタコーヴィッチ編)
交響詩「はげ山の一夜」(リムスキー=コルサコフ編)
ゴパック:歌劇「ソロチンスクの市」から(リャードフ編)
  録音:2000年12月22日、ムジークフェライン

指揮:ゲルギエフ
演奏:ウィーンフィル
PHILIPS UCCP-1053

何とも凄まじい「展覧会の絵」だ。私はゲルギエフのファンであるので贔屓として聴いてしまう傾向がなきにしもあらずではあるが、この演奏には心底驚かされた。あの「春の祭典」の後のリリースであるので、発売と同時に購入し(ゲルギエフ読本もオマケでついてくるし)何度も聴いているのだが、聴くたびに何度も打ちのめされてしまっている。

「展覧会の絵」というのはご存知のとおり、非常に描写的な曲である。そのため聴き所も多いと思う。「ブイドロ」の重々しさ、トランペットソロの秀逸な「サミュエル・ゴールデンベルクとシュミイレ」、「カタコンブ」の暗さ、そして「バーバ・ヤーガの小屋」から「キエフの大門」に至るクライマックス。どこを取っても音楽的に申し分がない。

そういう音楽なだけに数多くの名演奏があるのだと思うが、これほどに衝撃的な演奏は少ないかもしれない。何といってもものすごいのは、ウィーンフィルの音である。もはやこれがウィーンの音なのだろうかと訝ってしまう。

ゲルギエフとウィーンの組み合わせと言えば、チャイコフスキーの交響曲5番もすごかった。この演奏を聴いて、改めて思う、オケのイメージなどどれほど正しいのだろうかと。ウィーンだから「洗練された美しさ」というイメージのみで語ることが間違っているのだと思わされる。彼らこそ世界一流のスーパースター軍団、指揮者の好みに合わせて優雅にもなれば破壊的な暴力を振るうことさえ茶飯事なのかもしれない。それほどにゲルギエフ的な(=と聴衆が期待し予測する)サウンドが展開されている。

それでもウィーンだけあってというべきなのか、細かな描写力もさすがである。力強く荒々しいだけの野蛮で雑な音楽になっていない。ソロの説得力もなるほどと思わせるし繊細な表現もある。

しかし、「バーバ・ヤーガの小屋」を聴いた瞬間には、あたかも棍棒で殴られているかのように脳天が白く弾けてしまい、正常なレビュを書くことができなくなってしまうのだ。それほどに凄まじき力と引力だ。「土俗的」とか「バーバリアンな」「ロシア的」「土臭さ」なとかのキーワード好まれるが、音楽を聴くとそれらの言葉の陳腐さと限界に思い知らされるだろう。

グイグイと引っ張られて強烈なシンバルの音のはじけた先の「キエフの大門」の広がりとパースペクティブの壮大さ。ものすごいドラマチックな音楽が構成されている。ラストに近くの鐘の音の乱舞と、ワンテンポ遅れて入る大太鼓の強靭なる響き(何と効果的なことか)に彩られた大伽藍を目の当たりにすると、もはや涙がこぼれてくるのを止めることが出来ない(・・・て、簡単に泣くなよ、音楽聴いて)。何度聴いても、何回聴いても、同じように打ちのめされる。音楽が終わった後の、壮大なるカタルシスときたら何に例えることができようか(たとえなくたっていいよ)。

この演奏はライブらしい。CDには拍手が入っていないので良く分からないが、こんな演奏を生で聴かされたら、理性を数万光年彼方へ吹き飛ばされたまま、当分社会復帰が出来ないかもしれないと思うのであった。(じゃあ、帰ってこなくていいよ)

ただだよ、付け加えておくと、「展覧会の絵」でこんなに感動するなんて、まだまだ甘いなあ、若いなあ、とも思うのだけどね、冷静になるとだよ。(冷静にならなきゃ分からんかね)

この盤にはまだ他にもイロイロな曲が収録されているのだが、力尽きた、他のレビュについてはマタコンブ(=また今度)!(ゲロゲロ)

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