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2004年1月29日木曜日

産経新聞の今週の主張より

いつも読んでいるわけではないのですが、産経新聞Web版の「今週の正論」は、靖国問題などに関する他国の態度は内政干渉であるという態度を一環として取り続けている東京大学名誉教授 小堀桂一郎氏でした。繰り返しますがいつも読んでいるわけではありませんので、氏がどの程度の頻度で「正論」を書いているのは私は知りません。

さて果たして読んでみますと、古色蒼然とした文体も相変わらずで、首相の靖国参拝について「大いに結構」とし、氏の持論を展開しています。

日本人の死者の霊に対する感情のあり方にせよ、靖国神社に於ける英霊合祀(ごうし)の経緯にせよ、民族に固有の宗教感情や祭祀(さいし)の伝統に関はる一切に関して、相手の理解を求めるといつた空(むな)しい宥和(ゆうわ)的努力を潔く放棄すべきである。(中略) 何よりも有効なのは、相手が抗議に疲れて黙りこんでしまふ迄、総理大臣が頻々と靖国神社に参拝を重ねることである。

とし、もし公約通りに8月15日に靖国参拝を首相が実現できた暁には、

独立主権国家としての日本国の面目を国際社会に恢復(かいふく)し得た名宰相としての名を歴史に刻むことができよう。

と述べ、次のように締めくくっています。

本年は日本が世界史の流れの大転換の原動力となつた日露戦争開戦百周年の記念年である。昭和二十七年の平和条約発効から数へても五十二年の歳月を経た。毅然(きぜん)たる内政干渉排除の決意を以て祖国再建の年としたいものである。

成る程、今年は日露戦争開戦百周年でしたか。靖国問題については昨年の1月にも「ゆきひろの意見箱」で書いていました。更にその前には、靖国神社の遊就館の完成を祝う同じく小堀桂一郎氏の「今週の主張」を紹介しました。あれからずいぶんの月日が経ちましたが、私の中での歴史観などは一向にあやふやなままで、今回の小堀氏の主張を読んでもはなはだ納得生きがたいものを感じます。小堀氏の主張の中には、靖国神社は日本古来からの守護神信仰にもとづくものであり、日本古来の文化、習俗に対して政治的な干渉を受ける筋合いはないというものです。1月26日のClalaブログで小沢さんが答えていた施設とは全く異なる概念なのですね。もう接点さえ見出せない気分です。

2004年1月28日水曜日

古賀議員の学歴詐称について

昨年11月の衆院選福岡2区で自民党の山崎拓前副総裁らを破って初当選した民主党の古賀潤一郎議員(45)の学歴詐称事件が話題ですね。
 
本日の全国紙の社説(朝日、産経、毎日)ともそろって議員の資質そのものを批判しています。福田官房長官も「何なんですかねぇ。過失なんですか。それともウソをついたんですか。『ウソは泥棒の始まり』と言いますからね」などと相変わらずとぼけたことを言っています。
 
さて、私も古賀議員は議員を辞職すべきだと考える一人です。選挙によって選ばれた議員であるという責任ですよね。 結局学歴社会を否定するような風潮がありながらも、学歴なしには生きてゆけないことを自ら示してしまったこと、また誤魔化しをしても、謝れば責任を取ったことになること。志が多少高ければ、多少の不正は目をつぶっても良いと考える倫理観。加藤紘一の「みそぎ行脚」を思い出しますが、そんなものが許されるのでしょうかね。 

大人がこれですから、子供がおかしくなっても当然ですね。最近の「借金は踏み倒すが勝ち」とか「開き直ってごまかす」というのも、どこかの大企業や、どこかの国の首相の態度に顕著ですからね。 子供の最近の意識の変化を「栄養が足りない」と主張する一派もいますが、彼らこそムカシ栄養が足りなかったのではないでしょうか・・・

ヴェルディ:歌劇「アイーダ」

ジェイムズ・レヴァイン(指)メトロポリタン歌劇場po.

こちらのDVDは指揮がジェイムズ・レヴァイン、演奏はメトロポリタン歌劇場管弦楽団。録画も1989年10月のメトロポリタン歌劇場でのライヴ映像です。エジプトの騎兵隊長を務めるラダメス役にはプラシド・ドミンゴが起用されています。

あまりにも有名なこの歌劇ですが、映像を伴って鑑賞したのは初めてです。

先の「リゴレット」がロケを行った映画仕立てであったのに対し、こちらは舞台映像ですが、メトロポリタンの舞台の豪華さと華やかさは、もはや言葉を失うほどです。オペラが高価なのも頷けるというものです。舞台セットの神殿は何でできているのでしょう、ここまでするか、という驚きもないでもありませんが。何しろ凱旋シーンでは本物の馬にひかれてラダメスは登場しますし、第4幕の神殿の前では篝火が炊かれます。日本の舞台なら消防法でNGでしょうね。

ドミンゴの歌うラダメスはまったくもって素晴らしく、アイーダ役のアプリーレ・ミッロの歌声も惚れ惚れします。悪役ということになっているアイーダの恋敵アムネリスを演ずるドローラ・ツァーイックは、いかにも憎まれ役的な好演で惚れ惚れします。あまりの演技にアイーダよりもアムネリスの方に感情移入してしまいます。

「アイーダ」といえば第2幕の凱旋更新のシーンが有名ですが、確かにあの場面は壮麗で「絵になる」とは思いますが、劇としては第3幕移行がやはり面白いですね。ラダメス、アイーダ、アムネリスの感情の振幅が深い味わいを出しています。

あまりの音楽と映像の素晴らしさに、私は観ながら何度も涙してしまいましたよ。

More...(いつか書きます)

2004年1月27日火曜日

ヴェルディ:歌劇「リゴレット」


  • リッカルド・シャイー(指)ウィーンpo.

ヴェルディの代表的なオペラ「リゴレット」のDVDですが、指揮はリッカルド・シャイー、演奏はウィーン・フィル。好色なマントヴァ公爵にはパヴァロッティ、ジルダにはグルベローバ、リゴレットにはヴィクセル、演出はジャン=ピエール・ポネルと名前を聞いただけで涎が出てきそうです。さらにこのDVDが特徴的なのは、映像が劇場の生録画ではなく舞台をマントヴァに現存するパラッツォ・ドゥカーレなどを用いた映画仕立てとなっていることです。

劇が始まった当初から、数々の名曲のオンパレードで圧倒されてしまいます。まるでオペラのオムニバス版を聴いているような錯覚さえ覚えます。

またセットの豪華さにも目を見張るばかりです。爛熟した貴族社会の饗宴シーンは、私のような善良な小市民には少し過剰であり、若干の嫌悪を覚えなかったわけでもありません。しかし、何度も見るうちに耐性が出来てくるものです。

すると、もうヴェルディの芸術世界にどっぷりとはまってしまい、頭の中はパバロッティの歌うカンツォーネが高らかに鳴り響いてしまいまうのです。もう完全に突き抜けた歌声は快感の粋に達してしまいます。

それにしても「どの女も私にとっては同じ」(第1幕第1場)とは…、モーツアルトの「コシ・ファン・トゥッテ」もそうですが、この時代には、女心に対する根深い不信感があるのでしょうかね。

More...(そのうち書きます)

2004年1月26日月曜日

昨日のサンデープロジェクトに小沢さんが出ていましたね

あまり真面目に見ていませんがでしたが、以下のような発言が耳に止まりました。

小泉首相は正月の靖国神社参拝を「初詣」と称した。一国の首相が靖国参拝するということは政治的決断を伴うもので、それを「初詣」と称するとはデタラメもいいところだ。マスコミも誰も騒がないのはオカシイ。

全くもって同感です。こんな首相を支持している日本は脳死状態ですな。田原氏に小沢さんは靖国に参るのかと問わましたが、明治の官軍以外でも等しく戦死した日本人を祭るような施設になるならば、参拝すると答えていました。

でも、そういう施設はやはり戦没者慰霊碑ですよね。神社という概念が私には馴染めません。

パウエルさん、認めたのですね


パウエルが "open question"としながらも、大量破破壊兵器がなかったかも知れないと認める発言をしていますね。


ちょっとしばらく時事から遠ざかっていましたが、新鮮な驚きです。どうやって落とし前をつけるのでしょう。


Secretary of State Colin Powell said on Saturday it was an "open question" whether stocks of weapons of mass destruction would be found in Iraq and conceded it was possible Saddam Hussein had none.(REUTERS)


朝日新聞の本日の社説にも本件について言及されていますね。


米英首脳がなぜ誤った情報や分析に踊らされたのか。湾岸戦争以来の宿願であるフセイン政権の打倒が先にありきで、WMD問題はそのための方便だったのではないか。米英両政府は真相を調べあげ、包み隠さず国際社会に説明する責任がある。(朝日新聞)


と書いていますが、そんなこと最初から分っていたことですよね。でどういうストーリが展開するのですか。日本の立場(どこまでも対米追従ですが)は、どう動くのでしょうか。


こんなバカなことがあっても、政権は転覆しないのですね。

テレマン:パリ四重奏曲集

以前紹介したテレマンの「6つの四重奏曲(クァドリ)」に続く四重奏曲です。こちらも「クァドリ」にも増して素晴らしい音楽に仕上がっています。

金曜日に所沢で有田氏の演奏会が催されたのですが、一度彼の演奏を生で聴いてみたいものだとつくづく思わせる演奏です。


有田正広:テレマン/パリ四重奏曲
  1. 四重奏曲 第1番 ニ長調 TWV43:D3
  2. 四重奏曲 第2番 イ短調 TWV43:a2
  3. 四重奏曲 第3番 ト長調 TWV43:G4
  4. 四重奏曲 第4番 ロ短調 TWV43:h2
  5. 四重奏曲 第5番 イ長調 TWV43:A3
  6. 四重奏曲 第6番 ホ短調 TWV43:e4
  • 有田正弘(フラウト・トラヴェルソ) 
  • 寺神戸亮(バロック・ヴァイオリン) 
  • 上村かおり(ヴィオラ・ダ・ガンバ) 
  • クリストフ・ルセ(チェンバロ)
以前紹介したテレマンの「6つの四重奏曲(クァドリ)」に続く四重奏曲です。1730年にハンブルク出版された「クァドリ」がパリでも注目を集め、テレマンをパリへ招聘しました。その時に作曲されたのが、ここに納められた六つの四重奏曲です。テレマンを招聘したのは当時の名手であるプルートのプラヴェ氏(彼自身のフルート曲も有名)、ヴァイオリンのギニョン氏、ガンバのフォルクレ氏、そしてチェロのエドワール氏などです。

「クァドリ」でもそうでしたが、この曲集は明らかにプロの演奏者のための音楽になっています。当時は、アマチュア演奏家のためにも曲集は作曲されており、例えばテレマンの「忠実な羊飼い」などが、フルート吹きには有名でしょうか。

CD解説によれば「おそらくテレマンが書いた最もフランス的な作品」とあります。しかも"プロ仕様"の曲だけあって、きわめて音楽的かつ躍動的で華やかな色彩にあふれた音楽に仕上がっているように思えます。

この演奏においても有田氏のフルートトラヴェルソの音色は際立っているのですが、先の「クァドリ」と比べてピッチが高い(a'=415)せいでしょうか、音色の粒立ちや切れが一層鮮やかです。私はこのCDの第1番ニ長調の冒頭をはじめて聴いたときに、その音色の素晴らしさに思わず声を上げてしまいました。テレマンのパリに対する思いの表れとも受け取れます。今も昔もパリはまさに「華の巴里」であったということなのでしょうか。ヴァイオリンの寺神戸氏についてまったく触れておりませんが、私は寺神戸氏として意識して音楽を聴いたことがないので、感想らしものをまだ書くことができません。

「クァドリ」も確かに素晴らしい演奏なのですが、こちらと比べてしまうと、どうしてもくすんだ色彩に感じられてしまいます。それが曲の完成度によるものなのか、あるいは演奏や楽器によるものなのかは私の拙い知識では分かりません。しかし、私はこの2枚組みのCDを飽くことなく何度も聴いてしまっています。

ちなみにこのCDは文化庁芸術作品賞という有難い章を受賞しているそうです。

2004年1月24日土曜日

映画:ラスト・サムライ

渡辺謙が主役のトム・クルーズを食ったとか、「日本人でよかった」と涙ながらに映画館を後にする若者の姿が宣伝で流れ話題となった「ラスト・サムライ」を観ました。

私は「ミッション・インポシブル」のようなトム・クルーズの「オレ様映画」というのが実は大好きです。出来過ぎの設定や、見栄を切るかのごときポーズも観ていてカッコいいなあとワクワクしてしまいます。

今回の映画も内容云々よりも、トム・クルーズがサムライに扮したくて作ったような映画であろうと観る前から思っていたのですが、その通りの映画でしたので、勿論大いに楽しむことができました。

「武士道」とか「サムライの精神」については、どうでしょうか。映画の言わんとしていることは分かりますが、政治でも文化でも日本を占領した当の米国に、精神性まで教えていただかなくても結構です、という反発を覚えなくもありませんが、新渡戸稲造も読んだことがない無学な拙者のようなものは、ただ平伏するしかありません。

そういう映画のテーマなどはこの際無視をして、素直にトム・クルーズや渡辺謙、そして真田広之、小雪たちの立ち回りを楽しめば良いと思います。小雪がトム・クルーズに衣装を着せ替えてあげるシーンは、ヘタなラブ・シーンよりも美しく色っぽいです。

ロケ地は明らかに日本ではないようで、風景に若干違和感を覚えますが、それをおおめに見れば、ディテールまで凝りに凝った良質のエンターテイメントであると思います。もっとも、世の中の大絶賛の嵐には、少し疑問を感じますが…

2004年1月18日日曜日

正高 信男:ケータイを持ったサル


正高信男氏は京都大学 霊長類研究所教授にして比較行動学の研究者である。サルの研究にいそしんできた正高氏が、比較行動学の手法を用いて現在のケータイに依存した若者と、それを生み出した家庭環境、ひいては日本社会を鋭く分析して見せた書である。

「ケータイを持ったサル」という少々過激なタイトルに、若者を侮蔑するような響きを感じる方も居るかもしれないが、読み進めると、週刊誌にあるような単純な若者嫌悪や批判とは全く論旨を異にしていることに気づく。特に氏の得意とする研究分野でのサルの行動との比較や、データを用いた若者や家庭分析がユニークである。

例えばメル友を300人以上持つグループと、ケータイを持たないグループでの簡単な投資ゲームの結果が第4章(「関係できない症候群」の蔓延)に記されている。いわゆるゲーム理論の「囚人のジレンマ」である。ゲームの参加者は2名、利益を確保するために相手を信頼あるいは裏切る選択を迫られるシミュレーションだ。この結果は私には驚くべきものであった。両グループで、これほど如実に差があるのかと、少し薄ら寒くなる思いさえした。詳しくは本書を読んでもらいたい。

正高氏は、ケータイでメル友と繋がらずにはいられない若者と、ルーズソックスに踵を踏み潰した靴で闊歩する若者を、公共領域に出ることの拒絶と捕らえ、その背景を「子供中心主義」で子供たちを育ててきた、家庭環境、ひいては日本社会にあると論理を敷衍してゆく。子供中心主義や「親離れしない子」「子離れできない親」ということも、正高氏が始めて言ったことではないが、一連の論理の中では説得力がある。

ちなみに、メル友で繋がる若者を「サル」と称するのは、ごく単純なコミュニケーション手段を用いて、連帯感を確認する行為はサルにも認められる行為であり、自分の属する集団から一生離れて生活することの稀なサルと似ていると見るからである。

イメージや感覚だけで述べた本ではないため、読んでいて明快である。氏の結論に同意できるか否かは個人によって様々だろうが、私には頷ける点も多く面白く読むことができた。

2004年1月17日土曜日

テレマン:6つの四重奏曲


<1730年ハンブルク版>
テレマン
  1. コンチェルト第1番ト長調
  2. コンチェルト第2番ニ長調
  3. ソナタ第1番イ長調
  4. ソナタ第2番ト短調
  5. 組曲第1番ホ短調
  6. 組曲第2番ロ短調
  • 有田正弘(フラウト・トラヴェルソ) 
  • 寺神戸亮(バロック・ヴァイオリン) 
  • 上村かおり(ヴィオラ・ダ・ガンバ) 
  • クリストフ・ルセ(チェンバロ)
 
イタリア語のQuadriと題されいるこの四重奏曲集は「2つの協奏曲、2つのバレット(舞曲、フランス組曲)、2つのソナタ」とされてる。細かな様式の違にまで言及することはできないが、器用で時流に乗ることのうまかったテレマンらしい音楽になっている。曲集はプロフェッショナルな演奏家を対象としているというだけあり音楽的な技巧も楽しむことができる。

有田、寺神戸、上村、ルセ氏の4人の名手については、いまさら解説は不要というところだろうか。柔らかにして軽やか、そして暖かな有田氏のトラベルソの音色は長く聴いていても疲れることがない。ピッチも現代よりもかなり低めに設定されているせか(a'=398)、音楽全体がしっとりと落ち着いた華やかさに輝いている。アンサンブルの響きは絶妙であり、そこからくっきりと浮かび上がるトラヴェルソの音色は、まさに至福の時間を与えてくれる。

もっとも、ずーっと聴いていると、美しさと心地よさにうっとりはするものの、だから何なのだ?という疑問が沸く瞬間がないでもないが、それをこの時代の演奏に求めることに無理があるだろう。

2004年1月14日水曜日

人柄と音楽性あるいは音色

演奏や音色に人柄は出るものなのだろうか。
あの人は生真面目な人だから、固くかっちりした音。
彼は奔放だから、大胆でおおらかな音。
彼は、スケベだから「いやらしい」音。

生真面目でなくても、スケベでなくても表現できるのが
上級者ということなのでしょう。

するというと、普段のレビュで
「○×ならではの清冽にして怜悧な音は・・・・」
「知的な演奏構成は、△□に今回も特徴的で・・・・」
などと書くことに、どれほどの意味があるのでしょうか。

2004年1月11日日曜日

ザ・ベスト・オブ・マリア・カラス

以前にも書いたことがありますが、私はベスト版とかオムニバス版はあまり好きになれません。どうしても全曲を聴きたくなりますし、全体あっての部分であると考えるだけに「おいしいところ」だけを取ったというような構成に馴染めないのです。

そういう偏狭な態度がレパートリーを狭めているのではとも思い、まあ年の初めだからと軽い気持ちで購入してみました。


ザ・ベスト・オブ・マリア・カラス
●プッチーニ:ある晴れた日に(蝶々婦人)●ビゼー:恋は野の鳥(カルメン)●ガタラーニ:さようなら、ふるさとの家よ(ワリー)●ロッシーニ:今の歌声は(セビリャの理髪師)●ベルリーニ:清らかな女神よ(ノルマ)●サン=サーンス:あなたの声に心は開く(サムソンとデリラ)●ヴェルディ:慕わしい人の名は(リゴレット)●花から花へ(椿姫)●グノー:私は夢に生きたい(ロメオとジュリエット)●プッチーニ:私の名はミミ(ラ・ボエーム)●モーツアルト:あの恩知らずは約束を破って(ドン・ジョバンニ)●マスカーニ:ママの知るとおり(カヴァレリア・ルスティカーナ)●ボンキエルリ:自殺!(ジョコンダ)●プッチーニ:お父様にお願い(ジャンニ・スキッキ)●この宮殿の中で(トゥーランドット)●歌に生き、恋に生き(トスカ)

マリア・カラスのベスト版とのことですが、日本語解説を読むと「舞台で歌わなかった役のアリアが半数近くを占めて」とあります。オペラ門外漢の私には、それさえも「そうなのか」と思って読みながらカラスの歌声に聴き入りました。amazonのレビュでは「もしあなたがマリア・カラスにまつわるすべての大騒ぎの背後にある理由を知りたいのなら、このCDを買いなさい。(中略)このCDは16人の女性を訪れるようなもので、彼女たちはすべて興味深く、全員が偉大な歌手なのだ!」とあります。

果たして私は、これがカラスの歌声と意識して聴くのは、おそらく初めてなのだろうと思います。印象としては、決して転がるようなソプラノの美声ではなくことに驚きました。むしろメゾ・ソプラノのような声質をひきずっています。それゆえにというのでしょうか、独特の存在感と迫力を聴かせてくれます。歌声の背景から、何かが迫ってくるかのようです。

全部で16曲収録されているが、思いの他の満足を得ると同時に、やっぱりカラスは実演で聴いていたら魅せられているのだろうなと思わせるものの片鱗を感じることができました。

2004年1月5日月曜日

天木直人:さらば外務省!― 私は小泉首相と売国官僚を許さない

天木氏は元レバノン特命全権大使、小泉政権のイラク攻撃に反対する意見具申(「対イラク攻撃に対する我が国の立場」)を官房長官宛に打電し、それが小泉政権批判になるとして辞職させられた人である。彼に対する退職勧告は君は組織の枠を踏み外したというものだったらしい。本書は外務省批判本であり、元外務大臣の田中議員が「伏魔殿」と称された以上の腐敗状況を実名入りで書き綴った本でもある。

手元に本書がないので、引用や紹介はできないが、この本を、辞職させられた腹いせの、単なる暴露本と捕らえるのでは、天木氏の、それこそまさに血を以て書かれた書に対しては失礼であると思う。天木氏は外務省と政府批判を書いてはいるが、実のところ今の日本社会を活写している

外務省に限らず、批判を全く受け付けず、体制を批判する者を容赦なく排除する組織体制。組織を維持することが目的と化し、組織から得られる利権のみを求める組織員。これは何も外務省のことばかりではないと思い至る。これは外務官僚や小泉政権に対する批判に留まらず、広く日本国民への批判の書となっている。

驚くべきは今日の日本に、国民のため、国家のために役立とうという高い志を持った官僚は皆無全ての官僚は、時の権力者に取り入って出世すること生き甲斐を感じるか、出世競争に敗れたと悟るや否や、少しでも見返りを確保しようと躍起になるかのどちらかと天木氏に書かしめる体質である。自己の信念のためことを成し遂げようなどと思うものはいないとまで言い切っている。

読んでいて、言い知れぬ無力感にとらわれると同時に、天木氏の書く内容は内容はストレートで分かりやすいが、少し感情的になっているのではないかも思わないわけではない。天木氏の言うように、志の高い官僚は皆無なのだろうか。批判するのは良いが、独善的な感想から全外務省を敵に回し反感を買っても得策であるとは思えないのだが。

彼のような官僚が働くことのできない日本政府、あるいは日本の社会というのは一体何なのだろう、誰のものなのだろうかと、読み進めるうちに怒りと諦めの気持ちがないまぜになってくる。それを打破する道があるのかないのか、天木氏は最後にいくつかの提示をしている。この書が日本の政治システムの夜明けになることを期待すると天木氏は締めくくるが、日本の場合「市民運動」のようなものは盛り上がらないのだよなあ……

2004年1月4日日曜日

高村薫:照柿


「照柿」。"てりがき"と読むのだそうだ。高村氏の小説の中では、一般的にあまり人気がないようだ。内容が暗く、そして重いとのこと。高村氏の小説を読み難いという人は多いが、この小説はその最たるものらしい。

しかし、私の中では、この小説の持つ意味は大きい。ベストセラーとなった「レディ・ジョーカー」も凄まじい小説であったとは思うが、もしかするとこちらの小説のほうが、純度と内容が濃いのではと思わせるものがある。現代の「罪と罰」と帯にはある。成る程、そういう見方もあるのかと。付け加えるならば、間違ってもこの小説は「ミステリー」ではない。


舞台は東京と大阪。8月の狂いそうになる暑さの夏。合田雄一郎(「マーククスの山」や「レディ・ジョーカー」でお馴染みの)は、たまたま乗り合わせた電車の人身事故(飛び込み自殺)に遭遇する。そして、そこで一瞬出会った美保子に一目惚れしてしまうところから話は始まる。

高村氏が女性を、しかも「男女の愛情」を書くというのも珍しいが、彼女が書くとこういう小説になってしまうのかと、私は愕然としてしまった。18年振りに会った旧友の達夫が、なぜ殺人を犯すこととなるのかというもうひとつ大きな軸もあるのだが、私にはこの小説は「解体」の物語と読めてならない。

何の解体か、言わずもがな「合田雄一郎」の解体だ。その意味から、小説の中の二つの轢死事件は、肉体の解体と死滅が、合田自身の精神的解体の物語の暗喩となっているように思える。熱心な高村小説あるいは合田ファンには、本小説で合田が「崩れていく」様を見るのがつら言うが、それは当たらない。むしろ辛いのは、そこまでに至る意志の厳しさだ。

「解体」とは、すべての内実を曝け出し、脱ぎ捨て、そして解体の後には、別の何ものかになることを示唆している。解体されたのは、合田だけではなく達夫もしかり、二人の間での激しい愛憎がスパークし、何者かに変わった(あるいは戻って何かを取り戻した)のかもしれない。自分をギリギリまで見据え、それでも自己を解放しさる軽々しさと重々しさ。高村氏の小説に一貫して共通するテーマ。

高村氏は、この小説の中で、ダンテの「神曲」のくだりを引き合いに出す。

「痛恨は悔悛の秘跡の始まりだから、喜べばいいんだ。突然魂を襲う意志こそ浄化の唯一の証拠だ……と言ったのはダンテの……」(加納)
「スタティウスが、ダンテとヴェルギリウスに言うんだ。煉獄の何番目かの岩廊で」(雄一郎)
「意志だよ、意志。すべては。」
「意志のお化けだもんな、あんたは」
(P.254)

��冷静に考えると、義兄弟でこんな会話をする二人こそ「お化け」に見えなくもないが)合田と達夫は「地獄」「煉獄」を経て「天国」を見ることができたのだろうか。ラスト491頁から最後までは、涙なくして読めない。そうくるだろうなと分かっていてもだ。

2004年1月2日金曜日

養老孟司:<逆さメガネ>、バカの壁


書店に行くと「バカの壁」が山積みで記録的なベストセラーを記録しているとのこと。更に養老氏の本が何種類もバナナの叩き売りのように積まれているのを見て、まあ話題だし読んでみようかという気になって2冊ほど購入。しかしながら、正月早々、くだらない本を読んでしまったというのが正気な感想か。amazon.comのカスタマーズ・レビュにざっと目を通しても、否定的な感想が多いようである。

この2冊は4ヶ月をおいて発行されているが、内容はどちらもほとんど同一。さらに、養老氏自らが執筆しているのではなく、これは私の話を、新潮社の編集部の人たちが文章化してくれた本(「バカの壁」P.3)という、なんともバカにした本である。


なぜこのような本がバカ売れし、しかも二匹のドジョウならぬ数匹のドジョウにまで化けねばならぬのかと思うことしきり。「バカの壁」という風変わりで、少し過激なタイトルでなければ、あるいはここまで売れなかったかもしれず、新潮社の商売のうまさには感服する。

内容批判をする前に、くさしてしまったが、考えてみれば内容を書くのもばかばかしい。要は、話が単純、短絡的、牽強付会、一面的、こじつけ、例題が貧弱、理論が貧弱。縁側で経験豊富でちょと賢い爺さんが話す小言をまとめたような本と言ってよいかもしれない。

もっとも、もののひとつの見方を提示するという点では確かに一理あるかとは思う。養老氏が「都市化」と称する考え方には同意できる部分も多い(<逆さメガネ>)。しかし個性と身体性云々のところは、成る程とさえ思えない。養老氏は「バカの壁」と常識を疑う「逆さメガネ」を強調するが、彼自身の中で「壁」があるのではなかろうか。ただどちらかを読むとしたならば、<逆さメガネ>が良い、こちらの方が氏の考え方がストレートに出ている。

先にも書いたが、今日も書店に行ったら山のように養老氏の名前を冠した本が山となっていたが、どんなに「良い本」であろうと、二度と氏の本は読まないだろう。