四月大歌舞伎の観戦記の最後、忘れぬうちに「京鹿子娘道成寺」の感想も書いておきましょう。もちろん白拍子花子は勘三郎です。もっとも長唄にまでは予習が廻らず、ぶっつけでは唄がほとんど聴き取れない、それでも多彩な踊りはそれとなく堪能することができました。
渡辺保さんの歌舞伎評では、勘三郎の娘道場寺を次のように評しておられます。
ことに私が感嘆したのはそのクドキ。美しさや持ち味で見せる「道成寺」は他にやまほどあるが、これは踊りで見せるクドキである。その芸の、スケールの大きさ、豊満さ、見事さ、今が見頃の満開の桜。感動的であった。
両手に手ぬぐいを持っての踊りの細かな所作について、どこがどう素晴らしいのか言及した後に、以下のような賛辞。
ということは勘三郎の今度のクドキが美しさとか持ち味とかいう曖昧なものではなく、体を限界まで目一杯使って空間に娘を造形しているということだろう。空間に体の形を刻み込んでいるといってもいい。その造形こそが踊りそのもの。人工の極致である。
なるほど、勘三郎の充実振りがこの文章を読むだけで伝わってきます。他と比べたこともないので、そこまでの素晴らしさは残念ながら私にはわからない。ただ次々と変化してゆく踊りを観ながら翻弄されるばかり、何と多彩な踊りなのでしょう。
最初は烏帽子をつけた能がかりの舞から始まります。形式美を十分に感じさせる厳然とした踊りですが、その後に衣装(いわゆる“引き抜き”)も音楽も、がらりとくだけた娘心の踊りに変わる。あれまと、雰囲気から場の空気まで全然変わってしまったことに、しばし呆然。踊りだけでこんなに表現できるとは!
「恋の手習い」のクドキでのしどけなさもなかなかのもの、立役の多い勘三郎なのでしょうが、彼の女方というのも味わいがあります。さらに感心したのは鞨鼓や鈴太鼓を手にした早間(急テンポ)の踊り。そのリズミカルさ、キレの良さ、まさに鞠が跳ねるかのような躍動感とドライブ感。天性の勘の良さや極めて現代的なセンスを感じました、そこが勘三郎の人気の秘密なのでしょうか。
勘三郎の踊りに関してはねこっぽ雑記のエントリが目にとまりました。
勘三郎さんの台詞回しを動きに翻訳したらこうだよな、という感じ。動きがちゃきちゃきしているというか分かりやすいほどはっきりしているというか。叩くところは叩く、回すところは回すという感じで後になればなるほど「えっ!?」というほど激しくなる
そうですね、この後半になるに従い激しくというところに凄みさえ感じる。伴奏の三味線も、超絶技巧とでも言いましょうか、それはそれは激しくも素晴らしい音楽、思わず拍手が鳴り響きます。聴いていてちょっと震えのきそうな部分です。
この二つの場面(鞨鼓と振り鼓の場面)の動き方自体もとんでもなく激しくて、玉三郎さんの道成寺のイメージが大きかったうちの母親はカルチャーショックを受けていました。
ねこっぽさんは玉三郎の踊りに言及されていますが、人によってかなり違う表現になるようですね。激しさは清姫の怨霊の恨みの強さと激しさなのでしょうか。鐘の中に隠れるのはそれこそ、あっという間の出来事。
最後は鐘の上で見得を切る型ではなく、鐘の中で鬼に変身した花子を團十郎の大館左馬五郎が押し戻しをするというもの。歌舞伎十八番の娘道成寺での押し戻しは、東京では何と23年ぶりの上演なのですとか、これを見るだけでも価値はあったかな。勘三郎と團十郎が揃って見栄を切って幕となるところは、もう天晴れ。これぞ歌舞伎の快楽極まれり。
所化の配役の豪華さも襲名披露ならではとのことですが、歌舞伎ミーハーになれるほどには歌舞伎俳優を諳んじているわけではなく、この点はノーコメント(というか、よく見えん、分からん)。なにやら途中で所化たちが客席に向かって投げていましたが、あれは何ですか?(蛇っすか?>手拭っす) まるでアイドル歌手のコンサートのよう・・・。それにしても、皆さん遠目でも誰が誰だか分かるんですね(@_@) 改めて恐るべし、歌舞伎ファン!
ところで、鐘にのぼっての見栄といえば、「てぬぐいぶろ」さんが、こんなにナイスな画像を提供しておいでです。ご覧になっていない方は、お訪ねあそばせ。(>つーか、歌舞伎ファンで、あちらを読まずこちらを読んでいる人はいねーよ)
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