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2005年4月24日日曜日

文藝春秋のホリエモン総括を読んで

ライブドアとフジテレビの買収事件も、ようやくほとぼりが冷めてきていますが、各雑誌においても時差はあるものの、今回の事件の総括のようなものが出始めました。文藝春秋も「総力特集 平成ホリエモン事件--ニッポン企業が受けた一撃」として記事を組んでいました。

誰が一番得をしたとか、ジャーナリズムの意義とはとか、会社は誰のものとか、日本社会に一石を投じたとかの評には余り興味がありません。そもそも誰が得をしようが私には関係ありません。一部のブログユーザーで議論の盛んな「参加形ジャーナリズム」とかインターネットの可能性にも過度の期待も持っていませんから、その点でも興味はないんです。

ぢゃあ、放っておけばよいのですが、野次馬的に読んでしまったので、気になった言葉を少しだけ抜き出してくとしましょう。(以下、私的なメモです)




何のための買収、誰のための会社~伊藤忠商事会長 丹羽宇一郎
32歳の若者らしい熱意と発想で、正々堂々と行動していれば心から拍手を送った。しかし、今回の買収劇をみるかぎり、その手法はまるで手練手管を弄する老人のようで、若者らしさは全く感じられなかった。星雲の志を早く取り戻すことを祈っている。


大方の「大人」の見方は、丹羽氏の考え方に集約されているかもしれません。でも「星雲の志」に「32歳の若者らしさ」ですか。あなた方が、そのような発言をしているから、足元をすくわれるということに気付いていないようですね。堀江氏が示したものは、経験値など無に等しい、能力のあるものは60歳も30歳も関係ない(むしろ若い方が大胆でさえある)と言うことだったはずなのなのですが。逆に堀江氏は、そういう大人たちを煙に巻くには、ちっとも「手練手管」的ではなく、戦術も若すぎたことを同時に示したように思えます。

荒野のガンマンvs白馬の騎士~大前研一
おそらく(堀江氏の主張する)「ITと放送の融合」は建前に過ぎないであろう。一夜限りで女の子を口説こうとしたものの、厳しい親に「どういうつもりだ」と問われて、思わずに「結婚を前提に考えています」と口走ったようなもの。


さすがに大前さん、一言のもとに堀江氏の立場を言い当てていますね。おそらくは彼にはマスコミやジャーナリズムなど、最初からどうでもいいことなんです(そもそも感心がないでしょう、読んでないんですから)。メディアの公共性云々を、急に真面目顔で話し始めたフジテレビと、その点においては同じ穴の狢のような気がしています。(フジは面白ければ良いのではなかったですか?)ですから、引用はしませんが、立花隆氏がメディアの意義云々の当然の議論を展開しているのが空々しいほどです(言っている事は正しいが、そういう問題ではない、そこぢゃない)。

精神科医の斉藤環氏は北田暁大氏の「嗤う日本の「ナショナリズム」という本に書かれた90年代においては、まさにフジテレビが体現していたような80年代的シニシズムがマスコミ不信によって失効し、かわって他者との<繋がり>を指向する「ロマン主義的シニシズム」に移行したということを引用し、

診断名は「社会的ひきこもり」~精神科医 斉藤環

マスコミ不信と<繋がり>指向、そして「ネット」に対するロマン主義的執着、と読み替えるなら、堀江の態度はこの種のシニシズムにきわめて近い。

とした上で、堀江を「ひきこもりキャラ」とみなしている点が面白い。

(ひきこもりとホリエモンの)最大の共通点は、「物語の欠如」と「欲望そのものへの欲望」

「インターネット」自体が、価値や理念とは無関係に、欲望を無限に拡大するための形式に他ならない。「欲望そのものを自己目的化する」という一点だけにおいて、彼は「ひきこもり」青年と同じベクトルを抱え込んでいる。


と書いています。欲望の再生産とは、現代の病理のひとつではないかと私も常々思っています。インターネットがその一助になっているということには、素直には肯首できないものも感じますが、分からない議論ではありません。

日本のビル・ゲイツになれるか~インスパイア社長 成毛眞

ひとりの経営者がどんなに無茶をしても、社会そのものを変化させるほどの力はない。恐ろしくもあるが、社会は政治によってのみ大きく変化する。


かの成毛氏にして、この達観に居たのかと、まさに驚いた次第。

大衆は「堀江失墜」を待っている~ノンフィクション作家 佐野眞一

人間とは永遠に物語を求める動物であり、謎を愛しつづける生き物である。江副や中内や藤田の強烈な所有欲や支配欲は人並みはずれた物語を紡ぎだし、その物語が人々を引きつけた。
既得権益の牙城であるテレビ局に単身挑むホリエモンの姿に拍手喝采を送る人々は、彼のなかに新たな物語を見出そうとしているのかもしれない。



斉藤氏と同じように、はからずも「欲望」と「物語」というキーワードが出てきました。企業を発展させたのは、煎じ詰めれば「欲望」と「欲求」を満たすためであるかもしれず、それは極めて個人的なものから発している場合もあるのだと思います。佐野氏が指摘するまでなく、リクルートの江副氏にしてもダイエーの中内氏にしても、西武の堤氏にしても、個人的な過去に発する熱情に駆られ事業を展開してきたこと、根に暗いものを背負っていたことなど、人生そのものが「物語性」を有しているとも言えます。そして、時をほぼ同じくして、彼らが一線から退いたことは、ひとつの時代と物語が確実に終焉したことを示しています。

堀江氏が「物語の欠如」と斉藤氏に指摘されるのは、カリスマと呼ばれた戦後の経営者に比べ、暗さの少なさや(自分では暗いと書くが)底の浅さが露呈しているからかもしれません。逆に彼の底の浅さと、その浅い底さえ照射してしまう無影燈のような明るさは、彼の性格と情報化社会の帰結と言えるかもしれません。それ故に、堤的なカリスマではなく、別なカタチでのカリスマがこれから生まれるのかも知れず、照射された明るさから生まれた合理性と先進性(例えばビルゲイツではなくグーグルの二人など)が我々をどこに導くのかということこそが、私の大きく気に掛かる点であります。