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2006年3月27日月曜日

NHK芸術劇場:吉右衛門の「日向嶋景清」


昨日のNHK芸術劇場は、中村吉右衛門が松貫四の名前で書き下ろした「日向嶋景清」を生み出して行った過程と、吉右衛門の本作に賭ける思いを密着取材したという点において、非常に見ごたえのある番組でした。


歌舞伎座での公演を昨年11月の吉例顔見世公演で運良く観劇することができ、大いに感銘を受けたものです。




「日向嶋」の原作は人形浄瑠璃の「嬢景清八嶋日記」。吉右衛門の実父である八代目幸四郎が1959年に新橋演舞場で二日間だけ試演したことがあるという演目です。歌舞伎の時代物の新たな境地を目指そうとしていた八代目幸四郎の役者生命を賭けた舞台であったと吉右衛門は語ります。


娘のことを思って見えない眼をカッとばかりに見開く場面があります。八代目は、あの時代にあって眼の玉の大きさばかりの赤いハードコンタクトを、麻酔を打ちながら眼にはめて舞台に望んだことですとか、娘の糸滝を哀れんで遠ざかる船を追おうとする、その場面での気迫は渾身の力で押し留めなければ舞台から客席に落ちてしまうほどのものであったとか、若き吉右衛門にとっても強烈な印象を与えたものであったと言います。


そんな実父に対する思いと、歌舞伎に対する思いが、おそらく還暦を前にして吉右衛門の中で発酵し、「八嶋日記」の歌舞伎化として結実したのだということがよく分かりました。


吉右衛門は語ります。「昔の演目は全てが新作だった。今は型などが伝承されて演ずるだけになったが、新作を演出し演ずる苦労をすることによって、型の大切さなども再認識する。」のだと。伝統をただの継承に終わらせない、次世代へつなげるという筋肉質で強靭な精神をそこに観た思いがします。


「ヤワではやっていけないよ」


ジムで汗を流しながら台本を読み続ける吉右衛門が漏らした台詞も印象的でした。

2006年3月22日水曜日

iPod用 Apple純正インナーイヤ型ヘッドフォン


iPod用のヘッドフォンとしてApple純正のインナーイヤ型ヘッドフォンを購入してみました(5000円以下)。いわゆる耳栓型ですので遮音性は極めて高く、周囲の騒音はかなりシャットアウトされる点は予想以上のもの。地下鉄のアナウンスにより音楽が全く聞こえなくなるということはなくなります。(そもそも、毎日毎日、なんであんなに頻繁に、しかもあんなにウルサク放送するのだろう・・・)


ところがインナーイヤ型であるため、歩行時に踵が地面を踏みつける音が骨伝道として耳に伝わる、コードが衣服などにすれる「ガサゴソ」といった類の音も非常に耳障り。自分の呼吸音や咀嚼音も結構気になる。ということで、アウトドアな環境では、ほとんど使いものにならないというのが正直な感想。



音質に関しては付属のヘッドフォンよりも格段向上というレビュがほとんどですが、私としてはクラシック音楽には全く向いていないと言わざるを得ません。具体的には、ピアノやオーボエの音に対し、共振するようなビビリ音がヘッドフォンを通じて聴こえ、全く鑑賞に耐えません。


このヘッドフォンをCDプレイヤーやステレオのヘッドフォン端子につないで同じ音源(ピアノなど)を聴いてみると、ビビリ音はほとんど気にならないのです、これはどういうことなのでしょう。不良品というわけでもないと思いますが。


一方オーケストラのフォルテッシモ、ヴァイオリン・ソロ、ソプラノのアリアなどはクリアな音質です。こういう音楽では付属品とは違いがはっきりします。洋楽系の曲も聴いてみましたところ(BJORKBlack Eyed Peas)、上記のビビリ音は全く発生せず(気にならず?)、余程酔狂でなければ付属品のヘッドフォンを使おうという気にはならないと思えるほど音質の向上が実感できます。


時々使っているAKGのK26Pは、低音を重視した音楽を聴く方には満足のいく音質だと思いますが、クラシックを聴く分にはAppleのインナーイヤ型に比べると「こもり」が感じられます。音のヌケという点ではAppleのインナーイヤ型の方が優れている。


iPod用で、安くてそこそこクラシックを満足して聴ける(音質に優れているといっても所詮ACCファイルの音質ですから多くは期待しません)形体も携帯性に優れたヘッドフォンというのはないものでしょうか。ちなみに在宅時にはSENNHEISER HD575を使っています。

2006年3月19日日曜日

歌舞伎座:三月大歌舞伎 夜の部

歌舞伎座で三月大歌舞伎の夜の部を観てきました。今月の公演は十三世片岡仁左衛門十三回忌追善狂言を兼ねており、昼の部では仁左衛門による「道明寺」が、夜の部では我當による「近頃河原の達引」が演じられています。

昼の部の道明寺や吉野山も観たかったのですが、休日の11時前に自分を東銀座に立たせることは困難ですので、夜の部を観ることにしました。夜の部は先の演目に続き、富十郎と菊之助による「二人椀久(ににんわんきゅう)」、そして幸四郎による「水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)」です。

今回はイヤホンガイドを借りて観劇をしました。

賛否はイロイロありましょうが、夜の部で一番良かったのは「二人椀久」です。この舞踏は遊女松山(菊之助)に入れあげて発狂してしまった大坂の豪商椀屋久兵衛(富十郎)が、松山を恋焦がれて踊るというもの。富十郎と雀右衛門の当たり役ですから、今回初役となる菊之助には少し荷が重過ぎる、というのが従来からの歌舞伎ファンの感想かもしれません。確かに雀右衛門が全盛であったなら、それはそれは素晴らしかったであろうと思います。あの年齢でありながら雀右衛門はいまだに妖艶なオーラを放っていますから。

しかし、この踊りを始めて観る私には、松山を演じる菊之助の若さと美しさ、久兵衛との恋の駆け引きや廓遊びの艶やかさ華やかさなど充分に満喫することができました。最後に松山が消えた後の舞台の上の虚しさとはかなさは格別でありました。また「劇場の天使」というブログのハンナさんの感想とはとは全く異なって、舞台からは「濃厚な官能」をビンビンと感じました(演じている二人の年齢差など全く関係なく)。ハンナさんは続けます

大ベテランでこの踊りで一時代を築いた富十郎と初役の菊之助に同じレベルを求めるのは酷な話ではある。

通の眼から観ると、それほどまでに違いがあるのでしょう、それは否定しません。渡辺保氏も菊之助の松山は初役で仕方がないが、体が硬く、動きが重い劇評で書かれいます。でも私にとっては、この「二人椀久」は良かった。

それにしても今風に言うならば、キャバクラ嬢に入れ揚げて、挙句の果てに昼間(夜か?)から幻想を観てさ迷い歩く・・・という風情。歌舞伎にはこの手の退廃的なテーマが多いですなあ。「保名」にしても恋に迷って踊り狂うというテーマでしたよね。

つづいては「水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)」。明治維新により武士階級がなくなり、筆職人として極貧生活を強いられる船津幸兵衛(幸四郎)の物語。妻に先立たれ、借金取りに追い立てられ、乳飲み子や眼の不自由な子ら三人を養うことができないあまり、幸兵衛は一家心中を図りますが、あまりの苦悶に気がふれてしまいます。この演目は泣かせとともに、この発狂に至る演技が見ものになっています。歌舞伎には、こういう具合に「発狂する過程」とか「酩酊してゆく過程」を純粋に楽しむという嗜虐的な嗜好があります。

幸四郎は、こういう芝居はなかなかうまく、ついつい引き込まれてしまいます。しかし、ふと我にかえると、演技の余りのリアルさに「これは歌舞伎なのだろうか・・・?」という疑問が胸に沸いてこないわけではありません、どこかナマすぎる、幸四郎の演技は歌舞伎と現代劇のギリギリの境界を行ったりきたりしている。そういう点に抵抗を感じないわけでもありません。

芝居は河竹黙阿弥による明治一八年(1885年)の作。ツケも浄瑠璃も入る歌舞伎のスタイルを踏襲したものですし、ラストのハッピーエンドも、あまりにお気楽な歌舞伎的ファンタジーの世界を描いています。もっとも私はこれがなければ暗い気持ちで歌舞伎座を後にしなくてはならなず、救われません。

さて肝心の十三世片岡仁左衛門十三回忌追善狂言であった「水天宮利生深川」は、あまり書くことがありません・・・というか、寝てしまいました(^^;;; つまらなかったというわけではありません。体調が悪かったのです。

「近頃河原の達引」も「水天宮利生深川」も、貧乏な市井のつつましい人たちが主役になっていますが、舞台では極貧はあんまり観たくないなあと。莫迦らしくても退廃でもいいから、豪華で華美で阿呆のような放蕩の方が歌舞伎的精神にはあっているかなと・・・。生活が苦しくて発狂するってのは、なんだかドストエフスキーらの描いたロシアを彷彿としてしんどいです。

2006年3月15日水曜日

ベートーベン:交響曲第3番&8番/クナッパーツブッシュ

Archipel RecordからクナッパーツブッシュのベートーベンがHMVで1000円という廉価盤で販売されていました。「クラシック・ジャーナル 17号」でSyuzoさんが53年盤の「エロイカ」をベースにクナッパーツブッシュを語った企画を思い出し購入してみました。 

しかし、こと「エロイカ」に関しては、この盤は「失敗」でした。音質が悪く、この演奏で楽しめと言われても、それはちょっとムリかなと。クナの片鱗くらいは伺えるのかもしれませんが、後日もう一度聴こうという気にはなりませんでした。クナの熱烈なファンであるSyuzoさんも交響曲第3番は塩ビの長いパイプの中で鳴っているような音評されていますが、それは聴き終わった後に読みました。機会があれば別の盤を入手することとしましょう。(>仕方ないので二度聴いてみたら慣れてきて、それなりに楽しんでいる自分がいたりしますが・・・、それでも人には薦められません)

一方、交響曲第8番は非常に良いです。「塩ビパイプ」の中で鳴るような貧弱さを耐えた後では、一気に「土管」にまで空間が広がったというか、あるいは土管の中から眺めた空のよう視界が開けた感じ。もっとも、あくまでも音質上からの印象に過ぎませんが。

演奏の方は、これはもう堂々としたベートーベン。しかもベートーベンにしては深刻に傾かない曲の輪郭をくっきりと描ききっている。ベルリンフィルの個々の技量も安定感があります。特に第3楽章のホルンの部分は良い。第4楽章も着実に演奏は進む、急くことはせず確信的な響きを刻んでいるように聴こえる。曲調は軽いのに演奏は演奏は決して軽くはない。

2006年3月13日月曜日

森まゆみ:谷中スケッチブック


先週は日暮里から谷中、根津を通り本郷から御茶ノ水に抜けて散策をしてみましたが、谷中、根津(それに千駄木)といば森まゆみさんです。この本が書かれたのはかれこれ20年以上も前のこと。85年の東京といえばサントリーホールもまだなく六本木ではアークヒルズがまさに建設中、バブルの狂乱はこれからという時です。

本書は谷中は動坂に生まれ育った森さんが、谷中の歴史的な成り立ちから今の姿までを限りない愛着と憧憬と希望を込めて描ききった秀作です。背表紙は焼け埃をかぶっていた本書を久方ぶり(20年振りに)に本棚から取り出して読み返してみました。

谷中の印象といえばお寺とお墓、そして下町情緒といった印象でしょうか。森さんは谷中の古い家や町のたたずまいは残り、今も「江戸のある町」といわれるくらい、昔の面影がある。人情もまた一段と濃い。職人の手仕事、人びとの生活ぶりなども無形の文化を伝えている。 と書き、

この町の姿はどこまで存続していくのか。それを考えながら、谷中の町を逍遥してみよう。(「江戸のある町」P.25)
と読者を誘っています。本書を読んでいると、この言葉の通り森さんと谷中の町をプラプラと歩き、店先で立ち話でもしているような気持ちになれて大変楽しい。そして露伴や鴎外、漱石を始めとして明治の文豪やら芸術家らの舞台となったこの街が、限りなくいとおしく感じられてきます。

ところで、こうした谷中の魅力が現在にあっても効力を失わないということはどういうことなのでしょう。失われた(または、つつある)ものへのノスタルジー、日本人の原風景、マスコミ主導の流行など、いろいろな要素があるのだと思います。それでも連綿と谷中が谷中であり続けているということは、日本人の深層に訴えかける重層的かつ根源的な精神風景が、谷中の断面からはいまだに立ち上ってくるからではないかと本書を読んで感じました。谷中には人を通じた歴史的連続性を見出すことができると言うこと。

私は生粋の道産子ですから江戸や東京下町的な「皮膚感覚」は皆無です。それ故になのでしょうか、肌で感じることのできる連続性にはゾクゾクするほどの興味を覚えてしまいます。

森さんがこの本を書かれてから20年、いったい今の谷中は何が変わって何が変わらないでいるのでしょう・・・。暇があれば、幸田露伴の「五重塔」でもポケットにつっんで再び谷中に訪れてみたくなりました。

2006年3月10日金曜日

音楽の持つ力


仕事でボーっとした頭で何気にいつも訪れるブログをチェックしていましたら、鎌倉スイス日記の「消費文化と芸術・・・難しい!!」というエントリが目に止まりました。今はこれについてあれこれと考えるほどの気力もありませんので、思いついたことのみメモしておきます。Schweizer_Musikさまに対する問題提起でも批判でもありません、単なる自己確認です。



「芸術」という言葉は、私はサブカルチャーが台頭してきた1980年代後半を境に死語となったのではないかと思っていますので、改めて「芸術とは何か」と考え始めると正直アタマが混乱してきます。


「売れる音楽」=「普遍的音楽」=「芸術」であるなんて誰も思っていませんし、ましてや現代において「売れる」ためには大掛かりなプロモーションも重要な要素であることはSchweizer_Musikさまご指摘のとおりだと私も感じています。オリンピックを期に売れ続けている「トゥーランドット」も、荒川静香というプロモーターが居たからなのでしょう。


もっとも、いくら大々的にプロモーションしても売れないこともあるわけです。音楽が良くなかったということの他に、受け入れる側にそれを受容するだけの準備が出来ているかということも重要なことかもしれません。時々「○○は生まれるのが早すぎた」だとか「やっと時代が○○に追いついた」と言うような評を目にします。


音楽は師弟関係や、さまざまなスタイルが影響しあっていますから、「ある前提(音楽)」の上「その音楽」が成立しているのだとは思います。ですから、例えばありえないことですが、モーツァルトの時代にストラヴィンスキーやBlack Eyed Peasの音楽が奏でられたとしても、当時の人達にとってはおそらく騒音でさえないことでしょう。

しかしそれであっても、音楽を進歩論的あるいは進化論的に捉えることには若干の疑問を感じます。上記は極端な例ですが、短期的な「売れる・売れない」は、時代の有する雰囲気との乖離を示しているに過ぎないと思います。


ハナシが全然それてしまいましたが、売れる音楽には売れるだけの理由があり、「音楽の力」があるという点です。


売れるということの中に、本当に人々の心の琴線に触れる何かがある。だから売れるのだという部分が存在することを、忘れてはならないのではないでしょうか。

良いメロディー、良い詩・・・、かっこいいアレンジ、サウンド、ルックス、ヒットする要素の中には色々なものがあるのですが、たとえばスマップの「世界にひとつだけ…」という歌は、スマップの人気だけでなく、歌そのものに力があるように思います。


私自身「音楽の力」を認める発言し、かつ「音楽には力がある」と実際思っているのですが、「多くの人に売れる」ということ、つまり音楽的なマジョリティが存在すること。このことに私は少なからず疑問を感じています。つまりある音楽がヒットするような社会ないしは個人が醸成されているということ。ヒットする条件としてのマジョリティの存在です。オンリー・ワンと唄いながらも、等しく共感するオールの存在。もっとも、個々に眺めれば個人が音楽から受ける風景は異なっているのだと思いますが。


私の場合はクラシック音楽を聴き始めたきっかけのひとつに「スタイルとしてのマイノリティへの逃避」という意味合いがあったことは否定しません。しかし、その狭い世界の中ではマジョリティに迎合している自分が居ます。もう一度考えます。プッチーニは売れてラフマニノフがそれほどでもないのはどうしてなのかと。(実は私が目にしないだけで両方売れているのか?)。うまく表現できなくて申し訳ありません。

2006年3月8日水曜日

音楽が語る以上のこと

クラシック音楽の垣根・・・?」というエントリに、ぽん太さんからコメントをいただき、レスを書いていたら予想に反して長くなってしまいましたので、ここに改めることとしました。

(とりあえずコメントに対するレスなので)こんばんは、かの本を読み始めたのですね。私自身、久々に楽しめる新書であったと思っています。

ところで西洋芸術音楽の「時代を超えた大きな思想」とか「精神性」についてですが、そこに着目しすぎると音楽本来の持つ魅力からどんどんずれていくように思うことがあるのです。少し前まで(今も?)日本の音楽界の本流はドイツ・オーストリアの音楽であり、ベートーベンなどに比べてチャイコフスキーは「精神的に深みが足りない」などと評されたものです。また指揮者にしても、ドイツ・オーストリア系を振らない指揮者、あるいはピアニストは、どんなに人気があってもホンモノではない、という評価は未だに耳にするところです。

ところが、この「思想」とか「精神性」、あるいは「ホンモノ」というのが、どこか胡散臭い。純粋音楽に標題性や歴史性を、更にはそこから思想や精神性を聴き取ることは、妄想とは言わないまでも結局はごく個人的な事柄でしかないという思いが捨て切れません。

個人的なことになりますが、私は小学生の頃から国語が大嫌いでした。特に「この文章のテーマは何か、作者の言いたい事は何か」という問いは、ほとんどはずしていました。どんなに読んでも、回答のようには考えられない。それ以来、作者が意図したとおりに読者に伝わるということは、私の経験からすると、ほとんどありえない、万人が万人的に解釈することこそが正しく、正解を求めることが間違っている、と勝手に思うようにしました。

ですから、作曲家のごく個人的な事情(作曲の背景や主要主題の意味的なもの、あるいは極めてプライベートな書簡類)まで理解した上でないと西洋芸術音楽を理解できないとしたならば、それって一体何なんだろうと思うわけです。モーツァルトにしても、自分の音楽を聴く人が作曲家のスカトロ趣味や妻との性生活を熟知した上で作品に接することになるだろうなんて、想像だにしなかったハズです。

音楽ではなく美術に転じますと、キリスト教の宗教画や17世紀頃のオランダの静物画またはブリューゲルの幻想絵画などに隠された寓意を知ることは、作品解釈において重要なファクターですし、その理解する過程そのものがスリリングな楽しみを伴うことは否定しません。しかし、ぽん太さんのお好きな歌舞伎にしても、時代背景や文学性に拘泥しすぎると、歌舞伎本来のもつ魅力が硬直化したように感じる瞬間はないでしょうか。それらを知らなければ作品を楽しめないということは、決してないはずです(各人が各様に楽しむだけ)。

音楽も同様に「そこから聴こえる以上のこと」に拘泥しすぎること、何かが聴こえなくなることもある、音楽の聴き方を自ら制限することもあるのではないかと。(ここは、こう聴かねばならない、とか、こんな音楽ばかり聴いていてはダメだとか。中途半端な聴き方ではだとか・・・) 

私は学者でも音楽家でもなければ演奏家でもありません。そういう深い理解まで、作曲家が果たして期待していたのかと思うと、案外そうではないかもしれないと思うこともあるのです。

たとえば、トリノオリンピックで金メダルを取った荒川静香さんの演技の裏話は、週刊誌やワイドショー的には面白いでしょうが、彼女の過去や境遇を知らなければあの演技に感動できなかったか、といえば嘘になる。「演技が語る以上のこと」を知る必要が一体どこにあるのかと。

2006年3月6日月曜日

クラシック音楽の垣根・・・?

岡田暁生著「西洋音楽史」のエントリに対するぽん太さんコメントを読んで、あれこれと考えていたところ、音楽ジャーナリスト林田直樹氏のブログ(LINDEN日記で引用されていた石田衣良氏の言葉がたまたま目に止まりました。

石田さんはモーツァルトや現代音楽などがお好きだった理解しています(確かロマン派はダメみたい)。

「実は本当に一番素晴らしいのは、芸術そのものではなくて、それを『素敵だ』『面白い』と感じることができる人の心である。三百年前のオーストリアの作曲家が注文仕事で書いた音楽を聴いて心から感動できる。人間の心のキャンバスのほうがどんな芸術よりもうんと広大なのだ」(石田衣良)

全く同感。クラシックの敷居をすごく下げてくれる言葉ですね。「大作曲家の残した偉大な音楽」という権威よりも大事なもの、それは「聴き手の感受性」だと言っているのですから。

え? 本当にそうなのか?素晴らしいのは聴く人の心で、感受性が一番大事であるということ。

それはそうなのですが、魚の小骨のようにひっかかる言葉です。私の深層のどこが「違う」といっているか、掴むことができません。従って、このエントリは批判ではなく留保です。芸術を「面白い」と感じる心がなければ、その芸術がどんなに偉大な可能性を秘めていても当人にとって意味のない(つまらない)ものであるということは対偶として真でしょうか。

私は芸術が、作曲家の思想や理念こそが個人を凌駕すると思ってはいません。また、芸術の権威やブランドをことさら持ち上げる気持ちも、できるだけ少なくしたいと思っています。万年クラシック初級者の私のこと、ついつい有名作曲家の評価の高い演奏ばかり聴いてしまいがちですから。自分の目や耳を信じて、これが「良い」と感じること、すなわち自分の感受性や感性を信じて評価するということは、意外にも物凄く難しいことだと感じています。なぜなら、今まで積み重ねてきた自分が全て露見される瞬間だからです。

仕事の場面においても、「女性的感性」だとか「感性の豊かさ」が必要などという場面に遭遇します。感性は何もないところから生まれてくるものではないし、生まれつきのものでもない。それこそ、裏で磨いたり研ぎ澄ましたり鍛え上げたりすることをして、初めてキラリと光る感性が生まれる。感受性というのは、そういう極めて自発的で主導的な活動を通じた末の偶発的な産物であると思うのです。磨かれた感性は、モノの本質をズバリと見抜くことも場合によっては可能でしょう。

内田樹氏のブログにある以下の文章が、似たようなことに言及しています。(内田樹 研究室「言葉の力」より)

「創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される。自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず『次の単語』が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られるのは論理的で美しい母国語が骨肉化している場合だけである。」

では、そういう練磨の上での感受性がなければ、例えば西洋芸術音楽(クラシック)を受け入れることができないかといえば、これまたそうでもない。ある瞬間にあるフレーズを聴いてバーン目覚めることもあれば、これってイイね、としみじみと思うこともある。しかし、何故目覚めたのかを自分の中で追求すると、感性の変化を生じた遠因がどこかに潜んでいることに気付くはずです。

ところで石田氏や林田氏の発言は『自分達の好きなものが素晴らしいもので、感受性の豊かな貴方達が聴けば、きっとどこかで「感じる」部分があるはず』ということをは一方的に期待しています。その発言の裏には、そういう音楽を、自分達はやっぱり素晴らしいと感じていて、感動できる自分達の感性が素晴らしいと認めています。では、そういう音楽を「面白い」と感じられない『感受性』の存在を彼らはどう考えるのでしょう。『え?こんなに素晴らしい音楽を「感じられない」なんて、君たちの心のキャンパスは濁っているのか?』とは言わないでしょうが。

こんなことをついつい無意識のうちに考えてしまったので、彼らの無邪気で無自覚な感受性賛歌には一瞬ひっかかってしまったようです。私のこういう回りくどい感じ方や態度こそが、知らずのうちにクラヲタ的偏狭さに陥ってるという査証なのでありましょうか。あるいは、今読んでいる本の影響でしょうか(その話題はまたいつか)。

ぽん太さんの問いには未だ答えられず。

暇なわけではないのだが、天気がいいとヤル気にならない

仕事が溜まっているので日曜出勤でもしようかと思っていたのだが今日も天気が良い。昨日も好天でだったのに、意に反し15時から22時まで会社で悶々としてしまったので、さすがに今日も出勤するのがアホくさくなる。本とiPodを鞄にぶち込んで目的もなくJRに乗り込み、以前から気になっていた方面を散策することとした。(注)以下は本人以外はほとんど意味のない文章。

まずはJR日暮里駅で降りて谷中霊園に向かう。谷中は観光スポットとしても有名になってきたので休日の霊園だというのに線香も持たずカメラを携えた人が多い。桜並木をぽくぽく歩いて気分を良くするが、開花にはまだまだ。霊園だけあってカラスが多くウルサイ。石原都知事に抹殺対象とされたかの鳥達は、こういう場所をネグラとしていたのか。

霊園内には徳川慶喜の墓があるというので行ってみたが、塀の外から伺い見ることしかできない。もっと堂々としたものかと期待したのだが意外と簡素。その後寛永寺まで足を伸ばす。街頭の地図を見て初めて気付いたのだが、寛永寺は上野の東京国立博物館のすぐ裏に当たる。航空写真で上野方面を眺めると(寛永時の境内にある)JR線が大きな河の流れのようだ。上野と合わせて考えると徳川幕府の都市計画の一環が透けて見える。ここらあたりは「上野の山」といわれるだけあり、寛永寺越に御徒町方面を眺めると遠くのビルの屋上が同じ視線に見えている。

寛永時の前を過ぎ国立博物館を裏手から正門に廻る。今月末から「最澄と天台の国宝展」と「国宝・天寿国繍帳と聖徳太子像展」が企画されている。おおっ!と思ったものの、これまた会期中は激混みなのだろうなと観る前から気分が萎えてくる。博物館の敷地内を伺い見ると梅が咲いていた。

東京芸術大学旧奏楽堂の前を通り藝大美術館へ。何かやっていたら観ようと思ったが、入試シーズン中なので閉館中。ちょっと残念に思いになりながらも、まあいいやと言問通を根津の方へ歩き始める。ここら当たりから道はグッと下がっている。坂の途中には墓地と寺というのは中沢新一氏の「アースダイバー」的風景。

谷中や根津の周りは、いかにも「下町」的。若者達がもの珍しげにウロチョロしている(私もその一人、ただし若者ではない)。現代のガラスと金属やコンクリートの建物を見慣れた目には、単に古いだけの木造下見板の家など、それだけで珍しいのだろう。街を歩いているとどこか懐かしい気分になることは否定できない。一体、日本は何を造って何を壊してきたのか、などということは考えない。

下町情緒をちょっとだけ感じながら、なるほどなるほどと訳の分からないことを思う。不忍通りを越えると、道はまた登りに転じる。その転じた先にあるのが東京大学

考えてみたら東大って行ったことがなかったなと思い弥生門からキャンバス内へ入る。垂直線を強調したデザインの建物が権威と上昇志向を象徴しているよう、ただし施設は恐ろしく古い。某学部に勤める旧友から聞きいていはたが、ここまでとは。建物に歴史的価値があるようなので壊すに壊せないジレンマを抱えているのだろう。

安田講堂は初めてホンモノを目にしたが驚くほど小さいことに拍子抜け。放水銃と火炎瓶の記憶はどこを探しても見当たらない(当たり前)。キャンバス内は休日のせいかカップルや観光客や犬連れの家族などがチラホラする程度で人影もまばら、平和である。三四郎池もせっかくなので見てみる。ここの水はどこから沸いてくるのだろう、上野の不忍池とともに繋がっているのだろうかと、東京の地下を脈々と流れ、行き場を求めてさまよう暗い水の流れに思いを馳せる。窪地になったこの場所は東京とは思えないような空間を形成していてとても素敵だ。

赤門を潜り抜け、ついで(何のついでだ?)なので本郷通りを通って御茶ノ水にまで出てみる。神田川を越えた途端に若者がウジャウジャ沸いてる。神田川は相変わらず汚いが、紅梅が川沿いに咲いていた。御茶ノ水駅を降りた景色というのは、東京の私学の方々にはおなじみだろうが、私からするとグロテスク以外の何ものでもない。そのグロテスクさを更に際立たせるように、秋葉原方面に更に巨大な建造物が聳えている、イヤハヤ。こういうグロテスクさも、キライではないのだが・・・度を越しているな。

いささかゲンナリしながら御茶ノ水駅前の喧騒を避けニコライ堂向かう。教会はこれからまさに夕刻の祈祷の時間、燭台に蝋燭を灯し始めている。ドームのステンドグラスが西日を投下して天井にきれいな光を投げかけている。キリスト教の精神にはちょっとついていけないので、祈祷が始まる前に退散。そういう割りに、このときiPodで聴いていたのは、やはりバッハだったりする。

かなり疲れてきたが頑張って神保町の古本街へ。日曜日はこの街は半分くらい眠ったみたい、ほとんどの古本店のシャッターが下りいる。平日来なくてはダメなのだな。ただ神保町界隈には魅力的な喫茶店が多いことを発見。旨い珈琲でも飲みながら持ってきた本でも読もうと、ある店に足を踏み入れたら「あと15分で閉店です」と言われ断念。楽しみはまた後ということだろうか。


2006年3月5日日曜日

バッハ:インヴェンションとシンフォニア/グールド

定期的に拝読しているブログ日用帳『インヴェンションとシンフォニア』についての言及がありました。グールドの盤がiTunesに入れてあったなあと思い出し、エントリで触れられている四方田犬彦氏の文章を読みながら演奏を聴いてみました。

2006年3月2日木曜日

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第1番&2番/小澤&Zimerman

あちこちで絶賛されていた盤、去年買っていてiPodにも入れていたのですが、オリンピックも終わりましたし、このたびやっと落ち着いて聴いてみることとしました。

まずピアノ協奏曲1番の冒頭の打鍵の凄まじさに思わずのけぞります。激しいながらも暴力的ではなく、硬質なガラスが一気に砕け散るかのような爆発的美しさ。Zimerman弾くピアノの粒立ちは特筆もので、どこの断片を切り取ってもキラキラと何色にも光っています。表現も鋭利ではありますが、しかし演奏は少しも冷淡ではない。いやむしろ硬質な光の中に熱い火が隠されているかのようで、ヘタに触れるとやけどしそうなくらい。第1楽章はあっという間に過ぎてしまいます。

第2楽章は、打って変わって泣きたくなるほどに美しい。しかし表現は抒情と感情に溺れてはいない、適度に理知的にコントロールされた演奏は一線を越えることを踏みとどまります。

Allegro Vivaceの第三楽章は再びZimermanのピアニズムが弾けます。どこまでも曇りのない音色は快感と眩暈さえ覚えるほど、高度なピアノ演奏を聴く愉悦を充分に堪能できます。

続くピアノ協奏曲第2番の冒頭の和音の重いこと。低い重心から奏でられる音塊はまるで鉛のようでありながら、驚くべき機動性を発揮します。実に強靭なピアノニズムです。この通俗名曲に近いメロディーから、こんな迫力を生み出すとはっ!重さと軽さ、深刻さと軽やかさを自在に行き来しながら、バックでは小澤のボストン響が端正かつ、きっちりと抑えています。出すぎてこないところが好ましい。

これまた第2楽章が夢見るほどに美しい。ゆったりとしたピアノのアルペジオを聴いているだけで、静かな別世界で悠久の時を思うかのよう。チャイコフスキーの交響曲第5番の第2楽章を彷彿とさせるロシア的ロマンティシズム。第3楽章はもはや文句なし、ラストなどカッコ良すぎて惚れ惚れ。

言葉野遊戯」というブログで

このラフマニノフの旋律をピアノで表現するのって、高貴さが必要。

気品が感じられないと、それはまるでR・クレイダーマンのショウを思わせる(^^;)、

と書かれているますが、一方で逆の方向で間違えると泥臭くなったり土砂降りの演奏になりかねない。泣き崩れないリリシズムこそがラフマニノフには美しい、そしてそこがチャイコフスキーとは一線を画するところだと思うのです。

しかし、ここまで「褒め殺し」のような書き方をしましたが、アシュケナージの名盤と聴き比べてみると、私はアシュケナージの演奏の方を好ましく感じます。それが何故なのか、その差異を表現する語彙を私は持ちません。

2006年3月1日水曜日

八柏龍紀:「感動」禁止!―「涙」を消費する人びと


先日やっとトリノ・オリンピックも終わりました。今回はあまり観戦することができませんでしたが、荒川さんの演技は素直に素晴らしかったですね。

ところで、某所のロビーに設置された大型液晶画面に流れるフィギュアの録画中継を見ていたところ「アラカワは凄かったけど、アンドーはいらねーよな~」との話し声が聞こえてきました。安藤さんについては日本スケート連盟の思惑、本人の精神的弱さ、それに調整不足など指摘すべき点は多々あり、思うような成績は上げられなかったものの、何もしていない我々が彼女の結果だけを非難できる筋合いではなかろうにと、見知らぬ二人の会話を聞きながら思ってしまいました。

ところで、オリンピックやサッカーに限らず、スポーツを観戦して感動することは否定しませんが、最近のメディアの感動の押し売りや「感動をありがとう」というコトバには言いようのない気持ち悪さを感じています。一方でスポーツ選手の「私の笑顔を見てください」や「皆さんに楽しんでもらえたら」などの発言も、プロでもないのに何故観客をそこまで意識するのか、という違和感を感じずにはいられません。

あるいは「今年一番泣ける映画」というフレーズです。いかに泣いたかということを臆面もなく語る若者の姿をテレビの宣伝などで目にすることも多いでしょう。

しかし、ちょっと待てよと、泣くことを求める者たちは、もしかすると泣くことでカタルシスを得る以上に「泣ける自分」に酔っているのではないか。すなわち映画や小説という虚構の世界で泣ける自分の純粋性こそがいとおしいのではないかと思い至りました。

さらに敷衍すれば、自分のも含めてですが、ブログが隆盛なのは、手軽さ故ということもありましょうが、自分を顕示することで暗に自己愛を表現しているのではないかと感じています。皆んな「自分が一番」で「自分が大好き」なのではないかと。(>感情的なCDの感想をタレ流している私の言う台詞ではありませんが)

そういうモヤモヤとした疑問にひとつの回答を与えてくれるのが本書です。八柏氏は最近の日本のこうした傾向を「消費行動」という観点から幅広く考察し分析しています。語られている内容が余りにも広すぎ、テーマが逸散してしまいそうになっている点や強引な点散見されますが、ある種の総括を与えている本ではあります。

中でも同感できた点は、感動を消費する彼や彼女らが、きわめて無自覚であり、かつイノセントであるという点です。私事ですが、30代前半の同僚と、東京ディズニー・ランド(TDL)について話していたときの会話を思い出しました。

    同僚「TDLって、すっごくよく出来ていますよ。客を楽しませるにはどうしたらいいかってことが、考え抜かれている。一度、行ってみたらいいですよ。」
    「・・・そもそも、ミッキーとかドナルドとか全然好きでないし、ああいうところで楽しませてもらうのって、ノセられているようで恥ずかしいって言うか・・・(オリエンタル・ランドではなく)ウォルト・ディズニーのコンセプトの凄さは認めるけどね(能天気なアメリカは嫌いだし)・・・」
    同僚「私だってミッキーとか別に好きなわけぢゃないですよっ。でも、行きもしないで批判するのってオカシイですよっ! ゼッタイ、楽しめますよっ!」
ああ・・・このイノセントさに反論する術を私は知らない・・・いや、いいんですよ、楽しんでいるヒトは。ン十年前に二度ほど行ったことはありますし、私も。

って、これは本の感想なのか?