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2007年7月29日日曜日

映画:インランド・エンパイア


恵比寿ガーデンシネマで上映されていた、デイヴィット・リンチ監督の『インランド・エンパイア』を観てきました。私は映画ファンではありませんので、前作『マルホランド・ドライブ』は観ていません。学生時代に『イレイザーヘッド』(1976)、『エレファント・マン』(1980)を観ましたが、全く理解不能で気分が悪くなったことを思い出します。TVでブレイクした『ツイン・ピークス』、これはハマりました。しかし意味の半分も理解していましたか・・・。


で、3時間にも及ぶ本作です。かなりスリリングな映画で、次の展開が全く読めませんからぼんやりと寝ている暇なんてありません。目をつぶったら最後、自分が今眼にしている映像が、何時の時代で何処の場所の物語なのか、誰が出ているのかさえ分からなくなってしまうかもしれないのですから。



映画解説や雑誌には、錯綜する五つの物語が重層構造的になって展開するように説明されています。次第にこれは、ハリウッドの世界だとか、ポーランドの何処かだとかは分かってきます。しかし、それが分かったところで、何になるというのでしょう。作品の振幅は大きく、ゆらぎ、そして時空ごと乱れていきます。


一体に、主役である女優ニッキー(ローラ・ダーン)は何歳という設定なのでしょう。それ程の美人ではないので、映像のアップを眺めるのはかなり苦しい(そもそも、人物アップがとても多い映像)。それでも役によってめまぐるしく変わる彼女の風貌は、作品に得も言われぬ深みと、ある種の厚みを与えていました。


��Vを観て泣く女、冒頭から陰鬱です。何故に泣いているのか、彼女は何を観ているのか。最後にその謎らしきものが分かります。しかし、その「解釈」とて、彼女の復讐と救済の物語だったなんて考えると、途端に白けてしまいます。それだったら今までのフリは、この3時間は一体何だったの!と。


泣き女は救われたとしても、ぢゃあ、ニッキーは救われないのか?確かに救われませんね。あのラストの脳天気さにカタルシスを感じますか?ヤケっぱちささえ感じますが・・・脳天気に踊っているのは彼女ではありませんよね。彼女は、何事もなかったかのように、いや、全てを経験したかのように、微笑みながらソファに横座りしています。あの浮浪者に看取られての「死」のシーンは強烈でしたからね。


それにしても、これは女性の物語です。リンチは本作をabout a woman in trouble, and it's a mystery, and that's all I want to say about it.と語っているそうです。womenではなくA womanですから、ニッキーを指しているのは自明でしょうか。それでも登場する女性達の運命は、それぞれです。男性も登場しますが、支配的で性的にして暴力的という描かれ方に終始し、女性の送る人生に比べ刺身のツマ程度の役割しか果たしていません。夫なのにツマとはこれいかにです。そのツマが女性の運命を暗くも明るくもします。娼婦たちの退廃した明るさは儚くもエロティックで、しぶとく、強く、そして美しい。助監督のズルさとは対照的です。


いや本作に意味や物語を求めるのは野暮でしょうか。自らの行動の曖昧さ、現実と幻想の、現在と過去の溶解。重なり輻輳する人生と突き動かされる内なる衝動、崩壊。催眠と無意識。行動には結果が伴うという蓋然と偶然。愛とエロス。生と死。それらにノイズとノスタルジーが被さり、茫と霞んでゆく・・・。


音楽はキャロル・キングの「ロコモーション」がベタで印象的。ベックやペンデレツキなども使用されていたようです。私は映像と合わせて、ずっとノイズが鳴っていたような気がしています。いや、映像そのものが、壮大なノイズであり混沌。生半可な解釈はやはり不要でしょうか。


��S.
ペンデレツキの何と言う曲が使われていたか知りませ。NMLでヴァイオリン・ソナタを聴きながらレビュを書きました。ペンデレツキ!いいぢゃないですかっ!(>いちおうクラ音楽ブログだしね)


2007年7月23日月曜日

スティーブ・ジョブズ-偶像復活



この本をどのような目的あるいはコンテキストに当てはめて読むかで読後感は変わるかもしれません。Appleの創業者にして最近のiPodのヒットをとばしたジョブズの波乱に満ちた半生を一気に読ませる筆致で描いて見せた作者の力量は見事です。多少の誇張やジョブズに対する偏見が透けてみえようとも、とにかく本書は圧倒的に面白いのです。


ビジネス書として読んだ場合、彼の性格や行動が破天荒であり天才的過ぎるので、一般人が参考にできることは少ないというアマゾンの読者レビュも目にします。





まあ、それはそうでしょうが、先に紹介した「ビジョナリー・カンパニー」や「ビジョナリー・ピープル」を思い出しながら読んでみると、ケーススタディとして結構面白く読めます。


ジョブズはアップル創業前に、スティーブ・ウォズニアックという天才と強引にコンビを組みます。


ブルーボックスという成功例もあるのだから、また、何かを作って売れるんじゃないかと思われた。問題は、その何かとは何なのかだった。
(P.50)


これなど、まさに「まずバスに乗せる人を決め」てから行く先を決めるという「ビジョナリー・カンパニー2」の指摘そのままです(残念ながらAppleはビジョナリー・カンパニーとしては選定されていません)。


スティーブ・ジョブズは、家庭やオフィスにコンピューターを売ることを通じて世界を変えられるというビジョンを提示した(P.75)


これは「ビジョナリー・カンパニー」で提唱された基本理念やBHAG(Big Hairy Audacious Goals=のるかそるかの冒険的な目標)に当たるものでしょうか。ジョブズは自分が具体的に何をするのかについては紆余曲折するものの、自分がどうありたいのかは理解しており、そのことに驚くべき情熱とエネルギーを賭けたことが分かります。


こうしてジョブズを考えてみると、経営トップの中には、ジョブズ的な性格を有している人も少なくはないでしょう。それであっても、誰もがジョブズにはなれないという事実、ジョブズはジョブズでしかない。ジョブズのような才能は、世界でも極めて稀であり、それ故にiCON=偶像になったわけです。彼の考え方や生き方をマネてもジョブズにはなれないんですよね。



本書の主眼がジョブズの人間的成長という面に重きを置いているとしたならば、それは成功しているといえましょう。ジョブズを知る上では格好の書です。でも、何故Appleが魅力的なのかは、依然として謎のままです。


また、ジョブズがAppleに果たした役割についても(それは映画会社pixerについても同様です)、かなり限定的な描かれ方をしています。それでも、パーソナル・コンピューター、アニメーション映画、音楽の三つの業界で多大な影響力を与えたのはジョブズの手腕であると説明しています。


デザイン・センス、卓越したプロモーション能力、論理を超えた直観力、組織を導くカリスマ性だけでは数十年に渡り、巨大な組織を率い、消費者を惹きつけておくことはできないハズです。そこのところが本書の記述からはクッキリ見えてこずに、少しもどかしさを感じないわけではありません。

2007年7月21日土曜日

美しい国へ、とてつもない日本


参院選真っ只中、自民党がどこまで議席を確保できるかが焦点になっているようです。「美しい国へ」を書いた安倍政権は支持率が低下しており、指導力不足からか、どうも人気がないようです。対する麻生氏はどうでしょう。「アルツハイマー」失言*1)で足元を掬われなければ良いですが。

実は私は期日前投票を既に行っています。どこに投票したかは明言しませんが、「積極的に投票したい政党や候補者がいない」という事実と、政治に対する期待度の薄さに、このままでは日本はマズイのではないかと思っています(>かといって具体的な行動は何もしませんが)。

政治家として安倍氏と麻生氏を比べるつもりはありません。それでも両者の本を読み比べると彼らが政治家として何をしたいのかは良く分かります。二人とも日本を立て直したいという点では一致しています。ということは日本は「ダメ」な国になってしまったのでしょうか。
だとすると、それは一体いつに比べて「劣って」いるのでしょう。近代国家成立以降であるならば、日清・日露戦争に勝利した明治から大正時代ですか、大東亜戦争の時代ですか、あるいは終戦処理とその後の経済的復興の時代でしょうか、いや「JAPAN AS NO.1」と呼ばれた時代でしょうか、はたまた・・・。

考えるに、日本が世界に対して大きな発言力を有していた時代、あるいは日本の去就に世界が注目していた時代というのは、過去にあったのでしょうか。トヨタやソニーを始めとする日本を代表するメーカーは、品質、コスト、そしてブランド力など海外に大きな影響力を与えました。しかし経済的効果から離れて、国際政治的な面での日本の影響力を考えたとき、日本は海外からどう見られているのでしょう。日本は本当に「落ちた」のでしょうか。

麻生氏は日本も捨てたものではない書きます。失った自信を取り戻させようとするのは結構なことです。日本の一部の人たちは歴史的には自虐的な過去を、国際間においては米国追従を嘆く姿勢に傾きがちです。では、日本はどの分野においてリーダーとなりたいのでしょう。日本としての存在感を、どこで出したいのでしょう。麻生氏はサブカルチャーなどは日本発で世界が注目していると説きます。またアジアにおいてしなやかなネットワークを作りたいと書きます。

それもいいでしょう。日本経済新聞を読んでいますと、日本が狭い国内の豊富な消費力に甘んじいる間に、グローバルな標準からズレてしまい、国際的な競争力を削いでしまったという論調が目につきます。日本がモタモタしている間に、韓国、中国、インド、ロシア、そして北欧などの諸国が凄まじい勢いで力を付けてきいます。結果的に高度な技術力があるにも関わらず、日本の地位は相対的に低下しているのだと。

2月に中国に仕事で行きました。読むのと見るのでは大違い、中国の目覚しい発展ぶりには度肝を抜かされました。それも20年前の卒業旅行依頼の中国訪問でしたから、その差異は尚更でした。他の国々も程度の差こそあれ同様なのでしょう。

そういう変化の激しい状況の中にあって、日本は国際的にどういう地位を占めたいのか(国連の常任理事国になりたいとか、そういう表層的なことではなく)。ビジョンからブレイクダウンして日本の国内政策はどうあるべきなのか。こういう問題は経済主導ではなく、やはり理念=政治の問題だと思うのです。国家も企業も個人も、その点での行動原理は同じであるように思えます。

麻生氏も安倍氏も、本に書いてあることは簡単な言葉で書かれていますから理解はできます。異論もありますが許容範囲内でしょうか。しかし、そこからさらに大きな枠組みや物語が伝わってこないのは残念です。

日本は国際社会の中で何をしたいのか、日本国の「生きがい」は何なのでしょう。日本はビジョナリーな国なんでしょうか、経済発展においてではなくてですよ。

  1. 麻生外相は、国内の農産物が高いと思われがちだとしてコメの価格に言及。1俵1万6000円の日本の標準米が、中国では7万8000円で売られているとしたうえで「どっちが高いか。アルツハイマーの人でもわかる。ね。こういう状況にもかかわらず、中国ではおコメを正式に輸入させてくれませんでした」などと述べた。(7月19日 朝日新聞電子版より)


2007年7月18日水曜日

ビジョナリー・ピープル

ビジョナリー・カンパニー 時代を超える生存の原則』と『ビジョナリー・カンパニー2 飛躍の法則』が極めて秀逸な本であったので、本書も期待して読んでみました。著者のジェフリー・ポラスはスタンフォード大学ビジネススクール名誉教授、「ビジョナリー・カンパニー」の著者の一人でもあります。

ところが訳がマズいのか、なかなか読み進められない。その上、前著に比べて今ひとつインパクトがありません。紹介されている人物が、日本人には余り馴染みのない人で占められているため親近感が沸かず、自分に引き込んで読めないという点もあるかもしれません。

ビジョナリー・ピープルとは、時の人や浮き沈みのあったカリスマ的リーダーではなく、自分自身の成功を定義し、最低20年以上その分野で長く続く影響を与えられるようになった人とされています。多くのリストから1000人に絞込み、最終的に200人を越える人とのインタビューを行ったそうであります。途方もない労力の結果、本書が出来上がっています。

私はこういう本を読むにつけ、「ビジョナリー・カンパニー」を読んで感じたように、このような研究に、これほどの綿密な計画と労力を払う人種と職業があるということ、そのことに驚きと感動をまず覚えます。

さて、内容はそれほどインパクトがなかったとは書いたものの凡作ではありません。紹介されているビジョナリーな人物が持つ楽天性、前向きな性格、そして情熱には、ほとほと参ってしまいます。間違っても私はビジョナリーな性格を有していないなと思い知らされます。

彼らには人生の意義が明確に見えており、自分が何をすべきか分かっています。「成功」を明確に定義しており、自分の内実と不連続なものとしてそれを位置づけています。

本書の第二章冒頭に書かれている次の言葉は、働くものや、働かないでいる者にとっても深く突き刺さります。

最近は、自分のしていることを好きになるのが大事、という議論が盛んになっている。(中略)多くの人たちにとって、本当の生きがいというのは、そうあって欲しいという感傷的な空想で終わってしまう。

実はこれが問題で、自分の大好きなことをしないのは危険なのだ。自分のしていることに愛情を感じない人は誰であれ、愛情を感じている人にことごとく負けてしまう。(P.54)

おそらく、これは極めて真実なのでしょう。しかし、それを実現できている人は、いったいどれほどの割合なのかと。本書を読み通して、そこに描かれていた人物の生き様を知った後で序章の次の一文を再読すると改めてハッとするはずです。

つまり、長期間にわたって続く成功と密接な因果関係があるのは、個人にとって重要な何かを発見することであって、企業にとっての最高のアイデア、組織構造、ビジネスモデルではない(P.9)

ここで定義される「成功」とは富や名声や権力のことではないことは勿論。

ビジョナリーな人にとって、成功の本当の定義とは、個人的な充実感と変わらない人間関係を与えてくれる、そして自分たちが住んでいるこの世界で、自分にしかできない成果を上げさせてくれる、そんな生活や仕事のことだ(P.30)

さて、自らに問いかけたとき、いかがか・・・。

2007年7月17日火曜日

[NML]ベリオの《フォークソングス》


iPodがご臨終になった今、こうなったらオレにはNMLがあるワイと開き直り、今日はベリオの《フォークソングズ》(1964)を聴きました。これはベリオが妻で声楽家であるキャシー・バーベリアンのために書いた曲。

ベリオと聞いて怖れるなかれ、林田氏が推薦しているように、この曲集は限りなく美しい。体の奥に、抵抗もなくすーっと入ってきます。伴奏も簡素ながら曲に非常にマッチしています。ところどころに挿入されるフルートの響きが実に素敵。11曲の曲集はイタリアやアルメニアなどの民謡がベースになっているそうです。

1曲目から唖然、2曲目は、言い知れぬ既視感に誘われるかのような優しさに包まれます。3曲目では思わず感涙・・・10曲目の《Lo fiolaire》も素晴らしい・・・。何を唄っているのかは分からねど、です。メゾ・ソプラノのJean StilWellの歌声も聴きやすく、短いので二度ほど続けて聴いてしまいました。



2007年7月15日日曜日

とある個展のメモ



7月のことになりますが、知人が銀座の画廊で個展を開催。仕事の入っている休日でしたが、昼前に行ってみました。

彼はインスタレーション作家ですので、展示作品はマジマジと鑑賞するといった類のものではありません。机上には彼が育てたらしい苔、そして鏡の上に水滴の王冠のようなステンレスの鋳物。壁には幾何形体を思わせる図形や植物とそのイミテーションが、絶妙のバランスであしらわれています。

作家は「作品とそれが置かれる空間の関係性」に強く惹かれ、このような表現形態に移行したのだそうです。素人の私にははっきり言って、ゲンダイ美術というとちょっとムツカシイくうまく表現できません。それでも、無駄なものを省いた、彼らしい緊張感と柔らかさ、そして清潔感の漂う空間構成を感じることはでき、その心地よさを味わえたという意味においては作家の意図が少しだけ伝わったかもしれません。

2007年7月3日火曜日

外山滋比古:思考の整理学

筆者の外山滋比古氏は、英文学者にしてエッセイスト。一読して、文章が旨いなあと。著者が一番書きたいことは、情報や思考を整理する方法ではなく、考えるとはどういうことなのかということのようです。本書の出版は1986年。まさにこれから本格的なコンピューター社会を迎える前兆が感じられつつあった20年前にあって、コンピューターにまかせられることはまかせ、自ら考える主体的なアタマとなる必要性を問いています。本書を学校教育が「飛行機型」の人間を作らずに「グライダー型」の人間ばかり作っているとの主張から始めていることからも、それは明らかです。

氏の考える=発想スタイルはというと「考えに考え抜く」というものではなく「発想は寝て待て的」なものであるようです。アイデアを「発酵させる」「寝かせる」、そして整理するということは「忘却させる」ということなのだと。また、ものを考えるには、「朝飯前」という言葉があるように朝が良いと書いています。

とはいえ、氏の「朝」というのは8時頃であり「朝」の状態を再現するために、朝食は食べずブランチに、食後は本格的な昼寝というスタイル。めまぐるしい現代人のそれでないことは確か。アイデアを「寝かせる」という氏の推奨するスタイルが当てはまるのは悠長な学者か、あるいは企業の研究員くらいではないのか、という思いもしないではありません。毎日が課題や問題山積みの企業活動においては、意思決定タイミングは極めてスピーディーでなくてはなりませんから。

メモとメタ・ノートという考え方も、今となっては全く目新しいものではありません。「複数の手帳を使い分ける」とかの題名で、文具店の販売促進に一役買っている雑誌が定期的に書店の棚を占拠しているのは良く目につくところ。考えてみればブログというツールは、私にとってはノートとメタ・ノートの間のようなものですし、「書く」ことによって安心して「忘れる」ことが出来るのも事実。

しかし、ここで更に気付くのですが、毎日の判断にせよ長期的な意思決定にせよ、自分の無意識の中に「忘却」させていたアイデアや願望と無縁であるということまでは否定はできません。若い時には実現できなかったけれども、ある年代になってやっと実現可能な環境かつポジションになったということも、ないわけではないなあ、と思ったりもします。

「とにかく書いてみる」という章には深く頷いてしまいました。

書き進めば進むほど、頭がすっきりしてくる。先が見えてくる。もっとおもしろいのは、あらかじめ考えてもいなかったことが、書いているうちにふと頭に浮かんでくることである。

「自分が何を話すか自分で分かっていない」と言ったのは内田樹氏。確かにそうであるよなあと。そういう意味でも「思考の整理法」とかその手の類書とは一線を画しているようにも思え、氏の考え方は充分に現代でも通用するのだと思います。

2007年7月2日月曜日

[TV] 言葉で奏でる音楽~吉田秀和の軌跡~

7月1日のNHKでETV特集「言葉で奏でる音楽~吉田秀和の軌跡~」が放映されていました。最初の十数分を見逃したものの、他に並ぶ者のいない音楽評論家の姿を眺められたのは、なんだかとても僥倖であったと思います。

彼の音楽評論は、結構読んでいます。『主題と変奏』などの初期評論も、一時絶版であった全集を神田古本街で探しまわって入手したものです。彼の文章には音楽や芸術への愛が溢れていて、素直に敬意を感じます。そして、音楽評論の内容云々を越えてしみじみとした気持ちになってしまいます、それが彼の文章の魅力でしょうか。

そんな吉田氏が、カメラに向かって語る言葉にも偽りはなく、真摯な姿勢が滲み出ており、やはり文章通りの人であったなあと思い嬉しく思ったものです。

戦後、吉田氏は内閣情報局を辞します。引き止める上司に「食べていくくらい、なんとかなるだろう」と応え、音楽について書く道に入ります。「書きたいことはあったし、書こうとしているものは、世界で誰も書いたことのないものだと分かっていたから」なのですとか。小林秀雄について語る時の彼の逡巡。「小林さんの文章にはカデンツァがない。飛躍がある」という批判。「小林秀雄よりも自分は音楽を語れると思った」「彼よりもずっと『音楽』を勉強している」という自信。でも、「あの文章(『モオツァルト』 )はまさに小林氏にしか書けないもの」なのだと。そこに彼の小林氏に対する複雑さが込められています。

原稿用紙に万年筆を走らせ、雑誌に載せる楽譜は自ら写譜しヤマト糊で貼り付ける。原稿を書くということは「こういう手作業」から生ずるものなのだと、そして原稿を書くことよりも、校正することの方が「楽しい」のだと。そして、自らの手作業の楽しさについて、画家のドガを引き合いに出してこう説明します。「ドガが木の葉っぱを一枚一枚描いているのを、詩人のヴェルレーヌが、面倒ではないかというようなことを尋ねた。ドガは画家というのは、そういう風にして葉っぱを描くことそのことが楽しいのだよと答えた」 

あまりにも有名な「ひび割れた骨董品」の書評についてもコメントしていました。私は、吉田氏がそれを語るときの、言い知れぬ深い愛惜をこめた悲しい口調を、吉田氏の映像とともに忘れることはないでしょう。そしてまた、次の言葉も。

結局は、バッハ、モーツァルト、ベートーベンに尽きるなア。バーバラが死んだ後、音楽を聴く気にもならなかったけれど、バッハの音楽は邪魔をしないんだ。

インタビューアは堀江敏幸氏でありました。不勉強にして私は彼を知りません。どうやら小説家にしてフランス文学者らしいです。吉田氏と対談できるという機会を得たにも関わらず、インタビュアーとしては少々役不足と感じられたことは否めません。