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2010年12月29日水曜日

赤字企業は救済せずに潰すべきか

友人との会話で、赤字企業はつぶすべき論。

経済学部出身者なので、こういう意見になるのだろう。

赤字企業が生き残る意味はない。国民の税金で彼らの雇用を守る意味はない。

解雇者の雇用を企業が考える必要はない。

マネジメントのコアの部分で再就職はできる。

年収は同じにはならないが、雇用は吸収できる。

赤字企業をつぶして、成長産業を育てれは、そこで雇用が生まれる。

企業の淘汰は、徹底して市場主義、マーケットにゆだねるべき。決めるのはマーケット、政府ではない。

企業のコングロマリットもおかしい。黒字部門が赤字部門を補填するのはやめるべき。収益の低い業種は潰していい。

例えば日航をどうして存続させるのか。なくなっても誰とも困らない。マーケットが決める。

そこで失業率が10%でも越えれば、そのときは政治が考える。労働市場の流動化はある。

大学卒業して、その一点でその後の人生が決まってしまう、大企業に入ったものが守られて終身雇用と言う制度は変える必要がある。おかしい。大学時代の運のみ。

衰退する、儲けのでない企業を、つぶすところから始めないと。

通貨危機以前の韓国と今の韓国。通貨危機で韓国は企業を潰した。残った企業が強くなった。成長した。

2010年11月15日月曜日

久米宏の日本の食卓

昨日のテレビ東京の番組
スタジオに70才代の女性を集め、
その子ども世代を含む日本人の今の食卓が、どのようになっているかという番組。
2時間番組だが、定型的な内容なので半分まで見ての感想。

日本人の食卓が貧しくなったとの指摘は以前から。
食卓を記録している人、1週間の食卓を見ると真実が分かる。
(最初はがんばるけど、1週間はがんばれない)

2010年11月13日土曜日

東野圭吾 容疑者Xの献身

東野圭吾氏は献身的な愛とか自己犠牲的な愛が好きなのか?秘密も根は同じテーマ。こちらの方が納得はしずらいが。

天才二人の天才性が弱い。
論理も、作者が天才と言うレッテルを貼らなければ、それほど驚くには値しない。
むしろ、献身者の存在を知った後での、女性の行動のさせ方こそが全て。
相手によって気づかせない、報われない愛とか奉仕。
真意が暴露された後の苦悩、ザンコクテキでさえあるが、結末は氷見ってとは真逆。
もう一作品くらい読んでおくか。


2010年10月31日日曜日

東野圭吾 秘密

何が秘密か最後に分かる
ご都合主義的、ブロットに最初は乗れない、もっと慎重に行動するだろうとか、気持ちの切り替えが早すぎるとか。
男目線、女性ならそうは考えないとか。

直子の選択も、彼女にとっては一番いい結論だが、男性としては完全に置いてきぼり。父親としての役割?

直子のずるさも含めた決断という広末の解釈は現実的で的確に思える。

追記


男性側がやりきれないとの感想も多いが、考えてみると、父親としての役割を全うさせるためには、直子が消えてしまうという結論しか有り得ない。
夫と同時に父親としての役割の両立はできないほどに男はセンシティブだ。
愛する夫のために直子は身を引いた、自己犠牲のもと。そうしなければ、もっと破綻しかなかった。だからこそ直子は秘密を胸に抱いたまま生きることをきめた。指輪の件だけを身に付けて。

そこに女性は共感するかもしれない。男性側からするとだから身勝手だと感じるだろう。残されてどうすればいいのかと。

ここが男と女の違いだろうか。


2010年8月6日金曜日

BASARA展@青山スパイラルを観る

2010年8月4日から7日までの短い期間に、無料での展示ということで、昨日、久しぶりに青山スパイラルまで脚を伸ばしてみる。

池田学や天明屋尚、その他現代アート作品と川鍋暁斎などの作品が並列されている様は、今の時代を感じる。デコレーションされたケータイと印籠が並ぶ展示もなかなか。

2010年7月11日日曜日

2010年参院選挙 民主惨敗

2010年7月11日に行われた参議院選挙で民主党は改選121議席のうち44議席しか獲得できず、惨敗した。

結果は大方の予想のとおりといってよい。「鳩山政権末期から考えると、ずいぶんと持ち直した」などと評している党員もいるが、昨年の期待値を考えると、これは惨敗といってよい。

しかしながら、国民が「改革」を期待しているのではなく「安定」を期待していることが、得票結果から考えると見えてくる。自民圧勝は裏日本や四国、九州地方ではなかったか。投票行動のマスが段階の世代を中心とした老齢世代であったり、地方農村部であるとするならば、都市部若者と日本の政治のコンセンサスは、やはり大きな隔たりを残したママだといえよう。

消費税問題は、確かに唐突な感は拭い去れなかった。今回の消費税論争の功罪は「消費税増税止む無し」という雰囲気を国民の中に醸成してしまったことではなかろうか。これが官僚の情報コントロールによるものなのかは分からない。消費税を増税する前にすることがあるだろう、との論理は正しい。

いずれにしても、「高福祉」という路線は、今十分に年金をもらえる世代を更に支えようとする政策であり、現在の若者や働き盛りの世代に向いた政策では決してないように思える。そこに民主党の危うさを感じる。

当方は民主党から「みんなの党」に投票したが、今回のみんなの党の躍進は、「消費税増税」「ムダの削減が民主党政権で滞ること」に対するアンチの受け皿になった。みんなの党が主張する国家公務員を31万人から10万人に削減するのは結構だが、リストラした21万人の雇用をどうするかの具体策がなければ、大量失業者と社会不安しか引き起こさない。国会議員にタレント候補が立っているのを見るに付け、こういうやつらが国会議員になるくらいなら、まず議員を削減すべきだと感ずるのは、当然のことではある。

2010年5月13日木曜日

赤坂見附の交差点を赤坂プリンスホテルから見下ろす

赤坂プリンスホテルのバーに行く機会がありました。上から、赤坂見附の交差点を見下ろしてみました。


サントリービルの向こう側にあった、鹿島建設の本社ビルが建替え中です。

2010年3月31日水曜日

ブログ移行に伴い当面休止








2001年1月から始めてきたホームページとブログですが、この度Bloggerに切り替えました。

過去ログはlolipopサーバーからbloggerに移動、自分の防備録を兼ねてネット上に残しておくこととします。(ほとんど手作業による引っ越しとなりました。すべてのログを移動できたわけではありません。)

画像リンク、ログの固定リンクは変更していないので、ほとんどはリンク切れになっています。

この10年の間で、あらゆるものが変わってしまいました。世界の変わるスピードは速く、今までと同じようなやり方では生きていけない。いくつかのクラッシュと再生への道のり、あるいは脱皮と変革、そして進化?


2010年3月27日土曜日

香山リカ:なぜ日本人は劣化したのか

日本人が劣化したのは「なぜか」と題していながら、それに対する答えとして、「市場主義」に原因を求めている点は、ベストセラーとなった『国家の品格』(2005年)と同じ論旨であり追求の仕方としては一面的でしかない。本書が書かれたのが2007年4月であり、彼女の認識に古さを感じる。すなわち、時代を貫く論理にはなりえていないということだ。

「劣化」とひとくくりにしても、香山氏も指摘するように、学力、体力、(生きる)気力、マナー、「日本人らしさ」など、多岐にわたる。筆者は、それをバラバラに捕らえるのでは、間違った対処療法的な解決策しか出てこない、これらの病根は同じなのだからそれを認めて処方を論じよと解いている。その前提意見に同意することはできない。なぜなら、それはかえって問題を曖昧模糊なものとし、思考停止に陥る危険性を感じるからだ。全てに効く万能薬などない。

日本人が(この言葉に問題はあろうが)エリートから下流まで、程度の差こそあれ「劣化」していることは、何も香山氏に指摘されなくても日々目にするところである。政治の劣化は目を覆うばかり、だから「政治が悪い」では解決にも何もならない。

そもそも、本書のような内容でも「本」として発売されうるということ。そのこと自体が出版界と知的階層の劣化を象徴し、劣化を助長している。そのような本であることを分かっていて読む小生も「劣化」している。賢明な著者は、そのことに気づいていながら、あえて、このような愚書を出さざるを得ないほどに、書き手は焦燥感を覚えているのだと解釈しておきたい。

2010年3月13日土曜日

FREE

読んで損はない、話題の本である。どうしてGoogleの各種サービスや「無料アプリ」が商売として成立しているのか、分からない人にはタメになるだろう。

「フリー」すなわち「タダ」のサービスは昔からある。しかし誰かがコストを負担していた。そのコストが限りなく、無視できるくらいにゼロに近づいた時、あるいはそのコストを全く気荷しなくて良くなったとき、大きなブレイクが生じる。それは「何で稼ぐか」というビジネスモデルを破壊してしまうこともあるからだ。

この流れは止まらない。音楽や出版業界がよく遡上に上る。旧来型のモデルにしがみつく業界は早晩に市場から撤退してゆくか、ニッチな産業となっていくとの指摘も、ある意味で正しいのだろう。

結局は、「何で稼ぐのか」というビジネスモデルの本質を問う作業であり、何をフリーにすればよいのか、ネットをどう使えばよいのかという話ではない。何(コンテンツ)をどうやって売るのか(=稼ぐのか)を明確にしなければ、いくら評判を得てもそこから利益は得られない。

我々は簡単にコピーできるものに、お金を払う気持ちが沸かなくなってきている。いくら知的所有権云々と言われてもだ。では、「顧客は何になら御金を払う気になるのか」あるいは「どうやったら御金を払わせることができるのか」を考えろということだ。アトムだろうがビットだろうが、結局は変わらない。

音楽や出版会、あるいはパソコンのソフト販売は企画から製作、流通、販売というモデルでは稼げなくなっただけのことだ。ブツに対する需要はなくならないが、ブツの販売経路では稼げない。中抜けになって「不要となった産業に働く人たち」は、どこで「稼ぐ」のか。考えなければ業界突然死に見舞われて路頭に迷うのか。ビジネスにおいて「ネットの普及が世界をフラットにした」「中間管理職が不要となる」ということと通ずる世界であると感じた。

しかしながら、上記の世界観は正しいとしても、フリーにできるものとできないものは存在する。フリーにはならない、リアルで重量を伴ったブツを提供する世界は、どこになるのだろうか、という視点は、当たり前だがこの本からは得られない。

2010年3月12日金曜日

佐々木 譲 :警官の血

三代にわたる警官に関する物語で、読み応えのある小説である。佐々木氏の小説は、実は読むのが初めてであるこを前提に書かせてもらうが、本作に関していえば描写が非常に丁寧であり、ディテールに味ともいうべきリアリティがある。特に戦後の谷中や学生運動さなかの時代風景の描写は格別である。だからといってくどいというわけではない。一方で、描かれる人物は淡白な描写だ。主人公たちの人生に対する目的や受容の仕方も、ある意味で悩みもなく芯が一本通っている。読んでいて清冽な印象を受ける。

彼があえて「血」というものを題名に持ってきた理由は明白である。代々受け継いだ「血」は、警官になることを通して描く自分の周りの小さな人生であり、祖父や父が背負った人生を精算しながら自らも受け継ぎ濃くしてゆくという、人間としての連綿とした生き方そのものであろう。三代に渡って、清濁併せ持つキャラクターに磨きがかかっていく様は見事である。そこに、あえて言うならば現代が全く見落とし見捨てた世界観があるのではないか。事件やミステリーは脇役でしかない。従って、事件の真相が肩透かしをくらうようなものであったとしても、それゆえにこそ、といったところなのだろう。

2010年2月7日日曜日

副島隆彦:ドル亡き後の世界

今まで、氏の「予言」が的中しているか否かについては自ら検証してはいない。本書に書かれていることも10年先の未来のことではなく、まさに今年の事であるから、とりあえずメモしておこう。本書の要約はこうである。

  • アメリカの景気は2010年3月頃から崩れ始め、いったん持ち直すものの、2010年末にアメリカは恐慌に突入し2012年が大底となる。
  • 株、為替、債権は世界的に暴落し「金融崩れ」が顕著になる。一ドルは80円を切り、場合によっては60~70円代に、ダウ平均は6000~7000ドルまで低落、日経平均も5000円を割る。
  • オバマ政権は経済的な失敗から任期途中で辞任する。日本はいまだにせっせと米国債を購入しているが、中国は米国債を徐々に売る準備をしている。
  • 債権価格は上昇。RMBS、CMBS、CDOなどの金融派生商品のリスクが一気に顕著になる。
  • アメリカは借金を返せなくなり、デノミ、計画的なインフレを引き起こさざるを得ない。
  • このような中で、中国のプレゼンスは必然的に高まる。
  • アメリカ中心の世界は崩壊し基軸通貨としてのドルは地位を失う。
  • 個人資金を保護するならば、金融商品ではなく「金」や成長可能な日本株を底値で買え。

副島本に共通する話題であるから、新規性は乏しいか。この話を信じるか否かについては賛否があろう。サブプライム問題を思い出しても、日本は当初は軽く見ていたらダメージは深かった。グリーンスパンが「100年に一度の危機」と称したが、思ったよりも早く経済は(日本を除いて)回復基調だ。マスコミは何を伝え、何を伝えない(知らない)のか、素人が経済新聞を読んでいるくらいでは、実際のところはよく分からない。

混迷は深まるばかりで、このような不安を政治的に払拭しようとする動きは全くに見えない。将来的に不安しかない状況が今の日本の現状であり限界なのであろうか。

2010年2月6日土曜日

オルテガ:大衆の反逆

内田樹のブログを呼んで、オルテガの名前を目にして以来、ようやく読了。20世紀初頭のヨーロッパ(スペイン)と21世紀初頭の日本において、オルテガの提示したテーマは現代性を持ちえているだろうか。

オルテガを批判(した)する者は、エリートと大衆の区分についてであろうが、オルテガの貴族性とは内的なものであり、身分制度として述べているのでないことは自明である。過去からの時代精神や制度、思想などの恩恵の上に成立するはずの現代人が、過去の英知や努力などをご破算(無視)にした上で、果実のみを享受しているということ、あるいは権利のみ主張し義務を省みない者たちやその心象こそを、オルテガは批判したわけである。

発達した科学やシステムの中で、選択の自由度は増したにもかかわらず、それら生与の権利に対し無自覚であることが大衆の罪であるとしたことは、現代に生きる者にとっても的外れな話ではない。文明や生きていく上での前提条件ともいえようか。

彼の主張は、支配するものとしての「国家」にも言及されるが、彼のテーマは政治やイデオロギーにはない。ファシズムやポルシェヴィズムを批判的に述べているとしてもだ。彼の着眼は「生の衝動」という言葉などで繰り返されるように、生きること、文明社会の本質的そのものに対する問いかけのように思える。

そういう観点からは現代のネット社会に生きる我々が、彼の忌み嫌った「大衆」であることは論を待たないし、オルテガの指摘は今でも鋭さを失ってはいない。しかし、とことんまで分散し個別化した大衆が、改めて解体され再生されることがあるとしたら、そらがどういうことなのかは、今の私には見えない。

2010年2月5日金曜日

副島隆彦:売国者たちの末路

副島の論理を胡散臭いと感じるか、真実を伝える伝導者と考えるかでとらえ方は全くことなるであろう。読後の印象として、副島氏得意の根拠なき陰謀論満載で、こんな本を読んでいると大きな声で言うのは、やはり控えたほうが良かろうということ。裏のロスチャイルドやロックフェラーなどの金融系支配者が支配しているという世界観は面白いし、フィクションとしの時間つぶしならばよいが、副島の妄想に付き合っている時間はそれほどない。ただ、それを「妄想」と論破する論拠もこちらにはないだけのことだ。

しかし彼が誰を支持し、誰を糾弾しているのか、そしてアマゾンの圧倒的な無垢な副島礼賛と覚えておいて良いだろう。

彼の視点は、日本国民を騙してアメリカに資金を流入させる者を売国奴と称しているわけであるから、小泉-竹中路線につながる人脈を批判するのは理解できる。小泉改革がすべて間違いであったのか、ということについては、いまだ私の中で評価は定まらない。規制緩和を進め競争を進めたことは、功罪相半ばといった印象がある。資本主義が悪いわけではない以上、正当な競争原理のもとで健全な発展をすることは間違ってはいないし、用がなくなった業界や企業が退場することも、いたし方がないことである。問題は、その退場のさせ方であり、あまりに急激な変化は社会不安を生むし、失業率の増加などマイナスの要因が大きすぎるということだ。「痛み」は理解するが、誰もその痛みを自分が負う覚悟はできていない。そういう点から、池田信夫氏が指摘するように、労働市場の流動性がないこと、あるいは大企業の既得権益が強すぎることが問題であるとする主張の方が理解しやすかろう。

こういう小泉路線に対して、守旧的な小沢、亀井路線が存在し、ある程度の支持を獲得している。副島氏も彼らを支持し日本を守るという姿勢を鮮明にしている。しかし、彼らの主張は時代に逆行し、真の意味で改革することを遅らせてはいないかという点に対する疑念は晴れない。特に彼が小沢民主党を支持することには違和感さえ覚える。鳩山は論外にしても。

「改革か成長か」「需要か供給か」「金融か財政か」といった、タマゴニワトリ的な論争は専門家にまかせるとするが、日本が大いなる混迷の中にあって、この本も混迷を深めこそすれ、光明を見出す本にはなり得ていないことに変わりはない。

2010年1月30日土曜日

松浦理英子:犬身

「犬身」=「献身」なのでしょうか。犬になりたい願望を持った女性が、メフィストフェレスのような悪魔と取引をして、自分(犬)を大事にしてくれる人の「犬」になるという話。

犬が好きな飼主に飼われる犬の気持ち、犬の心地よさ、犬の幸せ、犬の快楽が理解できなければ、この本には入り込めないだろう。私は犬を飼っているが、主人公の気持ちには全く共感を寄せることができない。そういう意味では、私は真に犬をかわいがってはいないということか。人間と犬にしか通じ合わない関係というものがあることを首肯したとしても、犬になって一生を終えること、犬の知性にまで(言葉は悪いが)堕ちてしまうことに、なぜ根源的な恐怖がないのか。人間としての実生活や人間関係を抹殺できるほどの絶望と諦念??

飼い主の家族の風景にも、嫌悪感しか覚えず。こんなグロで幼稚な精神しか持っていない家族を描き出して、どうしたいのですか。逃げ場のない不幸な者に、見返りを求めずによりそうこと、そこから得られる無償の幸福ですか?それは「犬」にならなくては実現できない「愛」ですか。だとしたら、かなり哀しい・・・。私は、人間のまま、人とつきあいたいです。(あ、それぢゃあ小説にならないか)