検索キーワード「吉右衛門」に一致する投稿を日付順に表示しています。 関連性の高い順 すべての投稿を表示
検索キーワード「吉右衛門」に一致する投稿を日付順に表示しています。 関連性の高い順 すべての投稿を表示

2021年12月1日水曜日

中村吉右衛門さん、ご逝去

中村吉右衛門さんが11月28日にご逝去されたとの報道に接しました。

この頃は歌舞伎に親しむことがなくなりましたが、一時期は歌舞伎座に通っていた時期もあり、日本の宝がまたひとつ消えたことに深い悲しみを覚えております。

ご存命、お元気なうちに、もうひと舞台くらい見ておけばよかったと後悔しております。

過去記事へのリンクを張って、ご冥福をお祈りいたします。

2009年1月26日月曜日

歌舞伎座:初春大歌舞伎~昼の部


歌舞伎座で「初春大歌舞伎」の昼の部を観劇してきました。歌舞伎座の建て替えもいよいよ決定したようです。2009年4月までの16ヶ月間、「歌舞伎座さよなら公演」と銘打っての公演の最初となります。

演目は「祝初春式三番叟(いわうはるしきさんばそう)」に続いて幸四郎の「平家女護島 俊寛(しゅんかん)」、菊五郎と時蔵の「花街模様薊色縫 十六夜清心(いざよいせいしん)」そして玉三郎の「鷺娘」です。久々に歌舞伎を堪能できました。

一番良かったのは、もっとも期待していなかった「十六夜清心」です。河竹黙阿弥の作品。演じられるのは「稲瀬川百本杭の場」「川中白魚船の場」そして「百本杭川下の場」。鎌倉極楽寺の僧である清心と遊女の十六夜が、どんどんと悪者になっていくという狂言の前半部分。

清心が僧でありながら色恋や浮世の快楽を捨てきれずに、悪心を抱いていくその変化が見所です。求女をはずみから殺してしまい、自らも死のうとするものの、遠くから嬌声が聞こえて逡巡、そして思いとどまっての名台詞。「これを知ったはお月様と、俺ばかり」! ここの変り方が、ヌラヌラと面白い。

俳諧師白蓮を吉右衛門が演じています。狂言を通してみると、こいつはとんでもない悪党なんです。その悪さが台詞から見えていてさすがの貫禄といったところ。通しで観てみたい狂言です。

「鷺娘」は今回が二度目(→一度目はこちら)。変な批評などせず、玉三郎の踊りにどっぷりと浸かるのが、一番よかろうと思います。ナマ「鷺娘」もそのうち「伝説」になるでしょう。

幸四郎は、私はあまり好きな役者ではない。いくら有名、人気、幸四郎のオハコとはいえ、正月から観たい演目でもありません。感動よりもあざとさと過剰さが気になってしまいました。意に反して良かったのが、千鳥を演じる芝雀! 初心な感じがなんともかわいい。「りんぎょやってくれめせや~」が耳について離れません(笑)。彼女の純粋さが、大きく俊寛の心を動かしたことが良く分かります。最後の回り舞台の演出は劇的ですが、やっぱり幸四郎の演技がなんとも、泣き叫ぶより最後の沈黙の方が余程説得力がありましたね。

2006年3月27日月曜日

NHK芸術劇場:吉右衛門の「日向嶋景清」


昨日のNHK芸術劇場は、中村吉右衛門が松貫四の名前で書き下ろした「日向嶋景清」を生み出して行った過程と、吉右衛門の本作に賭ける思いを密着取材したという点において、非常に見ごたえのある番組でした。


歌舞伎座での公演を昨年11月の吉例顔見世公演で運良く観劇することができ、大いに感銘を受けたものです。




「日向嶋」の原作は人形浄瑠璃の「嬢景清八嶋日記」。吉右衛門の実父である八代目幸四郎が1959年に新橋演舞場で二日間だけ試演したことがあるという演目です。歌舞伎の時代物の新たな境地を目指そうとしていた八代目幸四郎の役者生命を賭けた舞台であったと吉右衛門は語ります。


娘のことを思って見えない眼をカッとばかりに見開く場面があります。八代目は、あの時代にあって眼の玉の大きさばかりの赤いハードコンタクトを、麻酔を打ちながら眼にはめて舞台に望んだことですとか、娘の糸滝を哀れんで遠ざかる船を追おうとする、その場面での気迫は渾身の力で押し留めなければ舞台から客席に落ちてしまうほどのものであったとか、若き吉右衛門にとっても強烈な印象を与えたものであったと言います。


そんな実父に対する思いと、歌舞伎に対する思いが、おそらく還暦を前にして吉右衛門の中で発酵し、「八嶋日記」の歌舞伎化として結実したのだということがよく分かりました。


吉右衛門は語ります。「昔の演目は全てが新作だった。今は型などが伝承されて演ずるだけになったが、新作を演出し演ずる苦労をすることによって、型の大切さなども再認識する。」のだと。伝統をただの継承に終わらせない、次世代へつなげるという筋肉質で強靭な精神をそこに観た思いがします。


「ヤワではやっていけないよ」


ジムで汗を流しながら台本を読み続ける吉右衛門が漏らした台詞も印象的でした。

2006年1月26日木曜日

歌舞伎座:伽羅先代萩


「伽羅先代萩」ですが、これはまず子役が良くないと面白くなかろうと思っていましたが、千松を演じる虎之介は見事に初舞台の重役をこなしていました。「常々教へておいた事、幼な心に聞き分けて、よくぞ覚えたり、出かしやった/\、天晴ぢゃ」という程の出来。人形のように華奢な体から発せられる高く通る声は、それゆえに健気さと哀れさをさそいます。


イロイロ予習して望んだのですが、政岡については先に紹介した「祝福に対する予見性」というような屈折した感情を藤十郎の芝居からは感じませんでした。また、政岡は床本を読む限り気丈夫な女という印象でしたが、藤十郎の正岡はもっと柔らかく情が強い。理よりも情が勝った政岡像という具合に感じました。


ここのところを「一閑堂」のぽん太さんは「生理に根ざした政岡」と書いておられます。それと似たような印象を覚えたのは「飯(まま)炊き」での演技です。


風炉にかけたる茶飯釜湯の試みを千松に飲ます茶碗も楽ならで


「飯炊き」は芸談を読むといろいろな型があるようですが、藤十郎は茶の手前に時間をかけることなく手早く済ませているようです。むしろ湯を飲ませた後の千松を眺めやる、眼差しと手つきに緊張感を強調したのかなと。米を研ぐ場面では茶筅を用いず手で研ぐことにより「飯炊き」に生々しさとリアルさが入ったように感じられます。そして、藤十郎は米を研ぎながら、三味線に乗ってこうツイと左肩を落とすきまりを何度か繰り返します。若干のおかしみを伴う仕草で、観客からは笑いも生じるのですが、私はここに政岡の口には出せぬ悲しみの表現を感じました。


「一閑堂」のポン太さんがここは本質的にギャグであり、役者の工夫をみせる見世場に違いないと指摘しますが首肯すべき指摘かもしれません。おそらくここは作者の観客へのサービスなのでありましょう。鶴千代や千松の戯れとともに、ほのぼのとした温かみを感じさせる場面です。陰謀渦巻くお屋敷の中で、このつかの間の平和があるからこそ、後の悲劇も大きくなります。しかし、ここが喜劇であることに同意するとしても、藤十郎は喜劇の底に潜む母の悲しみと、将来的な悲劇の断章を垣間見せてくれたように思えます。


さて、その酷いまでの悲劇の場面。


となぶり殺しに千松が苦しむ声の肝先へこたゆる辛さ無念さを、じつとこらゆる辛抱は、ただ若君が大事ぞと涙一滴目に持たぬ男勝りの政岡が忠義は先代末代まで、またあるまじき烈女の鑑、いまにその名は芳しき。


鶴千代の安全はは守りながらも、駆け出しそうに、あるいは崩れ落ちそうになる体を柱で支えつつ、子の最期をひっしと見守る。その辛さ悲しさ狂おしさ。それは芝居を見ていてもヒシヒシと伝わってくきます。決して文字面から見えてくる「烈女」はそこには居ません。


「飯炊き」での肩を何度かツイと落とすきまりは、千松の死骸に向かって袱紗を口に含んでの場面でも見ることができました。そこには政岡が最愛の我が子を亡くした悲しみが凝縮されているように感じました。


千松を殺した八汐は、どうしてあそこまで子供に対して無残になれたのでしょう。


ムヽスリヤこれでも此方は何ともないかや、これでもかこれでもか


と言いながら千松に何度も刃を突き刺す八汐の心は、お家騒動そのものよりも、政岡その人にあったのかもしれないと考えたりしました。「御殿の段」の前は「竹の間の段」で、鶴千代を亡き者にしよとする政岡と八汐の駆け引きが書かれています。この段では八汐が分が悪くなり引き下がっていますから、続く「御殿の段」では、どうしても政岡をやり込めたかったという、女の私讐心が八汐にはなかったか。


政岡は千松の遺骸を抱いて泣き叫ぶ場面。鶴澤八介氏のネットで読める床本では、


君の御為かねてより覚悟は極めていながらも、せめて人らしい者の手にかゝつても死す事か、素性賎しい銀兵衛が女房づれの刃にかゝり


とあります。藤十郎は「素性卑しき八汐づれのの刃にかかり・・・」と言っていたように聴こえましたが、いずれにしても、政岡のそういう感情を知っての八汐の私怨もあるのかなと。その復讐心の激しさ故に、千松を殺した後に引き下がるときの八汐の見得は、悪女の勝ち誇りそのもの。悪役ながら観る者をその場でグッと惹き付けます。そういう悪女の憎らしさと誇らしさを梅玉の演技から感じました。


政岡が八汐を返り討つ場面は(観客にとっても)「憎たらしい」八汐を仕留めたことにより溜飲を下げ、同時に歌舞伎の持つ型の美しさが充分に発揮された場面でありますから、これぞ歌舞伎を観る快楽と言わずに何といいましょうか、ということになるわけです。


「床下の段」はオマケみたいなものですが、さにあらず。吉右衛門の荒獅子男之助、幸四郎の仁木弾正と全く贅沢な組み合わせ。吉之助は何と初役とのことですが、吉右衛門らしい力強さ、爽快さ、明るさがいい、彼の芸を観るだけで心が晴れます。対する幸四郎の仁木弾正は、もう笑いたくなるくらいにハマっていて、どうしたらそこまで不気味な仁木弾正になりきれるのか、肩をたたいて問いかけたくなるほど。政岡の悲しみも、千松の哀れも、全てこの二人の荒事で厄落とし、爽快に幕となります。まさに「一粒で二度おいしい」演目です。


もっとも新藤十郎に全く問題なかったかというと、そうでもありません。歌舞伎初級者以下の私が書くのも憚られますが、声が少し枯れており、連日の襲名披露公演のお疲れか?と少々心配したことも確か。あれが藤十郎の「芸」なのでしょうか・・・


ちなみに、この演目は気になりましたので二度ほど観ての感想です。やはり二度目の方が面白く、感慨も深いものがありました。とは申しましても、かなりいい加減な感想ですので歌舞伎ファンの方は、テキトーに読み流してください m(_ _)m

2006年1月24日火曜日

歌舞伎座:初春大歌舞伎~坂田藤十郎襲名披露公演


 歌舞伎座で「初春大歌舞伎の夜の部」を観てきました。今回は中村鴈次郎改め坂田藤十郎の襲名披露公演を兼ねています。

演目は扇雀が初代中村鴈次郎の当たり役であった藤十郎役を曾孫の扇雀が演じるという「藤十郎の恋」。続いては坂田藤十郎の「襲名披露 口上」、そして新藤十郎が難しい役どころの正岡を演じる「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」。最後は福助の「島の千歳(しまのせんざい)」、そして橋之助、染五郎による「関三奴(せきさんやっこ)」の四本です。

それぞれ大変楽しむ事ができました。(読み返して思ったが、歌舞伎ファンでなくては意味不明の文章だな↑・・・まあいいや。)

「藤十郎の恋」は江戸時代の初代藤十郎を描いた菊池寛の作品。この芝居から当時の藤十郎の姿が彷彿とするというわけではありませんが(そもそも初代藤十郎の芸がどんなであったか、正確には残っていないわけですし)、芝居としてみたときには、それなりに面白いかなと。

芝居の見せ場は、藤十郎がお梶に偽の恋を仕掛けるところです。藤十郎は熱い思いを打ち明けながらも、それは全ては芝居演技の参考に女心を観察するため。対するお梶は、秘めていた感情をかき乱されてしまう。藤十郎の告白に必死の覚悟を決めたお梶が、ふと行灯を消す。「どきり!」としたのは、舞台の上の藤十郎だけではないでしょう。あらかじめ筋を知っていたのに、思わず冷や汗。その後は、だんまりになって藤十郎は事の成行きに慌てて逃げるように部屋から出てしまうのですが・・・。ここに男と女の強さの違いを感じました。いざとなると肝が据わっているのは女かなと。

当時は遊郭での売春は許容されていても、結婚した者との不義密通は磔刑になるほどの重罪。藤十郎は芸に命をかけ、お梶は一瞬の恋に命をかけた。

藤十郎の芸の人気が女子一人の命などで傷つけられてよいものか

藤十郎がよろめきながらも、自らを納得、鼓舞するかのように叫ぶ様は、近代的倫理観では肯定できない科白ですが、藤十郎の写実を重んじた芸の厳しさを表したということなのでしょうか。「芸の為なら~♪」という演歌もありましたっけ・・・(演歌は全く聴きませんが)

初代藤十郎を演じる扇雀はホンモノの藤十郎に遠慮したか、観終わった感想としては時蔵のお梶の印象の方が強い。「女」の凄みですかね。それとは対照的な芝居小屋の楽屋裏のがやがやした雰囲気が、何ともにぎやかで楽しめる舞台でした。

「襲名披露 口上」はおめでたい席ですから、素直に楽しめます。両脇を幸四郎と吉右衛門が押さえているところなど「飛車角で固めた」という印象。「藤十郎」という名前を襲名していますが、「四代目」とは名乗らず、ただ「坂田藤十郎」と名乗っているところに、江戸歌舞伎の市川團十郎との違いや、新藤十郎の強い意志を感じました。

「島の千歳」は、福助の島の千歳が個人的には良かったですね。艶やかさ、優美さ、福助の踊りはやはらかく観ていて気持ちが良いです。橋之助、染五郎の「関三奴」は、快活な舞踏。歌舞伎に疎い私には、どちらが誰なのか最後まで分かりませんでしたが!!( -_-)=○☆)>_<)、充分楽しめました。

「伽羅先代萩」はエントリを改めます。

2005年11月13日日曜日

歌舞伎座:吉例顔見世大歌舞伎


歌舞伎座で吉例顔見世大歌舞伎の夜の部を観てきました。

演目は吉右衛門が人形浄瑠璃『嬢景清八嶋日記』をもとに書き上げた「日向嶋景清(ひにむかうしまのかげきよ)」、富十郎の長男大の初代鷹之助襲名披露狂言「鞍馬山誉鷹(くらまやまほまれのわかたか)、幸四郎と染五郎親子による「連獅子」、そして近松門左衛門作、梅玉や時蔵による「大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)」の四本です。

途中に休憩が入るとはいえ、少々長いかと思ったのですが、舞台は豪華絢爛、またしても歌舞伎を見る快感を堪能できるものでありました。


見ものはやはり「日向嶋景清」でしょうか。吉右衛門の演技が実によかった。源氏との戦いに敗れた景清は自らの目を付いて盲目となり、源氏への妄執を捨て平家の位牌を守って暮らしているのですが、そこに景清の実の娘である糸滝(芝雀)が現れます。景清の娘を思う気持ち、さりとて武士の矜持も捨てきれない、その揺れ動く気持ちの様が見ていて心を熱くします。

心の中では泣きながらも、娘を無理やりに追い返すところ、その後に自らの胸中を明かすところなどは涙なくしては見られません。糸滝の置いていった文箱の中の書置きの内容を知ってからの景清の絶望と苦悩は見ていても苦しいほど。

全体に芝居は、芝雀の「泣き」が少し単調に見え、吉右衛門の嘆きや心情の変化が劇的過ぎるような、両極に触れていた印象がありますが、それでも心理的凝縮感が物凄く迫真の舞台であったといえましょうか。

ラストに景清が頼朝に帰順し、あれほどに守り続けていた平重盛の位牌を海に捨てる場面は、個人的には疑問が残るものの、それでも最後の場面はきわめて立派であり大きな物語が見て取れました。

この位牌を捨てる場面については、吉右衛門(松貫四)も今月の解説本の中でそれをハッピーエンドと捉えるか、信念を曲げたことを悲劇と捉えるか。ご覧になる方によって受け取り方は変わるでしょうと記されています。主君に忠義を示すのが武士なれども、その武士とて主君あってのもの。そこに吉右衛門が描いた景清の人物像がくっきりと浮かび上がったラストであったと思います。

それにしても、この場面での舞台の奥行きの深さ、および景清の変心を象徴する海の青の鮮やかさには思わず息を呑み、舞台演出の点でも極めて効果的であったと感じました。

続く「鞍馬山誉鷹」は鷹之助襲名のための今井豊茂氏による新作。鞍馬山の一面の紅葉が実に鮮やか、実に華やか。この書割を見ただけで笑みがこぼれる。しかも襲名を祝う脇を固めるのが、富十郎(鷹匠)、仁左衛門(平忠度)、梅玉(喜三太)、吉右衛門(蓮忍阿闍梨)そして雀右衛門(常盤御前)なんですから、これまた豪華。

鷹之助はわずかまだ6歳なのですとか。それでも花道からの入りで見得もなかなか。客席からは暖かい拍手と「うまい、うまい」との声が。私もここは素直に見入ってしまいました。舞台中央に入ってからの前半は、ひたすら鷹之助を持ち上げる演技の連続。ああ、歌舞伎っていうのは、主役がとことんに美しく強く引き立つように出来ているのだなあと改めて感心感動。後見に鷹之助が人形のように抱きかかえられての場面も、よしよし、いいぞいいぞ、といったカンじ。

途中に口上の入るのも楽しめる。「松竹株式会社の永山会長の暖かいおはからいにより~」と謝辞を述べるところに、興行的な意味合いを感じ取るものの、皆が「大ちゃん」と言って祝うのですから、ここは素直に受け取りたいところ。雀右衛門の仕切りの声にはハリもあり貫禄充分、10月の公演で体調を崩され心配しましたが、これなら当分大丈夫(笑)。肝心の富十郎はそれこそ平蜘蛛のように這いつくばったままで恐縮していたのが印象的でした。

さて、幸四郎、染五郎による「連獅子」も舞台で連獅子は初めてなので期待大でありました。ただ最後の頭の毛を振り廻す場面では二人の舞があっておらず、こういうものなのかと。染五郎が若さ故か力任せに頭を振るのと対照的に、幸四郎は淡々と振る。染五郎のそれは鋭角的な狂乱で綺麗な環になっておりませんでしたものの客席からはヤンヤの拍手。連獅子という芝居、この奇妙な毛振りを皆が期待してしまうところに歌舞伎の娯楽性を感じるのですが、その点からは私の感想はイマイチといったところ。

もっとも我が子を千尋の谷に突き落としてからの本舞台で子を探す親獅子と、花道でそれに気付く仔獅子の場面は印象的でありました。親獅子の迷う気持ちが舞台からひしひしと伝わってくるのが良かった。対して染五郎の仔獅子は親が心配している場面では、花道でじっとしているのですが、その態度が不遜に見えたのは何故か。親を超えようとする仔の気概か。そう考えると毛振りにおける乱舞もフロイト的匂いがあるのかもしれず、深読みか。

最後の「大経師昔暦」は、何ですかねこれは。近松門左衛門による世話浄瑠璃ですが「鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)」と「堀川波鼓」とともに三大姦通ものとい言われる作品。喜劇と悲劇が紙一重で、なんともなあ的な終わり方にも味わいがあるものの、これを評する能力は今の私にはなし。ただ、最近夫がつれなくて他の女ばっかり口説くものだから、その女に成りすまして口説かれて見せましょ(目にモノ見せてあげましょ)とは、なんと「フィガロ的」なストーリーでしょう!ある意味においては、最も深く面白い芝居であるかもしれません。

2005年10月26日水曜日

川原乞食としての歌舞伎俳優

現在の歌舞伎役者は、先に書いた鶴屋南北の世界に生きた「川原乞食」などと称される身分とは対極的な世界を獲得しています。歌舞伎俳優で成功している方々は、社会的な名声も富も有している存在であり、かつそれを維持しつづける家柄であるでしょう。


ここで思い出したのは渡辺保氏の「歌舞伎」(ちくま文芸文庫)にあった昭和26年の歌右衛門襲名披露における吉右衛門の「口上」のことです。渡辺氏にとって、この襲名披露における吉右衛門の口上が忘れがたいもので、この口上にこそ「口上」の原点があると書いています。


口上の間役者は観客に対しそれこそ平蜘蛛のように平伏するのが普通です。しかし、渡辺氏は吉右衛門の平伏を、他の役者のように形式的なものではなく、古い役者としての血がこういう姿勢をとらせているのだとし、それを過去の観客と歌舞伎役者の関係の差(中略)その伝統の記憶が吉右衛門の身体によみがえってくるからであろうと書いています。更に、吉右衛門の「一座高こうはござりますれども」の言葉には本来はお客様とは同じ座に座ることもできない身分の私どもがという卑下が含まれていたと書いています。そして、


歌舞伎役者はあきらかに深い階級的な差別のなかに生きている。これが「口上」の原点であることは間違いない。

としています。歌舞伎の本当のエネルギーとは差別される人間の自持の中にあるのだと。


口上は今年の中村勘三郎の襲名披露で実際に見ましたが、ずらりと並んだ裃を付けた俳優たちはひたすら平伏しており、襲名する勘三郎も平伏して「口上」を述べていたのが、口上を始めてみる目に印象的でした。この平伏に渡辺氏の示す意味が込められていたとは、その時は知る由もありません。


今年1月以来歌舞伎を見始め、渡辺氏が感じている歌舞伎世界は、その内実から大きく変質しているのではなかろうかと思う瞬間がないとは言えません。今更歌舞伎俳優の身分を低くしろとか、「乾燥した高台に住む上品な人々のための、お上品な芝居になり果ててしまっ(「アースダイバー」中沢新一 P.46)た歌舞伎をもとの姿へというのは実情にそぐう主張ではないでしょう。


だとするならば、差別をのりこえる武器であった「愛嬌」も、歌舞伎の魅力も、その意味するところはいやがうえにも既に反転しているのかもしれません。

2005年9月20日火曜日

歌舞伎座:九月大歌舞伎「夜の部」


九月大歌舞伎の夜の部を観てきました。

演目は芝翫の「平家蟹」、吉右衛門の「勧進帳」、そして歌舞伎座では48年振りの狂言、梅玉と時蔵の「忠臣蔵外伝 忠臣連理の鉢植~植木屋」の三作です。

歌舞伎初級者の私のことですから、お目当ては当然「勧進帳」なのでありましたが、予備知識の全くなかった「平家蟹」も「植木屋」も、なかなかに興味深くそしてまた面白く、今回も歌舞伎の底知れぬ奥深さを知らされる思いでありました。

以下に雑な感想を綴っておきますが、後日何か思いついたら追記するかもしれません。


「平家蟹」は壇ノ浦の合戦の後に生き残った官女、玉蟲(芝翫)の源氏に対する妄執を描いた怪談です。明治45年、岡本綺堂作の新作歌舞伎なのですが、観終わった感想は、いい意味での「なんぢゃこりゃぁ」というもので、歌舞伎というものは奥が深いのだなと思い知りました。岡本綺堂といえば今年2月に上演された「番町皿屋敷」も彼の作。あの時も、いまひとつ腑に落ちない印象を持ちましたが、今回も前回と同様に「?」と思うこともしばしば。岡本歌舞伎は、彼独特の美学があるようですし、この演目における不気味さ(特に蟹)は計り知れず、充分に堪能させてくれました。

実を言うと途中で芝翫が転んだりしないだろうなとハラハラしながら観ていた事も確か。芝翫の芸はまだまだ観せていただきたいと思っていますから。

惜しむらくは、今日も「掛け声」がかかるのですが、それが何とも一本調子な棒読みのような声。あんな掛け声なら発声しない方がよろしい、迷惑でしかないと言い切る。

「勧進帳」は、渡辺保さんの歌舞伎評と鶴澤八介さんの床本に当たってから望んだのですが、いやはや見事でありました。私は「勧進帳」は團十郎と海老蔵の醍醐寺薪歌舞伎をTVで観たことしかなかったのですが、それでも今回はいちおう二度目ということになりますから見所も把握しておりましたから、初見のときより余裕をもって楽しむことができました。弁慶は吉右衛門、富樫が富十郎です。私は富十郎が結構好きなのですが、今回は役的にはしっかり弁慶を立てていたようです。ここは渡辺さんの評でも言及していますね。

吉右衛門の弁慶に対してワキに徹して抑えに抑えているからである。それはもう出て来ての名乗りでわかる。今までの声の浪費と怒鳴り声と違って抑えて低いところは低く、高音部は張って、緊縮自在の円熟振り、これでこそ名調子といえる。

なるほど、富十郎の「怒鳴り声」も歌舞伎座においては捨てがたい魅力を持っていますが、今回の富樫には不要か、いずれにしても二人の作り上げた緊迫感は凄まじいものでした。

その上で今回の一番の見所といえば、渡辺さんの評とは少し異なりますが、私は弁慶が勧進帳を読み上げるまでの一連の所作でありました。弁慶がハッとばかりに巻物を読み上げようとするまさのその一瞬に、彼の心持が劇空間までもガラリと変化させてしまうかのような鮮やか印象を与えてくれました。

最後の「植木屋」は全く期待せず、寝不足だし一度会社に戻らなくちゃならないし帰ろうかなと思いつつ、痛くなりつつある尻と腰をだましながら観たのですが、いやいやどうして、これが滅法面白く、併せて「つっころばし」という役がかくの如しなのかと理解させてくれた劇でもありました。確かに渡辺さんの評にあるように、梅玉演ずる弥七が、色男の役ではあるものの、ちょっとした「間」に隙を感じたのも確か。でも、こういう劇は素直に楽しめる。今後に期待したいという気にさせてくれました。

2005年2月7日月曜日

歌舞伎座:二月大歌舞伎

歌舞伎座で二月大歌舞伎のうちから、番町皿屋敷と義経腰越状を幕見席で見てきました。

三月は十八代目 中村勘三郎襲名披露ですから、春と三月の穴場にあって余り人気はないのかなと思っていたら、大甘で休日の歌舞伎座は着物を着飾った老若女々であふれかえっておりました。(ちなみに三月の歌舞伎は発売と同時に売り切れのようです)

<昼の部>

  • 番町皿屋敷 一幕ニ場
  • 義経腰越状 五斗三番叟 一幕
  • 隅田川
  • 神楽諷雲井曲毬

<夜の部>


番町皿屋敷は有名な「皿屋敷」伝説をベースに近代風に仕立て上げた岡本綺堂の代表的な新歌舞伎で、人気歌舞伎の一つのようです。お菊が家宝の皿を割ってしまい手打ちにされてしまうところは怪談と一緒なのですが、なぜにたかが皿一枚のために人の命が奪われなくてはならないのか、ということを岡本経堂は「男の純真な心を疑われた無念」に帰しています。

岡本は、お菊(時蔵)が心を寄せる青山播磨(梅玉)を男気のある純粋な人物として描いています。それ故にお菊が家宝の皿を、播磨の心を確かめるためにわざと割ったということに、播磨は憤慨し許すことができません。しかし、どうもこのストーリーには無理があり、お菊が不憫でなりません。

「俺が家宝の皿を割ったから手打ちにするような心の狭い男と思うな、最愛のお菊に疑われたことが悔しいのだ」といって、お菊を自ら斬捨て、井戸に遺骸を放り込み(!)、そして男やもめ、もはや喧嘩しか生きる道はない(!)として終わるのですが、なんぢゃこりゃ!?です。

ストーリーはイマイチですが、名台詞も多いらしくあちらこちらから掛け声が頻繁にかかります。青年播磨は梅玉の当たり役だけあって堂には入ていますし、お菊の時蔵もよかったです。でもねえ、私の隣は外国人でしたが、このストーリーをどう思ったことでしょう。

◇

続く義経腰越状は文句なしに楽しめる歌舞伎です。舞台上手の幕だまりからツケの音が聞こえた瞬間に「歌舞伎はやっぱりこれぢゃなくちゃア!」と思ってしまいます。舞台床を踏み鳴らして泉三郎忠衡(左團次)が登場するなり、あちらこちらから「(タ)カシマヤッ!」の掛け声がかかります、これだよ、これ、ああ幸せ。

義経腰越状の見所は、なんといっても軍師として名高い五斗兵衛(吉右衛門)が、悪臣の錦戸太郎(歌六)と伊達次郎(歌昇)兄弟に酒を飲まされ、次第に酩酊してゆくさまと、その後の三番叟の舞です。

次第に酩酊するという芝居は、新春大歌舞伎の新皿屋舗月雨暈(魚屋宗五郎)と酷似していますね。宗五郎(幸四郎)の酩酊ぶりも笑えましたが、五斗兵衛(吉右衛門)の呑み助ぶりもなかなかのもの。あちらこちらから笑いが絶えません。三番叟は五斗兵衛の舞とともに五斗兵衛を追い立てる奴たちのアクロバティックな動きが楽しめます。

ストーリーは、たわいもないもので、いったい義経はどうなってしまったんだ?という思いで終わるのですが、これはこれ、支離滅裂ともいえる筋書きが何とも潔いものです。こういう歌舞伎ならば何度でも観たいなあという気になりますね。

2005年1月23日日曜日

歌舞伎座:新春大歌舞伎

歌舞伎座で新春大歌舞伎を鑑賞してきました。実のところ、私にとってはこれが初の歌舞伎鑑賞となります。昼の部は4階の幕見席で最初のニ演目、夜の部は3階席にて三演目を鑑賞。一日じゅう歌舞伎の世界のどっぷり。ああ、何て幸せな世界なんでしょう、これではハマる人が居るのも分かります。

松廼寿操三番叟での三番叟演じる染五郎の踊りの軽妙さ、梶原平三誉石切での梶原平三役の吉右衛門の貫禄、鳴神での鳴神上人演ずる三津五郎の大見得、土蜘蛛での吉右衛門らの大立ち回り、そして魚屋宗五郎での幸四郎の酒乱ぶり。どれを取っても楽しめ、今でも頭の中で囃子や化粧声、ツケの響きなどが頭の中で鳴っています。演目は下記。

��昼の部>

  • 松廼寿操三番叟 長唄囃子連中
  • 梶原平三誉石切 一幕
  • 盲長屋梅加賀鳶 四幕六場
  • 女伊達 長唄囃子連中

<夜の部>

  • 鳴神 一幕
  • 土蜘 長唄囃子連中
  • 新皿屋舗月雨暈(魚屋宗五郎) 二幕

それに歌舞伎座内の売店には、その場で焼いている人形焼、きんつば、鯛焼きなどの餡ものが所狭しと並んでいて、甘党なら一瞬でクラクラしそうな空間が展開されています。嗚呼、暖かい"きんつば"のしっとりとした肌さわり!かくいう私もクラクラし通しでした。

で、帰ってTV付けたら、中村勘九郎がSMAPの香取クンと歌舞伎について語っていました、歌舞伎を盛り上げようとしているようですね。

いままで、こんな世界をしらなんだとはァァァ~、ほんに、なんと、おろかなことざんしょオオ~。テケテンテンテン・・・イ ヨオーっ! 「成駒屋!」 ああ、おいらもはやく掛け声を掛けてみたいものよのう>早すぎるって。