2004年3月16日火曜日

【本棚】馬立誠:日本はもう中国に謝罪しなくていい


「両国の歴史問題は解決済だ」と中国はおろか、日本でも刺激的なフレーズが帯に踊る真っ赤な本です。内容は真摯な提言に満ちた本でした。日本の歴史認識を覆したいとして躍起になっている方々、逆に昨今の有事関連法案に過敏になっている人などこそ、ぜひ読むべきではないかと思う本であります。

「日本は中国に謝罪しなくていい」というタイトルの本が、中国人によって書かれているということで、ちょっと胡散臭さもあったのですが、読んでみました。馬氏は、中国青年報評論部副主任を経て、人民日報高級評論委員になった方で、2003年より香港フェニックステレビの評論員を務めています。

内容は至極まっとうな、将来的な展望を語った書でした。馬氏は日中国交正常化から30年も過ぎているというのに両国の間では嫌悪と敵意が拡大していることを憂い、その主たる原因を、中国内と日本内で生じている一部の偏狭ナショナリズムのと無関係ではないと説明しています。

中国ナショナリズムの代表としては『ノーと言える中国』『中国パッシングの背後』『グローバリゼーションの影の下の中国の道』『衝突』『中国を脅かす隠された戦争』の5冊を例にとり、ナショナリズムの偏狭な論理を斬り捨てています。(第二章 尊大で偏狭な「中国ナショナリスト」たち)

一方で日本のナショナリズムにも厳しい眼を向けており、日本のナショナリズムの高まりも中日関係を阻害したと説明しています。代表的な人物としては石原慎太郎氏、歴史・検討委員会の委員長であった故山中貞則氏、小堀圭一郎氏、中村粲氏、総山孝雄氏、松本健一氏、西部邁氏、高橋史朗氏、大原康男氏、そして小林よしのり氏などの論説を紹介し、ナショナリストの論理の誤りと危険性を述べています。(第三章 徹底批判「石原慎太郎」から「小林よしのり」まで)

中国内では、日本が中国に対して謝罪をしていないという意見が根強いのですが、これも全くの誤解であると説明しています。彼は1972年から2001年まで合計21回もの正式な謝罪があり、すでに中日間の問題は解決済であると説明しています。感情的な対立は前進のためにはマイナスにしかならないと説きます。また東京裁判のことにも触れ、日本の侵した戦争犯罪はすでに裁かれ責任追及もすでに完了していると説明しています(第四章 日本の指導者に「土下座」を求めてはならない) 。

最終的に場氏は、これからますます重要な地位を占めるであろう中国とともに、日本、韓国も含め共存してゆく道を後の4章に渡って説明しています。まさにこれこそ馬氏の言いたかったことなのでしょう。経済、金融面のみならず安全保障の面でも協力関係を築くことのできる可能性を示唆しています。その中で、昨今の日本の有事法制のあり方については、日本が軍国主義の道を歩もうとしているわけではない、「普通の国」になろうとしているだけである、と理解を示しています。

非常に新鮮な観点から書かれた本であり、傾聴に値するものです。日本の歴史認識を覆したいとして躍起になっている方々、逆に昨今の有事関連法案に過敏になっている人などこそ、ぜひ読むべきではないかと思う本であります。

2004年3月15日月曜日

展覧会:モネ、ルノワールと印象派展

Bunkamuraザ・ミュージアムで開催されている「モネ、ルノワール印象派展」を観てきました。モネが14点、ルノワールが33点、その他印象派のシスレー、ピサロ、スーラー、シャニックをはじめ、エドモン・クロス、ロートレック、ボナール、ヴァイヤールまでを含めた展覧会です。モネとルノワールをこれほど大量に観る事ができたのは初めてで、非常に満足しました。

チケットにある絵はルノワールの《青い服の子供》(1889年)です。これは往年の大女優グレタ・ガルボが愛憎していた作品とのことで、いかにもルノワールらしさにあふれた名品でした。私はルノワールの豊満な女性をモデルにした作風やテーマはあまりル好きではないのですが、それでも彼の愛情にあふれた数々の優しい絵は独特の色彩を放っておりました。


左の作品は《肌着を直す若い娘》(部分)(1905年)ですが、何ともいえぬ肌の輝きが至福の絵画となっています。ちょっと見方を変えると、ティーン向けのグラビア雑誌に載りそうなポーズだなとも思いましたが(失敬)

モネは、「パリ・マルモッタン美術館展」の感想でも書いたとおり私の好きな画家の一人です。この展覧会でも、モネの作品を堪能するおとができました。彼の作品は自然の風景を描いたものがほとんどですが、本当にキャンバスが光を放っているのです、まったく驚くばかりです。展覧会の後、絵葉書や画集を手にとって、彼の絵の光の十分の一も印刷技術では再現できていないのだな、と改めて思いました。

この展覧会で気の利いているのは、例えばルノワールとモネが同じ題材を描いた作品(キャンバスを並べて描いていたのだとか)ですとか、ピサロやシスレーの同じモチーフを描いた連作を並べたりとか、印象派の特徴をそれぞれの画風の中で比較して展示しているところです。


上の絵は左がルノワール、右がモネの作品でアルジャントゥイユの鉄橋を描いたものです(1873年)。ルノワールの風景はそんなに多いわけでありませんが、両者の画風の違いが如実に出ており興味深い作品でした。

モネの作品はおなじみの睡蓮も3点ほど展示されておりましたが、初期の頃の作品から晩年の作品まで、またヴィエネチアでの作品なども含まれており、モネの変遷を知る上では格好の展示でした。「パリ・マルモッタン美術館展」のような最晩年の抽象的な絵はありませんでしたので、モネのファンであれば、二つの展覧会に足を運ぶ必要があるかもしれません。

シスレーやピサロの絵もよかったのですが、印象派の絵画を観ていて、展覧会に訪れる人は皆口々に楽しげに絵を見て語っています。ある意味で、絵画がもっとも幸福な時代であった頃の作品であるのかと思ったのでした。今更西洋名画をありがたがって鑑賞するというのも、現代においていかがかと思う方もいるかもしれませんが、至福の絵画たちに接することは決してムダではないと思います。

【音盤】ゲルギエフ/ショスタコーヴィチ交響曲第5番

  1. ショスタコーヴィチ:交響曲第5番
  2. ショスタコーヴィチ:交響曲第9番
  • 2002年6月30日(第5番)、5月14日(第9番)

ゲルギエフのショスタコーヴィチ交響曲第5番を聴いてみました。日本語盤の解説は宇野功芳氏です。例によって絶賛の嵐ですが、さて私の聴いた感想といたしましては・・・

ゲルギエフは昨年7番が話題でしたが、今回はポピュラーな5番と比較的マイナーな9番のカップリングです。ゲルギエフは何度も書いていますが、私の好きな指揮者の一人ではあるのですが、昨年の日本公演でのマーラー(3番)にしても、話題と言われたショスタコービチの7番の録音にしても、今ひとつ心琴に触れるところまではいかなかったというのが正直な感想でした。

ゲルギエフの持ち味の一つであった粗々しさというものも、商業的な芸風として扱われるフシもありましたし、もしかしたらゲルギエフの真髄は、風評とは別のところにあるのではないかと考えたりもしていました。

そういう意味から、ショスタコの5番は期待と不安を錯綜させながら聴く事になったのですが、実はこれはなかなか言葉に表すことのできない素晴らしい演奏に仕上がっており、久しぶりに満足ができました。

私がCD評のお手本とするClassical CD Information & Reviewsでは以下のように書いています。

いずれも演奏も技術と表現の両面において完成度が高く聴き応え十分の名演といいうるものですが,私のようにこれまでこのコンビが聴かせてきた荒々しさやざらつきのようなものを求める向きからすると,物足りなさを感じてしまうかもしれません。

私は逆にそうは感じませんでした。荒々しさやざらつき というものは、もしかしたら彼の持ち味ではないのではないかとさえ、今回の演奏で思ったのです。

ショスタコの5番としては、演奏的な解釈はオーソドックスのように思えるのですが、1楽章冒頭からフィナーレまで、表現力の多彩さ、そして音楽的なふくらみと包容力はかつてないほどのように思えます。テンポは全体的にゆっくりに感じますが、重要な部分では大胆なアゴーギグをかけたりもしています。打楽器や金管楽器の迫力、それに低弦のパワフルな刻みなど、曲全体に驚くべきの生命力を与えているようです。

しかし、一番驚いたのは。第2楽章の最後のオーボエ・ソロの部分のスローテンポでも、脳天を叩き潰すかのような打楽器の強打を伴ったフィナーレでもなく、第3楽章の恐ろしいまでのヴァオリンのpppをバックに奏でられるメロディでした。この演奏では時間さえもが引き延ばされ、銀色に輝く一本の糸から真珠のような数々の想いがハラハラと零れ落ちるかのような、あるいは音楽が分解され再構築されてゆくかのような感じを覚えました。演奏は非常に丁寧ですし音楽的な効果を計算しつくしているように思えます。

日本語盤の解説は例によって宇野功芳ですが、彼の言う「格調高い悲劇」ということは、今ひとつ理解できませんでしたが、ゲルギエフの表現力の多彩さを聴くという意味からは満足の行く盤でした。

2004年3月13日土曜日

【音盤】フルートと管弦楽のためのオペラ幻想曲












NAXOSから発売されている、マルク・グローウェルスのCDです。

前回はフランスのフルート名曲に聴きほれましたが、今回はオペラを主題とした幻想曲集です。
フルート・ファンにはお馴染みの「カルメン」幻想曲や精霊の踊りのほかにも、普段あまり聴きなれない曲が納められており興味がつきません。




ショパンの変奏曲は1829年の作品で1955年に出版されたものです。作品番号はありません。ショパンの作品ではないとの説もありますが、明るくコミカルな出だしで始まる7分ほどの曲は愛すべき曲であります。後半はテーマを駆使した技巧的なパッセージを楽しむことができます。

フォブス(1939-)という作曲家は、ネット上でもどのような作曲家なのか探すことができませんでした。「魔笛」による幻想曲は、歌劇のテーマをふんだんに使いながら、フルートの煌びやかさを十分に発揮させる曲に仕上がっており、親しみやすくまた楽しむことができました。やっぱりパッパゲーノのテーマのところが良いですね。


グレトリ(1741-1813)は、革命期のフランス作曲界の中心人物で、古典派様式のオペラ・コミックを確立した作曲家だそうです。技巧的に派手な曲ではないものの、流れるような優雅な曲調は華やかな気持ちにさせてくれます。

ロッシーニのソナタも5分ほどの曲ですが、Andanteのどこか急かせるようなテーマがとても良いです。また、Allegrettoの最後の方、カデンツア風のところからラストに向けてがカッコ良いです。「カルメン」幻想曲は言わずもがな、グローウェルスの技巧が冴えまくっています。


ということでNAXOSですから、安売りしていれば900円以下で買えるのですから、お買い得であると思います。


マルク・グローウェルス(フルート)、ワーテルロー室内管弦楽団、指揮:ジョルジュ・デュモルティエ


●フォブス:モーツアルトの「魔笛」による幻想曲 ●グレトリ:フルート協奏曲 ハ長調 ●ショパン:ロッシーニの「シンデレラ」の主題による変奏曲 ホ長調 ●ボルン:ビゼーの「カルメン」による華麗な幻想曲 ●ロッシーニ:弦楽のためのソナタ 第4番 変ロ長調 ●グルック:歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」~精霊の踊り

2004年3月11日木曜日

有事関連法案について

既に成立している有事関連三法案に付加される形で、国民保護法案など有事関連7法案が9日閣議決定されました。これをもって政府は有事関連法案が完結することになるそうです。昨年の有事法案は、国民保護などを後回しとしたことが批判されました。1年以内に関係する法案も成立させるとのことでしたので、今回の案件がそれに当たるわけです。


��法案とは以下の法案だそうです。



主に外国からの攻撃の排除を目的とする法案


  • 外国軍用品等海上輸送規制法案

  • 米軍行動円滑化法案

  • 自衛隊法改正案

  • 交通・通信利用法案


国際人道法の実施などを主目的とする法案


  • 国民保護法案

  • 国際人道法違反処罰法案

  • 捕虜等取り扱い法案


3条約


  • 改定日米物品役務相互提供協定(ACSA)

  • 国際人道法であるジュネーブ条約の二つの追加議定書の締結承認案


既成立の有事関連3法案


  • 武力攻撃事態対処法案

  • 自衛隊法改正案

  • 安全保障会議設置法改正案



閣議決定を受けて、10日(水)の大手新聞社説を紹介しておきましょう。


毎日新聞は『有事7法案 時間かけじっくりと議論を』とし、民主党、共産、社民党の役割を改めて促しながらも、


 テロ対策支援法やイラク復興特別措置法により、自衛隊の海外派遣が拡大された。加えて有事法制の仕上げである。安全保障のあり方が大きく変化しても、「専守防衛」が基本である。国会では防衛の基本理念を踏まえ、じっくりと時間をかけて審議をすべきだ。

としています。「専守防衛」という死語になりつつある言葉を持ち出していますが、改憲なくしてのなし崩し的法案成立、あるいは違憲論争には触れていません。


朝日新聞は『ACSA――米新戦略とどこまで』とし、『いざという時の国民の生命や権利を保護する仕組みをできる限り整えておかなければ、まともな有事法制とは言えない』という主張を繰り返しながらも、改定日米物品役務相互提供協定(ACSA)について、『条約案のなかにひとつ、日本有事の枠を超えるものが含まれていることも見逃せない』と主張しています。


 この改定が実現すると、米軍を支援するための自衛隊の海外派遣1件ごとに個別のACSAを結ぶ必要がなくなる。[...]これは米政府が長く日本に求めてきた「NATO並みACSA」の実現である。



 確かに、新たな脅威を放ってはおけない。できる手段で、同盟国として米国に協力することもいい。だが、軍事力を頼みに単独行動もいとわない、いまの米国とともに、日本はどこまで行くのか。 一見軽く見えるACSA改定は、実はそんな課題を突きつけている。

基本的には有事関連法案は容認しながらも、野放図な米国追従についてはやんわりと批判しているというところでしょうか。ACSAという余り注目されない面での議論は、問題の深刻さを語っているようです。正面切って批判をしないのは、そういう論旨ではいままで散々主張しているからということでしょうか。


日本経済新聞は『有事法制の各論も与野党合意で成立を』とし、『しっかり議論したうえで最終的には昨年同様、民主党の賛成を経て成立させる必要がある』『昨年ようやく総論部分の三法が成立したのは、前者が与党と民主党との共通認識になったからであり、安全保障感覚の成熟化を意味する』とし、有事関連法案の成立に全面的に賛成した上で、今後も与野党の合意で成立させることを期待しています。


最後に産経新聞ですが、『有事法案決定 自分達の問題と考えたい』とし、『主要先進諸国で他国からの侵略や攻撃に備え、国民を守る法制を整備していないのは日本だけだった』とやっと有事法制が成立したことに安堵の意を表明するとともに、『最大の課題は、国民一人ひとりが自分の国や家族を守る決意を持って有事に備えることができるかどうか』と国民の意識のあり方にまで言及をしています。ですから『民間防衛組織の創設が見送られ、既存の自主防災組織の活用にとどまったこと』を憂い、ドイツの例を引き合いに出しながら、


 私権制限は、慎重であらねばならないが、必要なときがあることを示している。有事では自衛隊だけで国防はまっとうできず、国民の一致協力した支援が必要だ。それが他国に攻撃を躊躇(ちゅうちょ)させる抑止力につながるのだ。

とし、他誌より相変わらずの突っ込んだ主張を展開しています。

本日の朝刊各誌(電子版)においては、読売新聞だけが有事関連法案について社説で触れていませんでしたが、法案賛成の論調は変わらないでしょう。ということで、大手4誌は相変わらずの論調ではあるのですが、朝日、毎日といった新聞も法案には仕方なく同調しているという雰囲気がにじみ出ています。昨年の有事関連三法案が成立してしまっている以上、個人保護法案の成立が不可欠であると主張しますが、もはや後戻りはできないというスタンスです。

与野党の内部でも意見には微妙な温度差がありますが、総論で有事法案成立に賛成という動きはもやは変わりようがありません。そういう中で、かつての憲法論争はもはや過去のものとなってしまったのでしょうか。今回も7つもの法案を十分な議論を尽くせぬまま成立させてしまうことは、過去に遺恨を残さないのでしょうか。それとも、日本が「軍隊」を有する「普通の国家」となる上での、貴重なる第一歩なのでしょうか。


「自衛隊は軍隊」という言い方は、小泉首相が図らずも吐露した言葉ですが、実際には、相手が攻撃してこなければ攻撃ができないのでは「軍隊」とは言えず、警察の延長でしかありません。軍隊とは自ら攻撃を仕掛けることができる集団で、近代装備の有無で決まるものではありません。ここのところも、今後改正されてゆくのでしょうか。

日本は過去の清算を十分にできていないという論調もありますが、戦後50年以上堅持してきた日本国憲法というのは、一体何だったのでしょう。


��1世紀においては平和外交などというものは、世の中を知らない者の発想でしかないということでしょうか。中国をはじめとして、今まで経済的に貧しかった国々も力を付けてきて、国際的な勢力地図においてせめぎあいを演じる中で、軍隊もないようでは圧力さえかけられず、なめられるばかりで、国として一人前とは言えないということなのでしょうか。では、日本は中国と張り合おうというつもりですか。


平和外交が否定されますが、そもそも平和外交を全面に打ち出して活動している政治家(NGOとかでなくて)、は存在していますか。哀しいかな、存在したことのないものであれば否定されても仕方ありませんね、夢物語だと。世に永世中立国という言葉がありますが、そもそもその概念こそ夢物語でしたから、平和外交というのも、夢のまた夢なのかもしれませんが。


それでも敢えて言うとすると、戦争の反省とその後の50年の憲法論争の歴史を全て放り去ったかのような昨今の動きと、野党とマスコミのだらしなさには、ほとほとうんざりしています。日本はどこに向かいたいのでしょう。「普通の国」に何故なる必要があるのでしょうか。世界の中の多くの小国のような「普通の国」では相手から侵略されてしまいますか(たとえばドイツに攻められたベルギーのように)。


自らの勉強不足を棚に上げて再度書きますが、日本国憲法とは何だったのでしょう。日本に対する意味と、世界に対する意味は。それが清算されない限り、私は先に進めません。それは、やはり歩みの遅い「神学論争」でしょうか。また機会があれば考えてみます。

【サイト内関連エントリー】


2004年3月9日火曜日

【音盤】フランス・フルート名曲集

先週は仕事から帰ると、このCDばかり聴いていました。NAXOSから出されている「フランス・フルート名曲集」というCDです。

フルーティストはマルク・グローウェルスです。私は始めて名前を知りましたが、グローウェルスは何度か日本にも来ているらしく、梶本音楽事務所の紹介によれば、「ダイナミックな人間性や知的な音楽性により、今日もっとも人気の高いフルーティストの一人。[...]ピアソラは、彼のために《タンゴの歴史》を作曲している」とのことです。無知とは恐ろしいものです。


何度も聴いてしまうのは、フランス風とでも言うのでしょうか、軽妙にして洒脱な、肩の凝らない曲であり、なおかつメロディアスでしかも大変技巧に富んだ曲たちだからでしょうか。聴くたびに心が軽くなる思いです。

「ヴェニスの謝肉祭」には改めて舌を巻きますが、それ以外の曲も良いです。特にこの中では、ゴダールがお気に入りになりました、第一楽章の出だしが何とも言えません。ゴーベールやベルリオーズの二本のフルートによる愛らしい曲も、こんな世界があるならばずっと浸っていたいと思うほど。ベルリオーズは、もとはといえばフルーティストでしたものね。

しかし、グローウェルスのフルート、本当にうまいです・・・。

マルク・グローウェルス(フルート)、ワーテルロー室内管弦楽団、指揮:ユリス・ワーテルロ、クラウディ・アリマニー(第2フルート)、アニー・ラヴォワジェ(ハープ)
●ドンジョン:オッフェルトリウムOp.12 ●ジュナン:ヴェニスの謝肉祭Op.14 ●ゴダール:3つの小品の組曲Op.116~第1楽章アレグレット、3つの小品の組曲Op.116~第2楽章牧歌、マベルヘのセレナード、伝説的牧歌Op.138 ●ゴーベール:ギリシア風ティヴェルティメント ●ベルリオーズ:オラトリオ「キリストの幼時」Op.25 ~若いイスラエル人たちによる2つのフルートとハーブのトリオ ●グノー:小交響曲 変ロ長調

立川のビラ配りの件

立川のビラ逮捕の事件の件ですが、事実関係がよくつかめていません。当局が突然ビラだけで逮捕することなどなく、必ず今まで当局の監視があって、今回ある臨界を越えたのだろうと思っています。「立川自衛隊監視テント村」という市民団体名も、ちょっとすごい名前だとは思いますが。


マスコミ大手では朝日や赤旗だけがとりあげていたようですが、ネット上には以下のような意見を見つけることができました。裏日本観察学会総本部




そりゃ、自分たちの生活を「監視」するサヨク団体がビラ配りをしていりゃあ、気味悪くもなるよな。にもかかわらず、<ピザ屋さんもおすし屋さんも、引越し屋さんも不動産屋さんも、このようなやり方で、日常的にチラシを配布しています>と。教えてやろうか、店のチラシは住民の利益になるが、サヨクのビラは、ピンクチラシと同じで利益にならないからだよ(気遣うふりをしたって、手の内はバレバレだし)。


こういう発言が最も問題のような気がするのですよね。もし「立川自衛隊監視テント村」が急進的な左翼集団であったとしても、感情論で排他的になるのはいかがかなと。例えばこのHPはオウム真理教のことに触れています。


一番のギャグは、<オウム真理教信者によるポスティングが同様の弾圧を受けたことがあるが>これって、自分たちがオウムと同様の危険集団だと暴露しているだけだろ(笑)


市民団体が自らをオウムと同じ危険集団であると言っているのではないのは自明で、オウム的なものを取り締まるあり方そのものを問題視しているのでしょうに。


もっとも真に市民生活を脅かすおそれのある団体の活動と、憲法のもとに保証された範囲内での活動を見極めるのは難しいかもしれません。そんな悠長なことを言っていたら、とんでもないことになってしまう、事件が起きてからでは遅い・・・。だからこそ、いろいろな報道が欲しいのですが、日本のマスコミってダメですね。


私は思想的に右翼でも左翼でもありませんが、こうい話題を書くときは、それなりに緊張します。ばかな話しですが、自己規制が働くということそのものが、もはや健全な思想体系でないことを露呈しています。例えば会社の幹部が、「君のサイトは業界批判や会社方針に反する内容が多いため、即刻サイトを止めるか、会社を辞めるかしていただきたい」 と言われることは、さすがにないでしょうが(笑) 組織内にいて組織を批判するのも、自己矛盾といってしまえばそれまでですが、組織内で組織批判ができないとしたら、これほど恐ろしいことはありません。


ネット上の戯言は、私のサイトも含め、発言者の寄って立つところが全く見えませんので、意見も不連続で、発言者の主旨を掴むまで、本当は恐ろしくてレスポンスなど書けないのですがね。

2004年3月8日月曜日

【本棚】宮部みゆき:龍は眠る


宮部みゆきが好きになったというわけではないのですが、「龍は眠る」という長編を読んでみました。

宮部みゆきの代表作のひとつ、92年の第45回日本推理作家協会賞の長編部門を受賞した作品です。しかし読んでみますと推理小説とは趣がだいぶん異なります。先に紹介した「クロスファイア」や「鳩笛草」と同じく、超能力者をテーマとした小説になっているからでしょうか。テーマも推理やサスペンスより、超能力を持ったが故に苦悩する、二人の対照的な少年と青年に焦点が絞られているようです。

この小説に登場する超能力は、相手の考えていることや物品に残存する記憶を読み取ることのできる能力です。バラエティでよく放映されていますが、FBI超能力捜査官にも同じような能力者が登場しますよね。そういう能力を持った者は、聞きたくなくても他者の声が聞こえてくるため、能力をコントロールしないと精神的に参ってしまうということに宮部氏は着目しているわけです。そして、自分が望んだわけでもないのに能力を有しているが故に、何故その能力が備わっているのか悩み、力とどのように折り合いを付けるかということに人生の問題を置かざるを得ないと考えているのようです。ですから小説は、二人の能力を持つ少年が、ある事件に対して、どのように接し自分の人生を定めてゆくかが描かれています。こういうところが全く推理小説的ではなく、青少年向けの小説のように思えてしまいます。

推理仕立のところもあるのですが、二人の少年が余りに純粋すぎ、そして痛々しく、また相手の心を読んでしまうという能力をネガティブに捉えすぎるため小説の雰囲気も内向的で湿りがちです。「クロスファイア」でもそうでしたが、能力を持つことに対する決意と責任感と悲壮感がひしひしと漂います。そして物凄い芯の強さを発揮して自分の役割をまっとうする様は、殉職という雰囲気さえ漂います。能力者を別に超能力に限定せずとも、個人に備わった色々な資質として読み替えることもできますが、そこまで深読みすることもなさそうです。

内容は文句なしに面白いことは請負いますがのですが、(ぐっと来る人にはこたえられないのでしょうが)私にはこの湿っぽさと生真面目さがちょっと苦手ではあります。彼女はスティーブン・キングがずいぶんお好きなようですが、宮部氏の小説はキングよりは遥かに上質で上品で、しかも毒がありません。それゆえキングのような善も悪も突き抜けた破壊力とは全く逆の作風で、いかにも日本人の作品なのだなあと思うのでした。

2004年3月7日日曜日

これも言論の弾圧ですか?

言論弾圧といえば、こういう記事もみつけました。『社保庁職員が「赤旗」配布容疑で逮捕 国家公務員法違反』(3月3日朝日新聞 電子版)。事件は見出しのとおりですが、国家公務員法の違反容疑による警視庁の強制捜査は21年振りだそうです。短い記事によりますと、


公安部は今回の逮捕理由を「中立性を求められる国家公務員が、政党機関紙を反復継続して配布するなど守るべき規範を超えている」と説明している。



とのことです。「赤旗」が問題ですか。では、公明党と創価学会の繋がりなどは良いのですかね。

言論弾圧というと過敏すぎるかもしれませんが、例えば、教育基本法改正促進委員会における民主党 西村真悟衆院議員(たけしの「TVタックル」によく出演されている極右議員です)の次の発言はいかがですか。


教育基本法の改悪を目的とした、自民、民主両党国会議員の議員連盟。二月二十五日に設立、両党の有志議員二百三十五人が参加しています。教育基本法改悪法案の早期国会提出へ向け、国会議員の過半数まで議連を拡大することなどが当面の方針です。委員長は自民党の亀井郁夫参院議員。二〇〇〇年五月に「神の国」発言をした森喜朗元首相らが最高顧問になっています。
 民主党から同議連に参加した西村真悟衆院議員が、設立総会で「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す」などと発言。教育基本法改悪の目的がどこにあるのかをあけすけに語りました。〈2004・3・6(土)〉「しんぶん赤旗」


あまり話題になっていませんよね。西村議員ですから確信犯として許容範囲内ですか。この報道は、大手新聞では朝日新聞と赤旗(赤旗が大手かはさておき)でしか報じなかったそうです。こういう発言は野放しで赤旗を取り締まりますか。(そろそろ「日本共産党」とか「赤旗」という名前を降ろしたらいかがでしょうかね。個人的には私も「共産党」と「赤」には、どんなに正当な事を述べていても、色がついてしまいますからね。自ら自己矛盾をさらしているのですし。)


もはや政権与党と野党の対立はなく、オール与党で言論は改憲と右傾化に一直線という見方もできますが、ここは慎重にならなくてはなりません。はてさて・・・

【関連記事】


2004年3月6日土曜日

年金問題ふたたび

今週の「週刊!木村剛」は『厚生年金はネズミ講か? [コラム]』と題して、公的年金制度のおかしさを、怒りを込めて書きつづっています。



年金問題は私も気になっているのですが、どこか徹底的に騙されているのではないかという気持ちが抜けきれません。先に触れたグリーンピアに代表される施設ひとつ取っても、全く理解の域を越えています。木村氏は、『若者に年金脱退権を認めよ!』と主張しています。結論だけ引用してしまいますと、


要するに、「年金脱退論」というのは、インチキな「保険方式」から明確な「税方式」への移行を展望した政策なのである。私は、各人のインセンティブにしたがって、年金のあり方を自由に選択していく結果としての「税方式への移行」を目指すべきだと考えている。


ということです。ここで思い出すのが大前研一氏のメールマガジンです。『「年金、要りません!」という人には「名誉」を』と題した第1回のメルマガは、年金からの脱退を勧めています。年金脱退者には「名誉」や「その後の所得税を免除するなどのメリット」を与えるべきだと説きます。彼の主張も年金改革にあります。


年金脱退権という点においては両者共通しています。お上の制度に一律にという時代は終わったようですし、自己責任が言われる時代において、個人はもっと賢くならなくてはならないということでしょうか。

2004年3月5日金曜日

これは治安維持か言論弾圧か?


朝日新聞を見て驚いてしまいましたが、東京都立川市の防衛庁官舎へ自衛隊派遣に反対するビラを配った市民グループ3人が先月27日に警視庁公安第二課と立川署により逮捕されていたそうです。逮捕理由は、「住居侵入」罪だそうです(派遣反対ビラを自衛隊官舎で配って逮捕 憲法学者ら抗議)。


記事によると憲法学者たちは以下のように、今回の公安の行動を批判しています。




地元の大沢豊・立川市議らは3日午後、立川署を訪れ、「反戦運動への弾圧だ」として3人の釈放を要求。署側は「法律に基づいて正当に捜査している」と答えた。

 奥平康弘・東大名誉教授、水島朝穂・早大教授、阪口正二郎・一橋大教授ら憲法学者や刑法学者ら56人も「住居侵入罪によって保護される法益は平穏な私生活。郵便受けは外からの情報を受け取る通路でもある。今回の措置は自由な民主主義社会の基礎を揺るがす」との声明を発表し、抗議している。


まったく慄然とする思いです。逮捕されたのは立川自衛隊監視テント村という市民団体です。逮捕された上に、事務所から書類、パソコン類も押収されたというから、念が入っています。公安は以前からこの市民団体に目をつけており、今回のビラ配りで「時期が時期だけにひとつお灸を据えてやろう」という意思が働いたのでしょうか。

朝日新聞5日の社説は「ビラをまいた人たちに非が全くないわけではない。自衛隊員や家族の複雑な気持ちへの配慮が足りないのではないか、という意見もあるかもしれない」としながらも、


 支援者らの抗議に対し、警察は「法律に基づいて正当に捜査している」と答えた。しかし、今回のような強引な摘発が続けば、市民が自分の意見を言ったり、集会を開いたりすることをためらいかねない。私たちはそのことを心配する。


 自分と違った価値観を認め合い、自由に意見を交わすことができる。それが民主主義の社会であるための前提だ。


と主張しています。私も件の市民団体の活動について熟知しているわけではないので、結果だけから判断することは危険であるとは思いますが、全体的な印象ですと「言論弾圧」に近い、あるいは最近ではオウム真理教で戦後初めて適用された破防法、すなわち戦中の治安維持法に繋がる糸が見えてしまうというのは過剰な反応でしょうか。やはり見えないところで、世の中は間違った方向に進んでいませんか。


私は朝日新聞(電子版)で記事を見つけましたが、産経や読売はどのように記載する(あるいは無視する)でしょうか。

2004年3月4日木曜日

札幌市長の君が代斉唱中止

本日の読売新聞によりますと、札幌市の上田市長が新年互礼会での君が代斉唱中止の件で、ごたごたしているようです。上田市長といえば、昨年の市長選挙民主党はじめ市民ネットが推薦した元弁護士で、史上最多の7人の候補者が乱立する中、勝ち上がった方です。

記事によりますと、上田市長が君が代斉唱を中止した理由は「多様な価値観を認めることが民主主義」であるとの持論によるものだそうです。自民は「公人ではなく個人的思想に基づく行為」と反発を強めて予算特別委員会で追求をしているという図式のようです。新聞記事は更に、

(上田市長は)戦前、国旗・国歌が国家への忠誠心を表す対象とされたことに触れ、「私が恐れるのは公権力が一つの価値観を強要する社会」と指摘。「精神的自由の尊重が重要で、そのためには(新年互礼会の)君が代斉唱は必要ない」と従来の見解を繰り返した

2日の朝日新聞北海道版では、

日本が第2次大戦を回避できず、自国他国を問わず、悲惨な結果を招いた最大の原因は国民に精神的自由が保障されていなかったからだ

精神的自由に影響を与える可能性のある事柄には、国家は中立的で、できる限り抑制的であるべきだ

という上田市長の言葉を引用しています。

問題は国旗、国歌ということより、個人の信念と公人と私人としての役割、そして「精神的自由」ということに集約されそうです。たとえば小泉首相の靖国神社参拝も、個人の信念としてならば非難されるべきものではないかもしれません。

互いにひっかかるのは、政治家としての歴史認識を言動として表さずに、表層的な結果だけで動いているために余波を呼ぶのかなと思うのですが。君が代を斉唱することが法的に定められた国家意思であるという考え方は、いわゆる人を殺してはいけないというようなものとは違って、やはり違和感を感じずにはいられません。

ちょっと違いますが、住民基本台帳に反対する自治体がありますよね。東京都ですと杉並区とか国分寺市ですが、行政が行政のやり方に反対することはけしからんことで、違法なことなのですか。もっと言えば、会社において「社長の意見や会社の規律に馴染めないのなら、辞職しなさい」というのは一見正しいようで、組織的にまっとうな組織といえるのでしょうか。いろいろ考えてしまいますね。

ちょっと脱線しすぎましたか。

(参考)

2004年3月3日水曜日

アメリカ大統領選の行方

スーパーチューズデーが始まりましたね。今後ブッシュ政権からケリー氏でも誰でもいいのですが民主党政権になった場合、小泉政権のイラク派兵に対し不利になることはないのかと考えていたら、そうでもないようです。



ロイターの記事によりますと、


民主党はもともと保護主義色が強いが、選挙後は通商政策が中道路線に戻ることが多い。安全保障政策については、民主党候補が政権奪取後はより国連重視に転じるとみられる。自衛隊のイラク派遣に対する国民の支持を取り付けたい小泉政権にとって、米政権交代は外交上困ることはなく、むしろやりやすくなるとの指摘も出ている。 (吉川 裕子記者 リンダ・シーグ記者)

ということのようです。なるほど、今度は国連ですか。アナン事務総長と日民主党の管代表は

イラク戦争を始めることについては国連は一貫して査察の継続を主張し、反対であったことを明言された。アナン氏が自衛隊派遣を評価したことで、戦争の大義名分が認められたかのような論陣を張ろうとしているが大間違いだ

と話していたのは先月24日でした。これからの情勢を見極める必要がありそうです。

国歌、国旗についての読売新聞


本日の読売新聞社説は『[国旗・国歌]「卒業式も国際的標準を視野に」』とした上で、国旗国歌の重要性を説いていました。私を含めて、国旗、国歌に複雑な思いを抱く人は多いと思います。



読売新聞いわく


 先進諸国は共通して、学校での国旗、国歌教育を重視している。アメリカでは法律で、学校などの公的機関に国旗を掲揚することが定められている。自分たちの歴史や文化、アイデンティティー(自己同一性)を確認し、国の将来を構築していく意志を示すためだ。

 国旗、国歌を通じ子供に精神的な支柱を形成する取り組みが、グローバル化が進む今、以前にも増して重要だ。

国旗、国歌に限らず、国家とは何かという認識が重要であること、(国家なくして個人は国際社会で存在できませんから)国家によるアイデンティティの確立も重要であることは認めます。


学校においては、国旗掲揚及び国歌斉唱の実施は義務付けられていますから「国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われる」らしいです。


再度読売新聞に戻りますが、


 日本では、戦前の軍国主義体制への嫌悪感などから、国家について突き詰めて考えることを避け、国旗、国歌への態度も曖昧(あいまい)にする傾向が続いてきた。


とあります。嫌悪感とともに出されるのが贖罪意識あるいは自虐史観に基づいた歴史認識です。やはりそういう歴史を総括して清算しない限り、国歌、国旗問題、ひいては憲法9条問題も解決しないのではないでしょうか。外圧や対外的な脅威のみに依存した、安易な解決や改革しなくてはならないような雰囲気つくりに流されること、こういうことはやはり避けるべきだと思いますが、いかがでしょう。

若い歌手が「アカペラで国歌を歌いたい」と言う発言には、どう受け止めるべきでしょう。以前、忌野清四郎が国歌を歌いましたが、変にカッコよかっただけに不気味でした。


サッカーW杯などで無邪気に国旗を振る海外選手を見ると、うらやましいと思いますが、日本は何故国旗を振ることに罪悪感と抵抗感があるのでしょう。サッカーのオリンピック予選が始まりましたが、どうしてあんなに「国を挙げて」熱狂する雰囲気をマスコミは作り、それにまた皆乗ってしまうのでしょう。


アメリカは占領地に星条旗を立てて歴史を作ってきましたが、彼らには贖罪意識はありませんね。やっぱり連合国だからでしょうか・・・


右傾化や改憲派が与野党で趨勢を占めてきましたが、彼らや彼女らは徴兵制を前提(1)に議論しているのですか? 彼や彼女らは、自分たちの子供や孫を戦地へ送る覚悟ができているのですか?  戦地での彼らや彼女らに、相手が敵なら銃剣で刺し殺せと教えるのですか? 日本人が海外で銃弾に当たって死ぬことや、地雷や爆弾に当たって吹き飛ばされることを許容できているのですか?


国旗、国歌問題から飛躍しすぎかもしれませんが、こういう問題を考えると己の勉強不足と認識不足に、はっきり言ってうんざりしてしまいます。


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(1) 安直に徴兵制度と書きましたが、調べてみると現在の主流は志願兵制度ですね。現在の防衛強化の方向を、「徴兵への移行」などと考えるのは短絡すぎるようです。ドイツは徴兵制を残していますが、イギリス、フランス、スペインでは徴兵制は廃止されています。イタリアも2005年には完全志願制に移行する予定です。勿論アメリカも志願兵性ですね。日本が軍隊を持つとしても、志願制で人が集まらない状況にならない限り、徴兵制は採用されないという議論もあります。また、現代の近代化した兵器を扱うのに、期間兵では役に立たないとか、徴兵されたものを教育する体制にないなどの現実的な問題もあるようです。おっと、このエントリーは「国旗、国歌問題」でしたね。この手の問題は、まだまだ勉強不足のようです。

2004年3月2日火曜日

アイノラ交響楽団の演奏会

アイノラ交響楽団の第1回演奏会に行ってきました。アイノラ交響楽団というのは、シベリウス愛好家が集まって、シベリウスの音楽を演奏するために結成したそうです。今回の演奏会にこぎつけるまで3年を費やしたそうです。
 
アマチュア団体でしかも特定の音楽家に特化するというのは、ユニークでありながら非常に冒険でもあるように思えます。シベリウスの曲は私も好きですが、二つの組曲はあまり馴染みがないためどのような演奏になるのか、期待と不安を持って聴き始めました。 アマチュアとは言っても在京のオケですから技量は高いオケのようです(比較対象なしの独断)。ffにおける音量も十分で、ダイナミックレンジの大きな迫力のある演奏を聴くことができました。特に、金管群の音量は十分すぎるほどで、想いの丈が伝わってくるかのようです。弱音や弦楽器による細かなトレモロなど繊細な動きもなかなか聴かせてくれました。多少表情が固いかなと思うこともありましたが、オケとしての初々しさなのでしょうかね、あるいは私の勝手な思い込みでしょうか。 

さて、肝心のシベリウスの音楽ということに関しては、これは表現するのがなかなか難しいものがあります。というのも、シベリウスの何を好きかということになるのかと思うのですが、これはオケの想い、団員個々人の思い入れ、そして指揮者の解釈、聴衆の求めるもの、それぞれが「シベリウス」というキーワードのもとに微妙に異なるからです。そういうわけですから、自分の中の勝手な「シベリウス像」を演奏からどこまで聴くことができるか、ということに興味は尽きるたわけです。巨匠の演奏やプロの名演と比較してということではなくて、ですが。 

私が好きなシベリウスというのは、どこか曖昧であり自然と一体化したかのような喜びと霊感を感じさせてくれるようなところ、よくマーラーと対比されますが、ギリギリまでに鋭敏に贅肉を落としたところの澄みやかなる美しさと冷涼さ、キリスト教の神とは違う意味での神聖さを感じさせるところなどなどです。演奏を聴きながら考えたのは、上とは逆のシベリウスの持つ愛国心と大衆性ということで、それはそれでシベリウスが愛されてやまない理由だとは思うのですが、個人の中でどう音楽的に両立していたのだろうということです。 

本日の演奏会のプログラムは、さすがに第一回の演奏会と銘打つだけあり、よく練られていると感心するとともに、シベリウスの両面を上手く表した曲が選曲されていると思いましたが、最初の組曲ふたつは馴染みがないせいか、どうも焦点を絞りきれず、実は余り楽しめませんでした。「フィンランディア」だけがあまりに有名ですから、そこだけ浮き上がって聴こえてしまったのは私の経験不足というところですね。(世のシベリウスファンは、この曲を生で聴くために足を運んだ人も多いことでしょうに) 

それでもシベリウスの考えている音楽やアイデアがそこかしこに断片のように散りばめられているのを聴く事もでき、曲を再認識した次第です。 シンフォニーの方は、よくまとまっていたと思います。第2番についでポピュラーな曲ですが、終楽章の6つの和音による決然とした終わり方は釈然としない思いが常に付きまといますが、それもそれとして聴かせきってくれたように思えます。指揮の新田さんは和音と和音の間をかなり長めにためて振っていましたが、彼女なりの想いがあるのでしょう。この不自然なまでの間が、かえって曲に一貫性を持たせたように私には感じられました。

 アンコールのアンダンテ・フェスティヴォは非常に良かったですね。フェスティヴォという題名とは裏腹な静けさと清涼さ、まさにシベリウスの音楽を堪能することができました。 まあ、そういうことで、いろいろと楽しむことができた演奏会でした。えらそうにいろいろ書いてしまいましたが、本日の演奏会に至るまでには関係者の方々には並々ならぬご苦労があったと思います。ごくろうさでしたと思うとともに、今後の活躍を期待しております。 ちなみに開演を告げる鐘の音はシベリウスの作品65の「カッリオ教会の鐘の調べ」だったのですね、さすが!! 
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アイノラ交響楽団 第1回演奏会 2004年2月29日(日) 14:00開演(13:30開場) 
大田区民ホール アプリコ大ホール ��JR蒲田駅から徒歩3分、京急蒲田駅から徒歩7分)) 
指揮:新田ユリ 
シベリウス/組曲「白鳥姫」 作品54 
シベリウス/「歴史的情景」組曲第1番 作品25 
シベリウス/交響詩「フィンランディア」 作品26 
シベリウス/交響曲第5番ホ長調 作品82 
(アンコール) アンダンテ・フェスティヴォ 交響詩「フィンランディア」 作品26