2007年8月26日日曜日

【本棚】福岡伸一:生物と無生物のあいだ

話題の本らしく、新聞の書評でも絶賛しています。暇な週末でしたので買って読んでみました。噂に違わず面白く、生物学の研究の場に立ち会うような興奮があって一気に読めてしまいます。それでも感想はといえば、amazonの皆さんが書かれている様に、肯定半分、落胆半分といったところでしょうか。

皆さんが褒めているように、確かに福岡さんは文章が旨い。科学的観察には一見似つかわしくない叙情的かつ詩情とノルタルジーさえ感じます。ですから、本書の一番素晴らしいのは実はプロローグとエピローグであったりします。特にエピローグに描かれた福岡氏の少年時代の体験談は圧巻で、そこには生物と時間をいとおしむ、限りなく静かな眼差しがあり、生物学者 福岡伸一の原点が述べられています。

そうなんですね、本書は福岡伸一氏の生物学に対する探求譚なんです。いわゆる先端科学の解説本というには食い足りません。「生物と無生物」の違いに関する説明も用意されているものの、もっと深い最先端の話題を期待して読む人は、大いに肩透かしを食らうことでしょう。

一方で本書を生物学に取り組んだ科学者たちの物語という読み方もできるかもしれません。おそらく福岡氏はサイモン・シンの「フェルマーの最終定理」や「暗号解読」などを意識して本書を書いたかもしれません。でも、残念ながら、シン程のワクワク感にまでは達していないんですね。

それは、おそらくは、生物学者「福岡伸一」という細胞皮膜を破ることなく、生化学という外部をあたかも膵臓細胞の小胞体が外部を内部に取り込んだように書いたことによるのでしょう。結局は生化学の物語ではなく、福岡氏の物語なのです。ラストの数章が自らの膵臓細胞研究を巡る記述になってしまったのも、全体のコンテキストから考えると違和感を禁じ得ません。ある意味において極めて私的な本と感じたのも、それ故です。もっとも、福岡氏の研究の概要を示すことをリアリティと受け取るか、あるいはテーマの矮小化と捉えるかは人それぞれだとは思います。

それにしても、ここまで鮮やかに理系と文系の両刀を使いながらサイエンスものを書く力量があるのならば、福岡氏の他の本も読んでみたいという気にはさせてくれます。

それにしても、不確定性原理を発表したシュレーティンガーの「原始はなぜそんなに小さいのか」という問いかけ。生物や無生物の構成物質が原子や分子であるとして、それらの振る舞いが確率論的にしか定まらないということ。そのような不確定な粒子あるいは波動から物質が成立しているということ。分子レベルでは、生物は数日のうちに全く入れ替わってしまうということ。

今更の知識ではあるものの、やはり改めて考えると不思議以外のなにものでもない。いかにして秩序は造られたのか・・・。

2007年8月11日土曜日

ピカソの絵が戻る!

盗まれた絵があれば、取り戻した絵もあるということで。取り戻されたのは、ピカソの孫娘宅から盗まれていた油絵2点、デッサン1点。総額80億円なのだそうです。(AFPBB News)

仏警察内の芸術品盗難を専門とするOCBCに美術関係者から通報があったことで、今回の逮捕につながった。また、重要犯罪を扱う内務省の特別捜査チームBRBも捜査に協力した。

少しGoogle Newsで検索してみました。

‘Portrait of Jacqueline’, painted by Picasso in 1961 and ‘Maya with Doll’ which depicts the owner’s mother

今回の犯人達は、ある筋からの情報により、追跡されていたのですとか。Telegraph.co.ukによりますと、犯人達は(絵画を納める)プラスチック・チューブを背中に括りつけていたらしいのですが、姿格好からバレてしまったらしいですね。

As they looked like anything but Beaux-Arts students, we nabbed them straight away.

もうちょっとそれらしい、格好をしていれば良かったものを(苦笑)。

作品は良好な状態で発見されたと当初報道されましたが、今日になってうち、「ジャクリーヌ」には明らかに破損が確認できると変化しています(AFPBB News)。写真を見ると折れ曲がっていますね(;_;)

召AFP Eric Fefferberg

、筅ヲー捏elegraph.co.ukから拾ってみましょう。

The two paintings were indeed in the tubes, but the dimwits had rolled them so tightly that they had made the painted surface crack,

と書かれています。ABC NEWSによると、

The Portrait of Jacqueline has been slightly marked, but should be easy to restore.

Maya with Doll, however, suffered some cracks and shows signs of being roughly removed from its frame.

ということらしいです。AFPBBと報道内容が微妙に違っているのが気になります。警察当局はprofessional dealers in stolen goodsと称していますが、本当にプロ集団なんでしょうか。BRBのLoic Garnier氏が言うように、

This wasn't an amateurs' job, but I can tell these people were not art lovers."

というのは本当でしょう。OCBCのBernard Darties氏が以下のように嘆くのも頷けます・・・。

It is a sign of ignorance and stupidity to do such damage to works of art - these are unique pieces

まあ、無事戻っただけ良しとすべきか。絵に保険は入っていなかったようですが。さてさて、モネやシスレーは何時戻るでしょうか!

2007年8月10日金曜日

【本棚】柳原慧:いかさま師


毎度楽しみに読んでおります《弐代目・青い日記帳》で紹介されていた柳原慧氏の「いかさま師」を読んでみました(→http://bluediary2.jugem.jp/?eid=1087)。

柳原氏は第2回『このミス』大賞受賞作家です。読むのは初めてですが、人物造形、ストーリーを含めて、あまり私の好みではありませんでした。内容に関する言及はミステリーですからいたしません。それよりも面白かったのは、彼の着眼点であるラ・トゥールにまつわる記述でしょうか。

(ラ・トゥールの)市民からの評判は極めて悪く、税金の徴収に来た役人の尻を蹴飛ばしたり、召使に豚を盗ませたりと、清廉な絵からは想像もつかない、俗っぽい人物像が、まことしやかに語り伝えられている。(P.72)


人間の持つ二面性、欲望と騙しあい、あるいはサバイバル戦略。ここら当たりが小説のテーマにもなっているようです。

私は高校時代(かれこれ30年前?)は美術部に所属していましたので、学校の図書館にあった美術全集などはひととおり眺めていました。ですからラ・トゥールについても独特の画風で印象(→Wikipedia)で摺り込まれていました。それでも、他の画家ほどに魅力的に感じなかったのは、陰影に富んだ独特の画風が、ひとつのパターンに陥っているように思えたせいでしょうか。それこそダリの言うようにただの「ろうそくの画家」という意味で。

「いかさま師」(→Wikipedia)や「女占い師」という作品の存在にまでは気づかなかったのですね。いや、目にはしていましたが、そういう風俗画に興味が向かなかったのでしょうね。ラ・トゥールは2005年に東京で大々的な展覧会が開催されました。私は残念ながら!見逃してしまいました。ただの「ろうそくの画家」という認識の中にありましたので、積極的に食指が伸びなかったのです。今思えば残念なことをしたものです。

柳原氏がラ・トゥールの二面性を題材に、主人公やその人生の光と影、二面性を織り交ぜたという点においては極めて秀逸なミステリーに仕上がっていると思います。美術界や贋作に関する話題も非常に意表をついていてナイスです。柳原氏は日本大学芸術学部のご出身ですから、こういった着眼点の確かさを感じます。

ただ、最初に書いたように、人物造詣などには堀の深さが認められず、ちょっとプロットに走りすぎている気はしました。

2007年8月8日水曜日

またしても、名画盗難!!

弐代目・青い日記帳によりますと(→http://bluediary2.jugem.jp/?eid=1099)、フランスのニースにあるジュール・シュレ美術館から、モネ、シスレー、ブリューゲル(父)の作品が白昼堂々盗まれたらしく。



Googleで海外の新聞をいくつか検索してみましたが(>英語、読めないけど)、経過は上のごとくで、まだその後の記事は出ていないようです。この美術館からモネやシスレーがこの美術館から盗まれたのはこれが初めてではないとか。


美術館の防犯について疑義を呈する論調もありますが、覆面ガンマンが「伏せろ」って言えば、フツー伏せちゃうよね(;_;)


ネット上では盗品4点のうちモネの絵の画像が多いようだけど、作品としては少しボーっとした印象。ブリューゲル(父)の絵は、対になった寓話のようですね。シスレーの画像を掲載している記事は少ないのですが、いかにもシスレーらしい明るい絵、素直に幸せになれますね。


takさんも引用されているように、Guardian(by Kim Willsher)によれば、


Investigators believe the paintings, described as of "inestimable value" by the museum, were almost certainly stolen by "special order" and destined for a private collection as they are far too well known to be sold on the open market.


なんだそうで。この"special order"とか"private collection"というのに、一般人は非常に興味をそそられますが、そんなミスターXなんて存在しないと言い張る人も居ます(→『ムンクを追え』)。


International Herald Tribune(AP)によると、モネは最も盗難にあっている画家であり、盗品データベースでは53がリストアップされているそうな。更に、盗難の規模はFBIの推定によれば、


the market for stolen art at US$6 billion (€4.7 billion) annually. The Art Loss Register has tallied up 170,000 pieces of stolen, missing and looted art and valuables.

なのですとか!! まあ、絵の価値なんて、なんだかわけの分からないものを相手にしての金額ですが、それにしてもイヤハヤ。


盗難の理由はなんであれ、あのムンクだって2年経って発見されたのですから、今回も見つかることを祈るばかりです。


最近、これもtakさんのところで紹介のあった柳原 慧の「いかさま師」を読んでいたもので・・・反応してしまいましたが、美術の裏社会は深く暗く興味深いですね。

2007年8月6日月曜日

[NML]ヴィヴァルディ RV626、RV 601

NMLにヴィヴァルディのRV 626とRV 601があったので聴いてみました(CHAN0714X



演奏のPurcell Quartetは1983年に設立されたイギリスの古楽楽団。50以上のレコーディングがあり、幅広いレパートリーで活躍しているようです。1998年にはモンティヴェルディの最後のオペラ"L’Incoronazione di Poppea"で来日し、その後も10年近く日本とは深い関係にあるようです。いずれにしても実力派団体(→Bach Cantatas Website)。


Catherine Bottは1952年英国生まれのソプラノ歌手。彼女もシドニーのAustralian Brandenburg Orchestraを伴ってヘンデルのアリアの日本公演を果たしているらしく。古楽分野を中心にフォーレやヴォーン・ウィリアムスなどの作品でも活躍のご様子。


NMLのラインナップでもCHANDOSの録音を結構聴くことができるようです。(→Bach Cantatas Website)(写真はHyperionより


で、演奏ですが、先に聴いたピオーとはやはり全然違う。こうして聴いてみると、naiveエディションはかなり扇情的とも言える危険なバロックであると改めて思います。RV 626の一曲目を聴いて金縛りにあうこともなければ、RV 601で絶賛した'A solis ortu usque ad occasum'も美しい曲ではありますが、陶然とするほどではない。逆にブロック・フルーテ(Stephen Preston)との'Gloria Patri et Filio et Spiritui sancto'もピオーとは趣は違いますが、これはこれで絶品でしょうか。ラストの'Amen'も神々しいくらい素晴らしい。最初は何だか「もったり」した印象だと思ったのですが、繰り返し聴いていると、この演奏も気に入りましたよ。


ピオーとボットの表現の違いとともに、やはり伴奏、すなわち音楽の指向性の画然とした違いが大きいかもしれません。しかし、モテットとか詩篇というような教会音楽には、このくらいの落ち着きと大人しさが相応しいかもしれません、聴くたびに心を乱されてはかないませんからね。

2007年8月5日日曜日

【音盤】 Vivaldi In furore,Laudate pueri e concerti sacri

  1. モテット『正しい怒りの激しさに』 RV626
  2. シンフォニア ロ短調 『聖なる墓にて』 RV169
  3. 詩篇『主の僕たちよ、主を讃えよ』 RV601
  4. ヴァイオリンとオルガンのための協奏曲 ニ短調 RV541
  5. ヴァイオリン協奏曲 ヘ長調 『聖ロレンツォの祝日のために』 RV286
  • サンドリーヌ・ピオー(S)
  • アカデミア・ビザンチーナ オッターヴィオ・ダントーネ(cond)
  • naive op 30416

一年ほど前に、古楽系ブログで話題になった盤で、今更の感もありますが、聴いてみて感じたことを簡単に書いておきましょう。声楽を伴わない器楽曲も納められていますが、やはり聴くべきはサンドリーヌ・ピオーの歌声です。

  • 『はた迷惑な微罪』 2006.07.20 ~まさに激しさと、華麗さで、これぞイタリア・バロックの醍醐味
  • #Credo 2006.07.23 ~ヴィヴァルディらしい激情型の音楽でカッコよくて聴き応え十分です。ほとんどコロラトゥーラ・ソプラノ@夜の女王みたいじゃない
  • ロマンティク・エ・レヴォリュショネル 2006.07.27 ~CD屋で試聴して、一瞬で身が凍りつきました。
  • ぶらぶら、巡り歩き 2006.9.04 ~宗教曲がこんなにも劇的なものだったのか
  • Takuya in Tokyo 2006.9.10 ~特に付け加えることもありません。 素晴らしいの一言です。

激しいばかりがビバルディではありません。刺激だけなだけが現代バロックでもありません。厳かにして幽玄な部分の信じられない程の美しさと静謐さ、そして神聖さ。この俗と聖の両極端に足を踏み入れ、聴くものの心情をこれでもかというくらいにかき乱す。ヴィヴァルディの多様さと表現力の幅の広さを思い知る一枚です。

まずはRV626モテット『正しい怒りの激しさに』から3曲。

冒頭のアリアからして、度肝を抜かれ、鳥肌ものです。伴奏はスピーディーでキレが良く現代的な演奏。それにピオーの超絶的な歌声が、神聖にして厳かに、それでいて驚くほどの透明性と軽やかさを兼ね備えて飛び回ります。ほとんど奇跡の歌声。繰り返されるヴィルトオーゾ的な部分と中間部の美しさの対比の見事さ。この1曲だけでもはや脱帽。

��曲目は一転して、オルガンに乗った厳かな短いレチタティヴォ。そして、いかにも、そういかにもビバルティ的な弦の伴奏に導かれて'Tunc meus fletus'(Then my tears will be turned to joy)が唄われます。まさにsorrowfulとかpatheticとしか表現しようのない唄は、ソプラノのハイキーがはかなげで、そしてその敬虔さに涙をさそいます。

悲嘆と望みは、'Alleluia'で解放されます。メリスマティックな技巧も、ほとんど聴いていて口があんぐりな状態です。この歌声の軽やときたらどうでしょう。突然にソプラノの限界とも思えるキーがポンと出てきて、最後は軽くスパイラルアップ!敬虔にして耽美で快楽的。聴いていて背中に汗が流れてしまいます。kimataさんが18世紀前半の夜の女王と書いていましたが、まさにです。

続いてはRV601詩篇『主の僕たちよ、主を讃えよ』。

'Laudate pueri'(Prise the Lord)は、Allegro non moltoながら、上下する音符、惜しげもなく使われる高音、そして、長調が表現する喜びと明るさに満ちた、聴くだけで幸福になれる曲。

それにしても、3曲目の'A solis ortu'(From the rising of the sun to the going down of the same...)の美しさときたらどうでしょう。昇る太陽を象徴するかのように静かに刻まれる弦にのって、どこまでも伸びやかなピオーの歌声が被ってきたときには、ほとんど奇跡のような・・・と書くのが陳腐すぎるくらい。最初のロングトーンの美しさだけで確実に泣けます。体中に喜びと幸福が溢れます。最後の高音では脳内ホワイトアウトです。激しい曲もいいのですが、私はこの曲が文句なしにイチ押しです。

シリチアーナのリズムに乗った'Excelsus super omnes'は厳かな祈りか。雰囲気が変わっての'Suscitans a terra'は、ザクザクとした弦の軽快な伴奏にピオーのソプラノが勢い良く歌われます。カンタービレとビルトオージック部分が交互に歌われ、至福の時間もあっという間。

'Gloria parti'はフラウト・トラヴェルソの音色が印象的。モダン・フルートとは明らかに違う暖かな音色は、包み込むようで、ピオーの歌声もトラヴェルソと対話するかのように、しっとりと歌われます。

最後は明るく'Amen'です。中間部のAmenと歌うメリスマティックな技巧の凄まじさよ。波状攻撃の高音、限界までスパイラルアップする吹き上がりとヌケの良さ!まさにヴィヴァルディの面目躍如と言った曲。最後にこれを聴くと、ああヴィヴァ聴いたなあと大満足です。

2007年8月4日土曜日

映画:魔笛

ケネス・ブラナー監督の映画「魔笛」を、新宿テアトルタイムズスクエアで観てきました。「魔笛」が映画でどのように変化させられているのか興味ありましたし、いちおうクラファンを装っていますから・・・。

しかし、私が良く訪れるクラ・サイトではいまひとつ評判は芳しくない。

  • Takuya in Tokyo~正直結構退屈でした。(中略)モーツァルトで一番大事なのって、「ラブ&ピース」っていう「結論」では必ずしもない気がするんですね。
  • ロマンティク・エ・レヴォリュショネル~「なるほど」と感心した面と、「何だかな」と思った面と、半々といったところ。
  • オジ・ファン・トゥッテ♪~最終的には「愛と平和」に落ち着いてしまうという平凡な結末に不満も感じますが(中略)舞台表現の限界を超えています

といった具合です。私はDVD含めて「魔笛」舞台映像に接したことはありませんから、オペラ演出と比べて云々というとは全く語れません。それでも、これって、モーツァルトの音楽かなあと観ながらにして思ったことは確か、歌詞も英語ですし。

舞台が第一次世界大戦とパンフなどに唄われていますが、それは本当の世界大戦ではなく、対立する二つの集団の武器や衣装などをその時代から借用した程度の使われ方。戦車も飛行機もオモチャのよう。これには全く予想を裏切られます。まあしかし戦争映画を観たかったわけではありませんから、それもいいでしょう。

シカネーダによる台本の捩れは、映画でもそのままではあります。それでも原作以上に善と悪、暗と明、夜と昼、戦争と平和、対立と愛みたいな構図がひどくキッパリと区分されすぎていて、不可解な矛盾までは表現されていません。「魔笛」の一番の肝の部分が換骨脱退されているような・・・。愛だとか平和のようなテーマとモーツァルトというのも、少し馴染みません。モーツァルトってもっと、欲望と人間くささに満ちていますからね。

音楽も聴いていて、ちょっと疲れますね。台詞がほとんどなく、ひたすらにアリアが続きます。それが映画館の誇張されだドルビー音響で鳴らされるので、ちっとも心地よくありません。

ぢゃあ、観て失敗だったかと言うと、まあ、そうでもないかなと。音楽が元になった映像イマジネーションという点では、なかなか面白いと思いましたよ。それらを列記すると・・・

  • 序曲が始まり明るい太陽とまぶしいばかりの草原で繰り広げられる、戦闘シーン。クラシック音楽と戦争シーンてどうしてこんなに合うのでしょう。
  • タミーノが塹壕のなかで突然歌いだすのには、ビックリ。おお!これはミュージカルであったかア!!(>私はミュージカルは苦手であります。サブイボが出ます)
  • 夜の闇中、看護婦姿(?)三人の侍女が空から登場!「私が見張っている」の部分で、自らの衣装をむしりとってバストアップされた胸を強調するシーン!にドキィ!!
  • 夜の女王(リューボフ・ペトロヴァ)が戦車に乗って登場!!「怖がらなくてもいいのです」って、怖いよ!!小林幸子か?
  • 夜の女王の第一幕のかの有名なアリアのシーンの凄さ!画面左に鼻から口の横顔がドアップ、パクパクする口から菱型戦車MkIVらしきものが(→参考)蟲のようにゾロゾロと!!
  • ザラストロの衣装が作業服みたいなのは何故? 某独裁国家の独裁者のイミテーション??
  • またしても夜の女王の第二幕の復讐のアリア、今度は空を飛ぶ!それも、空気を一杯に入れた風船のように物凄いスピードで!!これを笑わずに観ることを耐えられましょうか!!このアリアを聴くたびに、このシーンを思い出してしまうかも・・・
  • ポスターにもなっている、第二幕のパパゲーノのアリアのシーン(右)の美しさと至福さ!カラフルな鳥のような衣装を着た女性たちが空から、すうっと降りてくるんですから。そしてその後の、バカバカしいまでにでかい唇。まるでB級ドタバタ劇のようなノリ>笑えねー(^^;;
  • パパゲーノがパパゲーナをゲットして「子供を作ろう!」って二人して寝床を用意しているのに、三人の童子があどけない顔で横に居てはイケマセん!
  • 終幕の一つ前、夜の女王、三人の侍女、モノスタートスが最後の登場をするところ。垂直に近い城壁みたいなところを、フリークライミングしている! そして、嗚呼・・・! なんだか、遠いムカシの「ひょうきん族」を思い出したり・・・

という具合にツッコミところ満載です。基本的には感動の物語というよりも喜劇ですかね。役柄的には、ザラストロ(ルネ・パーペ)が立派過ぎるので、こちらはあんまり突っ込めない。タミーノとパミーナも、そっとしておいてあげましょう。

  • 音楽監督・指揮:ジェイムズ・コンロン/ヨーロッパ室内管弦楽団
  • タミーノ:ジョセフ・カイザー
  • パミーナ:エイミー・カーソン
  • パパゲーノ:ベン・デイヴィス
  • パパゲーナ:シルヴィア・モイ
  • 夜の女王:リューボフ・ペトロヴァ
  • ザラストロ:ルネ・パーペ
  • モノスタトス:トム・ランドル
  • 三人の侍女:テゥタ・コッコ、ルイーズ・カリナン、キム=マリー・ウッドハウス

2007年7月29日日曜日

映画:インランド・エンパイア


恵比寿ガーデンシネマで上映されていた、デイヴィット・リンチ監督の『インランド・エンパイア』を観てきました。私は映画ファンではありませんので、前作『マルホランド・ドライブ』は観ていません。学生時代に『イレイザーヘッド』(1976)、『エレファント・マン』(1980)を観ましたが、全く理解不能で気分が悪くなったことを思い出します。TVでブレイクした『ツイン・ピークス』、これはハマりました。しかし意味の半分も理解していましたか・・・。


で、3時間にも及ぶ本作です。かなりスリリングな映画で、次の展開が全く読めませんからぼんやりと寝ている暇なんてありません。目をつぶったら最後、自分が今眼にしている映像が、何時の時代で何処の場所の物語なのか、誰が出ているのかさえ分からなくなってしまうかもしれないのですから。



映画解説や雑誌には、錯綜する五つの物語が重層構造的になって展開するように説明されています。次第にこれは、ハリウッドの世界だとか、ポーランドの何処かだとかは分かってきます。しかし、それが分かったところで、何になるというのでしょう。作品の振幅は大きく、ゆらぎ、そして時空ごと乱れていきます。


一体に、主役である女優ニッキー(ローラ・ダーン)は何歳という設定なのでしょう。それ程の美人ではないので、映像のアップを眺めるのはかなり苦しい(そもそも、人物アップがとても多い映像)。それでも役によってめまぐるしく変わる彼女の風貌は、作品に得も言われぬ深みと、ある種の厚みを与えていました。


��Vを観て泣く女、冒頭から陰鬱です。何故に泣いているのか、彼女は何を観ているのか。最後にその謎らしきものが分かります。しかし、その「解釈」とて、彼女の復讐と救済の物語だったなんて考えると、途端に白けてしまいます。それだったら今までのフリは、この3時間は一体何だったの!と。


泣き女は救われたとしても、ぢゃあ、ニッキーは救われないのか?確かに救われませんね。あのラストの脳天気さにカタルシスを感じますか?ヤケっぱちささえ感じますが・・・脳天気に踊っているのは彼女ではありませんよね。彼女は、何事もなかったかのように、いや、全てを経験したかのように、微笑みながらソファに横座りしています。あの浮浪者に看取られての「死」のシーンは強烈でしたからね。


それにしても、これは女性の物語です。リンチは本作をabout a woman in trouble, and it's a mystery, and that's all I want to say about it.と語っているそうです。womenではなくA womanですから、ニッキーを指しているのは自明でしょうか。それでも登場する女性達の運命は、それぞれです。男性も登場しますが、支配的で性的にして暴力的という描かれ方に終始し、女性の送る人生に比べ刺身のツマ程度の役割しか果たしていません。夫なのにツマとはこれいかにです。そのツマが女性の運命を暗くも明るくもします。娼婦たちの退廃した明るさは儚くもエロティックで、しぶとく、強く、そして美しい。助監督のズルさとは対照的です。


いや本作に意味や物語を求めるのは野暮でしょうか。自らの行動の曖昧さ、現実と幻想の、現在と過去の溶解。重なり輻輳する人生と突き動かされる内なる衝動、崩壊。催眠と無意識。行動には結果が伴うという蓋然と偶然。愛とエロス。生と死。それらにノイズとノスタルジーが被さり、茫と霞んでゆく・・・。


音楽はキャロル・キングの「ロコモーション」がベタで印象的。ベックやペンデレツキなども使用されていたようです。私は映像と合わせて、ずっとノイズが鳴っていたような気がしています。いや、映像そのものが、壮大なノイズであり混沌。生半可な解釈はやはり不要でしょうか。


��S.
ペンデレツキの何と言う曲が使われていたか知りませ。NMLでヴァイオリン・ソナタを聴きながらレビュを書きました。ペンデレツキ!いいぢゃないですかっ!(>いちおうクラ音楽ブログだしね)


2007年7月23日月曜日

【本棚】スティーブ・ジョブズ-偶像復活



この本をどのような目的あるいはコンテキストに当てはめて読むかで読後感は変わるかもしれません。Appleの創業者にして最近のiPodのヒットをとばしたジョブズの波乱に満ちた半生を一気に読ませる筆致で描いて見せた作者の力量は見事です。多少の誇張やジョブズに対する偏見が透けてみえようとも、とにかく本書は圧倒的に面白いのです。


ビジネス書として読んだ場合、彼の性格や行動が破天荒であり天才的過ぎるので、一般人が参考にできることは少ないというアマゾンの読者レビュも目にします。





まあ、それはそうでしょうが、先に紹介した「ビジョナリー・カンパニー」や「ビジョナリー・ピープル」を思い出しながら読んでみると、ケーススタディとして結構面白く読めます。


ジョブズはアップル創業前に、スティーブ・ウォズニアックという天才と強引にコンビを組みます。


ブルーボックスという成功例もあるのだから、また、何かを作って売れるんじゃないかと思われた。問題は、その何かとは何なのかだった。
(P.50)


これなど、まさに「まずバスに乗せる人を決め」てから行く先を決めるという「ビジョナリー・カンパニー2」の指摘そのままです(残念ながらAppleはビジョナリー・カンパニーとしては選定されていません)。


スティーブ・ジョブズは、家庭やオフィスにコンピューターを売ることを通じて世界を変えられるというビジョンを提示した(P.75)


これは「ビジョナリー・カンパニー」で提唱された基本理念やBHAG(Big Hairy Audacious Goals=のるかそるかの冒険的な目標)に当たるものでしょうか。ジョブズは自分が具体的に何をするのかについては紆余曲折するものの、自分がどうありたいのかは理解しており、そのことに驚くべき情熱とエネルギーを賭けたことが分かります。


こうしてジョブズを考えてみると、経営トップの中には、ジョブズ的な性格を有している人も少なくはないでしょう。それであっても、誰もがジョブズにはなれないという事実、ジョブズはジョブズでしかない。ジョブズのような才能は、世界でも極めて稀であり、それ故にiCON=偶像になったわけです。彼の考え方や生き方をマネてもジョブズにはなれないんですよね。



本書の主眼がジョブズの人間的成長という面に重きを置いているとしたならば、それは成功しているといえましょう。ジョブズを知る上では格好の書です。でも、何故Appleが魅力的なのかは、依然として謎のままです。


また、ジョブズがAppleに果たした役割についても(それは映画会社pixerについても同様です)、かなり限定的な描かれ方をしています。それでも、パーソナル・コンピューター、アニメーション映画、音楽の三つの業界で多大な影響力を与えたのはジョブズの手腕であると説明しています。


デザイン・センス、卓越したプロモーション能力、論理を超えた直観力、組織を導くカリスマ性だけでは数十年に渡り、巨大な組織を率い、消費者を惹きつけておくことはできないハズです。そこのところが本書の記述からはクッキリ見えてこずに、少しもどかしさを感じないわけではありません。

2007年7月21日土曜日

【本棚】美しい国へ、とてつもない日本


参院選真っ只中、自民党がどこまで議席を確保できるかが焦点になっているようです。「美しい国へ」を書いた安倍政権は支持率が低下しており、指導力不足からか、どうも人気がないようです。対する麻生氏はどうでしょう。「アルツハイマー」失言*1)で足元を掬われなければ良いですが。

実は私は期日前投票を既に行っています。どこに投票したかは明言しませんが、「積極的に投票したい政党や候補者がいない」という事実と、政治に対する期待度の薄さに、このままでは日本はマズイのではないかと思っています(>かといって具体的な行動は何もしませんが)。

政治家として安倍氏と麻生氏を比べるつもりはありません。それでも両者の本を読み比べると彼らが政治家として何をしたいのかは良く分かります。二人とも日本を立て直したいという点では一致しています。ということは日本は「ダメ」な国になってしまったのでしょうか。
だとすると、それは一体いつに比べて「劣って」いるのでしょう。近代国家成立以降であるならば、日清・日露戦争に勝利した明治から大正時代ですか、大東亜戦争の時代ですか、あるいは終戦処理とその後の経済的復興の時代でしょうか、いや「JAPAN AS NO.1」と呼ばれた時代でしょうか、はたまた・・・。

考えるに、日本が世界に対して大きな発言力を有していた時代、あるいは日本の去就に世界が注目していた時代というのは、過去にあったのでしょうか。トヨタやソニーを始めとする日本を代表するメーカーは、品質、コスト、そしてブランド力など海外に大きな影響力を与えました。しかし経済的効果から離れて、国際政治的な面での日本の影響力を考えたとき、日本は海外からどう見られているのでしょう。日本は本当に「落ちた」のでしょうか。

麻生氏は日本も捨てたものではない書きます。失った自信を取り戻させようとするのは結構なことです。日本の一部の人たちは歴史的には自虐的な過去を、国際間においては米国追従を嘆く姿勢に傾きがちです。では、日本はどの分野においてリーダーとなりたいのでしょう。日本としての存在感を、どこで出したいのでしょう。麻生氏はサブカルチャーなどは日本発で世界が注目していると説きます。またアジアにおいてしなやかなネットワークを作りたいと書きます。

それもいいでしょう。日本経済新聞を読んでいますと、日本が狭い国内の豊富な消費力に甘んじいる間に、グローバルな標準からズレてしまい、国際的な競争力を削いでしまったという論調が目につきます。日本がモタモタしている間に、韓国、中国、インド、ロシア、そして北欧などの諸国が凄まじい勢いで力を付けてきいます。結果的に高度な技術力があるにも関わらず、日本の地位は相対的に低下しているのだと。

2月に中国に仕事で行きました。読むのと見るのでは大違い、中国の目覚しい発展ぶりには度肝を抜かされました。それも20年前の卒業旅行依頼の中国訪問でしたから、その差異は尚更でした。他の国々も程度の差こそあれ同様なのでしょう。

そういう変化の激しい状況の中にあって、日本は国際的にどういう地位を占めたいのか(国連の常任理事国になりたいとか、そういう表層的なことではなく)。ビジョンからブレイクダウンして日本の国内政策はどうあるべきなのか。こういう問題は経済主導ではなく、やはり理念=政治の問題だと思うのです。国家も企業も個人も、その点での行動原理は同じであるように思えます。

麻生氏も安倍氏も、本に書いてあることは簡単な言葉で書かれていますから理解はできます。異論もありますが許容範囲内でしょうか。しかし、そこからさらに大きな枠組みや物語が伝わってこないのは残念です。

日本は国際社会の中で何をしたいのか、日本国の「生きがい」は何なのでしょう。日本はビジョナリーな国なんでしょうか、経済発展においてではなくてですよ。

  1. 麻生外相は、国内の農産物が高いと思われがちだとしてコメの価格に言及。1俵1万6000円の日本の標準米が、中国では7万8000円で売られているとしたうえで「どっちが高いか。アルツハイマーの人でもわかる。ね。こういう状況にもかかわらず、中国ではおコメを正式に輸入させてくれませんでした」などと述べた。(7月19日 朝日新聞電子版より)


2007年7月18日水曜日

【本棚】ビジョナリー・ピープル

ビジョナリー・カンパニー 時代を超える生存の原則』と『ビジョナリー・カンパニー2 飛躍の法則』が極めて秀逸な本であったので、本書も期待して読んでみました。著者のジェフリー・ポラスはスタンフォード大学ビジネススクール名誉教授、「ビジョナリー・カンパニー」の著者の一人でもあります。

ところが訳がマズいのか、なかなか読み進められない。その上、前著に比べて今ひとつインパクトがありません。紹介されている人物が、日本人には余り馴染みのない人で占められているため親近感が沸かず、自分に引き込んで読めないという点もあるかもしれません。

ビジョナリー・ピープルとは、時の人や浮き沈みのあったカリスマ的リーダーではなく、自分自身の成功を定義し、最低20年以上その分野で長く続く影響を与えられるようになった人とされています。多くのリストから1000人に絞込み、最終的に200人を越える人とのインタビューを行ったそうであります。途方もない労力の結果、本書が出来上がっています。

私はこういう本を読むにつけ、「ビジョナリー・カンパニー」を読んで感じたように、このような研究に、これほどの綿密な計画と労力を払う人種と職業があるということ、そのことに驚きと感動をまず覚えます。

さて、内容はそれほどインパクトがなかったとは書いたものの凡作ではありません。紹介されているビジョナリーな人物が持つ楽天性、前向きな性格、そして情熱には、ほとほと参ってしまいます。間違っても私はビジョナリーな性格を有していないなと思い知らされます。

彼らには人生の意義が明確に見えており、自分が何をすべきか分かっています。「成功」を明確に定義しており、自分の内実と不連続なものとしてそれを位置づけています。

本書の第二章冒頭に書かれている次の言葉は、働くものや、働かないでいる者にとっても深く突き刺さります。

最近は、自分のしていることを好きになるのが大事、という議論が盛んになっている。(中略)多くの人たちにとって、本当の生きがいというのは、そうあって欲しいという感傷的な空想で終わってしまう。

実はこれが問題で、自分の大好きなことをしないのは危険なのだ。自分のしていることに愛情を感じない人は誰であれ、愛情を感じている人にことごとく負けてしまう。(P.54)

おそらく、これは極めて真実なのでしょう。しかし、それを実現できている人は、いったいどれほどの割合なのかと。本書を読み通して、そこに描かれていた人物の生き様を知った後で序章の次の一文を再読すると改めてハッとするはずです。

つまり、長期間にわたって続く成功と密接な因果関係があるのは、個人にとって重要な何かを発見することであって、企業にとっての最高のアイデア、組織構造、ビジネスモデルではない(P.9)

ここで定義される「成功」とは富や名声や権力のことではないことは勿論。

ビジョナリーな人にとって、成功の本当の定義とは、個人的な充実感と変わらない人間関係を与えてくれる、そして自分たちが住んでいるこの世界で、自分にしかできない成果を上げさせてくれる、そんな生活や仕事のことだ(P.30)

さて、自らに問いかけたとき、いかがか・・・。

2007年7月17日火曜日

[NML]ベリオの《フォークソングス》


iPodがご臨終になった今、こうなったらオレにはNMLがあるワイと開き直り、今日はベリオの《フォークソングズ》(1964)を聴きました。これはベリオが妻で声楽家であるキャシー・バーベリアンのために書いた曲。

ベリオと聞いて怖れるなかれ、林田氏が推薦しているように、この曲集は限りなく美しい。体の奥に、抵抗もなくすーっと入ってきます。伴奏も簡素ながら曲に非常にマッチしています。ところどころに挿入されるフルートの響きが実に素敵。11曲の曲集はイタリアやアルメニアなどの民謡がベースになっているそうです。

1曲目から唖然、2曲目は、言い知れぬ既視感に誘われるかのような優しさに包まれます。3曲目では思わず感涙・・・10曲目の《Lo fiolaire》も素晴らしい・・・。何を唄っているのかは分からねど、です。メゾ・ソプラノのJean StilWellの歌声も聴きやすく、短いので二度ほど続けて聴いてしまいました。



2007年7月15日日曜日

とある個展のメモ



7月のことになりますが、知人が銀座の画廊で個展を開催。仕事の入っている休日でしたが、昼前に行ってみました。

彼はインスタレーション作家ですので、展示作品はマジマジと鑑賞するといった類のものではありません。机上には彼が育てたらしい苔、そして鏡の上に水滴の王冠のようなステンレスの鋳物。壁には幾何形体を思わせる図形や植物とそのイミテーションが、絶妙のバランスであしらわれています。

作家は「作品とそれが置かれる空間の関係性」に強く惹かれ、このような表現形態に移行したのだそうです。素人の私にははっきり言って、ゲンダイ美術というとちょっとムツカシイくうまく表現できません。それでも、無駄なものを省いた、彼らしい緊張感と柔らかさ、そして清潔感の漂う空間構成を感じることはでき、その心地よさを味わえたという意味においては作家の意図が少しだけ伝わったかもしれません。

2007年7月3日火曜日

【本棚】外山滋比古:思考の整理学

筆者の外山滋比古氏は、英文学者にしてエッセイスト。一読して、文章が旨いなあと。著者が一番書きたいことは、情報や思考を整理する方法ではなく、考えるとはどういうことなのかということのようです。本書の出版は1986年。まさにこれから本格的なコンピューター社会を迎える前兆が感じられつつあった20年前にあって、コンピューターにまかせられることはまかせ、自ら考える主体的なアタマとなる必要性を問いています。本書を学校教育が「飛行機型」の人間を作らずに「グライダー型」の人間ばかり作っているとの主張から始めていることからも、それは明らかです。

氏の考える=発想スタイルはというと「考えに考え抜く」というものではなく「発想は寝て待て的」なものであるようです。アイデアを「発酵させる」「寝かせる」、そして整理するということは「忘却させる」ということなのだと。また、ものを考えるには、「朝飯前」という言葉があるように朝が良いと書いています。

とはいえ、氏の「朝」というのは8時頃であり「朝」の状態を再現するために、朝食は食べずブランチに、食後は本格的な昼寝というスタイル。めまぐるしい現代人のそれでないことは確か。アイデアを「寝かせる」という氏の推奨するスタイルが当てはまるのは悠長な学者か、あるいは企業の研究員くらいではないのか、という思いもしないではありません。毎日が課題や問題山積みの企業活動においては、意思決定タイミングは極めてスピーディーでなくてはなりませんから。

メモとメタ・ノートという考え方も、今となっては全く目新しいものではありません。「複数の手帳を使い分ける」とかの題名で、文具店の販売促進に一役買っている雑誌が定期的に書店の棚を占拠しているのは良く目につくところ。考えてみればブログというツールは、私にとってはノートとメタ・ノートの間のようなものですし、「書く」ことによって安心して「忘れる」ことが出来るのも事実。

しかし、ここで更に気付くのですが、毎日の判断にせよ長期的な意思決定にせよ、自分の無意識の中に「忘却」させていたアイデアや願望と無縁であるということまでは否定はできません。若い時には実現できなかったけれども、ある年代になってやっと実現可能な環境かつポジションになったということも、ないわけではないなあ、と思ったりもします。

「とにかく書いてみる」という章には深く頷いてしまいました。

書き進めば進むほど、頭がすっきりしてくる。先が見えてくる。もっとおもしろいのは、あらかじめ考えてもいなかったことが、書いているうちにふと頭に浮かんでくることである。

「自分が何を話すか自分で分かっていない」と言ったのは内田樹氏。確かにそうであるよなあと。そういう意味でも「思考の整理法」とかその手の類書とは一線を画しているようにも思え、氏の考え方は充分に現代でも通用するのだと思います。

2007年7月2日月曜日

[TV] 言葉で奏でる音楽~吉田秀和の軌跡~

7月1日のNHKでETV特集「言葉で奏でる音楽~吉田秀和の軌跡~」が放映されていました。最初の十数分を見逃したものの、他に並ぶ者のいない音楽評論家の姿を眺められたのは、なんだかとても僥倖であったと思います。

彼の音楽評論は、結構読んでいます。『主題と変奏』などの初期評論も、一時絶版であった全集を神田古本街で探しまわって入手したものです。彼の文章には音楽や芸術への愛が溢れていて、素直に敬意を感じます。そして、音楽評論の内容云々を越えてしみじみとした気持ちになってしまいます、それが彼の文章の魅力でしょうか。

そんな吉田氏が、カメラに向かって語る言葉にも偽りはなく、真摯な姿勢が滲み出ており、やはり文章通りの人であったなあと思い嬉しく思ったものです。

戦後、吉田氏は内閣情報局を辞します。引き止める上司に「食べていくくらい、なんとかなるだろう」と応え、音楽について書く道に入ります。「書きたいことはあったし、書こうとしているものは、世界で誰も書いたことのないものだと分かっていたから」なのですとか。小林秀雄について語る時の彼の逡巡。「小林さんの文章にはカデンツァがない。飛躍がある」という批判。「小林秀雄よりも自分は音楽を語れると思った」「彼よりもずっと『音楽』を勉強している」という自信。でも、「あの文章(『モオツァルト』 )はまさに小林氏にしか書けないもの」なのだと。そこに彼の小林氏に対する複雑さが込められています。

原稿用紙に万年筆を走らせ、雑誌に載せる楽譜は自ら写譜しヤマト糊で貼り付ける。原稿を書くということは「こういう手作業」から生ずるものなのだと、そして原稿を書くことよりも、校正することの方が「楽しい」のだと。そして、自らの手作業の楽しさについて、画家のドガを引き合いに出してこう説明します。「ドガが木の葉っぱを一枚一枚描いているのを、詩人のヴェルレーヌが、面倒ではないかというようなことを尋ねた。ドガは画家というのは、そういう風にして葉っぱを描くことそのことが楽しいのだよと答えた」 

あまりにも有名な「ひび割れた骨董品」の書評についてもコメントしていました。私は、吉田氏がそれを語るときの、言い知れぬ深い愛惜をこめた悲しい口調を、吉田氏の映像とともに忘れることはないでしょう。そしてまた、次の言葉も。

結局は、バッハ、モーツァルト、ベートーベンに尽きるなア。バーバラが死んだ後、音楽を聴く気にもならなかったけれど、バッハの音楽は邪魔をしないんだ。

インタビューアは堀江敏幸氏でありました。不勉強にして私は彼を知りません。どうやら小説家にしてフランス文学者らしいです。吉田氏と対談できるという機会を得たにも関わらず、インタビュアーとしては少々役不足と感じられたことは否めません。