時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
2009年4月12日日曜日
2009年3月30日月曜日
【本棚】下村治:日本は悪くない 悪いのはアメリカだ
神谷氏が自ウェブや『強欲資本主義・ウォール街の自爆』(→レビュ)で紹介していた下村治氏の著書が復刊されておりましたので読んでみました。初版は1987年です。サブプライム危機後の現在にもそのまま当てはまる予言と批判となっており、書評やネット上では下村氏の慧眼を評価する声を一部で見ることができます。
しかし、よく考えると経済というか日本が、バブル時期の20年前と何も変わっていないこと、あるいは、新自由主義が崩壊した世界においても、相変わらずの対米追従であり、自国の論理を構築できないままの未熟国であることが露呈されたたに過ぎないのかもしれません。ドルの崩落の危険性について下村氏も指摘していますが、今でも同じ論調の本はあちこちに山積です。
下村氏は全8章で同じ理論を繰り返しています。下村氏は、とにかく「アメリカの言いがかりと詭弁」に怒っています。高名な経済学者でありながら語り口も平易ですから、読み物としてもあっという間に読めますし、イロイロな意味で深い感銘を受けます。
骨子はこうです。アメリカ国見一丸となって借金をしてまでの消費狂いのせいで双子の赤字が生じている、それを他国(=日本)のせいにして日本国内消費を増やせだの、輸出を減らせだの文句を言うことはオカシイ。キサマラこそ借金を止めて消費を縮小せよ。日本は輸出が減るから生産は減るけど、他国の消費に頼ってバブルを謳歌していることこそ間違い。生産を縮小して身の丈にあった経済に戻りなさい、というもの。
下村氏は、多国籍企業やグローバル経済にも異を唱えているようです。自由貿易やグローバル企業は進出先の産業を弱体化させ食い物にするというような植民地時代の考え方が今でも生きていると主張します。競争力の弱い自国の産業は保護が必要であると。
20年経った今でも、アメリカの消費はいよいよもって狂気の域に達し破裂しました。今回の経済不調の原因が市場主義にあったわけでもない。確かにサブプライム・ローンとかCDSなどの金融派生商品を生み出した金融業者と、それに信用を付与し続けた格付機関には大きな責任があります。そして、そんなワケの分からない商品を買いまくった銀行とか保険会社にも責任の一端はあります。
サブプライムで痛い思いをした日本経済は、「新自由主義」とか「市場主義」の悪弊を言い募り「資本主義」のパラダイムが変換しつつあると主張し、「縮小均衡」や「保護主義」に向かうべきという主張が目に付きます。20年前の下村氏も同じことを主張します。アメリカが本気で経済を立て直す(赤字を解消する)気なら、GNP縮小を覚悟の上で「歳出削減」と「増税」しか道はない、日本も多少の痛みを覚悟の上で(数年前のレベルに戻るだけのことと氏は言う)縮小均衡に向かえと。
自国を見直し、大切なものは育てるという認識は正しいと思います。ただし、ここまでグローバル化した世界において、グローバル化そのものの流れを止めることはもはやできません。保護主義(バイアメリカン条項などもそうでしょうか)も一時的には効果があるかもしれませんが長期的戦略ではない。そんなことをしていたら、更に経済は硬直化し新陳代謝をすることなく縮小してしまう。経済が一時的にオカシクなったものですから、「内向き」こそが是、「節約こそが是」という風潮も、ゆり戻しの範囲であれば受け入れるべき点はありましょう。
怒りまくっている氏の最後の結びは以下のような文言です。
(現在の異常な経済運営を改めるなかで)ただし、その際、忘れてならない基本的問題は、日本の一億二千万人の生活をどうするか、よりよい就業の機会を与えるにはどうすべきか、という点なのである。
これは自由貿易よりも完全雇用、経済活動はその国の国民が生きていくためにある、という氏の一貫した理念は明確で力を与えてくれます。
2009年3月21日土曜日
【本棚】津村記久子:ポトスライムの舟?第140回芥川賞受賞作
友人と話していると、私は世間に対する認識がひどく甘いらしく、特に派遣とか非正規雇用とか、または最低年収に対する常識が現実とズレていると厳しく批判されます。森永卓郎が「年収300万円で生きる」みたいな本を書きましたが、今や年収300万円ももらえればいい方なのであると。そう言われてしまう私は、弱者に対する思いやりや視点が欠けているのだろうとなと思わざるを得ません。彼ら彼女らの生き方や痛みも分からないのだろうなと。
だから、本書を読んだ第一印象も、この小説に描かれるような生活とか境遇の人に対してのシンパシーが生まれてこない。何なのこの小説、ごく狭い世界の個人的なことが、ダラダラと綴られている、大人になりきれないオトナたちの生活が描かれているだけで、一言で言えば「退屈」。これが最近の芥川賞の内実?などと思ってしまう。大して小説なんて読んだことがないくせに、偉そうにです。
でも、読み終えて読み捨てたハズの作品ではあったのに、ずっとアタマの片隅に何かが残り続けている。あたかもポトスの根が、水鉢の中でグルグルと根を張るかのように、何かがひっかかる。そんなに無視していい作品なのかと、自分の欠落に目を閉じていていいのかと。いや、やはり「芥川賞」ということに、何がしかの「意味」を見出そうとしていたのかもしれません。
さして長い作品ではありませんから、再読してみました。すると、主人公ナガセが何をもがいていたのか、やっと見えてきました。
ナガセは年収の低さとか、派遣という立場とか、30歳になっても独身であることとか、そういう分かりやすい不安定さだけが問題なのではない。以前の職場ではパワハラと気違いじみたパワーゲームに傷ついた。そもそもが、働くとか生きるということに対する意味が希薄になっていること、ムリにでも自由な時間を潰し何かしていなくては不安で仕方がないという精神状態こそがモンダイなのです。
自分の時間や人生を切り売りしているその代償として、働く動機や確実な成果が欲しい。働くためのモチベーションを得るために『今がいちばんの働き盛り』と腕に刺青を彫ろうとします。あまりにリスキーな行動ですから思いとどまり、次に年収全部をためて世界一周クルージングをするということを目標にします。たまたま目に留まった職場のポスターで思いついた程度のものであったとしても、とにかくすがらなくてはならない。自分に対する報償、ささやかだけど大切な失地回復運動。
ナガセは小説後半でヒドイ風邪で職場を休むことになります。そして、彼女の中で何かが変化していきます。休んでいる間にたまたま会社がボーナスをくれて、はからずも世界一周のお金が溜まっということもありましょう。休んだら、自分が根本から変ってしまうのではないか
とまで思いつめ、それでもそこまでして維持して、それからどうなるんやろうなあ。わたしなんかが、生活を維持して。
と考えていた彼女。病気で床に伏したことが、彼女の周りは何も変化していないのに、彼女には何がしかの意味を付与したことは、前半と後半の小説風景をがらりと一変させるほどのものがあります。
私は小説のラストに向けてさらにナガセに不幸や挫折が訪れやしないかと不安だったのですが、作者はそんな意地の悪いことはしませんでした。誰もが「小説」や「映画」の主人公のように強くはありませんからね。葛藤に対する克服とかも用意しません。村上龍氏の選評であるコントロールできそうにないものを何とかコントロールしようという意志
でもありません。そんなテーマからは遠い地平に作者(たち)はいる、そういう「マッチョ性」から最も遠いことを描いているのですから。作者はもっと現実的なものを提示したのです。
それとて、本当にささやかなもので、大きなドラマでも事件でも何でもありません、解決でさえありません。しかし日常のそういうものをいとおしく思う気持ちがなければ、このつまらない人生(=作品世界)などに本当に意味などないのかもしれないと思ったことも確か。これはハケンとかだけの物語ではなく、働くとか生きる人全てに対する、ごくごく控え目なメッセージなんですね。
ととらえました。浅いかな・・・、まあ・・・文春もそろそろ「芥川賞」なんて止めたらとは思いますけどね。
2009年3月15日日曜日
ハイティンクの無料音源を堪能
ダウンロードが3月15日までとのことなので、せっかくですからダウンロードしてみました。演奏はロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団で、以下の3曲です。
- ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」 (2005年)
- シューマン:交響曲第1番「春」 (1981年)
- ビゼー:交響曲ハ長調 (2000年)
音源は楽章ごとに分かれたmp3形式。前回の配布では全楽章が1音源でしたから使い勝手はこちらの方が良いかと思ったところ、楽章の最初と最後にオランダの公共放送局radio4のアナウンスが挿入されている曲が幾つかありました。
多少興ざめではあるものの、これほどの音源をサービス期間中とはいえ無料でダウンロードできることはありがたいことです。往年の響きが失われているとお嘆きの方もいらっしゃいますが、ロイヤル・コンセルトヘボウの柔らかな音色も素晴らしく、全曲とも堪能することができました。
シューマンやビゼーの交響曲は普段あまり食指を伸ばさない、またハイティンクでさえ私にとっては積極的に親しもうと思う指揮者ではありません。しかし「無料」ということもあって、こうして聴いてみますと、どれもじっくりと聴くべき価値はしっかりあり、特にハイティンクに関しては一度まとめて聴いておくべき指揮者なのだろうなと改めて思ったりしました。
今日のランニング
「走る」ことに対する肉体的抵抗はありません。しかし10km以上の長距離走をしようとすると、アップも含めると1時間半以上になりますから精神的抵抗は小さくない、面倒だなあというような。なので今日も短時間で切り上げようと400mトラックでのインターバル走にしました。
先週は1分のインターバルを完全に休憩にしていた、ストレッチとか体や息を整えながら、走ることは止めていました。今日は負荷を少し上げて「止まらずに続ける」ということをテーマに400m2分走の後の1分をタラタラとジョギングでつないでみます。これを10セット。
やってみると結構つらい。走りながらどこが「つらい」のだろうと考えます。脚はまだ大丈夫、息も上がりきっているわけではないし、脈拍もバクバクしているわけではない(測っていないから分からないのですけど)。「つらい」と感じるのは中程度の負荷に対して精神と肉体の耐性ができていない故なのだろう、すなわち「慣れ」の問題であろうな、とか考えながら走ります。
iPodからはラフマニノフのピアノが炸裂しています。ラフマニノフ流しでかけているので誰の演奏かは良く分からない、でもこの強烈さはホロヴィッツかなとか思いながら走る。少しでも筋肉や靭帯、関節に異常を感じたら止めるつもりでいましたが、この程度の負荷ならば大丈夫そうです。
10セット終了後、少し休んでからダウンのつもりで軽く2千mを流します。ゆっくりしたペースでいいと思っても体が軽くて、5分10〜20秒くらいのペースになってしまいます。調子がよければ、5分10秒のペースで5000m程度なら走りとおせそうな気がしてきました。
こういう走り方をしていると、何だか「トレーニングしている」という気になるものですね。
2009年3月13日金曜日
哲学博士 宮下誠氏のブログ
『カラヤンがクラシックを殺した』の著者である哲学博士 宮下誠氏のブログがあります。3月11日のエントリ「音楽はただ聴くためにあるのか?」で同書と同じような論旨を展開していました。気になるテーマですのでメモしておきます。
あの、即物に徹した、にも関わらず様々な内包物を潤沢に孕んだ音楽に対して「聴くだけ」なる姿勢は許されるべくもありません。
音楽は感覚の悦びであると同時に認識の歓喜だ、
この「認識」を宮下氏は「悟性」という言葉に置き換え、単なる「感性」だけの音楽を鋭く批判します。「悟性」とは普通はあまり使わない言葉です。「認識」とか「知性」「理解力」と解されることが多く、英語では「understanding」となるようです。私も高校の教科書で接して以来、日常的に使用した記憶のない単語です。哲学者である宮下氏が使うのですから、カントやヘーゲルの悟性論までを理解しないと、彼の「嘆き」には共感できないのかもしれません。
感動!!!
そういえば全てが許される、この世界の風潮は、一億総愚民化の一支流に他なりませんん。
安っぽい「感動」の氾濫には私も辟易です。一方でたまには理屈もなく呆けたように「感動」したいことも確か。
神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水。
こう書いたのは『西洋音楽史』の著者 岡田暁生氏(→Clala-Flalaエントリ)。
「悟性」の欠落は神なき現代の、更なる精神的な不毛に帰すべき現象なのでしょうか・・・?? 素直に「感動する」ことを批判する姿勢には、反論も多いと思います。私の中では無視はできないものの結論付いてていない問題です。そんなこと考えずに、ただ音楽に浸ったほうがよかろうとは思うんですけどね。
2009年3月12日木曜日
「久米宏のテレビってヤツは!?」
昨日、何気なくTVを点けたら「久米宏のテレビってヤツは!?」という番組をやっていました。その中で、黒柳徹子とのトークが抜群にやはり面白かったのでメモしておきましょう。録画していたわけではないので、久米・黒柳両氏のコメントは記憶で書いています。
久米「ニュースステーションをやっているときに、6時くらいから他社のニュースや新聞を読んで、他の人が言っていないコメントをするようにした」「そうすると、自分の考えていることと違うことを言わなくてはならない場面が、何度か(も?)あった」
仕事で自分に規制とかテンションを与えることは重要です。しかし、そこまで徹底しなくても良いとは思います、自分の主張はブレないんでしょうか。報道の意味とか主張とか客観性とか、ニュースステーションは根底から覆しましたからね。
久米「TVで誰にでも好かれようとするのは不可能」「10人のうち2~3人くらいの人に好きになってもらえればいいくらいの気持ち、その人に向かって話す。そうすると、久米ヲタクみたいな人がついてくる」
黒柳「だからって、全部を敵に回すようなやりかたもどうかと思うけど」
人と違うことをしないと意味がない
ということには同意します。仕事は他人がやらないこと、自分しかできないことに特化し、そこを強化するのが私のような凡人にも参考にすべき戦略だと思っています。久米氏にしても、自分の欠点(嫌われる部分)を徹底的に磨き上げて強化したのだと思えます。
久米「このごろやっと気づいたが、『表現』とは相手の話を聞くこと。(自分の中には、そんなに次から次へと出せるソースはない」
デザイナーの佐藤可士和の言葉を思い出しました。クライアントと仕事をするときには、コミュニケーション、相手の考えを整理、仮説による問いかけなどを通じて要望を聞き取りデザインをまとめていくのですとか。「答えは相手の中にある」。答え=相手の要望の具現化されたもの=仕事・デザイン・結果=表現。かな。
生で現役の政治家とやり取りできる、こんな面白いことはない。
田原総一郎もそうですけど、自分の主義主張を前面に出すより、イロイロな方面からつついて相手から反応を引き出すという手法。ある意味スリリングですけど、徹底的な討論ではないから期待が外れることもある。時間的制約もありエンタメTVの限界でありましょうか。
薬丸氏とのトークでは、
久米「(やっくんは)受け答えとか真面目すぎて、そういうやりかただと疲れないか?」
黒柳「(失敗しても)反省なんてしない、『反省』という言葉は母のお腹の中に置いてきた」
久米も激しく同意。
黒柳「TVでできあがったイメージは崩せない(そこで生きるしかない)」
所詮、仕事も私はゲームであると思っています。ゲームに参加するには、それに応じたキャラクターが必要です。だから私は仕事では「仕事をする自分を演じ」ていますし、そのキャラを武器にしています。本質の自分と考える「自分」とは異なった「自分」がそこには居またりします。
旧TBS跡地(現赤坂サカス)の広場、ベストテンのスタジオがあった辺りで、久米氏と黒柳氏が子供のように当時を懐かしがる風景は、時代の流れを改めて感じました。彼ら彼女らの中に、その「記憶」が鮮明に生きていようとも、実空間は全く変質してしまっている・・・。「記憶」の空間を知る世代さえ、どんどんと少なくなっていく。全ては泡沫(うたかた)かと。
2009年3月10日火曜日
歌舞伎座の建て替えについて、中野翠さんの意見
「文藝春秋」2月号に、エッセイストの中野翠氏が『歌舞伎座取り壊し 私は許せない』とする文章を寄稿していました。彼女は六代目歌右衛門を通じて歌舞伎に親しんできたというほどの方。
彼女は、単なるノスタルジーや建築意匠的なもののみに反対の理由を求めるのではなく、歌舞伎を演ずるということの重層的な楽しみ
というこから説明しようとしています。
すなわち、歌舞伎というものは、代々と受け継がれた演目を、世襲で継承している役者が演ずるという歌舞伎の構造的な本質と、それを「同じ場所(舞台)」で演ずるということ。
それが歌舞伎を長く見続けたときの重層的楽しみ
なのであると書いています。この「重層性」こそが、由緒ある劇場には必ずある心をしんとさせるような妖気やオーラ
につながるのだと。
今の舞台に昔の舞台の「記憶」が重なる
このような意見を読むと、歌舞伎を始めて見る人や、全く見ない人には、何のことやらでしょうか。一部の特権的観客の愉悦に過ぎないのではないかと、冷淡な態度をとる人も居る事でしょう。しかし、そのような「重層的な記憶」こそが伝統とか伝説につながり、それが極まれば、ファンからは「聖地」と崇められるという現実もある。
一方で女性らしい、下記のようなコメントには思わずニヤリとしてしまいます。
(国立劇場では)女を引き付つける俗っぽい華やぎや色気に乏しい。伝統芸能を楽しむのではなく鑑賞するという感じ。
まさに!です。1階のお土産屋あたりから漂う、甘い金つばやたい焼きの匂いや、俳優の生写真などなど・・・。
このような下らない価値観こそが「文化」という目には見えないものの、とても大切な一部のような気がするのです。それゆえに、気配に敏感な方々は単なる更新や再生ではなく「破壊」とうつる。いったん破壊されたものは、絶対に再構築されないことを分かっていますから。
例えば、今話題の東京中央郵便局の建替え問題。こちらも部分保存の範囲を拡大する方向で決着が付くそうです。こちらの建替えは、なにやら政治的なにおいがして賛同できない部分も多い。単なる形骸化した建物と、歌舞伎座を一緒には論じられないと思いますが、いかがでしょうか。
2009年3月8日日曜日
今日のランニング インターバル走を試みる
さて、たらたらと1kmを5分20〜30秒のペースで走っていても、これ以上スピードは上がらないことが分かりました。いたずらに距離を長く走るだけというのも芸がないので、今日は趣向を変えて400mインターバル走に取り組んでみました。
まずは1kmを軽いウォーキング+ジョグでアップ。体を温めてから、400m 2分走+休憩1分の計3分を1セットとし、これを10セットやってみました。トラックで走りますから、400mのペースはきちんと守れます。
400m 2分は1kmだと5分、フルマラソン換算で3時間半のペースです。以前も書きましたけど、このスピードは結構速いんですよね。最初の200mは良くても、後半の200mでは息は上がり脚は逆に上がらなくなります。とてもではありませんけど、このまま800mなど到底ムリ。少し過負荷かなとは思いましたが、1分の休憩(ストレッチとかジョグとかで体をならす)をはさんでの10セットですから、何とか頑張ってみました。
終わってみれば、まだ走れそうな気もしましたが、このくらいで止めておきます。怪我をせずに長く走るには、とにかくムリをしないことが大切と思いますし。慣れてきたらセット数を増やすか、休憩時間を短くするか、走る距離を長くするか、まあイロイロなパターンがありそうです。とても「しんどい」のですけど、このくらいですと、短時間でも「走った?」という気になりますね。
当面は、このインターバル走と10km〜15km走を組み合わせながら走ってみようと考えています。
なお、これらの練習は全くの自己流ですから、もし仮に走っている人がいても参考にしないで下さいね。
2009年2月22日日曜日
【本棚】神谷秀樹:強欲資本主義 ウォール街の自爆
サブプライム問題以降、新自由主義やら資本主義の転換、アメリカの凋落などが話題になっており、書店に行くとその手の本がいつも山積です。本書は、そのタイトルと読みやすさから、かなり売れているようです。
神谷氏は、外資系投資銀行で長く働き、今でもアメリカの金融ビジネスに身を置いている方。そういう人が描くアメリカの金融界はまるでB級映画を観るかのようで、とどまるところを知らない「強欲」に支配された様は、ほとんど「狂っている」としか思えません。
ウォール街の「強欲度の水準」は、われわれ日本人が日本人社会の中で考える「強欲」の感覚より、三乗か四乗のレベル
神の前では明確な「盗み」であってもまったく気にない人間が著しく増えてしまった(P.20)
これを査証するかのような「実例」が本書では列記されており、神谷氏は深い嘆きをもって語っています。その点はこのくらいにしておきましょう。彼の主眼は「資本主義の転換」ということにあるようです。
サブプライム以降のアメリカ発バブル崩壊について、神谷氏は「一つの資本主義」の終焉の到来を意味
しており、人々の価値観の大きな転換期(P.24)
ととらえ、パラダイムシフトの後に、いわゆる「縮小均衡」の世界がくるとしています。
そもそも資本主義というのは拡大、発展することをテーゼとしていたわけです。その資本主義の考え方について神谷氏は「何のための『成長』なのか」、「何をもって『成長』と考えるのか」といった基本的な議論(P.170)
が必要なのだと主張します。
すなわち、アメリカは、借金による過剰な消費生活を見直し、身の丈にあった生活に戻る(P.165)
ことしか回復の道はなく、日本においても、国内市場だけで商売するならばという前提付きで、毎年0.6%ずつ人口が減少する社会での縮小均衡点を見出してゆくことが経営のテーマである(P.186-187)
更に、池田内閣の参謀として所得倍増計画を設計した経済学者として知られる下村治博士が1987年に唱えた「ゼロ成長論」の卓越を賞賛し(P.174)、
「万民のためになる資本主義」というものが提案されてくる可能性(P.196)
資本主義そのものが、これまでとは異なる価値観で再建される必要がある(P.205)
と結んでいます。
神谷氏は日経ビジネスオンラインで2006年から「日米企業往来」というコラムを連載しており、それを読むとサブプライム以前から、アメリカ主導の新自由主義に疑問を唱えていることがわかります。投資とか金融は実業たる産業や経済=生活そのものをサポートするのが仕事であり、マネーゲームが主になることは間違っていると一貫して主張しています。
神谷氏の主張は「縮小均衡」であり、これは下村博士が主張した「世界同時不況を覚悟して縮小均衡から再出発」することにほぼ同調したものです。下村氏の「日本は悪くない 悪いのはアメリカだ」は文藝春秋社より文庫版で再2009年1月に再販されています。いずれ、こちらについても触れておきましょう。
やはり考えるべきは、ポストアメリカの世界観なのでしょうか。膨大な人口を抱える中国やインドの貧困層や格差の是正が真に動き出したとしたら。その場合にこそ、新たな勢力やビジネスモデルが台頭するのかもしれません。例えばバングラディッシュのグラミン銀行とか、インドの20ドルパソコンとかにその片鱗を感じます。世界の勢力地図が本当にガラリと一変する日も遠くないのかもしれません。
ドゥダメルのチャイコフスキー交響曲第5番(DG 1week)
来日も果たしているドゥダメルについて私が知りえ、聴いたことがあるのは録音された演奏のみ。その前提で書くとしても、ドゥダメルは他の演奏と同様、単なる熱演、爆演系指揮者ではないことが分かります。しっかと計算された緻密な棒のもとに、非常に訓練されたスキルの高い演奏者が、情に流されることなく音楽を表現しているという印象です。音楽からは喜びや音楽への愛が伝わってきます。
演奏にはわざとらしいクセや恣意的なアクはなく、従ってチャイコフスキーにありがちな土砂降りの感情の吐露や自己憐憫のような湿っぽい感情も感じません。
演奏者の育った原風景が、演奏表現に与える影響は否定できないのでしょうか、あるいは私の先入観でしょうか。私は今までとは違ったチャイコフスキー像をこの曲から感じました。印象的感想を許容するとするならば、例えば第二楽章。この曲を聴くと私はたいてい、煌々とした月夜を想像します、老人の過去への憧憬とともに。しかし彼らの演奏からは、むしろ大きな大地の息吹と、沈み行く太陽と明日への希望のようなものを感じます。
終楽章の冒頭主題が終わった後、ティンパニの連打に先導される部分からの圧倒的な疾走にも驚かされます。ここに至るまでの演奏が堂々としたもので、テンポもゆったりしていただけに、この変化には目を見張る効果があります。湧き上がりうねりまくる若きエネルギーが爆発しており、まことに爽快です。冒頭の陰鬱にして湿った重たい表現から、最後の爆発まで、色彩のパレットを駆使した音楽の描き分は見事です。
『フランチェスカ・ダ・リミニ』はあまり親しんでいる曲ではないものの、この演奏を聴いてたまげました。凄まじき演奏にして音楽であります。激烈さと激しさは聴くものを翻弄するほどのパワーがあります。ラストの興奮にみちたアプローズにも納得です。
2009年2月8日日曜日
宮下誠:カラヤンがクラシックを殺した
「20世紀音楽」「20世紀美術」などの著者として知られている宮下誠氏の問題作「カラヤンがクラシックを殺した」を読んでみました。宮下氏のブログなどを読むと、相当にネット上で叩かれたようです。しかし彼の書いたメッセージについては、納得できる点も多い。
カラヤンの音楽を綺麗なだけで、人工で自己欺瞞的な「美」の幻影(P.49)
とする見方に同意するクラシックファンは少なくないでしょう。そこまでは良いとしても、カラヤンの音楽を精神史的な観点の中に位置付け、戦後の世界観を支配する平板で欺瞞的な知のあり方
の象徴と見なしていること、そしてカラヤンを受容した一般大衆を容赦なく、お前たちも同罪だと断罪しているところは、大きな反発と批判を浴びたように思えます。あるいはクラシックに詳しくない読者には、音楽とはかくも恐ろしいものかという拙い印象を与えたかもしれません。
もう少し詳しく書きましょう。宮下氏は20世紀から21世紀にかけての世界を荒廃した絶望的歴史風景(P.50)
と捉えています。そこには世界の不条理や、そこにいる「私」の癒しがたい絶望
があり、このような自己も含めた人間存在の本質的な痛み、生きることの苦しみ、「ある」ということの絶望的な重さ
を「世界苦(ヴェルトシュメルツ)」
という言葉で代表させています。
カラヤンの音楽は、「世界苦」に対して恐ろしく鈍感、同情が欠如しており、「世界苦」を欺瞞で糊塗してきた世界の象徴的存在
であるがゆえに、一般大衆に与えた影響は甚大で、
カラヤンは断罪されなければならない。(P.56)
と宮下氏は主張します。そしてカラヤンの音楽が美しければ美しいほど、また聴衆=一般大衆がそれを受容するほどに、その無自覚なイノセントさは罪であるのだとします。
宮下氏の一般大衆に対する批判は、実はカラヤンのそれ以上に強烈です。例えば次のような一文です。
「大衆」はいわば自分の努力のなさ、向上心の欠如、金銭を最高の価値としてあがめたてまつる拝金主義、他人の不幸を隠微に喜ぶ底意地の悪さ等々を棚上げにして、ささやかな幸福に満足し、その価値観の下、自分に理解できないものを仮借なく排除し、或いは価値切下げを断行し、才能を、或いはアウラを突出した人間から掠め取り、食い物にし、その残骸を「お友達」感覚で賞味するという恐ろしい生き物(P.64)
彼の大衆批判はそこかしこに読み取ることができますが、このくらいで良いでしょう。強烈な批判ではありますが、私は「価値切下げ」という部分に、首肯できる主張を感じます。
さらに宮下氏が指摘した「アウラ(オーラ)」とは何でしょう。所謂「カリスマ性」みたいなものとして氏は定義していません。そういうものではなくて、観念論的伝統とそれに対する敬意と畏怖
であるとしています。難しいですね。しかし、この部分も、おそらくは氏の主張の根幹をなす部分でしょうから引用してみますと、
それは音楽を語ることを挫折させるまさにそのもの、神秘的な、エーテルのような、あることを証明することは到底不可能だが、決してないわけでは「なさそうな」、曰く言い難い、神秘的な「何かあるもの」であり、ベンヤミンが複製技術時代には失われることを予言した(P.119-120)
ものが氏の言う「アウラ(オーラ)」だとします。カラヤンにはそれが全くないのだと。
これはいわゆる、「芸術解体」ということに繋がる大きなテーマです。今の世にあって、もはや「芸術」という言葉は、死語か悪い冗談にしかなりません。日常の中から「芸術」という言葉が排除されはじめたのは、私の記憶では80年代中頃ではなかろうかと思います。「芸術」は「アート」という言葉に置き換わり、サブカルチャーなるものが台頭してきました。そして、この頃から大衆の「欲望」があからさまに「拡大再生産」されるようになり始めたように思います。もしかすると、ここが氏の一番大きな批判の論点なのではなかろうかと思うのです。
宮下氏の「西洋音楽」に対する考え方は、いまをもっても精神芸術的あるいは哲学そのものとして捉えているようです。つまりこういうことです。音楽は悟性の歓びでもあり得るし、認識の歓喜でもありえる
ものととらえ、悟性による認識を通じて音楽を、いわば主体的、積極的、自覚的に聴く~そのような聴き方を聴き手に迫っている(P.34)
ものであるとしています。宮下氏は、音楽全般の価値が生み出す「美」や「慰め」や「癒し」こそ悪い冗談(P.277)
であり、
悪い冗談に無自覚に感動し、音楽とは良いものだ、と安閑として日々を送っているのが今日の音楽鑑賞のあり方だとすれば、それは根本的に間違っている(P.277)
と最後まで、聴き手をも断罪しまくります。
氏がカラヤンの対極として、クレンペラーとケーゲルを上げていることは、私にはさほど重要なこととは思われません。ここを強調すると、いわゆるクラヲタ系批評家と変らなくなりますし。
宮下氏は1961年生まれですから、私と同年齢。その氏がかくも現代社会と今を生きる大衆文化に深く絶望していること、そのことにこそ、私は驚き、そして自省の念を覚えます。確かに氏の指摘をそのまま受け入れるならば、私たちは他人や世界の痛みを遠ざけられるような愚昧な情報に溢れており、それゆえ利己的かつ狭小な世界に閉じこもり、無自覚とイノセントであることを当然のこととして、快楽的、享楽的に生きていることになります。
これらの原因を、全て「カラヤン」に象徴することには、かなり無理があるものの、彼が「カラヤン的なるもの」として批判したものに対して、自覚的になることは重要であろうとは思います。ただし、この手の自己批判は、全て自分が受け入れる必要があるだけに、アクションとして結びつかない限り、最終的には自己矛盾と自己欺瞞に行き着くため厄介です。
いずれにしても氏の嘆きと希望がどこまで伝わったかは、はなはだ疑問には思うところです。このように考えると、本書のタイトルさえ誤解を招くものであったと思わざるを得ません。
2009年2月6日金曜日
【本棚】副島隆彦:恐慌前夜
遅きに失した感はあるものの、
金融預言者を自認する副島氏の著作を読んでみました。彼の金融に関する予言が当たっているか否かについては、私は論評しませんけど、言っていることは、非常に分かりやすく単純で面白く読みました(すぐに読めるし)。多くの読者をつかむのも分かります。刺激的な程、読者層にウケますから。
主旨を単純化すると、「ドル覇権の崩壊」と「連鎖する大暴落」は今後も数ヶ月に一度ずつ起きてゆく。アメリカ発の大恐慌突入の前に、預金封鎖が行われる。多くの法律が急速にバタバタと改正され、緊急の金融統制体制に入る。これからは銀行が一番危ない時代、信用できない。だから、そうならないうちに、しっかり自分の資産を実物(金や不動産や食料)に今のうちに移し変えておきなさい、悪いことは言わない、私のことを信じなさい、みたいな事が繰り返し述べられています。
で、最近の近著が「副島隆彦の今こそ金を買う」です(未読)。投資や個人資産の保護に関しては、それぞれの経済状況の中で自分に最適なリスク・ヘッジを考える必要があるため、ひとつの見方として参考にはしますが、だからといって、すぐに金相場に手を出そうとは、私の場合考えないでしょうね、そんなに現金資産もないし。
副島氏の姿勢で明確なのは、攻撃的なまでの米国批判。特にアメリカの手先となって動いたと彼が見なす竹中元金融相や、10年前からアメリカが日本に強制して作った金融庁に対する批判は強烈です。現代のゲシュタポ
、ゲハイム・シュタートポリッツァイ(Geheime Staatspolizei ドイツナチス政権時の国家秘密警察
、現代の特高警察
、政治警察(思想警察)
、実質的な弾圧機関
などなど、かなり手厳しい。竹中路線の批判などは、多くのブログなどで話題にされていますから、私は本書の覚書程度にとどめておきます。金融庁は「怖いトコロ」なのだということで。
ただ、あまりにもアメリカの顔色ばかり伺う日本政治と、アメリカの風邪が肺炎になるくらいにダメージを受ける日本経済に、憤りを覚える人は確実に増えていると思います。そういう背景が、副島氏を支持する人が増える一因なのだろうと思いました。
副島氏は世界の金融界がロックフェラーやロスチャイルドによって支配されていることにも軽く言及しています。金融界はデイヴィッド・ロックフェラーと、甥のジェイ・ロックフェラーの骨肉の戦いである。デイヴィッドはシティ・バンクの実質のオーナー、ジェイはゴールドマン・サックスのオーナー。この骨肉の争いは今やはっきりとジェイ・ロックフェラーに軍配が上がりつつある(P.172)
らしい。ちなみに三井住友銀行の実質筆頭株主はジェイ。三菱東京UFJ銀行は、三菱=ロックフェラーの130年に及ぶ運命と宿命として(P.162)
、シティ救済を断れないのだと。
ふーん、と思いながら、こういうテの本は気楽にウィスキーでも舐めながら読むのが正しいか。この手の裏話にも、とんと疎いですから。
2009年2月2日月曜日
團十郎の歌舞伎案内
團十郎が青山学院大学で歌舞伎についての特別講義を行った内容を本にしたものです。團十郎の歌舞伎に対する考え方が窺い知しることができ、大変に参考になる本です。
私の少ない観劇の経験からしても、歌舞伎って何だろうと考えると答えに窮する。歌舞伎とは何かを定義することは、大変難しいのではないかと思っています。一般の人が想像する、いわゆる「時代物」だけではなく、歌舞伎は長い年月の中で色々なものを吸収して変化してきました。例えば本書でも紹介されているように、七代目團十郎(1791~1859年)が歌舞伎の舞台に能を取り入れました。
七代目が「勧進帳」をつくっていなかったら、歌舞伎に「松羽目物」という発想が生まれていたか(P.64)
歌舞伎像はひとつのイメージを結ぶにはいたらない。根本的に歌舞伎とは「その時代のお客さまの嗜好によって変化して、左右されて、発展してきた庶民の芸能」といえる(P.109)
と説明しています。
そういう歌舞伎であっても、團十郎は「格」ということを大切にしています。團十郎家にとって、やってよいことと悪いことがある(P.57)
と、四代目團十郎(1711~1778年)の言葉を引用し、例えば2008年1月 海老蔵が演じたラスベガスのイリュージョンを使った演出について疑問を呈し(P.96)ています。何でもアリではないのだと、それが歌舞伎であり「格」なのだと言うのです。ここはきわめて重要だと思いまし、私もこの意見には大きく同意します。
例えば「リアル」ということについて。歌舞伎も江戸時代から明治にかけて、西洋風のものが入ってきたために、真実を真実としてみせる(P.81)
という方向へシフトしたことがあったと。実際に舞台に水を張ってみるような演出はリアルだけど、そこに能があるのかなと疑問に思う(P.234)
と團十郎丈は書いています。
歌舞伎に演出家というものがいないことに対しても、日本独特の成り立ちであり、西洋がそうだからと日本もそうしなければいけないということはないと書いています(P.106-107)。どこまで保守的になり、どこまで革新的になるか。まさにそのバランス感覚こそが「格」ということに表されているのかもしれません。
團十郎丈が謙虚であり誠実であると思うのはこういうところです。私たちはここで満足です、これ以上はもういいです
とし、それ以上は欲張らない
ことが重要であるとも書ています。
歌舞伎は日本語という文化圏の中でやっているかぎり、それ以上は背伸びしたくてもできない。
いい意味で"小ささ"を保ちやすい(P.234-235)
この指摘は、ブログ内田樹の研究室で最近読んだ『「内向き」で何か問題でも?』と微妙にシンクロしました。グローバル化とか言うけれど、内向きで飯が食えれば無理にグローバル化しても意味がない、みたいな主張です。
歌舞伎は日本で行い、日本語で実施することによって世界に対し意味を持っています。日本人よりもよほど外国人の方が歌舞伎や能に詳しかったりします。もっともそれだけでは、日本人としてさびしい限りであることは否定できません。
自国の伝統ある文化をしっかりと見つめ、次の世代にどのような形で伝え継承してゆくのか。これは歌舞伎役者だけではなく、歌舞伎を観る(あるいは観ないという選択にしても)私たちに課せられた課題であると言えるのではないでしょうか。
玉三郎の「鷺娘」、伝説化・・・
先月の歌舞伎座での玉三郎の「鷺娘」について、ナマ「鷺娘」もそのうち「伝説」になるでしょう。
と書いたのですけど、当たってしまいましたね。
ブログ「六条亭の東屋」で知りましたが、玉三郎自ら、もう歌舞伎座でも新歌舞伎座でも「鷺娘」は踊らない(踊れない)と書いています。
勿論芸直は追究して有り余るものでございますし、これからまだまだ深めていけることもありましょうけれども、娘物の舞踊として私の年齢と肉体を考えましても今回の公演で線を引かせて頂くことに致しました。
玉三郎 公式サイトでの「今月のコメント」です。潔いといえば潔く、寂しいといえば寂しい。しかし観ておいてよかったと今は素直に僥倖に感謝するのみ。











