2001年8月14日火曜日

歴史認識の違いと他国の干渉

8月14日の産経新聞 「正論 米バンダービルト大学教授 ジェームス・アワー」~日本の教科書の検閲はやめなさい、歴史の見方は国によって違うものだ」は、なかなか面白く示唆に富む。

中国や韓国からの指摘を「内政干渉だ」などと言っているのではない。歴史認識というのは各国によって異なるのが当然であり、さまざまな見方が容認されるべきである。その上で、他国の歴史観を含めて、総合的に判断できる(あるいは相互批判)ような土壌が重要だと言っている。


戦争という歴史的事実の大きさを考えると、中国、韓国、日本の教科書がそれぞれに異なった内容をもつより、類似した内容である方がより大きな驚きではないだろうか。(引用)


という意見にもはっとさせられる。我々は隣国のことを一体どれほど理解したり、知っているのだろうか。あるいは、そのような教育をされてきただろうか。

中国や韓国の人たちが、何故にこれほどまでに半日感情を持つのかを、学校で教えてくれただろうか。何かがゆがんではいまいか。


小泉首相の靖国神社 電撃参拝

小泉首相が靖国神社に13日、繰り上げ参拝を行った。

新聞各紙の賛否は大きく分かれている。朝日新聞は、当然のごとく首相の参拝自体を批判している。日経新聞も同じ口調だ。一方、読売新聞は中立的で「政治的判断」として評価している。しかし「一国の指導者が戦没者を追悼するためにいつ参拝するか、参拝方法はどうするかといった問題は、本来、その国の伝統や慣習に基づく国内問題である。他国からとやかく言われる筋合いはない。(引用)」という姿勢は崩さない。産経新聞は、公式参拝を15日に実施できなかったことを「きわめて遺憾」であり「信を失う」「国民のほとんどが15日に参拝すると思っていた」と書く。

新聞各紙でさえ、このように意見が分かれている。

私は基本的なことが分からない。靖国神社とはそもそも何なのか。あそこに戦没者が合祀されている遺族にとって、靖国とは何なのかだ。そもそも靖国とは、「天皇陛下の為に命をかけ、戦死したら祭る」という掛け声で、戦地に動員することに利用された、徴兵システムではなかったのか。

宗教か否かは問わない。しかし、そのようなシステムであったことを反省もせず、また、近隣諸国の感情的な反発までを無視し、(歴代の)首相が参拝にこだわる理由が、私にはわからない。遺族会からの圧力なのかとさえ思ってしまう。

��級戦犯でさえ、当時の国の方針に従って任務を遂行したまでで責められるべきではない、という意見を吐く人もいる。ばかを言ってはいけないと思う。企業を破綻に追いやった重役たちに、その責任がないと言って、のうのうとしていられるリストラ社員がいると思うのか。政治的判断をするのに当たって、その責任がないなどということは間違っている。

首相の談話は、http://www.kantei.go.jp/new/0813danwa.html から読める。

私の態度としては、靖国という場に参拝した首相については、どういう言い訳をしようとも支持はできない。それは、他国からの圧力とは別の問題である。自国の中でさえ「靖国」問題は浮遊していると思うだけにだ。

2001年8月12日日曜日

横浜の夜景

夏休みを利用して横浜に来ています。

夜景も北海道とは随分と違うものです。



少し霧が出ていました。



2001年8月9日木曜日

ピアニスト ウゴルスキのインタヴュー

「レコード芸術 8月号」に、ウゴルスキのインタヴューが2ページにわたって掲載されていたが、非常にストレートな歯に絹を着せぬ内容で、少なからず驚ろいてしまった。

いわく、ブラームスのソナタややシューマンのいくつかの作品は、それほど良くできていない。今までの演奏で満足いくものはなく、私が弾くのが一番である、しかし、ブラームスを弾くのは私の本意ではない。

いわく、ワーグナーなどは「裸の王様」ともいうべき音楽だ(皆がいいと騒いでいるだけで、全然よくない)、シェーンベルクやベルクの作品は、なくなっても私は気づきもしない。

いわく、スクリャービンのソナタは非常に優れた作品で、今は評価が低いが200年も経てば名曲になっているだろう・・・

などなど・・・。手元に冊子がないので、かなり私のコトバに置き換わっているが、非常に過激な意見であることに変りはない。ウゴルスキはまだ聴いたことのないピアニストで、最近DGより新譜が多く出されているので聴いてみたいと思っていたピアニストではあった。

それにしても!! なんたる発言だろうかと、驚きを通り越してあきれてしまった。レコ芸も、「名曲300選」なんておばかな企画を繰り返しているヒマがあったら、こんな面白いインタヴューを尻切れトンボみたいに終わらせず、もっとページを割いて欲しいものである。


2001年8月7日火曜日

小泉首相と米百俵と教育改革

8月2日の首相メルマでも、「米百俵」のことが取り上げられていた。

「米百俵」とは、今さら解説するまでもないが、北越戊辰戦争の時の長岡藩の故事である。食べるものに窮していた長岡藩に、支藩の三根山藩から見舞いの米が贈られてきた。しかし、長岡藩大参事小林虎三郎は「食えないときこそ、教育に金をつぎ込むのだ」と言って、その金を国漢学校に注ぎ込んだ、というものだ。

つまりは、国を支えるの「教育の重要性」や「目先のことにとらわれない明」ということを小泉首相は強調したいんだろう。

しかしだ、小泉首相はそこまで教育に熱心なんだろうか。現在の義務教育の2002年の改定(学習指導要領の改訂)などについて、議論に上ることは少ない。

私は、2002年の指導要領改訂は、愚行にも近い改悪だと思っている。こう考えるのは、昔ながらの教育を受けたから、その枠組みから逃れられないせいである、とか、学校の勉強についていけない者の気持が分からない者の発言、とか批判的に考えることもできるかもしれないが。

しかし、それでもなおかつ思う。指導要領は改悪だし、今のままでは「米百俵」を腐らせるだけのような気がするのであった。

2001年8月5日日曜日

【音盤】ゲルギエフ指揮/キーロフ歌劇場管弦楽団による「春の祭典」


ストラヴィンスキー:「春の祭典」(1947年改定版)
ワレリー・ゲルギエフ(cond) キーロフ歌劇場管弦楽団
July 1999 PHILIPDS UCCP-1035(国内版)

ゲルギエフがストラヴィンスキーの「春の祭典」を録音したとなれば、嫌でも聴かねばならないという気にさせられてしまう。国内版で多少高くても、あるいは宇野功芳の解説がうっとうしくとも、まずは聴かねば始まらない、ということで結構期待をもって購入した。

この曲を聴くには、少しはいい再生装置で聴いたほうがよいと、まず言っておこう。最初はCDウォークマンのチンケなヘッドフォンで聴いていたのだが、それから受ける感興とスピーカーや良いヘッドフォンを通して聴いたのとでは、全く別の曲を聴くような体験であった。

さて、「序奏」からして重低音が響き、荒々しきプリミティブな爆発前のエネルギーを感じさせてくれる。この数分間だけで、ゲルギエフの面目躍如たるべき音楽であるという期待が高まる。

「春のきざしと乙女たちの踊り」の部分の粗さと躍動感、そして全体に漲る生気はどうだ。ティンパニなどの打楽器の強打は大地を打ち鳴らすほどのもので、何と言う迫力であろうか。宇野功芳が絶賛するのも、わからないでもないかと思わせる。そして、どう言うといいのだろうか、体全体が浮き足立つ、細胞が立ち上がって喜びに震え出すような雰囲気なのだ。「レコード芸術 8月号」で山崎浩太郎氏が”踊る音楽”とか”肉体性”というキーワードを使って語っているが、的確な表現であると思う。

「クラシック招き猫」のBBSで誰かも評していたが、確かに粗い、「春の祭典」として変なところもあるらしい。しかし、それが一体どうしたというのか、この演奏の本質からは瑣末的な問題としか思えない。

「誘拐の遊戯」の部分などは恐怖さえ感じるような音楽に仕上がっているではないか。ここに至ってすでに脳天に直撃のような衝撃を受けてしまっている自分に気付くのだ。ゲルギエフの術中に完全にはまってしまっている。

「春のロンド」のコントラバスの地響きにも似たフレーズの作りこみ。何かが巨大な予感とともに再生し立ち上がってくる臭い。そしてティンパニと金管群による信じられないほどの叫びとフォルテッモ!!! ここから「敵の都の人々の戯れ」「賢者の行進」に至る音楽の勢いの圧倒的な迫力、粗いとはいうが弦楽器は結構滑らかだ。しかしこのリズムと勢いは何なんだ、なだれ込み、息をつかせる暇を全く与えない、まるで花火大会のスターマインを聴かされているかのような畳み込むような音の洪水は、まさにゲルギエフ節だ。 「大地への口づけ」のラストの不協和音の響きなどは戦慄さえ走る。こんなにもすさまじき和音であったか、「大地の踊り」に至っては、もはや音響に溺れてしまい助けを求めたくなる。

何と言うことだ、何と言う音楽だろう、あっという間に第一部が終了してしまっている。そして、さらに深淵なる第二部の「序奏」に突入だ。

ここの不協和音ときたら、現代音楽だ、クラシックだなどという範疇を超えてしまった音だ。この音を聴いて、魂が揺さぶられないものがいようか(=いるとは思うよ)。

第一部の怒涛の音楽を聴いて、ここでふっと一息つくかのごとくだが、先ほどの粗さと緊張感を維持しながら「乙女たちの神秘な集い」などがうたわれてゆく。繊細さとか精緻さというものは感じない。図太い音楽が迷いもなく進んでゆくという感じだ。

そして、「いけにえの賛美」だ。宇野功芳は嫌いだが、いまは素直に解説を認めたい。ここに至って音楽は沸騰し始める。それも、煮えたぎったという感じではなく、これほどの音楽でありながら、不思議なことに冷たく煮えたぎっているのだ。ゲルギエフは非常に効果的に音響を形作っている、一見熱く振っているようで、綿密なる計算があるのではなかろうか。

「祖先の呼び出し」のおどろおどろしくも呪術的な雰囲気は、「祖先の儀式」へと引き継がれる。単調に打ち鳴らされるリズムが次第にクライマックスへ向けての序奏になっていて曲を前に進めてゆく、ひとつの緩みもなくだ。音楽を聴くものはゲルギエフに首根っこを鷲掴みにされたまま、異教徒の集会を見せられ引きずりまわされてしまう。

最後の「いけにえの踊り」までもだ。もはや目をそむけることなど許されない。目を覆うばかりのこの雰囲気も、ついには原始の野蛮なまでの本能が刺激され、狂暴にして荒ぶる魂が完全に目覚めさせられてしまうのだ。ラストのあり方などどうだ、「これでもか!!」と棒を振り下ろした=いけにえを完全に屠ったかのような感じだ。

何度も繰り返すが、何という音楽で何と言う演奏であろうか。最初から最後まで慄然としたまま音楽が過ぎてしまった。聴かねばこの迫力は伝わらないと思う。ゲルギエフが好きなら迷うことなく買いなさいというところだ。

ただだよ、冷静に聴くならばこれが古今東西の「春の祭典」の決定盤ということにはならないと思う。何故って? これは、完全に「異教徒の祭典」の音楽なのだ。このエネルギーのあり方は、「春の祭典」を20世紀の現代音楽の幕開け的な位置付けや、解釈からの演奏とは目指す方向が異なると思うのだ。純粋に音楽的な世界だけがここでは展開されている。 私はそれほど多くの「春の祭典」に接しているわけではない。宇野功芳のような熱に浮かされたような感想を書いてはしまったが、それだけエキセントリックな一枚であることだけは確かなのである。

2001年8月2日木曜日

【本棚】田口ランディ:モザイク



田口ランディといえば、ネットの女王というキャッチで呼ばれるくらいの人気者である。いわれは彼女のメールマガジンの読者層の広さからきているらしい。その彼女の初めて書いた小説が、昨年度の「コンセント」。当初から三部作にしたいと公言していたように、その後「アンテナ」そして本作品の「モザイク」と発表した。

「コンセント」は各方面から賞賛と驚愕をもって迎えられた小説だった。村上龍氏も絶賛しており、10年に一度の傑作とか、こういう小説を読みたかったのだと凄い褒め様だった。私も出てすぐに読んだが、「コンセント」は衝撃的な小説だった。引きこもりの兄が、自宅で朽ちるように死んだ謎を追い求めながら、自分探しの旅と現代の社会に生きる人を炙り出すような小説だった。

今回の「モザイク」にしても、三部作というだけあって、田口の考えている方向性はひとつであることが分かる。端的に言ってしまえば、現代に生きる若者=大人たちからは理解されがたい行動をとる若者や、猟奇殺人に走る少年達は、ほんとうは異常者なのではなく、情報社会といわれる現代で生き抜くための新たなOSを持ち始めた者たちなのだ、という論点だ。

また、主人公達は「コンセント」だったり「アンテナ」だったり、ある人たちに対して巫女だったり、アースだったりするような癒しの人物も登場させ、物語を構築している。そして、「世界は記憶で成り立っている」「記憶を作るために人間がいる」「人間の精神は無数の感情のひな型で構成されたモザイクである」などの大胆な発想を展開している。
今回の小説は、家庭内などで問題を起こす人達を説得し精神病院に行くように薦める「運び屋」を職とする主人公ミミが、輸送の途中で疾走を遂げた少年を探すというストーリーだ。しかし、それは救済とか病理をえぐるとか、異常者(というカテゴリー)を肯定するというものではない。

世間で「異常」と見られてしまった少年にただより沿い、彼の感じていることを主人公ミミを通して読者に見せてくれる。またそれが、いろいろな人の心の中にあるモザイクを共振させることにつながっているのかもしれない。

一見して現代の病理を書いているような体裁をとりながら、その背景や原因を追求しているわけではない。ただ、その病理(と彼女は考えていない)の横に寄り添い、話しを聞いてあげている、彼らの言うことを受け入れている、そうすることで作者のの世界観を語る、そんな小説なのだ。

田口ランディというのは、不思議な雰囲気を持った人なのだと思う。メールマガジンを読んでいても感じるのだが、彼女の文章を読んでいると人の持つ虚飾や見栄が剥ぎ取られて、純粋にからだというものが剥き出しにされてしまうように感じることがある。難しく頭で考えることが、卑しく感じられてしまうことがある。それは、彼女が身体性とか関係性(コトバには還元できない、もっと直接的に心に響くもの)を重視しているからなんだと思う。

そして、最後には決まって、なんだか自分が他者に対してやさしくなったような気にさせてくれるのだ。

もっとも、「渋谷の底が抜ける」「渋谷が電子レンジ化する」というコトバは衝撃的であるが、小説としては、「モザイク」には及ばないような気がする。少年の言葉が説明的であり、小説としてのリアリティを欠いているとは思うからだ。また、彼女の小説に共通の、ラストのありかたにも疑問を感じないわけではない。しかし、それは作品上大きな問題ではないのかも知れない。彼女の描く圧倒的な内実は否定する気持ちを無視して心を打つのだ。

現代が、ある人たちにとってはかくも生き難く、新たなOSが必要とされているという大胆なテーマには深く考え込んでしまう。私のように古いOSに育てられ、古いOSしか身に付けなかったものには、新しいOSで生きる人たちの社会を思い描くことは、四次元を想像するよりも難しいと思うのだった。

2001年7月30日月曜日

久しぶりに Andersen 吹いてみたら、全然できなくてしばし呆然

久しぶりに Andersen 吹いてみたら、全然できなくてしばし呆然。

こういうときは気を取り直して気楽に吹こうと思い、フルート名曲集300(アルソ出版やらドレミ出版やら音友とか、いろいろ出ているでしょ)を取り出して、頭から吹いてみる。

以前できなかった部分が、比較的すらすらと吹けたり、指も回ったりするんで「ああ、少しは進歩しているんだなあ」と、ちょっとだけ立ち直る。ヘンデルのソナタなんかも原譜と編集者がアーティキュレーションつけたものが併記されている。「な~んだ、ここにあったのか」とか思いながら吹いてみるが、装飾てのは難しいね。

出来ない曲は相変わらず吹けないのだが、ドビュッシーとかの仏蘭西物て、拍の数えるのも大変だけど優雅に吹くのってホントに苦手!! 原曲聴いていないせいもあるけど、仏蘭西物をバリバリ吹けるとカッコいいだろうなあと思う。(て、おフランスをバリバリなんて野蛮に吹いちゃだめですよね。


2001年7月29日日曜日

投票してきましたが

参議院選挙に行って来た。どこの党に投票するのか迷ったが最終的には民主党を選択してしまった。小泉首相になって政治的空気は変革したものの、彼の唱える論点で以下が不明確であることと、政治的な健全性と対抗勢力(自民内ではなく二大政党という意味での)を保つという意味である。 

小泉首相の論点で気になるのは、以下の部分である。
  1. 痛みを伴う構造改革は理解する(野党も理解している)が、それを実行するためのセーフガードが不明確、5年間530万人(だったっけ?)の雇用の創出という考えの不透明さ。また、痛みをどこの業種に向けるつもりなのか、不良債権処理についても党内で一致しているかが見えない点。(不良債権は大手ゼネコンと流通だと言い切る人もいるが)
  2. 靖国問題や教科書問題における近隣アジア諸国に対する、歴史認識の甘さと外交感覚の幼稚さ。
  3. 京都議定書に見られる優柔不断と対米追従型外交のあり方に対する疑問。
  4. アメリカのMD構想に対する政府方針(対米協力)に対する疑問(私はブッシュのMD構想を支持しない)
  5. ひいては憲法9条と周辺事態に関する見解への疑問。

郵政の民営化や道路特定財源などについては、どんどん進めていただきたいが、どちらかというと瑣末的な事項のように思える。自由党の小沢氏が唱えるように、これらを含めたもっと大き問題が横たわっている。「構造改革」は重要だと思うことには変わりない。 

民主党がその全てに明快であるのかということでもない。民主党だって小泉首相への対応は何度か変わった。変革を唱える彼らでさえ自分たちの機軸を示しきれていないという印象だ。
しかし、小泉氏は「自分を選出した自民なのだから、私の唱える政策は自民も支持している」と言うが、これにも疑問がつくのだ。今の自民ではやはり将来の日本は成り立たないと思うのである。 

小泉政権になってからの景気と株価の低下は今のところ判断材料にはなっていない。具体的施策が施されていないのだもの、景気がよくなろうはずがないではないか。竹中蔵相だって、一時的に悪くなることを肯定していたはずだ。 

小泉内閣自体には、小泉首相と田中外相の人気で持っている雰囲気だが、二人に共通した協調性のなさと公私の発言の混同という、政治家としての資質を問われる部分が多く、危うい印象を受けざるを得ない。個人的には二人の政治家の登場には活目すべき点はあるもののだ。
さて、皆さんはどこに投票しただろうか。

フルートを夏に自宅(マンション)で練習するのって、結構つらいよな

フルートを夏に自宅(マンション)で練習するのって、結構つらいよな。北海道とはいえ冷房のない部屋で、隣りへの音が気になるから窓を締め切ってだろ、暑いし息苦しいし、歌口の部分は汗で滑るし・・・・なんとかなんないかねえ。という程には実は練習なんてしていなくて、あっという間に1ヶ月経ってしまった。練習していないことに気付くだけでも、Lesson日誌(月誌だろ)の意義はあるんだな、などと思う。

今月のレッスンは一回しか受けられなかったが、相変わらずヘンデルのソナタは Op.1 Nr.1b をやっている。十六分音符のつながりが上手く吹けない。「アーティキュレーションを色々と工夫して、メロディラインが浮き出るように」と言われるけれど、ばたばたとするだけで、ちっともエレガントにならない。指と舌も合わないし基礎練習がやっぱり重要だよなと思う。

アーティキュレーションのかけ方は、色々吹いてみて一番いいと思うように研究しなくてはだめだな。これって、センスとか趣味も問われそう。

Adagioの楽章は、即興で装飾などをするといいらしいが、これまたセンス良く吹くのって難しい。一番簡単なのは、間の音を付け足す(例えば、シーレという楽譜だったら、シ-ド-レと言う具合に)といいらしいけど・・・・

次回は Op.1 Nr.2 をやろうと思うけど、これはランパルのCDがあったんで、楽譜を見ながら聴いてみたんだけど、課題は多い!! ヘンデルのソナタが全部入った音盤てのも探してみようと思うのであった。

アンデルセンはこのごろ全然やっとらんなあ・・・


2001年7月24日火曜日

選挙が近いが・・・・


日本経済新聞社が29日投票の第19回参院通常選挙を前に実施した全国世論調査で、小泉純一郎内閣の支持率は過去最高を記録した前回6月調査(85%)から16ポイント低下し、69%となった。(6月23日 日経新聞)

そうである。約7割が支持という状況は、それでも依然として高支持率であることに変りはない。

小泉内閣が「構造改革」と「景気回復」をうたって登場してきたが、今週末の参議院選挙で、いったいどの政党に投票すべきかは今もってワタシ的には流動的だ。

小泉内閣は、外交問題については「対米路線」「アジアへの視点」のふたつの点について、大きな違和感を感じるし、彼の歴史認識と日本の位置付けの甘さは一国の首相としての資質を欠いていると思う。また、「構造改革」に向ける意気込みは認めるものの、具体策となると彼が一体何をしたいのかが見えてこない。骨太の方針は確かにある。「痛み」を伴うということも、与野党共通の認識だ。しかし、「痛み」の後が見えない。本当に任せていいのか、「骨太方針」の前提は本当に正しいのか? と思ってしまう。

かといって、民主党や自由党である。今でも一番しっかりしているのは、民主党だと思うのだが、鳩山さんと菅さんの論点も微妙に異なっているように思える。

一番の問題は、もはや「与党」「野党」とかの政党が、その政治立脚点であるはずの政策を含めて崩れてしまっているのに、誰一人としてその枠組みを今回は越えられない点にあるのではないか。小泉さんが「自民党にいなければ改革なし」というのも分かる。「加藤の乱」のときの彼もそういう立場だった。自由党の小沢さんなど、今の状況をどう思っているのだろうか。

政治家というのは、立場になると言いたい事を言えなくなるものなのか、とも思うが、例えば22日のテレビ朝日の「サンデー・プロジェクト」、各党の幹事長クラスが集まって討論を行っていたが、あの自民党の山崎さんでさえ、自らの立脚点を明確に示すことができないでいた。「極めて政治的発言」に慎重になるのは当然だと思うものの、政治家というのは、だとすると自分の考えを述べられないのか? ここからが、一体誰を支持すべきなのか曖昧にしてしまうと思うのだ。

2001年7月22日日曜日

【本棚】伊島りすと:「ジュリエット」


こう言っては何だが、私は結構ホラー小説が好きである。かといって古今東西のホラーものを熟読しているほどの熱心な読者ではないが、昨今の「ホラー小説大賞作」などはある程度読んでいる。

だから、本書の帯び(下に引用した文章)に、「これは期待できるか!」と思い、「考えてみたら昨年度(2000年)は大賞なしだったものな」などというこも思い出しながら本書を読み始めてみた。

こういう小説であるからして、筋について言及するのは避けたいが、私的には今ひとつの感がぬぐえなかった。この小説をまだ読んでおらず、これから読もうとする人は、以下の拙い書評は読まないほうがいいと思う。
南の島で親子三人が対面した蘇る思い出たち。
狂おしく、切ないまでの、異常な世界・・・・
ホラー小説史上にエポックメイキングな作品として
新たなページを刻み付ける名作、誕生!
「感想は?」と聞かれれば、面白いし質の高いエンターテイメントに仕上がっていることは認める。しかし、プロットの根幹がスティーブン・キングの「シャイニング」と「ペット・セマタリー」の合作のような雰囲気を漂わせており、新規性を感じない点はマイナスだ。

「ペット・セマタリー」を読んだことがあるならお分かりだろうが、蘇る死者というテーマは私には好きになれない。それも単なる幽霊とか言う形ではなく、人の一番大切にしておきたい、または、辛すぎて思い出したくない「思い出」を題材にしていると言う点で、読み進めるのが苦痛になってしまう。これは個人的な感情だとは思うが・・・・こういうテーマは心情的に受け入れにくいのだ。

S・キングの「シャイニング」は、非常にすぐれた小説であったが、この小説はそれほどのパワーも完成度も見られない。もっとも、作者は「シャイニング」を意識などしていないかもしれないが。

こうして書くと”全然ダメ”なようにう感じてしまうかもしれないが、実際はそうではない。読み始めたら止められなくなるような魅力に富んでいるし、一気に読ませるだけの筆力は十分である。特に水字貝の「魂抜け」のエピソードは、小説の一番の核となる部分であるが、ここの書き方はなんとも憎いまでに成功していると言える。後半のココ(主人公ルカの友人)が蘇るあたりなど、気色悪いがホラーとしての怖さは十分である。

ただ、小説に多くの要素を盛り込みすぎているのという気がしないでもない。主人公たちが阪神大震災の心的障害を負ってしまっているということは、小説家に多くのイマジネーションを与えるのだろうか、貴志祐介の「十三番目の人格」を思い出す。また、主人公健次の失業やバブル崩壊の傷跡、母親の幼児虐待と娘のルカの自傷行為など、一見して現代の病理を組み入れているように思えるものの、その掘り下げ方は甘く、どういうホラーを書きたいのかが見えてこない点にもどかしさを感じる。ストーリーのラストに向けての緊張感はあるものの、意外性はほとんどない。また、タイトルの「ジュリエット」というキーワードが全く生きていない点も残念だ。

伊島りすとの他の作品は読んだことがないが、むしろホラー以外でじっくりと小説を組み立てたほうが良いのではないかと思える。そんなわけで、本書帯の「ホラーの新たな領域」と言う点には、全く賛同できないものの、作者の次回作については期待してみたいと思わせるのである。

ブラームスの交響曲を久々に聴いてみたが・・・

シベリウスの4番というウニョウニョした音楽ばかり聴いていたら、急に独逸系の正統的な交響曲を聴きたくなった。ここはやっぱりブラームスとばかりに、久しぶりにワルター指揮 コロンビア交響楽団(1960)の演奏で2番と3番を聴いてみた。

この演奏がブラームスの名盤であるかは論が分かれるだろうが、私にとってはブラームスを(ベートーベンもそうだが)まじめに聴くきっかけとなった「名盤」である。

ブラームスの2番や3番は、名曲であることは認めるものの、1番や4番に比べて地味な印象がないわけではない。しかし、シベリウスを聴きつづけた耳には、骨格のしっかりした、まるで両足で地をふんばっているかのような安定感と、堂々とした物凄い立派な曲に聴こえて、改めて驚くのであった。構成美と言ってもいいのかもしれない。切々たる旋律もあるが、全体の流れの中で破綻せずに訴えかけてくる。それが心地よいし安心感がある、ととれる反面、余りにもストレートすぎて気恥ずかしさを感じないわけでもない。

こういう交響曲が独逸の伝統だとすると、シベリウスの音楽というのは、極北の音楽であると称される意味もわかるというものだ。どちらが良いとかの問題ではない。目指した音楽性も、そして時代背景も全く違うということだろう。ワルター&コロンビアの演奏は、ブラームスを熱くそして独特の粘りをもって分厚い演奏に仕上げており、非常に満足のゆくものだ。ただ、ひとつだけ気になるのは音質なのだ。

私の聴いている盤は、SONY(SRCR1663)20bit Mastering のものなのだが、特に弦の音がシャリシャリとした金属的なトゲトゲしい音に聴こえる。マスタリングのせいなのだろうか、弦は決してこういう音は出さないだろうと思うだけに、惜しまれるのであった。


2001年7月20日金曜日

【音盤】アムランのピアノ バーミンガム市響による ブゾーニのピアノ協奏曲



「レコード芸術 6月号(2001)」に『名曲!?奇曲!? ブゾーニ《ピアノ協奏曲》の魅力 M・A・アムランによる日本初演事件簿』(高久 暁)として、この曲が紹介されていた。アムランといえば、超絶技巧のピアニストとして知られている。音楽関係のBBSなどを眺めていると、賛否あい半ばする形で語られているのを目にするが、高度な技術を有する演奏家にはよくあることだ。

ピアノ・パートは難しい、と言うも愚かなほど難しい(長木誠司)というブゾーニのピアノ協奏曲をアムランが演奏しまた録音したというのだから、モノ好きだとは思うが聴いてみたいと思うではないか。さっそく、札幌のPALS21に出かけてCDをゲット。店員さんに「アムランに興味があるのですか?」と聞かれても、なんだかアムラン買うの初めてですと言い出せず、「はあ・・」と曖昧な返事を返すのみであったが、親切にもhyperionのチラシを渡してくれた。心の中で(ええ!? こんなにCD出しているんだ! と恥じ入る)

さて、まず聴いてみて非常にびっくりした。ブゾーニというから知的で緻密な音楽が展開されているのかという、訳のない先入観を持っていたが、ものの見事に覆された。なんだか良く分からないけど凄い、かっこいいと思った。爆発するようなエネルギーを撒き散らしているような男性的な音楽だ。

何度か聴いてみたのだが、繰返し聴くにつけ、すさまじき音楽であると思う。力強さ、爆発するパワー、グロテスクさ、はじけるような陽気さ、春の祭典的な雰囲気さえ漂わせながら怒涛のごとく進む音楽の威力には圧倒されるのみだ。不勉強にして知らなかったが、ブゾーニはイタリア人であるらしい。そう思って聴いてみると、これまた先入観のなせる技か、レスピーギのローマ三部作をふと思い出しながら聴いてしまう。(曲は全然似ていないけどね)

解説は英語なので、レコード芸術と、拙い読解力で把握したところによると、この曲は全部で五つの楽章に分かれている。第1楽章は「プロローグと入祭唱」、第2楽章は「おどけた楽曲」、第3楽章は非常に長く「厳粛な楽曲」「序奏」「最初の部分」「次の部分」「最後の部分」に分けられている。第4楽章は「イタリアの風に」そして第5楽章はデンマークの作家、エーレンスレーアの「アラーへの賛歌」が歌われる。

ブゾーニ自身の妻に当てた手紙によると、1、3、5楽章は三つの建築物を意味し、間の二つはスケルツォとタランテラを配した構成だという。三つの建物はそれぞれ、"Graeco-Roman"、"Egyptian"、"Babylonian"とされているらしいが、私にはそれらを視覚的にイメージできる知識はない。

レコード芸術の長木氏とのインタビューで、アムラン自身が作品のパワーや魅力は正しく演奏すれば自ずから分かる音楽作品に付いて絵画的あるいは思想的な連想や考えは持ちません。それは結局音楽そのものではないので…と語るのは意味深い。しかし、聴きながらどうしても、「言葉」による手がかりを求めてしまうことを避けることができない。

これらの曲からイメージされるものは、壮大にして荘厳なるイメージやら(1楽章)、非常に暗くグロテスクな舞踏であったり(2楽章)、荘厳にしてかつ暴力的なまでのカタストロフィクを感じたり(第3楽章)、猛烈なエネルギーの爆発による生命力の発散だったり(実際「ヴェスヴィオス火山の噴火」とされる)、自然の神秘に対する畏敬だったりする。また、爆発するばかりではなく、ピアノとしての美しさも十二分に堪能できるところも多い。

第四楽章の圧倒的コーダの後に配置された、長調から短調に至る非常にテンションのピチカートの戦慄(not 旋律)や、ピアノのことなど何も知らない私には理解できないくらいテクニック的に難しいらしい、重音のトレモロやら畳み込むようなピアノの轟き、圧倒的なカデンツァなどなども舌を巻く(アムランが「殺人的」というくらい)。第5楽章コーダの男性合唱の美しさと力強さといったらどうだ。

とにかく上品な曲ではない、名曲でもないかもしれない。しかし、この圧倒的な恐ろしく南イタリア的な太陽と空気が、さながら熱風のように聴く物の体を吹き抜けてゆく快感!

ブゾーニ自身が、「建築物」にこの曲を例えたように、通して聞いてみてもまた、ある楽章だけ取り出して聴いても、骨格がはっきりした(ある部分ピラミッド的な美しさを感じる)音楽に聴こえ、決して奔放にして放埓なだけの音楽ではないことも確かだ。従って聴いた後には、何と言うか壮大なる旅をしてきたかのような満足感に浸ることが出来るのだ。ああ、イタリアに行きたい!と思うよ。

もはや、こればかりは聴いてもらうしかない。他に類例がないと思われるこの音楽を言葉にするには余りにも語彙が不足しており、これ以上書き続けることの限界を感じてしまうのであった。

  1. Prologo e intorroito (15:38)
  2. Pezzo giocoso (9:47)
  3. Pezzo serioso:Introductio (4:02) Prima Pars (4:43) Altera Pars (11:30) Ultima Pars (2:57) 
  4. All'Italiana (12:17)
  5. Cantico (10:50)
  • 指揮:マーク・エルダー
  • ピアノ:マルク=アンドレ・アムラン
  • 演奏:バーミンガム市交響楽団
  • 録音:June 1999
  • hyperion CDA67143 (輸入版)

選択するとしたら その2

以前に書いたこと(7月16日)の繰返しになるのですが、再び思うことを書いてみます。
 
村上氏の前提は、競争社会と階層差の発生を容認することが前提だと思うのです。競争するかしないかは個人の自由であるとしても、全ての人がそれを放棄することはあり得ません。結果として非常に高給をとる人たちと、そこそこの人たちに分化すると思います。
 
年収2億円の人と、年収200~1000万円程度の人(大部分でしょう)が一緒の場所に住めるとは、到底思えず、ローカルな都市としてのセキュリティや階層化ということも発生するのかもしれません。今でも入りづらい店や会員制などの場所は存在しますが、前提として「入ることが出来ない領域」が増加するかもしれません。現にアメリカでは、ゲートで街に入る人をチェックするように囲い込まれた都市が存在すると聞きます。もっとも、日本では狭い土地しかありませんし、都市の成り立ちを考えても、そうは(したくても)ならないという気もしますが。
これらの社会構造が、不公正感(公平にはならない)なしに実現されなくば、階層間(日本に階層がないという考えはもはや幻想でしょうか)での不満は増大し、今までになかった形での犯罪が増加するかもしれません。教育に対する投資ということで考えると、ますます階層差を助長する仕組みになってしまい、教育を受けられる層と受けられない層に分かれることも考えられます。
 
教育投資や教育闘争から離脱して、それでも年収2億を得たいという人はいるわけで、芸能やスポーツ面、芸術面などに競争の場を移すでしょうし、棚ボタ的な報酬を期待する人も増えるでしょう。
 
金持ち(ああ、嫌なコトバ)の家庭が世間体とは裏腹にバラバラで精神的には決して幸せじゃないとか、ヘッジファンドで高額な報酬を得たエリートが自分の仕事の虚偽性に不満を感じるとか、忙しさの中に自分を見失っていると気づくとかは、ドラマ的ではありますがステロタイプ過ぎて実態を表しているようには思えません。たぶん、彼らの多くは不満の方が少ないんじゃないかと思います(あくまで 多分)。
 
容認するしないに関わらず、競争社会というのは、勝者には幸せかもしれませんが、非常に救いのない社会構造のように思えるのです。
 
物質的、刺激受容型の幸福のみを求めるならば、年収2億円の人が幸せなのは自明かもしれません。それぞれの階層(ああ馴染めないコトバ)の人たちが、それぞれに幸せを感じ取れる社会というのは、人は何を持って「幸福」と感ずるかという問題に行き着くと思うのです。
 
人は一人で生きてはおらず、その存在を誰かに認められることで生きています。それは強者だろうが弱者だろうが大人だろうが子供だろうが、根本は同じだと思います。誰かに認めて欲しいということは、誰かを認めることで、それは人と人のつながりの相互の関係です。「努力の報われる社会」とはよく言われますが、「努力して報われなくても、認めてくれれば」救われるものです。
 
自分の仕事(家事にしても)が、誰かの役に立っていると思うから誇りも生じるのです。自分の仕事を「凄いね」とか「ありがとう」と言ってくれる人がいるから、やっていけるのです。
人が人として幸福を感ずるということの基本は、こういうことだとは思うのです。でも、そういう甘やかな理想論だけでは生きてはいけないのです。人は幸福感とともに刺激も求めてしまうのです。
 
そこで、なのです。あるべき社会の理想型というのは一体だれが示すことができるのかと考えてしまうのです。政治家は社会の仕組みを作りますが、現状では思想までは作りえないでしょう。(政治というのは高度な思想集団だと個人的には思いますが・・・・) 宗教が廃頽(と言うと怒られるでしょうが、一般論です)した今では宗教家でもだめですね、彼らとて経済幻想の枠組から自由ではありません。
 
社会の枠組みにつかりきった私のような親は、子に何を示せるのでしょう?