2005年12月24日土曜日

タワー崩壊?


タワーレコードのサイト(@TOWER.JP)がメンテナンス中とかで、随分長い間サービスを休止しています。おかげで注文していた幾つかのCDが届かないまま年末に突入してしまいました。


逆に9月23日にHMV注文したルミニッツァ・ペトレのバッハ無伴奏ソナタ&パルティータがやっと届きました。3度くらい発売延期になっていたもので、予告によると今度の発売日は12月27日となっていましたから、それよりは一足早く届いたというところでしょうか。クリスマスに届いたというのも、何だか気分の良いもの。と言うことで聴くより先にiPodに入れてしまいました(笑)

iPod+amp;AKG K26P

iPod付属のイヤホンがイカれてしまいました。中のスピーカーがイヤホン筐体の中でズレてしまったのか、歩きながら聴くと「カタカタ」と異音がしたり、時々音が途切れる。修理(あるいは交換)にとも思ったのですが、この際と思い銀座のApple Storeで幾つかのヘッドフォンを視聴してみました。

B&O A8やSennheiserのPMX200などいくつか店頭にあるものを試したのですが、結局syuzoさんもお使いのAKG K26Pを購入してしまいました。価格と音のバランスが一番よかった(>つーか、一番安い方だった)というのが選択した理由。PMX200は、かけ心地は一番良かったのですが作りが安っぽく、すぐに壊れそうでしたし、A8はK26Pなどと比較してしまうとデザインや価格の割りに音質が軽い。

ノイズリダクション機能付きとか、より高音質なヘッドフォンもありますが、所詮iPodに転送した音楽データなのですから音質は「そこそこ」でいいんです。K26Pは折りたたんで付属の袋にしまえる携帯性の点からもiPodには良いかなと。店頭では自分のiPodを出し、内田さんのモーツアルトのPコンやC.クライバーやチェリのブラームス、バレンボイムのワーグナーなどを視聴して決めました。

syuzoさんのエントリを参考に、いくつか購入に至ったにも関わらずアフェリエイトには貢献しておりませんm(_ _)m

チャイコフスキー:交響曲第5番/ムラヴィンスキー&レニングラード

ムラヴィンスキー チャイコフスキー交響曲第5番
  1. Andante-Allegro con anima 13:44
  2. Andante cantabile,con alcuna licenza 11:51
  3. Valse.Allegro moderato 5:34
  4. Finale.Andante maestoso-Allegro vivce 11:39
  • ムラヴィンスキー(指揮) レニングラードpo.
  • 1977年10月19日 NHKホール LIVE
  • ATL052

許光俊が「オレのクラシック」で絶賛しているものだからつい購入。彼はこのチャイコフスキー以上の音質の録音は、ムラヴィンスキーには存在しない(同 P.123)と書いていまが、これに対しHMVのユーザーレビューでは多くの反発が書かれています。確かに音は「遠い」と感じますし「テープヒスノイズ」も気になるのですが、このチャイコフスキーのしなやかな炸裂はどうでしょう。聴き進むに連れ、そんなことはどうでも良くなります。

��G版など他とは比較して聴いていないので分かりませんが、随所に凄まじさを秘めた演奏であると思います。静かな部分からfffにいたる音楽の流れなど黒ヒョウが華麗なジャンプをみせたかのような鮮やかさです。解説は平林直哉さんほかが書かれていますが、おそらく実演で接していたら、このCD以上の感興であったのでしょう。今時CD1枚にチャイ5しか入っていない盤ですが、チャイ5好きには価値があるかと。

それにしても強奏部の表現は許氏も指摘するように、どこか違うような気がします。炸裂するような音響でありながら「暴力的」であったり「粗雑」ではない、オーケストラ全体がシャキッっと立ち上がるとでも言うのか。第2楽章の冒頭の入り方の丁寧さも、これ以上ないというくらいに素晴らしい。しかし続くホルンの音が少しくぐもって聴こえたり途中音がちょっと危うくなったりするのは残念なところ。同楽章の中間部の強奏部も凄い、思わずビックリ、背筋が伸びる。ここらあたりの表現の鮮やかさと鋭さが、ムラヴィンスキーの音楽を「冷たい」と感じる人がいる所以なのかもしれません。一切の妥協がありませんから。

圧巻はやはり終楽章にありました。圧倒的かつ怒涛の推進力でありながら、微塵も美しさを失わない。良く整備されたスケートリンクの上を一気に滑り、エッジを利かせて華麗にジャンプするかのような絶妙のスピード感と運動性能、削られた氷の破片が頬をピシリと打つかのような爆発。オーケストラは金管も木管も打楽器も弦楽器も、全てが一体となってフィナーレを演じている。

心底、久々に聴くチャイ5はええなあ~(;_;)

参考

チャイコフスキーの交響曲を聴く

2005年12月23日金曜日

【音盤】ブラームス:交響曲第3番/テンシュテット&LPO






テンシュテット

ベートーベン交響曲第7番、ブラームス交響曲第3番


  1. ベートーベン:交響曲第7番
  2. ブラームス:交響曲第3番


  • テンシュテット(指揮) ロンドンpo.
  • Royal Festival Hall,London,22 November 1989(Beethoben)、Royal Festival Hall,London,7 April 1983(Brahms)
  • BBSL 4167-2



ベートーベンの7番が余りにも素晴らしい演奏でしたが、このブラームスもなかなか聴き逃せません。独特の温かみと優しさに満ちた演奏です。爆演とかいう種類のものではないのですが、フツフツと内側からこみ上げる重厚さと説得力に満ちていて音楽を聴く喜びを満喫できます。


たとえば2楽章の中間部などを聴いていると「ああブラームスっていいなあ、ベートーベンみたいに頑張んなくたっていいや」という愉悦に浸ることができますし第3楽章の寂寥感を伴った美しさは特筆モノで、いつまでも聴いていたくなります。


テンポは比較的「ゆっくり」しているように感じます。他の演奏と比べて聴いたわけではありませんので、実際はどうなのか分かりません。そう感じるのは曲全体を支配する大きな波のようなものを感じさせてくれる演奏だからでしょうか。コケ脅しのようなところは微塵もなく細部も丁寧です。終楽章も適度に抑制された表現の中にゆるぎない意志を感じます。ここでも大波のようなうねりを感じることができ、その揺れに身をまかせているうちに曲は静かに幕を閉じます。ああ、満足。




2005年12月22日木曜日

【音盤】ベートーベン:交響曲第7番/テンシュテット&LPO

テンシュテット
ベートーベン交響曲第7番、ブラームス交響曲第3番
  1. ベートーベン:交響曲第7番
  2. ブラームス:交響曲第3番
  • テンシュテット(指揮) ロンドンpo.
  • Royal Festival Hall,London,22 November 1989(Beethoben)、Royal Festival Hall,London,7 April 1983(Brahms)
  • BBSL 4167-2

来年がモーツアルト・イヤーだからというわけではありませんが、iPodに入れたモーツアルトばかり聴いていたときに、Syuzo's Columnでこの盤の紹介を目にしました。その中での文章に、

ベートーヴェンを箱庭のような所に押し込めて、「ベートーヴェンって、そんなに凄くないじゃん。モーツァルトみたい」とロココ風の衣装を着せて軟弱に喜んでいる演奏ではない。これは不屈の精神と巨大な愉悦という、ベートーヴェンの凄みをしっかりと知らしめてくれる演奏である。

ということが書かれています。この文章は演奏スタイルというだけではなく、モーツアルトの音楽とベートーベンの音楽の決定的な差異について端的に語っています。ベートーベンをどのように解釈して演奏しようと、それは間違いではないのでしょうが、ベートーベンが表現した音楽は、モーツアルトという天才がどんなに技巧を凝らしても決して表現できなかった(しなかった)世界を提示していることだけは確かなでしょう。

音楽が『意志』を持ち始めた、と言ったのは思想史家の丸山眞男です。

音楽という芸術の中に『意志の力』を持ち込んだのはベートーベンです。『理想』と言ってもいい。人間全体、つまり人類の目標、理想を頭に描いて、<響き>=<音響感覚>でそれを追求し、表現する。凄まじい情熱ですね。これを『ロマンティック』と言わずして、他になにがありますか。(「丸山眞男 音楽の対話」中野雄著 P.75-76)

以前に触れましたが慶応大学教授でもある許光俊氏は「オレのクラシック」の中で、そういう近代の生み出したクラシックは、突然、古くなってしまった(P.49)と指摘します。

しかし、こういう力強い圧倒的なベートーベン演奏を聴くにつけ、改めて音楽の持つ力と今の時代にベートーベンを聴く意味について考えざるを得ません。この演奏はもはや、弦がどうだとか、ティンパニのロールが凄いとか、そういう感想を超えています。第三楽章あたりから、もはや涙が止まりません・・・感想はsyuzoさんや以下を参照してください(;_;)

HMVサイト

2005年12月5日月曜日

年末まで更新できません3

そういえばアファナシエフのベートーベン(ディアベッリの主題による33の変奏曲)もiPodに入っていたなと思い出し何気に聴きだしたものの、またしても愕然としてしまう。これがベートーベンなのかと驚き、余程ムソルグスキーの「展覧会の絵」よりもグロテスクではないかと思う。今はアファナシエフの演奏を受け入れる余裕がこちらにはないみたいだ。



2005年12月4日日曜日

年末まで更新できません2

iPodに入れた音楽に唯一癒されているが、結局いつも聴くのはモーツアルトばかりなり。モーツアルトの音楽がこんなにも人を癒すものだとは、ついぞ知らなかったし、巷に溢れる「モーツアルト効果」というものも、あながちブラフではないのだなと思う。しかしながら、そう思っていた頭で聴いたアファナシエフのモーツアルトは従来の演奏とは余りにも違う次元を表現しており、しばし愕然。書きたいことはあるが、以上の状況につき後日。


2005年11月28日月曜日

モーツァルト

昨日寝たのが3時頃、休日も仕事をしなくてはならないと思うのだが朝は思うように起きられない。目覚ましが鳴るのを止めてウトウト・・・、そういえばタワーレコードから頼んだものが届いていたな、と思い出したら、いてもたってもいられなくてガバリとはね起きる。注文していたのは内田光子のモーツアルト廉価版ほか。
  • モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番|第23番 内田光子(p) ジェフリー・テイト指揮
  • モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番|第24番 内田光子(p) ジェフリー・テイト指揮
  • モーツァルト:ピアノ協奏曲第22番|第26番「戴冠式」 内田光子(p) ジェフリー・テイト指揮
  • モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番|第27番 内田光子(p) ジェフリー・テイト指揮
  • 鬼才アファナシエフの軌跡2 アファナシエフ・プレイズ・モーツァルト
  • 鬼才アファナシエフの軌跡3 ベートーヴェン

早速iPodに内田さんのアルバム2枚分を入れて出勤。K.466とK.491を聴く、ああモーツアルトを聴くことのできる幸せよ。途中近くの古本屋で「モーツアルト」(岩波書店 ピーター・ゲイ著 高橋百合子訳)を見つけて思わず購入、地下鉄の中でつらつらと読み始める。著者はイエール大学の歴史学名誉教授、ヨーロッパ比較思想史を専門とし18世紀から20世紀にかけての文化史研究の第一人者らしい。この間読んだ「モーツアルト」(中央公論社 H.C.ロビンズ・ランドン著 石井宏訳)もモーツアルト研究の第一人者の書ではあったが、新書の内容のせいか総花的であまり面白い本ではなかった。こちらは読み物として割と面白そう、一気に読んでしまうのがちょっともったいない(というか、そんな時間ないんだってば)。仕事をしながら2枚分聴いてしまったので、帰宅してから残りの2枚もiPodに転送、K.467を聴き余りの美しさに涙しそうになる。

2005年11月20日日曜日

オー・マイ・ガッ!ダブり買いどころか

昨日書いたスヴェトラーノフの「ローマの祭り」の感想。どうもジャケットに見覚えがあるし変だなあと思っていたのですが、何と既に購入済であり、しかもその感想をHPに書いていた盤であったことが判明。

というのも、トップページのメニューバーに「自サイト内検索」機能(ブログ以外の文書も検索)(*)を復活させ、試しに「スヴェトラーノフ」で検索してみたら、2003年3月のエントリが見つかったという次第。やっぱりサイト内検索は便利だなあと思う反面、あまりの我が身の記憶力の無さに腹を立てると同時に、感想の文章が全く変わっていないことにも愕然・・・。この2年半の間に自己に進歩はなかったということかっ!

ついでだから書いておこう。あのエントリで私は、

有無を言わさない、そして頑固にしてゆるぎない確信に満ちた暴虐さは、同じような芸風と思われがちのゲルギエフに劣らない(というか・・・ちょっと次元が違う)ような気がする。

と書いた。一方、許氏はゲルギエフが嫌いらしく次の様に書いている

これに比べれば、チェクナボリアンやゲルギエフなど、しょせんお子ちゃまが暴れているだけ、プロとアマくらいの差がある。(「オレのクラシック」(P.108))

改めてスヴェトラーノフを聴いて分かりました。許氏、貴方はある意味で正しい。ただ別のものを比較してプロとアマだ大人だお子ちゃまだというのは意味がない。おそらくは二人の「暴虐」は指揮者としての根底の部分が違っているし、従って指揮者として目指す音楽のベクトルが全然異なっていると感じた。それを言葉にする能力は私にはないのですが。

ただ個人的には私もトシをとったのか、クラシックに「野蛮性」を求める気持ちは少なくなってきましたので、引き続き二人の「暴虐の限りの差」について書くことはないでしょう。ついでに書くなら許氏的な「オーケストラ演奏を語る資格」は、かろうじて有していたようです(笑)

(*)サイト内検索機能はトップページにしか設置していません

【音盤】スヴェトラーノフ/レスピーギ:ローマ三部作

スヴェトラーノフ&ソ連国立響 ローマ三部作
  1. ローマの噴水
  2. ローマの松
  3. ローマの祭
  • スヴェトラーノフ(指揮) USSR State so.
  • Live at the Great Hall of the Moscow State 1980.2.30 Scribendum SC021

許光俊が「オレのクラシック」で残酷と野蛮と官能の恐るべき『ローマの祭り』としてベタ褒めの盤であります。

残酷と野蛮と官能の限りを尽くした音の酒池肉林と言うしかないこの演奏は、クラシック史上に残る名作である。これを聴かないでスヴェトラーノフを、いやオーケストラ演奏を語ることができないのは間違いないところだ。

とまで書いています。そうか、私は今までオーケストラ演奏を語る資格さえなかったのかとフカク反省し聴いてみたのですが、爆演であることは認めるものの許氏のような手放しの絶賛を与えることができません。

というのも、この演奏はチンケな再生装置で聴いてはダメですね。再生装置の処理限界を超えるのでしょうか、音の塊はダンゴ状態となって耳にぶち当たって砕けるだけ。金管の音(特にペットとかも)もどこか貧相に聴こえてしまう・・・。やはりホールでこの爆発的な音塊を全身で受け止めなくては、おそらくはこの演奏の真価を語ることはできないのだろうと、再びフカク悟ってしまいました。(>どんな演奏でもそうなのでしょうが)

それでもとりあえず気付いた事をメモしてきますしょう。「ローマの噴水」は爆演という点からはイマひとつ、繰り返して聴くほどの演奏とは思えず。しかし「ローマの松」の「カタコンブ付近の松」は低弦の支えの分厚さは凄く壮大な音楽を聴かせてくれます。金管は限界近くまで咆哮します。一方「ジャニコロの松」のような静かなところになると、ソロのまずさが耳に付く。抒情という点でもあまりイタリア的感傷は感じない。「アッピア街道の松」はさすがに凄まじいカタストロフを演出している。最初の出だしの重さと暗さは尋常ではない。ロシア陸軍が凍土を黙々と行進しているよう。しかし最後はモスクワかどこかに凱旋しているような歓喜の爆発。オーボエとかのソロはやっぱりちょっと粗削りでイマイチだが打楽器の迫力は聴きモノ。全体のバランスとしては粗さを怒涛の迫力が飲み込んでいる、ラストの終わり方も凄い。ハマれば思考停止になることは間違いない演奏。

ローマの祭り」は、一体全体どうしたらこんな演奏が可能なのか。「チルチェンセス」は暴君ネロの祭り。この暴虐の限り、殉教者の祈りを全て斬り裂くかのような音楽には驚く限り。スヴェトラーノフはオケの多少の(多少か?)破綻は無視し、ホール全体に(おそらく)鮮血の霧を撒き散らしているかのよう。底抜けに明るいハズのナヴォナ広場の「主顕祭」も力瘤入りまくりの鉄のダンス。グロテスクさと諧謔性、え、あれ、こんな曲だったっけ。ラストに至っては空いた口がふさがらない。許氏の耳にどうしてこれが「官能」と聴こえるのか、私の感性とは違うという他ないが(>再生装置が違うんだってば)、ひとつの極地の演奏であることは認める。

褒めているんだかケナしているんだか分からない感想になってしまったが、ストレス解消になる演奏でもあるので、「アッピア街道の松」と「主顕祭」はi-Podに入れておくか(笑)

と、ここまで書いて、以前にもレビュウしていることに気づいた、何てこった!

2005年11月18日金曜日

初冬の水面


シーズンオフの湖

枝にはうっすらと無表情

早くも冬支度


歌舞伎座、5年後メドに建て替え決定


切られお富!さんのブログで歌舞伎座の建替えの正式発表が再びなされたことを知りました。


松竹は16日、東京・銀座の歌舞伎座の建て替えを決めたと発表した。


 今後、地元関係者らとの協議を始め、協議などに約2年、建て替えに約3年を見込んでいる。工事期間中は、代わりの劇場を借りるなどして興行を続ける。


 現在の歌舞伎座は1951年オープンで、老朽化が著しい。このため、座席の幅を広げたり、通路の段差を解消したりする。外観は、現在の伝統的な雰囲気を残す方針という。 (2005年11月16日 (水) 20:04 読売新聞サイトより)




確かに歌舞伎座は老朽化が激しいし設備もかなり古い(かもしれない)。4月21日のエントリでも書いたのですが、現在の歌舞伎座は鉄筋コンクリート造。でも中には客用エスカレータもエレベータもありませんからお年寄りには少し辛いかなとか思ったりもします。エントランス廻りも狭くて、雨の日の開演前は晴海通り前はごった返します。席も結構狭いですしね。でも私はなかなか趣があって好きなんですけどね。


新しくなるのは結構なことですが、先のエントリにも書きましたし切られお富さんも触れている「幕見席」だけはなくさないで欲しいと切に願います。あれがなければ私が歌舞伎を観続けることはなかったし、中村勘三郎の襲名披露に接することもなかったことは確実。根性出して4時間並べば最後の月の公演も観ることができましたから、一部の人に演目が独占されてしまうことを防ぐシステムであるともいえます。「古典めざましタイ」に書かれていることにはほぼ同意。「六条亭の東屋」でも触れている風情のある外観、ここがイチバン難しそうですね・・・


クラシック系にこのような公演システムがないことは「芸能」と「芸術」の違いなんでしょうか。どちらも広義にはエンタテではあるはずなのに、と思うのですが。

2005年11月17日木曜日

【音盤】キーシン/ベートーベン:なくした小銭への怒り

「失われた小銭をめぐる興奮」あるいは「なくした小銭への怒り」というタイトルのベートーベンの作品。モーツアルトの「俺のケツを舐めろ」K.233などと並んで"変なタイトルの曲"として有名です。

キーシンのシューマンのアルバムに入っていたのですが、今まで気付かずにいました。改めて聴いてみますと、最初から最後までが、早いパッセージによる技巧的な曲であり、激しさの中に音の驚くべき変化も認めることができ、聴き方によってはちょっとキてしまっているとも受け取れる曲です。最近の業務の忙しさで私もキレかけていますので、こういう曲を聴くと何だかスッキリします、繰り返して数度も聴いてしまいました(笑)

どうしてこのような題名が付いたのかは分かりませんが、怒りというよりは「う"~っ!」と頭をかきむしるような悔しさとでもいうのでしょうか(笑) 快活さなのか怒りなのか良く分かりませんが過剰なまでの表現はすさまじく、この超絶技巧的な曲をキーシンは、おそらくはイレイザーヘッドのような頭を一つも乱すことなく正確にしかも驚くほどの見事さで弾ききっているようです。


Evgeny Kissin

Beethoven Rondo a capriccio Op.129 "Rage over a Last Penny"

Evgeny Kissin(p) 1997.8 BMG 09026 68911 2

2005年11月13日日曜日

歌舞伎座:吉例顔見世大歌舞伎


歌舞伎座で吉例顔見世大歌舞伎の夜の部を観てきました。

演目は吉右衛門が人形浄瑠璃『嬢景清八嶋日記』をもとに書き上げた「日向嶋景清(ひにむかうしまのかげきよ)」、富十郎の長男大の初代鷹之助襲名披露狂言「鞍馬山誉鷹(くらまやまほまれのわかたか)、幸四郎と染五郎親子による「連獅子」、そして近松門左衛門作、梅玉や時蔵による「大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)」の四本です。

途中に休憩が入るとはいえ、少々長いかと思ったのですが、舞台は豪華絢爛、またしても歌舞伎を見る快感を堪能できるものでありました。


見ものはやはり「日向嶋景清」でしょうか。吉右衛門の演技が実によかった。源氏との戦いに敗れた景清は自らの目を付いて盲目となり、源氏への妄執を捨て平家の位牌を守って暮らしているのですが、そこに景清の実の娘である糸滝(芝雀)が現れます。景清の娘を思う気持ち、さりとて武士の矜持も捨てきれない、その揺れ動く気持ちの様が見ていて心を熱くします。

心の中では泣きながらも、娘を無理やりに追い返すところ、その後に自らの胸中を明かすところなどは涙なくしては見られません。糸滝の置いていった文箱の中の書置きの内容を知ってからの景清の絶望と苦悩は見ていても苦しいほど。

全体に芝居は、芝雀の「泣き」が少し単調に見え、吉右衛門の嘆きや心情の変化が劇的過ぎるような、両極に触れていた印象がありますが、それでも心理的凝縮感が物凄く迫真の舞台であったといえましょうか。

ラストに景清が頼朝に帰順し、あれほどに守り続けていた平重盛の位牌を海に捨てる場面は、個人的には疑問が残るものの、それでも最後の場面はきわめて立派であり大きな物語が見て取れました。

この位牌を捨てる場面については、吉右衛門(松貫四)も今月の解説本の中でそれをハッピーエンドと捉えるか、信念を曲げたことを悲劇と捉えるか。ご覧になる方によって受け取り方は変わるでしょうと記されています。主君に忠義を示すのが武士なれども、その武士とて主君あってのもの。そこに吉右衛門が描いた景清の人物像がくっきりと浮かび上がったラストであったと思います。

それにしても、この場面での舞台の奥行きの深さ、および景清の変心を象徴する海の青の鮮やかさには思わず息を呑み、舞台演出の点でも極めて効果的であったと感じました。

続く「鞍馬山誉鷹」は鷹之助襲名のための今井豊茂氏による新作。鞍馬山の一面の紅葉が実に鮮やか、実に華やか。この書割を見ただけで笑みがこぼれる。しかも襲名を祝う脇を固めるのが、富十郎(鷹匠)、仁左衛門(平忠度)、梅玉(喜三太)、吉右衛門(蓮忍阿闍梨)そして雀右衛門(常盤御前)なんですから、これまた豪華。

鷹之助はわずかまだ6歳なのですとか。それでも花道からの入りで見得もなかなか。客席からは暖かい拍手と「うまい、うまい」との声が。私もここは素直に見入ってしまいました。舞台中央に入ってからの前半は、ひたすら鷹之助を持ち上げる演技の連続。ああ、歌舞伎っていうのは、主役がとことんに美しく強く引き立つように出来ているのだなあと改めて感心感動。後見に鷹之助が人形のように抱きかかえられての場面も、よしよし、いいぞいいぞ、といったカンじ。

途中に口上の入るのも楽しめる。「松竹株式会社の永山会長の暖かいおはからいにより~」と謝辞を述べるところに、興行的な意味合いを感じ取るものの、皆が「大ちゃん」と言って祝うのですから、ここは素直に受け取りたいところ。雀右衛門の仕切りの声にはハリもあり貫禄充分、10月の公演で体調を崩され心配しましたが、これなら当分大丈夫(笑)。肝心の富十郎はそれこそ平蜘蛛のように這いつくばったままで恐縮していたのが印象的でした。

さて、幸四郎、染五郎による「連獅子」も舞台で連獅子は初めてなので期待大でありました。ただ最後の頭の毛を振り廻す場面では二人の舞があっておらず、こういうものなのかと。染五郎が若さ故か力任せに頭を振るのと対照的に、幸四郎は淡々と振る。染五郎のそれは鋭角的な狂乱で綺麗な環になっておりませんでしたものの客席からはヤンヤの拍手。連獅子という芝居、この奇妙な毛振りを皆が期待してしまうところに歌舞伎の娯楽性を感じるのですが、その点からは私の感想はイマイチといったところ。

もっとも我が子を千尋の谷に突き落としてからの本舞台で子を探す親獅子と、花道でそれに気付く仔獅子の場面は印象的でありました。親獅子の迷う気持ちが舞台からひしひしと伝わってくるのが良かった。対して染五郎の仔獅子は親が心配している場面では、花道でじっとしているのですが、その態度が不遜に見えたのは何故か。親を超えようとする仔の気概か。そう考えると毛振りにおける乱舞もフロイト的匂いがあるのかもしれず、深読みか。

最後の「大経師昔暦」は、何ですかねこれは。近松門左衛門による世話浄瑠璃ですが「鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)」と「堀川波鼓」とともに三大姦通ものとい言われる作品。喜劇と悲劇が紙一重で、なんともなあ的な終わり方にも味わいがあるものの、これを評する能力は今の私にはなし。ただ、最近夫がつれなくて他の女ばっかり口説くものだから、その女に成りすまして口説かれて見せましょ(目にモノ見せてあげましょ)とは、なんと「フィガロ的」なストーリーでしょう!ある意味においては、最も深く面白い芝居であるかもしれません。