2006年8月31日木曜日

ベートーベン:ピアノ・ソナタ21番「ワルトシュタイン」・17番「テンペスト」/ファジル・サイ

ベートーベン
  1. ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調 o.57『熱情』
  2. ピアノ・ソナタ第21番ハ長調 o.53『ワルトシュタイン』
  3. ピアノ・ソナタ第17番ニ短調 o.31-2『テンペスト』
  • ファジル・サイ(p)
  • 2005年6月 シオン(スイス)、ティボール・ヴァルガ・スタジオ
  • AVCL25092

それにしてもファジル・サイのベートーベンはモンク無しにカッコいい。走り抜ける軽快さ、抜群の運動性能と若き熱情、そして儚いまでの美しさと快活さ。生きていることの潔さも苦しさもひっくるめて、しかし深刻ぶらず深淵にはまらず表現しきる。激しい表現をしていながらも重くベタ付くことはない。スピードが哀しさを誘うというのは、ちょっとモーツァルト的。また彼のピアノを聴くことから、ある種スポーツに似たカタルシスを得ることができます。

《ワルトシュタイン》は第一楽章の刻むリズムがベートーベン的反復で印象的な曲。弾けた乱痴気騒ぎや悪戯、物思いや憂鬱など、光と影の対比を私は感じます。この曲は第二楽章から第三楽章に移る部分が私はとても好きです、何度聴いてもいいなあと。完全にひとつ上に突き抜けた感情が、控えめながらも高らかに、そして限りなく美しく表現されているかのよう。いつしかファジル・サイと一緒になって鼻唄さえ歌ってしまう、しかしそれでも、最後の雄たけびは、やっぱり余計か。

《テンペスト》は、シェイクスピアの戯曲など知らなくても名曲だと改めて思います。この頃のベートーベンは悪化する耳の病気と危機的な精神状態にあったのだとか。第一楽章は暗くも勢いのある曲想、悲劇へと向かう走駆を思わせますが、サイのピアノはどん底の悲劇を描きはしません。ピアニシモの表現にいとおしむかのような美しさを聴くことができます。有名な終楽章も悲劇性と軽やかさを両立させながら、哀しみを美しさにくるんで提示します。緩急強弱のメリハリがはっきりしていて、強奏部の激しさとともに、弱奏部の余韻も美しい。思った以上に繊細な表現が聴かれるだけに、何度も繰り返し聴くとサイの唸り声が耳障りになってきます。

2006年8月28日月曜日

坂東氏の件


昨日の坂東氏の真意について見解が深まったわけではありません。ただ、ネットを見ると予想以上の非難糾弾のアラシ。坂東氏の掲示板は完全に「荒らされた」後の残滓がブスブスしてる状態で、もとの議論は欠片も見当たりません。


もはやネットに議論はなく、感情的なパッシングのみが溢れかえる。坂東氏の猫殺しの論理については私もちょっと極端だなと疑問を感じはしますが、それでも、ネットに上の過激な意見ほどには吐き気を催しません(「坂東、死ね!」とか「生きる価値なし!」とか)。そこに隠れる真実と欺瞞の差はどこにあるのか。坂東氏は図らずも、自らの暗部を晒す以上に日本の暗部を抉り出してしまったのでしょうか。


ひとつだけ予想するとすると、タヒチにおいて子猫を捨てる(殺す)ことは、そんなに異常な行為ではないのかもしれません。近代以前の日本で農村の「間引き」が公然と行われていたこととと同様に。近代になることで人権、平等などの思想により常識は変わりましたが、それによって隠蔽されたものもあるのだということ。


生んでから殺すか、生む前に殺すか(いや、生ませないか)


どうも気にかかる話題。ちょっと調べると、あちこちで随分話題となり、小池環境相までがコメントしているらしいです。内容は18日の日経新聞(夕刊)の今はタヒチに住む坂東眞砂子氏のコラム。


坂東氏は日本の土着的なホラーを書かせたらピカイチでしたし、「道祖土家の猿嫁」においては民衆レベルでの近代日本のチカラみたいなものを書ききった傑作であると思っています。「山妣」においても、人間の業深さや、強烈なエロティシズムを発散しており、彼女の作品群からは前近代的な死と隣り合わせの生の享受みたいなものを感じ取ったものです。(どちらもBook Offにこの間売ってしまったので、正確なことは覚えていない)


そんな彼女がタヒチに住むと決断したのも、現代の日本が彼女には住みにくく、彼女なりの生き方が反映された結果であると理解していました。


で、猫殺しの話題です。すなわち「避妊手術を施すよりも成猫には妊娠出産という生の本能的な喜びを享受させてやりたい。生まれてきた子猫は育てられないから殺す」ということ。


全くもって今の日本の常識においては異質な考え方であり、批判することは簡単す。当然、多くの人たちが糾弾しています。私もあんまりであるとは思う反面、あれほどの作品を書く人が、批判されることも、自己矛盾の論理と言われることも踏まえて、あえてコラムを書いたその真意がどこにあるのか、考えざるを得ません。


今の私には安易に批判の矛先を彼女の論理に向けることができません。何かとてつもなく大きなテーマを提示しているような気がしています。未熟なため、その実態と本質が私にはまだ掴めません。


2006年8月7日月曜日

エスクァイア 9月号~発見、クラシック音楽


「エスクァイア 日本版 9月号」が「発見、クラシック音楽」と題して、かなり本格的な特集をしていることをいくつかのブログで知りました。書店で立ち読みしようと思ったのですが、これが本当に、かなり詳細にしてマニアックな記事であるため、思わず購入してしまいました。

雑誌の詳細な紹介は他のブログに譲るとして、私が本記事を読んで感じたこと。時代はおそらく新たなクラシック・ファンを求めているのではないか、ということ。


記事の特集が「ロシア・ピアニズム」「古楽」「「オペラ~グラインドボーン・オペラ・フェスティバル」という組み合わせ。今年流行の「モーツァルト」は敢えて言及を避け、夏オペラのワーグナーは一顧だにせずというスタンスはなかなか見事です。

オマケCDの最初の曲、《バッハの二つのヴァイオリンのための協奏曲からアレグロ》が流れた瞬間に、私は「やられた!」と思ったものです。だって、理屈ぬきにカッコいいんですもの。おそらくはクラシックに馴染みのない人も、スピーカーから音が出た瞬間にハッとし、思わず作曲家を確かめて、もういちど愕然とするに違いありません。この軽快な曲の後がシャルパンティエだなんて何て素敵な。

「エスクァイア」は男性雑誌のハズですが、これは極めて女性的な選曲と企画。というか、このごろは男性も随分と女性化しましたから、いわゆるジェンダー・フリーな感覚なんでしょう。

クラシックは快活にしてカッコよく、どこか教養的、貴方をワン・ランク上に仕立ててくれます。先鋭化された感覚の表現や究極のヒーリングを志向することもできますし、ロマンティシズムや貴族的豪華さや退廃さえも体現しています。オペラに限らずクラシックにエロティシズムを感じてしまったら、おそらくはどんな娯楽も適いますまい。眉間にシワを寄せて眼をつむり手を振りながら聴くなんて野暮ヤボ。

雑誌の編集後記に「えんぴつで奥の細道」というベストセラーを取り上げて、下記のような対話がありました。

●歳とってくると、古典とか読んでないとっていう焦りみたいなものがある。源氏物語ちょっとしか読んだことないな、とかね。暇ができればできるほどそう思う。これなら、読まなきゃいけないと思っていたものが読めて、字も上手になるし、人生も豊かになるし。

●それって結局、暇だってこと?

自分が歳を取るほどに暇になってきたという実感は全くありません。しかし日本人総体で考えると膨大な「消費しなくてはならない時間」だけは増大してきているのだろうなと。その隙間にクラシック音楽もある位置を与えられるのではなかろうかという予感だけが。

2006年8月6日日曜日

【音盤】シューベルト:交響曲 第9番 ハ長調 D944《ザ・グレイト》/ラトル

  1. 第1楽章:アンダンテ~アレグロ・マ・ノン・トロッポ(16.48)
  2. 第2楽章:アンダンテ・コン・モート(16.26)
  3. 第3楽章:スケルツォ アレグロ・ヴィヴァーチェ(12.13)
  4. 第4楽章:フィナーレ アレグロ・ヴィヴァーチェ(12.15)
  • サイモン・ラトル(cond) ベルリンpo.
  • TOCE-55790

AmazonやHMVのカスタマーズ・レビュなどを読むと真っ二つに感想は割れています。かつての巨匠の名演を知っている人にとっては、冒涜に近い演奏と感じている人もいるようです。しかし私はこれはこれで面白く聴くことができました。

そもそも「グレイト」って、そんなに退屈な曲でしょうか。確かに執拗なまでのフレーズの反復、いつ終わるとも知れない音楽は冗長という印象を与えます。それゆえに、他の作曲家の交響曲などに比して深みにも欠けるという評価も受けているようです。何が「天国的な長さ」かはさておいても、そういう点を全てひっくるめてがこの曲の魅力だと思っています。

おそらく若い世代の感覚には、ラトルのようなアプローチの方がこの曲には好ましいのかもしれません。演奏スタイルを含めて退屈することなく、そしてクール(カッコイイ)と感じることでしょう。ラトルがこの曲に対して何を意図しようがベルリンpo.の演奏技術は圧巻ですし。

私のiPodにはジュリーニ指揮 バイエルン放送響の「グレイト」が入れてあって愛聴しています。ジュリーニの演奏と比べると、ラトルの演奏は全く別物ではありますが、これはこれでひとつの斬新な解釈だろうなと許容します。このような演奏も好ましいと思いますから、私も場合によってはラトルの演奏を聴きたくなります。それはビールを飲むときに、エビスやギネスもいいけれど、スーパー・ドライも飲みたいときがあるよね、といった感じでしょうか。

それであったとしても、例えばジュリーニの演奏を聴いた後に感じる、音楽を聴き通した後の至福と内側からこみ上げてくるような感情の波をラトルの演奏から感じることはありません。


ただ音楽にそれが必須な要素なのかと問われれば、私は敢えて否と答えます。いつもいつも大きな感動で襲って欲しくないという気持ちもあります。同じ曲を演奏しながらも(聴きながらも)、求めているものも、結果も全く違うのだと思うだけです。

2006年8月5日土曜日

【音盤】ベートーベン:ピアノ・ソナタ23番「熱情」/リヒテル

GREAT PIANISTS OF THE 20th CENTURY

SVIATOSLAV RICHTERⅡ
    ベートーベン
  1. ピアノ・ソナタ 第12番 変イ長調 作品26
  2. ピアノ・ソナタ 第17番 ニ短調 作品31の2《テンペスト》
  3. ピアノ・ソナタ 第23番 ヘ短調 作品57《熱情》
  4. アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO57
  5. ピアノと管弦楽のためのロンド 変ロ長調 WoO 6
  6. ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109
  7. ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
  8. ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111
  • 456 949-2

ファジル・サイの《熱情》を聴いて、ふと他の演奏も聴きたくなって、手元にあったリヒテルの演奏を聴いてみました。

ここに納められている演奏は1960年11月、ニューヨークのスタジオ録音のものです。もはや評価の定まった演奏であろうとは思うものの、改めて聴いてみれば圧巻の一言。確信に満ちた響きと圧倒的な凄みには返す言葉がありません。

それにしてもリヒテルのピアノを響きの深さといったら! 余韻の持つ美しさ、決して粗野にならない強靭さ。音に込められた意味が、音楽でしか表現できない感情が、ここには詰まっています。

ファジル・サイの演奏では経過句に過ぎなかった第2楽章が、かくも優しく染み入るような深さで表現されてしまっては完敗です。中盤の早いパッセージ部では思い出と哀しみの華が散り乱れるかのようで痺れてしまいます。

第3楽章であっても、あくまでも微妙な起伏と激しさを高度にコントロールしながら、早い中にも響きを込めます。

圧倒的名演というものは、何度も聴いていられるものではありません。救いなく渦巻きながら疾駆する絶望と哀しみ、プレストでの自虐と諧謔の後の凄まじさ。嗚呼・・・もはや論評不能。

2006年8月4日金曜日

ベートーベン:ピアノ・ソナタ23番「熱情」/ファジル・サイ




    ベートーベン
  1. ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調 o.57『熱情』
  2. ピアノ・ソナタ第21番ハ長調 o.53『ワルトシュタイン』
  3. ピアノ・ソナタ第17番ニ短調 o.31-2『テンペスト』
  • ファジル・サイ(p)
  • 2005年6月 シオン(スイス)、ティボール・ヴァルガ・スタジオ
  • AVCL25092

ファジル・サイが「熱情」を弾くとどうなるか。いくつかのCDレビュ読み予想はしていたものの、この演奏はそれをはるかに上回る、凄い。いや正統なピアニストやベートーベン好きからは否定される演奏であるかも知れません。しかし、私は激烈にこの演奏を好み、何度も何度も繰り返し聴いています。

ファジル・サイはうなり声さえ上げながら、第1楽章から猛然としたスピードで突き進みます。第2楽章に入ってもテンションは少しも緩むことはありません。

そこかしこに聴こえるサイのうなり声。ピアニストのうなり声が録音されている演奏は少なくはありません。あのポリーニの「熱情」しかりです。しかしファジル・サイのそれはもはや猛獣の咆哮。内部のあふれるばかりの感情が抑えきれずに爆発し、溢れ、奔流する。勢いにまかせてはいますが、テクニックは抜群でピアノの粒も際立ち、ただでさえ起伏の大きい曲の振幅は激しく上下します。

恐ろしいまでの勢いで突入する第3楽章、その速いこと。もはやベートーベンの深みや狂おしいばかりの感情は、轟然とした疾走の中に置き去られます。「華麗なる絶望の曲」。ベートーベンは歓喜を込めたはずではないのに、あまりに壮烈。疾走する絶望。

速すぎて楽譜を逸脱しているとか、コーダで加速できていないという批判もありましょうが、リズムの変化は実際の加速以上に刺激的。鍵盤を駆け回り叩きつける指先の強烈さ。

かように極めて現代的な表現、今の世にして成立する演奏。スポーティーな感覚に身を委ね聴き終わった後には達成感とスッキリ感さえ覚えます。これもベートーベンか。

2006年7月29日土曜日

【本棚】桐山秀樹:ホテル戦争―「外資VS老舗」業界再編の勢力地図


昨今の東京は雨後の筍のように街中にクレーンが林立し、さながらバブルのような建設ラッシュです。さまざまな表情を魅せる超高層ビルの中に、超高級外資系ホテルが鎮座している様を眺めるにつけ、世の中本当に変わってしまったという思いを強くします。

これからオープンするザ・リッツ・カールトン東京(東京ミッドタウン)やザ・ペニンシュラ東京(日比谷)、または既にオープンしたマンダリン・オリエンタル東京(日本橋)などなど、一昔前ならば余程海外旅行通でもなければ名前さえ知らなかった外資系ホテル、このホテル攻勢は一体何なのかと、気になる人は気になることと思います。

桐山氏は東京のホテルを(1)スモール・ラグジュアリーホテル (2)グランドホテル (3)老舗ホテル の三つにカテゴライズし、これから外資を巻き込んだ新たな「ホテル戦争」が始まるのだと主張します。著者自らホテル好きで(仕事の取材でなのか、プライベートかは分かりませんが)いくつもの海外のホテルを泊まり歩いた(らしい経験に基づく)評価は興味深いものです。 

しかし、内容的にはかなり食い足りない。眼の肥えた顧客のホテル紀行文的な領域を超えず、ホテル経営という観点からの詰めは少ない。読みやすいけれど内容が薄いというのは、最近の「売れ筋」新書の特徴そのままです。ホテルの財産が建物のハードにはなく「サービス」というソフトと、それを支える人であるという指摘にも何の目新しさも新しい発見もありません。石ノ森章太郎の「ホテル」を思い出すまでもなく昔から変わらないことです。

私が知りたかったのは、それぞれのホテルの生き残り戦略。すなわち対象とするセグメント(客層)、それに対する収益の見通しなどだったのですが、この点の分析はほとんど皆無。ホテル経営的な分析を考えても、桐山氏の指摘する三つのカテゴリーはほとんど分類の体をなしていません。

もともと東京のホテル客室数は3万5000室ほど、これが一気に4万室まで増えるのだそうです。しかも、宿泊料金は最低でも5~6万円以上の高級ホテルなんです。誰が泊まるのか、こんなに出来て大丈夫なのかとは、業界関係者でなくても知りたいところです。

例えば日本銀行や三越に隣接してオープンしたマンダリン・オリエンタル東京に関する記述。

そのターゲットは日銀、兜町といった東京の中枢部の金融を訪れる、アジアや欧米の金融関係者と外国人投資家たちである。そして、日本橋の超高層ビルの最上階で、高級スパやエステを楽しんだ後、日本橋三越本店やコレド日本橋でショッピングを楽しむ「日本人女性客」をもう1つのターゲットとしている。(「第1章 外資ホテルの持つ「武器」と「戦略」について」P.38)

ちょっと画一的な解釈に感じます。(投資家がわざわざ日本に来て投資行為をするものなのか?) むしろ日本の上場していない企業オーナーや病院経営者(いわゆる日本の富裕層)を加えた方が良いのでしょうか。マンダリンの条件は、他でオープンする高級ホテルでもすげ替えが可能です。「日本橋三越」を「銀座や六本木、六本木の高級ブランド店に、「金融関係者」を「IT企業家」「海外賓客」などと入れ替えればどこのホテルでも通じるコンセプト。

おそらくは、こういう客を満足させる五つ星級の超高級ホテルが東京には今まで存在しなかったということ、更にそのようなホテルに宿泊する層が増加したことが一因なのでしょう。まさに今、開拓すべき新マーケットだったということか。

であるならば宿泊金額 数万円以上出すことを躊躇しないセグメントが、どこに、どの程度居て、彼ら彼女らがどのくらいの頻度でこれらのホテルを利用すると予想し、客単価として幾ら期待するのか。現在のホテル投資が将来の変化を見据えた「適切な投資」であるのか否かについて、もっと深く語って欲しかった。(>新書に期待する方が間違っています!)

それにしても、です。このような超高級ホテルが乱立する世界というのは、以前には想像できませんでした。そういうものが成立するマーケットが育っていなかった。やはりパンドラの箱がここでも開いてしまい、ホテル業界も極めて鮮烈な二極化傾向にあることを示していると考えるのは簡単。二極のどちら側にも入れないホテルや旅館、自らのポジショニングを定め切れないホテルは、本当に消え去るしかないのでしょうか。

2006年7月21日金曜日

【音盤】NAXOS日本作曲家選輯/武満徹:鳥は星形の庭に降りる他

  1. 精霊の庭(1994)[14:40]
  2. ソリチュード・ソノール(1958)[6:23]
    3つの映画音楽(1994/95)
  3. 訓練と休憩の音楽-『ホゼー・トレス』より-[5:02]
  4. 葬送の音楽-『黒い雨』より-[5:10]
  5. ワルツ-『他人の顔』より-[2:20]  
  6. 夢の時(1981)[14:27]
  7. 鳥は星形の庭に降りる(1977)[13:44]
  • マリン・オールソップ(cond)、ボーンマスso.
  • 2005年1月;イギリス、プーレ、ライトハウス・コンサートホール
  • NAXOS 8557760J

NAXOSの日本作曲家選輯から武満徹の盤が発売されています。曲目には晩年の「精霊の庭」が入っていることや、映画音楽からの編曲も収録されていて大変に魅力的な構成です。

早速聴いてみましたが、オールソップ&ボーマンスso.のサウンドはクリアでかつ透明な響きといった印象。武満音楽の美しさを充分に表現していて聴きやすい仕上がりになっているようです。ただ個人的な好みからは、(うまく表現できないのですが)もう少し摩擦感といいますか、ひっかかりのようなものが欲しいところです。「ユニバーサル」な武満像という点では、こういう解釈が正統なのでしょうかね。

《3つの映画音楽》は、武満が手がけた映画音楽から作曲者自らがアレンジして組曲風にまとめたものとのこと。『黒い雨』は武満展で映画を観ている時は「暗いBGMだな」くらいにしか思いませんでしたが、音楽だけ聴いてみると極めて秀逸。『他人の顔』のワルツは諧謔性とデカダンな美しさに舌を巻きます。

演奏機会の少ない「ソリチュード・ソノール」も収録されているので武満ファンには必須な盤でしょう。

それにしても驚くのは(相変わらずの)片山杜秀氏の詳細にして緻密な解説。写真が挿入されているのは最初の頁だけ、下のような調子で11頁にも及ぶ解説はCDのそれを越えています。この解説を入手するだけでも、この盤の価値はあるかと・・・


かねてから敬愛していますおやぢの部屋2からトラックバックを受けました。そちらの解説の方が適切でございます。

2006年7月14日金曜日

【音盤】モーツァルト:フルート協奏曲/エマニュエル・パユ

  1. フルートとハープのための協奏曲ハ長調K.299
  2. フルート協奏曲第1番ト長調K.313
  3. フルート協奏曲第2番ニ長調K.314
  • アバド(cond) パユ(fl) ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  • EMI Classics 56365

アバド率いるベルリンが、1996年にパユと録音したモーツァルト。パユの演奏が気に入るか気に入らないかは別としても、極上のモーツァルトが聴けることに変わりはありません。

「気に入るか気に入らないか」などと、もって回った言い回しをしましたが、パユはかつても、そして今も、世界屈指のフルーティストと言って良いでしょう。技巧面、表現力などの点からもモンクのつけようなどあるはずもありません。

そんな彼ですが、演奏をCDで聴いていますと、平板といいますか、特別なことは何もしていないように聴こえます。フルート協奏曲であるからといって、フルートソロが前面にグイグイと押し出てくるような演奏でも技巧バリバリという演奏でもない、斬新な解釈で驚かすこともしません。ごく自然に、さらりと、優雅にモーツァルトのメロディを奏でます。

たとえばK.313では第2楽章Adagio ma non troppoの気持ちよさといったらありません。肌を撫でる暑くも寒くもない、ごくゆるやかな風のような感じ、あるいは揺り籠でまどろむかのよう。カデンツァはニンフがやってきて夢見心地の唄を唄ってくれる。素敵すぎます。(ここだけではなく、カデンツァは全てが素晴らしいです)

ですからアクの強さや個性的な演奏を求める人などからは、物足りなく感じることがあるかもしれません。あまりに上品すぎるとか、うまいだけだとか・・・。

しかし、これはこれで良いかなと。極上の音楽と極上の演奏に身を任せる至福に浸りきること、私のような素人には、モーツァルトはどう演奏すべきかとか、とか、モーツァルト演奏がいかに難しいかなど、到底理解できません。聴いていて心地よければ、それが全てではないかと思ったりします。

とにもかくにも、パユのモーツァルトには惚れ惚れ。しかも聴いていて落ちつた気持ちにさせてくれる、そんな演奏だと思います。

2006年7月12日水曜日

東京藝術大学:モーツァルト管楽シリーズNo.2 高木綾子/モーツァルト:フルート協奏曲 K.313


高木さんの演奏の感想については、拙HPやブログでも何度も書いていながらにして、実演に接するのはこれが初めてです。


過大なる期待を持って演奏会に望んだのですが、聴き終わった後での感想といえば、完全に惚れ直したというのが正直なところ(ビジュアルぢゃなくて)。




まずステージに上がってきたところから既にオーラを発しています。モノが違うというのは、こういうことなのでしょう。淡いリラかラベンダーを思わせる色のドレスを颯爽と身に纏い、ステージ中央にスクと立った姿からは貫禄さえ感じます。


今年のモーツァルト・イヤーを含めて一体彼女は何回のモーツァルトを演奏しているのでしょう。ソロ活動中のパユがそうであったように、内心少々はウンザリ気味なのか、あるいは毎回気持ちを新たにできるものなのか、演奏者の表層的な内面は聴衆には分かる筈もありません。


オーケストラの前奏が始まると顔つきが一段と怜悧になり、伴奏を軽く口ずさみさえして音楽に没入していきます。その姿はスタート前のアスリートを思わせます。そして音楽に対する集中を一気に高めた後でのフルートの第一声。


��。何という音の掴みでしょう。そのビビッドさときたら、最初の出だしで一撃です。何度も聴きなれたフレーズがクイッとばかりに立ち上がる。生き生きとして快活で敏捷なモーツァルト。


彼女の演奏からは、野性とか高度な運動性能を感じることがあります。例えば、昨年発表したCDの武満徹の《海へ》。ここでも、動物的なカンとさえ思えるような印象の演奏が展開されます。他の武満像とは
少し(いや、かなり?)違う。今回のモーツァルトも学究的モーツァルト解釈の点からどうなのかは、私には全く分かりませんが、これほどにドキドキしながら聴いたモーツァルトも他にはないということも確か。


まるで黒豹を思わせるしなやかさを展開させながら、モーツァルトの世界をゆうゆうと突き抜けてゆく自在さ。1楽章最後のカデンツァは、もう息を呑むばかり。あまりに唖然。壮観、爽快、感歎。駆け抜ける音楽の至福。これがK.313なのか、いやこれこそがK313なのか。彼女の音色と残響だけが奏楽堂空間を満たしたときの音しか存在しない緊張と充実。この演奏を聴くだけでここに来た価値は充分にありました。


横で見守る金教授や藝大の関係者の方々は、どのような思いで彼女の演奏を聴いたのでしょう。カデンツァの最中に金教授がビオラの女性と目配せしているのが印象的でした。


高木さんのブログを読むと久しぶりに興奮した演奏若かりし頃の演奏に近くて、やりすぎたかなぁ~?と書かれていました。私のような聴衆(^^;;には受けは良かったと思いますよ(笑)。



ということで、予想以上の高木ショックのため、次なる高木綾子は8月27日、白寿ホールでの武満徹《ヴォイス》《海へ》に決定です。
(諸事情があって行きそびれました・・・激残念)


東京藝術大学:モーツァルト管楽シリーズNo.2


藝大の奏楽堂で、金昌国さんのレクチャーと幾つかの協奏曲を聴いてきました。



  1. レクチャー「通説に挑む」 モーツァルト フルート曲の真実ほか
  2. ホルン協奏曲 第4番 変ホ長調 K.495(大野雄太=新日本フィル)
  3. フルート協奏曲 第1番 ト長調 K.313(高木綾子=説明不要)
  4. オーボエ協奏曲 第1番 ト長調 K.314(K.285d)(小畑善昭=藝大助教授)
  5. 4つの管楽器のための協奏交響曲 変ホ長調 K.297B


  • 日時:2004年7月8日 13:00 東京藝術大学奏楽堂
  • 指揮:金昌国(藝大教授) 東京藝術大学有志オーケストラ
  • 真田伊都子(ob=日本フィル主席)、村井祐児(cl=藝大助教授)、河村幹子(fg=新日本フィル主席)、守山光三(hrn=藝大教授)



私の目当ては(当然ですが)フルーティストの高木綾子さんであります。高木さんの感想はエントリを改めることとしまして、それ以外の感想を簡単に書いておきましょう。


金教授のレクチャーの持ち時間は2時間。先生もおっしゃっていましたが、語り足りないくらいのようでしたね。フルートとモーツァルトが好きで好きでたまらなくて、「モーツァルトとフルートの関係を裂くような発言には猛然と反発したくなり、膨大な時間を費やして反論のための研究をしてきた」と言う金教授の熱意には脱帽するばかりです。最近手術をなさったとかで、まだ唇などが荒れたままで笛が吹けないのだそうです。そういえば(写真などと比べると)随分痩せたのでしょうか・・・。指揮の途中で指揮棒を落としておられましたが、今後も元気で活躍されることを祈るばかりです。


演奏会の最初は、2005年の日本音コン ホルン部門第1位、まさに日本を代表するホルン奏者 大野氏によるホルン協奏曲。丁寧で柔らかなホルンの音色から奏でられる音楽は、至福の時間を提供してくれました。ホルン奏者がこんなに格好いいものだとは、今の今まで知りませんでした。


オーボエ協奏曲は新日フィルの主席オーボエ奏者でもあった小畑氏による演奏。音楽演奏というものは人柄がにじみ出るものである、とつくづく感じました。表情が少し硬い印象を受けましたが、演奏は非常に温かみのあるもので、とても幸せな気持ちにさせてくれるものでした。カデンツァもさすがに百選練磨のプロですね、聴きごたえのある演奏でした。


最後の《管楽器のための協奏交響曲》は、モーツァルトの真作かどうかアヤシイとされている作品です。モーツァルトを愛する金教授は「モーツァルトの作品と信じて演奏します」とレクチャー最後で述べたように、素人的にはモーツァルトの作品でないと言われても真偽の程は分からない。それでも曲を聴いていますと、他の3曲の生き生きとした音楽に比べて、どこか平板な印象が拭えない印象も受けるのは先入観のなせるわざでしょうか。


��人の管楽器奏者の中では、音色の点においてもオーボエの真田さん(左写真)が群を抜く表現力でしたね。小畑さんのオーボエよりも更に明瞭で明るい音色には惚れ惚れしてしまいました。今でも演奏する姿が脳裏に浮かびます、決してビジュアル面だけでの評価ではありません。


ということで、次は高木綾子さんの演奏の感想に続きます。


2006年7月11日火曜日

ナンダロウ、この若冲フィーバーは?


東京国立博物館の「若冲と江戸絵画展」。確かに意欲的な企画であり、内容も充実しているのですが、ブログでネット上の感想をつらつらと読むにつけ、ちょっと普通の展覧会とは違った「熱気」に包まれているような気がしてなりません。昔から若冲を知っていて熱狂している人、今回始めて知って驚いている人。それぞれが、それぞれの観かたや楽しみ方をしていますが、語る言葉が途切れることがない、と言った感じのブログが多い。


これはいったい、どういうことなのか? と、少し考えてしまうのでした。

今まで異端とされていた伊藤若冲のような「エキセントリック」な画家が、日本にも存在したという新鮮な驚きと裏切り。精神性や哲学性、あるいは寓意や歴史性の薄さ、平明で分かりやすいテーマ。ヲタク的に語ることを尽きさせないテクニックとディテール。プライス氏の、自己の審美眼を信じた自己流のコレクションの確かさ。作品の展示方法への挑戦。数ヶ月も前から公式ブログを立ち上げる周到さ。などなど・・・。


すなわち、今までの権威的な芸術運動や教育に対する無意識のアンチテーゼ、自己の審美眼を信じたという「オレ流」への共感、そして、何よりも分かりやすさ。受ける準備は整ってたといったところでしょうか。


フェルメールや若冲の作品を観て来た後は

言葉が溢れんばかりに湧き出てきて整理がつかないほどです。

要は「簡単」なわけです。



弐代目・青い日記帳のTAKさんの指摘、さすがですね。


「簡単」なことが悪いわけではありません。くだらない考察でした。




伊藤若冲 《猛虎図》部分

東京国立博物館:プライスコレクション 「若冲と江戸絵画」展

東京国立博物館で7月4日に開幕したプライスコレクションを早速観てきました。

この企画は展覧会の公式ブログが立ち上がっていまして、内容的にも非常に充実しているだろうことが予想されました。混雑の中で絵を鑑賞するのはつらいものがありますから9時には発券場に到着。開門と同時に早足で平成館まで急ぎ(チンタラ歩く100人ほどを抜き去って)展覧会場まで一気に駆けつけました。

今回の目玉である若冲と、実はこちらの方が期待の大きかった琳派の絵をまず足早に鑑賞。オシマイまでざっと、どこに何が展示してあるのか確認してから最初に戻り、今度は人の流れに乗りながら、もう一度ゆるりと鑑賞いたしました。

ただ、今回の展覧会は、そんなことまでしなくても「列は止まらずにお進みください」などという莫迦なアナウンスが登場するほどに混雑はしていなかったんですが・・・。


プライスコレクションの充実度とか若冲の魅力については、公式ブログで詳しく説明されていますから、ここでくだくだしく述べる必要がないほどです。しかしこうして、ある程度まとめて若冲に接しますと、若冲は技法の多彩な画家であり、かつ北斎に劣らぬ画狂であったのだなと思います。

有名な《鳥獣花木図屏風》(上図)は横尾忠則を彷彿とさせるポップさとラディカルさを感じずにはいられません。近寄って仔細に観ますと、升目を埋めた色彩からは芸術家に特有の疲れを知らない偏執さを感じますし、離れて絵を概観すれば象の莫迦莫迦しいほどの大きさに圧倒されます。しかし若冲は、そこに諧謔を込めているわけでは微塵もなく、真正面からこの技法と構図に辿りついているようです。

極度に簡略した技法と勢いのある筆致で描かれた《鶴図屏風》の滑稽さと洒脱さを、若い女性は「カワイイ」と感想を漏らします。しかし、当の若冲が鑑賞者に媚を払ったという痕跡は全く感じられません。

そういう若冲のたどり着いた境地が、83歳の時の《鷲図》(左図)です。同じ時期に描かれた《伏見人形図》との技法の差異に驚かされると同時に、鷲の迫力と波頭表現の様式化の対比など見事の一言であり、唸らざるを得ません。

日本画の代表と言えば応挙的なものばかり強調し、印象派は教えても若冲的な様式を教えてこなかった日本の美術教育は、いかがなものかと(一瞬)思ったりします。

第4室での展示は「江戸琳派展」と称し、酒井抱一や鈴木其一の作品を堪能できます。早朝のまだ数人しかいない展示室で、酒井抱一の《十二か月花鳥図》を独占して眺めることのできる至福といったらありません。もう思わず顔はにやけてしまい、ためつすがめつ堪能させてもらいました。

ここの展示空間は少し変わっていて、作品をフラットな照明で鑑賞するのではなく「変化する光」の中で作品の魅力が変ずることを鑑賞者に気付かせるようになっています。プライス氏によると日本画は見えすぎても良くないのだそうです。作品を照らす光により印象が異なってしまうことは、この間の地中美術館で鑑賞したモネについても感じたことです。


琳派ですから魅力的な作品は多いのですが、ここでは《佐野渡図屏風図》(上図)を挙げておきましょう。光の変化によって、キラキラと降る雪が極めて効果的に画面を印象付けてくれます。画像を観てお気づきでしょうか、印刷(レプリカ)となっては「変化して舞い降りる雪」を全く認識することができません(画面中央に「しみ」のようにしか確認できない)。実にこの画の雪の美しさときたら絶品なのですが。

ここに紹介した作品の他にもまだまだ魅力的な作品は山盛りです。長沢芦雪の《幽霊図》や森狙仙の猿も素晴らしいです。鶴や猿や虎などの動物も良いですが美人画だって魅力的です。語りだしたらキリがなくなりそうです。

こうして思い出しても本当に力の入った展覧会だと思います。図録は重いので買わなかったのですが、ちょっと後悔。会期は8月27日までですから、終るまでに、もう一度くらい行こうと考えています。(と思ったけれど、日程を考えると、もうほとんど予定がなさそうな・・・)

2006年7月7日金曜日

【本棚】「説得」の戦略


ビジネスシーンにおいて、相手を説得する場面というのは余りにも多い。私の職種の場合、説得の相手は顧客であったり役人であったり。夢見るデザイナーやガリガリの技術者であることも少なくはありません。社内においては幹部や上司は勿論、他部署の社員、同僚や部下、派遣社員。生産現場においては契約関係にある調達先の社長や営業担当者にはじまり職長から末端作業員まで。考えてみると毎日がネゴシエーションと調整を含めた「説得」に終始していると言っても過言ではないかもしれません。

もっとも私は経営者ではありませんから、株主や投資家を説得する必要はありません。

まあ、とにかく「説明」し「説得」する日常であることは今後も変わらないでしょう。しかし、社会において「説得術」は教えてはくれません。特に日本の場合は、その能力を個人のもって生まれた資質やパーソナリティに帰着させてしまっているような雰囲気があります。本書のまえがきの日本では説得力や交渉力の教育はかなり遅れているという一文を目にし、まさにそうだよなと頷いてしまいました。

内容はハーバード・ビジネス・レビュに掲載された論文記事から、本書のテーマに合う内容のものをセレクトしたものです。従って、同一の筆者が書いているわけではないく、内容の一貫性や分析の深さという点からはイマひとつの感が拭えません。それでも、自分の「説得」というスキルを改めて見直し、交渉やプレゼンテーションの場において、場当たり的に対応するのではなく、ちょっと考えて行動する小さなきっかけくらいは与えてくれそうです。

特に、ミラー・ウィリアムズのCEOと会長による「意思決定スタイル別 ビジネス説得術」は興味深い。これによれば、意志決定者は 1)カリスマ 2)思索者 3)懐疑主義者 4)追随者 5)コントローラ の5種類に分けられるのだそうです。それぞれに合わせた説得術があるのだと。自分や直近の交渉相手がどのタイプに当てはまるのか考えながら読み進めるとリアリティがあって面白いです。

「ストーリーテリング」については、我が社でもそれが得意な重役もいますね。しかし、それも時と場合によりますなあ。そもそも、本書が対象としている「説得」「交渉」のシーンは、知的で高尚な相手が主であるエリートな場面であることを想定しすぎています。我々が接するネゴシエーションの場面は、もっと低俗で泥臭いものが多いのですがね。