基礎て重要だよなと改めて思い、タファネル&ゴーベールだのアルテスの1巻(!)とか昔やった練習曲とか、引っ張り出してきて吹いてみたのだが・・・・
��&Gは音階練習(EJ1~4)のところしかやっていないから、数度離れた音階とか分散和音などに挑戦してみるも見事に跳ね返されてしまう。臨時記号なんてつけている余裕がなく、練習になりやしない。
暗澹たる気分で、アルテスの1巻(なぜ1巻なのかを書き始めると長くなるので書かない)を取り出してみた。指定速度にメトロノームを合わせて吹こうとして愕然! 「なんだなんだ、こんなに速かったのか!」 と叫んでしまう。
アルテス2巻もやるにはやったが考えてみれば速度記号は全く無視してのハナシ。1巻なら出来るかなと思っていたら甘かった!
我が手の中のフルートをぢっと見つめ「ぜんぜん、進歩してないぢゃん・・・・」と、くら~い気持ちになり、愛機ヘインズを箱にしまってしまうのであった(>しまわないで、練習しろよとか思うけど)
時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
2001年9月23日日曜日
2001年9月22日土曜日
ブッシュの報復演説
アメリカは、今回のテロの首謀者をビン・ラディンと特定し、アルカイーダ組織の撲滅を宣言した。実質的な戦線布告である。アルカイーダとそれをかくまうタリバン政権とは、もはや一切の交渉はないという一方的かつ強硬な姿勢だ。議会はほとんど満場一致でブッシュを支持、ABCの世論調査でも国民の90%が報復攻撃を支持しているという。私は、こんなに過激な演説は生まれてはじめて聞いた。こんなことを話す国家主導者が現在生きていることに恐れをなした。
タリバン政権は、「証拠を示せ」というが、アメリカはそれを拒否している。
昨日のテレビ朝日では、「アメリカが(協力各国に)証拠を提示していないのに、日本も協力すると言っていいのか」と久米宏が自民党 阿部氏に問うていた。それに対し「証拠を提示してくれなければ協力しない、というのは通る話ではない」と答えていた。もはや協力が前提だ。
「敵」は状況証拠からアルカイーダなどの国際テロ組織、米国を中心とする西側資本主義社会に攻撃をしかける彼らだ。それを武力を使い「根絶やしに撲滅」するのが目的だ。「Justice will be done!」という超極太のゴシック文字がアメリカの新聞に踊っている。
ちょっと待って欲しい。確かに5000人近い人たちが、それも民間人が、狂気のテロ行為により殺された。でも、そこまで憎しみを持つのはどうしてなんだ。彼らとの対話は、本当にもはやないのか、残されていないのか。テロ組織を撲滅して、新たなテロの芽を生むことにはならないのか。
テロ組織の作ったビデオが放映されていた。彼らは訓練している。肉体的にも、精神的にも。子供達にも「アメリカが悪である」と教育している。
今回は、そういう子供達も「根絶やし」にするつもりなのか? 最終的な勝利は何をもって宣言するのだ? そういうことが提示されない作戦に、やすやすと「協力」という言葉を口にする政治家は誰か、われわれはしっかり覚えておかなくてはならない。これを機に、集団的自衛権とか周辺事態法案などを有利に持っていこうとする人たちを覚えておかなくてはならない。
そして、「自国の主体性に基づいたテロ対策」や「アメリカ追従でない自国の平和的安全保障と国際外交戦略」というテーマで論じる人が誰なのか、見極めなくてはならない。おそらく、私たちの安全保障の将来がかかっている。
いま、日本は湾岸での恥さらしの汚名を挽回しようと、あせっていないだろうか。
タリバン政権は、「証拠を示せ」というが、アメリカはそれを拒否している。
昨日のテレビ朝日では、「アメリカが(協力各国に)証拠を提示していないのに、日本も協力すると言っていいのか」と久米宏が自民党 阿部氏に問うていた。それに対し「証拠を提示してくれなければ協力しない、というのは通る話ではない」と答えていた。もはや協力が前提だ。
「敵」は状況証拠からアルカイーダなどの国際テロ組織、米国を中心とする西側資本主義社会に攻撃をしかける彼らだ。それを武力を使い「根絶やしに撲滅」するのが目的だ。「Justice will be done!」という超極太のゴシック文字がアメリカの新聞に踊っている。
ちょっと待って欲しい。確かに5000人近い人たちが、それも民間人が、狂気のテロ行為により殺された。でも、そこまで憎しみを持つのはどうしてなんだ。彼らとの対話は、本当にもはやないのか、残されていないのか。テロ組織を撲滅して、新たなテロの芽を生むことにはならないのか。
テロ組織の作ったビデオが放映されていた。彼らは訓練している。肉体的にも、精神的にも。子供達にも「アメリカが悪である」と教育している。
今回は、そういう子供達も「根絶やし」にするつもりなのか? 最終的な勝利は何をもって宣言するのだ? そういうことが提示されない作戦に、やすやすと「協力」という言葉を口にする政治家は誰か、われわれはしっかり覚えておかなくてはならない。これを機に、集団的自衛権とか周辺事態法案などを有利に持っていこうとする人たちを覚えておかなくてはならない。
そして、「自国の主体性に基づいたテロ対策」や「アメリカ追従でない自国の平和的安全保障と国際外交戦略」というテーマで論じる人が誰なのか、見極めなくてはならない。おそらく、私たちの安全保障の将来がかかっている。
いま、日本は湾岸での恥さらしの汚名を挽回しようと、あせっていないだろうか。
日本フィルハーモニー交響楽団 北海道定期を聴く
日時:2001年9月21日
場所:札幌コンサートホール(KITARA)
グスタフ・マーラー:歌曲集《さすらう若人の歌》
グスタフ・マーラー:交響曲 第1番 ニ長調 「巨人」
指揮:井上 道義
ソプラノ:下原 千恵子
演奏:日本フィルハーモニー交響楽団
日フィルの第25回北海道定期札幌演奏会に行ってきた。この前の札響の時と同じような(もっとひどい)悪天候。偶然今日の演奏会のあることを知り、仕事を途中で切り上げ駆けつけた。天気のせいなのか客の入りは7割くらいといったところだろうか。
日フィルも井上さんの指揮も聴くのが始めてであるので期待をもってでかけた。演奏は、ソプラノの下原さんもすばらしく、演奏の出だしをあでやかに彩ってくれた。ソプラノの声の凄さに改めて感心。すばらしい。もっと聴きたかったが、演奏時間16分というのはちょっと短すぎなかったろうか。
休憩をはさんでの「巨人」は、これもダイナミックにして若々しさを感じる演奏だった。ラストへ向けての盛り上げも素晴らしく、コーダにとてつもないクライマックスを用意するあたり、井上さんはけっこうショーマンだなと思った。
金管群を聴くと、これは札響よりもうまいと感じたのだが、このあいだの札響の弦セクションの音を思い出すと、比較することに意味があるのかは不明だが、札響の弦てすごく美しいのだと思った。日フィルが悪いというのではない、誤解しないでもらいたい。
ただ、今週は体力的にも精神的にも疲れていたせいか、最後まで演奏が体に浸透してくれなかった。何度か、鳥肌立つような部分もあったが、心から震撼できなかった。ブラボーの声はあちらこちらからあがっていただけに、残念に思った。
こういう重量級のプログラムの後にはアンコールはいらないのだが、会場の誕生日の人に向けて「ハッピバースデー・ボレロ版」というものを演奏した。これは、井上さんがよくやるものなのかは分からないけど、洒落ていて素晴らしかった。ここでやっと緊張が解けた感じ。
本当はもう少し細かなレヴュを書きたいが、適うだろうか?
蛇足になるが、今日は2階CB席7列という絶好のポジション(当日券)。斜め前で、女性が演奏にあわせて体を動かしたり、ティンパニをたたく動作を繰り返していたけど、女性でもいるんだなあ、そういう人。
場所:札幌コンサートホール(KITARA)
グスタフ・マーラー:歌曲集《さすらう若人の歌》
グスタフ・マーラー:交響曲 第1番 ニ長調 「巨人」
指揮:井上 道義
ソプラノ:下原 千恵子
演奏:日本フィルハーモニー交響楽団
日フィルの第25回北海道定期札幌演奏会に行ってきた。この前の札響の時と同じような(もっとひどい)悪天候。偶然今日の演奏会のあることを知り、仕事を途中で切り上げ駆けつけた。天気のせいなのか客の入りは7割くらいといったところだろうか。
日フィルも井上さんの指揮も聴くのが始めてであるので期待をもってでかけた。演奏は、ソプラノの下原さんもすばらしく、演奏の出だしをあでやかに彩ってくれた。ソプラノの声の凄さに改めて感心。すばらしい。もっと聴きたかったが、演奏時間16分というのはちょっと短すぎなかったろうか。
休憩をはさんでの「巨人」は、これもダイナミックにして若々しさを感じる演奏だった。ラストへ向けての盛り上げも素晴らしく、コーダにとてつもないクライマックスを用意するあたり、井上さんはけっこうショーマンだなと思った。
金管群を聴くと、これは札響よりもうまいと感じたのだが、このあいだの札響の弦セクションの音を思い出すと、比較することに意味があるのかは不明だが、札響の弦てすごく美しいのだと思った。日フィルが悪いというのではない、誤解しないでもらいたい。
ただ、今週は体力的にも精神的にも疲れていたせいか、最後まで演奏が体に浸透してくれなかった。何度か、鳥肌立つような部分もあったが、心から震撼できなかった。ブラボーの声はあちらこちらからあがっていただけに、残念に思った。
こういう重量級のプログラムの後にはアンコールはいらないのだが、会場の誕生日の人に向けて「ハッピバースデー・ボレロ版」というものを演奏した。これは、井上さんがよくやるものなのかは分からないけど、洒落ていて素晴らしかった。ここでやっと緊張が解けた感じ。
本当はもう少し細かなレヴュを書きたいが、適うだろうか?
蛇足になるが、今日は2階CB席7列という絶好のポジション(当日券)。斜め前で、女性が演奏にあわせて体を動かしたり、ティンパニをたたく動作を繰り返していたけど、女性でもいるんだなあ、そういう人。
2001年9月16日日曜日
いくつもの世界
ここまで書いてきてひとつ気づいたことがある。私の場合だが、中東やポスニア紛争の報道に接してもここまで暗澹たる気分に陥ることはないと思う。
なぜか。それは、彼らの紛争を「別の世界の出来事」ととらえているからではなかろうか。中東問題やアラブ諸国も日本から見ると「別世界である」。
逆に、アメリカを敵対視するアラブ諸国やビン・ラディンも「西側世界が我々の世界を抑圧している」という見方かもしれない。彼らとは別の世界にわれわれは住んでいるのだ。
ふたつある(あるいは複数)の、そのひとつの中にしか、われわれは属していない。他者の痛みなど決して分からないのかもしれない。
他者の痛みなど決して分からない国に、他者の扮装の仲裁などどうしてできようか。人道的には正しいと思ったとしてもだ。だとすると、対米追従型の路線を貫くしかないのだろうか。今の私にはわからない。
なぜか。それは、彼らの紛争を「別の世界の出来事」ととらえているからではなかろうか。中東問題やアラブ諸国も日本から見ると「別世界である」。
逆に、アメリカを敵対視するアラブ諸国やビン・ラディンも「西側世界が我々の世界を抑圧している」という見方かもしれない。彼らとは別の世界にわれわれは住んでいるのだ。
ふたつある(あるいは複数)の、そのひとつの中にしか、われわれは属していない。他者の痛みなど決して分からないのかもしれない。
他者の痛みなど決して分からない国に、他者の扮装の仲裁などどうしてできようか。人道的には正しいと思ったとしてもだ。だとすると、対米追従型の路線を貫くしかないのだろうか。今の私にはわからない。
2001年9月15日土曜日
テロを境として
テロの報に接し、謹慎しているわけにも、不謹慎な言動を取ることもできない。では、何ができるのか、ということになる。
��機目がWTCに突入したのをNHKの生放送で接し「これはテロだ、大変なことになるぞ」と思った。数十分後に国防総省へのテロの報を聞き、もはや日本も傍観者ではいられず、我々の生活にも大きな影響を及ぼす重大なる局面を迎えるという予感を感じた。
傍観者ではいられない、ということは、何をすることなのだろうか。
昨日の朝日新聞の「視点」で小田実が書いていた。こういうときこそ、平和憲法を有する日本のするべき立場があると。米国の武力をもった報復攻撃に協力支援することではなく、中東問題の解決に向けての尽力をするべきなのだと。それが真の「構造改革」ではないかと。
いかにも小田実的な意見である。しかし、世の動きは米国追従である。小泉首相は「いかなる協力も惜しまない」という主旨の発言をしているが、それは、自衛隊を動かし後方支援するということなのか。あるいはもっと踏み込むのか。もはや人は出さずに金だけ出すということは許されないだろう。
テロを境として、今までの防衛論の根底からなし崩し的に変革する恐れさえはらんでいるように思える。タカ派的な意見がこれから、巾をきかせるだろう。いままで防衛論について先送りしてきただけに、これからの成り行きが不安である。
こういう風な世の中の気配を感じると、音楽を聴きいたり、日々家族と何気ない生活をしているというだけのことが、どんなに幸福なことか、ということを身にしみて感じるのである。
��機目がWTCに突入したのをNHKの生放送で接し「これはテロだ、大変なことになるぞ」と思った。数十分後に国防総省へのテロの報を聞き、もはや日本も傍観者ではいられず、我々の生活にも大きな影響を及ぼす重大なる局面を迎えるという予感を感じた。
傍観者ではいられない、ということは、何をすることなのだろうか。
昨日の朝日新聞の「視点」で小田実が書いていた。こういうときこそ、平和憲法を有する日本のするべき立場があると。米国の武力をもった報復攻撃に協力支援することではなく、中東問題の解決に向けての尽力をするべきなのだと。それが真の「構造改革」ではないかと。
いかにも小田実的な意見である。しかし、世の動きは米国追従である。小泉首相は「いかなる協力も惜しまない」という主旨の発言をしているが、それは、自衛隊を動かし後方支援するということなのか。あるいはもっと踏み込むのか。もはや人は出さずに金だけ出すということは許されないだろう。
テロを境として、今までの防衛論の根底からなし崩し的に変革する恐れさえはらんでいるように思える。タカ派的な意見がこれから、巾をきかせるだろう。いままで防衛論について先送りしてきただけに、これからの成り行きが不安である。
こういう風な世の中の気配を感じると、音楽を聴きいたり、日々家族と何気ない生活をしているというだけのことが、どんなに幸福なことか、ということを身にしみて感じるのである。
2001年9月14日金曜日
蝕まれる心
有事という異常事態が、いかに人間としての人間らしい感情を阻害してしまうものかということを、ここ数日思い知らされている。
阪神大震災のときもそうだった。仕事の関係で震災後、神戸入りし二日ほど現地調査を行った。壊滅的な都市状況がそこに展開されているにも関わらず、隣町の大阪は何も変らない日常がそこにあったことに不思議な違和感を感じた。たった電車で数十分の距離(分断されていたのでバスや徒歩が混じるが)に厳然とした不連続線が存在していた。
今回も同じような断層を感じる。まさに戦場状態のNYの一地域、大リーグや証券取引が停止しているとは言っても、世界は日常を過ぎることを止めはしない。
しかし、私たちの心にはどこか浮かないしこりが深く沈んでしまったのではないだろうか。TVでふざけた番組が流れると、あるいは、スポーツ番組が放映されていると、違和感を感じてチャンネルを回してしまう。本当はそんなことをする必要はないのに。不謹慎というと言い過ぎだろうが、心にブレーキがかかるのを止めることができない。
阪神大震災のときもそうだった。仕事の関係で震災後、神戸入りし二日ほど現地調査を行った。壊滅的な都市状況がそこに展開されているにも関わらず、隣町の大阪は何も変らない日常がそこにあったことに不思議な違和感を感じた。たった電車で数十分の距離(分断されていたのでバスや徒歩が混じるが)に厳然とした不連続線が存在していた。
今回も同じような断層を感じる。まさに戦場状態のNYの一地域、大リーグや証券取引が停止しているとは言っても、世界は日常を過ぎることを止めはしない。
しかし、私たちの心にはどこか浮かないしこりが深く沈んでしまったのではないだろうか。TVでふざけた番組が流れると、あるいは、スポーツ番組が放映されていると、違和感を感じてチャンネルを回してしまう。本当はそんなことをする必要はないのに。不謹慎というと言い過ぎだろうが、心にブレーキがかかるのを止めることができない。
2001年9月13日木曜日
文化とか芸術って
文化とか芸術は、人間にとって欠くことのできないものなのだろうか。音楽に限らず、絵画や文学、エンターテイメントまでを含めてもいい。サブカルチャーという少々古い言葉を持ち出すまでもなく、この手のものは容易にいくつも列挙できる。
いざ有事となったとき、これらの活動は著しく制限されるだろうと思っていた。「今はそういう場合じゃないから、国民一丸となって・・・」という具合に扇動されるのだと。でも、米国へ同時多発テロの報に接し、扇動されるのではないと思い知った。個人がそういう気になれなくなってしまうのだ。理不尽な暴力により、そんな気にならなくなってしまう。
身内に不幸があって何もする気になれない、ということはある。そこまで極端ではなくとも、仕事が気になり、音楽なんて聴いてられない、という場合もある。でも、有事のときの感情というのは全く別物なのではないか、という気がして慄然としてしまった。
芸術や文化は平和でなければ育たないというものではない。過去の歴史において、戦争中でも芸術活動というのは存続しているし、むしろ利用されている場合もあることは枚挙にいとまがない。
しかし、恐怖や驚愕は生命の存続に対するシグナルであるため人間の中で最上位に位置しているらしい。トマス・ハリスの「ハンニバル」という小説の中で、「脳の中で味覚は憐憫の上位を占めている」というコメントがあるが、芸術はいったいどこに位置しているのだろうか。
いざ有事となったとき、これらの活動は著しく制限されるだろうと思っていた。「今はそういう場合じゃないから、国民一丸となって・・・」という具合に扇動されるのだと。でも、米国へ同時多発テロの報に接し、扇動されるのではないと思い知った。個人がそういう気になれなくなってしまうのだ。理不尽な暴力により、そんな気にならなくなってしまう。
身内に不幸があって何もする気になれない、ということはある。そこまで極端ではなくとも、仕事が気になり、音楽なんて聴いてられない、という場合もある。でも、有事のときの感情というのは全く別物なのではないか、という気がして慄然としてしまった。
芸術や文化は平和でなければ育たないというものではない。過去の歴史において、戦争中でも芸術活動というのは存続しているし、むしろ利用されている場合もあることは枚挙にいとまがない。
しかし、恐怖や驚愕は生命の存続に対するシグナルであるため人間の中で最上位に位置しているらしい。トマス・ハリスの「ハンニバル」という小説の中で、「脳の中で味覚は憐憫の上位を占めている」というコメントがあるが、芸術はいったいどこに位置しているのだろうか。
2001年9月12日水曜日
テロの映像を見て
世界貿易センターに航空機が突入するシーンを、まるで映画のロケのように多方向のカメラアングルで、いやというほど繰返し放映している。また、本当に信じがたいことに、その400mもある世界有数の超高層ビルがダイナマイトでのビル破壊を見るかのような具合に崩壊するシーンを見る。
映像を見ながら慄然とするとともに、「映画を観ているかのような」非現実感を伴い、大いなるカタストロフにカタルシスを感じている自分にふと気づかされる。そう、これはまだ自分の身に起こった悲劇ではないから、傍観者たれるのだ。
このような映像(表現)に慣れすぎているが故に「映画的」と思う心を止めることができない、不謹慎と思ってもだ。心の中に固いしこりとともに、大いなる断層を感じながらニュース映像から眼をそらすことができない。
テロの映像や写真は、間違いなく21世紀の一頁に(世界が21世紀まで存続していれば)残るだけのニュースバリューを持ちつづけるだろう。
しかし、この映像の持つ恐怖は心の奥に澱のように沈んでしまったのではなかろうか。仕事をしながら、ふと窓の外をよぎる影に気づき、あるいは不穏なジェット機のエンジンのような音を耳にし、不安気に窓の外に視線を泳がせる自分に、今日気づくのである。まさか・・・・と、一瞬後に自分を笑い飛ばしながらも。
映像を見ながら慄然とするとともに、「映画を観ているかのような」非現実感を伴い、大いなるカタストロフにカタルシスを感じている自分にふと気づかされる。そう、これはまだ自分の身に起こった悲劇ではないから、傍観者たれるのだ。
このような映像(表現)に慣れすぎているが故に「映画的」と思う心を止めることができない、不謹慎と思ってもだ。心の中に固いしこりとともに、大いなる断層を感じながらニュース映像から眼をそらすことができない。
テロの映像や写真は、間違いなく21世紀の一頁に(世界が21世紀まで存続していれば)残るだけのニュースバリューを持ちつづけるだろう。
しかし、この映像の持つ恐怖は心の奥に澱のように沈んでしまったのではなかろうか。仕事をしながら、ふと窓の外をよぎる影に気づき、あるいは不穏なジェット機のエンジンのような音を耳にし、不安気に窓の外に視線を泳がせる自分に、今日気づくのである。まさか・・・・と、一瞬後に自分を笑い飛ばしながらも。
2001年9月9日日曜日
尾高忠明指揮 札幌交響楽団のシベリウス
札幌交響楽団 第438回定期演奏会
日時:2001年9月9日
場所:札幌コンサートホール KITARA
指揮:尾高 忠明
ヴァイオリン:竹澤 恭子
シベリウス 交響曲第1番 作品35(没後50周年記念
シベリウス ヴァイオリン協奏曲 ニ単調 作品47
シベリウス 交響曲第2番 ニ長調 作品43
最初の尾高忠明(1911~51)は、指揮者・尾高尚忠の父の作品である。彼37歳のときの作品。解説には「札幌交響楽団初演曲」とある。
どんな曲かと思いきや、最初から打楽器などの激しい出だしでかましてくれる。始終緊張感に富んだ曲だが、現代音楽というような難解さは全くない。はじめて聴く曲だが心の中に徐々に入ってくる。激しく荒い部分や、暗く不安な部分があるものの、最後は希望が見えるかのような前向きな感情を残して音楽は終わる。
結構、かっこいい曲であるという印象。「通俗的」という評ももしかしたらあるかもしれないが、私としては好きである。聞くところによると、尾高のフルート協奏曲は指揮者の尾高忠明が手を入れているが、この曲は忠明の手によるものらしい(ある方からのメールで、教えていただきました)。こうなるとフルート協奏曲も聴きたくなってくる。
さて次は竹澤さんのシベリウスのVnコンチェルト。実は数年前にサントリーホールで、C・デイヴィス率いるロンドン響で、同じプログラムを彼女のヴァイオリンで聴いたことがある。そのときは、ロンドン響の音に負けてしまっているような感じで、音が届いてこない印象があった。そのため、若干不安をもち演奏にのぞんだ(失礼)。
しかし、そんな杞憂は最初の震えるような出だしの音で打ち消されたてしまった。そして、のっけから凄い音で聴かせてくれるのだ、オイオイというぐらい響いてくる。ヴァイオリンの音って、こんなに美しかったかしらと改めて感歎するほどだ。
私の席はRAだったのだだが、あの小さな楽器と小さな体かを用いて、それこそ全身を楽器とするかのような共鳴感を感じた。ぐいぐいと迫ってくる迫力は見事であった。
ひとつ気になったのは、札響の演奏である。竹澤さんの豊穣にして情感あふれる演奏とは少し一線を画した音つくりのように思えたのだ。ミスマッチというわけではない、しかし、最後まで何かしっくりこない違和感を感じたのは何故だろうか。最初に違和感を覚えてしまうと、それを打ち消そうと思っても、演奏に没頭でなくなってしまう、悪い癖だ。このように感じるのは、ごく個人的な印象でしかなく、「分かってね-な」と言われかねないのだが・・・
竹澤さんは、リサイタルなどあれば是非聴きたいと思わせてくれた、今までのマイナス印象払拭で満足というところ。
最後のシベリウスの2番、これは熱演であった。改めて思うが札響はヴァイオリンをはじめとし、弦楽器の音色の素晴らしさは眼をみはる。なんと流麗に、そしてあでやかに奏でることであろうか。チェロやコントラバスの支えもしっかりしており、特にコントラバスの力の入り方は見ていてあわ立つ思いさえした。
打楽器(といってもシベ2では真貝 さんのティンパニだけだが)も、打つところはしっかり打ち、つぼを得ている(なんて書いたら殴られそう、失礼!)。
金管群には若干の不安が残るものの、ホルンも立派であったしトランペットもしっかりとオケに溶け込み壮大なるドラマの重要なる役割を果たしてくれ非常に満足である。ただ、ときどき異様に耳につくチューバの響きには、首を傾げることもあったのだが、RA席のせいだろうか・・・
木管というのはオケの音色を左右する重要なセクションであると思う。特にオーボエとフルートは特にそうだと思う。このふたつについては、札響の音色はどちらかというとふくよかで豊かな音色であると感じた。その点がシベリウスとして期待する音色感と合致していたか、というと、ワタシの好みとしてはいまひとつだ。しかし、体勢に影響するような問題ではない。瑣末的な感想だ。
尾高さんの音作りなのか、それとも札響のオーケストレーションなのか、今回の演奏からは、細部の組立てが浮き上がるような構成美と対比感を強く感じた。もっとも、すべからく生演奏というのはクリアなものなのであり、いつもいい加減にCDばかり聴いているから、たまに生を聴くとそういう風に感じてしまうのかもしれない。これは、多くの演奏(札響を含め)に接していないだけに、なんとも言えない。
しかし、そのようなことを前提としつつも、主と従の対立関係というものが見事に浮き彫りにされ、音響的な立体感を感じさせる演奏であると感じた。また、音響的には厚みよりもお互いの共鳴感が際立ち、フライパンの中ではじけるポップコーンのような粒立ちを感じた。(比喩がなっとらーーーーーん)
シベリウスの特集をしているせいで、最近この曲は何度も聴いていた。それにもかかわらず、具体的にその個所を指摘することは今となってはできないが、何度も「お、こんな表現だったか」と思わせる部分に遭遇し、眼を見張り耳をそばだてた。
一方で、これを若干オーケストラとしてのまとまりに欠ける、という具合に解釈することもできるのかもしれない。例えば、突出して聴こえたチューバの響きにしても、どちらとも取れるかもしれない。クラシック初級者の私には、それらの点については、指揮者と団員の意図はわからない。
ただ、このように非常に興味深い演奏であり、熱のこもった演奏(と聴こえる)であるにも関わらず、非常に清冽なる印象を受けるのはどうしてなのだろうか、尾高のシベリウスに対する解釈なのか、札響の特質なのか。アッチェレランドやリタルダンドも多い(ように感じた)、強弱の巾も大きい、しかしそこから表現される世界は透明なる大容量の水が堰をきってあふれるかのような盛り上がり方なのだ。
そして、もうひとつ、シベリウスの音楽に私が始終聴いてきた「上からあふれてくる光」というものを感じさせてくれる演奏であることには、大きな喜びを感じた。この光とは、尾高の交響曲でもその裏に感じたが、「希望」というものを思うのだ。ラストのコーダに向けての部分は、やりすぎるといやらしくなるのだが、抑制の中に素晴らしい盛り上げを聴かせてくれ、個人的には心が震撼するのを止めることができなかった。
シベ2といえば人気の名曲だが、覚えやすいフレーズの間にはさまれた部分が、美しいくも複雑な動きをしていて驚かされる。霊感に満ちた音楽であることにも気づかされたのである。
そういうわけで、非常に満足のいく演奏であったのだが、冷静に考えればオケを聴くのは実に半年振りで、過剰に反応してしまっただけなのかもしれない。演奏会に行かれた皆さんは、どのように聴かれただろうか。
日時:2001年9月9日
場所:札幌コンサートホール KITARA
指揮:尾高 忠明
ヴァイオリン:竹澤 恭子
シベリウス 交響曲第1番 作品35(没後50周年記念
シベリウス ヴァイオリン協奏曲 ニ単調 作品47
シベリウス 交響曲第2番 ニ長調 作品43
最初の尾高忠明(1911~51)は、指揮者・尾高尚忠の父の作品である。彼37歳のときの作品。解説には「札幌交響楽団初演曲」とある。
どんな曲かと思いきや、最初から打楽器などの激しい出だしでかましてくれる。始終緊張感に富んだ曲だが、現代音楽というような難解さは全くない。はじめて聴く曲だが心の中に徐々に入ってくる。激しく荒い部分や、暗く不安な部分があるものの、最後は希望が見えるかのような前向きな感情を残して音楽は終わる。
結構、かっこいい曲であるという印象。「通俗的」という評ももしかしたらあるかもしれないが、私としては好きである。聞くところによると、尾高のフルート協奏曲は指揮者の尾高忠明が手を入れているが、この曲は忠明の手によるものらしい(ある方からのメールで、教えていただきました)。こうなるとフルート協奏曲も聴きたくなってくる。
さて次は竹澤さんのシベリウスのVnコンチェルト。実は数年前にサントリーホールで、C・デイヴィス率いるロンドン響で、同じプログラムを彼女のヴァイオリンで聴いたことがある。そのときは、ロンドン響の音に負けてしまっているような感じで、音が届いてこない印象があった。そのため、若干不安をもち演奏にのぞんだ(失礼)。
しかし、そんな杞憂は最初の震えるような出だしの音で打ち消されたてしまった。そして、のっけから凄い音で聴かせてくれるのだ、オイオイというぐらい響いてくる。ヴァイオリンの音って、こんなに美しかったかしらと改めて感歎するほどだ。
私の席はRAだったのだだが、あの小さな楽器と小さな体かを用いて、それこそ全身を楽器とするかのような共鳴感を感じた。ぐいぐいと迫ってくる迫力は見事であった。
ひとつ気になったのは、札響の演奏である。竹澤さんの豊穣にして情感あふれる演奏とは少し一線を画した音つくりのように思えたのだ。ミスマッチというわけではない、しかし、最後まで何かしっくりこない違和感を感じたのは何故だろうか。最初に違和感を覚えてしまうと、それを打ち消そうと思っても、演奏に没頭でなくなってしまう、悪い癖だ。このように感じるのは、ごく個人的な印象でしかなく、「分かってね-な」と言われかねないのだが・・・
竹澤さんは、リサイタルなどあれば是非聴きたいと思わせてくれた、今までのマイナス印象払拭で満足というところ。
最後のシベリウスの2番、これは熱演であった。改めて思うが札響はヴァイオリンをはじめとし、弦楽器の音色の素晴らしさは眼をみはる。なんと流麗に、そしてあでやかに奏でることであろうか。チェロやコントラバスの支えもしっかりしており、特にコントラバスの力の入り方は見ていてあわ立つ思いさえした。
打楽器(といってもシベ2では真貝 さんのティンパニだけだが)も、打つところはしっかり打ち、つぼを得ている(なんて書いたら殴られそう、失礼!)。
金管群には若干の不安が残るものの、ホルンも立派であったしトランペットもしっかりとオケに溶け込み壮大なるドラマの重要なる役割を果たしてくれ非常に満足である。ただ、ときどき異様に耳につくチューバの響きには、首を傾げることもあったのだが、RA席のせいだろうか・・・
木管というのはオケの音色を左右する重要なセクションであると思う。特にオーボエとフルートは特にそうだと思う。このふたつについては、札響の音色はどちらかというとふくよかで豊かな音色であると感じた。その点がシベリウスとして期待する音色感と合致していたか、というと、ワタシの好みとしてはいまひとつだ。しかし、体勢に影響するような問題ではない。瑣末的な感想だ。
尾高さんの音作りなのか、それとも札響のオーケストレーションなのか、今回の演奏からは、細部の組立てが浮き上がるような構成美と対比感を強く感じた。もっとも、すべからく生演奏というのはクリアなものなのであり、いつもいい加減にCDばかり聴いているから、たまに生を聴くとそういう風に感じてしまうのかもしれない。これは、多くの演奏(札響を含め)に接していないだけに、なんとも言えない。
しかし、そのようなことを前提としつつも、主と従の対立関係というものが見事に浮き彫りにされ、音響的な立体感を感じさせる演奏であると感じた。また、音響的には厚みよりもお互いの共鳴感が際立ち、フライパンの中ではじけるポップコーンのような粒立ちを感じた。(比喩がなっとらーーーーーん)
シベリウスの特集をしているせいで、最近この曲は何度も聴いていた。それにもかかわらず、具体的にその個所を指摘することは今となってはできないが、何度も「お、こんな表現だったか」と思わせる部分に遭遇し、眼を見張り耳をそばだてた。
一方で、これを若干オーケストラとしてのまとまりに欠ける、という具合に解釈することもできるのかもしれない。例えば、突出して聴こえたチューバの響きにしても、どちらとも取れるかもしれない。クラシック初級者の私には、それらの点については、指揮者と団員の意図はわからない。
ただ、このように非常に興味深い演奏であり、熱のこもった演奏(と聴こえる)であるにも関わらず、非常に清冽なる印象を受けるのはどうしてなのだろうか、尾高のシベリウスに対する解釈なのか、札響の特質なのか。アッチェレランドやリタルダンドも多い(ように感じた)、強弱の巾も大きい、しかしそこから表現される世界は透明なる大容量の水が堰をきってあふれるかのような盛り上がり方なのだ。
そして、もうひとつ、シベリウスの音楽に私が始終聴いてきた「上からあふれてくる光」というものを感じさせてくれる演奏であることには、大きな喜びを感じた。この光とは、尾高の交響曲でもその裏に感じたが、「希望」というものを思うのだ。ラストのコーダに向けての部分は、やりすぎるといやらしくなるのだが、抑制の中に素晴らしい盛り上げを聴かせてくれ、個人的には心が震撼するのを止めることができなかった。
シベ2といえば人気の名曲だが、覚えやすいフレーズの間にはさまれた部分が、美しいくも複雑な動きをしていて驚かされる。霊感に満ちた音楽であることにも気づかされたのである。
そういうわけで、非常に満足のいく演奏であったのだが、冷静に考えればオケを聴くのは実に半年振りで、過剰に反応してしまっただけなのかもしれない。演奏会に行かれた皆さんは、どのように聴かれただろうか。
税金返せ
今日の朝日新聞の「声」のところで、40代の主婦の意見が寄せられていた。外務省の税金詐取事件に心底怒った声だ。
いわく、自分たちは少しでも安い商品を買うために、安売りの情報を仕入れ苦労しているというのに何たることか、消費税分をレシートをもって税務署に押しかけて返してもらわないと気がすまない、という内容だ。
先に私は、外務省の詐欺事件を日本人に蔓延している公私の境界のあいまいさという観点から書いたが、この投書を読んで、いかに企業的な観点にアタマが毒されているかということに気付かされた。
そうだよな、冷静に考えれば「税金返せ」といって暴動起こしたっていいくらいだよな。
いわく、自分たちは少しでも安い商品を買うために、安売りの情報を仕入れ苦労しているというのに何たることか、消費税分をレシートをもって税務署に押しかけて返してもらわないと気がすまない、という内容だ。
先に私は、外務省の詐欺事件を日本人に蔓延している公私の境界のあいまいさという観点から書いたが、この投書を読んで、いかに企業的な観点にアタマが毒されているかということに気付かされた。
そうだよな、冷静に考えれば「税金返せ」といって暴動起こしたっていいくらいだよな。
【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第5番
指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 録音:Dec 1996 FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
ベルグルンド&ヨーロッパ室内管の演奏の素晴らしさは今まで何度も述べてきた。シベリウスの音楽の特徴とも言える抑制され余分なものを殺ぎ落とすように形作られるあり方や簡素さ、それでいて曲の内部に包括する複雑さや襞など、彼らの演奏を聴くと新しい音楽に接するかのように新鮮に響いてくる。
この演奏も、派手さや華麗さなどを全面に出すことなく淡々と演奏しているのだが、しかしどうだろう、雲の合間から幾重にも重なる光の筋とともに降り注ぐきらびやかな光を浴びるかのような演奏だ。表現として比喩を用いることの不適切さを承知しながらも敢えて書くとすると(ケーゲルの4番でも書いたように)、上からバーと降り注ぐ光のようなイメージなのだ。しかも非常に硬質な煌きをもった光だ。
上方から降り注ぐ光を全身に浴びるうちに、からだの内側から得も言われぬ至福の喜びがこみ上げてくる。例えばこの演奏の第三楽章を聴いてみるといい。次第に高まる音楽が、あたかも呼吸のように身体と同化し、極めて音楽的な境地に達することができる。
ラストに向けてのテンポの落としてゆく部分など、演奏の美しさはもはや言葉にならないほど壮大なドラマを演出している。孤高の高みはキリスト教的な大伽藍ではなく、山岳の頂に重なる太陽の陽光のような宇宙的な広がりと大きさを感じることができる。冒頭の霧の中の音楽から、ここに至って一切の靄は消えうせ光の世界に突入したかのようだ。
このようなシベリウスの世界を、輝く煌きでベルグルンドは表現しつくしている。いやはや素晴らしい。 彼の演奏を何度も聴いていると、決してノーマルで正統的な演奏に終始はしていないことに気付く。
強烈なアタックやリタルダンド、や多少癖のあるフレーズ作り(一楽章4分半のtpの響き)、金管を十分に鳴らしたクレッシェンドとフォルテでの表現、逆にピアノ部分での弦のトレモロの美しさや木管の音色など、オーケストラの色彩感は非常に多彩である。強弱のダイナミズムの幅も大きい。
それでいて演奏が重くない、あるいは、どろどろとした情念のようなものを感じず、さわやかな透明感と凛とした涼しさに彩られた演奏だ。これは不思議な感覚と言ってよい。
例えば1楽章の終わり方の迫力を比べたら、さきの2枚の中ではデイヴィス盤の方が圧倒的と言えるかもしれない。しかし、ベルグルンドの演奏を通して聴いてみると、そんなに大げさな表現をしなくても十分であると思えてくるのだ。シベリウスはそんな恥ずかしい、あからさまな音楽を書いたのではなかったのではないか、という気にさせられる。それでも音楽は深く心に入ってくるのだ。
もっとも、これは演奏者の解釈、聴く者の受け取り方次第だとは思う。とはいえ、私としては清冽な美しさと力強さを湛えたベルグルンドの演奏に聴くほどに引き込まれてしまうのである。
2001年9月8日土曜日
景気回復の暁に・・・
長くなったので項を改めるが、構造改革なって景気回復したとき、皆さんどういう生活をしたいのだろうか?
会社に勤める人なら、夜のクラブでドンペリ飲んで、ゴルフ場に通いまくりたいのだろうか(私は経験ない)? あるいは、経費で韓国や東南アジアに行ってカジノに行きたいのだろうか(これもない)? 女性なら、ブランドバックやコートを身にまとい、海外旅行や香港買い物ツアーに毎年のように行きたいのだろうか?
そういう生活が、豊かな生活なのか?・・・・確かに豊かだとは思う。
でも、私はそんな生活をしたくはない。
情報や流行に追われず、家族や友人と、自由に豊かに、安心して過ごせる環境と時間をください、と言いたい。
隠居するということじゃない。イベント的な派手な楽しみではなく、日々の生活での楽しみみたいなものが少なすぎると思うのだ。
いまの日本の社会で、子供の成長を十分な余裕をもって、ともに喜んで見守ってあげられる大人はどのくらいいるだろうか。
会社に勤める人なら、夜のクラブでドンペリ飲んで、ゴルフ場に通いまくりたいのだろうか(私は経験ない)? あるいは、経費で韓国や東南アジアに行ってカジノに行きたいのだろうか(これもない)? 女性なら、ブランドバックやコートを身にまとい、海外旅行や香港買い物ツアーに毎年のように行きたいのだろうか?
そういう生活が、豊かな生活なのか?・・・・確かに豊かだとは思う。
でも、私はそんな生活をしたくはない。
情報や流行に追われず、家族や友人と、自由に豊かに、安心して過ごせる環境と時間をください、と言いたい。
隠居するということじゃない。イベント的な派手な楽しみではなく、日々の生活での楽しみみたいなものが少なすぎると思うのだ。
いまの日本の社会で、子供の成長を十分な余裕をもって、ともに喜んで見守ってあげられる大人はどのくらいいるだろうか。
2001年9月7日金曜日
外務省の詐欺容疑事件に思う・・・日本の体質
外務省のホテル代水増し請求事件(外務省の元課長補佐が詐欺容疑で逮捕された事件)に、皆さんはどのような思いで接しておられるだろう。地位を利用して詐欺まがいの着服をして本当にけしからん、というの感想が多いと思う。金額といい、外務省の体質といい、われわれの感覚とはかけ離れたものを感じて、憤りを感じるのだと思う。
しかし、思うのですよ。官僚に限らず企業においても、公私の別がつきにくい体質というのは、日本全国に蔓延しているのではないかと。
例えば、会社では接待費というのは経費でおとせることになっている。しかし、接待しているのか自分で自分を接待しているのか分からないような状態は現実にはあると思うし、部課内の同僚と飲み食いしたものまでも、接待したとの名目で領収書を差し出すこともないわけではなかろう。コンプライアンスや経費節減がうたわれるご時世、何の理由もなく社員が飲み食いしたものに金を払うところはなくなってきているが。
うちの会社のハナシをして恐縮だが、接待には事前承認が必要で、一人いくらまでという上限がある。また去年まで存在した、部署長なら持てたタクシー券も遂に廃止になった。しかし実態としては、そのような社内規定が有名無実化している部署もある。(だから、古い体質の会社なんだよな)
このような意識が生まれる背景には、サービス残業のあり方や、会社への拘束度というものが大きく影響しているように思える。自分だって「タダ働きしている」のだから「少しくらい経費を使ってもいい」という感覚だ。言い換えれば、企業は経費の横領を半ば黙認しつつ、個人を安いサラリーで雇っているわけで、労使暗黙のいわば飴とムチのようなやり方といえない事もない。
これは、日本の企業精神風土として公私の別がないことを表す一つの例といえまいか。欧米式にビジネスライフと個人の生活を厳然と分けるような生き方とは、根本的に異なる気がする。欧米にも残業しまくるトップビジネスマンはいる。しかし、彼らは企業に縛られているのではなく、自分の地位向上の為に企業を利用しているようなイメージだ。
日本のビジネスマンは、会社に住宅ローンまで借りてしまい、褌(ふんどし)のヒモをつかまれたまま公私の別なく働かされているという気がする。夜は夜で、接待という名の際限のない飲食、土日も客や関係会社との親睦という名のゴルフという例もあろう(さすがにバブルはじけて、客足は遠のいていると思うが)。
いったい個人の自由な時間、家族のための時間がどこにあるというのだろうか。
私は、このように考えた場合、元課長補佐の罪は消えないまでも、日本社会の代表として逮捕されたという気がして仕方がないのだ。そして、こと外務省だけの問題ではないため、問題の根は一向に改善されないと暗澹たる気分になるのであった。
構造回復や景気回復のことで、何度も書いているが、結局行き着く日本人の「幸福論」。これは、案外、個人の個としての自立と家族重視の考え方ということから始めないといけないのかもしれない。日本の病理の全ては、ここらあたりに根があるのではなかろうか。
個人の自立意識により企業体質が変るのか、その逆かは分からないが。おそらく外資系企業やIT系企業は(知らないけど)かなりドライだと思う。
まあしかし、大上段に書いているけど、私だって経費で飲み食いしちゃうし、同じ穴のムジナなんですよ。哀しいですね。
しかし、思うのですよ。官僚に限らず企業においても、公私の別がつきにくい体質というのは、日本全国に蔓延しているのではないかと。
例えば、会社では接待費というのは経費でおとせることになっている。しかし、接待しているのか自分で自分を接待しているのか分からないような状態は現実にはあると思うし、部課内の同僚と飲み食いしたものまでも、接待したとの名目で領収書を差し出すこともないわけではなかろう。コンプライアンスや経費節減がうたわれるご時世、何の理由もなく社員が飲み食いしたものに金を払うところはなくなってきているが。
うちの会社のハナシをして恐縮だが、接待には事前承認が必要で、一人いくらまでという上限がある。また去年まで存在した、部署長なら持てたタクシー券も遂に廃止になった。しかし実態としては、そのような社内規定が有名無実化している部署もある。(だから、古い体質の会社なんだよな)
このような意識が生まれる背景には、サービス残業のあり方や、会社への拘束度というものが大きく影響しているように思える。自分だって「タダ働きしている」のだから「少しくらい経費を使ってもいい」という感覚だ。言い換えれば、企業は経費の横領を半ば黙認しつつ、個人を安いサラリーで雇っているわけで、労使暗黙のいわば飴とムチのようなやり方といえない事もない。
これは、日本の企業精神風土として公私の別がないことを表す一つの例といえまいか。欧米式にビジネスライフと個人の生活を厳然と分けるような生き方とは、根本的に異なる気がする。欧米にも残業しまくるトップビジネスマンはいる。しかし、彼らは企業に縛られているのではなく、自分の地位向上の為に企業を利用しているようなイメージだ。
日本のビジネスマンは、会社に住宅ローンまで借りてしまい、褌(ふんどし)のヒモをつかまれたまま公私の別なく働かされているという気がする。夜は夜で、接待という名の際限のない飲食、土日も客や関係会社との親睦という名のゴルフという例もあろう(さすがにバブルはじけて、客足は遠のいていると思うが)。
いったい個人の自由な時間、家族のための時間がどこにあるというのだろうか。
私は、このように考えた場合、元課長補佐の罪は消えないまでも、日本社会の代表として逮捕されたという気がして仕方がないのだ。そして、こと外務省だけの問題ではないため、問題の根は一向に改善されないと暗澹たる気分になるのであった。
構造回復や景気回復のことで、何度も書いているが、結局行き着く日本人の「幸福論」。これは、案外、個人の個としての自立と家族重視の考え方ということから始めないといけないのかもしれない。日本の病理の全ては、ここらあたりに根があるのではなかろうか。
個人の自立意識により企業体質が変るのか、その逆かは分からないが。おそらく外資系企業やIT系企業は(知らないけど)かなりドライだと思う。
まあしかし、大上段に書いているけど、私だって経費で飲み食いしちゃうし、同じ穴のムジナなんですよ。哀しいですね。
2001年9月5日水曜日
職業訓練の報道
9月3日の朝日新聞朝刊に、再就職における雇用のミスマッチと、職業訓練あるいは技術を学ぶ学校において「学級崩壊」が生じていることに触れていた。
学級崩壊の原因はふたつのケースがあるらしく、ひとつは教える内容が難しすぎて分からないというもの、もうひとつは、自分のやりたい内容が十分に得られない(易しすぎて実務に使えない)というものらしい。どちらもIT関連産業における技術者養成の教室として取り上げていたが、確かにキーボードを触ったことがなく、ワープロや表計0算を覚えてたいというニーズと、表計算とデータベースソフトを使ってプログラムを組むような、今風のシステムエンジニアを目指すニーズは同じ教室では扱えまい。
さらに、それらの職業訓練をたったの数ヶ月で終え、再雇用の道が開かれているのかということにも疑義を呈していた。福祉関連の職業にしても、3ヶ月やそこらで「プロ」になれるものではなかろう。数年から数十年を実務で働いていた正社員とどうして渡り合えようか。
ここに、セーフティーネットの限界が見えてくる。4日の朝日新聞(だったかな)では、中高年技術者にアジア方面からの雇用ニーズがあることを報じていた。これから技術的に発展しようとしている国が、例えば松下の大量リストラ要因を吸収するという構図だ しかし、これも給与面で満足のいく結果が得られる人は極わずかであるらしい。
ここまで雇用情勢が悪くなると「一度入った会社に、なんとしてもしがみつこう」という意識が強くなることも否定できまい。企業とて、自己啓発だ資格取得義務だの個人の付加価値を上げるように尻を叩く。付加価値の低い社員は出世させないとまで言い切る。
またしても企業論理での人としての付加価値。企業至上主義である以上は、再就職の道は極めて狭いというのが実感である。すんなり希望職に就ける人は、おそらく会社の中でも成功するタイプの人だろう。
学級崩壊の原因はふたつのケースがあるらしく、ひとつは教える内容が難しすぎて分からないというもの、もうひとつは、自分のやりたい内容が十分に得られない(易しすぎて実務に使えない)というものらしい。どちらもIT関連産業における技術者養成の教室として取り上げていたが、確かにキーボードを触ったことがなく、ワープロや表計0算を覚えてたいというニーズと、表計算とデータベースソフトを使ってプログラムを組むような、今風のシステムエンジニアを目指すニーズは同じ教室では扱えまい。
さらに、それらの職業訓練をたったの数ヶ月で終え、再雇用の道が開かれているのかということにも疑義を呈していた。福祉関連の職業にしても、3ヶ月やそこらで「プロ」になれるものではなかろう。数年から数十年を実務で働いていた正社員とどうして渡り合えようか。
ここに、セーフティーネットの限界が見えてくる。4日の朝日新聞(だったかな)では、中高年技術者にアジア方面からの雇用ニーズがあることを報じていた。これから技術的に発展しようとしている国が、例えば松下の大量リストラ要因を吸収するという構図だ しかし、これも給与面で満足のいく結果が得られる人は極わずかであるらしい。
ここまで雇用情勢が悪くなると「一度入った会社に、なんとしてもしがみつこう」という意識が強くなることも否定できまい。企業とて、自己啓発だ資格取得義務だの個人の付加価値を上げるように尻を叩く。付加価値の低い社員は出世させないとまで言い切る。
またしても企業論理での人としての付加価値。企業至上主義である以上は、再就職の道は極めて狭いというのが実感である。すんなり希望職に就ける人は、おそらく会社の中でも成功するタイプの人だろう。
2001年9月3日月曜日
失業時代を迎えて
IT関連企業のリストラなどを新聞で見るにつけ、恐ろしい時代に突入しつつあるという実感が湧いてくる。リストラされる対象社員(国内・国外を問わず)は、企業の狭い価値観の中で「不要」という烙印を押されるわけである。
この企業の価値観というものが今のの社会を支配しているわけだが、仮にこれを「正」とした場合、企業が求める人物像が教育などを通して育成されているのかという疑問が湧いてくる。
勉強しなくなった大学生(かくいう私も昔はそうであった)や、勉強をさせなくなってきた義務教育など、こと基礎学問に関しては教育は荒廃の一途を辿っているように思える。(というよりも、文部科学省は「できるもの、使えるもの」と「それなりの人」の二極化を図ろうとしているように思えるのだが、これは以前も書いてきた。)
さて、企業にとって有用とはいかなることであるか、少しだけ考えてみた。
企業が求める人物像を考えるに、まずタフであること(これは体力・精神力ともにである)が第一条件である。 次に、対外折衝能力に長けること。タフネゴシエーターであることは、一方的に自分の論理を展開するのではなく、人から信頼されることが必須であり、このような資質が最も重要であると考える。学習で得られるスキルとしては、専門分野におけるゆるぎなき知識があり、専門外の分野にもある程度明るいことが求められるだろう。公教育はこの点を担っているのだろうと思う。これらを有した上で、内政重視の組織型人間ではなく、外向きで前向きかつ独創的な発想ができ、思考の柔軟性と確たる意思を有し(相反する資質だが)、ジョブにおけるリスク管理ができており、いくつかの考えられるケースに対応可能な用意をしておけることなどなど・・・。そして、人物的には、人から好かれ他者への配慮と思いやりがあり、仕事オンリーの人物ではないこと、などなど。(列挙してきて うんざり してきた。「そんな奴いねーよ」てね)
こういう人物を企業が求めるとしたら、学校教育や家庭教育でできることは少ないと思えてきた。企業側は、大学まで出ていながら、使える学生が少ないと嘆くが、大学側はそれには抵抗を示しているようだ。企業への就職予備軍を作るのが教育の役割ではないと、仮にとなえるならば、教育の役割とは何か。ゆとり教育で何を見出させるのか。
失業率5%というと、すぐにセーフティーネットというが、不幸にもリストラされた方に再就職させ企業で成功するほどの「スキル」を後から身につけさせることなど可能なのだろうか。といって、学習で得られるスキル以外で自分を売り込めるとしたら、上にあげた資質を含めて他に何があるだろうか。自分を振り返ってみると、いまの立場が砂上の楼閣でしかないことに慄然とする。
一方で、企業の価値観から「正」とする人物像を否定する人物像というのは考えられるだろうか。企業=組織として捉えているわけではないので、独立した事業家みたいなものはそれには入らないような気がする。
このような社会で生きてゆく上での、道しるべが見えないのは私だけだろうか。
この企業の価値観というものが今のの社会を支配しているわけだが、仮にこれを「正」とした場合、企業が求める人物像が教育などを通して育成されているのかという疑問が湧いてくる。
勉強しなくなった大学生(かくいう私も昔はそうであった)や、勉強をさせなくなってきた義務教育など、こと基礎学問に関しては教育は荒廃の一途を辿っているように思える。(というよりも、文部科学省は「できるもの、使えるもの」と「それなりの人」の二極化を図ろうとしているように思えるのだが、これは以前も書いてきた。)
さて、企業にとって有用とはいかなることであるか、少しだけ考えてみた。
企業が求める人物像を考えるに、まずタフであること(これは体力・精神力ともにである)が第一条件である。 次に、対外折衝能力に長けること。タフネゴシエーターであることは、一方的に自分の論理を展開するのではなく、人から信頼されることが必須であり、このような資質が最も重要であると考える。学習で得られるスキルとしては、専門分野におけるゆるぎなき知識があり、専門外の分野にもある程度明るいことが求められるだろう。公教育はこの点を担っているのだろうと思う。これらを有した上で、内政重視の組織型人間ではなく、外向きで前向きかつ独創的な発想ができ、思考の柔軟性と確たる意思を有し(相反する資質だが)、ジョブにおけるリスク管理ができており、いくつかの考えられるケースに対応可能な用意をしておけることなどなど・・・。そして、人物的には、人から好かれ他者への配慮と思いやりがあり、仕事オンリーの人物ではないこと、などなど。(列挙してきて うんざり してきた。「そんな奴いねーよ」てね)
こういう人物を企業が求めるとしたら、学校教育や家庭教育でできることは少ないと思えてきた。企業側は、大学まで出ていながら、使える学生が少ないと嘆くが、大学側はそれには抵抗を示しているようだ。企業への就職予備軍を作るのが教育の役割ではないと、仮にとなえるならば、教育の役割とは何か。ゆとり教育で何を見出させるのか。
失業率5%というと、すぐにセーフティーネットというが、不幸にもリストラされた方に再就職させ企業で成功するほどの「スキル」を後から身につけさせることなど可能なのだろうか。といって、学習で得られるスキル以外で自分を売り込めるとしたら、上にあげた資質を含めて他に何があるだろうか。自分を振り返ってみると、いまの立場が砂上の楼閣でしかないことに慄然とする。
一方で、企業の価値観から「正」とする人物像を否定する人物像というのは考えられるだろうか。企業=組織として捉えているわけではないので、独立した事業家みたいなものはそれには入らないような気がする。
このような社会で生きてゆく上での、道しるべが見えないのは私だけだろうか。
【シベリウスの交響曲を聴く】 ケーゲル指揮 ライプチヒ放送交響楽団による交響曲第4番
指揮:ヘルベルト・ケーゲル
演奏:ライプチヒ放送交響楽団
録音:1969
BERLIN Classics 0031432BC(輸入版)
この演奏を聴こうとする、あるいは既に持っているのならば、私の下手な解説よりも「奥座敷」で展開されている、この演奏に対する解釈を読む方をお奨めする。この評があれば、これ以上何を付け加えるとい言うのかという気になる。また須田さんによるシベリウスのページの中の交響曲第4番の解説においても、この盤がとんでもない演奏であることに触れ、数ある4番の演奏の中で最も優れた演奏という位置を与えている。
しかし、私としてはケーゲルのこの演奏が4番として非常に優れた演奏であることは認めるものの、シベリウスの演奏として名演奏であるかという点になると賛同することには躊躇してしまう。この演奏はシベリウスの当時の陥っていた苦境を、ケーゲル独自の世界観で解釈し音楽にしたという点においては非常に優れていると思う。
特に、一楽章の圧倒的な迫力と力強さ、そして第三楽章の人生への諦念と黄泉の国から響くかのような音色は、聴いていて重苦しく心を打つ。その一切の妥協のなさは深い慟哭とともに音楽を特徴付けている。強引に強い綱か何かに縛り付けられ、暗い海の底へと引きずりこまれるかのような錯覚さえ受ける。
演奏の音色の重心も当然低く、コントラバスやチェロのの響きの重さといったらこれ以上のものはないと思わせるほどだ。
奥座敷では『ケーゲル盤は、死の恐怖と生への葛藤という事をまさに実感させてくれる演奏』という誠に的を得た表現でこの演奏の特徴を見事に言い当てている。妥協のない演奏解釈は、捉えどころのないこの曲に、しっかりとした縁取りと輪郭を与えていると思う。
しかし、私はふと思うの。今まで4番の演奏を四つほど聴いてきた。そのどれも、どちらかというと、ここまで暗くはなく、希望というものを垣間見せてくれる演奏であったように思える。それぞれの組み立て方は違っても、曲のフレーズの中に硬質な煌きが垣間見えたものである。それは、シベリウスがこの時期に、深い嘆きと諦めの中にありながらも、また死の恐怖に抗いながらも、どこかに透明な希望を捨てていなかった気持ちの表れに思えるのだ。どんなに苦境の中にいても、ふと我に返って光をみることがある、そんなイメージを抱かせる。それは人間の心の襞の複雑さというものなのではなかろうか。
ケーゲルの演奏は、解釈の点において分かりやすく迫力があるものの、そのような襞や複雑さに欠ける気がするのである。
ここで改めてベルグルンド&ヨーロッパ室内管の演奏を聴きなおしてみたのであるが、演奏に込められた透明さは格別で、暗い色調を帯びているものの北欧の淡い光と影が、雲の中で交錯するような煌きを感じる。どちらかというと音楽とイメージが上から降ってくる感じだ。それに対し、ケーゲル盤は地の底から湧きあがるかのような暗黒を湛えている。この解釈の違いは大きい。
どちらの演奏を好むかといえば、シベリウス的には圧倒的にベルグルンド盤だと思う。ただ、機会があればケーゲル盤も聴いてみることはお奨めする。
この演奏を聴こうとする、あるいは既に持っているのならば、私の下手な解説よりも「奥座敷」で展開されている、この演奏に対する解釈を読む方をお奨めする。この評があれば、これ以上何を付け加えるとい言うのかという気になる。また須田さんによるシベリウスのページの中の交響曲第4番の解説においても、この盤がとんでもない演奏であることに触れ、数ある4番の演奏の中で最も優れた演奏という位置を与えている。
しかし、私としてはケーゲルのこの演奏が4番として非常に優れた演奏であることは認めるものの、シベリウスの演奏として名演奏であるかという点になると賛同することには躊躇してしまう。この演奏はシベリウスの当時の陥っていた苦境を、ケーゲル独自の世界観で解釈し音楽にしたという点においては非常に優れていると思う。
特に、一楽章の圧倒的な迫力と力強さ、そして第三楽章の人生への諦念と黄泉の国から響くかのような音色は、聴いていて重苦しく心を打つ。その一切の妥協のなさは深い慟哭とともに音楽を特徴付けている。強引に強い綱か何かに縛り付けられ、暗い海の底へと引きずりこまれるかのような錯覚さえ受ける。
演奏の音色の重心も当然低く、コントラバスやチェロのの響きの重さといったらこれ以上のものはないと思わせるほどだ。
奥座敷では『ケーゲル盤は、死の恐怖と生への葛藤という事をまさに実感させてくれる演奏』という誠に的を得た表現でこの演奏の特徴を見事に言い当てている。妥協のない演奏解釈は、捉えどころのないこの曲に、しっかりとした縁取りと輪郭を与えていると思う。
しかし、私はふと思うの。今まで4番の演奏を四つほど聴いてきた。そのどれも、どちらかというと、ここまで暗くはなく、希望というものを垣間見せてくれる演奏であったように思える。それぞれの組み立て方は違っても、曲のフレーズの中に硬質な煌きが垣間見えたものである。それは、シベリウスがこの時期に、深い嘆きと諦めの中にありながらも、また死の恐怖に抗いながらも、どこかに透明な希望を捨てていなかった気持ちの表れに思えるのだ。どんなに苦境の中にいても、ふと我に返って光をみることがある、そんなイメージを抱かせる。それは人間の心の襞の複雑さというものなのではなかろうか。
ケーゲルの演奏は、解釈の点において分かりやすく迫力があるものの、そのような襞や複雑さに欠ける気がするのである。
ここで改めてベルグルンド&ヨーロッパ室内管の演奏を聴きなおしてみたのであるが、演奏に込められた透明さは格別で、暗い色調を帯びているものの北欧の淡い光と影が、雲の中で交錯するような煌きを感じる。どちらかというと音楽とイメージが上から降ってくる感じだ。それに対し、ケーゲル盤は地の底から湧きあがるかのような暗黒を湛えている。この解釈の違いは大きい。
どちらの演奏を好むかといえば、シベリウス的には圧倒的にベルグルンド盤だと思う。ただ、機会があればケーゲル盤も聴いてみることはお奨めする。
2001年8月29日水曜日
【音盤】「今さら『運命』?」と言うなかれ!~三つのライブ録音
ラトルの「運命」が話題になっている。これを機会にと思い、その他の気になる演奏をふたつほど(フルトヴェングラー、テンシュテット)聴き比べてみた。
このほかにも、ライブで忘れられないセル&ウィーンの演奏もあるのだが、これ以上運命に付き合うのはちょっとつらいので、またの機会に譲りたい。一度聴いただけで「あたる」演奏と、何度か繰り返さないと「ピントこない」演奏、こういうのは個人差あがあるのだということが、今回の収穫か。
ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」(ライヴ録音) ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77 指揮:サイモン・ラトル 演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ヴァイオリン独奏:チョン・キョン=ファ EMI TOCE-553311
ラトルとウィーン・フィルによる「運命」である。レコード芸術では絶賛級の賛辞を与えられていた、非常に刺激的な演奏である。(レコ芸の評をどう考えるかはさておき・・・)
国内版を買うのは値段の点で躊躇してしまうのであるが、どうしても聴いてみたく購入。一聴しただけで文章を書く雑さをご了承願いたいが、これはすさまじき「運命」であると感じた。
カルロス・クライバーの怒涛のような「運命」もあるが、それ以上に刺激的な演奏に聴こえる。印象に残るのは、やはりティンパニの音やピッコロなどの音、さらには、全楽章を支配している圧倒的なリズムと切れの良さだろうか。演奏からは軋みのようなものさえ聴こえてくるではないか。今さら「運命」なんて、と思うならば聴いてみると良い。新たな感動が沸き起こるのを禁じることができないだろう。
どちらかと言うと「快速系」の演奏なのかも知れないが、軽くはない。微塵の迷いもなく突き進むその姿は、聴くものの内側に大きく質量感のある感動を落とす。ベートーベンの音楽の持つ力、硬く熱く重い金属のような力強さを我々に与えてくれる。
ぜひ聴いてみて、その音楽を感じてもらいたい(ああ、こういう演奏を聴くと、つくづく生演奏に接したくなるよ)。レヴュは気が向いたら書いてみたい。
ラトルはウィーン・フィルとのベートーベン全集の録音に取り掛かっているらしく、各交響曲の特徴を際立たせることを意図しているらしい。これからが非常に楽しみである。
ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」(ライヴ録音) 指揮:フルトヴェングラー 演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 録音:1947年5月27日 DG
解説不要の名盤。フルトヴェングラーが戦後ベルリンに復帰した演奏の三日目のもので、歴史的名演奏として名高いものだ。ラトルの演奏を聴いて、改めてこの演奏がどういうものなのかを知る意味で聴いてみた。
石をぶつけないでいただきたいが、この名演を聴くのは今回が初めてであった。クラシックな方々には「基礎問題的常識」であっても、この世界に疎い、あるいは足を踏み入れたばかりの若輩者には、未知の世界なのである。
さて、この演奏の凄さはあちらこちらで語り継がれている。最近のレコード芸術「21世紀の名演奏300選」でも54年版を押しのけて上位に入ってきたという演奏である。しかし、録音はモノラルだ、本当にそんなに凄いのか?と半信半疑で聴き始めたことを告白しておこう。
半ば期待を込め半ば揶揄的に聴き始めたのだが、恥ずかしい話、感動するとかいう言葉では表現できないほどの衝撃を受けてしまった。私は2楽章のあたりからから、涙を抑える事ができなかった。始終泣きどおしで最後のコーダまで聴いてしまった。あまりにも、あまりな演奏に、この盤をもう一度聴く気力がおきないほどだ。
CDであっても「あたる」というのか、何かにシンクロしてしまう瞬間というものがある。この演奏がまさにそういう状態だったのかもしれない。何と言う「運命」がここには展開されているのであろうか。どこが凄いとか説明すること自体が無意味にさえ感じさせる鬼気せまる演奏だ。
「フルトヴェングラー的アインザッツ」とか「怒涛のアッチェレランド」とか、言葉を弄すれば何か書けるだろうが、それらは空しい行為でしかない。歴史的名盤と皆が言う意味が嫌と言うほどに分かった。
「たった一度聴いただけで分かったなんて言うな。」という人もいよう。しかし、再度聴いて、さきに始めて聴いたときほどの衝撃があるかと考えれば、それは叶わないのではないかと思うのである。衝撃は最初のものだけが真実であると思う。
ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」(ライヴ録音) 指揮:テンシュテット 演奏:ロンドン交響楽団 録音:1990年8月30日 米RARE MOTH RM 401/2-S
札幌PALS21で見つけた海賊版。カップリングはブレンデルのピアノによるブラームスのピアノ協奏曲第1番である。
テンシュテットも私にはなじみの多い指揮者ではない。バーンスタインと並ぶマーラー指揮者という印象が強いが、あちこちのサイトを覗いていると、スタジオ録音とライブ録音の差が大きい指揮者であるという評が多い。マーラーのライブを探しているが、なかなか見つからず、たまたまこの盤を見つけたので買ってみたという次第だ。
フルトヴェングラーの演奏を聴いてしまって、続けてこの演奏を聴くことに意味があるのか、疑問に思ったことも確かだが、半ば強迫的な義務意識で聴いてみた。
最初に聴きとおしたときは、正攻法でなんとなく響きの柔らかい(甘い)演奏だな、という印象を超えなかった。ライブの海賊盤なんで音質もいまひとつだし。何気なく流して聴くとあまり特徴のない演奏に聴こえてしまうのかも知れない、「運命」という耳慣れた曲であるだけになおさらだ。
しかし、何度か聴いいると、音が自分の中で立ち上がってくるのを覚える瞬間がある。「・・・!!」という感じだ。この演奏でもそうだった、「ええ? 何を今まで聴いていたんだ?」と自問してしまった。
確かに正攻法のベートーベンだ。例えばラトルのような切り込んだ斬新な解釈はみられない。しかし、それでいて、ここには並々ならぬ熱気をはらんだ、すさまじきエネルギーの演奏が込められていることに気づかされた。ティンパニの叩きなども尋常とは思えない。地が沸きあがるようなベートーベンである。
カップリングされているブラームスも物凄い。ブラームスはワタシ的にはちょっと苦手なのだが(嫌いなのじゃない、とっかかりがつかめないのだ)あのブレンデルがものすごいピアノを弾いている。今回はブラームスのことを書くのが主旨ではないので割愛するが、このテンシュテットのライブ録音、類稀な熱演であることは確かなようだ。
このほかにも、ライブで忘れられないセル&ウィーンの演奏もあるのだが、これ以上運命に付き合うのはちょっとつらいので、またの機会に譲りたい。一度聴いただけで「あたる」演奏と、何度か繰り返さないと「ピントこない」演奏、こういうのは個人差あがあるのだということが、今回の収穫か。
ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」(ライヴ録音) ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77 指揮:サイモン・ラトル 演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ヴァイオリン独奏:チョン・キョン=ファ EMI TOCE-553311
ラトルとウィーン・フィルによる「運命」である。レコード芸術では絶賛級の賛辞を与えられていた、非常に刺激的な演奏である。(レコ芸の評をどう考えるかはさておき・・・)
国内版を買うのは値段の点で躊躇してしまうのであるが、どうしても聴いてみたく購入。一聴しただけで文章を書く雑さをご了承願いたいが、これはすさまじき「運命」であると感じた。
カルロス・クライバーの怒涛のような「運命」もあるが、それ以上に刺激的な演奏に聴こえる。印象に残るのは、やはりティンパニの音やピッコロなどの音、さらには、全楽章を支配している圧倒的なリズムと切れの良さだろうか。演奏からは軋みのようなものさえ聴こえてくるではないか。今さら「運命」なんて、と思うならば聴いてみると良い。新たな感動が沸き起こるのを禁じることができないだろう。
どちらかと言うと「快速系」の演奏なのかも知れないが、軽くはない。微塵の迷いもなく突き進むその姿は、聴くものの内側に大きく質量感のある感動を落とす。ベートーベンの音楽の持つ力、硬く熱く重い金属のような力強さを我々に与えてくれる。
ぜひ聴いてみて、その音楽を感じてもらいたい(ああ、こういう演奏を聴くと、つくづく生演奏に接したくなるよ)。レヴュは気が向いたら書いてみたい。
ラトルはウィーン・フィルとのベートーベン全集の録音に取り掛かっているらしく、各交響曲の特徴を際立たせることを意図しているらしい。これからが非常に楽しみである。
ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」(ライヴ録音) 指揮:フルトヴェングラー 演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 録音:1947年5月27日 DG
解説不要の名盤。フルトヴェングラーが戦後ベルリンに復帰した演奏の三日目のもので、歴史的名演奏として名高いものだ。ラトルの演奏を聴いて、改めてこの演奏がどういうものなのかを知る意味で聴いてみた。
石をぶつけないでいただきたいが、この名演を聴くのは今回が初めてであった。クラシックな方々には「基礎問題的常識」であっても、この世界に疎い、あるいは足を踏み入れたばかりの若輩者には、未知の世界なのである。
さて、この演奏の凄さはあちらこちらで語り継がれている。最近のレコード芸術「21世紀の名演奏300選」でも54年版を押しのけて上位に入ってきたという演奏である。しかし、録音はモノラルだ、本当にそんなに凄いのか?と半信半疑で聴き始めたことを告白しておこう。
半ば期待を込め半ば揶揄的に聴き始めたのだが、恥ずかしい話、感動するとかいう言葉では表現できないほどの衝撃を受けてしまった。私は2楽章のあたりからから、涙を抑える事ができなかった。始終泣きどおしで最後のコーダまで聴いてしまった。あまりにも、あまりな演奏に、この盤をもう一度聴く気力がおきないほどだ。
CDであっても「あたる」というのか、何かにシンクロしてしまう瞬間というものがある。この演奏がまさにそういう状態だったのかもしれない。何と言う「運命」がここには展開されているのであろうか。どこが凄いとか説明すること自体が無意味にさえ感じさせる鬼気せまる演奏だ。
「フルトヴェングラー的アインザッツ」とか「怒涛のアッチェレランド」とか、言葉を弄すれば何か書けるだろうが、それらは空しい行為でしかない。歴史的名盤と皆が言う意味が嫌と言うほどに分かった。
「たった一度聴いただけで分かったなんて言うな。」という人もいよう。しかし、再度聴いて、さきに始めて聴いたときほどの衝撃があるかと考えれば、それは叶わないのではないかと思うのである。衝撃は最初のものだけが真実であると思う。
ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」(ライヴ録音) 指揮:テンシュテット 演奏:ロンドン交響楽団 録音:1990年8月30日 米RARE MOTH RM 401/2-S
札幌PALS21で見つけた海賊版。カップリングはブレンデルのピアノによるブラームスのピアノ協奏曲第1番である。
テンシュテットも私にはなじみの多い指揮者ではない。バーンスタインと並ぶマーラー指揮者という印象が強いが、あちこちのサイトを覗いていると、スタジオ録音とライブ録音の差が大きい指揮者であるという評が多い。マーラーのライブを探しているが、なかなか見つからず、たまたまこの盤を見つけたので買ってみたという次第だ。
フルトヴェングラーの演奏を聴いてしまって、続けてこの演奏を聴くことに意味があるのか、疑問に思ったことも確かだが、半ば強迫的な義務意識で聴いてみた。
最初に聴きとおしたときは、正攻法でなんとなく響きの柔らかい(甘い)演奏だな、という印象を超えなかった。ライブの海賊盤なんで音質もいまひとつだし。何気なく流して聴くとあまり特徴のない演奏に聴こえてしまうのかも知れない、「運命」という耳慣れた曲であるだけになおさらだ。
しかし、何度か聴いいると、音が自分の中で立ち上がってくるのを覚える瞬間がある。「・・・!!」という感じだ。この演奏でもそうだった、「ええ? 何を今まで聴いていたんだ?」と自問してしまった。
確かに正攻法のベートーベンだ。例えばラトルのような切り込んだ斬新な解釈はみられない。しかし、それでいて、ここには並々ならぬ熱気をはらんだ、すさまじきエネルギーの演奏が込められていることに気づかされた。ティンパニの叩きなども尋常とは思えない。地が沸きあがるようなベートーベンである。
カップリングされているブラームスも物凄い。ブラームスはワタシ的にはちょっと苦手なのだが(嫌いなのじゃない、とっかかりがつかめないのだ)あのブレンデルがものすごいピアノを弾いている。今回はブラームスのことを書くのが主旨ではないので割愛するが、このテンシュテットのライブ録音、類稀な熱演であることは確かなようだ。
2001年8月28日火曜日
構造改革なくして景気回復なし
この話しを考え出すと、どうしても「幸福論」に行き着くのだ。
景気回復することが幸福だとする、大多数と政府、企業というもの。しかし、そこで働く多くの人たちは、本当に幸福なの?という問いである。
男性であれば家庭を犠牲にし、自分の信念も場合によっては犠牲にし、企業成績の向上のために時間を削る。あるいはそれを自己実現だとしてモチベーションのすり替え理論を身に付ける。
女性であれば、そのような企業至上社会(男性社会とは言わない)を前提として、家庭を守り子供を育てることを強いられる。
旧来型の夫婦像だが、今だって変りはしない。学生時代あるは独身時代の(一見)享楽的な生活が結婚後できなくなってしまうので、今の「逆ギレ」の親たちが発生しているだけのことだ。
そのどこにも「幸福」なんて転がっていないのではないだろうか。
毎週、自宅から1時間以内の場所へゴルフに出かけ、家にはテニスコートやプールがある生活(まるで大橋巨泉だが)が豊かな生活か?確かに豊かだし、ひとつの究極かもしれないけれど誰もが巨泉になれるわけじゃあない。
景気回復の先に真の豊かさが見えてくるのか? 私には、享受できる「豊かさ」が見えない。自分が「享受したい豊かさ」はあるけどね。
宗教でも哲学でも単なる精神論でもない、「幸福論」や「豊かさ」という概念が日本には欠如しているんじゃないだろうか。特殊な場における幸せではなく、毎日の生活における「豊かさ」という発想が。
景気回復することが幸福だとする、大多数と政府、企業というもの。しかし、そこで働く多くの人たちは、本当に幸福なの?という問いである。
男性であれば家庭を犠牲にし、自分の信念も場合によっては犠牲にし、企業成績の向上のために時間を削る。あるいはそれを自己実現だとしてモチベーションのすり替え理論を身に付ける。
女性であれば、そのような企業至上社会(男性社会とは言わない)を前提として、家庭を守り子供を育てることを強いられる。
旧来型の夫婦像だが、今だって変りはしない。学生時代あるは独身時代の(一見)享楽的な生活が結婚後できなくなってしまうので、今の「逆ギレ」の親たちが発生しているだけのことだ。
そのどこにも「幸福」なんて転がっていないのではないだろうか。
毎週、自宅から1時間以内の場所へゴルフに出かけ、家にはテニスコートやプールがある生活(まるで大橋巨泉だが)が豊かな生活か?確かに豊かだし、ひとつの究極かもしれないけれど誰もが巨泉になれるわけじゃあない。
景気回復の先に真の豊かさが見えてくるのか? 私には、享受できる「豊かさ」が見えない。自分が「享受したい豊かさ」はあるけどね。
宗教でも哲学でも単なる精神論でもない、「幸福論」や「豊かさ」という概念が日本には欠如しているんじゃないだろうか。特殊な場における幸せではなく、毎日の生活における「豊かさ」という発想が。
失業率5%
失業率が5%を超えたというニュースが新聞にのっていた。失業率の捉え方もあるが、実際に準失業状態の人も含めると実数はもっと多いのかもしれない。
さて、構造改革には痛み=失業者が伴うことは自明のこととして認知されたが、いざ構造改革の具体性となるといまだ不安要素が多い。
頼みの綱のIT産業が、松下、富士通、日立、東芝などのメーカーで大幅なリストラを展開している。昨日(8月27日)の新聞では東芝が国内で1万7千人の従業員削減計画を発表していた。これは、今までの企業が海外での人員整理であったのに対し、国内でという点が注目される。
構造改革とは業種転換を意味している。IT関連産業でさえこの始末である。構造改革の痛みは特定業種に固まるという見方もある(いわゆる、建設、流通などだが)。彼らまたは我々は、では積極的に業種転換を図ろうとして、一体どういうメニューがあるというのだろうか。福祉をはじめとするサービス産業への転換というが、お題目に過ぎないのではないかと危惧する。具体的な職種と数値(骨太の方針には530万人の雇用?)を年単位で企業ごとに示してもらいたいものだ。受け入れ企業だって、助成金をもらえば済むという生易しい話ではなかろう。
40歳を過ぎて、全くの異業種に移る、一から資格を取り直してというのもかなりつらいものだろう。それが痛みというなら受け入れるしかないのか。また、40歳前後でそれなりの管理職で収入を得ていた人が、転職した場合、収入は半分くらいになってしまうとも考えられる。それも痛みというのなら受け入れるしかないのか。
無駄といわれている公共工事や行政サービス、または各種の特殊法人などなど、そのどれも、そこに働いている人たちは「自分の仕事は無駄です」「私は無駄な仕事をしてます」と言う人は(よほどのことがない限り)いないだろう。みな、意義と価値があると信じて働いている。はたからの見え方と、中での見え方はまるで異なっているとは思うが。
翻って、自分を考えてみる。「あなたの業種は将来性がないから、他に移らなくてはなりません。1ヶ月以内に目処をつけて1年以内に新しい職場についてください。」と突きつけられたら? 何を頼りに動けるだろうか? それなりに忙しく、色々なものを犠牲にして今の境遇を手に入れたのに、「あなたの20年前の選択(あるいは30年前)は間違っていたのです。先見の明がなかったのです。生活水準を維持するのは諦めなさいと宣言されるのである。
こういう痛みの先に見える、景気の回復とは何か? のっぴきならないところまで達するのに、後少しという気がする。
これは国民である我々が望んでいたことなのだ。構造改革を手段として景気を回復させることが目的として。景気が回復すれば幸せになると皆が望んだんだよな。
さて、構造改革には痛み=失業者が伴うことは自明のこととして認知されたが、いざ構造改革の具体性となるといまだ不安要素が多い。
頼みの綱のIT産業が、松下、富士通、日立、東芝などのメーカーで大幅なリストラを展開している。昨日(8月27日)の新聞では東芝が国内で1万7千人の従業員削減計画を発表していた。これは、今までの企業が海外での人員整理であったのに対し、国内でという点が注目される。
構造改革とは業種転換を意味している。IT関連産業でさえこの始末である。構造改革の痛みは特定業種に固まるという見方もある(いわゆる、建設、流通などだが)。彼らまたは我々は、では積極的に業種転換を図ろうとして、一体どういうメニューがあるというのだろうか。福祉をはじめとするサービス産業への転換というが、お題目に過ぎないのではないかと危惧する。具体的な職種と数値(骨太の方針には530万人の雇用?)を年単位で企業ごとに示してもらいたいものだ。受け入れ企業だって、助成金をもらえば済むという生易しい話ではなかろう。
40歳を過ぎて、全くの異業種に移る、一から資格を取り直してというのもかなりつらいものだろう。それが痛みというなら受け入れるしかないのか。また、40歳前後でそれなりの管理職で収入を得ていた人が、転職した場合、収入は半分くらいになってしまうとも考えられる。それも痛みというのなら受け入れるしかないのか。
無駄といわれている公共工事や行政サービス、または各種の特殊法人などなど、そのどれも、そこに働いている人たちは「自分の仕事は無駄です」「私は無駄な仕事をしてます」と言う人は(よほどのことがない限り)いないだろう。みな、意義と価値があると信じて働いている。はたからの見え方と、中での見え方はまるで異なっているとは思うが。
翻って、自分を考えてみる。「あなたの業種は将来性がないから、他に移らなくてはなりません。1ヶ月以内に目処をつけて1年以内に新しい職場についてください。」と突きつけられたら? 何を頼りに動けるだろうか? それなりに忙しく、色々なものを犠牲にして今の境遇を手に入れたのに、「あなたの20年前の選択(あるいは30年前)は間違っていたのです。先見の明がなかったのです。生活水準を維持するのは諦めなさいと宣言されるのである。
こういう痛みの先に見える、景気の回復とは何か? のっぴきならないところまで達するのに、後少しという気がする。
これは国民である我々が望んでいたことなのだ。構造改革を手段として景気を回復させることが目的として。景気が回復すれば幸せになると皆が望んだんだよな。
2001年8月26日日曜日
ついにヤマハのレッスン休会にいたる
このごろ業務とプライベート両面が多忙につき、ヤマハのレッスンも月一度受けられれば良い方になってしまった。月一度に30分のレッスンで1万数千円のレッスン料は非常に高額であるので、熟慮した末、休会届を提出した。したがって、本日がヤマハでの小松先生のレッスンは最後となる。
最後だということだが、レッスン内容は相変わらず。吹ける曲が今はヘンデルしかないんでG-mollのOp1.Nr.2を通しで吹いてみる。指使いはそれほど難しくはないが、装飾を入れたりしてセンスよく吹くにはまだ程遠い状態。特にAdagio楽章を、自分で変装を加えて吹くというのは苦手だなあ。アーティキュレーションもまた先生と復習して色々試してみる。これもどうフレーズをつなげるかひとつで、曲のイメージが変るものだ。ここら当たりもセンスなのかなと思う。
小松先生のレッスンをはじめて、おそらく3年くらいになるのだが、ヤマハでの発表会も二度出たし、レッスンもガリボルディから始めてまあよくここまで続いたなとも思う。でも、ここから先に進むというのは、ひとつの壁を乗り越えないとダメなんだろうなと思い始めたことも確かだ。
ここから先というのは、分かりやすく言うと教則本的に言えば、ケーラーのミディアム・エクササイズに入る前というか、アルテスで言ったら2巻というところだろうか。アルテスの2巻は一通り習ったのだけど、指定テンポで正確に吹けたかというと、全くもって情けないばかりで、もう一度最初からやり直してもいいくらいの出来である。
教則本や練習曲を吹きたいからフルートを始めたわけではないのだが、基礎的な指の動きというのは、どうしてもネックになるし、T&Gみたいな地道な練習が是非とも必要なわけだ。
というわけで、レッスンがあると思うと笛も持って練習もするのだけど、レッスンをこなすだけの練習になりがちだし、これを機会に、もう一度やり直してみようかなと思っているところである。
しかし、趣味なんで急ぐ必要はないと思うものの、指や歯や肺が健在で笛をいつまで吹けるのかと考えたら、他の楽器よりは満足できる年数て短いような気がする。
学生時代にオケとかやっていれば、アマチュアオケとかに入りたいと思うけど、それも無理っぽいし、同じレベルの人とアンサンブルなんかできればいいと思うけど、時間・空間・人・スキル的に難しい。
私の習っていた小松先生は、確か今現在で72歳のはず。結構もう、いいおじいさんなんだけど、肌艶はいいし白髪のきれいなヘアスタイルで、姿勢なんかもしゃきっとしていて、しかも指も私より回るてんだから、うらやましいていうか、尊敬しちゃうよね。笛を吹くという行為と、レッスンで色々な人に常に接しているというのが、いつまでも若さを保っているのだろうな。
小松先生には、フルート協会でまた会う機会もあるけれど、とりあえずはありがとうございました。
最後だということだが、レッスン内容は相変わらず。吹ける曲が今はヘンデルしかないんでG-mollのOp1.Nr.2を通しで吹いてみる。指使いはそれほど難しくはないが、装飾を入れたりしてセンスよく吹くにはまだ程遠い状態。特にAdagio楽章を、自分で変装を加えて吹くというのは苦手だなあ。アーティキュレーションもまた先生と復習して色々試してみる。これもどうフレーズをつなげるかひとつで、曲のイメージが変るものだ。ここら当たりもセンスなのかなと思う。
小松先生のレッスンをはじめて、おそらく3年くらいになるのだが、ヤマハでの発表会も二度出たし、レッスンもガリボルディから始めてまあよくここまで続いたなとも思う。でも、ここから先に進むというのは、ひとつの壁を乗り越えないとダメなんだろうなと思い始めたことも確かだ。
ここから先というのは、分かりやすく言うと教則本的に言えば、ケーラーのミディアム・エクササイズに入る前というか、アルテスで言ったら2巻というところだろうか。アルテスの2巻は一通り習ったのだけど、指定テンポで正確に吹けたかというと、全くもって情けないばかりで、もう一度最初からやり直してもいいくらいの出来である。
教則本や練習曲を吹きたいからフルートを始めたわけではないのだが、基礎的な指の動きというのは、どうしてもネックになるし、T&Gみたいな地道な練習が是非とも必要なわけだ。
というわけで、レッスンがあると思うと笛も持って練習もするのだけど、レッスンをこなすだけの練習になりがちだし、これを機会に、もう一度やり直してみようかなと思っているところである。
しかし、趣味なんで急ぐ必要はないと思うものの、指や歯や肺が健在で笛をいつまで吹けるのかと考えたら、他の楽器よりは満足できる年数て短いような気がする。
学生時代にオケとかやっていれば、アマチュアオケとかに入りたいと思うけど、それも無理っぽいし、同じレベルの人とアンサンブルなんかできればいいと思うけど、時間・空間・人・スキル的に難しい。
私の習っていた小松先生は、確か今現在で72歳のはず。結構もう、いいおじいさんなんだけど、肌艶はいいし白髪のきれいなヘアスタイルで、姿勢なんかもしゃきっとしていて、しかも指も私より回るてんだから、うらやましいていうか、尊敬しちゃうよね。笛を吹くという行為と、レッスンで色々な人に常に接しているというのが、いつまでも若さを保っているのだろうな。
小松先生には、フルート協会でまた会う機会もあるけれど、とりあえずはありがとうございました。
2001年8月18日土曜日
【音盤】クナッパーツブッシュのブルックナー8番
ワーグナー:「ローエングリン」Vol.1 第1幕前奏曲 ほか 指揮:クナッパーツブッシュ 演奏:ミュヘン・フィル 録音:1962(ブルックナー) 1963(ワーグナー) DG Westminster
DGのWestminsterレーベルからクナのブルックナーとワーグナーが発売されていた。クナといえば熱烈なファンも多くクナの優れたHPもいくつか拝見したことがある。クラシック初級者である私はクナの演奏をほとんど聴いたことがない。
さてこの盤はリマスターテープ版なのであるが、クナッパーツブッシュの演奏よりも、録音されている音の広がりやクリアな音質に驚かされた。ブルックナーとワーグナーの音楽が絶妙のハーモニーで響き渡り、天上のような音楽を聴かせてくれる。弦の艶やかさなどにも一点の曇りもなく、例えばローエングリンの美しいことと言ったら・・・言葉にはならないほどだ。また、ブルックナーの壮大さときたらどうだ。改めてブルックナーの素晴らしさを認識させられる思いだ
とは言っても、「クナのこの演奏は…」などと恐れ多いことは当分書けそうにない。ただ、非常に充実した一枚であることは確かなようだ、ということだけは記さずにはおかれない。(「当たり前だ!!」と怒りの声も聞こえそうだが…)
2001年8月17日金曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 バルビローリ指揮 ハレ管による交響曲第5番
シベリウスの5番を聴くときに、その中に何を見出し何を聴き取ることができるだろう。まずは、シベリウス自身がこの交響曲の着想を得えたときの言葉が、曲のもつイメージを端的に言い表しているように思えるので以下に引用してみたい。
いかがであろうか、曲を知っている人ならば成る程とうなづくのではなかろうか。シベリウスが「神」をどのように認識していたかは分からない。彼の曲からは(他の交響曲であっても)大いなる自然に対する畏敬とも畏怖ともとれるような感情を抱くことがある。シベリウスはキリストのような「神」ではなく、もっと包括的な壮大なる存在と捉えていたのではないかと思う。5番交響曲を聴いた後に残る全身に満たされた喜びや至福の感情は、偉大なる存在を身近に感じたときに得られる満足感なのだろうか。
もう一つこの交響曲のインスピレーションの源泉として語られる体験がある。すなわち白鳥がシベリウスの頭上を旋回し陽光の照る靄の中を、銀のリボンのように消えていったというものだ。彼は「生涯で最も大きな感銘の一つ」と記しているが、この経験そのものを音楽から感じ取ることは難しい。しかし、3楽章が終了した後の感興がシベリウス自身の感じた感動に近いものだとするならば、何と素晴らしい体験だったのだろうと思わずにはいられない。
このように極めて音楽的純度の高い交響曲を聴くに当たって、これから紹介しようとしているバルビローリ&ハレの演奏が他を圧しての名演奏であるかは議論が分かれると思う。ライナーノーツによると、バルビローリは交響曲第5番を57年(本演奏)、66年、68年と三度録音している。彼のほかの演奏を聴いていないため客観性を著しく欠くとは思うものの、私はこの演奏から多くの豊なイメージを感じ取ることができた。
このコンビの演奏の特質としては、熱い演奏ではないが迫力は十分である。録音が古いせいでffの部分音が割れているのが残念だが、オケの勢いなども不足なく伝わってくる。全体的にリズムの歯切れが良く、また音の重心の高さは涼しさや莉莉とした整然さを感じさせる。ロマンティシズムに流れそうになる部分においても、一歩手前で踏みとどまっているようにも思え、好感がもてる。といって、感情の入り方が少ないわけではない。むしろこの曲に対する深い愛情に裏打ちされた演奏のように思える。
例えば3楽章のラストへ向けての盛り上げ方には繊細さと美しさの中から、音の大伽藍が築き上げられる様であり圧巻である。音響の悪さを差し引いても十分に堪能することができるのではなかろうか。録音が悪いといってもそれはff部分であり、各セクションの動きなどは比較的良く聴き取ることがでるためクレバーな印象を受ける。そのようなところが、色彩豊かに聴こえる要因なのかもしれない。
以上のように書くと上出来の演奏のように読めてしまうが、先にも書いたように、これがシベリウスのあるいはバルビローリの名演奏であるかは分からない。それよりも、演奏される曲が素晴らしいのだと思う。何度も繰り返し聴くたびに色々なものが見えてきたり感じられてきたりする曲であると思う。
��楽章の壮大なるラストに酔うも、2楽章の思索的な散歩をするかのごとき逍遥を楽しむのもよし、また鐘か打ち寄せる波のうねりのような音楽に身をゆだねるのもよしである。言葉には換言できない音楽的体験を得ることができる。
最後にふと気づいたのだが、1楽章の勇壮な主題に入る以前の部分、弦のトレモロの伴奏が不安気な感じを抱かせる部分がある。4番交響曲のようなとりとめのなさや、つかみ所のない動きをしているものの、前作との決定的な違いは、その先に解決や頂点がある点だ。この時期のシベリウスの精神的な充実度を示しているように思えるのだが、いかがだろうか。
2001年8月16日木曜日
靖国神社と東京裁判
昨日の日記の視点で欠けているものがあることに気付いた。それは、「東京裁判」というものについてである。「東京裁判」とは言うまでもない、連合国の戦勝国が日本の戦争犯罪人=国家の指導者を裁いたという裁判だ。そこでA、B、C級戦犯が裁かれた。東京裁判の正当性について疑問視する主張があることも薄々は知っているが、それ以上の深い議論にまで立ち入って調べたことは、恥ずかしながら私としては皆無だ。
しかし、ここにまで立ち上らなければ「靖国」問題の真相は見えてこないのではないかと思い始めた。C級戦犯とされた者たちの遺族は、断腸の想いであるかもしれない。何故に自分の肉親が「戦犯」なのかと、靖国の御霊になり終戦の度に慰霊されることがどうして他国から非難されなくてはならないのかと。
戦争犠牲者の御霊を祀り、慰霊するという行為は何なのか。さまざまな想いが余りにも重く交錯し、今の段階では何が正しいのか結論付けるのことの難しさを感じる。
一つだけ言えるとしたら、戦争責任を含めて日本においては、真剣に戦争という行為を教えられてもいなければ、子供たちに伝えてもいないということだ。
しかし、ここにまで立ち上らなければ「靖国」問題の真相は見えてこないのではないかと思い始めた。C級戦犯とされた者たちの遺族は、断腸の想いであるかもしれない。何故に自分の肉親が「戦犯」なのかと、靖国の御霊になり終戦の度に慰霊されることがどうして他国から非難されなくてはならないのかと。
戦争犠牲者の御霊を祀り、慰霊するという行為は何なのか。さまざまな想いが余りにも重く交錯し、今の段階では何が正しいのか結論付けるのことの難しさを感じる。
一つだけ言えるとしたら、戦争責任を含めて日本においては、真剣に戦争という行為を教えられてもいなければ、子供たちに伝えてもいないということだ。
【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第5番
指揮:サー・コリン・デイヴィス 演奏:ボストン交響楽団 録音:1/1975 PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
シベリウスの5番を曲をよく聴くにつれ、シベリウス独自の音楽的世界と音響の魅力に深く感動を覚えるのを禁じることができない。曲の全体的な印象は、前作の4番で見せたような暗さはない。エネルギッシュでまた大いなる畏敬と深い至福の感銘に満ちた音楽に仕上がっている。
シベリウスの交響曲は標題音楽ではなく、いわゆる絶対音楽と区分されているが、私には音楽的にこの両者を厳密に区別する必要があるのかと疑問を感じることがある。「標題的」「絶対的」ということ意味があるのだろうかと思うのだ。音楽研究の場ではその区別は必要なのだろうが。
なぜこのようなことを書き始めたかというと、シベリウスの音楽を聴いていると、色々なイマジネーションや感情的なものが心の中に浮かんでくるからなのだ。たとえば、第一楽章の冒頭のホルンによって導かれる木管の音などは、靄の中からの朝日のようですがすがしい思いがするし、第三楽章の冒頭の弦のトレモロなどもそよぐ風の音を聴くかのようだ。何らかの標題を付けたとしても不思議に思わないかもしれない。
そのような自然や体験から得られたインスピレーションを背景として、壮大な音楽的な世界が立ち上がってくる様はまさに圧巻である。シベリウスがフルートやトランペットを始めとする金管群に与えた役割は何と重要であろうか。クライマックスで現れる主題群は重層的な和音は、ブルックナーのようなオルガン的音響を形作る。
終楽章(第三楽章)のラストのあり方は、6つの和音が離れ離れに響き、決然たる終わり方をするのだが、なんとも不思議な終わり方をすると初めて聴いたときに感じたものである。それまでのトランペットを中心に奏でられる2分音符主題が、余りにも音楽的な充実感に満ち満ちているだけに、ラストの不自然さはいっそう際立って感じられたのである。
しかし何度もこの曲を聴くうちに、あのような曲の終わり方は、抒情に流されないかのような強い意思表明のようにも思えてきて、それがかえって心地よく響くようになってくるものである。
いままでのC・デイヴィス&ボストン響の演奏をどのような評で書いてきたか、本当は振り返る必要があるのかもしれない。今はそれを行わないが、この演奏を聴いてデイヴィス&ボストンてこんなに弦が美しくそして、打楽器や金管が力強かったかしらと思ってしまった。
特に第一楽章の最後など、トランペットの終結主題にたたみ掛けるような打楽器がかぶさり、スピーカーを通して聴いていたら圧倒されてしまい、開いた口がふさがらない状態になってしまったものだ。
先に書いたブルックナー的な和音の重なりも十分に満喫することができ、聴き終った後に至福にも似た充実感に満たされる。これぞシベリウスという感じだ。良く聴くとこの演奏には粗さもある、オケが抜群に上手いというわけでもない。でもある種の清冽さと潔さが感じられ曲の持つ性質を表現し尽くしているようにも思えるのだ。
2001年8月15日水曜日
13日の参拝と小泉首相の公約
「13日に小泉首相が靖国を参拝したことは公約違反だ、これからの構造改革を推進する上でマイナス要素を投げかけた。」と言うマスコミや政治家がいる。
昨日の筑紫哲也のニュースに出ていた自民党女性政治家(名前はわかりません)も「非常に残念、公約違反だ」と公然と批判していた。
舛添氏はこれを受け、「13日参拝と構造改革推進は別問題」「政治家は色々な意見を調整しつつ最終結論を出す」ものなので、構造改革という公約をトーンダウンするつもりはない、と答えていた。(ちなみに、枡添氏の靖国参拝に対する意見は「高度に政治的判断で評価できる」というもの)
私も、枡添氏の意見に同調する。もし小泉氏が公約とおり15日に参拝していたならば、私は小泉氏を全く理解することができず、むしろ恐怖をもって彼の行動を注視することになっただろう。
「中国からの抗議に屈したと思われたくない」などという意見も多いらしいが、これにも違和感を感じる。枡添氏も言っていたように、今回の一連の首相の言動は国際社会に対して説明可能であるとは思えないからだ。そのような理不尽なものを「公約」という一点張りで「厳守」することを要求するのはいかがなものかと思うのだ。
構造改革推進はそれはそれで、進めてもらいたいが、「間違っていた」ことには修正が必要なのではないか。そして、「間違っていたこと」を小泉首相は自ら説明する責任があるということだ。
それさえ行われれば、政治活動にどこに支障があろうか。
昨日の筑紫哲也のニュースに出ていた自民党女性政治家(名前はわかりません)も「非常に残念、公約違反だ」と公然と批判していた。
舛添氏はこれを受け、「13日参拝と構造改革推進は別問題」「政治家は色々な意見を調整しつつ最終結論を出す」ものなので、構造改革という公約をトーンダウンするつもりはない、と答えていた。(ちなみに、枡添氏の靖国参拝に対する意見は「高度に政治的判断で評価できる」というもの)
私も、枡添氏の意見に同調する。もし小泉氏が公約とおり15日に参拝していたならば、私は小泉氏を全く理解することができず、むしろ恐怖をもって彼の行動を注視することになっただろう。
「中国からの抗議に屈したと思われたくない」などという意見も多いらしいが、これにも違和感を感じる。枡添氏も言っていたように、今回の一連の首相の言動は国際社会に対して説明可能であるとは思えないからだ。そのような理不尽なものを「公約」という一点張りで「厳守」することを要求するのはいかがなものかと思うのだ。
構造改革推進はそれはそれで、進めてもらいたいが、「間違っていた」ことには修正が必要なのではないか。そして、「間違っていたこと」を小泉首相は自ら説明する責任があるということだ。
それさえ行われれば、政治活動にどこに支障があろうか。
予想とおりの反日感情
ニュースを見ていたら小泉氏の靖国参拝に抗議してのデモや小泉人形を燃やすなどの反日行動が韓国と中国で行われたらしい。この反日行動が、ごく一部の人の間だけのもので一般市民は冷ややかなのか、あるいは、大多数がこの行動を喝采しているのか、本当のところはどうなのだろう。ニュースだけ見ると、規模や広がりについてほとんど伝わってこない。我々が受ける感情は「やっぱりな」ということくらいだ。
それにしても驚くのは、他国の行動に対してここまで過剰に反応する彼らの土壌である。それほどの反発が深い根のところにあるわけだ。行動を起こす人たちを見ると結構若い層のようだから、これは教育あってのことではなかろうかと思う。中国や韓国では、日本よりも詳しく戦争と靖国の関係を理解しているのだろう。
さらには、日本を迎合しようとしながらも反日感情を捨てきれないという何かしこりのようなものがあるのではないかと思う。それだって、教育が植え付けているのではないか?
例えば、「日本は韓国や中国を搾取してアジアで圧倒的に優位な立場を築いた」と認識しているとするなら、そういう歴史認識を教育で醸成しているわけだ。
翻って、日本人が米国やその他の諸外国の行動に対して、猛烈なる抗議をすることが一体あるだろうか。沖縄の問題にしたって冷ややかなのが現状だろう。これも教育のせいなのか、それとも、単なる無関心なのか。
やはり、他国との協調と国際社会での一員となるには、お互いの歴史観を理解することが重要で、その前提には、自分たちの歴史観を明確にする作業がぜひとも必要だと思うのだが。
それにしても驚くのは、他国の行動に対してここまで過剰に反応する彼らの土壌である。それほどの反発が深い根のところにあるわけだ。行動を起こす人たちを見ると結構若い層のようだから、これは教育あってのことではなかろうかと思う。中国や韓国では、日本よりも詳しく戦争と靖国の関係を理解しているのだろう。
さらには、日本を迎合しようとしながらも反日感情を捨てきれないという何かしこりのようなものがあるのではないかと思う。それだって、教育が植え付けているのではないか?
例えば、「日本は韓国や中国を搾取してアジアで圧倒的に優位な立場を築いた」と認識しているとするなら、そういう歴史認識を教育で醸成しているわけだ。
翻って、日本人が米国やその他の諸外国の行動に対して、猛烈なる抗議をすることが一体あるだろうか。沖縄の問題にしたって冷ややかなのが現状だろう。これも教育のせいなのか、それとも、単なる無関心なのか。
やはり、他国との協調と国際社会での一員となるには、お互いの歴史観を理解することが重要で、その前提には、自分たちの歴史観を明確にする作業がぜひとも必要だと思うのだが。
2001年8月14日火曜日
歴史認識の違いと他国の干渉
8月14日の産経新聞 「正論 米バンダービルト大学教授 ジェームス・アワー」~日本の教科書の検閲はやめなさい、歴史の見方は国によって違うものだ」は、なかなか面白く示唆に富む。
中国や韓国からの指摘を「内政干渉だ」などと言っているのではない。歴史認識というのは各国によって異なるのが当然であり、さまざまな見方が容認されるべきである。その上で、他国の歴史観を含めて、総合的に判断できる(あるいは相互批判)ような土壌が重要だと言っている。
という意見にもはっとさせられる。我々は隣国のことを一体どれほど理解したり、知っているのだろうか。あるいは、そのような教育をされてきただろうか。
中国や韓国の人たちが、何故にこれほどまでに半日感情を持つのかを、学校で教えてくれただろうか。何かがゆがんではいまいか。
中国や韓国からの指摘を「内政干渉だ」などと言っているのではない。歴史認識というのは各国によって異なるのが当然であり、さまざまな見方が容認されるべきである。その上で、他国の歴史観を含めて、総合的に判断できる(あるいは相互批判)ような土壌が重要だと言っている。
戦争という歴史的事実の大きさを考えると、中国、韓国、日本の教科書がそれぞれに異なった内容をもつより、類似した内容である方がより大きな驚きではないだろうか。(引用)
という意見にもはっとさせられる。我々は隣国のことを一体どれほど理解したり、知っているのだろうか。あるいは、そのような教育をされてきただろうか。
中国や韓国の人たちが、何故にこれほどまでに半日感情を持つのかを、学校で教えてくれただろうか。何かがゆがんではいまいか。
小泉首相の靖国神社 電撃参拝
小泉首相が靖国神社に13日、繰り上げ参拝を行った。
新聞各紙の賛否は大きく分かれている。朝日新聞は、当然のごとく首相の参拝自体を批判している。日経新聞も同じ口調だ。一方、読売新聞は中立的で「政治的判断」として評価している。しかし「一国の指導者が戦没者を追悼するためにいつ参拝するか、参拝方法はどうするかといった問題は、本来、その国の伝統や慣習に基づく国内問題である。他国からとやかく言われる筋合いはない。(引用)」という姿勢は崩さない。産経新聞は、公式参拝を15日に実施できなかったことを「きわめて遺憾」であり「信を失う」「国民のほとんどが15日に参拝すると思っていた」と書く。
新聞各紙でさえ、このように意見が分かれている。
私は基本的なことが分からない。靖国神社とはそもそも何なのか。あそこに戦没者が合祀されている遺族にとって、靖国とは何なのかだ。そもそも靖国とは、「天皇陛下の為に命をかけ、戦死したら祭る」という掛け声で、戦地に動員することに利用された、徴兵システムではなかったのか。
宗教か否かは問わない。しかし、そのようなシステムであったことを反省もせず、また、近隣諸国の感情的な反発までを無視し、(歴代の)首相が参拝にこだわる理由が、私にはわからない。遺族会からの圧力なのかとさえ思ってしまう。
��級戦犯でさえ、当時の国の方針に従って任務を遂行したまでで責められるべきではない、という意見を吐く人もいる。ばかを言ってはいけないと思う。企業を破綻に追いやった重役たちに、その責任がないと言って、のうのうとしていられるリストラ社員がいると思うのか。政治的判断をするのに当たって、その責任がないなどということは間違っている。
首相の談話は、http://www.kantei.go.jp/new/0813danwa.html から読める。
私の態度としては、靖国という場に参拝した首相については、どういう言い訳をしようとも支持はできない。それは、他国からの圧力とは別の問題である。自国の中でさえ「靖国」問題は浮遊していると思うだけにだ。
新聞各紙の賛否は大きく分かれている。朝日新聞は、当然のごとく首相の参拝自体を批判している。日経新聞も同じ口調だ。一方、読売新聞は中立的で「政治的判断」として評価している。しかし「一国の指導者が戦没者を追悼するためにいつ参拝するか、参拝方法はどうするかといった問題は、本来、その国の伝統や慣習に基づく国内問題である。他国からとやかく言われる筋合いはない。(引用)」という姿勢は崩さない。産経新聞は、公式参拝を15日に実施できなかったことを「きわめて遺憾」であり「信を失う」「国民のほとんどが15日に参拝すると思っていた」と書く。
新聞各紙でさえ、このように意見が分かれている。
私は基本的なことが分からない。靖国神社とはそもそも何なのか。あそこに戦没者が合祀されている遺族にとって、靖国とは何なのかだ。そもそも靖国とは、「天皇陛下の為に命をかけ、戦死したら祭る」という掛け声で、戦地に動員することに利用された、徴兵システムではなかったのか。
宗教か否かは問わない。しかし、そのようなシステムであったことを反省もせず、また、近隣諸国の感情的な反発までを無視し、(歴代の)首相が参拝にこだわる理由が、私にはわからない。遺族会からの圧力なのかとさえ思ってしまう。
��級戦犯でさえ、当時の国の方針に従って任務を遂行したまでで責められるべきではない、という意見を吐く人もいる。ばかを言ってはいけないと思う。企業を破綻に追いやった重役たちに、その責任がないと言って、のうのうとしていられるリストラ社員がいると思うのか。政治的判断をするのに当たって、その責任がないなどということは間違っている。
首相の談話は、http://www.kantei.go.jp/new/0813danwa.html から読める。
私の態度としては、靖国という場に参拝した首相については、どういう言い訳をしようとも支持はできない。それは、他国からの圧力とは別の問題である。自国の中でさえ「靖国」問題は浮遊していると思うだけにだ。
2001年8月12日日曜日
2001年8月9日木曜日
ピアニスト ウゴルスキのインタヴュー
「レコード芸術 8月号」に、ウゴルスキのインタヴューが2ページにわたって掲載されていたが、非常にストレートな歯に絹を着せぬ内容で、少なからず驚ろいてしまった。
いわく、ブラームスのソナタややシューマンのいくつかの作品は、それほど良くできていない。今までの演奏で満足いくものはなく、私が弾くのが一番である、しかし、ブラームスを弾くのは私の本意ではない。
いわく、ワーグナーなどは「裸の王様」ともいうべき音楽だ(皆がいいと騒いでいるだけで、全然よくない)、シェーンベルクやベルクの作品は、なくなっても私は気づきもしない。
いわく、スクリャービンのソナタは非常に優れた作品で、今は評価が低いが200年も経てば名曲になっているだろう・・・
などなど・・・。手元に冊子がないので、かなり私のコトバに置き換わっているが、非常に過激な意見であることに変りはない。ウゴルスキはまだ聴いたことのないピアニストで、最近DGより新譜が多く出されているので聴いてみたいと思っていたピアニストではあった。
それにしても!! なんたる発言だろうかと、驚きを通り越してあきれてしまった。レコ芸も、「名曲300選」なんておばかな企画を繰り返しているヒマがあったら、こんな面白いインタヴューを尻切れトンボみたいに終わらせず、もっとページを割いて欲しいものである。
いわく、ブラームスのソナタややシューマンのいくつかの作品は、それほど良くできていない。今までの演奏で満足いくものはなく、私が弾くのが一番である、しかし、ブラームスを弾くのは私の本意ではない。
いわく、ワーグナーなどは「裸の王様」ともいうべき音楽だ(皆がいいと騒いでいるだけで、全然よくない)、シェーンベルクやベルクの作品は、なくなっても私は気づきもしない。
いわく、スクリャービンのソナタは非常に優れた作品で、今は評価が低いが200年も経てば名曲になっているだろう・・・
などなど・・・。手元に冊子がないので、かなり私のコトバに置き換わっているが、非常に過激な意見であることに変りはない。ウゴルスキはまだ聴いたことのないピアニストで、最近DGより新譜が多く出されているので聴いてみたいと思っていたピアニストではあった。
それにしても!! なんたる発言だろうかと、驚きを通り越してあきれてしまった。レコ芸も、「名曲300選」なんておばかな企画を繰り返しているヒマがあったら、こんな面白いインタヴューを尻切れトンボみたいに終わらせず、もっとページを割いて欲しいものである。
2001年8月7日火曜日
小泉首相と米百俵と教育改革
8月2日の首相メルマでも、「米百俵」のことが取り上げられていた。
「米百俵」とは、今さら解説するまでもないが、北越戊辰戦争の時の長岡藩の故事である。食べるものに窮していた長岡藩に、支藩の三根山藩から見舞いの米が贈られてきた。しかし、長岡藩大参事小林虎三郎は「食えないときこそ、教育に金をつぎ込むのだ」と言って、その金を国漢学校に注ぎ込んだ、というものだ。
つまりは、国を支えるの「教育の重要性」や「目先のことにとらわれない明」ということを小泉首相は強調したいんだろう。
しかしだ、小泉首相はそこまで教育に熱心なんだろうか。現在の義務教育の2002年の改定(学習指導要領の改訂)などについて、議論に上ることは少ない。
私は、2002年の指導要領改訂は、愚行にも近い改悪だと思っている。こう考えるのは、昔ながらの教育を受けたから、その枠組みから逃れられないせいである、とか、学校の勉強についていけない者の気持が分からない者の発言、とか批判的に考えることもできるかもしれないが。
しかし、それでもなおかつ思う。指導要領は改悪だし、今のままでは「米百俵」を腐らせるだけのような気がするのであった。
「米百俵」とは、今さら解説するまでもないが、北越戊辰戦争の時の長岡藩の故事である。食べるものに窮していた長岡藩に、支藩の三根山藩から見舞いの米が贈られてきた。しかし、長岡藩大参事小林虎三郎は「食えないときこそ、教育に金をつぎ込むのだ」と言って、その金を国漢学校に注ぎ込んだ、というものだ。
つまりは、国を支えるの「教育の重要性」や「目先のことにとらわれない明」ということを小泉首相は強調したいんだろう。
しかしだ、小泉首相はそこまで教育に熱心なんだろうか。現在の義務教育の2002年の改定(学習指導要領の改訂)などについて、議論に上ることは少ない。
私は、2002年の指導要領改訂は、愚行にも近い改悪だと思っている。こう考えるのは、昔ながらの教育を受けたから、その枠組みから逃れられないせいである、とか、学校の勉強についていけない者の気持が分からない者の発言、とか批判的に考えることもできるかもしれないが。
しかし、それでもなおかつ思う。指導要領は改悪だし、今のままでは「米百俵」を腐らせるだけのような気がするのであった。
2001年8月5日日曜日
【音盤】ゲルギエフ指揮/キーロフ歌劇場管弦楽団による「春の祭典」
ストラヴィンスキー:「春の祭典」(1947年改定版)
ワレリー・ゲルギエフ(cond) キーロフ歌劇場管弦楽団
July 1999 PHILIPDS UCCP-1035(国内版)
ゲルギエフがストラヴィンスキーの「春の祭典」を録音したとなれば、嫌でも聴かねばならないという気にさせられてしまう。国内版で多少高くても、あるいは宇野功芳の解説がうっとうしくとも、まずは聴かねば始まらない、ということで結構期待をもって購入した。
この曲を聴くには、少しはいい再生装置で聴いたほうがよいと、まず言っておこう。最初はCDウォークマンのチンケなヘッドフォンで聴いていたのだが、それから受ける感興とスピーカーや良いヘッドフォンを通して聴いたのとでは、全く別の曲を聴くような体験であった。
さて、「序奏」からして重低音が響き、荒々しきプリミティブな爆発前のエネルギーを感じさせてくれる。この数分間だけで、ゲルギエフの面目躍如たるべき音楽であるという期待が高まる。
「春のきざしと乙女たちの踊り」の部分の粗さと躍動感、そして全体に漲る生気はどうだ。ティンパニなどの打楽器の強打は大地を打ち鳴らすほどのもので、何と言う迫力であろうか。宇野功芳が絶賛するのも、わからないでもないかと思わせる。そして、どう言うといいのだろうか、体全体が浮き足立つ、細胞が立ち上がって喜びに震え出すような雰囲気なのだ。「レコード芸術 8月号」で山崎浩太郎氏が”踊る音楽”とか”肉体性”というキーワードを使って語っているが、的確な表現であると思う。
「クラシック招き猫」のBBSで誰かも評していたが、確かに粗い、「春の祭典」として変なところもあるらしい。しかし、それが一体どうしたというのか、この演奏の本質からは瑣末的な問題としか思えない。
「誘拐の遊戯」の部分などは恐怖さえ感じるような音楽に仕上がっているではないか。ここに至ってすでに脳天に直撃のような衝撃を受けてしまっている自分に気付くのだ。ゲルギエフの術中に完全にはまってしまっている。
「春のロンド」のコントラバスの地響きにも似たフレーズの作りこみ。何かが巨大な予感とともに再生し立ち上がってくる臭い。そしてティンパニと金管群による信じられないほどの叫びとフォルテッモ!!! ここから「敵の都の人々の戯れ」「賢者の行進」に至る音楽の勢いの圧倒的な迫力、粗いとはいうが弦楽器は結構滑らかだ。しかしこのリズムと勢いは何なんだ、なだれ込み、息をつかせる暇を全く与えない、まるで花火大会のスターマインを聴かされているかのような畳み込むような音の洪水は、まさにゲルギエフ節だ。 「大地への口づけ」のラストの不協和音の響きなどは戦慄さえ走る。こんなにもすさまじき和音であったか、「大地の踊り」に至っては、もはや音響に溺れてしまい助けを求めたくなる。
何と言うことだ、何と言う音楽だろう、あっという間に第一部が終了してしまっている。そして、さらに深淵なる第二部の「序奏」に突入だ。
ここの不協和音ときたら、現代音楽だ、クラシックだなどという範疇を超えてしまった音だ。この音を聴いて、魂が揺さぶられないものがいようか(=いるとは思うよ)。
第一部の怒涛の音楽を聴いて、ここでふっと一息つくかのごとくだが、先ほどの粗さと緊張感を維持しながら「乙女たちの神秘な集い」などがうたわれてゆく。繊細さとか精緻さというものは感じない。図太い音楽が迷いもなく進んでゆくという感じだ。
そして、「いけにえの賛美」だ。宇野功芳は嫌いだが、いまは素直に解説を認めたい。ここに至って音楽は沸騰し始める。それも、煮えたぎったという感じではなく、これほどの音楽でありながら、不思議なことに冷たく煮えたぎっているのだ。ゲルギエフは非常に効果的に音響を形作っている、一見熱く振っているようで、綿密なる計算があるのではなかろうか。
「祖先の呼び出し」のおどろおどろしくも呪術的な雰囲気は、「祖先の儀式」へと引き継がれる。単調に打ち鳴らされるリズムが次第にクライマックスへ向けての序奏になっていて曲を前に進めてゆく、ひとつの緩みもなくだ。音楽を聴くものはゲルギエフに首根っこを鷲掴みにされたまま、異教徒の集会を見せられ引きずりまわされてしまう。
最後の「いけにえの踊り」までもだ。もはや目をそむけることなど許されない。目を覆うばかりのこの雰囲気も、ついには原始の野蛮なまでの本能が刺激され、狂暴にして荒ぶる魂が完全に目覚めさせられてしまうのだ。ラストのあり方などどうだ、「これでもか!!」と棒を振り下ろした=いけにえを完全に屠ったかのような感じだ。
何度も繰り返すが、何という音楽で何と言う演奏であろうか。最初から最後まで慄然としたまま音楽が過ぎてしまった。聴かねばこの迫力は伝わらないと思う。ゲルギエフが好きなら迷うことなく買いなさいというところだ。
ただだよ、冷静に聴くならばこれが古今東西の「春の祭典」の決定盤ということにはならないと思う。何故って? これは、完全に「異教徒の祭典」の音楽なのだ。このエネルギーのあり方は、「春の祭典」を20世紀の現代音楽の幕開け的な位置付けや、解釈からの演奏とは目指す方向が異なると思うのだ。純粋に音楽的な世界だけがここでは展開されている。 私はそれほど多くの「春の祭典」に接しているわけではない。宇野功芳のような熱に浮かされたような感想を書いてはしまったが、それだけエキセントリックな一枚であることだけは確かなのである。
2001年8月2日木曜日
【本棚】田口ランディ:モザイク
「コンセント」は各方面から賞賛と驚愕をもって迎えられた小説だった。村上龍氏も絶賛しており、10年に一度の傑作とか、こういう小説を読みたかったのだと凄い褒め様だった。私も出てすぐに読んだが、「コンセント」は衝撃的な小説だった。引きこもりの兄が、自宅で朽ちるように死んだ謎を追い求めながら、自分探しの旅と現代の社会に生きる人を炙り出すような小説だった。
今回の「モザイク」にしても、三部作というだけあって、田口の考えている方向性はひとつであることが分かる。端的に言ってしまえば、現代に生きる若者=大人たちからは理解されがたい行動をとる若者や、猟奇殺人に走る少年達は、ほんとうは異常者なのではなく、情報社会といわれる現代で生き抜くための新たなOSを持ち始めた者たちなのだ、という論点だ。
また、主人公達は「コンセント」だったり「アンテナ」だったり、ある人たちに対して巫女だったり、アースだったりするような癒しの人物も登場させ、物語を構築している。そして、「世界は記憶で成り立っている」「記憶を作るために人間がいる」「人間の精神は無数の感情のひな型で構成されたモザイクである」などの大胆な発想を展開している。
今回の小説は、家庭内などで問題を起こす人達を説得し精神病院に行くように薦める「運び屋」を職とする主人公ミミが、輸送の途中で疾走を遂げた少年を探すというストーリーだ。しかし、それは救済とか病理をえぐるとか、異常者(というカテゴリー)を肯定するというものではない。
世間で「異常」と見られてしまった少年にただより沿い、彼の感じていることを主人公ミミを通して読者に見せてくれる。またそれが、いろいろな人の心の中にあるモザイクを共振させることにつながっているのかもしれない。
一見して現代の病理を書いているような体裁をとりながら、その背景や原因を追求しているわけではない。ただ、その病理(と彼女は考えていない)の横に寄り添い、話しを聞いてあげている、彼らの言うことを受け入れている、そうすることで作者のの世界観を語る、そんな小説なのだ。
田口ランディというのは、不思議な雰囲気を持った人なのだと思う。メールマガジンを読んでいても感じるのだが、彼女の文章を読んでいると人の持つ虚飾や見栄が剥ぎ取られて、純粋にからだというものが剥き出しにされてしまうように感じることがある。難しく頭で考えることが、卑しく感じられてしまうことがある。それは、彼女が身体性とか関係性(コトバには還元できない、もっと直接的に心に響くもの)を重視しているからなんだと思う。
そして、最後には決まって、なんだか自分が他者に対してやさしくなったような気にさせてくれるのだ。
もっとも、「渋谷の底が抜ける」「渋谷が電子レンジ化する」というコトバは衝撃的であるが、小説としては、「モザイク」には及ばないような気がする。少年の言葉が説明的であり、小説としてのリアリティを欠いているとは思うからだ。また、彼女の小説に共通の、ラストのありかたにも疑問を感じないわけではない。しかし、それは作品上大きな問題ではないのかも知れない。彼女の描く圧倒的な内実は否定する気持ちを無視して心を打つのだ。
現代が、ある人たちにとってはかくも生き難く、新たなOSが必要とされているという大胆なテーマには深く考え込んでしまう。私のように古いOSに育てられ、古いOSしか身に付けなかったものには、新しいOSで生きる人たちの社会を思い描くことは、四次元を想像するよりも難しいと思うのだった。
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