時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
2003年1月30日木曜日
《指環》を概観する
《指環》は長さとともに、複雑な人間関係に辟易して作品を敬遠してしまう向きもないではない(私もそうだった)。しかし、しばらく眺めたり聴いたりしていると、まずは重要な人物だけ押えれば良いと気づく。基本は以下の人物ではなかろうか。
- ヴォータン:欲深い神
- フリッカ:その嫉妬深き妻
- ローゲ:火の神、ブリュンヒルデを封印したりする
- エルダ:ヴォータンの不倫(?)相手の女神
- ブリュンヒルデ:ヴォータンとエルダの娘、後にジークフリートとの悲しい愛が芽生える
- ジークムント、ジークリンデ:ヴォータンが人間の女性に産ませた(!)双子の兄妹
- ジークフリート:ジークムントとジークリンデの近親相姦の愛から生まれた(!!)子供
書いているだけでムチャクチャ・・・という気がしてくる。ちなみにブリュンヒルデはワルキューレの一員、ワルキューレとは空を駆ける戦場からの死体搬送業者のことである。その他に押えておくべき人物は(異論もあろうが)以下であろうか。
- アルベリヒとミーメ:小人族、醜さ故に愛を捨てラインの黄金を盗んだ
- ファルゾートとファフナー:巨人族、強欲でアタマの悪そうな建設請負業社(?)
- グートルーネ:ジークフリートと結婚させられる女性、ブリュンヒルデの引立て役(「ニーベルンゲンの歌」のクリームヒルト)
まだまだ居るのだが、重要なのは何と言ってもジークフリートとブリュンヒルデだ。この二人の物語を作るために延々としたドラマが繰り広げられていると言っても過言ではないのだから。ただ第1日目の《ワルキューレ》においてさえジークフリートはまだジークリンデの胎内に宿るのみなのだ。
この数人が、15時間の中で入り乱れ、愛し合い、生まれ、そして企み合い、憎み合い、殺し合う。それ故に《指環》のテーマは非常に多岐に渡っている。権力と富、策略、禁じられた愛と愛憎、女性の自己犠牲による贖罪など、いかにもワーグナー的なテーマと言えようか。
特に女性(今回はブリュンヒルデ)による罪の浄化というのはワーグナーお好みのテーマなのだろか。《タンホイザー》でのエリーザベトも同じような役廻りを演じている。あるいは愛のために愛の力で自ら死すイゾルデの姿ともだぶるものがあると感じる。ワーグナーの理想の女性像の反映だろうか。
対するジークフリートは英雄という設定なのだろうが、ワーグナーの描く男性(英雄)は、女性と比べるとどことなく子供じみていると感じられてしまう。トリスタンしかり、タンホイザーしかりである。《指輪》のヴォータンもとても神とは思えないところが笑える。(このヴォータン、巨人族に自分たちの城=ヴァルハラ城 を造ってもらっておきながら、踏み倒そうとしていたフシがある>そんな神なんて聞いたことねー。)
ワーグナーは神話的世界を舞台に《指環》を始めたが、それはキリスト教倫理観に基づいた神話世界ではないことは、上のような事柄から分かると思う。神々とは言っても至極人間的な愛憎や欲求の強い神々であるのだ。
で、ストーリーはと言えば、『ラインの黄金が小人族のアルベリヒに盗まれてから再び(幾多の物語を作りながら)ラインの川底に戻るまでのお話し(まさにリング!)』とも言えるし、『ワーグナーがわざわざ蘇らせた神々を再び没落させた物語』でもある。あるいは『ジークフリートの誕生と愛と死の物語』(これぢゃあ《トリスタン》だ)でもある。
え? こんな解説では全然分からない? と言う人は、素直に書店とCD店に行きましょう。
2003年1月28日火曜日
【風見鶏】最近のニュースから
筑紫哲也のニュース21で「日本を考える」というような特集をやっていた。そのなかで番組のキャスターたちが「情報の非対称性」てなことを述べていた。愕然とした。「情報の非対称性」とは確か経済用語である。このアナロジーをマスコミ自らが恥かしげもなく使うとは! 開いた口がふさがらなかった。こういうボンクラ達が展開する議論は、したがって、どこか的外れなものであった。筑紫さんにしてかと思った次第。
ニュースステーションでアメリカの学校が、実社会での金融システムなどを模した演習を始めているという紹介番組。高学年になると株取引や税に関する知識も学ぶのだそうだ。久米宏が「日本は大人になっても税金のこと何も知りませんよね、誰も教えてくれない」と嘆く。対し、経済アナリストの森本卓郎氏は「それでいいんですよ、官は民を愚に保つ政策を展開しているんですから(愚民化政策)。下手に賢くなってたてつかれても困るんです。」 ばかな人ほど損をするってわけ? 自分で賢くならなくてはだめだと?
たけしのTVタックルで食品問題についての討論(?)の中で「結局、金持ちが安全な食物を食べられて、貧乏人は農薬やクスリ付けの食物を食えということなのだな」 教育ばかりではなく食についても二極化すると。まあ、そんなこと当たり前か・・・?
さて何が透けて見えますか? こういう仕組みを作っているのは誰でしょう。誰が得をして誰が損をするんでしょう。自ら吐いた唾が自分に戻ってこなければ良いのですが。
HIYORIみどり 「最近農業やってる人と話したのよね。野菜って(失敗もしたけど)農薬使わなくても、それなりに育つんだって。農薬は高くて使えないって」
KAZAみどり 「農協が一番キライなことは”こだわり”なんですってね。均一に一律によ」
《指環》の成立年代について
ワーグナーにとってエポックメイキング的な《トリスタンとイゾルデ》が完成したのが1859年のこと。《指環》の作曲は《トリスタン》の前後に渡っているが、《トリスタン》以前に作曲されたものが《ラインの黄金》と《ワルキューレ》、以降に作曲されたものが《ジークフリート》と《神々の黄昏》ということになっている。
それにしても、ワーグナーが書きたかったのは事象としての「ジークフリートの死」(《神々の黄昏》とそれにまつわるドラマであったらしい。それを物語として肉付けするに当たり、ジークフリートの人間としての成長を描いた《ジークフリート》が成立し、更にジークフリートの誕生に至る物語《ワルキューレ》を生み(ジークムントとジークリンデの近親相姦による禁じられた愛の物語)、そして更にはジークムントとジークリンデを生み出すことになった前史としての《ラインの黄金》(ラインに眠る黄金の物語)が着想らしい。作曲は年代を追っているが、着想は劇順と逆になされたわけである。何ともはやワーグナーの誇大妄想的なイマジネーションの膨らみには恐れ入るばかりである。
| 年代 | ニーベルングの指環 | その他の作品と主な出来事 |
|---|---|---|
| 1842(29歳) | 《さまよえるオランダ人》完成 | |
| 1843(30歳) | 《さまよえるオランダ人》ドレスデンで初演 | |
| 1845(32歳) | 《タンホイザー》総譜完成、ドレスデンで初演 | |
| 1848(35歳) | 《ジークフリートの死》(《神々の黄昏》の原型)の劇詩完成 | 《ローエングリン》完成 フランスで2月革命 |
| 1849(36歳) | ドレスデン蜂起に参加、「未来の芸術作品」脱稿 | |
| 1850(37歳) | 《ローエングリン》ワイマールで初演 | |
| 1851(40歳) | 《若きジークフリート》(《ジークフリート》の原型)の劇詩成立 《ラインの黄金》《ヴァルキューレ》の劇詩のための最初の散文スケッチ完成 | 論稿「歌劇と戯曲」を完成 |
| 1852(39歳) | 《ヴァルキューレ》の第2の散文稿および劇詩完成 《ラインの黄金》の劇詩完成 | |
| 1853(40歳) | 《ラインの黄金》の管弦楽前奏曲を構想 | |
| 1854(41歳) | 《ラインの黄金》総譜完成 《ヴァルキューレ》の作曲開始 | |
| 1856(43歳) | 《ワルキューレ》総譜完成 《ジークフリート》作曲開始 | |
| 1857(44歳) | 第2幕の終わりで《ジークフリート》作曲中断 | 《トリスタンとイゾルデ》の筋をスケッチ、劇詩執筆、作曲開始 |
| 1859(46歳) | 《トリスタンとイゾルデ》総譜完成 | |
| 1860(47歳) | 《タンホイザー》パリ版完成 | |
| 1861(48歳) | パリ オペラ座で《タンホイザー》上演 《マイスタージンガー》の第2散文稿完成 | |
| 1862(49歳) | 《マイスタージンガー》の劇詩執筆、作曲開始 | |
| 1865(52歳) | 《トリスタンとイゾルデ》ミュヘンで初演 《パルジファル》台本の最初の散文稿完成 | |
| 1867(54歳) | 《マイスタージンガー》総譜完成 | |
| 1868(55歳) | 《マイスタージンガー》ミュンヘンで初演 | |
| 1869(56歳) | 《ジークフリート》の作曲再開 《ラインの黄金》ミュヘンで単独初演 《ジークフリート》総譜完成 《神々の黄昏》作曲開始 | |
| 1870(57歳) | 《ワルキューレ》ミュヘンで単独初演 | |
| 1871(58歳) | 《ジークフリート》完成 | |
| 1873(60歳) | バイロイト祝祭歌劇場完成 | |
| 1874(61歳) | 《神々の黄昏》総譜完成 | |
| 1876(63歳) | 《指環》全曲がリヒターの指揮でバイロイトにて初演 | |
| 1882(69歳) | 《パルジファル》総譜完成、バイロイトにて初演 | |
| 1883(70歳) | ヴェニスのヴェンドラミン館にて死去 |
2003年1月20日月曜日
《指環》抜粋を聴く
ショルティの偉大なる業績は昨年来から入手済みであったのだが、何しろ解説が英語とドイツ語とフランス語である。物語の概要も全く知らないのに8ポイントくらいの小さな文字の解説など読む気にならない。気軽に聴こうと思ってもボックスが4セットである。正常な神経の持ち主ならうんざりするのが当然だろう。封も切らずに棚に置かれたままになっていた。
本来なら「ラインの黄金」から聴くべきなのだが、そこはそれ「ワルキューレ」第3幕、かの「地獄の黙示録」で有名な「ワルキューレの騎行」だけ、まず聴いてみた。「地獄の黙示録」のワルキューレは、どうやらショルティの演奏であるらしい。しかし映画では音をかなりいじって重ねたりしているので、本来の演奏からはかけ離れたものになっているとのこと。
さてさて、バレンボイム版とショルティ版を聴き比べてみたが、どちらの演奏もワルキューレたちの「Hojotoho! Hojotoho! Heiaha! Heiaha! 」という奇声に乗って奏でられる曲は壮絶である。まったく延髄蹴りをくらったかのような眩暈を感じてしまう。
続いて「ラインの黄金」の抜粋を聴いてみた。「ラインの黄金」なんてなじみがないだろうなあと思っていたら、あにはからんや、第4場のラスト「雷鳴の動機」に始まり「ヴァルハル城の動機」へと移る<ヴァルハル城への神々の入場>は聴いたことがあるではないか、それもすっごくユーメーなフレーズ! ウゲゲと再びワーグナー的な壮大な感動に包まれてしまう。
ジークムントとジークリンデの近親相姦による禁じられた愛の行方は、そして権力と富の象徴の指輪の行方はどうなるのか。うーん、壮大なドラマが込められているのだなあと思うと同時に、マジメにこんなものに取り組んでいたらいくいら時間があっても足りやしない。もう一度ラインの川底にでもCDを沈めてしまうかあ、と思うのであった。ということで、『「指輪」を聴く』という企画はスタートしないのであった。「ホー・ホ・ホ・ホ・ホ・ホ・・・」
とは言いながらも、オペラ対訳ライブラリー(音楽之友社)をしっかりネットショッピングで注文してしまったよ。
2003年1月18日土曜日
【音盤】田部京子のメンデルスゾーンとシフのバッハ
田部京子/メンデルスゾーン「無言歌集」 (COCO-10450)
こういう曲を聴いていると音楽を聴く至福を感じることができると同時に、とやかくレビュを書くことの空しささえ感じてしまう。
「メンデルスゾーンのもつドイツロマンの抒情性」「静謐さ」「珠玉の名品」「ナイーブな音楽世界」「癒し系」 なるほどとは思うが、どれもが陳腐な言葉だ。
ぐたぐた言わずに静かに耳を傾けるがよい。ただゆったりと受け入れるのみ。そうすると、がさがさになった精神が、やさしく瑞々しいもので満たされてゆくのを感じることができる。非常に得をしたと感じるお薦めの1枚である。
アンドラーシュ・シフ/バッハ「インヴェンションとシンフォニアBWV772a-801」(COCO-70448)
私はシフの弾くバッハが好きだ。飾ったりひけらかすことのない、どちらかというと生真面目にも聴こえる音楽かもしれない。だからだろうか、深いところに静かにか語りかけてくれる。
バッハのインヴェンションはピアノを少しでもかじったことのある人ならば弾いたことがあるだろう。あるいは自分が弾かなくても隣に住む中学生や高校生が弾いているのを聴いたこともあるかもしれない。そんな曲だが、インヴェンションはまさにバッハを聴く喜びを感じさせてくれる曲だ。
彼はよく「グールド以来のバッハ弾き」と評される。私にはバッハを評することも、グールドとシフを比較することも適わないのだが、シフの演奏を聴くとグールドの演奏はやはり刺激的過ぎると感じてしまうのも事実である。
2003年1月17日金曜日
ゲルギエフのインタビュー
彼が作曲家としてプロコフィエフが好きなことは知っていたが、彼の好きな指揮者がフルトヴェングラーであるとは今まで気づかなかった。二人はレパートリーも芸風も違うのだから少し意外な思いにとらわれた。
ゲルギエフは今年6月の来日公演ではプロコフィエフの「戦争と平和」、チャイコフスキーの「エフゲーネ・オネーギン」、そしてムソルグスキーの「ポリス・コドゥノフ」という歌劇を演じる。ゲルギエフはオケ指揮者というよりはオペラ指揮者として西欧で受け入られてきた経緯があるだけに、興味深い演目ではあるのだが、どれもこれも少しマイナーなプログラムだなあと感じてしまう。
もっともゲルギエフは「クラシックのレコード業界の何が問題かというと、この30年か40年の間に、録る必要のなかったものまでたくさん録ってしまったことでしょう。」とインタビューで述べている。確かにそうかもしれないなあと思うのであった。
そんなゲルギエフも2003年6月下旬からワーグナーの「指輪」4部作に取り組むことになっている。これも楽しみであると思う。というか、その前にはじめて聴くワーグナーシリーズでワーグナーを制覇しておかなくては・・・・
ついでだが、2月にはゲルギエフの新録音も発売される。プロコフィエフのカンタータ《アレクサンドル・ネフスキー》とショスタコーヴィチ:交響曲第7番《レニングラード》だ。タコ7は昨年の来日公演でもキーロフとN響の合同演奏で凄まじい演奏を展開したらしい。今回はキーロフとロッテルダム・フィルによる合同演奏。これも楽しみである。
2003年1月14日火曜日
小泉首相の靖国神社参拝
各誌は読む前からご想像の通り、朝日、毎日、日経は反対、産経は賛同という論調である。
朝日は「よりによってこの時期の参拝とは、耳を疑う」、毎日は「極めて思慮に欠ける行動」、日経は「A級戦犯を合祀(ごうし)している靖国神社に国を代表する立場の首相が参拝するのは基本的に好ましくない」と主張している。一方、産経は「この時期を選んだことについて分かりにくい面もあるが、首相として国民を代表し、戦死者の霊に重ねて哀悼の意を表しようという姿勢は評価」としているわけだ。読売は賛成も反対もしていない。「靖国問題をどう考えているのか。首相はもっと明確に語る必要がある。」と言うのみだ。
それにしても靖国である。靖国の実態については私はあまりにも無知だ。その思いをこめて昨年7月18日の意見箱に書いた。私は新聞各誌の「主張」を読み比べ、なにか核心をつかない、あるいは靴の底からかゆいところを掻いているようなもどかしさを感じる。靖国問題は歴史認識(戦争の意義と東京裁判)と憲法議論にまで直結している。直結する管の途中にいろいろな障害やら破れがあって、出るべきところから水が流れてこない。
徹底的に議論しようとせず、マスコミ事態もあきらめの気持と共に、おざなりな(各社横並びの、ほとんど主張を感じない)社説を読んでいると、彼らはこの問題に正面から向き合う気がないのだと感じさせられる。
首相と遺族会との公約ということもあるのだろうが、首相の行動は国の意思の反映であるべきはずだ。特定の団体や感情論で行動することは許されない。
靖国参拝についてのアジア諸国の反感は、決して「内政干渉」ではないと思う。日本政府の歴史認識を問いただしているのだ。占領米国主導の日本の歴史が誤りだとする論調も分からないでもない。しかし、どこかで日本政府としての統一的な見解が必要で、それを諸外国に示す必要があるのではないか。
ドイツのヒットラーを清算しているドイツ、未だにスターリンを総括できないロシア。日本にどのような路が赦されているのか。小泉首相も、隠居爺かボケ老人のようなのんきなことを言っている場合ではない。>「お正月ですし、新たな気持ちで平和のありがたさをかみしめて」
私は、原則として靖国神社参拝には反対です。靖国に参拝することが平和希求の気持であるとは受け取りま せん。現行憲法は素晴らしい憲法であり、決して米国の押し付けではない世界に誇れる憲法であると、私は信じている(そう信じるように教育されてきた)
絶対的平和主義、あらゆる武力放棄も理念としては素晴らしい。素晴らしいだけに困難さと不断の努力と勇気を伴う、非常につらい選択だ。武力装備は結果として楽な選択でしかも極めて不幸な選択だ。それにも相応の覚悟が必要だ。他人事ではないのだ。
日本には(もちろん私にも)そのどちらの覚悟もない。
靖国には行った事がないのだが、東京に行ったら今度訪れてみようと考えている。
2003年1月7日火曜日
【音盤】アムランによるゴドフスキーのアルバムを聴いて
私はピアノについての知識がほとんどないので、ゴドフスキー作曲のソナタと、パッサカリア(シューベルトの未完成交響曲のテーマを用いた44の変奏曲)がどのくらい難しいのかを真に理解することは出来ない。しかしネットでゴドフスキーあるいはアムランを調べるたびに、いかに恐るべき曲であることを知るのだ。
もっとも人は音楽を聴いてそれが難曲であり技巧的に難しいから感動するのではない。曲芸のような演奏からは、人をたまげさせることは出来ても感銘を与えることはできない。果たせるかな、アムランは単なる曲芸師でもキワモノなどでも決してない。
アムランはどちらかというと、かなりマイナーな作曲家をマイナーなレーベル(英hyperion)と録音しているが、彼の弾く馴染みのない曲からは、名状しがたい新鮮な感動をいつも感じることができる。
曲が素晴らしいのか、あるいはアムランの技量が卓越しているのか私には判断できない。彼が好んで弾く曲集が、アムランの技量をして初めて真価の発揮できるたぐいの曲であるのかもしれない。
こんなことを書くと、ろくにショパンも知らず、ホロヴィッツもリヒテルもコルトーも満足に聴いたことがない人間が何を戯言を言うかと思う人も多いと思う。私も大きな声では言えないが、そういう考えを否定しきることができない。このような感覚がクラシック音楽を狭い範囲に限定するものだとアタマでは理解していても、ジッサイのところアムランてどうなんだ?と思ってしまう。どなたか聴かれた方いらっしゃいますか?
2003年1月5日日曜日
ヒラリー・ハーン/メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲
演奏:Oslo Philharmonic Orcestra 指揮:Hugh Wolff 録音:April 17 & 19-20, 2002
そこでヒラリーのメンコンである。先にも書いたように誰のメンコンの演奏が記憶に刷り込まれているのかは定かではないが、ここで演奏されているのは、いままでのようなメンコンではないことに気付かされる。
もともとヴァイオリンのヴィルトオーゾ性を際立たせるような曲であるが、ヒラリーの技は冴えに冴えわたっている。彼女がメンデルスゾーンのコンチェルトを学んだのが11歳のとき、そして翌年にはそれを演奏しているという。24歳の彼女にしてすでに12年の付き合いの曲であるわけだ。
彼女の演奏は、ショスタコーヴィチでもそうだったように情に傾かない。洒落ではないが、まさにヒラリヒラリと華麗に、しかも物凄いスピードで駆け抜けている。これだけのスピードでありながら(比較はできないが)演奏からは余裕のような雰囲気が漂ってくるところがタダモノではない。
スピードとともに音色の艶やかさにも感歎する。ショスタコのときのような、若干鋭利な音作りとは印象を変えているのだろうか、ここでは女性的にしてでふくよかで温かみのある音に仕上げているように聴こえる。それでいて、ともするといやらしさを伴うような音ではなく、あくまでもヒラリーらしい怜悧さを残している。
こういうメンコンを好まない人もいるかもしれない。しかし私には、むしろ抒情を敢えて殺ぎ落としたかのような華麗にしてスポーティーな(しかし体育会系では決してない)メンコンも好ましいと思える。
2003年1月3日金曜日
【本棚】櫻井よしこ:日本の危機
櫻井よしこさんは尊敬すべきジャーナリストであると私は信じている。昨年だと、彼女がかねてから反対している個人情報保護法案について、総務大臣とTV討論などを通してやりあっている姿が印象に残っている(確かサンデープロジェクトだったか)。彼女の静かでな語り口で事実を重ね相手を正す姿勢に対し、片山総務大臣は「(システムは)やれば便利なのが分かる、あんたもネットやITのプロでないくせに、ぐちゃぐちゃいうんでない」というような議論にもなっていないような回答しか出来ていなかったように覚えている。
この本を読むと、彼女が本当に怒っていること、そして「日本の危機」に対して大きな憂いを持っていることがひしひしと伝わってくる。頁を繰りながら、彼女の告発する事態のあまりの酷さに、それが事実であるならばと、わなわなと震えてしまうことを押さえることができない。
ひとえに言ってしまえば、日本の官僚中心の社会がかくも堕落し、全ての状況に閉塞感をもたらしている元凶なのかと、深い絶望に陥ってしまうのだ。官僚批判は何も櫻井さんの専売特許ではない。かつては、カレル・ヴァン・ウォルフレンも名著「日本/構造権力の謎」や「人間を幸福にしない日本というシステム」などで、官僚の弊害を端的に指摘していた。あれからいったい何年が経ったろうか。今でも書店に行けば官僚批判本は山と詰まれている。
彼女の本は、本の紹介でも引用したように確実な取材に基づいてなされている。理念だけを語っているわけではないため説得力は強い。取材対象にアンフェアな状況や不正や疑惑が見つかろうものならば、彼女は容赦なく批判している。その批判があまりにも的確なためか、あるいは鋭すぎるためか、「週刊新潮」に連載中に何度も関係者から内容証明郵便で記事内容に対する疑義や訂正を求められている。その経緯も彼女は丁寧に説明している。彼女の説明が真実であるとするならば、何と日本の政治家は姑息でしかないことか。
批判の対象は99年後半から2000年にかけての出来事だが、そのときと日本の状況は全くといっていいほど変わってないこと、いやむしろ(やはりというべきか)悪くなってさえいることに気付かされる。不良債権問題についても、北朝鮮問題にしても、教育問題にしてもしかりだ。2冊まとめて読むと、過去を振り返り現在を再認識できるとともに、やり場のない怒りと徒労感に蝕まれる。このままではやはり日本は国力を衰退させるしか道がないのかと。
しかし彼女は絶望はしていない。あとがきにもあるようにこの本は「解決への助走」と副題がつけられている。変革させてゆきたいというエネルギーが必要なのだと説く、前に踏み出す勇気が必要なのだと説く。先に述べたカレル・ヴァン・ウォルフレンも「行動的市民」になることを強く主張していた。しかし残念ながら、どちらのアジテーションも今のところは効を奏しているとは思えない。
この本の前に紹介した辺見庸さんにしても、精神的なカウンターバランスとして個人に機能するだけで、一種のガス抜きにしかなっていないという現実もあるかもしれない。しかし、しかしなのだ。もっと私たちは、自分達の身の回りのことに目を向け、アンフェアな状況、どう考えてもおかしいという状況に気付き、怒ることから始めたっていいのではなかろうか。貴方と私の意見がそこで食い違っても構わない。そのときはそこで避けることなく建設的な議論を戦わすべきなのではなかろうか。
櫻井さんの個々の考え方に対する賛同、反対を抜きにして、今一度、今の日本を考える上でのきっかけとなるべき本であると思う。
ヒラリー・ハーン/ショタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番
演奏:Oslo Philharmonic Orcestra
指揮:Marke Janowski
録音:February 20 & 22-23, 2002
ヒラリー・ハーンの新譜が発売された。メンデルスゾーンのコンチェルトとの同時カップリングがショスタコーヴィチのコンチェルト1番である。こういう組み合わせは、ベートーベンとバーンスタイン、あるいはブラームスとストラヴィンスキーといった具合にハーン(またはSONY)のいつものやり口だ。
メンデルスゾーンのコンチェルトはさておくにしても、まずはショスタコ-ヴィチである。この演奏は、ハーンの熱烈なファンであるジュネスさんによるベルリンフィルとの来日公演の丁寧なレビュを思い出す、彼女の得意な曲なのかもしれない。彼女がはじめてこの曲を演奏したのは17歳のときであるとのこと。
ヒラリーを評するとき、人は彼女の完璧なまでなテクニックと、その上に構築される音楽性を賞賛し、これが今年で24歳の若者の音楽であるかと感歎してやまない。MOSTLY CLASSICの音盤紹介でも黒田恭一氏が手放しで褒め称えている。
ショスタコのヴァイオリン協奏曲1番というのは、内容からして何ともひねりが加えられた皮肉な音楽だ。作曲されたのは1947~48年、当初オイストラフに捧げられたものであったが、当局の監視や弾圧が高まる中、初演はスターリンの死後まで待たなくてはならなかったというものだ。
第一楽章のノクターンは時代を象徴するような暗さから始まり、一方でスケルッツオやブルレスカにはショスタコーヴィチお得意のメロディの中に、諧謔性やアイロニーそしてい歪みなどを込めている音楽だ。非常に複雑な感情が吐露されており、まさにショスタコーヴィチの内面を表した音楽と言える。
おそるべき曲ではあるが、私はヴェンゲーロフとロストロポーヴィチ、ロンドン響による1枚しか所有していない(左)。この盤は、1994年の英グラモフォン誌においてレコード・オブ・ザ・イヤーを受賞した名盤である。当時ヴェンゲーロフは何と若干20歳である。
このCDを聴いて私は、その高まる感情に度肝を抜かれた覚えがある。こんなに凄まじき音楽を、いくらロストロポーヴィチが指揮しているとはいえ若干20歳そこそこの若者が演奏可能なのだろうかとたまげた。今回改めてこの盤を聴いてみたが相変わらずヴェンゲーロフの弦は、うなりをあげて聴くものに迫ってくる。音楽が躍動しいびつな感情に揺れ動く。
さて、そこでヒラリーである。彼女の演奏はBBSなどを読んでいると「氷上の音楽」と評する人がいる。どのような意図から「氷」という言葉を用いているのかはわからない。しかし、SONYのCDジャケットは、前回のブラームスもそうであったが、ダークブルーの背景に蝋人形のような硬質なヒラリー像を配している。チョン・キョンファであったら決してこのようなデザインにはならないだろうと思う。
実際に音楽を聴いてみると、CDジャケットの印象がかなり音楽の性格を表しているのかもしれないと思う。もしかしたらSONYの固定観念に騙されているだけなのかもしれないが。
従ってというべきか先のヴェンゲーロフの盤と比べた場合、音響的な深や厚みのようなものはハーンの盤から感じることが少ない。誤解されては困るのだが、ハーンの音に厚みや深みがないといっているのではない。これは、オケを含めた全体としての表現力の違いだと理解してもらいたい。ロストロポーヴィチ率いるロンドン響のサウンドはやはり、オスロフィルとは一味もふた味もちがう。そこに油の乗ったヴェンゲーロフだ、重量感のあるなショスタコがこれでもかとばかりに展開されている。
一方でハーンの音楽だ。そういう盤と比較してしまうとオスロフィルには物足りなさを感じないわけではない。しかし、その上前を刎ねてしまうほどに彼女のヴァイオリンは冴えている。まさに彼女の独断場にしてしまったのがこのショスタコなような気がする。
ハーンは決して過度の感情を表出しはしないが、縦横にあるいは重層的に積み重ねる音は、重ねるたびに逆に一点のにごりもなく響き渡る。絵の具を混ぜてゆくと灰色に濁ってゆくのに対し、光の色を重ねてゆくと限りなく白色になってゆく。まさに、ヒラリーの音は後者のような印象なのだ。それを現代的な表現ということもできるかもしれない。今まで聴いたこともないような音が聴こえてくる。彼女のそういう音から奏でられるショスタコからは、人間的な感情を越えた高みに上ってゆくかのような飛翔する感覚さえ感じてしまう。
この曲では第三楽章の後に、ほとんど独立したカデンツァが挿入されるが、ここでの彼女の音楽の深さはどうだろう。音色のせいばかりではない、ショスタコーヴィチがどんな感情を込めたのかは不勉強にして理解していない。それでもここからは音楽家の不安や嘆き憂い、そして時代に対する絶望ではなく、どこかへと馳せる思いを感じる。そして更には、ある種の静かな祈りさえ聴こえてくるようだ。
最終楽章のブルレスカ(乱痴気騒ぎ)にしても、ハーンのヴァイオリンの狂騒には乱れが全くない。波風一つ立たない水面の下で激しき水流が渦巻くがごときだ。畳み掛ける音色はただならぬ緊張感をはらんで疾走し駆け上がる。まさに氷上を滑るがごとく、あるいは磨き上げられた氷の表面と、その下の激しい水流の迸りを感じる。この楽章だけでも聴く価値があると言えるかもしれない。
こういうショスタコーヴィチを聴いてしまうと、噴出するがごとき激し表現は、わざとらしさとあざとささえ感じてしまうというのは皮肉なことかもしれない。新しい感覚のショスタコであると感じる。もしかしたら、ショスタコーヴィチのはぐらかすような心境には、こういう表現の方が近いかもしれない。そういう意味から、従来型のショスタコをお好みの方には今ひとつという印象かもしれない。もっとも、わたしとてそんなにショスタコに通じているわけではない、このへんでいい加減なことを書くのはやめようと思う。
同時収録のメンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲はこちら。
2003年1月2日木曜日
【風見鶏】「主張 大いなる選択の年に思う」
「いま必要なのは国家の戦略的なありようを徹底的に磨き上げる」ことであるため、産経はふたつの課題を挙げている。ひとつは「日本国あるいは日本国民たりえようとする精神の欠落を克服するためにどういう日本でありたいのか自己目的を明確化させる」ことと、「日本国あるいは日本国民が当事者意識を取り戻す」ことと唱える。
言っている本論には同意する。しかし、その先が産経と私では若干の食い違いがある。総論賛成各論反対というやつか。しかし、そのずれが何であるかを明確には示せない。産経の石原東京都知事擁護論は今に始まったことではないのでご愛嬌(では本来は済まされないのだが)だとしてもだ。
いずれにしても岐路となる年かもしれない。
HIYORIみどり 「産経の記事を引用したりするのって、まずくない?」
KAZAみどり 「産経新聞は記事の著作権に対してひどく敏感よね。でもネットの常識から考えて無理があると思うのよ。社説も取っておかないと探せなくなってしまうしね。」
2002年12月30日月曜日
【風見鶏】「自衛隊の統制者は誰か」
朝日新聞の社説で知ったのだが、「防衛庁の統合幕僚会議が自衛隊の縦割り運用の弊害をなくすことをめざした改革案をまとめた」らしい。3自衛隊をとりまとめる制服組の最高指揮官となる統合幕僚長(仮称)を設け防衛庁長官の命令を一元的に受けるのだとか。
これに対し朝日新聞は「憲法に沿って、自衛隊が役割を広げることを支持したい」という主張をしている。国会の役割や情報の公開を充分に行った上でと条件をつけてはいるが、昨今のテロや世界情勢を鑑みて、自衛隊を「使える自衛隊」とする措置が必要としているわけだ。
そうか「天下の朝日」も、結局はなし崩し的防衛力整備、有事関連法案に賛成しているというわけか。私だって北朝鮮の脅威などを見てしまうと、あるいは中国や韓国の動向を考えると、防衛力の曖昧な主権国家というものが成立するのかという疑問にぶち当たってしまう。
しかし、世の中の政治家には「拉致被害者は軍隊を派遣してでも取り戻す」と声高々に主張する輩もいらっしゃる。「(自衛隊や派遣問題につては)現在の憲法のもとでは、詭弁に詭弁を重ねてきているわけです」と大学で学生相手に講演なさる政府高官もいらっしゃる。そういう方々には賛同できないんですよ。
なし崩しは困ります。知らないうちに、マスコミをはじめ世論を防衛力強化に導くようなこともやめてもらいたい。幼稚な言葉遊びに近い議論ではなくて、あるいはアレルギー反応のような反戦、改憲反対論でもなく、主権国家としてのありかたを考える必要があるのぢゃないでしょうか。
それにしても「憲法に沿って~支持したい」ですか。もはや、憲法精神の砦が脆くも瓦解していることを改めて気付かされる年末でした。
HIYORIみどり 「でも、世界第三位の防衛予算を使っている自衛隊が、命令系統がはっきりしないばかりに役に立たないぢゃあ、目も当てられないわよね」
KAZAみどり 「なんともいびつな国よね。防衛論争をする以前に、主権国家としての意思、世界の中での日本の立場、昨今の世界的な覇権主義争いに対する日本の戦略や哲学、そういうものが欠けていると思うわ。やっぱりアメリカの子分
なわけかと・・・」
HIYORIみどり 「いくら大義を掲げても戦争では人が死んでゆくわ」
KAZAみどり 「イラクの飛行禁止区域では相変わらず米英が空爆を続けているようね。民間の人も巻き添えになっているわ。たまたま通りかかった人が、上空彼方からのミサイルで吹き飛ばされる・・・、何とも理不尽だわ。」
HIYORIみどり 「10月からはじめた新聞ウォッチだけど、明るい話題はほとんどなかったわね」
2002年を振り返る・・・か
ムネオ疑惑や議員の秘書給与疑惑といった、どちらかというと小粒の瑣末的なスキャンダルに隠れて、日本はわたしたちが意図しない方向へと舵取りをしてしまっているような不安に襲われる。それは日本だけではなく世界も同じだ。911テロを経験した世界は、アメリカ帝国主義と各国の覇権主義が衝突をはじめたと言ってよいのかもしれない。ロシアの西側への転向、中国の台頭など世界地図を塗り替えるような兆しも見えてきている。
日本はあいも変わらず経済的な不況、あるいは政治的な膠着状態から脱皮することができないでいる。構造改革が必要なことは分かっていても、複雑にからみあった利権と保護規制の網から自由である者など少数でしかないという現実を考えると、構造改革を肯定することは自らを否定することに繋がるという矛盾を抱えてしまっている。抵抗勢力は誰彼ではなく自分自身なのである。
年末のTVの街頭インタヴューを聞いていると「来年こそ景気が良くなって欲しい」「なにか元気がでる話題が欲しい」「子供たちが幸せであれば良い」との答えが返ってくる。でも、ちょっと待って欲しい、景気さえ回復すれば皆元気になって幸せになるのだろうか。過去を考えるとYesと答えるだろうし、ちょっと思い馳せればNoとも答えるだろう。
景気が良くて給料(使える会社経費も含む)は高いけれど、仕事も忙しいため日々反吐が出るほどに仕事をし、たまの休日には皆が目の色を変えてモノや消費やサービスに走るという状況が幸福な風景とは思えない。職住近接とか、まことしやかなキャッチフレーズで都市が無秩序かつ野蛮に開発されてゆく状況も好ましいとは到底思えない。
極論かもしれないが、戦後の朝鮮戦争によって特需景気の恩恵を得たように、米英による中東戦争のため日本の景気が例えば一時的に良くなったとして、それをもって幸福だと感じることができるだろうか?
では、何が幸福かというビジョンもその実描けないでいる。今の大人たちが子供たちに希望を語ることができなくなってしまったのだ。政治にも希望を託せるような状況ではない。小泉なきあと石原東京都知事に期待する風潮まで醸成されつつあるというのだから、イハハヤ・・・・なんとも酷い世の中だ。
憂鬱になる材料は山のごとしだ。来年とて、これらに光明がさすとは全く考えられない。自分ではどうにもならないことを考えて鬱々とするよりは、いましばらくは音楽でも聴いて呆けていた方が、やはりマシというところか。
【音盤】ゲルギエフ/ミヤスコフスキー ヴァイオリン協奏曲
ヴァイオリン協奏曲 二短調 作品44
ヴァイオリン:ワディム・レーピン
演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
指揮:ワレリー・ゲルギエフ録音:2002年7月2-4日 フィンランド、マルッティ・ラルヴェラ・ホール(ミッケリ音楽祭でのライブ)
ミヤスコフスキーという名前さえ初めて聞くのだが、CD解説によると「ソヴィエト連邦時代前半のロシアにおける、最も才能豊な作曲家のひとり」とのこと。生涯27もの交響曲をものにしながら無名であるとは、歴史に埋もれた作曲家ということだろうか。「作風はいずれか言えば保守的で、スラヴ的な後期ロマン派と呼ばれるべき位置にとどまった」作曲家、ということが20世紀前半の作曲家でありながら、音楽史的にも演奏的にも不遇な位置に留めている理由なのだろうか。
何度か聴いてみたが、音楽に深刻な響きは聴かれず躍動感と明るさに満ちている。作曲年代が1938年であることを考えると、少し楽天的過ぎないかという感じを持たないわけでもない。例えば一楽章のテーマの繰り返しにしても、少し聴いていると飽きてしまうような感じがなきにしもあらずだ。
とは言っても、音楽がいつも時代を背負っていなければならない理由などどこにもないし、逆にそのことが音楽を聴く上での重荷になってしまうことだってある。ここは素直にミヤスコフスキーの音楽に耳を傾ける方がよいのかもしれない。
先にも書いたように、暗さや激しさの少ない曲であるからゲルギエフのアクのようなものも、この演奏からはあまり聴こえてこない。(それでも充分にアグレッシブではあるが)
一方でレーピンのヴァイオリンは、あくまでも堂々とヴァイオリンとしてのメロディアスな雰囲気や技巧をいかんなく発揮しており、聴いた後にそれなりの満足感を得ることはできる仕上がりになっている。1楽章に挿入される技巧的なカデンツァも聴き所である。2楽章のメロディアスにして抒情的な音楽も非常に印象的だ。オケとヴァイオリンの掛け合いも、ゆったりとした気持ちにさせてくれる。
それでも、首を傾げてしまうところがないわけでもない。というのも、全体的にどこかしら中途半端な印象を受けてしまうのだ。和音やフレーズの展開にしても、どっぷりとロマン派しているようでいながら、ある瞬間に現代的な断片をふと聴かせたりする。そういうところが、何かとってつけたようでしっくりとこない。それが不安を象徴する手法では全くないというのだから、何か音楽に落ち着きがないように思えてしまうのだ。
最後のフィナーレにしても、いかにも的な終わり方であるところが、かえってわざとらしく感じられてしまう。というか、この時代作曲していて、この音楽?と やっぱり思ってしまうのであった。ロマン派の時代に作曲されていれば良かったか、という問題でもないとは思うのだが・・・、なかなか呪縛から逃れられないと改めて思うのであったよ。
演奏はよいと思うので、従来のヴァイオリン協奏曲に飽いてしまった方には、お薦めかもしれない。
2002年12月29日日曜日
ゲルギエフ/チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲
ゲルギエフが手兵キーロフを率いヴァイオリンにはレーピンを迎えて録音した、チャイコフスキーとミヤスコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴いてみた。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は私の好きな曲のひとつであるが、あまりにも有名でありすぎるために普段改めて聴こうという気に、なかなかならない曲でもある。今更チャイコンかよ・・・というカンジなのである。それでもゲルギエフがどのように料理するのかという点に興味があった。レーピンは聴くのが初めてであるし。
しかしながら、何度か聴いてみたがのだが、ゲルギエフの芸風よりも、レーピンのヴァイオリンに大きく心を動かされた。レーピンがどのようなヴァイオリニストとして評されているのか分からないが、録音からは野太くがっしりとした骨格をもった、ダイナミックな音楽が深く心に染み渡るように感じだ。アクとかクセとか節のようなものは比較的少ないかもしれない。どこかズドーンとした印象のストレートな音楽だ。ただし素直で世間を知らないストレートさというのではない、色々なことをやり尽くしてきた末にたどり着くストレートさみたいな感じ、だとすると、これが若干30歳の若者の音楽なのかと一瞬考え込んでしまう。1楽章の奔流の後には思わず拍手してしまう、見事見事と。
この盤で聴く限り、レーピンの音はゲルギエフ&キーロフのスタイルに合っているようにも思える。ゲルギエフの時に野獣のような攻め方(ここではそういう野蛮さは少ないが)に対し、それをしっかりと受け止めるだけの太さと、よい意味での粗さを感じることができる。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲には優雅さや優美さよりも、疾走する力強さと生命力を感じることに異論はなかろう。レーピンのヴァイオリンには、それが見事に表現されているように思える。この曲が作曲された時期はチャイコフスキーにとってあまり幸福なときとは言えないはずだが、曲に秘められた強いエネルギーの発露にはいつも聴くたびに感歎させられる。自在に駆け回るレーピンのヴァイオリンは、チャイコフスキーの音楽をきっちりとトレースしているように思える。
いつもなら、このままチャイコ節に乗ったまま快活な気分で曲を聴き終えるのだが、少しひっかかったことがある。一聴してダイナミックさとヴィルトオーゾを駆使した曲に仕立てられているように思えるのだが、この演奏からは明るさの裏側に、何かにせかされているかのような、あるいは追い立てられているかのような姿さえ感じるのだ。本当はそんな気分ではないのに、無理に快活に明るく振舞っているかのような、そういう感じだ。
このような受け取り方が作品および演奏解釈上正しいかは分からない。おそらく、私だけの感じ方だろうとも思う。それでも、レーピンのヴァイオリンからは、第3楽章のお祭り騒ぎにも似たクライマックにおいても、切迫したただならぬ緊張感を感じる。それに環をかけゲルギエフ&キーロフが攻め立てているのだ、まったくもって分厚く凄いチャイコンに仕上がった。
もっとも、それでもというか、この盤の評にある「ロシア的」ということが何を指しているのかは、私には分からないの、ロシア的とは何か誰か教えてくれないだろうか。
不満もないわけではない。ミキシングのせいなのだろうか、オケよりもヴァイオリンが全面に浮き出たような録音になっている。実際のホールではこんなにヴァイオリンは大きく聴こえないはずだ。従って、実際の演奏とはかなり印象が異なるのではないかと思う。それに、全般に録音の立体感が乏しくどことなく雑な音に聴こえてしまう、ライブのせいだからだろうか。
レッスンメモ
前回のレッスンからは5ヶ月もあいてしまったのだが、前回やったプラヴェは時期尚早であると自己判断し、指に問題のない曲を選んで見ていただくこととした。(個人練習でもムリ目の曲は、しばらくやらないことにした)
ドビュッシー「夢」
私はフランスものというか、とくにドビュッシーのような、どこかとっかかりのつかみにくい曲が苦手である。聴いている分には、なんて気持ちの良い曲だろうと思っていても、いざ吹いてみるとぎこちない表情にしかならずに、うんざりしてしまう。
この曲は、もちろんピアノソロによる曲で、題名のとおり夢見るような緩やかさに満ちた曲だ。以下はレッスンでの指摘から記憶する範囲で記しておく。
2小節ピアノ伴奏の後にフルートが入るが、8小節単位の大きなフレーズを考えながら、スラーを滑らかに吹くように心がけたい。体で拍子を取るようなことをせずに、ゆったりとした気持ちで。
11小節の memo P から mf に至るクレッシェンドは大切に。15小節目からの下降音形は大きくディミヌエンドをかけて。楽譜を良く見ると、同じようなフレーズが8小節カタマリで3度登場するが、最初はG(mf)、次にA(memo P)、最後がC(pp)となっている。三連譜も急がずにかつ、前の四分音符と八分音符のフレーズに変なアクセントも付かないように気をつけること。
22小節目からの四分音符二つのスラーのかたまりは、比較的はっきりとしゃべる、poco cres. piu cres. を意識して、26小節目から27小節目の高まりに向かってしっかりと盛り上げる。28小節目のピアノ を大事にクレッシェンドをかけて再びフォルテに。ここで Fis-Cisの音だけが大きくならないように気をつける。
30小節目の subito P とは「突然にピアノに」という意味、ここから40小節目まではピアノを維持する。40小節目からクレッシェンドをかけたら、逆にその後はフォルテの強さを維持、音の強さがコロコロ変わらないように注意したい。
59小節目から移調し、Un poco animato とあるように、少しテンポを速めて軽やかに吹く。59と63小節目に現れるE-Cのスラーを綺麗に。64小節目の終わりからは高音域で緊張を維持、68小節目のH2から移調した69小節の頭のG3は一番の聴かせところ。スラーでG3に至るが、先ほどと同じように subito P という感じで。
76小節目から再び最初のテーマにもどるが、87、89小節にあるクレッシェンドをしっかり表現すること。
最後の Piu lento は、スラーの中で柔らかなタンギングで音を表現する。しかし例えば94小節のように3、4拍の四分音符と三連譜はスラーであることに注意。最後は消え入るように。
フォーレ「子守唄 Op.16」
これもフランス系の曲で、原曲はピアノとバイオリンのものらしい。ランパルの名演でも有名だと思う。6/8拍子のこの曲も、リズム感のない私には、どうもぎこちないものになってしまう。さてこれもレッスンの指摘から。
四分音符と八分音符の音型の場合、八分音符が短くなりがち、みっつのきざみをしっかり押さえて。3小節目の頭の八分音符も短くなり過ぎないように。次のスラーのない部分は軽いタンギングで。この曲も4小節でひとつのカタマリであることを意識して、大きなフレーズを感じて吹く。
音はどちらかというと最初は明るめにとること。15小節目からはクレッシェンドしてmfの強さに至ったら、その強さをきちんと19小節目まで維持すること。
24小節目の低音によるfの表現はしっかりと暗めに、しっかりおなかで支えて、28小節目からのpppによる同音型は明るく。
49小節目のアウフタクトから始まるフレーズにおいて、50小節目と52小節目に表れるスラーの中のアクセントはドキッとするような感じで、ピアノの中の動きなので強くなり過ぎないように注意。
83小節目から始まるフレーズは、テーマと同じリズムだが音が少し変わっているので、特に84小節目のG-Es-Gのところなど、軽く遊ぶような感じを出す。88-89小節、90-91小節のクレッシェンドとディミヌエンドをしっかりと表現する。
96、100、104小節目の頭はピアノが和音終わるところ、次に入るところはすこし時間をとって拍の裏から余裕をもって入る、決して急がない。
とにかく小さな拍で曲をとらえると、変なアクセントがついてしまう。大きなフレーズをとらえてゆったりと歌うようにしたい。
こういう曲をセンスよく、さらりと吹くのって、本当に難しい。
体を動かさない練習
吹いていて体や膝を動かしすぎる、体で拍を取るクセがある場合は、フルートの足部管を壁にあてたまま(あるいは壁の入隅に当てて固定したまま)、曲やT&Gを練習してみると良い。
やりにくいと感じるかもしれないが、今までできなかったことが、意外と出来たりするものである。
そう言われたので、家に帰ってからやってみた。すると壁に足部管を固定していることにより、楽器全体が固定されることになるため、楽器がぐらついてしまうような運指が比較的楽に出来ることに気付いた。
例えば中音のCをはさむスケールなどは指も楽器がばたついてしまいアンブシュアが固まらないのだが、この練習をすることで安定した音が得られるのである。いかに楽器(唇とフルートの角度を)を動かさないことが重要か改めて知った次第。
ハーモニクス(倍音)の練習
倍音によるソノリテを練習すると、高音域でのピアニッシモの表現などが非常に楽になる。ハーモニクスで吹いている場合でも、できるだけ雑音が入らないように、そのままいつでも曲が吹けるような気持ちで音を作ること。
特に、私のようにアパチュアが広がりすぎる傾向のある人にはハーモニクスを用いた練習は効果的である。この練習は即効性があるので、試してもらいたい。
実際、数分間ハーモニクスの練習をしただけで、C4が比較的やさしく出せたものである。いつもは、音にならないのだが。
これも、練習のはじめにまずハーモニクスをやってから、ソノリテなりT&Gに取りかかると、高音域、低音域とも音に張りが出ることに気付いた。
アキヤマの14k(No.110)
先日のアキヤマの試奏会でも展示されていた14kの楽器を先生は現在借りているとのこと。今までの金はどうしても気に入らなかったのだが、この楽器は特別、金もきちんと作ると魅力的だとおっしゃる。アキヤマフルートは名器ルイ・ロットを目指して試行錯誤しながら少量生産を行っているメーカーである。
私もアキヤマの14kと先生のいつも使われている初代ロット(No.1850)を少しだけ吹かせていただいたが、凛として芯のある伸びやかな音は吹いていて快感に近いものを感じる。
ちなみに楽器の重量がどのくらいあるのか、料理用の秤で計ってみたところ、以下のような結果となった。
- ルイ・ロット(No.1850) 約 380g
- ヘインズ(No.43668) 約 390g ~ 私の楽器
- アキヤマ 14K (No.110) 約 450g
450gといえば、シルバーでも管厚の厚い楽器程度の重量、一般的な木管よりは軽い重さだろうか。先生の使われているロットは本当に軽いことが分かる。しかしロットは、キーも非常に薄くできている。アキヤマもロットのキーの形を模したティアドロップ型だが、見た目も押さえた感じも厚い。まぐろの刺身とヒラメの刺身くらいの厚さの違いといえば分かりやすいか?(>かえって分かりにくいかも)。楽器の重量は管の重さだけではないため、先の重量を単純に比較はできないかもしれないのだが・・・
アキヤマは私のヘインズと比べても、低音のキーの押さえやすさや音の出しやすさ、それに何と言っても音程の良さが際立っている。製作者の秋山さんが「本家のロットに勝てるのは音程です」と言うだけあって、ロットを使われている先生をしても「こんなに楽なのか」と思うとのこと。非常に魅力的な楽器であることは認めざるを得ないのであった。
アキヤマフルートは、札幌のプロフルーティストでも知名度は低いのではないかと思う。大手楽器店での販売を目指していない楽器であり、好きな人が直接工房に買いに行くという楽器であるだけに、希少価値もあると思う。
私の知人(アマチュア)でも既にアキヤマを所有している方、あるいは注文した方がいる。うらやましくも、良き選択をしたと思うのであったよ。
レッスンを終えて
レッスンを受けていて思うのだが、先生が試しに同じ曲を吹いてくださるが、どうしてそんなに音から表現が出てくるのかと嘆息してしまう。なるほど、そこはそういう風に歌うのか、そこは、そんな風に色を変えるのかと、初めて聴く曲でも、昨日今日練習した曲でもないのだが、新たな発見があるのであった。もっとも、それを直ぐに自分のものとできるほど、私の音楽センスは良くはなく、さらにフルートの運動神経も鋭くはないのであったよ、トホホ・・・。そして、そういう雰囲気を文章にするのは、かなり至難の業であると思うのであった。
それにしても、練習の仕方ひとつとっても、ワンポイントのアドバイスの適切さには恐れ入るのでありました。さて、今年もこれでオシマイです。皆様良いお年をお迎えください。
2002年12月28日土曜日
【本棚】辺見庸:永遠の不服従のために
サンデー毎日に連載された「反時代のパンセ」をまとめた単行本が出版された。
辺見庸氏の文章を読むことが、この時代幸福であるか、あるいは不幸であるかを考えることは難しい。なぜなら、彼の突きつけるテーマは、あたかも闇に鈍く光るナイフのように、ギラリとした鈍い光を放って読むものの脇腹に押し付けられるからだ。私はその瞬間に動くべきか止まるべきか、冷や汗をかきながら呆然としてしまう。ナイフの切っ先ににじむ赤い血は、果たして自分の血なのだろうかと危ぶみさえしながら。
『「転向」についての丸山眞男のメモを読んだとき、ふと生首、いやアジサイを思った。(中略) でもガクアジサイたちも、それを見るわれわれも、変色に心づくのは、ごく稀である。やっかいなのは、そのこと。無意識の、はっきりした痛覚もない変身であり変心なのだ。』(「裏切りの季節」より)
彼は、私のように、時流に流されるかのように意見を変えてゆく者の脆弱さに対し、怒りも軽蔑もしてはいなかもしれない。私は逆に彼の本を読み彼の声を聞いたにも関わらず、それ故にというか、彼から無視されてしまうかのような錯覚に陥り、ひどく狼狽してしまうのだ。
彼の論点を要約することにも意味はない。彼のマスコミ批判や平和への考え方、今の日本や米英のありようなど、列挙してゆくと、声高々に主張しているように思えてしまうかもしれないが、そうではない。彼が有事関連法案に対してどのような反対のスタンスをとっているのか説明したところで、「お前さん、違うんだよ」と言われてしまいそうだ。なんだか彼の前に立つと、薄っぺらな本質的とはいえないような問題を、延々と阿呆のように弄しているような気にさせられてしまう。
『樽や井戸のなかで暮らす者たちには、よほどの想像力の持ち主か慧眼でないかぎり、樽や井戸の外形や容量を見さだめるのが難しい。まして、樽や井戸の外部の他者たちがそれらをどのように見ているかについては、まず考えがおよばない。』(「国家の貌」より)
彼が何に対して「服従しない」と言っているのかは明白だ。しかし、彼のような精神を有して生きてゆくことも、極めて大きなエネルギーと勇気の要する行為であると思う。社会とうまくやってゆくためには、彼のような考え方に染まることは、ある意味において「危険」である。しかし、一方で私にとっては、抗うことのできない危うさと確かさでもある。
『まさにそうなのである。時とともに悪は恐るべき進化をとげつつある。経緯はこうだ。』(「戦争」より)
ひょっとすると私は、単なる精神的なカウンターバランスとして辺見氏の主張を受け入れようとしているのかもしれない。自らの考え方の柔軟性や精神の健全性を示すバロメータとしているのかもしれない。だとすると、この上なく狡猾な接し方とは言えないか。社会における辺見氏のとらえられ方も、案外そういうところにあるのかもしれないと思うと、自分のことを差し置いて憂鬱になる。この本が売れれば売れるほど、不幸なことなのかもしれないと思うのだった。
『例えば、月はもはや月ではないのかもしれない。ずっとそう訝ってきた。でも、みんながあれを平然と月だというものだから、月を月ではないと怪しむ自分をも同じくらい訝ってきた』(「仮構」より)
そういうことさえ、辺見氏は了解していているかのようなのだ。心底、おそろしく、かなしく、そして美しくも強い本であると思う。
2002年12月24日火曜日
動物達の音楽会 Vol.2 より ヴィヴァルディの「ごしきひわ」
ピアノ:曽根田正美、瀬尾珠恵、落合一絵
知り合いのフルーティストが出演するということで、コンサートに行ってきた。「動物たちの音楽会」というテーマで、3人のピアニストがそれぞれ交代で、テーマに沿った曲を披露するというもの。フルーティストの河崎さんは賛助出演ということである。
曲目は、チャイコフスキーのオープニングにはじまり、ラヴェルの組曲「鏡」、ソプラノによるプーランクの小品、ドビュッシーやフォーレ、サンサーンスなどなど。ショパンのワルツなども演奏されたが、フランス系の曲の多い構成であることが目をひいた。(残念ながら最後までは聴かれなかったのだが)
そんな中にあって、河崎さんと落合さんによるヴィヴァルディの「ごしきひわ」は、ひときわ生き生きとした音楽を私たちに与えてくれたように思える。フルートの清冽で煌びやかな音はホールを満たし、爽やかな聴後感を残してくれた。
「ごしきひわ」とは小鳥の鳴き声を模した音楽が三つの楽章を通して聴こえてくる曲だ。最近では高木綾子さんが「イタリア」というCDで録音していることでも(その筋では)有名である。
この曲の特徴は、何と言っても装飾音符に飾られた小鳥の鳴き声を、いかにそれっぽく聴かせてくれるか、そして途中のカデンツァやソロ部分をどう表現するか、ということがポイントだと思う。河崎さんの笛の音は、演奏の最初からピンと張り詰めた輝かしい音を会場に漲らせ、トリルと物凄く速いタンギングにより表現された音は、朝の輝かしい光の中でさえずる小鳥を、まさに彷彿とさせるものであった、と書いたら言いすぎか?
細かなパッセージでのピアノとフルートのアンサンブルも絶妙で、彼女の耳のよさとフルートの運動性能良さには改めて感服した次第。
おそらく今日の演奏会の客層から考えると(ピアニストの生徒さんとそのご家族か?)、フルートにはあまり馴染みのない方が多かったのではないかと思う。そういう中で、第一楽章のアレグロが始まった後にすぐ現れるソロ部分での彼女の笛の歌いと音色は、その瞬間に実に見事で聴衆の心をつかんでいたと思う。
中間のカンタビーレ楽章での装飾の入れ方や歌い方には、おそらくは彼女らしい表現を感じることができた。第三楽章のラストに向かっての駆け抜けてゆく爽快感もなかなかのもので、最後の上昇音形を挿入して颯爽と終わるあたりは、高木綾子さんのアルバムよりも良いなあと感じさせてくれた。終わって引上げる彼女の背中に向かって、客席の起こったちょっとしたざわめきが聴こえただろうか?
ルーテルホールというのは、行った人ならば分かるのだが、200人程度の小ホールであり、フルートのために建てられたホールと聞いている(オーナーもフルーティストであるとか)。しかしピアノソロを聴いていても感じたのだが、このホールにしてはスタンウィエイのグランドピアノの音量は、すこし響きすぎる嫌いがあるのではないかと思う。
実際にピアノの音はソロであっても非常に大きく聴こえた。ソプラノやフルートと合わせた時は蓋は全閉にしなくてはならないほどだ。ヴィヴァルディの曲にしても、そういう少し崩れたバランスと、そしてこの曲の原曲がピアノ伴奏ではない、ということを差し引いても、充分に楽しめる演奏であったと思う。
フルートの感想ばかりになってしまって恐縮であるが、彼女の笛を聴きに行ったのだし、ピアノの評は(恐ろしくて)うまくできないし、それに最後まで聴けなかったのでご容赦願いたい。ただ、プログラムとしてはとても楽しめる良い企画であったと思う。特に個人的には、ラヴェルのピアノを生で聴けただけでも、非常にうれしかったのであった。小出さんのソプラノも、歌っていいなあと思わせてくれるものであったし、瀬尾さんはまさに、司会も演奏も貫禄のといったところでしょうか(^^)
こういう演奏会は、肩肘が張らないので、もっとあっても良いなあと思うのであったよ。
2002年12月18日水曜日
【風見鶏】「国立市マンション訴訟、20メートル超の撤去命令 」
意見箱にこの問題を書いたのが、2月14日と5月1日のこと。そして今日の新聞記事による判決だ。
住民の景観尊重の意見を組み入れ、20mを越える部分の撤去あるいは、撤去までの慰謝料と弁護士費用のの支払いをディベロッパーに命じた。判決では「(景観は)法的保護に値し、侵害行為は不法行為に該当する」と違法性を指摘した。
地裁ではあるものの、この判決の意義は大きい。確認申請を認可した行政責任と条例の関連など、行政対応のまずさについても今後焦点になると思う。いずれにしても、経済優先でやったもん勝ちという状況にNOを突き付けた意義は改めて大きい。
反対住民のサイトは以前紹介したが、まちづくりデザインワークスというサイトでもこの問題を紹介していると、教えていただいた。ここでは企業サイドによる法改正前の「駆け込み着工」に対し疑義と改正を求めている。
一方で訴訟問題が起こっていることが分かっていながらも、そのマンションを買う人が居る、欲しい人が居るということ。マンションに移り住む人には、地域住民が長い年月に渡って守り育ててきた存在の重さは知らない。地域住民たちの果実のみを借用し販売に利用するというスタンスは、企業論理は理解するにしても、冷静に見ると野蛮で破廉恥な行為に思える。
欧州では都心部に建てる建築に厳しい規制をかけているが、それに対する反発や反動がないわけではない。しかし規制と議論を通して自分たちの住む場所をよりよいものにしていこうという意思の力は感じられる。日本にはそういう土壌が薄いように思える。
問題は「景観」という、ともすると好みの分かれるデザイン的な問題として捕らえられがちだが、実際は、地域コミュニティのあり方、自分たちの住む地域社会の維持の仕方という、地方自治にもつながる問題を内包しているように思える。それが保守的な地域セクショナリズムや排他主義であるかも含め、地域の自治問題であるように思える。
今回の判決は、企業に勤める身としては複雑な思いで訴訟の行方を見守っている、というのが正直な感想だ。この件には複数の訴訟が起こされているが、それについては、読売新聞の記事を以下に引用しておきたい。
◆複数の訴訟、分かれる判断◆
このマンションを巡っては、ほかにも複数の訴訟が起こされ、司法判断が分かれている。近隣住民が東京都多摩建築指導事務所に、条例で定めた高さ制限を超える部分の撤去を命じるよう求めた訴訟では、1審・東京地裁が昨年12月、「高さ20メートルを超える部分は条例に違反する違法建築物で、景観に対する利益にも重大な被害を生じさせた」との判断を示したが、撤去命令を出すかどうかは都側の裁量とする住民側一部勝訴の判決を言い渡した。
これに対し、2審・東京高裁は今年6月、「マンションは条例の施行前から着工されており、違法建築物ではない」と住民側逆転敗訴の判決を言い渡し、現在、最高裁で係争中。
一方、明和地所が国立市に約4億円の損害賠償を求めた訴訟では、1審・東京地裁が今年2月、「高さ制限の条例は(明和地所の)マンション計画を阻止するためのもので、(明和地所の)権利を違法に侵害した」として、同市に4億円の支払いを命じ、現在、東京高裁で審理が続いている。
��以上、12月18日 読売新聞電子版より引用)
HIYORIみどり 「撤去っていったって、人も住んでいるんでしょう? どうすんの?」
KAZAみどり 「明和地所も、こんな判決になるとは考えていなかったとコメントしていて当惑気味ね。撤去命令を受けた部分は賃貸で、現在は1戸だけ入居しているそうね。撤去対象とならなかった住民も"負けるとは思っていなかった" "もしもの時のために7階以下を買った"とコメントしていたわ」
HIYORIみどり 「住民は、景観のいい付加価値高い場所として購入したのでしょうね。地域住民の今までの努力の上に胡座をかいていると思われても仕方ないかもね。売主は訴訟問題も"大丈夫"とかうまいこと言ったんでしょうね」
KAZAみどり 「マンション住人にも司法はNOと言ったということになるのかしら、あなたたちに権利はないと。マンション住民もディベロッパーを訴えるかもしれないわね」
2002年12月11日水曜日
日本の防衛ということ
憲法改正、自衛隊問題などは古くから議論されているが、私達は「まともな議論」をしてこなかったのではないか、ということを思い始めた。私は5月に、「有事関連法案とは何なのか」として意見箱に駄文を掲載した。そのときはどちらかというと、法制整備へ懸念を示すスタンスであった。しかし、今は、むしろ積極的に法整備すべきなのかもしれないとスタンスがずれてきている。政府の方針を全面肯定しているわけではない、法整備が前提というよりも健全な議論をすべきだと思うのだ。
憲法改正を口にする人には「タカ派」「右翼」というレッテルを貼りたがるように、わたしたちは防衛問題にアレルギー感情を持ってはいないだろうか。これは日本の教育の賜物なのかもしれない。日本国憲法が米国の押し付けであるか、あるいは日本を侵略国と決め付けた東京裁判が、戦勝国の独断的な裁判であったか、ここらあたりから議論は紛糾し始める。
平和憲法の精神への対立軸を全て「タカ派」「右翼」的なものとひとくくりにしてしまうことは、議論を先に進ませにくくしている。侵略戦争をしないということと、自国を防衛する軍隊を保持しないということは別物だと思う。およそ力を有しない独立国の平和などは幻想でしかないという者もいる。憲法の「国際紛争解決のための武力行使の放棄」が幻想なのだろうか。日本国憲法がうたうのは「絶対的平和主義」なのだから、既にして自衛隊は憲法違反なのである。自衛隊は黙認しながらも、他の政策の是非を問うことは筋が通らないように思える。議論は、どこまでも拡大曲解される解釈論に終始してしまう。
侵略としての戦争放棄は誰もが認めることだ。しかし、最近のテロ行為を考えるにつけ「侵略」の定義さえ難しい。イスラム社会は西側諸国に「侵略されている」と考えてはいないか。米英は今も昔も「侵略戦争」などはしていないと考えるだろう。第二次世界大戦の日本も「植民地開放戦争であり侵略戦争ではない」と主張する人がいる。しかし、それは経済的に優位でかつ、軍隊を派遣した側の論理でしかないのではなかろうか。
自衛隊を軍隊と呼ばないということも、事態を見えにくくしている。すでに米国、ロシアに次ぐ世界第三の防衛予算を使う国の自衛隊がなぜ「軍隊」ではないのか。自国防衛の際の命令系統を含め、迅速な対応ができるような法整備は確かに必要である。今のままでは役に立たない放蕩息子だ。ただし、である。あくまでも自国民の安全と平和を守るということが大前提だ。
国際社会における責務を考えた場合「自国領土領海を侵犯されたときのみ行使する軍事力」という考え方も通りにくい。自国が攻撃されないように、あるいは大量の難民が流入しないよう、軍事的手段を裏づけに他国政権を維持あるいは打倒する、という考え方に妥当性があるか、これも分かりにくい。
自国を自分で守るということを考え始めたときに、当然ではあるが国民に義務が発生する。どういう義務負担かも含め、考えなくてはならない。
以上の考えが、すべて宙に浮いたまま着地できない。安易かつ感情的にに「子供を戦場にはやりたくない」「戦争は殺し合いだ」「戦争絶対反対」という議論に流れてしまう。戦争を知るものは「戦争を知らない世代が、言葉遊びをしている」と揶揄する。
それでも、いやだからこそ、私達は、もう一度、第二次世界大戦の意味からはじめ、日米安保、憲法、自衛隊、そして国というものを根本から考え直さなくてはならないのではなかろうか。私には、どの見解がもっとも好ましいかさえ今は見えない。そして、日本を左右する政治家のスタンスも、まったく見えないという悲劇。
2002年12月6日金曜日
【風見鶏】イージス艦の派遣決定で分かれる新聞社説
朝日新聞 「イージス艦――これは納得できない 」 ~ これではなぜいま転換なのかの十分な説明にはなっていない(本文より)
毎日新聞 「イージス艦 派遣するならルールを守れ」 ~ イージス艦派遣を決めたことは、禍根を残す(本文より)
産経新聞 「むしろ遅きに失した決定 【イージス艦派遣】」 ~ テロ掃討作戦の米国を、憲法の範囲いっぱいまで支援するのは同盟国としてのいわば義務(本文より)
日本経済新聞 「1年遅れたイージス艦派遣」 ~ 海上自衛隊補給艦の安全を考えれば、高性能護衛艦を配備するのは当然(本文より)
各新聞サイトは無断転載を著作権法違反だといっているが、面倒なので四誌の全文をコピーした(→こちら)。各誌がどういう論調であるのかを覚えておいて損はない。産経、日経は日米安保条約を前提とし同盟国としての当然の義務であると結論付けている。
HIYORIみどり 「で、あなたはどう思っているの?」
KAZAみどり 「米国とイラクの緊張が極限になる前に派遣というタイミングは絶妙だと思うわ。石破長官はそもそも派遣を一刻も早く実現したかたのでしょうし。」
HIYORIみどり 「集団的自衛権とか周辺事態とか難しいんですけど・・・」
KAZAみどり 「言葉遊びや防衛アレルギー反応はやめて、平時の有事法制をまじめに考えるべきね。力のない平和なんてありえないわ」
2002年12月4日水曜日
【風見鶏】「映像公開、イラクが兵器隠匿と非難 米国防総省」
産経新聞(共同通信)
ラムズフェルド国防長官とマイヤーズ統合参謀本部議長は、イラク軍が早期警戒レーダーを民間の建物に隠そうとしているところを撮影したとするビデオ映像を公開したらしい。
はなからアメリカはイラクを信じていない。潔白を証明するのはアメリカではなくイラク自身だという論理だ。しかし、公開された情報さえアメリカは信じない、自分たちの調査と異なるとして。結果として・・・
HIYORIみどり 「いよいよ " Sunday deadline" が近づいてきたわね」
KAZAみどり 「12月8日というのも意味ありげだわ。アメリカは " Remember WTC " と言いつづけてきたのかしらね」
HIYORIみどり 「ところでYUKIみどりちゃんは、日本の話題は気にならないのかしら」
KAZAみどり 「道路改革と民主党の泥仕合でしょう。ああいう報道のされ方では、外野から内紛を楽しむというスタンスに終始してしまって、政治的議論には発展しにくいわ。」
【風見鶏】「拉致被害者支援法が成立、来年1月1日施行」
日本経済新聞
支援に関する法制化が全会一致で可決した。これを素早い対応と評価するか、やっと最低限の事柄が決定したかと捉えるかは人それぞれだろう。法律により保証されることも重要だが、必要なのは具体的な(絵に描いた餅ではない)支援であろう。支援される月々の給付額についても、これが妥当であるかの判断は難しい。
政府は「どうだ責任は果したぞ」みたいな態度だが、彼女あるいは彼らの失われた24年前に対する国家責任にはこの法だけで埋め合わせるものではない。アメリカは亡命したジェンキンス氏に対する訴追を諦めてはいない。逆に考えると、日本の拉致被害に関しても、国家の義務放棄に対する追訴は免れていて良いとは到底思えない。
HIYORIみどり 「月々夫婦で24万円、大人で17万円ですって。ばかにしてんぢゃないの。年収にしていくらになるのよ」
KAZAみどり 「だから、早く日本社会に慣れて職業につくことを支援すると言っているわけよね。自立できるようになるまで保護しますと・・・」
HIYORIみどり 「これだけで良いと思えないわ。国を相手に精神的苦痛に対する賠償責任と逸失利益獲得に向けて裁判でも起こすべきぢゃないかしら」
KAZAみどり 「拉致問題はまだ全く解決していないわ。残された疑惑も含めて、それは時期尚早ね。でも"責任"というけれど、何をすると責任を取ったことになるのかしらね。今まで"責任をとる"ということを行ってこなかった国だけにね。」
2002年12月2日月曜日
ゲルギエフ指揮 キーロフ歌劇場管弦楽団 2002年日本公演
- 日時:2002年12月1日 16:00~
- 場所:札幌コンサートホールKITARA
- 指揮:ワレリー・ゲルギエフ 演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
- ムソルグスキー/歌劇「ホヴァーンシチナ」前奏曲 "モスクワ河の夜明け"
- ムソルグスキー/交響詩「はげ山の一夜」
- ボロディン/交響詩「中央アジアの創玄にて」
- バラキレフ/イスメライ(東洋的幻想曲)
- リムスキー=コルサコフ/交響詩「シェエラザード」OP.35
- アンコール チャイコフスキー/バレエ音楽「くるみ割人形」より グラン・バド・ドゥ、トレパック
好きな指揮者ではあるが、彼のつくる音楽にいつでも全面的に賛同しているわけでもない。CDを聴いていても、極端な表現は作品解釈上の妥当性という点では疑問を感じることもある。しかし、理性を超えたところで彼の音楽に惹かれることに抗えないのも事実だ。彼の音楽は圧倒的な説得力で語りかけてくるように思えるのだ。どうも私は、こういうマッチョ性に弱いところがある。
最近の彼は非常に有名になってしまったようにも思える。一部ではカリスマ視するような傾向がなきにしもあらずだ。今日のコンサートもどのような客層なのかと思っていたら、老若男女入り乱れているのである。クラヲタのような人よりも楚々としたこぎれいな人(*1>が多いのを見て、私は大いなる戸惑いを隠せなかった。これほどまでに彼が支持されていることに、今の今まで気付いてはいなかった。
同じカリスマ性を称えられる指揮者であっても、ゲルギエフはラトルとは全く違った音楽を作るように思える(ラトルは生を聴いたことがない)。ゲルギエフの演奏からは、非常に生臭く「直情的で獣のような」、そして有無を言わさない熱狂を感じる。そこが万人受けする要因なのかとも思う。
だからといって、ゲルギエフの演奏が雑であったり感情のままに荒々しく歌い上げているだけではない。ことさらに深刻ぶるような歌い方はしなないものの、彼なりの音楽に対する統率力や計算や分析というものは、聴くことができるわけだ。
そういう点からは今日の演奏もゲルギエフらしいく、熱く歯切れの良い演奏であったのだろうとは思う。激しいところは逆巻く怒涛のように激しく、柔らかく美しいところは草原を吹き通す風か、揺れる草花のようであり、色彩豊かな響きを堪能することができた。彼の微妙な指先(*2>や、大げさな指揮により統率されるオーケストラは、まさに主兵というイメージである。
また、今回の曲目はソロイスティックなところが要求されるものが多く、その点も楽しめるものであった。クラリネットやフルート(*3)などの木管をはじめとして、金管も安定感のある素晴らしい音色であった。シェエラザードのバイオリンソロも、若干線の細さを感じたが決して不満足であったわけではない。一方クレッシェンドの頂点でのはじけるような音響や地鳴りのような重低音も聴く事ができた。あれだけの音響で音が濁らないというのも流石といえようか。
選曲は全て標題音楽的であるため親しみやすい。ロシア的色彩の強い音楽は、一幅の絵画か絵巻物を読むようでさえあった。禿山の一夜やシェエラザードなどの超通俗名曲(*4)を、これほどまでの迫力で演奏してくれれば、本来ならば満足と言ってよいのかもしれない。
しかし、実は私は大いに不満なのである。全ての演奏が終わった後、札幌ではなかなか聞くことがきないような拍手とブラボーの嵐(*5)のなか、何か煮え切らない感覚を私は味わっていた。
それは札幌でのプログラムに負うところも大きいと思う。ゲルギエフはどちらかというとロシアの作曲家のうち、比較的マイナーな歌劇などを録音して脚光を浴びてきたという経緯がある。今回の札幌でのAプログラムも、そういう彼らしい特色の一片が感じられるものだ。それでも、このプログラムはあんまりなんぢゃないと思うのは私だけだろうか。前半は馴染みやすい交響詩を、後半はシェエラザードでは、さながらアンコールピースの寄せ集めを聴くかのようと書いたら失礼だろうか。それとともに、Aプロはメロディアスでピアニッシモで終わる曲が多いことも特徴だ。熱狂の中にブラボーの嵐を迎えるという選曲ではない。あるいは深い意味が込められた深遠な曲でもない(*6)。
それと、私が期待したほどのゲルギエフらしさの薄い、どちらかというと(彼の演奏の範囲内においては)比較的理性的な演奏なのではなかったかということだ。ここについては、聴いた人により捉え方は全く異なるだろうと思う。大きな感動を覚えた人に対して異を唱えるつもりも、水を差すつもりも全くない。ただ私には、若干の不満(というか燃え滓つーか)が残ったことも確かなのである。手放しで「カンドーした!!」とは言えない。
ここで更に考えてみた。もしかするとゲルギエフは、いつでもどこでも、獣のごとく直情型に鳴らしまくるというタイプの演奏家(*7)ではないのかもしれないということだ。彼の演奏の中には荒々しさの中にも揺るぎのない統率力と、独特の美学があることは認めるところだ。札幌公演は、その美しさの方を強調した叙情的演奏を目指したのではないかと思い至ったのである。(おとなしい演奏というのではない。あくまでも彼の演奏の技芸の範囲においてということだ)
そう考えると逆に今日の選曲の意図というものも見えてくるように思える。ソロイスティックでありかつロシア的な叙情音楽を堪能させる、という意味においてはなかなかなもので、決してAプロを軽く扱ったということではないのかもしれない(*8)。
とは納得してもだ。シェエラザードだって悪くはないのだが、他プロの方が魅力的に見えてしまう。案外Cプロのプロコフィエフの人たちは、シェエラザードの方が良かったと思っているのかもしれないが。ちなみに、他のプログラムは、ブルックナー交響曲第4番(Dプロ)、マーラー交響曲第9番(B、Eプロ)、ストラヴィンスキー春の祭典(N響)、ショスタコーヴィッチ交響曲第7番(N響との合同演奏)(*9)である。美しい旋律でダンスするゲルギエフも良いのが、目をむき牙をむき出して襲いかかるゲルギエフも聴きたかったなあと・・・。
蛇足だが、アンコール最後のくるみ割人形は(*10)圧巻であったことは付け加えておこう。
- クラシックヲタク=クラヲタが、こぎたない(失礼な!) と言っているのではない。ただヲタクが深くなるにつれ、ある外観上のスタイルに収束する傾向はあるようだ。いくつかのパターンはあるようだが。
- 今日の振りは、すべて指揮棒あり。ただし指揮棒を持たない手が、時に長島の一塁への送球のあとのように(ひどい例え!)、あるいはテルミンを奏でるがごとく微妙に揺れながらオケに指示を出しているようであった。
- フルートは前半4曲は、曲によりファーストを入れ替えていた。女性のフルーティストは木管であった。
- シェエラザードにしても禿山にしても、ゲルギエフ盤が発売されていなければ、食指が伸びることはまずないだろうと思える。
- ゲルギエフが登場したときの拍手からしてすごかった。ゲルギエフにかける熱い期待が込められているかのようで、私は実は面食らってしまった。
- そんなことは、チケットを買う前にプログラムを見た瞬間にわかるぢゃないのと言うかも知れない。しかし私はオバカなので、ゲルギエフが来るというだけでプログラムを見もせずにチケットを買ったのである。コンサートの直前まで「火の鳥」だったっけ? などど考えていたのである。
- 書いて改めて恥かしくなってしまったが、そんな指揮者だったら、通年発情型の ただの、お○か である。
- こういうのを「すっぱい葡萄の論理」と言うのでしたかしら?
- 同日のN響アワーは、まさにゲルギエフのショスタコとハルサイを報じていた。タコ7は「一楽章のほんの一部」(有名なところね)とハルサイは全曲。ハルサイはNHK FM放送でも生放送をしていた。たまたま私は車中でこの演奏のラストを聴いた。カーオーディオがしょぼいので「なんだかフヌケなハルサイだなあ。間違ってもブーレーズやゲルギではないな」と思ったのである。怒号のような拍手の後に「演奏はNHK交響楽団、指揮はワレリー・ゲルギエフさん・・・、生放送でお伝えしています」と流れ、ナニイ!と思わず叫んでしまった。 昨日、TVで再び見てみたが、視覚による錯覚だろうか、それとも実際にそうっだったのだろうか、ものすごい演奏に今回は思えたのであった。実際、演奏の感想なんてそんなものでしかない、ということの査証だろうか。
- もである。いまでも頭の中で鳴っているのだ
2002年11月28日木曜日
【風見鶏】「社説 次の矢に期待する構造改革特区」~教育への株式会社参入
このごろ忙しく新聞をゆっくり読む時間がないのだが、28日付け日経新聞社説に「経済活性化への突破口として期待される構造改革特別区域法案が12月に成立の見通し」との記事が目にとまった。
その中で、「株式会社による病院や学校の経営は、それぞれ厚生労働省、文部科学省の反対で見送りになった」とある。これには疑問を感じざるを得ない。医療はさておき教育の民間参入拒む理由は何か。文部科学省は「教育の質を保証できない」としているが、社説同様に不可解の念にとらわれる。
私は教育にも大規模な改革が必要だと思っている。それは義務教育から生涯学習を含めたスパンでの改革だ。教育には多様性が必要だと言う認識が、まだ醸成されないのだろうか。今のままでは学校教育は、社会に出ても「使い物にならない」(=だから勉強しない)ものでしかないのではなかろうか。
産経新聞の「教育を考える」2002/10/28も合わせて読んでみた。株式会社がによる学校経営の是非については判断が難しい。しかし、現行の教育制度、教育機関に対する「深い不信感」だけは、更に深まるのであった。
HIYORIみどり 「学校経営が失敗したら、やっぱり生徒を保護するために企業に公的資金注入するの~? つぶれたら卒業証書もらえなくなっちゃうじゃない」
KAZAみどり 「その考えそのものが硬直化しているわ。卒業証書や学歴に何の意味があって? 学校が潰れそうなら別なところに移る、自分が何を学びたいのか見極めた上で学校を選ぶという発想はできないの」
HIYORIみどり 「あなたのはデキル人の論理よ。転職だってままならない社会で、子供と親にそれを求めるのは無謀ぢゃない。今なら籍さえあれば卒業できるのよ」
2002年11月27日水曜日
小樽国際音楽祭/華麗なるフルートの世界
加藤さんの演奏といえば今年の6月、札幌フルートフェスティバルのゲスト演奏を鮮烈に思い出す。今日の演奏は、そのときに得た期待を裏切らないばかりか、遥かにそれを上回る「加藤ワールド」を聴かせてくれた。曲目は6月の演奏とバッハ、サラサーテが重なっているが、彼のお気に入りの曲ということだろうか。モーツアルトは彼にしては異色であるらしい、観客を意識した選曲か。笛は、ムラマツのプラチナで,管体プラチナ,メカは 14k という組み合わせであるらしい(加藤さんに詳しい方からの情報)。
加藤さんの演奏には、どうしたって「華麗なるフルートの世界」「高度なテクニック」という陳腐なるキャッチを思い浮かべてしまうのだが、演奏を聴くと、それ以外に表現のしようがないことにも思い至ってしまうのである。フルート界のアムラン、体育界系フルーティズムの雄というべきか。
高性能なスポーツカーに乗せられて、サーキットをビュンビュン飛ばしているような愉悦と言ったら良いだろうか。彼の笛から奏でられる音には、圧倒的なスピードと迫力、強弱のダイナミックさ、そしてエネルギッシュな強靭さに溢れている。聴く側がまともに受けとめるには、ふんばりさえ必要だ。
彼の持ち味は、近代の曲やカルメンファンタジー、あるいはアンコールに奏されたヴァイオリン・ソナタのような、高度なテクニックを要求される曲にこそ発揮されるように思える。高音から低音に至るまでの均一にして煌びやかな目も廻るような演奏は、「凄まじい」としか表現できない。そこまでするか!とさえ思ってしまう。音楽が終わった後には、体温が1.5度くらい上昇してしまっているかのような感覚だ。不適切な例えかもしれないが、スターマインに酔うかのごときだ。
技術の卓越とは、単に指が廻るということだけではなく、彼の場合は、音楽的な表現力が恐ろしく幅広いということだ。そこかしこで聴かれる音色の変化、重音かと思わせるような音、自在な音曲げ、消え入るようなピアニッシモ、恐ろしく太く大きな低音などなど・・・。
そういう意味から、今日のプログラムは変化に富んでいて面白かったと思う。
��月にも奏したが、彼のバッハも聴きものであった。普通の演奏よりもかなり早目の演奏ではないかと思うが、敬謙さや、渋さ深さなど、精神性を重視したと思われがちな不明瞭なアプローチを彼は取らない。音の流れの中で一気呵成に聴かせる事で、曲の持つ構造や美しさ、面白さというものをくっきりと浮かび上がらせているように、私は感じた。実際に何度も聴き(自分でもあるフレーズを吹いてみたりもして)慣れ親しんでいる曲であるにも関わらず、意外なところに天から降り注ぐ一条の光のごとき二声部が聴こえてきたときには、うれしい驚きを感じた。
一方で彼のモーツアルトというのは珍しいらしい。札響の弦セクションとの演奏であったが、これはこれで私には楽しめる演奏であった。何と言ってもてらいやクセがなく、明るいモーツアルトだ。闊達で無邪気な子供が、やわらかな日溜りで暖かくなった積み藁の上で、遊び興じているような雰囲気を感じた。アンサンブルはどちらかというと、加藤がヒュンヒュンひっぱるという印象で、弦セクションが少し固かったようにも思えないでもない。加藤さんの余裕と遊びについてゆくには、何かが足りないという気にさせられた。
フンメルやライネッケなど、フルーティストにはお馴染みの曲も素晴らしい演奏であったのだが、感想はここまでとしておく。
ところで、加藤さんと野平さんは、デュオを組んで久しい。野平さんのピアノがまた絶妙である。例えばカルメンファンタジーにおける、素早いパッセージとトリルを含む装飾音が、タイミング、リズム、音色、バランスなど、どれを取っても完璧な一致をみる見事さ。野平さんが時々加藤さんを振りかえりタイミングや音楽の流れを確認しているのだが、そういう仕草さえごく自然な演奏の一部になっているように感じた。
実は最初、野平さんのピアノの音は大きすぎるのではないかと思った。加藤さんほどの音響マニアがどうしたのだろうと訝った。良く響くホールであるためかピアノリサイタルのような趣なのだ。しかし、それはすぐに思い違いであると気づかされた。加藤さんの音量によるところも大きいと思うが、ピアノとフルートが対等な会話をする上では、あのぐらいのバランスの方が良いのだと思い直したからである。フルート奏者に遠慮をしすぎないピアノ演奏であるからこそ、ピアノとフルートの相互の良さが引き出されるのだ。
2002年11月26日火曜日
【フルーティストを聴く】
フルーティストについてまとめています。
以前は自身でフルートを吹いていましたが、今はさっぱりです。(大人になって始めたので、アルテス2巻も怪しいという実力程度未満。楽器だけはへインズ No43668。)
演奏会や公開レッスンのレビュ
ここでは、今まで生で聴いたことのあるフルーティストを紹介します。フルートを始めたのが1995年頃ですから、随分前に聴いたリサイタルも含まれています。時々思い出しながら加えていこうと思います。(敬称略・順不同)
- ウィリアム・ベネット
- エマニュエル・パユ ・・・サントリーホールでのN響とのモーツアルト
- トレバー・ワイ
- ラリュ-、アドリアン 2002/10/25
(国内のフルーティスト)
- 工藤重典 ・・・ハープの吉野直子さんとのデュオも聴いています。 2001/03/22
- 加藤元章 2002/06/02 2002/11/26
- 中野真理、三村園子
- 中川紅子、酒井秀明、相場皓一
- 大海隆宏、山下兼司、西田直孝
- 柳下正明、井上昭史、渡瀬英彦
(札幌在住のフルーティスト)
- 阿部博光、蠣崎路子、高橋紫
- 楢先容子、細野雅子
- 森圭吾 2002/01/06 2002/03/16 2002/05/05
- 山崎衆 1998/02/07 2001/12/15 2002/04/24
- 河崎亜希子 2002/12/23
(公開レッスン)
- シュルツ
- パウル・マイゼン
- 三村園子
【音盤】アムラン/カレイドスコープ
- エドナ・ベンツ・ウッズ:幻想的ワルツ(ヴァルス・ファンタスティーク)
- セルゲイ・ラフマニノフ:V Rのポルカ
- ヨーゼフ・ホフマン:夜想曲
- ヨーゼフ・ホフマン:カレイドスコープ(万華鏡)
- マルク=アンドレ・アムラン:練習曲第3番(パガニーニ=リスト「ラ・カンパネラ」に基づく)
- フェリクス・ブルーメンフェルド:左手独奏のための練習曲
- ジェイコブ・ギンペル:「海兵隊賛歌」による演奏会用パラフレーズ
- マルク=アンドレ・アムラン短調による練習曲第6番(ドメニコ・スカルラッティを讃えて)
- ジュール・マスネ:狂ったワルツ(ヴァルズ・フォル)
- モリッツ・モシュコフスキ:練習曲変イ短調
- フランシス・プーランク:間奏曲変イ長調
- レオポルド・ゴドフスキー:アルト・ウィーン
- アレクサンドル・ミシャロフスキ:ショパン「即興曲第1番」変イ長調に基づく練習曲
- アーサー・ルリエ:ジーグ
- エミール・ブランシェ:古い後宮の庭で
- アルフレート・カセッラ:「2つのコントラスト」――グラツィオーソ(ショパンを讃えて)
- アルフレート・カセッラ:「2つのコントラスト」――反グラツィオーソ
- ジョン・ヴァリアー:トッカティーナ
- アレクサンドル・グラズノフ:小アダージョ――バレエ音楽「四季」より
- ニコライ・カプースチン:トッカティーナ
- ピアノ:マルク=アンドレ・アムラン
- 録音:2001年2月、ヘンリー・ウッド・ホールでのデジタル録音
- 英HYPERION CDA 67275(輸入版)
ヴィルトゥオーゾ、アムランのアンコール・ピース集。このディスクはアムランならではのアンコール・ピースで、彼にしか弾けないような難易度の高い作品がぎっしり収められています。 たとえばアムラン自作の練習曲第3番は、パガニーニ=リストの「ラ・カンパネラ」を複雑にしたもので、リストの原曲より難易度もはるかに高くなっています。ギンペルの「海兵隊賛歌」はホロヴィッツ版「星条旗よ永遠なれ」の伝統を踏襲したかのような派手なパフォーマンスが聴きものです。 マスネの「狂ったワルツ」は昨年、一昨年のアムラン来日公演でのアンコール曲目。それこそ「狂ったように」難しい曲という印象です。最後のカプースチンも聴きものです。ロックのリズムを大胆に導入したこの「小トッカータ」には、すでにカプースチンの自作自演CDがリリースされていますが、アムランは作曲者本人と親交がある数少ないピアニストの一人なので、演奏内容も万全です。その他、表題にもなったヨゼフ・ホフマンの「万華鏡」や、ゴドフスキーの作品に至るまで、超絶技巧を前提にし、しかも親しみやすい作品が大量に収録されているのはピアノ好きには堪らないポイントと言えるでしょう。 (HMVサイトより引用)こういう超絶技巧曲がいとも容易く弾かれるのを聴くと、個々の曲がどうだ、などという細かなことを論じる気さえなくなってしまう。そもそもこれらの曲は、アムランのアンコールピースなのだ。それにしても何と言うアンコールピースであることか!これぞ「体育会系ピアニズム」の極致と言えるかもしれない。
HMVの解説にもあるが、例えば耳慣れたリストの「ラ・カンパネラ」! リストの曲を知っている人も、パガニーニの原曲を知っている人も、肝を潰してしまうような音楽になっている。難しさという点ではなく、技術を駆使したその先のグロテスクなまでに変形させられた音楽の持つ、まがまがしくさえある強烈な魅力に驚いてしまう。
しかし仔細に聴いてみれば、アムランは技巧をひけらかすためだけにアンコールピース集を録音したととばかりにも思えない。リストの曲集でも感じたが、技巧派のレッテルにありがちな機械的な味気なさとは違うものを、アムランのピアニズムからは感じる。ピアノという楽器の能力を最大限にまで弾き出しているような演奏からは、アムランの偏執的とも思えるほどのピアノへの愛が伝わってはこないだろうか。
実際「狂ったように難しい曲」ばかりが納められているのではないのだ。たとえばMOSZKOWSKI(1854-1925)の練習曲やPOULENC(1899-1963)の間奏曲などは哀愁を帯びた美しさを湛えた小品であるし、GODOWSKY(1870-1938)の Alt Wien ('Old Vienna')や、GLAZUNOV(1865-1936)のバレエ音楽をもとにしてアムランがアレンジした「Petit Adagio」も、初めて聴くものにとってさえ、これらが愛すべき美しい曲であることを知らせてくれる。
最後のKAPUSTIN(1937-)の「Toccatina」は、CD解説に「Oscar Peterson ? No, a succinct and dizzying toccata by a Russian composer.」とあるように、ロックのリズムというよりは洒落たジャズ風の曲で楽しませてくれる。
まさにあっという間の、圧倒的な20曲だ。思わずブラボーと叫んでしまう。ピアノ曲を聴くという快感と醍醐味を存分に味わえる一枚と言えるかもしれない。
2002年11月21日木曜日
分かりにくい経済再生
竹中-木村による経済再生プログラムはメガバンクの猛烈な反対にあった。竹中-木村派に反対する意見の多くは、銀行の不良債権をアメリカのハゲタカファンドに買わせ、日本経済をめちゃめちゃにしようとしている、という考えが強いようだ。
一方、竹中-木村派は日本が真に再生するためには、構造的な改革を含めた金融政策(銀行の不良債権処理と問題企業の淘汰も含む)を期待するというものだ。
銀行に注入した公的資金の優先株を普通株として経営権を国が持つとか、自己資本比率を違った基準で査定しなおし、銀行に資金注入するとかの話しは、私のように経済に全く素人のものでも(意味は分からなくとも)言葉だけは覚えてしまった。
どちらが日本を再生する力を持っているのか、「門前の小僧」以前の私には判断できない。ただ、メガバンクの猛烈な反発は自己保身と既得権益の確保という姿が見え隠れするように感じてしまったことは否定できない。
さらに不良債権と言われているものの実態がよく分からない。銀行は間接償却のための引当金を用意したくないため、不良債権の査定において実体隠しのようなことをしているとの指摘もある。銀行が生き延びるために、破綻懸念先に分類させず、延々と点滴を続けているようなものだ。そういう実態があるとしたら、それは、不良債権たる企業と銀行双方に責任があるわけで、もはや構造的な問題といわざるを得ない。
青木参幹事長は竹中案に対し「(経済政策に失敗したら)誰が責任を取るのか」と国会で首相に詰め寄った。しかし日本で一体、いままで経済政策の失敗で政治家の誰が責任をとっだろうか。どの銀行トップが自らの責任を認めただろうか。これを理不尽と言わずに何と言おうか。
正しい実態も分からない、処方すべき方策も混迷している、しかも、責任の所在も、責任の取り方も不明確であるとしたら日本経済は、いったいこれからどこに向うのか。
かてて加えて、日本外交の自立性のなさである。あと数年もすると、世界の誰も日本など気にしなくなり、十数年のうちに、少子化と教育問題の弊害が重なることで日本という国が消滅してしまうのではないか、という危機感はないのだろうか。自分の会社がなくなるということなど、些細なことかもしれない。
それにしてもと思う。政界も金融界も、普通ならとっくに隠居するか病院にいるような老人=重鎮たちが、若者以上に元気いっぱいで発言力があるのか・・・私には全く理解できない。あなたたちの残りの人生の間だけ、日本が潰れなければそれでいいのか?
極端な自閉的状況は、愛国ナショナリズムを生みやすい。世界も日本も大きな岐路にさしかかっていると、感じないだろうか。ここ数年の動きが、その後の日本と世界の枠組みを決定付けるように思えてならない。
2002年11月18日月曜日
【音盤】アムラン/フランツ・リスト作品集
- パガニーニによる大練習曲S.141 Six Grandes Etudes de Paganini S141
- 葬送行進曲 Trauermarsh - Grande Marche funebre
- アレグレット・フオコーソ Grande Marche
- 騎兵隊行進曲 Grande Marche caracteristique
- ピアノ:マルク=アンドレ・アムラン
- 録音:2002年2月、
- ヘンリー・ウッド・ホールでのデジタル録音
- 英HYPERION CDA 67370(輸入版)
アムランといえば技巧派のピアニストとして有名だ。CD試聴記でもブゾーニのピアノ協奏曲のレビュを、驚きと感動を持って書いたことを思い出す。そんなアムランが、リストの超絶技巧練習曲を録音したというのであるから、少なからず興味を持っていた。
リストという作曲家が好きかと問われれば、否というか、好きと答えるほどには親しんでいないというのが正直な回答だ。中学時代にジョルジ・シラフが弾くハンガリア狂詩曲 第2番のLP聴いたときの衝撃は忘れられないが(それこそ擦り切れるほど聴いたものだ)、それ以降リストの作品に食指が伸びることはあまりない。
さて、今回のアルバムは疎遠なリストを私に近づけることができる一枚になったであろうか。
まずは、パガニーニによる第練習曲。リストがパガニーニの演奏を聴いて「ピアノのパガニーニになる」と決意したという逸話は有名だ。この練習曲はパガニーニの原曲以上に難しいと言われてきた難曲であるらしい。第3番「ラ・カンパネラ(鐘)」は有名でよく演奏されていると思うが、全曲を通して演奏されることは、最近までは少なかったようだ。
私はピアノを弾かないので、聴いていてもどこが難しいのか、真に理解し驚嘆することはできないのだが、それでも、恐ろしく複雑にして多層にわたるアルペジオやら音階がスピーディーに弾かれるのを聴いていると、ほとほと感心してしまう。
アムランはこれらの「超絶技巧」といわれる難曲を(今では多くの演奏家が演奏可能なのだろうが)いともたやすく、弾いているように聴こえる。一部の隙もない演奏からは、技術を落とさないための日課練習をしているような余裕さえ感じられるところがオソロシイ。
しかし、この演奏を聴いて感動するかと問われれると、首を傾げざるを得ない。原曲のパガニーニのカプリ-スをどうしても思い出してしまう。原曲以上に難しいというが、原曲に漲る、悪魔的ともいえるほどの魅力と、技術的な冴えのようなものが、薄められてしまっているように思えてならない。
パガニーニ大練習曲、シューベルトの行進曲/マルク=アンドレ・アムラン(pf)フランツ・リストの有名なエピソードに、1832年、パリでヴァイオリンの名手パガニーニの超人的技巧と悪魔的容貌に接した際、「ピアノにおけるパガニーニ」になることを決意したという話があります。その若きリストの思いがストレートにあらわれたのがこの「パガニーニ大練習曲」だと言われています。 リスト初期の成功作となったこの作品、6曲のうち5曲が「24のカプリース」をとことん技巧的にピアノ編曲したもので、有名な第3番「ラ・カンパネッラ」のみヴァイオリン協奏曲第2番から編まれています。 これまで、「リスト弾き」といわれる人でも、特に有名なこの「ラ・カンパネッラ」のみを弾くことが多かったのですが、昨今のフランツ・リスト・ルネッサンスと、超絶技巧ピアノ・ブームの盛り上がりにより、全6曲の本格的な演奏がなされる機会も着実に増えてきているようです。その先鞭を付けたのも実は、このhyperionレーベルだったのかもしれません。レスリー・ハワードによるリスト:ピアノ作品全集の第48巻(CDA 67193)で、全曲版を2ヴァージョン ―― 1838年版と1851年版 ―― とも録音して大評判となったのはかれこれ4年ほど前のこととなります。 空前絶後のテクニックで不滅の金字塔を打ち立ててきたアムランの、これが待望の最新作。アムランにとってCD一枚丸ごとリスト作品というのは、96年録音のライヴ盤「プレイズ・リスト」(CDA66874/国内仕様MCDA66874)以来となります。今回の録音は、今年2月にヘンリー・ウッド・ホールで入念にセッション・レコーディングされたものです。今考えればアムランは「パガニーニ・エチュード」全曲録音のための伏線も、実はしっかり張り巡らしていたのでした。2001年2月に録音された「万華鏡(カレイドスコープ)」(CDA67275/国内仕様MCDA67275)で、アムラン自作のエチュード第3番「パガニーニ=リスト:ラ・カンパネッラによる」を入れていたのです。このアムラン流・超絶技巧てんこ盛りの「ラ・カンパネッラ」は、今回のアルバムへとつらなる明らかな道しるべだったと言えるでしょう。コンポーザー=ピアニストにこだわり続けるアムランの評価は、ヨーロッパでもこのところますますうなぎり。前作のゴドフスキー:ピアノ・ソナタ ホ短調/パッサカリア(CDA67300/国内仕様MCDA67300)はhyperionの数あるニュー・リリースの中でも空前のセールスを記録。ヨーロッパの店頭では「飛ぶように売れ、あっという間に売り切れた」と伝わっています。持ち前の超絶技巧に加え、音楽的にも深みを増しつつある、アムランの躍進ぶりには目を見張るばかり。 パガニーニ=リスト=アムラン、という3人のコンポーザー=ヴィルトゥオーゾの時空を越えた邂逅は、聴く者にきっと最高のカタルシスを与えてくれることでしょう。
超絶技巧の作品を果敢に演奏し続けているアムランがリストの難曲を録音したCDが発売されたのを見つけさっそく入手して聴いてみることにしました。パガニーニによる超絶技巧練習曲はリストの作品の中でもポピュラーなものですが,シューベルトによる行進曲の録音は比較的珍しい録音に属するのではないでしょうか。 ここで聴かれるアムランの演奏は相変わらず見事で,最初の超絶技巧練習曲集では,目まぐるしいパッセージをものともせずに冷静なコントロールによって生み出される精妙な表情の変化には唖然とするばかりですし,表情の幅や力感も十二分に発揮されており,表現が無味乾燥になることがありません。 私自身,この演奏の複雑で困難なパッセージがハイスピードで正確に再現されているのを聴いているだけでも,メカニカルな快感と,スポーティな爽快感と,高度なものを成し遂げた達成感を感じ,自分が弾いているわけでもないのに大いなる満足感に浸ることができました。 ただそれでも,この演奏は精密な機械仕掛けのからくりを聴いているような気もしてしまうのも事実で,冷静かつ完璧なコントロールに耳を奪われながらも,聴き手に迫るパワーや迫力といったものは感じられないので,リストの超絶技巧作品を聴くにしてはクールに過ぎるのではないかとも思えます。 しかしそれは,これまで聴いてきたリストの演奏によって蓄積されてきた作品のイメージに過ぎず,そもそもリストはパガニーニの演奏を聴いて,自分は「ピアノのパガニーニ」になろうと思ったというのですから,パガニーニのようなクールビューティな演奏こそ作品の姿を伝えるのかもしれないなという気もしています。 続いて収録されているシューベルトによる3つの行進曲は,シューベルトのD819の6つの大行進曲とロンド,D859の葬送大行進曲,D886の2つの性格的な行進曲から再構成した作品で,原曲はいずれもピアノ連弾曲なのをピアノソロにアレンジしたという難曲です。 こちらは,オリジナルのシューベルトの作品そのままといった印象があるのですが,声部が増えたときには独りで弾いているとは思えないような対比が聴かれ,それをアムランが鮮やかに弾き分けているのは全く見事で,表現そのものというか,メッセージ性は淡泊といえるのですが,フォルテでの力感や,華やかなパッセージのブリリアントな響き,そして軽快なリズム感も聴き応え十分で,アムランの表現のパレットの様々な階調を堪能できるものでした。 こうして聴いてみると,いずれも難曲になればなるほど持ち味を発揮するアムランの超絶技巧が遺憾なく発揮された,鮮烈な演奏に唖然とするばかりでしたが,それが持てるテクニックのぎりぎりのところで演奏されているのではなく,余裕を持ったコントロールの範疇内でなしえていることに,アムランの技量の途方もなさを感じます。これは豪快なリストを聴きたい方にはお薦めできないかもしれませんが,技術の粋を尽くした1つの究極を思わせるリストの名演として強く推薦したいと思います。
2002年11月15日金曜日
【風見鶏】「Daschel Doubts Terror War's Progress」
washingtonpost By Johon J.Lumpkin
Thursday, November 14, 2002; 2:16 PM
Osama bin Laden のテープがまだ生きていると思わせるテープが出現した。日本のTVでは声紋鑑定の結果、ラディン本人にほぼ間違いないと報道していた。
��4日付けの washingtonpost では、上院の民主党のトップである Daschel 氏が、ビン・ラディンを捕まえることに失敗したことから、「テロとの戦いに勝利しているのか否か」と疑問を呈していると報じていた。このような声はアメリカでは多いのではないかと思われる。
一方、ホワイトハウスのスポークスマンは、テロとの戦いに「多大な進展(tremendous progress)」と述べている。
このテープは新たなるテロへの警告である、と受け取る政府関係者も多いという。ブッシュ大統領は「Whoever put the tape out has put the world on notice yet again that we're at war」と述べている。
こうして考えると、ビン・ラディンが生きていようがいまいが、アメリカは彼の存在を十分に利用しているように思えてならない。アル・カイーダが実はアメリカの援助を受けてテロを組織していると分析する専門家もいるが、いずれにせよ暗雲は晴れずといった印象だ。
HIYORIみどり 「ビンラディンて生きていたのね~」
KAZAみどり 「米英の新聞を見ていると、インドネシアやあちこちで、アルカイーダの幹部やテロ関係者が捕まるというニュースを、ここ数週間目にしていたわ。でも肝心のラディンは行方知れず。反テロ組織の担当官は、ラディンがもし生きているなら、アフガニスタン国境沿いのパキスタン山中に潜伏していると見ているらしいわ」
HIYORIみどり 「イラクは国連の査察を受け入れたけど、戦争はするのかしら」
KAZAみどり 「例の増田俊男氏のサイトを読むと、アメリカはとにかく"今後5年間は戦争しなくてはならない"らしいわ。日本も困ったものだけど、アメリカはもっと困ったものね。
2002年11月14日木曜日
思いつくままに
オウム真理教はサリンをばらまき、不安と恐怖を演出することで自らの教義の正しさを増強しようとした。 今アメリカは、世界中にイラクとテロと北朝鮮に関する不安をあおり(これで不安を感じない国はテロ国会以外ありえなくなる)、自らの政策を増強させている。「我々につくかテロ国家につくか」と大胆かつ幼稚にも世界を二分した論理は健在だ。
有事は平時にこそ考えておかなくてはならない。日本には軍事関連を増強させるためにテロを利用したり、さらにはテロを演出さえするようなことまではしていないが、米国はそうは見られていないようだ。英国のGardian誌には、米国で著名な作家であるゴア・ヴィダル氏(イタリア在住)が、米国のテロに関する疑惑を発表したことを紹介していた。(Gore Vidal claims 'Bush junta' complict in 9/11)
拉致被害者の、死亡したとされる残りの方や、それ以外にも何十人もいると思われている人たちの疑惑解明は、日本外交として強力に交渉するべきだと思う。しかし、今回の帰国家族は外交カードとするには、問題がないのだろうか。今こそ「人道的問題」となったのではなかろうか。
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企業が潰れること、弱い企業が資本主義の市場から撤退することは、市場原理の原則といわれればそれまでだ。しかし市場にまかせるだけではなく、日本の産業構造をどう変革するのかというビジョンが欠けている。産業の空洞化、技術立国の衰退と叫ぶけど、ではどこを育てるのかと。このままではつぶされもせず、かといって生き返りもせず。またしても 「茹で蛙」 か?












