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2001年9月3日月曜日

失業時代を迎えて

IT関連企業のリストラなどを新聞で見るにつけ、恐ろしい時代に突入しつつあるという実感が湧いてくる。リストラされる対象社員(国内・国外を問わず)は、企業の狭い価値観の中で「不要」という烙印を押されるわけである。

この企業の価値観というものが今のの社会を支配しているわけだが、仮にこれを「正」とした場合、企業が求める人物像が教育などを通して育成されているのかという疑問が湧いてくる。

勉強しなくなった大学生(かくいう私も昔はそうであった)や、勉強をさせなくなってきた義務教育など、こと基礎学問に関しては教育は荒廃の一途を辿っているように思える。(というよりも、文部科学省は「できるもの、使えるもの」と「それなりの人」の二極化を図ろうとしているように思えるのだが、これは以前も書いてきた。)

さて、企業にとって有用とはいかなることであるか、少しだけ考えてみた。

企業が求める人物像を考えるに、まずタフであること(これは体力・精神力ともにである)が第一条件である。 次に、対外折衝能力に長けること。タフネゴシエーターであることは、一方的に自分の論理を展開するのではなく、人から信頼されることが必須であり、このような資質が最も重要であると考える。学習で得られるスキルとしては、専門分野におけるゆるぎなき知識があり、専門外の分野にもある程度明るいことが求められるだろう。公教育はこの点を担っているのだろうと思う。これらを有した上で、内政重視の組織型人間ではなく、外向きで前向きかつ独創的な発想ができ、思考の柔軟性と確たる意思を有し(相反する資質だが)、ジョブにおけるリスク管理ができており、いくつかの考えられるケースに対応可能な用意をしておけることなどなど・・・。そして、人物的には、人から好かれ他者への配慮と思いやりがあり、仕事オンリーの人物ではないこと、などなど。(列挙してきて うんざり してきた。「そんな奴いねーよ」てね)

こういう人物を企業が求めるとしたら、学校教育や家庭教育でできることは少ないと思えてきた。企業側は、大学まで出ていながら、使える学生が少ないと嘆くが、大学側はそれには抵抗を示しているようだ。企業への就職予備軍を作るのが教育の役割ではないと、仮にとなえるならば、教育の役割とは何か。ゆとり教育で何を見出させるのか。

失業率5%というと、すぐにセーフティーネットというが、不幸にもリストラされた方に再就職させ企業で成功するほどの「スキル」を後から身につけさせることなど可能なのだろうか。といって、学習で得られるスキル以外で自分を売り込めるとしたら、上にあげた資質を含めて他に何があるだろうか。自分を振り返ってみると、いまの立場が砂上の楼閣でしかないことに慄然とする。

一方で、企業の価値観から「正」とする人物像を否定する人物像というのは考えられるだろうか。企業=組織として捉えているわけではないので、独立した事業家みたいなものはそれには入らないような気がする。

このような社会で生きてゆく上での、道しるべが見えないのは私だけだろうか。

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