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2001年10月18日木曜日

戦争や残虐行為の背景について

あるBBSに書いたことなのですが、改めてここにまとめておきます。テーマは人間は何故残虐行為を繰り返すことができるのか、といったものです。

戦争では相手を殺すことはもちろんですが、ときに過剰なまでの残虐行為を伴うことがあります。この、残虐行為というのは、相手を同じ人間と見ていないのではないかと思うことがあります。民族・人種的な偏見もあるでしょう。外見的な姿形が少しだけ違うだけ、あるいは、生活の程度や文化のあり方が少しだけ異なるだけなのに、どうしてそれほど残虐になれるのか。あるいは、残虐行為は慣れるものなのか。人間としての不思議を見る思いです。

私は、画家の中でスペインの生んだ偉大なる画家ゴヤに独特の感情を抱いているのですが、銅版画で戦争の愚かしさを描いたものをご存知でしょうか?ありとあらゆる残虐行為が行われたことを、しっかりと記録しています。

あるいは、本多勝一の「殺す側の論理」だったか「殺される側の論理」だったか忘失しましたが、その中でアメリカ兵が、機関銃で撃ち殺し胸から下が吹き飛んでしまったベトナムの子供を、まるで汚い雑巾でも持つかのようにつ持ち上げている写真が掲載されており、物凄いショックを受けたものです。あれは、どう見ても、同じ人間を哀れむ眼ではなかったように思います。

おそらく、この手のハナシは戦争について言及してゆくと枚挙にいとまがないでしょう。

残虐さとは、相手を認めないという気持があれば、どこにでも生ずるものではないでしょうか。イジメ問題にしても根はそこです。日本では異質なものを極端に排除する傾向があると思います。均質さと同質さを求めるような雰囲気が。ルーズがはやれば皆ルーズみたいな。仲間からはずれるのって怖くないですか?  同質化した世界しか認めないという偏狭な考えは、ときに残虐さの温床になるように思えてなりません。

もうひとつ。残虐行為というのは時代や思想が生む概念だと思うのです。

例えば私たちが親しんでいる時代劇や大河ドラマ。真剣で相手を叩き切ります。今の世の中では正気の沙汰ではありません。しかし、当時はどこの世界でも刃物を用いている文化では、当然の行為であり、刃物を使う人間をことさら残虐とは考えていなかったと思います。

人間性が確保されたから、刃物で人を殺傷する行為は野蛮でありかつ残虐な行為となりました。大きな違いは、個人としての他者を尊重したという西欧的な民主主義の影響でしょうか?

さて、ここで今回のテロと報復です。

アメリカ陣営とそれ以外などという、単純かつ危険な二極論を振り回す米国の大統領の知性レベルにはあきれ返りますが、他者を他者として認めるという行為が、アメリカ人はなかなかできないということなのでしょうか。

よく、アメリカは、どこの国に行ってもそこに「アメリカそのもの」を作ってしまうと言われますよね。米軍基地まわりにしてもそうなんだと思います。他者と交わって赤くなるというような発想、他者を取り込んで協調しようという発想。他者をおなじ対等と考える発想。むずかしいでしょうね。

最後にひとつ、誤解を招くといけないので補足しますが、「アメリカ人は・・・」とか「和を尊ぶのは日本の文化だ」という発想には同意しません。アメリカ人と人くくりにして論ずるのは分かりやすいものですが、そんなに単純なものではないでしょう。

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