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2003年4月25日金曜日

ゲルギエフ/チャイコフスキー「くるみ割人形」(全曲)


チャイコフスキー/くるみ割り人形(全曲)
 指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ
 演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
 録音:Festspielhaus, Baden-Baden, Germany, 8/1989
 PHILIPS 462 114-2(輸入盤)

ずいぶん以前から発売されていることは知っていたのだが、見つけられずにいたCDだった。池袋HMVに行ってみたらロープライスコーナーで販売されていたのでゲット。ゲルギエフファンならば話題のショスタコ7番を買うべきなのだろうが、タコは重い。聴くのに覚悟が必要であるので今回はパス。(そのうちこっそり聴くことにしようとは思っている・・・)

さて、このCDは『くるみ割人形』全曲(81分)がなんと1枚におさめられている。チャイコフスキーやゲルギエフファンならずとも嬉しい構成である。それにしても、どこを切っても有名で耳馴染みのある曲を通しで聴くのは、もしかしたら始めてかもしれないなあと、聴きながらにして思った。

ゲルギエフはバレエ音楽であるこの曲を、どう料理しているか。さすがにこの曲は「戦争もの」ではない。だから、彼お得意のマチョさで、ゴリゴリ押しまくっているというような演奏ではない。それでも、非常にメリハリとダイナミックさに富んだヴィヴィッドな演奏になっていると思う。

彼の音楽の場合『シェヘラザード』でも『アレクサンドル・ネフスキー』でもそうであったが、激しい部分と弦を中心とした歌の部分の表現の対比には、いつも驚かされるのだが、この演奏でもそれを存分に味わうことができる。シンバルは高らかに鳴り、ティンパニは地響きのように叩かれる、そこに天から差し込むがごときハープの音色・・・ああ、これって『くるみ割り人形』なの・・って(^^)。

この演奏から聴き取れるのは、まさに生き生きとした躍動感だ。本来バレエ音楽であるためか、体の底から沸いてくるようなリズムは、時に野蛮なまでの野生を目覚めさせるかのよう。一方で彼の音楽は官能的でもあるのだと思う。本能に近い部分に作用してしまうので、ある種の音楽ファンには「効く」のだろう。リズムのぶれも粗さも、そういう種のファンにはどうでもよくなる。このような点を、あざとらしいとして疎んじる人もいるかもしれない。

それにしてもゲルギエフの統率するキーロフの演奏ときたら。本当によく彼に反応していると思う。これを聴くと、最近発売された彼の演奏のエッセンスが全てぎっしり詰まっているように聴こえる。コントラバスのかすれるような低音の響きもそのままだ。ああ、ゲルギエフとロシアの息吹が流れ込んでくる(^^)

「Trepak」を聴くと、札幌公演のことが思い出される。本当は、クラクCDなんて聴いている場合ぢゃあないですがね。



2003年4月21日月曜日

パユのテレマン フルート協奏曲集


Georg Philip Telemann 1681-1767

Concerto for Flute, Strings and COntinuo in G
Concerto for Flute, Violin, Cello, Strings and Continuo in A minor
Concerto for 2 Flutes, Violine, Strings and Continuo in A minor
Concerto for Flute, Oboe d'amore, Viola d'amore, Strings and Continuo in E
Concerto for Flute, Strings and Continuo in D
 Emmanuel Pahud/flute
 Berliner Barock Solisten
 EMI(輸入盤)

これはエマニュエル・パユの奏するテレマンのフルート協奏曲集。アンサンブルはベルリン・バロック・ゾリスデンだ。なんと華やかで贅沢な音楽であることか。

うまいとか、そこの解釈がどうだとか、そんなことはどうでもよい。そういうものを受けつけない貫禄さえ漂う。ふと、どうしてテレマンでいまどき現代楽器による演奏なんだ? という疑問もよぎるが、それさえ考えてはいけないのだと思いなおす。だってモダン楽器の方が、この曲のもつ浮き立つような輝かしさや軽やかさを表現できるのではないかしら、とさえ思ってしまうからだ。

もはや何をこの曲集と演奏に付け加える必要があろうか。ただ静かに聴くのみ。あなたがパユを好きで、とりあえず音楽に深刻さを求めたくないときには、お奨め。ジャック・ズーンとの二重奏も聴きどころ。

2003年4月20日日曜日

NAXOS 日本作曲家選輯 「武満 徹」


そして、それが風であることを知った 他
  1. そして、それが風であることを知った(フルート、ヴィオラとハープのための) 
  2. 雨の樹(3人の打楽器奏者のための) 海へ(アルト・フルートとギターのための) 
  3. プライス(フルート、2台のハープ、マリンバと打楽器のための) 
  4. 巡り~イサム・ノグチの追憶に(フルート独奏のための) 
  5. ヴォイス(声)(フルート独奏のための) エア(フルート独奏のたえめの) 
  6. 雨の呪文(フルート、クラリネット、ハープ、ピアノとヴァイブラフォンのための)  
  • ニュー・ミュージック・コンサーツ・アンサンブル  
  • ロバート・エイトケン(フルート) /NAXIOS
NAXOSの日本作曲家選輯から武満徹が発売された。フルーティストはロバート・エイトケン。解説によればエイトケンは武満徹を深く尊敬し、二度にわたり武満をカナダに招待しているとか。このCDに収められた曲は、彼らが武満から直接指導を受け、彼のために演奏したものとののこと。収録曲は武満のフルート作品を知るには格好の曲ばかりである。
 
武満の音楽を語ることは難しい。彼の音楽は沈黙と静寂さの中に、限りない色彩と饒舌さを秘めた音楽のように思えるからだ。一聴してモノトーンな演奏からは、煌くような多彩な色彩のハーモニーを感じる瞬間さえある。それが武満の抑制された表現に全く背反しないということ、これは表現において驚くべきことだと思うのだ。このようなモノトーンの生み出す色彩感覚故に、彼の音楽は日本的な情緒、例えば後期の狩野探幽のような雰囲気さえも漂わせる。武満の音楽から能を思わせるという解釈もあるが、哀しいかな、私は能に接したことがないので分からない(>こういうの日本人としてマズイよな(^^;;)
 
また武満は、水、空気など捉えどころのないモノを音楽のテーマとして求めたようにも思える。流れ変遷し同じ形をとることはないのだが一貫してあるもの、そういうことさえ感じさせるのが彼の音楽だ。


残念ながら私は、不勉強にして武満の音楽にそれほど親しんでいるわけではない。またエイトケン(右写真)というフルーティストやトロントで活動するパーカッション・アンサンブルのNEXUSという存在も初耳であった。武満を敬愛する演奏家たちが奏でる武満の音楽。ぐたぐた言わなくても聴くと分かる、武満の曲は美しい。しばし日常の雑事を忘れて聴き入るのも悪くない。


2003年4月17日木曜日

鈴木淳史の「クラシック批評こてんぱん」


鈴木淳史(あつふみ)は1970年生まれの「フリー・ランスの売文業」とある。クラシック関係の共著も洋泉社から出しており、いわゆる「クラシック音楽の批評」をする人らしい("らしい"と書くだけあり、私は彼を知らなかった)。

さて、この本は「クラシック音楽の批評」をいかに読むかということを述べた本で、音楽そのものについて書いているわけではない。「なんてつまらない本」と思うなかれ。普段から「クラシック音楽の批評」とか「音楽評論」というものに胡散臭さを感じている人こそ、楽しんで読めるのではないかと思う。文体も軽く読みやすい(逆に読みにくいという気もするが)。

ここで鈴木氏の視座につて述べる積もりはないが、かの小林秀雄の「様々なる意匠」の中から批評の対象が己であると他人であるとは一つのことであって二つのことではない。批評とは竟に己の夢を懐疑的に語ることではないのか!という部分を引用し、客観が皮をかぶった主観だとしたら(その事実だけで、いかがわしいでしょ?)、主観そのもので、物事を判断したほうがいいのではないか、ということだ。(P.106) と主張するところに、彼の「批評」に対するスタンスが現れているように思える。

そもそも私は、この国においてもかの国においても「音楽評論」「音楽批評」というものが成立しているのか、ということが疑問でならない。そういう点で「評論家じゃない症候群」および多様化する批評家たち(P.144)のなかで、かつて音楽評論家と呼ばれた人たちが、自らを「評論家」とは名乗らないということをはからずも鈴木氏も指摘している。そしてなぜ彼らは、音楽評論家という名前を忌避するのだろうと問題をなげかけ、それは「音楽評論」または「音楽批評」のイカガワシサに耐えられなくなったこと。(中略)自分のやっていることが対応していないという恥じらい(中略)、自分たちの先輩格に当たる評論家(中略)は、本当に批評というものをやっているのか、という疑問があるようだ。(P.146)と指摘している。

では鈴木氏は「音楽批評」を否定しているのか、あるいは音楽評論についてどのようなスタンスをとっているのか。彼の対象と距離の取り方、そしてどことなくはぐらかすようでいて、その実裏に真実を込めた文体からそれを読み取るよりも、彼が音楽について書いたものを読むのが適切かもしれない。(だってそれを書いたら、また引用だらけになってしまうから)

え?私の書いているもの? それは単なる感想文に決まっているぢゃないですか(-_-)

2003年4月15日火曜日

櫻井よしこ「迷走日本の原点」


櫻井よしこの本(「日本の危機」 「大人たちの失敗」)を読んでいると、彼女の一貫したスタンスが見えてくる。彼女は改憲派に属しているし、いわゆる「新しい日本の歴史教科書」や靖国神社などに賛意を示している。
そのような点から彼女を「タカ派」とか「右派」とか決め付けることは問題の本質を見失うことになってしまう。彼女は朝日新聞も批判しているが産経新聞も同じように批判しているのだ。彼女にはどこかに寄りすがるというスタンスはみられない。
彼女が主張するのは、個人であれ国家であれ「自立的であれ」ということに尽きている。その点において私は彼女を信頼できるジャーナリストだと思っている。
彼女は自立した国家であるならば「軍隊」を保有しないことなどありえない、真に国益を守るための外交を展開するには、自国に誇りをもち、国際社会で対等の立場で主張するためには「力=武力」がなくてはならないとしている。
この本の目次をひろってみよう。
第1章 行革を骨抜きにする官僚たちの反撃 第2章 経済至上主義が日本を呪縛する 第3章 生き残った系列システムの毒素 第4章 憲法改正がいつも挫折する理由 第5章 税制が日本の自立を阻んでいる 第6章 平等意識が学校を崩壊させた 第7章 国籍と参政権を曖昧にするなかれ 第8章 防衛意識が育たないこれだけの理由 第9章 国益を見失って久しい外務官僚 第10章 バラマキ農政のアリ地獄 第11章 フリーター200万人の漂流
実に巧みに、官僚批判と国家意識の欠如、そして個人の自立性の欠如を繰り返しくりかえし述べている。農業がダメになったのもフリーターが増えたのも、ひとえに官僚主導の間違った保護行政からの自立心の欠如、間違った歴史認識による国家意識の欠落に起因していると説く。
間違った歴史認識とは何か。彼女はロバート・スティネットの『欺瞞の日~FDRと真珠湾の真相』(Day of Deceit)を引き合いに出している。同著は日本の真珠湾攻撃がアメリカの緻密な陰謀であったことを開示された595点の資料を引用しつつ暴いた本だ。今では真珠湾攻撃が「アメリカがあらかじめしくんだ奇襲」であることは一部では認められた事実である。
それについて京都大学の中西輝夫教授の「歴史上の本当に重要で決定的な資料というものは(中略)その出来事から少なく見てニ世代を経なければ決して世に出ることはない」という「正論」2000年10月号を引用し、"とすると、戦後五十年余、これまで日本人が信じてきた第二次世界大戦の意味と位置付けの再検討作業は、実はこれからはじまるのだ"(P.71)と主張する。
これらのスタンスには、私も賛意を覚える。彼女が国家に自立的であれと叱咤激励する様にもエールを送る(っていうか自分で何とか動けよなとも思うが)。
それでも、彼女の主張に違和感を感じるのは改憲と軍備についてだ。北朝鮮の脅威がありながら日米安保に依存する日本の姿は確かに危ういと感じさせる。日本領海に中国の調査艦や北朝鮮の工作船が進入しても何もできない日本にだらしなさも感じる。
では改憲した上で独自の軍隊を保有するののが正しい道なのだろうか。力ももたない交渉に意味がない、武力のない国際社会など書生論であるのかもしれない。しかし、では軍備の果てはどこにあるのか。
昨日のニュースで自衛隊が大量破壊兵器であるクラスター爆弾を既に保有していたことが報じられていた。軍備を増強するということは、この先迎撃ミサイルシステムを開発し、偵察衛星をいくつも打ち上げ、そして日本は核までを保有しなくてはならないということなのか。力の拡大のゴールはどこにあるのか。そこのところまでは櫻井氏は言及していない。
逆にそこが見えない以上は、軍備増強には私は懐疑的にならざるを得ない。国が国として自立しなくてはならないことは認める。自国の歴史を正しく認識し、内政干渉を受けない態度を示すことも重要だ。彼女は畢竟、日本人の「幸福論」を述べている。しかし「武力」を有することが幸福につながるのか、真の自立につながるのか、今の私には見えない。

2003年4月13日日曜日

田中宇のジャーナリズム





田中宇(さかい)と言う名前を聞いたことがあるだろうか。「田中宇の国際ニュース解説」というサイトを運営し、自らのサイトそしてメールマガジンで国際社会のニュースの裏側を解説してくれている。サイトは何を隠そう私も欠かさず読んでおり、多くのことを教えてもらっている。この本を見た家内は「TVで良く名前を見るよ」とも言っていた。かなりユーメー人のようである。 
右の書では「ネットジャーナリズムを確立した男」と紹介されている。田中氏は1961年生まれ。大学を卒業後、繊維メーカー勤務を経て共同通信社に入社。その後、マイクロソフト社に入社し日本発のコラムサイト「MSNジャーナル」を立ち上げる。1999年独立しジャーナリストとして現在の活動を続ける、という経歴だ。

彼のコラムを何気なく読むが、その分析力と情報収集力の多岐に渡る点はいつも感嘆する。インタビューによれば、彼はインターネットを駆使し毎日30ほどの記事にざっと目を通し記事を書いているという。ひとつの記事には平均30時間ほどかかるのだとか。それだもの記事がおもしろいわけだ。
右に紹介した本は、これらのネットで公開されたものの中から文庫本として編集したものだ。最新の彼の記事はネットで読めるので、わざわざこの本を買わなくてもよいかもしれない。また、この2冊を読んだからとて国際情勢の裏が急に見えてくるわけでも、事情通になれるわけでもない。
それでもひとつのきっかけにはなる。
私は国際情勢の面白さを、彼のサイトで知ったような気がする。例えば田中氏はアメリカが受けた911テロも、真珠湾同様に仕組まれたテロであるとする本も上梓している。そんなバカなと思うかもしれないが、その手の意見は欧米の新聞紙面では多く見かけるらしい。朝日新聞やNHKは間違ってもそういう報道はしないだろう。
イラク戦争の理由を考える上での、石油利権問題やネオコンの存在は、テレビ(それもサンデープロジェクトあたり)が問題にするはるか以前から彼はネットで指摘していた。彼の記事を読んでいたので「何をいまさら」と思ったものだ。
私たちが新聞やTVから受ける情報は、一面的でかつ一方的だ。その裏で何が起こっているのかは、嗅覚を働かせなくては見えてこない。
バグダット陥落時に市民がフセイン銅像を引き倒したのも、まわりで騒いでいた市民も米軍の指しがねであるとの週刊誌報道もあったりした。何が真実なのかは永久にわからない。しかし、その報道が与える効果、影響は何か、何のためにこの報道がその時期に流されるのか、そういうことを少しでも感じることは、流されずに生きて行く上で重要なことだと思う。
田中氏のジャーナリズムは、そういう表に見えないものに重要なメッセージが込められていることを気づかせてくれた点において、極めて秀逸であると思う。

2003年4月8日火曜日

乙一:天帝妖狐


いやあ、悪いことをしてしまった。乙一氏の「夏の花火と私の死体」のレビュだ。今一つ乗りきれなかったと書いてしまったのだが、この第二作は、はっきり言って面白かったよ。通勤中の電車で読んでいて、思わず駅を乗り過ごすところだったし(本当に慌てたよ)。

よく考えれば「夏の花火と私の死体」(以下、夏花)だって、死んだ人間が淡々と語るという点において確かに斬新であったと思い返す。

今回のふたつの小説は趣も味わいも異なっているのだが、作風は乙一氏のものだ。前者はジュブナイル風サイコサスペンス(ホラー?)、後者は少し時代を遡った雰囲気を出した、手紙の形態をとった作品だ。どちらもテンポ感がよく、ぐいぐいと読ませる。まだ20歳前半であろうから、エンターテイメント作家としての筆力は十分に持っていると思う。

「夏花」で考えた"イマイチ感"がどうして今回の作品で払拭されたのか。それは、表題作の「天帝妖狐」ではなく「A MASKED BALL」の着想において感心したからだ。舞台は高校のなか、あまり人気のないトイレでタバコを吸うことを日課として主人公が、ふとしたことからトイレの落書きをみつけるところから物語は始まる。

秀逸なのはそのラクガキが、今はやりのインターネットでのBBSを模したものになっている点だ。ラクガキのスレッドが続き、たわいのない日常を記したり、あるいは胸の奥を告白したり、そしては事件の予告があったりするわけだ。

考えてみれば、この設定だってちょっと変ではある。トイレにサインペンをわざわざ持ち込み、書いては消すことを繰り返す。消したにしても、だんだんタイルが汚れてしまわないのとか、ストーリーとは全く関係ないが最後の油性マジックのくだり(文庫本110頁)なども、乙一氏独特のご都合主義(ていうかあまり細部の矛盾にはこだわらない、おおらかさ)を見る思いだ。まあそれとて、ハリウッドほどではないかもしれないが。

表題作「天帝妖狐」も意欲作だ。夜木という主人公と杏子の二人の視点を交互に入れ替えて物語を進める手法、古風な語り口、そしてテーマとラストに至るストーリー。どれもが、どこかで読んだことがありそう・・・と思わせる点はあるものの、今風のサイコホラーもどきのテイストも混ぜながら一気に読ませる。

ラストのありようなどには(最期にお涙の感動シーンをもってくるところなど)、ちょっと自分の作風と作品に酔っているようなところを感じないわけではないのだが、まあ若いのだからそれもよしとしよう。このようなところは映画やTVの影響を感じる部分だ。(具体的にといわれても困る。どこかでT2と江戸川乱歩とトマス・ハリスを思い出していた、ということでご勘弁を)

まあ、他にも指摘する気になると変なところはあるのだが、わたしは編集者や評論家ではないのでもう止める。それらを差し置いても、この小説のテンポ感と内容は悪くない。乙一氏の好きな物語背景も日本的でよろしい。ということで、今回は楽しめました。今後も乙一さん頑張ってください。(え?こんなレビュでは内容が全くわからないって? まあ、いいではないですか。)

蛇足だが、解説を書いている我孫子武丸氏、「夏花」の解説を書いた小野不由美、"ジャンプ小説大賞"の選考委員の北村薫氏、綾辻行人氏、法月綸太郎氏・・・大賞の名を含めて、はじめて聞く名前ばかりだ。彼らが乙一氏の作品をべた褒めするさまが、同人誌かごくマニアックな世界でのできごとに見えてしまうのは、気のせいなんでしょうね・・・>バキ>(ホラー小説のレビュにこんなに活字使うものではないな)>バキバキ

2003年4月5日土曜日

楽劇「ラインの黄金」全4場 その5

楽劇「ラインの黄金」全4場


■ 第1場 (1)ラインの乙女とアルベリヒの駆け引き

続いてアルベルヒが登場するのだが彼がラインの乙女たちを見ていて心乱されたのも分からないでもないと思う。

ではアルベリヒに次ぎはご登場願おう。 水の中を自由に泳ぐ乙女たちだが性格的には性悪らしく、自分たちの美しさに言い寄ってくる男たちを水底に引きずり込んでは犠牲にしているらしいのだ。第2場でフリッカは以下のようにラインの乙女たちのことを語っている(CD1[13]のラスト)。

Von dem Wassergezucht mag ich nichts wissen: ( I wish to know nothing of that watery brood: )
schon manchen Mann --- mir zum Leid ! --- ( many a man -- to my sorrow -- )
verlocketen sie buhlend im Bad. (have they lured with their seductive sport. )
水中の一味のことなど、聞くもおぞましい
すでに少なからぬ男を --- 残念なことに ---
水中でたぶらかしたのですから

そういう性悪女でも騙されたいと思うのが醜い小人族のアルベリヒである。彼女達を(誰でもよいから)何とかモノにしたいと言い寄る場面がここだ。

こういう様子を見ていると、水商売の女性とそれに群がる男たちという図式を思い浮かべる人もいるかもしれない。実際、ラインの乙女たちをコールガールに見立てた演出もないわけではない。

(2003.4.5)

ここまでで力尽きてしまい、連載は中断してしまいました。

次に再開出来るのはいつになるやら。

2003年4月4日金曜日

乙一:夏と花火と私の死体


何もすることがなくてかったるいとき、難しいことや面倒なこと、ストレスになることを考えたくないとき、ホラー小説でも読もうかなと言う気になる。スティーブン・キングも悪くはないのだが、疲れているときにあのくどい文体はつらい。一度その世界に入れれば一気に読めるのだが、そうなるまでのハードルが少し高い。しかも長すぎる!


ホラー小説というのは所詮あるプロットに乗せて人をいかに怖がらせ、そして面白がらせるかが勝負だ。従って「ありそうなこと」思わせる前提条件や細部が重要だと思う。その意味からは、表題の小説には今一つ乗り切れないままであったというのが正直な感想。裏表紙には「斬新な語り口でホラー界を驚愕させた」とあるが、この作品を17歳の少年が書いたとことに驚愕したのか、あるいはその内容に驚愕したのか。

どこが「乗れない」のかを書くことは内容に踏み込まざるを得ないので割愛せざるを得ないが(書いたっていいのだが)、どう考えても現実感が薄い。そもそもの事件の発端からして「どうしてそう展開するの?」と思ってしまう、例えば文庫本23頁の部分だ。「私の死体」の扱いも不自然。ホラーというより吉本のドタバタ喜劇を書きたかったのだろうか?と思ってしまう。

ケチばかりつける積もりはないのだが、別な意味においては細部は良く書けている。乙一氏は福岡出身だということらしく、夏のひとときが暑苦しさと共に伝わってくるようだ。さらに映画世代だけあってか、描写が非常に映像的だ。何かそのままB級ホラー映画の場面を見ているような気にさせられる。しかし逆にそれがうざったく感じるのも事実。

もうひとつ文庫本に収録されている「優子」にしてもそうだ。細かな描写の積み上げは上手い。読み始めれば最期まで読ませる力はある。しかし何か最初の前提そのものが不自然に感じられてしまう。それを適切に指摘することができないのだが。

例えば鈴木光司の一世を風靡した「リング」はビデオが伝染して人を殺すという、とうてい馬鹿げたプロットだ。しかしそれを「ありそうなこと」と思わせたところが凄い。プロットのおかしさを凌駕するほどの怖さを確かに小説は持っていた。瀬名秀明の「パラサイトイブ」は、最初は良かったのに最後に「ミトコンドリアかよ」となんだかパロディのようなバカばかしさがつきまとった。

ホラーは嫌いぢゃない。「うーん、こいつはコエー」と思えるようなホラーが(それも日本の作家の=日本の皮膚感覚の)読みたいなあ。

2003年4月3日木曜日

ゲルギエフのプロコフィエフ「アレクサンドル・ネフスキー」


Scythian Suite, op.20
Alexander Nevsky, op.78

 指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ
 演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
 PHILIPS 473 600-2(輸入盤)

ゲルギエフの待ち待った新譜だ(発売が1ヶ月ほど延期された)。収録はプロコフィエフの「スキタイ組曲」(アラーとロリー)そしてカンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」だ。演奏はキーロフ歌劇場管弦楽団と合唱団、アレクサンドル・ネフスキーはモスクワでのライブ録音である。

例によってゲルギエフ節全開、合唱は絶叫しているし、オケの迫力も凄い、最大限の音響で鳴らしまくろう、みたいなキャッチで売っている。特に後者はエイゼンシュタインの同名の映画音楽として作曲されたものをカンタータに作りなおしたもので、戦争をテーマとした音楽だ。

私はゲルギエフの振る音楽のレビュを書こうとすると、それが戦争をテーマとしたものでなくても、つい戦闘シーンが思い浮かんでしまうことを禁じることができないでいた。そういう点がゲルギエフのアグレッシブさを象徴していると思うのだが、今回はまさに「戦争」そのものを扱ったもので、まさにゲルギエフの真骨頂というべきだろう。

プロコフィエフの音楽ではあるが、カンタータはともすると「カルミナ・ブラーナ」のようにバーバリアンに聴こえる。話題の「The battle on the ice」のテーマが耳について離れない。

しかしながら、私はこの曲が良く分からない。音響的に凄いのは分かった。でも輸入盤で買ってしまったので、対訳を辞書片手に読まなくてはならない。

2003年4月2日水曜日

衝撃のポリーニのベートーベン


これは2002年6月録音のもので、ピアノソナタ第22番、第23番「熱情」、第24番「テレーゼ」そして第27番が収められている。更には期間限定のボーナスCDとして、2002年6月4日にウィーンのムジークフェラインザールで行われた「熱情」と「テレーゼ」ライブ録音が付いているのが嬉しい。つまりポリーニのスタジオ録音とライブで聴き比べられるというわけだ。

一聴して聞き流しただけの印象だと、ライブとスタジオに差異がないように聴こえた。ポリーニのベートーベンは、硬質で構成的であるが故に、髪を振り乱したようなブザマさやマッシブさがないようにも聴こえた(もっともポリーニの固定概念がそう聴かせるのかとも思うが)。

しかし、良く聴いてみるとそれは全くの誤りであることに気づいた。ライブ盤ではポリーニの唸り声さえが、はっきりと収録されているではないか(スタジオ盤でもかすかに聴こえるがライブ盤ほどではない)。例えば「熱情」の第3楽章 Allegro, ma non troppo - Presto におけるこのスピード感とダイナミックさはどうだ。慄然として息を飲むとはこのことだ、そしてベートーベンはかくも哀しく美しかったのかと知り、全身で受けとめるにはあまりにも激しすぎることに気づかされた。聴き続けるには痛すぎる。おお!もうそのハンマーのような打撃はやめておくれ! 収録されている終演後の拍手を聴きハッと我に返った。私はどこにいて、一体全体なにを聴かされていたのだ。

改めてスタジオ盤の「熱情」を聴くとテンポもライブ盤より遅目でありエモーションを抑えているようだ。もっともポリーニを良く知る人は、このライブはポリーニらしさが十全に発揮されたとまでは言えない演奏らしく「ちょっと期待はずれ」であるらしい、ふーん、なるほどねえ。(こちらから)

残念ながら私にはポリーニもベートーベンも、これ以上語る言葉を持ち合わせていない。今はただこの至上の音楽に静かに耳を傾けるのみである。だからレビュは書かない、書けない、書けません。



2003年4月1日火曜日

新しい音楽雑誌の登場~クラシックジャーナル


��月から東京勤務になった。住んでいるところが池袋に近いので、さっそくメトロポリタンプラザ6階のHMVに脚を伸ばす。ここはクラシックファンにとっては天国のようなCD店である。クラシックコーナーが完全に他のジャンルとは独立した大部屋になっており、そこにきちんと整理されたCDが目もくらむばかりに収蔵されている。クラシックコーナーが独立しているということは、ジャズやらポップスのBGMを聴きながらCDを選ぶ苦痛や、何度も同じ棚の前をウロウロしていて、他の人から疎んじられるプレッシャーから開放されるということである。これを幸せと言わずになんといおう>ヲタクが入ってきたなあ・・・(^^;;;

さて、そのHMVでかねてから話題(^^;;の本をみつけた。アルファベータという会社から創刊された「クラシックジャーナル」という雑誌である。石原俊氏が主筆ということで全196頁のうち実に石原氏が150頁も書いているというおどろくべき編集方針の雑誌である。石原俊氏は1957年生まれの翻訳家かつ随筆家とある。音楽、写真、メカニズムに造詣が深く評論などを各専門誌で執筆しているとのこと。

その内容は「新譜ディスク100徹底ガイド」(これだけで101頁ある)というCD評が中心のものである。評は2002年10~12月(四半期)に発売された新譜。クラシック不況の時代といわれても四半期で発売される新譜は膨大なものになろう。それを100に限定しているのだから石原氏の主観が色濃い雑誌ということが前提になっている。マニアによる雑誌版のクラシックレビューサイトといった趣。それ以外の内容は右の表紙のとおり。木之下晃氏のアーカイブスは32頁にもわたり、これだけでも保存もの。

年4回の発行を目指しているらしい。くしくも「クラシックプレス」が創刊後12号で休刊、また以前は「グラモフォンジャパン」がこれまた創刊後12号でゲネラルパウゼをむかえた。クラシック受難の時代にあって、このようなマニアックな雑誌が果して受け入れられるのか、値段も1200円と高いのか安いのか分からない設定であるが期待したい。(ちなみに「クラシックプレス」も「グラモフォンジャパン」も定期購読は全くしておりませんでした・・・あ、「レコード芸術」も・・・です)