私的なLife Log、ネット上での備忘録、記憶と思考の断片をつなぐ作業として。自分を断捨離したときに最後に残るものは何か。|クラシック音楽|美術・アート|建築|登山|酒| 気になることをランダムに。
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2003年4月17日木曜日
鈴木淳史の「クラシック批評こてんぱん」
鈴木淳史(あつふみ)は1970年生まれの「フリー・ランスの売文業」とある。クラシック関係の共著も洋泉社から出しており、いわゆる「クラシック音楽の批評」をする人らしい("らしい"と書くだけあり、私は彼を知らなかった)。
さて、この本は「クラシック音楽の批評」をいかに読むかということを述べた本で、音楽そのものについて書いているわけではない。「なんてつまらない本」と思うなかれ。普段から「クラシック音楽の批評」とか「音楽評論」というものに胡散臭さを感じている人こそ、楽しんで読めるのではないかと思う。文体も軽く読みやすい(逆に読みにくいという気もするが)。
ここで鈴木氏の視座につて述べる積もりはないが、かの小林秀雄の「様々なる意匠」の中から批評の対象が己であると他人であるとは一つのことであって二つのことではない。批評とは竟に己の夢を懐疑的に語ることではないのか!という部分を引用し、客観が皮をかぶった主観だとしたら(その事実だけで、いかがわしいでしょ?)、主観そのもので、物事を判断したほうがいいのではないか、ということだ。(P.106) と主張するところに、彼の「批評」に対するスタンスが現れているように思える。
そもそも私は、この国においてもかの国においても「音楽評論」「音楽批評」というものが成立しているのか、ということが疑問でならない。そういう点で「評論家じゃない症候群」および多様化する批評家たち(P.144)のなかで、かつて音楽評論家と呼ばれた人たちが、自らを「評論家」とは名乗らないということをはからずも鈴木氏も指摘している。そしてなぜ彼らは、音楽評論家という名前を忌避するのだろうと問題をなげかけ、それは「音楽評論」または「音楽批評」のイカガワシサに耐えられなくなったこと。(中略)自分のやっていることが対応していないという恥じらい(中略)、自分たちの先輩格に当たる評論家(中略)は、本当に批評というものをやっているのか、という疑問があるようだ。(P.146)と指摘している。
では鈴木氏は「音楽批評」を否定しているのか、あるいは音楽評論についてどのようなスタンスをとっているのか。彼の対象と距離の取り方、そしてどことなくはぐらかすようでいて、その実裏に真実を込めた文体からそれを読み取るよりも、彼が音楽について書いたものを読むのが適切かもしれない。(だってそれを書いたら、また引用だらけになってしまうから)
え?私の書いているもの? それは単なる感想文に決まっているぢゃないですか(-_-)