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2003年5月6日火曜日

ケーゲル/ベートーベン 交響曲第5番「運命」


  1. ベートーベン 交響曲第5番 ハ短調「運命」作品67
  2.  J.S.バッハ 管弦楽組曲 第3番 ニ長調 BWV.1068~アリア 
  • 指揮:ヘルベルト・ケーゲル 
  • 演奏:ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団 
  • 録音:1989年10月18日サントリーホール 
  • Altus ALT056(国内版) 
ケーゲルのベートーベンだ、許光俊氏が絶賛する演奏。彼は、この演奏を「フルトヴェングラー以来の、歓喜への信頼に満ちた演奏」(CD解説)と評した。そういう彼のフィルターを払いのけて演奏に接することは難しいかもしれない。しかし、予備知識はアタマに刷り込まれてしまった、果してどんな「運命」が聴こえてくるのか、期待と不安錯綜しながら聴きはじめた。
1楽章4分半当たりから感じられるただごとではない響きに、思わず襟を正した。低弦が太く嘆くようだというばかりではない、ヴァイオリンは長く厚い音を響かせ、琥珀色の音色を重ねている、美しい。しかしそればかりではなく、1楽章に込められた哀しみの表現に気づかされる。
単純な「ダダダ、ダーン」のリズムが、かくも残響を残して、絶望か苦悩の嘆きを唄うのを聴いたことはない。声をかけて慰めることさえできない姿がそこにある。7分50秒頃から、巨体が崩れるかのごとき1楽章のフィナーレの圧巻さ。
2楽章とて楽天はまだ支配していない。それは在りし日の思い出や回想に聞える部分もあるが、漂う寂寞感はぬぐえない表情だ。勝利を予感するトランペットの響きはまだ懐疑の中に沈みこむ。これがベートーベンの「運命」であるとは思えないほどに感情的で悲愴的ではないか。
3楽章がこんなにも堂々と迫ってくる、あるいは日が翳るがごとくあっという間に表情を変えてしまう演奏を私は知らない。フルトヴェングラーの1947年のベルリン復帰の演奏であっても、これほどに多感ではなかったのではと思わされる。テンポの操り方、強弱の付け方などの演奏技法によるところもあるのだろうが、演奏を聴いていて感情が両極端に振幅するのを抑えることができない。
4楽章も引き摺る様に重々しく始まる。まだ不安は拭うことができない。1分20秒くらいから始まる表現は痛々しいまでの迷いを感じる。ここから歓喜へ向うには、どのような変貌を見せるのだろうかと次ぎへの展開に期待は高まる。
テンポは揺れるが決して速くはない。着実な歩みで演奏は進む。4分、冒頭の繰り返しのところで少し面白い表現を聴かせてくれた、いったいこれはなんだろう。そう、聴きながらあれやこれやと考えさせられてしまう。おやおや弦のピチカートてこんなにも雄弁だったかしらとか。
そして、ティンパニに導かれて始まる第4楽章への移行、ああ・・・光がさしてくる。そして抜けてしまう・・・全身に浴びる溢れるばかりのまばゆい光の洪水! 鬱状態から圧倒的躁状態への遷移。おお、まるで揺れて大波に乗るよう、酔いさえ感じるような演奏ではないか。ベートーベンなのになんと筋肉質的でないことか、表現が極めて優しい。弱いというのでは決してない。包まれるがごとき喜びをの表現。
確信と祈りにもにた歓喜の希求。しかし裏に不安はないのか、本当にこんなに歓喜を信じて良いのか、という疑義。ラストを聴き終えても、楽天的な歓喜と満足感が私の心を満たしてはいない。聴こえるのは、痛々しいまでの涙を含んだ歓喜への願いだ。
それは、アンコールのJ・S・バッハのアリアを聴いたときに突然生じた。私の中での理性と感情の堰が切れてしまったのだ。「運命」の後での曲だ、通常なら違和感があるところが、あまりのハマリ方に私は呆然となってしまった。この美しさと哀しさはどうだ、最初の一音が弦の合奏が聴こえたその瞬間に、まさにこの曲が「運命」の後の必然であると思わせる説得力で語りかけけてきたのだ。
ああ・・・もう一度聴きなおす気力は起きない、というよりも、こういう演奏は何度も繰り返し聴いてはいけない。何と言う音楽だろうか、そして何と言う演奏であろうか。私は音盤を聴いて、こんなにも泣いてしまったことは、かつて一度もない。(あったかもしれないが、恥かしいから思い出したくない>いつも泣いてるぢゃないかよ>CD聴いただけで泣くなよな)
*)この感想は、CDを聴きながら同時進行で文章をしたためた。そして再度、CDを聴きなおすこともしていない。それゆえ、極めて感情的で一面的なレビュになっていることに自分でも気づいてはいるのだが、書きなおす気もしないのでご容赦願いたい。

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