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2003年6月19日木曜日

高村薫:リヴィエラを撃て(文庫版)




先に断っておくが、このレビュは本書をまだ読まれていない人を想定してはいない。つまり本書を推薦するような文章ではなく、私の高村氏の小説に対する雑多で稚拙な考えをまとめたものである。


高村薫氏の小説を読むことは、私にとって大いなる愉悦と快楽を伴う作業になってしまった。そして「リヴィエラを撃て」という壮大なるドラマを読み終えて、私は満足感とともに焦燥感を覚えるようになってしまった。何故ならば、読むべき高村氏の小説がまたひとつ減ってしまったからなのだが。

この小説は彼女が生まれて始めて書いた小説「リヴィエラ」をベースに全く新たに書きなおされたものらしい。またしても高村氏の全面改稿を経た作品である。高見浩氏の文庫本解説によれば初期の「リヴィエラ」は『プロットの核心は本書とはちがって、アイルランド紛争そのものにあった』とある。「神の火」でもそうだったが、初めに世に問うた作品とは別物であるというわけだ。

旧作がどのような内容であったかについても興味はつきないのだが、彼女の小説の醍醐味はプロットの骨太さ、ディティ-ルへの徹底したこだわり、人物描写の的確さと深さ、それらを土台としたストーリーの荒唐無稽さと展開の面白さ、そして必ず通奏低音として一貫して流れているテーマにあると思う。

この小説に限ったことではないが、高村氏の小説には細部を語り始めればきりがないほどの要素がちりばめられていることに気づく。例えば音楽だ。高村氏は(自分の意思であるかは別として)ピアニストを目指した時期があったらしい。それゆえクラシック音楽にも造詣が深く、特にブラームスとシューマンに傾倒していることは「半眼訥訥」でも述べていたことだ。

この小説では、IRA(アイルランド共和国暫定派)のテロリストであるジャック・モーガンが歌うシューマンのリーダークライスの一曲「In der Fremde (異郷にて)」が実に効果的に用いられている。また世界的なピアニストという役回りのノーマン・シンクレアが、因縁の東京公演で演奏するのがブラームスのピアノ協奏曲第二番変ロ長調であったりする。彼がこの曲を演奏するのは、下巻231頁からだが、曲の解説と共にシンクレアがどのような演奏をしたかということが、実に4頁にも渡って描写されている。それは決して冗長なものではなく、ストーリの重み付けとしてなくてはならない描写になっている点で極めて印象的だ。

このような描写を嫌う読者もいるかもしれない。例えば「黄金を抱いて翔べ」では関西電力の変電所の様子が延々と続く部分がある。あるいは「神の火」の原子力発電所に関する描写もしかりだ。はたまたロンドンや北アイルランドの首都ベスファルトの描写なども、驚くべき筆力で語られる。これらは、おそらく多くの読者には全く馴染みのないものだろう。専門用語やローカルな地名が容赦なくちりばめられた文章は、読みにくく本筋には関係ない、偏執的なこだわりであるとする感想もあるかもしれない。しかし、このような描写に支えられて高村氏の小説の特質とリアリティが生まれていると私は感じている。

他の小説でもそうだが、高村氏の小説のストーリーを思い出してもらいたい。ひとことで言ってしまえば銀行強盗の話であったり、原発テロとスパイの末路の話しであったりと、ほとんど実生活からかけ離れた破天荒な話しの連続である。そこに質感やリアリティーを持たせているのは、作品世界を取り巻く背景の緻密な組立てであったり、徹底した細部描写であったりすると思う。

作品を取り巻く背景については後述するとして、もうひとつ彼女の小説で重要かつ魅力的なのが登場人物であることに異論はないと思う。「リヴィエラを撃て」では登場人物の全てが印象的かつ魅力的であり、かつ謎に富んでいる。もはや誰もが主人公足り得る存在となっているのだ。逆に言えば、最初から最後まで登場している主人公が不在である小説でもある。それほどにまで多くの時が流れ、多くの人物が登場しては死んでゆくからだ。(長い年月とはいってもたかだか二十数年の話しなのだが)

最初の頁から最後の頁まで登場する人物として、イギリス人とのハーフであり、東大卒のエリートである警視庁外事一課の手島修三警視がいる。彼は一連の事件において最後に非常に重要な役割を果し、また作品に通低するテーマに触れる点でも欠かすことはできないにしても、物語が重層的に折り重なる部分では端役でしかない。一番のキーパーパーソンであるIRAのテロリストのジャック・F・モーガンさえ、小説での登場は既に死体であったし、回想の形で書かれた本編においても下巻160頁以降は登場しなくなる(下巻は409頁ある)。このどちらも主人公ではなく、このどちらも主人公なのだろう。

小説全体では脇役であるにも関らず強烈な色彩を放つの人物も多い。一見か弱そうでいながら女性としての強さを持った、ジャックの恋人のリーアンは、その名前のもつ寂しげな響きと共に忘れられない存在だ。彼女を庇護したCIA職員のサラ・ウォーカーはアウディを駆ける颯爽としたイメージとともに、卓越した女性像として記憶に残る。サラの恋人で、テロリストのジャックと重要な一時期を共有したCIA職員の《伝書鳩》、クールさを捨てずに、それでも最後は決然とした決意をもって事に望んだMI5のM・G、そしてその部下であるキム・バーキン(彼のことを思い出すと目頭と胸が熱くなるほどだ)などなど。ああ、ピアニストのノーマン・シンクレアと刎頚の友であるダーラム公爵も忘れてはいけなかった。

これらの多彩な人物ではあるが、実はジャックの思いが《伝書鳩》に感染し、そしてキム・バーキンを介在してジャックの置き土産とともに最終的には手島に引き継がれたと考えることもできるかもしれない。いずれにしても、書き始めるときりがない。つまりは、どの人物もおろそかではなく、感情移入できてしまうほどに魅力的なのだ。

そうは言うが高村氏の小説を読んでいると、人物がステロタイプではないのか、と思う方もいるかもしれない。「リヴィエラを撃て」「神の火」「黄金を抱いて翔べ」を比較して類似点を探すのは、そう難しい作業ではない。特に高村氏は、男女間の愛憎よりも男同士の友情を超えた愛憎によって結ばれた不可侵の関係というものに執着する傾向がある。そう書けばすぐに思い出すだろう、幸田とモモ、島田と良、島田と江口などなど。それでも私は何度読んでも飽きることがない。

何故高村氏が、男同士の関係に固執を示すのかは分からない。アブノーマルであるが故に、隠微さと深さを持っていることは確かだ。そして最初からそれは不幸と破局を内在した関係であるように思えるのだが、ここで高村氏のもうひとつ通低た点である、「心の中の空洞」とか「虚無」とか、あるいは「個人の中の矛盾」とか「ねじれた自己」ということを炙り出しているようにも思える。

そもそも高村氏は警察とともにスパイやテロリストが好きだ。この作品の背景においても、英米中日に渡る国際的な諜報活動と国家間の謀略というテーマは、小説の題材としては非常に卓越したものであるし、サスペンスを読むという楽しみを与えてくる。このテーマだけでも緻密な取材や積み重ねで得られたのだと想定され、彼女の小説をサスペンスとして分類するの至極妥当だとは思う。しかし彼女はサスペンスを書いているという意識よりも、最初にスパイやテロリストという存在そのものがテーマとしてあるのではないかと思うことがある。つまり、彼女の小説にはサスペンスの裏の流れがあるように思えるのだ。

そうすると、そもそもスパイとは何なのかと考えてしまう。ここで私は「マークスの山」を読んだときのことを思い出す。私にとってこれは高村氏を読む始めての作品であった。私はその中で、主人公の合田警部の中の自分を見る醒めた目の存在が気になっていた。そして、もうひとつ「マークス」と名乗る殺人者が、まさに自己の中にもうひとつの自己が存在する分裂気質の人物として書かれていたことも象徴的だ。あるいは「黄金を抱いて翔べ」の主人公の幸田は「ここではないどこか、人間のいない土地」を希求する虚無さを抱えた人物として書かれていたことも。

これは現在の自己を認めつつも、あるいは違った自分が存在するという自己の中での葛藤と矛盾を表明しているということだ。そういう意味において、スパイとは組織や体制を裏切ると同時に自己をも裏切っているという矛盾を内包した存在として意味があるように思える。自己の何を裏切っているのかはスパイによって異なるのではあるが。このような個人の中での矛盾やねじれた自己、そして抱え持つ心の中の空洞というものは、高村氏の小説の中で重要な役割を果す人物には必ず備えられた資質となっている。「リヴィエラを撃て」においては、テロリストのジャックしかり、ノーマンしかり、手島しかりである。あるいはその空洞に共鳴してしまった《伝書鳩》しかりと言うべきだろうか。更に自己の二重性を駄目押しするかのように、手島にはもうひとつ象徴的にハーフという生立ちが与えらるという念の入れようだ。他の作品では島田がハーフであったことを思い出しても良い。

自己の矛盾や空洞を埋めるために、何が起こったのか、それが事件を通して露になった男たちの情念であり、執拗なまでの死闘であったという気がする。そういう情念や死闘が悲壮感や暗さを持つのは当然のこととなる。そこに更に高村氏独特のキリスト教的宗教感(キリスト教を是認したものではないようだが)が薄いオブラートのようにかかるので、泥沼のような死闘がやがては純粋さを増して行くという、これまた大いなる矛盾をはらんだ結末へと向って行く。それだけに彼女の作品は、とてつもない重みを持って読者に襲いかかり、彼女の小説に独特の匂いを与えているように思えるのだ。

自己の矛盾を解決できた者は幸せだ。小説中では死をもってさえ救われなかった者も多い。MI5のキム・バーキンが死際に別れた妻の名を読んで息絶えるシーンは忘れることはできない。彼は殺される直前まで、彼が現在心から愛しいと思っている別の女性に電話をしていたのにも関らず、元の妻の名を読んでしまう。

「黄金を抱いて翔べ」の幸田はラストで死んでしまったのか、あるいは「神の火」の島田は最後にどこに流されたのか、そして「リヴィエラを撃て」においては、最後に手島が選択した半生は幸福なものとなるのか、それは読者の想像に委ねられているように思える。

本書においては、ほとんどの人間が無残にして無念の死を遂げているが、高村氏は最後には一点の希望を灯して本書を終えている。その希望とて北アイルランドのアルスターに降る雨のように決して暖かいものではないのだが、アイルランドの歴史が沁みこんだ大地のように、深い反逆の魂と純粋さを熱くともしているような気もする。

まだまだ書きたいこともあるが、だんだん何を書いているのか分からないような支離滅裂のレビュになってきたので、ここらへんでやめておこうと思う。さあ、シューマンとブラームスでも聴くかァ(笑)

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