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2004年6月17日木曜日

日本における議会制民主主義

年金改革法案が通ったことや、自衛隊イラク派兵問題から多国籍軍に至る政府のなし崩し的な決定を見ていると、日本における議会制民主主義がもはや機能していないことを痛感させられます。

サイードの書き込みそれに連なるエントリーについて、Flamandさんから過分なるレスをいただき、つらつら民主主義とかについて考えていたところ、とあるメールマガジンで以下のような書き込みを見つけて成る程と思ってしまいましたので紹介しておきましょう。



北野一  :三菱証券 エクィティリサーチ部チーフストラテジスト


 年金改革法案が徹夜国会の末に成立した翌日の日経新聞には、「(年金改革法案を)廃案に持ち込むには硬軟織り交ぜた戦略が必要だった」との反省が民主党内にあったと紹介されておりました。しかし、彼らが反省すべきは、この国会における(戦略というよりも)戦術の誤りではなく、昨年11月の選挙で、年金改革を前面に押し出して、政権を獲得できなかった戦略の誤りです。



 また、メディアにも言いたいことがあります。国会審議次第では民主党案が成立するかも知れないと国民が錯覚するような記事を何故書きつづけたのでしょうか? また、戦術次第では年金改革法案を廃案に出来たかも知れないという民主党の反省など、報道する必要もないのです。そうではなく、「総選挙が終わった時点で、今日の結果は見えていた。だから選挙が重要なのだ」とはっきり書くべきなのです。

北野氏の結論は、現在の結果を招いたのは国民のせいでもあると指摘しています。同じような論調がもうひとつありました。

津田栄  :エクゼトラスト投資顧問株式会社 顧問


 (年金改革法案がろくに審議もされず可決されたことに対し)自己責任という観点から、国民自身も、自民・公明連立政権を昨年11月に選挙で選択した点で、こういう結果を招いたということがいえましょう。ただ、企業経営でも、選ばれた経営陣が株主・従業員などの企業関係者に当初の経営方針・計画に説明を尽くし、疑義が出てくれば、再度見直しをし、間違いに気付けばその計画を変更して、その結果の責任を経営陣が最終的に負うように、企業関係者および消費者との信頼を基礎にした民主主義的経営が行われます。


 その点は、どこの民主主義国の政治でも、状況が時々刻々変化していくなかで、選ばれた政治家が国民の考えと乖離していれば大なり小なり修正を迫る国民の姿が見られることにも通じます。そこには、企業経営と同様、国民に対する説明責任(説明およびその結果に対する責任)、政策に対する結果責任を負っている政府および議員と国民との間の信頼関係という民主主義的基盤があります。しかし、この日本においては、国民の声は国会に届かず、説明責任も果たさないで、既存の制度を維持し、既得権益を手放したくないために官僚の作った法案がそのまま採用され、国民不在のどこかの国とそれほど変わらない、ダイナミックさを失った政治が行われています。

津田氏も議会制民主主義の前提に立っても、選挙が重要であると力説した上で、以下のように続けます。


 そのためには、国会議員は、主役が国民の負託を受けた自分たちであることを改めて認識し、その責務を自覚することを強く望みます。そして、国民である私たちは、この年金制度を改めて考え、議論し、他人任せにしないことであり、今後の政治における判断でも、自己責任から、選挙で自分の考えにあった議員を選ぶべきでしょう。


この文脈の中での「自己責任」という意味は重いと思います。そういう意味で、改めてFlamandさんの書き込みにあった


言い古された言葉ですが、民主主義体制では「国民のレベルを上回る政治(家)を手に入れることはできない」ということは当たっていると思います。政治家達の馬鹿さ加減を批判しそれを放置するということは、自らの愚かさを自嘲していることに他ならないことだと思います。

という言葉を考えています。ちなみに、ここでの「民主主義」とサイードの言うアメリカの踏みにじられた「民主主義」とは、意味するスコープがかなり異なっているようです、これについては、また時間があれば書きます。


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