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2004年6月4日金曜日

佐世保の児童殺人事件

世保市の小学校で起きた6年生女児の殺傷事件について、まだ詳らな事実関係はよく理解していないのですが、痛ましさとともに深い脱力感を覚える事件として記憶に留まることになりそうです。

関係者の方々のご心痛は推し量ることもできませんし、今後、少女や環境に関する分析、それにネット社会が子供に与える影響について、深い論考がなされるのだろうとは思うのですが、おそらくは何も見えてこない、玉ねぎの皮をむくようなことになるような気がしています。




思い起こすと、昨年7月には長崎県で中学校1年生の男児が幼児を駐車場から投げ捨てるという事件が起きました。このときも私は衝撃を受けて意見箱に書き込みをしましたが、今回も思うことは同様です。子供をいくら調べても、闇は出てこないのではないか、なぜなら、真の闇は大人社会にあり、たまたま大人社会の悪意が子供という化生となって今回の犯罪が結実してるように思えるからです。


言い古されていますが、犯罪は社会を写し出しています。その時代の空気を象徴する事件というものが、必ず起きて、そしてどこか社会はガス抜きをしながら微修正をしたり、あるいは更なる奈落へと進むんでいるように感じます。


��月4日の日経新聞の春秋では『最近の子供たちの異常な行動をあれこれ考え合わせると、起きるべくして起きたような気もしてくる。』と書きながらも『だが真相は謎である。[...]子供は変わったようだ。なぜなのか、どうしたらよいのか、わからないのがもどかしい』などと呆けた事を書いています。メディアが狼狽したり思考停止してどうしますか。


��月2日の朝日新聞社説も、『なぜ事件が絶えないのか。動機や背景を詳しく探らなければ防止策を見つけられない。今回の事件についても児童相談所は究明してもらいたい。』などと書いています。児童相談所に究明してもらいたい、ではないでしょうに。『カッターナイフは工作の授業で使うことがある。刃物は使い方を誤ると人を傷つけ、命にかかわる。このことを子どもたちにあらためて教える必要がある』って、朝日新聞、お前はアホかいな。


��月3日の産経抄は『「殺す」ことを、ゲームやテレビのスイッチを切るのと同じように考えていたのではないか、とみる識者もいる。』と書いていますが、「殺してはいけない」ことを教えるべき大人たちは、それをきちんと言葉ではなく実践できているでしょうか。人間に対してだけではなく、ペットやものに対してもです。


何度も書きますが、子供を調べても何も分からないような気がしてなりません。普通の人が普通でない行動をする、あるラインを超えると自制が効かない、切れる限界が低い、行動原理が快不快で左右される、相手が傷つくことに無頓着であるなどなど。昨今の人質パッシングの風潮を見るまでもなく、ネットやメディアとかいうことを含めて、子供の範たる大人社会が狂っているとしか思えません。ネットを作り出したのも、使っているのも、匿名で相手を罵り合うのも、姿のみ大人たちの専売特許でしょうに。

カッターが悪いとか刃物の使い方とか変な方向に議論をせずに、きちんと大人社会について考えない限り、またしても、ある子供がスケープゴートとなるような事件は起きてしまうのではないでしょうか。犯罪を犯してしまった加害者も、そして被害者も、同じように不幸な被害者のような気がしてしまいます。

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