なんだかこのごろ、全然練習していない。ヘインズが泣いてしまうよと思いつつ、アンデルセンを取り出す。うー、指が動かない! 音の跳躍も喉が鳴るばかりで全然音にならない! もうっ、止めたくなる。て、練習していなければうまくなるはずもないんだよね。
気を取り直して、ヘンデルのソナタ1の5あたりを吹いてみる。これからレッスンで見てもらおうとしている曲だし。フンフン、ニ楽章はほとんどタファネル&ゴーベールの世界だな、とは思うものの、ああ、こんな簡単な音階もまともに吹けない(;_;)
どんどん、下手になる自分を呪い、暗澹たる気分で曲をさらうのって、趣味のフルートなのに全然楽しくないぞ! ああ・・・時間といつでも音を出しても文句のこない部屋が欲しいなあ・・・
ハナシは変るが、広島の知人から「春に新しく家を建てました。オープンバルコニーとオーディオルームのある部屋です。小さな夢を叶えました。」と葉書にある。「ああ、そうですか。オーディオルームですか、そりゃよござんしたね。これで心置きなく、マーラーでもショスタコでもかけられますな。趣味のコーラスも練習できて何よりですね!」と、なんだか八つ当たりに近い感情を覚えてしまう、心の狭いワタシなのでした・・・
鬱々としてしまうのは、今年のフルートフェスティバルも出られないせいもあるんだよね。ああ、1年に一度の市民会館・・・。フルートオケが好きかどうかはさておき、演奏する方は結構楽しいんだよな。
え? こんなもの書いていないで、練習しろって? そうですね。でも、こんなところ読んでいる人がいると思えないし、いいんじゃあない・・・
時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
2001年5月13日日曜日
2001年5月12日土曜日
田中外相のドタキャン
田中外相のドタキャン続きの理由は何か。
政治家には、アカウンタビリティの責がある。ある行動が批判の対象となるならば、国民が納得する形で説明しなくてはならない。そういう立場にいると思う。その上で、行動や言動に対する批判が成立する。
政治というものを動的なものに変えるという流れの中で、今回の件は決して小さな問題ではないと思うのだが。
政治家には、アカウンタビリティの責がある。ある行動が批判の対象となるならば、国民が納得する形で説明しなくてはならない。そういう立場にいると思う。その上で、行動や言動に対する批判が成立する。
政治というものを動的なものに変えるという流れの中で、今回の件は決して小さな問題ではないと思うのだが。
2001年5月11日金曜日
9日の衆議員代表質問
TVニュースで何気なく見ていましたが、代表質問の小泉首相の答弁は独特でしたね。ああいう場で、与党側の肉声に近い言葉を聞くのは新鮮なものです。
「改革という言葉は41回も使っているが、何ら具体的な内容が示されなかった」と鳩山民主党代表は批判しているが、まだ内閣始まったばかり、もう少し様子を見たい。
ただ、与野党の対立構図や政策論争まで考えると、従来の政党や派閥の枠組みがゆるやかに溶け出しているのを感じずにはいられない。自民党や連立内部が一枚板ではないのは自明だが、民主党も鳩山氏と菅氏の間の溝が浮き彫りにされてくるかも知れない。
政治に疎い私でさえ、なんとなく感じるのだから、もっと政治にセンシティブな層はどのように今の動きを捉えているのだろう。
「期待先行内閣」とは言われる。しかしだ、政治家たちを含め、我々は何を今期待しているのだろうかと疑問になる。「ただ変ればよい」というものでもない。既得権益に踏み込むことは「天に向かって唾を吐く」のと同義であるかもしれない。だって、私だってあなただって、既得権益の恩恵のどこかには関わっているのではないだろうか。
目指すべき政治・経済そして社会の姿はどこにあるのか、改革の結果の着地点はどこなのか? 例えば全てがうまくいったときの理想の社会とはどんな社会なのか。私には見えないなあ・・
「改革という言葉は41回も使っているが、何ら具体的な内容が示されなかった」と鳩山民主党代表は批判しているが、まだ内閣始まったばかり、もう少し様子を見たい。
ただ、与野党の対立構図や政策論争まで考えると、従来の政党や派閥の枠組みがゆるやかに溶け出しているのを感じずにはいられない。自民党や連立内部が一枚板ではないのは自明だが、民主党も鳩山氏と菅氏の間の溝が浮き彫りにされてくるかも知れない。
政治に疎い私でさえ、なんとなく感じるのだから、もっと政治にセンシティブな層はどのように今の動きを捉えているのだろう。
「期待先行内閣」とは言われる。しかしだ、政治家たちを含め、我々は何を今期待しているのだろうかと疑問になる。「ただ変ればよい」というものでもない。既得権益に踏み込むことは「天に向かって唾を吐く」のと同義であるかもしれない。だって、私だってあなただって、既得権益の恩恵のどこかには関わっているのではないだろうか。
目指すべき政治・経済そして社会の姿はどこにあるのか、改革の結果の着地点はどこなのか? 例えば全てがうまくいったときの理想の社会とはどんな社会なのか。私には見えないなあ・・
2001年5月8日火曜日
「映画音楽のよう」という比喩
ときどきクラシック音楽の評を読んでいて「映画音楽のよう」という言葉を目にする。例えば、ある人はR・シュトラウスの交響詩を称して、あるいは、ある人はマーラーのアダージョ楽章を称して、そのように言う。
「映画音楽的」というのはどういうことだろうか。情景描写的ということなのか、ロマンチックや抒情に傾きすぎたということなのか。こういう言葉を使う時は暗に「きれいだが内容が空疎」という意味をこめていることもあると思う。そういう意味からは一段見下した、揶揄的に使われる言葉であると思う。
実際わたしも、デイヴィス指揮 ボストン響のシベリウス第一番交響曲の4楽章第二主題を聴いて、そのような感想をもらしてしまった。もっとも、彼の演奏を空疎だなどと言うつもりは毛頭ない。あたかも「映画音楽を聴いているかのように美しい」というほどの意味合いで使ったが、誤解の多い表現であるかもしれない。
しかし、ここではたと疑問を感じてしまうのだ。音楽の「内容」とか「精神性」とかいうことは良く論じられるが、一体それは何なのかと。「深み」と表現する人もいるかもしれない。いわく、「バッハやベートーベンの曲には、深みと確たる精神性に裏付けられた高い芸術性がある。反して・・・」
上記の論述には正しさとともにある種の欺瞞性やスノビズムを感じてしまう。考えてみれば「映画音楽のよう」だっていいじゃないかと思う。そんな偏狭な見解を何時までも振りかざしているからクラシック音楽は皆から見放されるのじゃないか、とも思うのだ。
「映画音楽的」というのはどういうことだろうか。情景描写的ということなのか、ロマンチックや抒情に傾きすぎたということなのか。こういう言葉を使う時は暗に「きれいだが内容が空疎」という意味をこめていることもあると思う。そういう意味からは一段見下した、揶揄的に使われる言葉であると思う。
実際わたしも、デイヴィス指揮 ボストン響のシベリウス第一番交響曲の4楽章第二主題を聴いて、そのような感想をもらしてしまった。もっとも、彼の演奏を空疎だなどと言うつもりは毛頭ない。あたかも「映画音楽を聴いているかのように美しい」というほどの意味合いで使ったが、誤解の多い表現であるかもしれない。
しかし、ここではたと疑問を感じてしまうのだ。音楽の「内容」とか「精神性」とかいうことは良く論じられるが、一体それは何なのかと。「深み」と表現する人もいるかもしれない。いわく、「バッハやベートーベンの曲には、深みと確たる精神性に裏付けられた高い芸術性がある。反して・・・」
上記の論述には正しさとともにある種の欺瞞性やスノビズムを感じてしまう。考えてみれば「映画音楽のよう」だっていいじゃないかと思う。そんな偏狭な見解を何時までも振りかざしているからクラシック音楽は皆から見放されるのじゃないか、とも思うのだ。
もっとも、「楽しければ何でもアリ」みたいな風潮も、行き過ぎるといかがなものかとも思うのだが・・・・
芸術という言葉自体が、現代においては死後と化してしまったことに、この種の議論の行き詰まりも感じるのだが、これはまた別問題だろう。
【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第1番
指揮:パーヴォ・ベルグルンド
演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団
録音:Oct 1997
FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
さて、ベルグルンドの3回目の全集盤からの録音を聴いてみた。まず、感じることは録音のせいだろうか非常に音がクリアで明確である。透明感さえ漂わせているといってもいいかもしれない。それに、定評のあるヨーロッパ室内管だけあって、オケが上手い。ボーンマス響で聴かれたような粗さもない。逆にトゲとか癖がとれたという感じである。
��楽章から非常に激しくオーケストラを鳴らしている。ダイナミックレンジも大きく劇的な音楽に仕上がっている。この演奏を聴くと、シベリウスの曲において改めて木管が重要な役割を担っていることに気付かされる。最後のピチカートも決然とした奏し方である。しかし、ボーンマス響で感じた「情念的」なものが少なくなってきているように思える。これは、全編を通した印象なのだろうか?
��楽章のそっとささやくようなテーマの入り方は息を呑むばかりだ。無骨さはかけらもなく繊細にして優しい。あたかも、淡い北欧の春ののどかな風景を見るかのようだ。しかしどこか儚さを併せ持つテーマだと思う。このような淡いテーマと、一楽章を引きずったかのようなテーマとの対比が、この交響曲の持つ二重の性格とか、揺れ動く不安さなどを表出しているようである。ベルグルンドの演奏は、クリアな分その対比が明確であり聴き手にストレートに伝わってくる。でも、最初のテーマが再現される部分のミステリアスさは、この盤よりもボーンマス響のものの方が優れていると思う。はっと思わせる繊細さが消えてしまっているのはどうしたことだろうか。
��楽章は弦のピチカートとティンパニの強打で始まるが、ティンパニの音が柔らかい。ボーンマス響の、ちょっと破れそうな硬い音とは違う。ここらあたりも曲から受ける印象、つまりトゲのとれたと感じさせる要因なのかもしれない。ただ、2楽章のところでも感じたが、フルートは少し雑とは言わないが、硬さを感じさせシベリウス的な雰囲気を減じているように思えてならない。ここでいう「シベリウス的雰囲気」というのを、どのようにイメージするかということは明らかにしなくてはならない問題だとは思うのだが。
この楽章を聴いて思ったが、ベルグルンドが高性能のオケを得て、十二分に曲をドライブしているさまを感じるのだが、いかがだろうか? 「乗った」演奏に聴こえる。
��楽章も劇的さは、いささかも衰える事がない。それ故に、第二主題の美しさもひときわである。目をつぶり悠久の大地とか、ゆるやかに流れる大河(そんなものがフィンランドにあるのかはさておき)を前にした時のような充実した、心の内側が満たされてゆくような感慨を覚える。この楽章でも激しく短いテーマと、ゆるやかな美しいテーマが対比して現れるのだが、この交響曲に一貫した手法であろう。聴くものは二つの両極の感情を振り子のように揺れ動くこととなる。
ボーンマス響との演奏時間を比較してみても、1楽章は30秒ほど速いが4楽章はむしろ1分ほど遅い演奏である。全体を聴いた印象としては速すぎたり遅すぎたりするわけではなく、テンポ設定としてはノーマルな演奏なのだと思う。ただ、個々のフレーズでは結構テンポをもしかしたら変えているのかもしれない。それを聴くものに意識させずに自然な表現としてしまっているようにも思える。
以上のようなことを、ここ二日間、3種類の盤を繰り返し聴きつづけ感じ取ったのだが、気になることもある。というのは、ボーンマス響で感じた「冷ややかにして激しいシベリウス像」が、ここからは余り嗅ぎ取れないのだ。むしろデイヴィスの演奏に感じたものに近い。ベルグルンドはあえて、偏見の多い「シベリウスの音楽」というものから脱却し普遍性を追及しようとしたのだろうか。それとも、ボーンマス響で私が感じ取ったものが特異、あるは勘違いだったのだろうか。いや、改めて(オレもしつこいね)ボーンマス響を聴いてみた。明らかにこの演奏には「情念」的なものを感じる。それがシベリウスの音楽に必要不可欠なものなのか、それは解釈の違いに委ねられる問題なのだろうか。
さて、ベルグルンドの3回目の全集盤からの録音を聴いてみた。まず、感じることは録音のせいだろうか非常に音がクリアで明確である。透明感さえ漂わせているといってもいいかもしれない。それに、定評のあるヨーロッパ室内管だけあって、オケが上手い。ボーンマス響で聴かれたような粗さもない。逆にトゲとか癖がとれたという感じである。
��楽章から非常に激しくオーケストラを鳴らしている。ダイナミックレンジも大きく劇的な音楽に仕上がっている。この演奏を聴くと、シベリウスの曲において改めて木管が重要な役割を担っていることに気付かされる。最後のピチカートも決然とした奏し方である。しかし、ボーンマス響で感じた「情念的」なものが少なくなってきているように思える。これは、全編を通した印象なのだろうか?
��楽章のそっとささやくようなテーマの入り方は息を呑むばかりだ。無骨さはかけらもなく繊細にして優しい。あたかも、淡い北欧の春ののどかな風景を見るかのようだ。しかしどこか儚さを併せ持つテーマだと思う。このような淡いテーマと、一楽章を引きずったかのようなテーマとの対比が、この交響曲の持つ二重の性格とか、揺れ動く不安さなどを表出しているようである。ベルグルンドの演奏は、クリアな分その対比が明確であり聴き手にストレートに伝わってくる。でも、最初のテーマが再現される部分のミステリアスさは、この盤よりもボーンマス響のものの方が優れていると思う。はっと思わせる繊細さが消えてしまっているのはどうしたことだろうか。
��楽章は弦のピチカートとティンパニの強打で始まるが、ティンパニの音が柔らかい。ボーンマス響の、ちょっと破れそうな硬い音とは違う。ここらあたりも曲から受ける印象、つまりトゲのとれたと感じさせる要因なのかもしれない。ただ、2楽章のところでも感じたが、フルートは少し雑とは言わないが、硬さを感じさせシベリウス的な雰囲気を減じているように思えてならない。ここでいう「シベリウス的雰囲気」というのを、どのようにイメージするかということは明らかにしなくてはならない問題だとは思うのだが。
この楽章を聴いて思ったが、ベルグルンドが高性能のオケを得て、十二分に曲をドライブしているさまを感じるのだが、いかがだろうか? 「乗った」演奏に聴こえる。
��楽章も劇的さは、いささかも衰える事がない。それ故に、第二主題の美しさもひときわである。目をつぶり悠久の大地とか、ゆるやかに流れる大河(そんなものがフィンランドにあるのかはさておき)を前にした時のような充実した、心の内側が満たされてゆくような感慨を覚える。この楽章でも激しく短いテーマと、ゆるやかな美しいテーマが対比して現れるのだが、この交響曲に一貫した手法であろう。聴くものは二つの両極の感情を振り子のように揺れ動くこととなる。
ボーンマス響との演奏時間を比較してみても、1楽章は30秒ほど速いが4楽章はむしろ1分ほど遅い演奏である。全体を聴いた印象としては速すぎたり遅すぎたりするわけではなく、テンポ設定としてはノーマルな演奏なのだと思う。ただ、個々のフレーズでは結構テンポをもしかしたら変えているのかもしれない。それを聴くものに意識させずに自然な表現としてしまっているようにも思える。
以上のようなことを、ここ二日間、3種類の盤を繰り返し聴きつづけ感じ取ったのだが、気になることもある。というのは、ボーンマス響で感じた「冷ややかにして激しいシベリウス像」が、ここからは余り嗅ぎ取れないのだ。むしろデイヴィスの演奏に感じたものに近い。ベルグルンドはあえて、偏見の多い「シベリウスの音楽」というものから脱却し普遍性を追及しようとしたのだろうか。それとも、ボーンマス響で私が感じ取ったものが特異、あるは勘違いだったのだろうか。いや、改めて(オレもしつこいね)ボーンマス響を聴いてみた。明らかにこの演奏には「情念」的なものを感じる。それがシベリウスの音楽に必要不可欠なものなのか、それは解釈の違いに委ねられる問題なのだろうか。
2001年5月7日月曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第1番
指揮:サー・コリン・デイヴィス
演奏:ボストン交響楽団
録音:1975
PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
コリン・デイヴィス&ボストン響のシベリウスといえば、それなりの名盤なのではないかと思う。名曲名盤300選とかでも上位に挙げられる演奏であろう。今回の特集を行うに当たり、当初はデイヴィス盤をベースにしようとも思っていたのだが、やはり「正統派」のベルグルンドとの比較がなくてはと思い、まずは、彼の旧盤を聴きそして、デイヴィスを聴いてみたのだが、何たる違いか!と驚いてしまった。同じ曲を演奏しているとは到底思えないほどの差異があるのだ。
デイヴィス盤とて、先に書いたように名盤である。しかし聴く前に先入観や偏見が入ってしまうのだろうか? ベルグルンドから聴こえた涼しげにして冷ややかな空気は、デイヴィス盤からは感じないのだ。また、ベルグルンド&ボーンマス響盤よりも、ロマンティシズムに傾いていた演奏のように感じられる。
例えば、アッチェレランドの掛け方や、逆に旋律を劇的に盛り上げるためのリタルダンドのかけかた、はたまた強弱の付け方も大きく、それ故オーケストラは壮大にして華麗になっている。美しい旋律はあくまでも美しく、甘い旋律はひたすら甘い。ソロの部分は協奏曲のように処理されているように感じるし、オーケストラの個々の音も非常に明確である。そういう意味からは、非常に説得力をもった演奏と言えるのかもしれない。
しかしなのだ、全体を通してシベリウス的な匂いがないのだ。ベルグルンドが表現していたフィンランドの息吹、息遣いが聴こえない。例えば第1楽章にしても、ベルグルンドではものの数分も経たぬうちに、これがシベリウスの記念碑的な第一交響曲であることを否がおうにも感じさせてくれた。あまりにもシベリウス的な匂いと賛歌に充満しているのだが、デイヴィスはそのように処理していない。あれほどの感動を与えた第一楽章が、核を失ってバラバラな音楽に聴こえてしまう。
あるいは、第2楽章の弦のテーマの裏にフルートが繊細な伴奏をつけている部分。ベルグルンドが表現した風のような、そして思わずゾクリとするような感触が、この演奏からは聴こえないどころか、非常に野暮ったい処理にさえ感じる。
第4楽章の中間部のメロディなどは、ゆっくりと悠々とオケを歌わせているのだが、ふと気付くと「映画音楽のよう」に聴こえてしまうではないか! これは一体どうしたことなのか。
デイヴィスはロンドン響を従えた演奏をサントリーで聴いたことがある。そのときは、ヴァイオリン協奏曲と交響曲第2番であった。非常に満足を覚えてホールを後にしたことを覚えているが、この盤の演奏からはシベリウスのエキスが抜けてしまっているように思えてならない。特集を続けてゆくことで、二人のシベリウスへのアプローチの違いが如実に見えてくるのだろうか?ベルグルンドにあって、デイヴィスにないものは、もしかしたら「情念」なのかもしれない。
最後に、付け加えておくが、決してこの演奏が「ダメ」とか言っているのではない。何を表現しようとしているかの違いなのではないか、と思うのだ。デイヴィスの「何か」は、今はまだ見えない。
2001年5月6日日曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ボーンマス響による交響曲第1番
指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ボーンマス交響楽団 録音:Sep 1974 EMI TOCE-19004 (国内版)
曲について
シベリウスのこの第1番交響曲は1899年、彼が34歳のときの作品である。
この曲を聴くと分かるが、既にシベリウス独特のサウンドが充満しており、非常に立派な交響曲に仕上がっていることに改めて気付きそして驚かされた。
彼のオーケストレーションは、激しく燃え上がる部分であっても、どこか冷ややかであり、青白き炎がたぎるという印象を受ける。彼のこの1番交響曲は、その成立過程からしても、解説にもあるように「フィンランド的情緒」とか「民族としての共感を代弁する」などの要素を汲み取ることはできるかもしれない。しかし、そのような歴史的な背景を考えずにこの曲に接したとしても、内から鼓舞されるかのような印象を受け、力が漲ってくるのを禁じることができない。
そういう意味からすると、第一楽章が一番力強く、そしてエネルギーに満ち、そしてなおかつシベリウスらしいと言える。曲の構成と分かりやすさと共感のしやすさという点でも、第一楽章が一番かもしれない。メロディラインも美しくそして、ハープが独特の色彩を与えている。力強さだけではなく、何か物悲しさと不安感の間を揺れ動くような微妙な感情も聴くことができる。しかし、総体的に支配しているのは、やはり誇りともいうべき堂々とした雰囲気であろうか。
第二楽章は緩徐楽章であるが、冒頭の弦と木管のメロディはゆったりとして、ロマンチックな気分にさせてくれる。途中に入るトライアングルやフルートのトリルも美しく効果的である。しかし、この甘さをシベリウスは余り引きずることをしない。不安げな木管のメロディに乗って到達するのは、やはり揺れ動く感情であるようだ。4分半から始まるチェロのテーマとその裏で奏でる風のようなフルートの伴奏の部分は、ものすごくシベリウス独特の色彩であり、ここを聴くだけで背筋に電流が走るような感情を覚える。そして、この楽章のラストは高揚感のある力強き感情の高まりである。激しいテーマの奏し方やその後の静かな歌い方は、チャイコフスキーの影響を感じる部分である。
スケルツォの第三楽章は、この盤の解説によると「トリオはフィンランド的田園の調べ」とある。確かに田園風景を感じさせる部位もないわけではないが、楽章の印象は性急にして非常にゴツゴツとしたものであり経過句的な印象を与える。
第四楽章は「Quasi una fantasia = 幻想曲のように」と記されているように、自由な形式をとっている。第一楽章のクラリネットの暗い主題がここでは弦で再現されるが、前楽章の性急さは受け継がれある方向性を持って動いてゆくように感じる。3分半ころから始まる、弦による第二主題は何かの唄だろうか、ハープの響きも加えられ、この曲の聴き所の一つと言えるかもしれない。この旋律にかぶさるように始まるトランペットの響きの扱いなど、本当にシベリウス独自の世界だと思う。激しさと性急さと、そしてメランコリックな雰囲気をごちゃ混ぜにしたような印象で、「幻想曲のよう」と言われれば納得はするのだが、気まぐれな印象を受けないわけではない。最後に向けてひとつのところに求心してゆくようなエネルギーには少し欠けているようにも思える。もっとも、9分に再現される第二主題は、以前よりも確信を持っており決然とした感情さえ漂わせている。二つの感情の間を揺れ動いていたシベリウス自身が、ある結論をみたようであり、ラストは今までにないほどの明確な意思をもって曲を終えるのかと思いきや(!)、弦のピチカートによるで(第一楽章と同じように)締めくくられる。私はここに、不安を残したまま煮え切らない印象を受けて少々当惑する。
このような感情の揺らぎや自身と不安の表出は、シベリウス自身の境遇や、当時のフィンランドの情勢を映しているものであることは予想がつくのだが、いまの段階ではあまり詳しく調べていないのでここに書ける事はない。また、シベリウスの交響曲はチャイコフスキーの影響を色濃く受けていると良く評されるようだが、私が聴く限りにおいては、二つの交響曲は目指すテーマにおいても別物であると感じざるを得ない。
確かに形式だけ考えれば、第一楽章冒頭のクラリネットのテーマが第四楽章において弦楽器で復活するなどの手法も、チャイコフスキー的と言われれば、なるほどとは思う。また、民族的なものを鼓舞するような部分も見られはするが、一番の違いは、チャイコフスキーのような「激情の赴くままの吐露」というものは、彼の曲からは感じない。むしろ不安さとナイーブさの点ではシューマンに近い感情を感じるのだ。
この演奏について
シベリウスといえばベルグルンドというくらいに有名なのだが、この盤は彼の3つの全集のうち、一番古い録音で、ボーンマス響とのものである。
弦の音色の重心が低く、そして打楽器も決然として力強い。そのため、ちょっと粗削りな印象は受けるものの、シベリウス独特の冷ややかさと劇的さがうまく表現されているのではなかろうか。緩徐楽章なども甘くメランコリックになりすぎず、節度をもった奏し方であると思う。
この段階では、ベルグルンドの最新盤を聴いていないので、彼の解釈がどこを指向しているのかを明確に言うことはできないのだが・・・・
2001年5月5日土曜日
【シベリウスを聴く】
(2001年HP開設時に企画した音盤視聴記)
シベリウスの交響曲といえば2番が有名である。しかし、傑作の誉れが高いのは4番、7番あたりではなかろうか。彼の交響曲には独特の雰囲気と色彩があると思う。順番に聴いてゆくことで見えてくる世界があるだろうか。また我々がイメージする「シベリウス的」というのはどういう演奏なのだろうか。
全集はベルグルンド&ヨーロッパ室内管弦楽団と、コリン・デイヴィス&ボストン交響楽団のものを用意。それ以外にも聴き比べの盤を数枚足しながら、連載を始めてみたい。
(以下リンク切れ。本ブログ内検索結果はこちら)
交響曲
交響曲第1番
- <第1回>交響曲 第1番 ベルグルンド/ボーンマス響<1974>)2001/5/05
- <第2回>交響曲 第1番 デイヴィス/ボストン響<1975> 2001/5/06
- <第3回>交響曲 第1番 ベルグルンド/ヨーロッパ室内管2001/5/07
交響曲第2番
- <第4回>交響曲 第2番 デイヴィス/ボストン響
2001/5/13
- <第5回>交響曲 第2番 ベルグルンド/ヨーロッパ室内管
2001/5/14
- <第6回>交響曲 第2番 セル/クリーブランド管
2001/5/18
- <第7回>交響曲 第2番 バーンスタイン/ウィーン・フィル<1986>
2001/5/21
- <第8回>交響曲 第2番 バルビローリ/ハレ管<1952>
2001/5/29
交響曲第3番
- <第9回>交響曲 第3番 デイヴィス/ボストン響<1976> 2001/6/02
- <第10回> 交響曲 第3番 ベルグルンド/ヨーロッパ室内管<1997> 2001/6/10
交響曲第4番
- <第11回> 交響曲 第4番 デイヴィス/ボストン響<1976> 2001/7/7
- <第12回> 交響曲 第4番 カラヤン/ベルリン<1976> 2001/7/8
- <第13回> 交響曲 第4番 マゼール/ウィーン<1968> 2001/7/9
- <第14回> 交響曲 第4番 ベルグルンド/ヨーロッパ室内管 2001/7/17
- <第17回> 交響曲 第4番 ケーゲル/ライプチヒ放送響<1969> 2001/9/2
交響曲第5番
- <第15回> 交響曲 第5番 デイヴィス/ボストン響<1975>
2001/8/15
- <第16回> 交響曲 第5番 バルビローリ/ハレ管<1957> 2001/8/16
- <第18回> 交響曲 第5番 ベルグルンド/ヨーロッパ室内管<1996> 2001/9/8
- <第19回> 交響曲 第5番 ヴァンスカ/ラハティ響<1995>(オリジナル1915版) 2001/9/29
交響曲第6番
- <第20回> 交響曲 第6番 デイヴィス/ボストン響<1976>
2001/11/24
- <第21回> 交響曲 第6番 ベルグルンド/ベルリン放送響<1970>2001/11/25
交響曲第7番
- <第22回> 交響曲 第7番 デイヴィス/ボストン響<1976>
2002/01/01
- <第23回> 交響曲 第7番 ベルグルンド/ヨーロッパ室内管<1996>2002/01/02
- <第24回> 交響曲 第7番 バーンスタイン/ウィーン・フィル<1988> 2002/01/03
- <第25回> 交響曲 第7番 マゼール/ウィーン<1966> 2002/01/04
生演奏と再生された演奏
生演奏と再生装置を通した演奏の決定的な違いについて考える。このふたつの違いは、音楽を聴くときの環境もさることながら、音楽に向かう集中度が圧倒的に違うのではないかと思う(この場合、オペラなどの視覚的要素が重要なファクターを締めるものは対象としていない)。
自宅の再生装置の前で音楽を聴くには、あまりにも眼や肌を通して伝わる雑音が多すぎるのだ。再生装置の前で音楽を聴く時、リスナーはライナーを読んだり解説書や楽譜を追ったり、はたまた見るとはなしに外の景色やら室内のものをぼんやり見ていることが多いと思う。音楽とは無関係な情報が否が応でも流入してきて集中力を阻害してしまう。
眼をつぶればよいという気もするが、人は音楽を聴くときであっても何らかの情報を眼から得ているという気がしてならない。音楽は聴覚、視覚、触覚(皮膚感覚)を通して伝わる情報なのだと思う。 名演も映像が伴うと、格段に感動が増してくることは、DVDなどを持たない方でも、NHKの過去の名演フィルムを見て感じることではないだろうか。
演奏会場は、ともすると眠くなってしまうことも否めないが、音楽に集中するには格好の場であると思う。自らの体調と音楽への集中度が高まったとき、それは演奏家の熱気などとは無関係に音楽は人の心に深く染み渡るのではないかと思う。
自宅の再生装置の前で音楽を聴くには、あまりにも眼や肌を通して伝わる雑音が多すぎるのだ。再生装置の前で音楽を聴く時、リスナーはライナーを読んだり解説書や楽譜を追ったり、はたまた見るとはなしに外の景色やら室内のものをぼんやり見ていることが多いと思う。音楽とは無関係な情報が否が応でも流入してきて集中力を阻害してしまう。
眼をつぶればよいという気もするが、人は音楽を聴くときであっても何らかの情報を眼から得ているという気がしてならない。音楽は聴覚、視覚、触覚(皮膚感覚)を通して伝わる情報なのだと思う。 名演も映像が伴うと、格段に感動が増してくることは、DVDなどを持たない方でも、NHKの過去の名演フィルムを見て感じることではないだろうか。
演奏会場は、ともすると眠くなってしまうことも否めないが、音楽に集中するには格好の場であると思う。自らの体調と音楽への集中度が高まったとき、それは演奏家の熱気などとは無関係に音楽は人の心に深く染み渡るのではないかと思う。
2001年5月3日木曜日
小泉総裁の理想と青臭さ
ついでにだが、小泉総裁の言はどことなく「青臭さ」が漂っていると指摘されることがある。それは永田町に似合わない風貌ばかりではなく、どこか豹然とした雰囲気を感じるのだ。
かつての細川元総理の「麻呂然」とした雰囲気とは異なると思う。
さて、「青臭さ」というが、理念とか理想は青臭さから始めないと駄目なのだと思う。その青さを「地に根付いた緑」にするための理論武装と実行計画が重要なのは当たり前だが、理念、理想がなくて、何のプランだろうか。
かつての細川元総理の「麻呂然」とした雰囲気とは異なると思う。
さて、「青臭さ」というが、理念とか理想は青臭さから始めないと駄目なのだと思う。その青さを「地に根付いた緑」にするための理論武装と実行計画が重要なのは当たり前だが、理念、理想がなくて、何のプランだろうか。
憲法と武装
今日は憲法記念日。ふと思ったが、憲法改正論が白熱しないのも、ゆるやかな国粋主義者の発言がいまだにあるのも、いわゆる島国の「平和ボケ」日本を象徴していることなのかもしれない。
昨日「戦場には行きたく、行かせたくない」と書いたが、「民族解放のための闘争と、血と犠牲を乗り越えて勝ち得た権利と憲法」という歴史を持った国においては、どのような「憲法」が制定されているのだろうか、とふと考えを及ばさざるを得ない。
朝日新聞17面「私の視点」での土井香苗(弁護士)の視点と、「憲法9条の役割は国際的にも終えてはいない」という論点に、私は賛同の意を覚えるのである。
昨日「戦場には行きたく、行かせたくない」と書いたが、「民族解放のための闘争と、血と犠牲を乗り越えて勝ち得た権利と憲法」という歴史を持った国においては、どのような「憲法」が制定されているのだろうか、とふと考えを及ばさざるを得ない。
朝日新聞17面「私の視点」での土井香苗(弁護士)の視点と、「憲法9条の役割は国際的にも終えてはいない」という論点に、私は賛同の意を覚えるのである。
【本棚】鈴木光司:シーズ・ザ デイ
題名のシーズ・ザ デイ(Seize The Day) のSeizeとは「つかむ、把握する」などの意味である。「綱をくくりつける」といった意味もあるらしい。名前からして意味深だが、ここでは、ヨットと海を舞台にした運命のいたずらともいえるべき、感動のドラマが展開されている。
小説としては非常に面白く、独特の力強さに満ちている。最初の数ページを読むだけで、「これは、なみなみならぬ覚悟で書かれた小説なのだろう。鈴木光司は、おそらく大きな感動を与える場として海を舞台にした小説を書いたのだろう」と予感させるものであった。
しかし、どうも私は彼の想定したプロットに乗り切ることが出来なかった。海洋を舞台にした小説を読むのが初めてで、例えばではあるが、山岳を舞台とした小説よりも臨場感を得る準備が自分にできていなかったということも理由にはあるかもしれない。山岳にしても海洋にしても、自分の実体験としてあるわけではないのだが、考えてみれば海洋を舞台にした小説というのを余り読んだことがないのだ。
いやいや、そんなことは、あくまでも背景の問題であり、乗り切れなさは他にある。主人公の船越を始め、彼をとりまく岡崎や裕子、昔の恋人の月子やその娘の陽子など、十分に魅力的な人物が登場するのだが、彼らに感情移入が出来ない点が一番の問題だ。なぜか?
船越というのは、小説では妻子に逃げられ、家も売り払い、ヨットで生活を始めるという、一般的な価値判断からはアウトローと思われるような主人公として登場する。生まれた時に既に父親が蒸発するような形で姿を消しているなど、幸せな人物とは書かれていない。しかも、16年前に太平洋をヨットで横断中に遭難事故を起こしてしまい、その挫折感からいまだに立ち直れないでいる人物である。
この小説のテーマを非常に乱暴な言い方をしまえば、ダメ人間としての岡崎が、過去の挫折の日や自分の過去に遡る行為を通して、「運命」的な意味を発見し、かつ新たな生きる価値とエネルギーを得るという、「謎解き」と「再生」の物語である(て400頁を超える小説を言い切るなよて思うが)。
でも、なんだか全てが、ご都合主義的に見えてきてしまうのだ。人物の登場の仕方も、「運命的」とも「因縁的」ともl「因果応酬」とでも言うべきものも含めて。「何だよこれは、まるでループか」と毒づいてしまう。ラストに何が待ち受けているものも、本の半ばでわかってしまう。だって、そういう風に書かれているんだから。
それに、何と言っても、主人公の船越が、既に十分にうらやましい存在なのだ。定職とはいえなくても自分の好きな道(海に関係する仕事)につき、いざとなれば会社を辞めてでもどこかに旅立てるという自由さを獲得している。妻子や社会的しがらみみたいな束縛からは既に解放された存在だ。だからといって孤独ではなく、彼を理解する知人に恵まれている。
残念ながら、彼が大いなる挫折の人生を歩んでいたとしても、心の狭い私には、彼に共感することが出来ないのだ。翻って考えてみると、かくも自分が心の奥底では「束縛されている」と感じていることなのかと、複雑な思いさえ抱いてしまうのだ。
彼と自分の一番の違いは、「自由」への可能性なのだと思う。または、彼が最後に掴み取った、ひとりで人生を力強く生き抜いてゆくことのできるエネルギーなのかもしれない。小説の中で彼の理解者である岡崎が「人生こんなもんだ、なんて思わないほうがいい」と言う場面がある。人生の可能性を狭めているのは他ならぬ自分なのかもしれないのだが。
もっとも、小説を読んで感じることは人それぞれである。物語としては非常に良く出来ているし、小説を読む面白さは満ちているし、ある種のエネルギーを得ることもできる。そういう意味からは読んで損はないと思う。でも、読んだら分かる。人生のエネルギーを得るには、本なんか読んでいるだけじゃあだめだと。「バタン!」と大きな音を立てて、自らメインセールを張り、進み始めなくては駄目なのだと。だから、心にしこりが残るのだ。
(追記)
5月15日の朝日新聞に、鈴木光司が「シーズ・ザ デイ」について語っていた。この物語は「父性」の物語なのだという。「父が子供に何を伝えてゆくのか」といったことがテーマなのだと。
え?「父と子」だって? あまりにも意表をつかれたテーマじゃないかと思った。
だって、突然振って沸いたような「娘」を戸惑いの中で受け入れ、航海を通しお互いの過去を話してゆくことで理解しあうようになることはあっても、親の子に対する愛情みたいなものとか、理解しあうところなんて全然感じなかったのだ。それが、鈴木の言う、従来の父性とは違うということなのか。
主人公 船越は娘 陽子にヨットに関する技術を短期間で教え込み、厳しい状況にも敢えて立ち向かわせ、人生を航海してゆくエネルギーを与えている。娘は期待を見事に答え、帆を張って自ら進み始めるのだが、でも、それが「父と子」の新たな関係性なの?それがこの小説の隠れたテーマの「父性のありかた」なの?
そういう風には「全く」読めなかったのである。最後まで私には船越と陽子が父子であるという実感を得ることができなかったし、それに陽子という主体が訴えかけてこなかった。更に、どうしてそんな簡単に航海技術を習得してしまうのか?彼女は天才なの、船越はヨット教授の天才なの、それともヨットてそんなに簡単なの?て、だからご都合主義て書いてしまったのだ。
陽子は船越なんて現れなくても強く生きていったと思うのだよ。腑抜けで生きていたのは船越おまえじゃないか。それが「父が子に何を伝えるか」だって! 冗談じゃあない。(あ、思わず怒ってしまった)
やっぱり乗れないなあ、この小説には・・・・・。あ、繰り返すけれど、面白い海洋冒険小説ではあるんだよ。決してつまらない本じゃないのです。
もっとも、だから小学生のときから国語は嫌いなんだよ。「この小説のテーマは何でしょう」「作者の本当に言いたかったことは何でしょう」ていう設問は、大抵はずしていたもんな。
小説としては非常に面白く、独特の力強さに満ちている。最初の数ページを読むだけで、「これは、なみなみならぬ覚悟で書かれた小説なのだろう。鈴木光司は、おそらく大きな感動を与える場として海を舞台にした小説を書いたのだろう」と予感させるものであった。
しかし、どうも私は彼の想定したプロットに乗り切ることが出来なかった。海洋を舞台にした小説を読むのが初めてで、例えばではあるが、山岳を舞台とした小説よりも臨場感を得る準備が自分にできていなかったということも理由にはあるかもしれない。山岳にしても海洋にしても、自分の実体験としてあるわけではないのだが、考えてみれば海洋を舞台にした小説というのを余り読んだことがないのだ。
いやいや、そんなことは、あくまでも背景の問題であり、乗り切れなさは他にある。主人公の船越を始め、彼をとりまく岡崎や裕子、昔の恋人の月子やその娘の陽子など、十分に魅力的な人物が登場するのだが、彼らに感情移入が出来ない点が一番の問題だ。なぜか?
船越というのは、小説では妻子に逃げられ、家も売り払い、ヨットで生活を始めるという、一般的な価値判断からはアウトローと思われるような主人公として登場する。生まれた時に既に父親が蒸発するような形で姿を消しているなど、幸せな人物とは書かれていない。しかも、16年前に太平洋をヨットで横断中に遭難事故を起こしてしまい、その挫折感からいまだに立ち直れないでいる人物である。
この小説のテーマを非常に乱暴な言い方をしまえば、ダメ人間としての岡崎が、過去の挫折の日や自分の過去に遡る行為を通して、「運命」的な意味を発見し、かつ新たな生きる価値とエネルギーを得るという、「謎解き」と「再生」の物語である(て400頁を超える小説を言い切るなよて思うが)。
でも、なんだか全てが、ご都合主義的に見えてきてしまうのだ。人物の登場の仕方も、「運命的」とも「因縁的」ともl「因果応酬」とでも言うべきものも含めて。「何だよこれは、まるでループか」と毒づいてしまう。ラストに何が待ち受けているものも、本の半ばでわかってしまう。だって、そういう風に書かれているんだから。
それに、何と言っても、主人公の船越が、既に十分にうらやましい存在なのだ。定職とはいえなくても自分の好きな道(海に関係する仕事)につき、いざとなれば会社を辞めてでもどこかに旅立てるという自由さを獲得している。妻子や社会的しがらみみたいな束縛からは既に解放された存在だ。だからといって孤独ではなく、彼を理解する知人に恵まれている。
残念ながら、彼が大いなる挫折の人生を歩んでいたとしても、心の狭い私には、彼に共感することが出来ないのだ。翻って考えてみると、かくも自分が心の奥底では「束縛されている」と感じていることなのかと、複雑な思いさえ抱いてしまうのだ。
彼と自分の一番の違いは、「自由」への可能性なのだと思う。または、彼が最後に掴み取った、ひとりで人生を力強く生き抜いてゆくことのできるエネルギーなのかもしれない。小説の中で彼の理解者である岡崎が「人生こんなもんだ、なんて思わないほうがいい」と言う場面がある。人生の可能性を狭めているのは他ならぬ自分なのかもしれないのだが。
もっとも、小説を読んで感じることは人それぞれである。物語としては非常に良く出来ているし、小説を読む面白さは満ちているし、ある種のエネルギーを得ることもできる。そういう意味からは読んで損はないと思う。でも、読んだら分かる。人生のエネルギーを得るには、本なんか読んでいるだけじゃあだめだと。「バタン!」と大きな音を立てて、自らメインセールを張り、進み始めなくては駄目なのだと。だから、心にしこりが残るのだ。
(追記)
5月15日の朝日新聞に、鈴木光司が「シーズ・ザ デイ」について語っていた。この物語は「父性」の物語なのだという。「父が子供に何を伝えてゆくのか」といったことがテーマなのだと。
え?「父と子」だって? あまりにも意表をつかれたテーマじゃないかと思った。
だって、突然振って沸いたような「娘」を戸惑いの中で受け入れ、航海を通しお互いの過去を話してゆくことで理解しあうようになることはあっても、親の子に対する愛情みたいなものとか、理解しあうところなんて全然感じなかったのだ。それが、鈴木の言う、従来の父性とは違うということなのか。
主人公 船越は娘 陽子にヨットに関する技術を短期間で教え込み、厳しい状況にも敢えて立ち向かわせ、人生を航海してゆくエネルギーを与えている。娘は期待を見事に答え、帆を張って自ら進み始めるのだが、でも、それが「父と子」の新たな関係性なの?それがこの小説の隠れたテーマの「父性のありかた」なの?
そういう風には「全く」読めなかったのである。最後まで私には船越と陽子が父子であるという実感を得ることができなかったし、それに陽子という主体が訴えかけてこなかった。更に、どうしてそんな簡単に航海技術を習得してしまうのか?彼女は天才なの、船越はヨット教授の天才なの、それともヨットてそんなに簡単なの?て、だからご都合主義て書いてしまったのだ。
陽子は船越なんて現れなくても強く生きていったと思うのだよ。腑抜けで生きていたのは船越おまえじゃないか。それが「父が子に何を伝えるか」だって! 冗談じゃあない。(あ、思わず怒ってしまった)
やっぱり乗れないなあ、この小説には・・・・・。あ、繰り返すけれど、面白い海洋冒険小説ではあるんだよ。決してつまらない本じゃないのです。
もっとも、だから小学生のときから国語は嫌いなんだよ。「この小説のテーマは何でしょう」「作者の本当に言いたかったことは何でしょう」ていう設問は、大抵はずしていたもんな。
【音盤】ディーリアスの「春はじめてのかっこうを聴いて」
北海道もいよいよ春らしくなってきて、一気に草花が芽吹きはじめ、鳥たちの鳴き声も大きくなってきたかのように感じられる。
先月のようにまだ、寒さの残るうちは「ハルサイ」などの爆演を聴いて心を奮い立たせるのも良いが、暖かさとうららかさを増してきたならば、ディーリアスを聴きたい気分になってくる。
この曲からは、ほんとうにカッコウの鳴く、のどかな春をイメージすることができ、なおかつ、あたかもイギリスの風景画家ターナーの描く水彩画のような夢幻の雰囲気を漂わせており、安らぎの境地へといざなってくれる。7分ちょっとの曲だが、目を閉じて曲に聴き入るとイギリスの田園美の中に入り込んだかのようである。
上に示した盤はトマス・ビーチャム指揮の演奏だが、もう一つ家にあるバルビローリ/ハレ管のものよりも情感豊かに感じる。
2001年5月2日水曜日
小泉政権と憲法改正
明日は憲法記念日である。小泉新総裁になってから、政局の話題に事欠かないが、彼が「タカ派」であるというのは、いかがなのかと思っている。石原慎太郎が「タカ派」と言うのは分かるが、小泉総裁の自衛隊と憲法改正に関する考えは根深いものとは思えない。
憲法改正と自衛隊の位置付けというのは、非常に深いテーマで私など手に余るのだが、ひとつだけいえることはある。
「徴兵されて兵役義務を負うのはイヤであるし、次の世代にもさせたくない」ということだ。
ある年齢になると兵役義務がある国や、貧困層を士官学校などに組み入れている国もないわけではなかろう。
自衛のための軍隊というのも分からないではない。しかし、結局、軍隊というのは相手を殺傷することを前提としている。理屈などとこにあろうか。国際社会の役割だの周辺事態への対応なども、理屈はわかるが、あなたは自分が戦場に行くことを良しとするか?と問いたい。
我々や次の世代が目指べきは、甘いと言われても別の理想形なのだと思う。
憲法改正と自衛隊の位置付けというのは、非常に深いテーマで私など手に余るのだが、ひとつだけいえることはある。
「徴兵されて兵役義務を負うのはイヤであるし、次の世代にもさせたくない」ということだ。
ある年齢になると兵役義務がある国や、貧困層を士官学校などに組み入れている国もないわけではなかろう。
自衛のための軍隊というのも分からないではない。しかし、結局、軍隊というのは相手を殺傷することを前提としている。理屈などとこにあろうか。国際社会の役割だの周辺事態への対応なども、理屈はわかるが、あなたは自分が戦場に行くことを良しとするか?と問いたい。
我々や次の世代が目指べきは、甘いと言われても別の理想形なのだと思う。
武満 徹の音楽て…?
マーラーに限らず、演奏会場で聴くのとCDなどで聴くのとでは、受ける感動とか印象が全然違う曲というものがある。オペラだってそうなんだろうが、現代音楽というものも、演奏会場で聴かない限り真価が分からないのではないかと思うことがある。
例えば、先月に書いた武満 徹である。彼の音楽は、静謐さとか沈黙とか、音楽とは相反する要素を含んだ深淵なる曲が多いような気がする。自宅で聴くには、氷のような透明な音楽が、猥雑さに溶け出し、現代音楽という部分のいやらしさしか残らなくなってしまう気がするのだ。
武満の音楽を、家人の寝静まった夜にヘッドフォンを通して聴いてみると、真暗な中から、豊穣なる世界が静かに立ち上がってくるのを味わうことができる。日常性の中に彼の音楽を投げ出し聴くことができないと思うのである。しかし、こういう鋭敏なる音楽というのは「癒し」という側面よりも、極度の緊張をリスナーに要求するものだと感じるのだ。
例えば、先月に書いた武満 徹である。彼の音楽は、静謐さとか沈黙とか、音楽とは相反する要素を含んだ深淵なる曲が多いような気がする。自宅で聴くには、氷のような透明な音楽が、猥雑さに溶け出し、現代音楽という部分のいやらしさしか残らなくなってしまう気がするのだ。
武満の音楽を、家人の寝静まった夜にヘッドフォンを通して聴いてみると、真暗な中から、豊穣なる世界が静かに立ち上がってくるのを味わうことができる。日常性の中に彼の音楽を投げ出し聴くことができないと思うのである。しかし、こういう鋭敏なる音楽というのは「癒し」という側面よりも、極度の緊張をリスナーに要求するものだと感じるのだ。
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