2003年3月10日月曜日

楽劇「ラインの黄金」全4場 その3

 

楽劇「ラインの黄金」全4場


■ 前奏曲を聴く

「ニーベルングの指環」4部作の冒頭を飾る前奏曲である。この前奏曲は低音で始まる「自然の動機」とバイオリンで奏でられるアルペジオが優雅な「波の動機」が絡み合った、非常にゆったりとした美しい音楽だ。この前奏曲を聴くと「これから指環を聴き始める」という感慨を体の底から感じることができる。壮大なる楽劇を始めるのに適切な音楽になっていると思う。ワーグナーはこの音楽を「世界の揺り籠の歌」と呼んだらしい。混沌の中から光が現れ世界が次第に形作られる様を彷彿とさせる原始的にして厳かなイメージに満ちた曲だと思う。136小節しかないこの曲の見事さは言葉にできないほどだ。

ワーグナーの音楽において示導動機(ライトモチーフ)が作品解釈において鍵となるが、冒頭にホルンにより奏される「自然の動機」は、《指環》全体を貫く主題の意味においても重要である。ワーグナー解説書によれば、この変ホ長調の和音からなる上昇音形は「元素的なもの、事物の根源の音楽による比喩」であるとのこと。「自然の動機」の上昇音形は、今後もさまざまな形で姿を変え出現することになるという。例えば第4場に登場する「エルダの動機」は自然の動機を短調に変形したものであるらしい。

《トリスタンとイゾルデ》の項でも書いた(かも知れないが)ワーグナーにおいて、上昇音形と下降音形が意味するものは明白である。上昇が憧れや発展を意味し、下降が落胆や崩壊を意味するというわけである。そういう点から、《ラインの黄金》の冒頭の壮大なる上昇音形の繰り返しは、私たちを劇の最初において、人間世界から神々の世界へと上昇することをいざなってくれるかのようである。通低して流れる低減の響きは悠久の時をしても変わらぬラインの流れさえ思い起こさせてくれる。

たかだが4分程度の前奏曲であるものの、非常に聴きごたえのある音楽になっている。

ショルティは前奏曲の冒頭を極ゆっくりと、そして低弦の響きは重々しくざらついたほどに低く始めている。そこから聴こえてくるホルンの自然の動機が対位法的に絡み合い、さらにゆったりと「波の動機」が登場するところなども、実に夢見るごとき音楽に仕上げてくれている。次第にオーケストレーションが重なってきてヴォークリンデの歌声が始まる辺りには、すっかりワーグナーの世界に浸ってしまっている自分を感じる。

抜粋版のバレンボイム&バイロイト祝祭管弦楽団の演奏と聴き比べてみた。冒頭の弦は厳かに奏されるものの、重さという点ではショルティ版は凄い迫力になっている。波の動機のあたりになるとバレンボイムは実に丁寧に音楽をまとめているが、その後の音づくりが少々グラマラスで豊穣すぎるきらいがある。ここは自然の元祖的な要素をあらわした部分であれば、盛り上がりの中にも純粋さと削ぎ落とされた音響表現が欲しい(ような気が今はする)。そういう意味からはショルティ版の厳格さが好ましいと(今は)思える。もっともたった4分間だけの比較に意味があるとは全く思えないので、つづいてラインの乙女達と不幸なるアルべリヒの駆け引きを聴くこととしよう。

(2003.3.10)

2003年3月9日日曜日

楽劇「ラインの黄金」全4場 その2

楽劇「ラインの黄金」全4場


《ラインの黄金》概要

■ 《ラインの黄金》の背景となる世界

《ラインの黄金》は《指環》四部作のうちの最初を飾るもので「序夜」という位置付けがなされている。《指環》がジークフリートの死から構想され、ジークフリートの成長、ジークフリートの誕生にいたる物語、そして《指環》全体を支配するテーマとしてのラインの黄金というように発想されていることは 以前触れた 。楽劇最初の《ラインの黄金》に登場するのは神話上の神々たち、ニーベルハイム(死の国)に住む小人たちそして巨人族であったりする。ここでの神々というのも「 指環を概観する 」で書いたように、決してキリスト教的倫理観に基づいた神々ではない。権力と富とを求める人間的な神であり、一方で自然界を支配する原始的な神々である。

例えばヴォータンは主神であるとされ、ドンナ-は雷神、ローゲは火の神である。ヴァルハラ城の建設の対価として提供されそうになったフライァは美や青春(若さ)を司る神であり、ヴォータンを諭し、《ラインの黄金》以降でヴォータンと結ばれてしまったエルダは智の神だ。

ここで、ラインの乙女(水の精)たちをあわせて考えると、水、火、土、大気など元素的な要素が色濃く支配する神話的世界であることが分かる。英語のWednesday、Friday、Thursdayはそれぞれヴォータン、フリッカ(ヴォータンの妻)、ドンナ-を語源としているらしい。《ラインの黄金》には人間は一人も登場しない(小人や巨人が人間だというのなら当たらないが)。支配しているのは自然界の象徴としての、それでも人間以上に人間くさい神々なのである。

■ 指環に込められたテーマ

《ラインの黄金》は4場で構成されており演奏時間も2時間半程度と《指環》四部作の中では一番短い。それでもここには、今後の《指環》を聴いてゆく上で重要なテーマや音楽的な動機が散りばめられている。

ストーリーは単純に書くと、「ラインの水底に沈む黄金を、愛を断念したアルベリヒが盗み指環に替える。指環は富と権力を我が物にできる力を持つとされる。その指環をヴォータンが奪い取るものの、アルベリヒは指環に呪いをかけてしまう。ラインの黄金の最後は指環をヴァルハラ城建設の代償として城を建設した巨人達に与え神々は城に住まう」ということになる。

右の絵はTheodor Birisになる《ラインの黄金》を表したものだ。一番上にラインの乙女達(左上)と黄金を盗み取るアルベリヒ(右上)が、中央にフィライアをさらってゆく巨人兄弟(中左)とそれを止めることができない神々(中左の女性はフリッカか)、遠くの山の上には完成したヴァルハラ城が見える。下には地底世界の小人族たちとそこに下っていったヴォータンとローゲ(下左)が書かれている。

さてストーリーを書いてはみたものの、このままではこの楽劇で何を表そうとしているのか全く分からないので少し補足しておこう。最も重要なのは指環に込められた意味であろうか。指環は富と権力を得るための象徴的なものとして登場するが、これを得るためには「愛を断念する」ということが不可欠とされている。

「富と権力を得るために(男女の)愛を断念する」というテーマは強烈だ。ワーグナーの人生観において両者は両立しえないと考えたと言うことなのであろうか。裏を返すと富と権力を投げ打っても愛の方が重要であるという主張でもあるのかもしれない。それほどまでにワーグナーにとって愛は重要なテーマであったということなのかもしれない。

ここでの愛とは肉親や兄弟愛なども含んでいると考えてもよいが、狭義にはやはり性愛を含めた男女間の愛だと思われる。ここにおいてワーグナーにとっては肉親愛は男女間の愛に容易に変遷してしまうように書かれていことは驚くべき点だ。彼の倫理観を問うよりも彼の個人的な生い立ちによるのだろうか、詳しいことはまだ調べていないので分からない。ただ、ワーグナーが9人兄弟の末子で、両親ともワーグナーが年少の時に(特に母ガイヤーはワーグナーが8歳のときに)亡くなっている点は記憶しておいてよいのかもしれない。いずれにしても、権力と愛への希求と選択ということが劇の登場人物に架せられた課題であることを《ラインの黄金》は冒頭から示している。

ここでワーグナーの女性像や愛の形というものを考えた場合、彼の描く愛はもっぱら男性側の理想としての女性の愛という印象を受けないでもない。男性から女性へのオファーは少なく、もっぱら女性の愛情を一身に男性が受ける、どんなに男性が身勝手でも女性の愛情で救われるというように感じられてしまう。このような点はワーグナーの他の楽劇でも同様で、それ故にワーグナーの書く男性像が、私にはどこか子供じみた印象を受けてしまう。《指環》を仔細に聴いてゆけば、このような感想を変えることができるだろうか。

《ラインの黄金》における主神ヴォータンは性格的には男性的なものの象徴のように思われるが、彼は一方で権力欲が強くそして女癖が悪いキャラクターとして描かれている。妻のフリッカがヴァルハラ城を巨人族に建設させたのも、居心地の良い家を作りヴォータンを家に留めておきたいがため、というから泣かせるではないか。

こうして考えると指環四部作とて難解近づきがたい作品では全くないことに気付く。ワーグナーの楽劇や他の多くのオペラ作品と同じように「男女間の愛」を(ひとつの)テーマとしていることに変わりはないようだ。(ワーグナーはジークフリートを軸に《指環》を構築したということになっているが、この点は後にゆっくり聴いてゆきたい)

では前置きはこのくらいにしておいて《ラインの黄金》を聴いてゆくことにしよう。

(2003.3.9)

2003年3月6日木曜日

スヴェトラーノフ指揮 レスピーギ / ローマ三部作


この盤はHMVのサイトでも紹介されていた、スヴェトラーノフ指揮ソ連国立交響楽団の1980年ライブステレオ録音である。スヴェトラーノフといえば、いわゆる金管バリバリの爆演系の指揮者というイメージがある。ホールを大音量でかき鳴らすその演奏に虜になった人は多い。

で、この演奏だが、たしかに《アッピア街道の松》も凄まじいのだが、《ローマの祭》もすっごい音響で野蛮なまでの響きを聴かせてくれている。HMVの「お客様レビュ」も「凄い」というコトバ以外見当たらない。そんなに脳死状態になって良いのかと不安の念にも駆られるのだが、実は私も あいた口がふさがらない 状態に陥ってしまった(^^;;

先に紹介した「エフゲニー・スヴェトラーノフのページ」の はやしひろしさん のレビュでは "「世紀の珍盤」!!"という評価が与えられている(^^;;; 有無を言わさない、そして頑固にしてゆるぎない確信に満ちた暴虐さは、同じような芸風と思われがちのゲルギエフに劣らない(というか・・・ちょっと次元が違う)ような気がする。

録音はARTリマスターということであるが、音質はザラザラとしていてそれほど良くはない。それでもスヴェトラーノフの迫力は存分に味わうことができると思う。

2003年3月5日水曜日

楽劇「ラインの黄金」全4幕 その1

楽劇「ラインの黄金」全4幕


■ ショルティ/ウィーンフィル

サー・ゲオルグ・ショルティ指揮
ウィーンフィルハーモニー

1958年9~10日

Wotan:George London
Frika:Kirsten Flagstad
Freia:Claire Watson
Loge:Set Svanholm
Froh:Waldemar Kmentt
Donner:Eberhard Wachter
Mime:Paul Kuen
Erda:Jean Madeira
Alberich:Gustav Neidlinger
Fasolt:Walter Kreppel
Fafnaer:Kurt Bohme
Woglinde:Oda Balsborg
Welllgunde:Hetty Plumacher
Flosshilde:Ira Malaniuk

■ バレンボイム/バイロイト(抜粋版)

指揮:ダニエル・バレンボイム
バイロイト祝祭歌劇場管弦楽団

1991年6&7月 バイロイト祝祭劇場(デジタル・ライブ録音)

Wotan:Jhon Tomlinson
Donner:Bodo Brinkmann
Froh:Kurt Schreibmayer
Loge:Graham Clark
Frika:Linda Finnie
Freia:Eva Johansson
Erda:Birgitta Svenden
Alberich:Gunter Von Kannen
Mime:Helmut Pampuch
Fasolt:Matthias Holle
Fafner:Philip Kang
Woglinde:Hilde Leidland
Wellgunde:Annette Kuttenbaum
Plosshilde:Jane Turner


2003年3月3日月曜日

【本棚】マイケル・ムーア:アホで マヌケなアメリカ白人

マイケル・ムーアとは社会派のドキュメンタリー映画監督件、ジャーナリストとしてアメリカでは有名な人だ。最近では「ボウリング・フォー・コロンバイン」という映画が日本でも公開された。これはカンヌ映画祭で55周年記念特別賞を受賞した作品だ。マイク片手にアポなしで突撃インタビューをするというスタイルは彼の定番であるらしい。



知ったかぶりして書いているが、そういうことはつい最近知った。残念ながら彼の映画は観ていない。


だから、この本の表紙と、くだけた文体に騙されてはいけない(原書はこちら)。内容は非常に真面目で刺激に満ちている。「簡単に言えば、あなた(ブッシュ「大統領」)はアル中で、泥棒で、おそらくは重犯罪人で、とトガメなしの脱走兵で、泣き言野郎です」という調子(訳)の現アメリカ「大統領」ジョージ・W・ブッシュ批判は留まるところを知らない。大統領にカッコ付なのは今でも選挙に勝ったのはゴアだとムーアは思っているからだ。


いやいやそればかりではない、ブッシュの側近達の紹介やブッシュ「大統領」が就任依頼実施した政策の数々、前大統領クリントンが成し遂げた政策の数々が羅列されているが、もしそれが本当だと言うのならアメリカも救い様のない国であるということが(今更ながらに)分かって、ゲンナリしてしまうのだ。


読んでない方で注意してもらいたいのは、この本は「アメリカは世界の保安官たりたがる」「どこの国でも自国と同じような環境を作ってしまう」「いつも自分が正しいと思っている」というような、アメリカ人観を書いた本ではないということだ。ひとえにアメリカの好きな作者ムーアが、アメリカに幸せに住むためにはどうしたらいいのか、というテーマに真剣に向き合った本だ。


アメリカの現政権共和党も、共和党と政策の違いを全く示せなかった「脳死寸前民主党」も、彼らはアメリカ中での10%の富裕層が利益になるような政策を、世界中からの反対があろうと進めていることを糾弾しているのだ。「アホでマヌケなアメリカ白人(Stupid White Men)」とはアメリカ白人全体のことではなく(ましてや白人以外のアメリカ人のことでもなく)まさに彼らのことを指している。


「満ちたり者に禍ひをもたらす祈り」は痛烈だし、本の最後に書かれた「人生の目的は、ただ漫然と生きてゆくことだけだなんて言うな。「ただ生きているだけ」というのは、臆病者の生き様だ。あなたには、市民として生きる権利がある。悪いのはあのバカでマヌケな白人どもだけだ。俺たちは、奴らに対して圧倒的に数多くいる。その力を使うんだ。あなたには、より良く生きる権利があるんだから。」という主張は強い。それほどにアメリカは貧困者やマイノリティーに対する差別や迫害が(全くないようなフリをしながら)根強いということを思い知らされる。


この本を読むと、アメリカより日本の方がよっぽどマシなのではなかろうかという気になる。私たちはイチローやマツイの行くアメリカしか知らない。マイクロソフトとハリウッドとMTVの世界しか知らない。日本では少なくも民主党代表に投票できなくなるように、ある日突然に選挙権が剥奪されることも今のところはないのだから・・・

2003年3月2日日曜日

【風見鶏】「アメリカがイラクを攻撃する本当の理由」 ~②キリスト教原理主義者の政治力~

サンデープロジェクト
2003.3.2 Sun

田原総一郎のサンデープロジェクトで、ブッシュ政権がイラク攻撃を実行しようとする背景の一つとしてキリスト教原理主義者の存在があると紹介していた。

キリスト教原理主義とは聖書を文字通りに厳格に解釈した考えをもった勢力であり、思想はかなり保守的にして過激である。勢力は主にアメリカ中西部、南部にあるらしく原理主義者は3千万人とも言われているらしい。キリスト教原理主義と共和党は密接に結びついており、大統領選挙においては彼らの票が大きく当落を左右すると言うわけだ。信者のほとんどが白人であることから「白人主義」とも言われているらしい。中絶の反対、同性愛の反対、銃規制への反対・・・あれ、なんだか思い出さないか?

そう最近読んだ「アホでマヌケなアメリカ白人」(マイケル・ムーア著)のことだ。あの本には「キリスト教原理主義」のことは言及されていなかった。しかしブッシュがキリスト教原理主義者への褒美として司法長官に任命した(とサンデープロジェクトは説明する)ジョン・アシュクロフトの解説を同書から引用してみよう。

「強姦や近親相姦の場合を含め、あらゆる中絶に反対」
「同性愛者に対する職業差別からの保護にも反対」
「死刑囚の上訴を制限することに賛成(それによって7件の死刑を執行させた)」
「極めて過酷な麻薬取締法の支持者」
「全米ライフル協会の味方」
  ~以上 P.48

私は「アホで~」を読んでも、どうして為政者が上のようなことを反対するのか全く理解できなかった。中絶反対はピルなどの医薬品業界からの圧力かなどと要らぬことまで考えてしまった。しかし、これらがキリスト教原理主義者=白人主義者の糸引きであるとするならば、理屈抜きで理解できてしまう。

彼らキリスト教原理主義者の最終的な目標が「中東での最終戦争→キリスト千年王国の復活」というのだから恐れ入るばかりだ・・・

HIYORIみどり 「またしても余りにも無知だったわ~」
KAZAみどり 「余り日本では報道されていないものね」

【本棚】櫻井よしこ:大人たちの失敗~この国はどこへ行くのだろう?


櫻井よしこの文庫本新刊である。以前感想を書いた「日本の危機」と彼女の論調は同じであるが、あの本ほどは怒っていない。静かに語りかける口調ではあるが、そこには彼女のゆるぎない主張を読み取ることができる。

彼女は例えば憲法問題に関して言えば改憲派に属している。「軍隊のない国家など存在しません。防衛庁を防衛省に格上げし、自衛隊を軍隊として認めるのが自然」「"憲法違反"の自衛隊を、憲法を改正してきちんと合憲の存在として認めたい」(P.140)と主張する。

こういう意見を呼んで「タカ派だ、保守派だ」と決め付けることは余りにも幼稚すぎる。彼女の思想をして「どちらかというと産経より」という事にもどれほどの意味があろうか。彼女も言うように我々日本人は長い間、こと防衛と憲法問題に関しては詭弁とごまかしを重ね、さらには憲法問題に関してはアレルギーを覚えるような風潮を醸成してしまったのだと思う。真面目で大人な防衛議論が今までなされてこなかったのだとは私も思う。従って彼女の意見を読み、それが私の感覚と若干のズレがあったとしても、彼女の意見によって問題意識が喚起される。決して「何を言っているのだ、ハナシにならない」と撥ね付けることはできない。

教育問題についての視点も相変わらず厳しい。最近の子供や学生の教育やしつけの問題を憂いている。「お金や物は、人間の心を豊にしてくれる手段であるのに、いつの間にか、それ自体が目的になっていた」「十台の子どもたちの問題は実はその親の世代の問題でもあり(中略)つまり問題の解決には三世代、百年かかってしまう」(P.21)と書いている。お金やモノ以外に幸せの基準を求めると言うことは、今まで三世代かかって築いた価値観を転換するということだ。しかしと私も思う。これをしなければダメなのだと、根本的には何も変わらないのだと。「日本人には経済をもう一度隆盛にするのは何のためなのか、という問題意識が、言い換えるならば単なる経済現象を越えた大目的がないために、頑張ることができないでいる」(P.25)という主張はまさに私の考えにごく近いものである。

彼女は心底このままでは日本がダメになると主張する。しかし嘆くだけではなく、しっかりしろと励ましてくれる。「日本は自身を失う必要はないと思います」「私たちが心をしっかりさせることです。日本と言う国と社会を、歴史、文化などを含めてよく学んでゆくということです。その中から、未来に挑戦してゆく自信を救いあげていくことが前提条件です」(P.206)という主張は、学生ばかりではなく社会に出て日々の仕事や家事に謀殺されている私たちにこそ向けられる言葉かもしれない。

彼女のマスコミに対する批判も厳しい。「取材での経験を通じで、日本の大新聞がいろいろな面で偏りがあるという思いを深くしている](P.193)と書き「幅広くはなりますが、その分深く突っ込むことができにくくなる」(P.194)日本のマスコミを海外の言葉を借りて「ワン・インチ・でプス」の報道(P.194)と評する。それでも彼女は(当然ながら)「新聞は読むべき」(P.200)と主張する。我々は一面的な情報からでもその裏を読む知力が求められているのだ。

この本を読むと社会で中堅として働く人よりは、むしろこれからの社会を担う学生へと向けられたメッセージというものを痛切に感じる。これからを変えてゆくのは年寄りではなく、確かに若者達であるはずなのだ。

今の日本は一見幸福そうに見えても、実は非常に非人間的で住み辛い世の中だと思う。それを気づかせないように、あるいは気付かないフリをしながら過ごしているとしか思えないことさえある。1億人皆が中流で平等だったなんて単なる幻想でかなくなった。格差や歪みはあちこちで噴出している。しかも、誰もが何か間違っていると思っているのに改善できない、この行き所のない閉塞感をどうしたら打破できるというのか。私たち日本人も、どこに向かうべきなのか、肝心の大人たちが自信を喪失し羅針盤を持たずに大海をさ迷っているような雰囲気さえある。

私はもはや学生のように純粋でも若くもない。しかし彼女の本でカツを入れてもらうと、少なからず力が沸いてくる、知力が必要だと、そして勇気ある行動が必要だと思えてくる。

2003年2月23日日曜日

サイトの内容に関して

私のサイトはCDや演奏会の感想を主としているが、たまにサイトの内容に関してメールを頂くことがある。さらにごく稀にだが書いた演奏会の感想の、まさにその演奏者からメールを頂くこともある。そういうときは本当にびっくりするもので、何か偉そうに批判的な事や失礼な事を書いてやしなかっただろうかとヒヤヒヤしながら自分の昔の文章を読み返してみたりするものだ。

感動も感心もしなかったのに体裁だけ整えるような文章は書かないが、やたらと攻撃的で感情的な文章も書かないようにしているつもりだ。ネット上では相手がプロだろうが何だろうがボロクソに書く人もいる。(最近だと「○○○はまだ指揮者として成熟が足りない」という文章を読んだがヤレヤレという感じだ)

私はどのような演奏家であってもプロである以上は一定のレベルの演奏を聴かせてくれるものだし、素人の小賢しいひとときの気分に左右される感想など、演奏の内実のいくらも伝えてはいないのではないかと思うことが多い。どのような演奏であっても奏者に対する敬意は必要だと思っている。

以前、私の演奏会レビュは演奏者の敬称を略していた。例えば「佐藤のフルートは・・・」みたいな書き方だ。そういう書き方を不快に思うとプロの方からメールを頂いたことがある。「あなたは評論家なのか、プロに失礼である」とその方は忠告してくれた。この点は「だって、"パユさん"とは書かないではないか」とは思ったものの、確かに奏者に対する敬意が足りないかと後になって反省した。今では気づく範囲で敬称付に修正したつもりである。

実際どんな人が読んでいるか分からないものなのだなあと感慨を新たにした次第。

【音盤】テンシュテット&ミネソタ管/ベートーベン:交響曲第7番 イ長調 op.92


ベートーベン:交響曲第7番 イ長調 op.92 テンシュテット(指揮)ミネソタ管弦楽団 1989年11月 lsu1010-2 USA 
札幌で海賊盤のCDが入手できるところは光堂Pals21である。ここに訪れるたびに一応お義理に海賊盤をチェックすることにしている。定番や正規盤でさえ満足に聴いていないのに、マニアぶって海賊盤に手を出すのもいかがなものかとも思うのだが、たまに物凄い演奏に出くわしたりするものなので無視もできないのだ。(例えばテンシュテット指揮 ロンドン響とブレンデルによるブラームスのピアノ協奏曲第1番とベートーベン交響曲第5番 1990年8月30日のカップリングは凄い)
このCDはテンシュテットとミネソタ管弦楽団による1989年11月の演奏である(lsu1010 usa)。店の解説に惹かれてゲットしてしまったもの。
「ビッグファイブばかりでなく、この辺りのオケとの共演というのも食指をそそられます。比較的遅いテンポが採用され、厳格に刻むリズムは普段の激情型演奏とは一味違います。ふつふつと湧き上がるようなパワーが途切れません。音質は各所に傷がありますが抜群の演奏です」
しかしクラシック初級者のわたしは、ビックファイブもテンシュテットの芸風にも通じているわけではない。
確かに音質はもこもこと非常によくない。フォルテッシモになると途端にもこもこ感が増してしまう。ダイナミックレンジの狭い昔の古いテープ録音を聴いているようだ。ノイズは少ないが音の伸びやかさは全く聴こえない。音割を起こしていないだけ幸福と言えようか。
最初cdウォークマンで聴いて、あまりの音の悪さに「これは失敗であったかな」と思ったものだ。しかし終演後の拍手の凄まじさから改めて自宅ステレオで聴いてみたのだが印象が変わった。
音質の悪いのをがまんして聴くならば、ここには濃厚なるベートーベンが展開されていることを否定できないと思うようになった。解説の通りテンポは遅い、馬鹿丁寧なとも言えるようなテンポ感だ。揺れも少ないようだ。ひとつひとつ切られた音は残響を残してホールの空気を震わせている。強弱の幅は広そうだ。オケが充分に指揮についていっているように聴こえる。ティンパニももこもこしているが、実際は非常にしっかり叩いているようだ。低弦も厚みのある音だ。ミネソタ管弦楽団のまともな演奏を今は知らないので、これが持ち味なのかどうかは判断がつかない。非常に機能的なオケに聴こえる。
第二楽章の歌い方も、正攻法のように攻めていながらにして体の奥底からこみ上げてくる感情を押さえることができない、という感じを受ける。第三楽章などでも弱音部分での丁寧な音楽作りには感心してしまう。細部にまで神経が行きわたっている、特に第三楽章の終わり方は特に印象的。
そういう音作りが演奏に何とも言えぬ迫力と説得力を生み出しているように思える。「ふつふつと湧き上がるようなパワー」とは良く言ったものだ。底知れぬベートーベンのエネルギーを感じ体の底が熱くなるような演奏である。ベートーベンの交響曲というのは、力瘤をためたこれでもかという音楽である。さらりと軽くなどとはなかなか聴けない曲だ。例えば有名なc.クライバーの名演などはスポーティーに駆け抜けてしまうが、そういう颯爽としたところは全くなく、あくまでも王道たるベートーベンをわざとらしくなく、それでいて熱く奏でてくれるている。
一端聴き始めたら音は悪くとも最後まで掴んで放さない迫力に満ちており、何を隠そう私は続けて二度も聴いてしまった。ただし万人にお薦めかといえば疑問は残る。

2003年2月22日土曜日

このCDはテンシュテットとミネソタ管弦楽団による1989年11月の演奏である(LSU1010 USA)。久々にベートーベンを聴き健康的なエネルギーを得ることができて満足である。ベートーベンには有無を言わせぬ説得力というものがあると思う。ワーグナーなどを続けて聴いていると40分程度の交響曲はすごく短く感じてしまところがコワイ。

この盤はいわゆる海賊盤なのだが、私は海賊盤を集める趣味までは持ち合わせていない。たまに覗くCD店で見つけて思わず買ってしまったのだ。実際音質は海賊盤の中でもあまり良い方とは言えないかもしれない。

ただし演奏は音質ほどは悪くないので、レビュも書いてみた。テンシュテットファンの方から見たら「何を書いているのだか・・・」という内容だとは思うのだけど。



2003年2月15日土曜日

【音盤】ゲルギエフ指揮 プロコフィエフのピアノ協奏曲集


ゲルギエフが アレクサンドル・トラーゼ(Alexander Toradze) と録音したプロコフィエフのピアノ協奏曲集(PHILIPS 462 048-2)を見つけたので早速ゲットしてみた。オケはゲルギエフの主兵サンクトペテルブルク・キーロフ歌劇場管弦楽団で1995~96年にかけての録音。トラーゼというピアニストは初めて聞く名前だが解説によればゲルギエフとトラーゼは1980年頃から何度も演奏を重ねてきたらしい。

プロコフィエフの5つあるピアノ協奏曲のうち比較的有名なのは1番と3番ではないかと思う。実際プロコのPコンで思い出すのもこの二つの華々しい曲だ。どちらもロシア的抒情とプロコフィエフらしさに溢れた名曲である。アシュケナージとプレヴィン/ロンドン響による定番、アルゲリッチとデュトワ/モントリオール響による壮絶な1番と3番の演奏、そして同じくアルゲリッチとアバド/ベルリンの3番などが有名だろうか。

その一つ一つと聴き比べをしているわけではないが、ゲルギエフ自ら「(フルトヴェングラーがベートーベンを好きだった様に)私も、プロコフィエフをやっているときは、彼こそが自分の好きな作曲家なんだと思います」というだけあり、この演奏も充実した演奏に仕上がっている。

もっとも1,3番が有名なプロコフィエフだが、ピアニストのトラーゼは「However, in our view the Second Concerto stands out as Prokofiev's most personal statement」であるとし「Prokofiev's Second Piano Concerto is an exceptional human document which traces a scenario of sorrow, escape, disenchantment and mature growth amounting to a final farewell to a beloved friend.」と書いている。ここでの友とは1909年から1913年の間に友情を築いていたピアニスト Maximilian Shmitgoff のことである。プロコフィエフは1913年4月に Shmitgoff 自らの遺書とも言える手紙を受け取る。そのような体験が音楽に色濃く反映されているとトラーゼは説明している。

プロコフィエフの時に叙情的にして甘美、時にグロテスクにして野獣のような音楽が聴くものを圧倒する。古典的でありながらも現代的な和音と響き、そして躍動し火花を散らして跳ね回るリズムは、体の末端の感覚をざわざわと覚醒させてくれる。いつも聴きたいわけではないが、プロコフィエフのピアノは良い。

2003年2月5日水曜日

ワーグナー関連サイトについて(海外)

日本に満足できるサイトがないので、仕方ないから海外を検索してみた。Goolgeで「Wagner」というキーワードだけで検索しているところが無謀ではあるのだが・・・

●Richard Wagner Home Page

最初に見つけたのは「Richard Wagner Home Page」Jose Antonio Amaralさんと Sao Pauloさんというブラジルの方のサイトのようである。最終更新が2000年2月21日とサイトのアクティブ度としてはちと低い。しかし、このテのサイトは頻繁に更新される類のものではないので良しとしよう。ライトモチーフ(示導動機)のMIDIファイルも納められていて、ワーグナー入門には手ごろなサイトかもしれない。例えば「《指環》初心者のためのガイド(A Beginner's Guide to Der Ring des Nibelungen)というページでは、《指環》にどのように接し始めれば良いのか丁寧に指南してくれている。「もしも貴方が映画《地獄の黙示録》の《ワルキューレの騎行》と《ジークフリートの葬送行進曲》しか聴いたことがないなら、注意深くアプローチしなさい」と書き始めている>オレのことだよ。

次ぎに、サイトの作者は《指環》の概略を読んで、リブレットを買えと勧める、もしも《指輪のハイライト》しか持っていないのならという注釈付きでだが>ここはクリアしたぜ。

音盤やDVDなどはできるだけ音質が良く、オーソドックスな演出を選べとも勧めている。ただし古い録音の中にも良いものがあるから注意せよと(やっぱりクナッパーツブッシュだよ)。彼は無難なところではカラヤンやレバインが良いと言う、ショルティは勧めないらしい。映像ではバレンボイムやサバリッシュは選ぶべきではないと(斬新で現代的過ぎる演出てことだと思うよ)。

で、この膨大な作品をどうつまみ食いしてゆくかを説明してくれている。詳しくはサイトをご覧ください。私などこの先、何も書くことがなくなってしまいました。《トリスタンとイゾルデ》《タンホイザー》《マイスタージンガー》に関するコメントもあるけれど、こちらは《指環》に比べたら力が入っていない。

●Richard Wagner Web Site

もうひとつは「Richard Wagner Web Site」というKristian Evensenさんのサイト。こちらはまずデザインが見やすい(つーか、今までのワーグナーサイトのデザインがトホホなのだが)。こちらはコンテンツも膨大なようで、例えば「《指環》の示導動機(Leitmotifs in Der Ring des Nibelungen - an introduction)」というページには《指環》の成立背景と概要からはじまって、タイトルの通りライトモチーフの意味するものが、楽譜とMIDIにより詳しく紹介されている。いやはや素晴らしい!こういうサイトがあればもう何も加えることはないと言う気になってくる(つーか、ホントはまだ全部読めてないけど)

また「スターウォーズ・シリーズとワーグナーの《指環》~構成、主題そして音楽のつながり(The Star Wars series and Wagner's Ring Structural, thematic and musical connections)」という興味深い論考もある。(つーか、タイトルしか読んでないけど)

「Loge - person and element, commentator and agent」という《指環》に登場するアイロニカルな火の神ローゲに対する論考もあるようで、これまた興味が尽きない。

●RICHARD WAGNER ARCHIVE

最後に(疲れてきたし)紹介するのは「RICHARD WAGNER ARCHIVE」という Hannu Salmiさんが運営するサイト。こちらはワーグナーに関する様々な情報の宝庫といえる。作者が「My idea is to collect and to display all kinds of material dealing with the German composer Richard Wagner. I have myself worked as a Wagner scholar since 1987 and published two books on Wagner and Wagnerism.」と書いているように、ワーグナーに関することなら何でも集めてしまうという貪欲さに満ちている。ワーグナーを徹底的に追及したいという人向きか、ただし英語だけではなく独逸語も読めた方が良さそうである。



2003年2月4日火曜日

ワーグナー関連サイトについて

ワーグナー関連のサイトをGoogle検索してみたところ、ワーグナーほどの偉大な作曲家だからさぞかしファンサイトが目白押しかと思うのだが、以外とアクティブなサイトは少ない。

最初に紹介するのは「ワーグナーの歌劇な部屋 by ルカ~Wagner Fan Page」というサイト。Googleの最初にヒットする。ワーグナーの作品全般に渡って概略を知るにはうってつけのサイトである。最終更新が1999年5月5日とかなり古いのだが掲示板は健在である。私も、まずはこのサイトからワーグナーに接し始めた。

Googleで次ぎにヒットするのが「ワーグナー・アラカルト」である。こちらは掲示板もサイト本体も今でも更新し続けているアクティブなサイト。面白いのは掲示板の発言で興味深い内容のものをコンテンツにしている点。例えば「忠臣蔵とアーサー王伝説・・・・・・そして、パルジファル」というスレッドなど延々と続いていて、なるほどっつーか、げっぷっつーか。「私が抱きたい女」「私が抱かれたい男」「一緒に鍋を囲むなら」などというアンケートもあって、ワーグナー通には楽しめる(?)。掲示板の内容は結構ヘビーで、生ワーグナーに接した人でないと楽しめないかなとは思うことも。私のようにCDだけで満足している向きにはちょっとハードルあり。

もうひとつは、上のサイトからもリンクしている「richard wagner homepage」というサイト。こちらは各作品の音盤データベースが非常に充実している。しかし膨大なリストの中でどれがお奨めなのか作者のコメントがないのが寂しい。ワーグナー徒然草というエッセイを読むと、ついにクナッパーツブッシュも聴かなくてはならないのかと憂鬱かつ暗鬱な気分に襲われます(^^;;

あとは、今のところこれといったサイトが見つからない。ちょっと物足りないと思う気持も捨てきれない。(2003.02.3)

■ 追記

「国内はちょっと物足りない」と書いたのだが、ある方からメールでクナッパーツブッシュのサイトを紹介していただいた。ここは知る人ぞ知る、syuzoさんのページで(←クリックして驚かないように=笑)、全てのページが凄まじい文字量と情報量そしてクナへの愛情と執念に満ちている、まさにおそるべきサイトである。

このサイトの存在を知らなかったわけではないが「死んじゃった(あるいは死にかけの)じいさん」にまで触手を伸ばす余裕がないため、近づかないようにしていた。それでもテンシュテットという指揮者を知り、テンシュテットの青物が見つかるたびに買うようなったことや、はたまたサイトで企画連続モノを書こうと思ったきっかけは何を隠そう syuzo さんのサイトの影響である。(それなのにムシしていたとは考えてみれば失礼なハナシである)

さて、クナといえばワーグナーというくらいに両者の結びつきは強いらしい。syuzo さんの飽くなきクナへの執着は「クナを聞く~ヴァーグナー編」という、気も遠くなるような(14回にも渡るらしい)詳細な解説とレビュを展開している。改めて読まさせていただきましたが、参りました・・・またしても 小生など足元にも及びませんです。しっかり勉強させていただきます。(2003.02.18)

2003年2月3日月曜日

《指環》の抜粋を聴く2

バレンボイムのバイロイト版抜粋を聴いて、引き続き彼の「ジークフリート」と「神々の黄昏」を入手しようと思ったのだが、余りにもその演奏が素晴らしいので抜粋版を買うのがもったいないという気になってしまった。そこで、以前買ってあまり聴かずにいた抜粋版を取り出して聴いてみることとした。


マレク・ヤノフスキ指揮/ドレスデン・シュターツカペレ

《ラインの黄金》(第4場)~虹のかけ橋~ワルハラ城への神々の入場
《ワルキューレ》(第3幕)~ワルキューレの騎行
《ワルキューレ》(第3幕)~魔の炎の音楽
《ジークフリート》(第2幕)~森のささやき
《神々の黄昏》(プロローグ)~夜明けとジークフリートのラインへの旅
《神々の黄昏》(第3幕)~ジークフリートの葬送行進曲
《神々の黄昏》(第3幕)~終曲-ブリュンヒルデの自己犠牲

《指環》で有名な<ワルキューレの騎行>そして中学生のブラスバンド経験者ならばお馴染みの<ジークフリートの葬送行進曲>などが収録されているため格好の「入門版」かと思っていたのだが、それは当たらないようだ。この版は1000円で入手できるのだがあまりお勧めできない。
というのも、15時間以上にも渡る音楽を1枚のCDにしているということにも無理があるのだが、それ以上に違和感を感じるのを禁じえないのだ。

ワーグナーの音楽は、それぞれの部分が独立しておらず連綿とつながって構成されている。従って例えば有名な<ワルハラ城への神々の入場>を聴いても、なぜエルダの登場のシーンがカットされているのかと不満になってしまう。同様に<ブリュンヒルデの自己犠牲>にしても、それ以前のグートルーネとのやり取りがないではないかと・・・。所詮は抜粋版というのはその程度のものだと割り切るしかなさそうである。

さて、演奏の方だが不勉強にしてヤノフスキという指揮者をわたしは知らない。ワーグナーの音楽としては非常にあっさりとした薄味の演奏に聴こえる。コテコテワーグナーに飽いた人には向いているのかもしれないが、ワーグナー初心者の私には、ヤノフスキのような演奏もアリかなと思う。全集版が欲しいかと問われればNoではありますが。


2003年2月2日日曜日

《指環》はファンタジーか

ワーグナーの《ニーベルングの指環》は1200年頃の成立したゲルマン叙事詩「ニーベルゲンの歌」および北欧神話「エッダ」や「ヴェルズング物語」(ヴェルズンガ・サガ)を素材としている。北欧神話のキーワードをちょこっとウェブ検索してみたところ、ヴァルハラやヴァルキリー(ワルキューレ)などの名前を見つけることができた。しかし他の作品同様、台本はワーグナーオリジナルである。

「作曲家別名曲ライブラリー」(音楽之友社)の解説によれば、ワーグナーの楽劇の登場人物と中高ドイツ語、そして北欧神話では人名綴りや発音も異なっているらしい。ワーグナーと結婚することとなるグートゥルーネが現代ドイツ語ではクリームヒルトに当たる。

映画化で話題のトルーキン「指輪物語」(1954年発表)とは、素材が同じであるが物語は別物であるらしい。おそらくトルーキンも「ニーベルゲンの歌」や北欧、ギリシャ神話、アーサー王物語、そしてワーグナーの楽劇などから多くの着想を得たのだろうと推察する。(が、本も映画も観ていないのでこれ以上は言及できず)

ワーグナーの《指環》にも巨人族や小人族が登場するし、ジークムントが剣を得るところなどアーサー王伝説を彷彿とさせるものがある。それゆえに、壮大なるファンタジーオペラであるという観方もできるかもしれない。もっとも、《指環》から何をテーマとして感じるかは、まさに作品に触れた人の数だけ存在するのではなかろうかなどと、この膨大な音楽を前にして思うのであった。(>などというほどに、《指環》に親しんでいるわけではないのだが…やっと全貌の一端に触れることができたというだけです、ハイ)