2002年10月23日水曜日

【風見鶏】金融安定化策、自民党の反発で発表見送り

青木参幹事長やら抵抗勢力に猛烈の猛烈な反発にあって、中間報告が見送られた。 

日経によると、「税効果会計について2004年3月期までに米国並みの厳格な基準を採用するよう銀行に要求している。ただ株価などへの悪影響を懸念する自民党が反発」とある。 

日経社説では「金融健全化へ首相が指導力を発揮せよ」として、「重要なのは、銀行の不良債権とその裏側にある企業の過剰債務問題の両面の課題解決に今度こそ本気で動くというメッセージを発信できるかどうかだ。その成否の責任は小泉首相が負うべきである」としていた。 

一方、同日の朝日新聞社説は「国会論戦――こんな首相は見たくない」として、首相の自民党の顔色をうかがう、主体性のない指導力に落胆を隠せない論調であった。朝日は紙面で、竹中氏の事前調整不足、小泉首相との財政出動の点での意見のずれ、不良債権処理だけが突出した強硬路線では、各方面からの反発は当然と書いている。 

私はこの中間報告の是非を問えるほどに経済通ではないのだが、「また先送りか」という思いは強い。自民党をはじめとする与党の実力者は、ではどういう代案があるというのか。セーフティーネットは必要だが、政策として代案を出せるのか。反対して足を引っ張るばかりで、代案をまとめて小泉首相に提示あるいは取って代わろうという気概はあるのかと問いたい。 

不良債権処理が先にありきというハードランディングに批判が集中するが、入口論、出口論に終始する間は議論に収束は望めないような気がしてしまう。
青木参幹事長は「民間人ばかりの意見を聞いて、議員の声を聞かず、議会制民主主義に反する。失敗したら誰が責任を取る」と首相の手法を否定する。確かに私達は選挙で議員を選んではいる。しかし、彼らがどこまで国民の声を代弁してると言えるのだろう。(そもそも、今まで日本の経済失策で誰が責任を取っているのか) 

都合の良いときだけ数の論理と議会制民主主義を振りかざし、首相がリーダーシップを発揮すると「ファッショ」だ「独裁だ」と騒ぎ立てる。駆け引きやまやかしはいいかげんにして、本当に再生への具体的政策を一刻も早く示してもらいたい。 

HIYORIみどり 「でもさあ、不況って言うけど、本当に不況なの?」 
KAZAみどり 「ものの値段も下がっているし、企業は利潤を以前ほどは得られなくなっているわ。だから多くのサラリーマンの給与も横ばいか下がっているわよね」 
HIYORIみどり 「でも、それってバブル以前と比べたらどうなの?」 
KAZAみどり 「業種によって違うでしょうね。どの業種であってもバブルのときよりは落ちているけど、バブル以前と比べるとどうかは分からないは。バブルで考え方まで変わったと思わない?一度覚えた甘さは忘れられないてことかしら」
HIYORIみどり 「銀行や企業が再生したら、またバブルみたいに景気がパーッとよくなるわけ?」 
KAZAみどり 「それはないんじゃないかしら。結局私達がどういう社会を目指してゆくのか、どこに資本と労働力を投資するのか、私達の生活の豊かさとは何か、国際的な日本の役割は何か、というような理念は必要だと思うわ」

2002年10月22日火曜日

【風見鶏】都市再生関連法改正は悪法か? 

02/10/22 たけしのTVタックル

全てを見たわけではないが、「都市再生関連法案」は都会にダムを作るようなもので、ゼネコン利権から抜け出せていないという主旨のおしゃべりを展開していた。

私は法案自体が悪法であるかという判断ができるほどに詳しくはないが、「開発ありき」の姿勢が前提だとすると、はやりそれは本末転倒であるとは思う。2003年3月問題といわれるくらい、都心部ではオフィスが過剰供給される。オフィス需要量を見込んだ開発であったとは到底考えられない。

同法案がゼネコン最後の切り札という言われ方もするが、このような法律がなくては仕事が生まれないのだとすると、やはり建設市場は熟成産業となり継続的な発展が停滞したということなのだろう。市場は遅かれ早かれ、そのような経緯をたどるものだ。

成熟産業となった場合には、利幅も少ないため、賢明なる経営者は早々にビジネスモデルを変換するか撤退するというのがビジネスのセオリーだ。言うのは簡単だが、業態の転換は恐ろしくリスキーではある。

KAZAみどり 「ゼネコンていったい何なの?必要悪なのかしら?」

HIYORIみどり 「ゼネコンて響きも悪いわよね。公共事業がないと"銭来ん!" て言っているみたい、キャハハァ~。 あ、怒った?」

【風見鶏】「竹中金融相の原則を支持」

10.22 産経新聞
TV朝日ニュースステーションでも知らせているが、アメリカのテーラー財務次官が訪日して、竹中の経済政策にエールを送っている。彼はニュースステーションによると「Mr.ガイアツ」と呼ばれており、かつて日本の経済政策について強いプレッシャーをかけたことのある者だ。 

テーラー財務次官は竹中の中間報告案について、「常識的で、意味がある」とし、改革にはコストが発生するが、問題を先送りすれば「かえってコストが増大する。先延ばしにする理由はないと述べたされている。
 
USJ銀行頭取は、今回の銀行の自己資本査定の見直しなどについて「今までわたしたちは、手をつかってはいけないというルールのもとで、サッカーをやっていたつもりだった。それが突然、あなたたちのやっていることはフットボールだと言われても困る」とコメントしていた。
アメリカと日本の税制が違うのに、同じアメリカの基準で判断するのはおかしいと指摘するアナリストもいる。USJ銀行頭取の発言が正しいのか、あるいは、あるいはアメリカのスタンダードの押し付けなのか、これも議論が分かれるかもしれない。 

HIYORIみどり 「でも、急に"あんたらの常識ちゃいまんねん"て言われても、困っちゃうじゃない」
KAZAみどり 「そうね、銀行幹部は首を洗って待ってなくちゃならないものね。最終的に銀行を助けたら国民生活は豊かになるのか、ということも見えないのよ」

【風見鶏】

02/10/22 産経新聞 社説onLine

22日付け産経新聞社説は、中国の北朝鮮への軍事力を含めた圧力を期待するとともに、「無条件に徹底的な査察による検証を求めるべきである」と主張している。22日付け USA Today も「Bush wants China's support  N. Korea's nuclear program will be 'issue No. 1' during Jiang's visit」という記事がトップに踊っている。

北朝鮮が崩壊した場合のシナリオはどうなるのか、難民が日本にも押し寄せるという以外のマイナス要因として何があるのか。真面目に議論されねばならない。

金大中大統領のもと「太陽政策」を維持する韓国の意図はどこにあるのか。韓国は北朝鮮を維持しようとしているのか、あるいは崩壊することを期待しているのか・・・韓国統一は悲願ではあるものの、大量難民の受け入れは難しいだろう。

日本は、北朝鮮の金正日体制を維持させたまま国交正常化を求めるならば、日本が安全であるという確証を得ることが前提だろう。日本にミサイルを向けている国と正常な国交ができるだろうか。北朝鮮をそれでも信じる、というのは、おめでたい としか言いようがない。核だけではなく通常兵器についても査察されるべきだと思う。日本政府は確たる外交的対応=日本を守る ということができるだろうか。

HIYORIみどり 「みんなが北朝鮮に目をむけちゃったわよね」

KAZAみどり 「そうでもないわ、インドネシアやイスラエルでテロが続発してるし、相変わらずブッシュはイラクに強硬よね。ワシントンのスナイパーも新たな犠牲者を今日出したみたいだし。なかなかオバカな話題はこのごろ少ないわ」


【風見鶏】 「北朝鮮の核、日本が標的」 

北朝鮮の核開発問題を協議するため来日した米国のケリー国務次官補が日本政府要人との一連の会談で、「北朝鮮の核のターゲット(目標)は日本だ」と述べていたらしい。別に驚くには当たらないだろう、北朝鮮の脅威は昔から指摘されている。テポドンだって日本を標的としているのだろうし、北朝鮮の「学習組」が、結局は日本の北朝鮮化を各策しているということなど、その筋では周知だろう。

日本に向けて、通常ミサイルが北朝鮮から発射されたとする。米国はそれをレーダーで察知できるので、日本の首脳に緊急連絡をする。しかし、日本にはそれを迎撃するハードも、ソフトもないわけだ。内閣官房あたりでオタオタしているうちに、ミサイルは着弾する・・・(アメリカだったら迎撃できるのか、というモンダイはあるが)

外交姿勢を含め、日本の安全補償をどう考えるか、てことが抜け落ちている平和ボケ日本の現状も困ったものなのだが、かといって、「有事法制」に全面賛成できないところが Kazaみどりちゃん つーか、Hiyoriみどりちゃん つーか・・・

HIYORIみどり 「あんたタカなの?」

KAZAみどり 「タカピーではないわ。ハトピーてのはなんだか美味しそうね。鳩が豆くらって逃げるんだから、情けないけどね」


拉致被害者の帰国は本人の意志か? 
02/10/22 阿部官房副長官談

「北朝鮮に帰るのは本人の意志を尊重したい」だって? あれれ、いつから彼らは北朝鮮人になったのだい? 本人の意志以前に、彼らを守ることを放棄してきた日本政府。今後はどういう保護とサポートを提示するの? 帰国後の就職、子供の教育・・・彼らだって日本での生活は、北朝鮮のそれ以上に不安だろうに。何も手を打たずに「好きにしていいよ」では無責任にもほどがあると思う。

マスコミも、いつまでも歓迎ムードの一過性のお祭り騒ぎを止めて、地に足のついた帰国支援キャンペーンでもはるべきではないか。

HIYORIみどり 「曽我さんはずいぶん、表情がやわらいだわよね~。蓮池さんも、い異雰囲気ね。”いつまでも新婚の雰囲気で”だって~」

KAZAみどり 「みんな忘れないで欲しいわね、こういう雰囲気で歓迎したことを、責任を持って欲しいわ」


2002年10月20日日曜日

【風見鶏】日本の技術レベル

ノーベル賞のダブル受賞で、日本の底力や企業の実力はまだまだ捨てたものぢゃないという意見も多いと思うが、田中さんは43歳。教育の荒波に巻き込まれるひとつ前の世代だ。おそらく共通一次試験の最初の世代なのではなかろうか。

現在の教育を続けていては、今後このような幸福な受賞は二度とないのではないかと不安になる。教育に関しても、企業活動にしても韓国、中国、インドなどに遅れをとりつつあると感じるのは私だけだろうか?

HIYORIみどり 「インドでは20までの掛け算を暗記するんですってね、すごいわあ」

KAZAみどり 「日本の小学生が九九でヒーヒ言っている場合ぢゃないわけよ、ヒーヒーてことは、1×1なんだし・・・」

HIYORIみどり 「相変わらず意味不明にサムイけど許すわ。私、7×6は6×7とか、8×4は4×8みたいに(小さい数)×(大きい数)と変換しないと値がでてこないの。横着して九九は半分しか覚えなかったの・・・許して・・・」

緊迫する国際情勢 2

10月19日付けのInternational Herald Tribune (電子版)を見ていたら「Korea atom effort: U.S.knew early on But North's admission was a surprise」という興味深い記事が掲載されていた。

これによると、米国は2年程前から米国は北朝鮮での核開発の疑惑について証拠をつかんでいたらしい。核疑惑の真相を確信しつつあるときに小泉首相の訪米の情報が届いたらしい。これについては、「A new debate within the administration ensued, but it was interrupted by the surprise announcement from Koizumi that he was making his own high-profile visit to North Korea.」と書いている。

そして、小泉首相は訪朝前の12日に、ワシントンにて核疑惑の証拠について伝えらたとしている。

更に米国は、核疑惑について日本が北朝鮮にプレッシャーを加えることを期待するとともに、10月3日から5日にかけて自ら北朝鮮と交渉を行い、核疑惑について証拠を突きつけたわけだ。米国は北朝鮮が核疑惑を認めるとは全く想定してなかったらしく、そこのところは IHT の記事は「A senior U.S.official said the delegation assumed the North Koreans would deny the charges, as they did the first day, and U.S.officials were prepared to freeze any cooperation」と書いている。このことこそ、アメリカの意図だったのではなかろうか。

記事は、アメリカが日本が日朝交渉を単独で勧めてゆくこと、更には北朝鮮が「悪の枢軸」から外れてしまうことを望んでいないというShigemuraのコメントを引用している。もしも、外れてしまったら、現在のアメリカとテロリストの戦いが、アメリカとイスラムの戦いということになってしまうことは、米国の望むところではないというのだ。

うーん、ここまでくると分からないねえ。

そんな記事を見つけた後、The NewYork Times(電子版)を見ていたら、曽我ひとみさんと結婚してるとされる、アメリカ人のJenkinsについて「News of Ex-G.I. in North Korea Only Deepens Mystery It was the unlikeliest of marriages」とする記事が掲載されていた。

これによると、Jenkinsは亡命したことになっているが、アメリカに住むJenkinsの家族はこの事実を信じてはいない、ネイティブな英語を教えるための人材として、同様に拉致されたのだと考えているらしいのだ。Jenkinsは拉致被害者が日本に渡るときに見送りに飛行場まで来ている。その際に日本の外務省官僚と会話をしている。日本に帰宅はないかという質問に対し彼は、「It might be difficult for me to vist Japan, until my situation improves」と答えているらしい。

米軍は長く、Jenkinsを亡命者として扱ってきている。それは1960年に彼によって家族に向けて書かれた farewell letter とラジオ放送をもとにしているというが、家族はその手紙そのものを偽者と主張しているらしい。家族は一度も手紙など受け取ったことがないと。

うーん、ここでも謎は深まるばかり。

世界情勢は推理小説よりも奇なりだ。朝鮮銀行のことまでは、書けなかったよ。今回は、引用ばっかりだなあ。


2002年10月19日土曜日

18日から臨時国会がはじまったが、産経新聞と読売新聞は、またぞろ個人情報保護法案と有事法案の成立に向けた論調を張り始めた(10月17日 両新聞社説)。同日の新聞では、イラクでフセインが100%の得票率で再選されたことも報道していた。23年間も大統領の地位にあるということそのものが異常で作為的と感じる。反米感情の高まりも後押ししているのだろうか。

米国は相変わらずイラクへの強行姿勢を崩さない。素行不良な生徒に「おまえは素行が悪いし問題を起こしやすい。ちょっと目を離すとアブナイ行動を取るから、ポケットに隠しているものを全部出しなさい」と、後ろ手にバットを握って迫る暴力教師のような感がある。10月17日付けのNewYork Times誌 と WashingtonPost誌(電子版)は、ともに「Bush Signs Iraq Resolution」(米大統領、イラク武力行使容認決議案に署名)が一面トップに掲載されていた。

ブッシュ大統領は、以下のように語っている。

Our desire is to help Iraqi citizens to find the blessings of liberty within their own culture and their own traditions, The gifted people of Iraq will flourish if and when oppression is lifted. When Iraq has a government committed to the freedom and well-being of its people, America, along with many other nations, will share a responsibility to help Iraq reform and prosper. And we will meet our responsibilities. That's our pledge to the Iraqi people.

イラクの国民、フセインに投票した人も しなかった人も、実際はどう考えているのか。

これは、北朝鮮についても同様だ。拉致被害者が思ったほど悲惨な日常生活(衣食住に関して)を送っていてはいなかったと知り、ほっとした人は多いだろう。しかし、実際の北朝鮮の実態はどうなんだろう。「親愛なる金正日総書記・・・」というフレーズを言わないと政治犯、実際の姿が見えてこない。

両方とも悪の枢軸・・・我々が見ているのは、地球から見える月面だけではないのだろうか。

てなことを考えていたら、10月18日の北朝鮮の爆弾発言だ。「N. Korea admits nuclear program」という見出しがアメリカの新聞(電子版)に踊っていたので驚いた。小泉首相が日朝国交正常化交渉を月末に控えたこの時期にである。18日のNHKニュースではトップ扱いでこの話題を報じていた。22時のニュースに出演していた解説員は「北朝鮮の瀬戸際外交という従来の考え方と、大いなる譲歩の第一歩という両極端の考え方がある」と述べていた。

10月19日の、日経、朝日、読売、毎日、産経の各誌社説(電子版)は、こぞって北朝鮮の「瀬戸際外交」を非難している。国際的にも非難されるべきだと。

ブッシュはイラクとは温度差があるものの、北朝鮮に対して強行姿勢(外交的手段)を講じることを強調している。と思っていたら、18日のNewYorkTimes誌(電子版)には「U.S. Says Pakistan Gave Technology to North Korea」としてパキスタンが北朝鮮に核開発の設備を供与しているという記事が踊っているではないか。

私には、この複雑な国際情勢を読み解く力がない。一体どうなるんだろう(@_@;;;

◇◇◇◇

このごろ海外の新聞(電子版)をヒマなときにウォッチしている。英語は不得手なので見出しとリードくらいしか読まないのだが、日本の新聞しか見ていないと気づかないことが書かれていて興味深い。

もっとも、9.11テロ以来、NewYork Times誌 や WashingtonPost誌の論調が変化したと指摘する人もいる。あからさまなブッシュ批判が影を潜めてきたというのだ。そういう点では、英語が得手ならイギリスの新聞(Guardianなど)やアジアの新聞(Asia Timesなど)も参照する必要があるんだろう 、実際はそこまでは目も時間も回らないが。

2002年10月18日金曜日

コンテナ



【風見鶏】朝日新聞朝連載「転機の教育」

朝日新聞朝連載「転機の教育」として、教育問題を考えるシリーズを連載している。文部科学省のゆとり教育に対するスタンスのブレに戸惑う教育現場、進学塾や中高一貫校への加熱などを取り上げている。家庭の所得や住む場所に起因する格差についても、読者の声などを紹介しながら展開、一方で総合学習などを含めた学校側の模索や取組みも紹介している。

私は「ゆとりばかり強調しても学力が低下する」とか「今までの詰めこみは弊害がある」とかの議論は一面的でしかないような気がしている。どちらも正しいし、どちらも間違っているように思える。

事実としてあるのは、大学生を含めた全体的な学力の低下(トップも平均も)、日本人の知力の低下と幼稚化である。このままでは国が滅びると思う。日本の教育に対する大きな考え方が必要なのではないのだろうか。小学校から大学院まですべて国が管理する教育体系、平等と均等であることを是とする方針についての議論は必要ないのだろうか。

HIYORIみどり 「要は文部科学省がばかってこと?」

KAZAみどり 「国民も輪をかけてヌケサクてことよ」


北朝鮮拉致被害者の帰国 3

北朝鮮から一時帰国した方々が故郷の土を踏んだ。過剰なまでの報道や歓迎ムードにいささか行き過ぎのように感じると書いた。昨日もある種の違和感を持って報道に接したのだが、暖かく迎えた家族や幼なじみとの再会の場面を見ると、やはり心に熱いものを覚えてしまうことは否定できない。(積極的に見たいとは思わなくてもTVニュースをつけると報道しているのだもの)

彼女あるいは彼らには、郷土での諸手を上げての歓迎は何よりの贈りものだったかもしれない。そっとしておいてやりたいと考える反面、こういうお祭り騒ぎのような歓迎の仕方も、良いのかもしれないと思うのだった。帰国当初の記者会見と今回のインタビューでの表情の違いを見るにつけ、彼女あるいは彼らの空白部分を少しずつ埋めていくのだなあと思った。

��V朝日の論説員がニュースステーションで述べていた。心のリハビリには静かな環境と、すべてを受け入れてくれる家族や友人が必要だと。故郷はそのどちらも満たしていたと。私のようなドライな考え方は、都会に住む者の無関心な考え方だったのかもしれないと思い直すのであった。ただ、ここまで歓迎しておいてムードが去った後には冷たく当たるというのではいけない。一時的な歓迎ではなく、末永いサポートであることを望みたい。

2002年10月17日木曜日

照光


建物の

石の壁に照らされて

光る夕日

俗世間の移り変わりとは

無縁か、あるいは

一瞬か


旧北海道拓殖銀行本店
(北洋銀行)

北朝鮮拉致被害者の帰国 2

拉致された方々について、次々に情報が流されている。一挙一動が全国民の目に晒されるような感さえある。マスコミは彼女あるいは彼らが何を食べ、何を話したか全て知りたがっている。

何かあれば家族会が記者会見にて話す。郷里に戻っても歓迎会と記者会見が用意されている。こういう状況は異常ではないのだろうか。

たとえば15日の帰国の日の各社のTVニュース。彼女あるいは彼らから得られる情報が微々たる物であったため、各局は再び今まで何度も何度も目にした、被害に遭ったときの場所や状況を、壊れたレコードのように繰り返し垂れ流した。ある番組は、彼女あるいは彼らの24年前と今の写真を拡大して並べ、番組の間中見せてくれるという親切さだ。24年間の時の重みを感じさせたいのだろうが、そんなことを、貴方ならして欲しいだろうか。貴方が今、幸福な状況にあるとしてもだ。帰国以前あるいは生死がわからない間は、24年前の写真は「記号」でしかなかった。しかし生身の人間が現在したその瞬間、それは「記号」なんかではなくなる。

こういう報道姿勢に違和感を感じないだだろうか。

ここで新潟の少女監禁事件(*)を思い出す。小学4年生だった少女を9年間に渡って監禁していたという異常な事件だ。あの事件では、被害者の人格と今後の社会復帰を考えて、報道は彼女に対してある程度の距離を置いた報道をしていたと思う。

その事件と、同じだとは言わない。でも、と感じるのは私だけだろうか?

結論から言うと、しばらくはそっとしておいてあげたいということだ。彼女あるいは彼らから、我々は感動をもらわなくても十分である。私たちは彼女や彼らに比べれば、はるかに安全で幸福な環境で、さまざまな刺激を受容しながら生きてきている。だから、彼女や彼らに悲劇の主人公のような役回りまで果させたくはないと思う。北朝鮮でも日本でも良い、彼女あるいは彼らが望む方法で、好きな場所で、普通に生活してくれればそれでいい、その結果を私は積極的に知りたいとは思わない。ましてや、日本と北朝鮮関係を変えて行くための役割を果すということは、本人の意志があれば別だが、酷すぎはしないだろうか。

ただ、北朝鮮問題、戦後の問題など、私には多くのことがわかってはいないのだが・・・

(*)2000年1月、9年前に失踪した当時小学校4年生の少女が9年2カ月ぶりに柏崎市で発見された。事件が起きた同県三条市から、わずか数十キロ離れたところである。少女は、誘拐したSex Offenderの男の家でずっと監禁生活を強いられていたのだった。男と少女は2階に住み、他人を一歩も入れず、階下には男の母親が召使同然の状態で住んでいた。少女は19歳になり、男は37歳になった。少女は直ちに親元に帰されたが、足掛け10年に及ぶ軟禁生活が彼女の今後の人生にどう影響していくのか。さらに、なぜこの男が警察の捜査網から漏れていたのか。野放しのSex Offenderの現状とともに、二重の意味で国民は大きな衝撃を受けた。


2002年10月16日水曜日

北朝鮮拉致被害者の帰国

北朝鮮に拉致されていた5人の方々が帰ってきた。さぞかしつらい思いであったことだろう。24年ぶりの抱擁には万感の、言葉にはできない感情が詰まっていたのだろうと思う。まずはよかったと言いたい。

しかし、この歓迎ムードに水をさすようだが、ふと思うことがある。マスコミの熱狂的な報道と私を含めたそれを見る者についてだ。報道に接するものは、報道から何を期待しているのだろう。熱烈な歓迎と帰還の喜び、あるいは変わらぬ家族愛だろうか。マスコミは多くのドラマが込められているので、ここぞとばかりに煽るように報道している。

でも、私の場合、冷たいと言われればそれまでだが、どうしても白けてしまう。皮肉な見方かもしれないが、彼女あるいは彼たちに、心からよかったいう気持が起こる反面、彼女あるいは彼らが北朝鮮に洗脳されてしまっていること、あるいは人質として家族を北朝鮮に取られている不幸な状況を、彼らの発言から読み取りたいと無意識のうちに思ってはいないか、そして、やっぱり北朝鮮は不気味で変な国だと再確認したいと思ってはいないか、と考えてしまうのだ。

最近閉幕したアジア大会での一シーンを思い出す。アジア大会には北朝鮮は美女応援団を派遣した。しかし彼女たちの不思議なそして違和感のある応援体操を見たとき、そこに北朝鮮の全体主義と総書記への絶対性に対する嫌悪に似た感情を感じた人もいるだろう。嫌悪の先にあるのは、北朝鮮は「アブナイ国」であるという認識(これもマスコミを通して喧伝されている認識だが)を新たにし、安心するようなところがないだろうか。

拉致被害者が「情報のカタマリ」という表現にもひっかかる。彼らはきちんとした人格と自我を持った人間であるはずだ。彼らは本当に不幸なのだろうか、いや不幸だったのだろうかと考えてみることは無意味だろうか。(間違いなく不幸な状況から始まったことは否定しないし、おそらく現在も不幸な状況=自由を制限された状況であるとは思う)

10月16日付のNewYork Timesは、日本の熱狂を横目に見ながらも「Abducted a Lifetime Ago, 5 Japanese Come Home for a Visit」として、帰国報道をトップページに掲載していた。米軍から脱走したCharles Robert Jenkinsのことに若干触れている点が、日本の新聞とは少し違うが論調は同じである。

拉致被害者の北朝鮮に残してきた家族が人質のようなものという点に関しては、「Pyongyang has said that the six children of the returnees did not want to accompany their parents to Japan. But in Tokyo, the Japanese grandparents said the children were being held as hostages」と言及するにとどめているようだった。

NewYork Times 記事は最後に「拉致して殺してしまう」という小泉首相の発言を紹介して終わっているが、米国にとってはどのような事件として写っているのだろう。少なくとも NewYork Times からは、悪の枢軸論を印象付ける記事という感じは受けた。ただし今の米国の主要話題は、ブッシュVSアルカイーダ(バリ島テロを含む)と連続狙撃事件である。Wasihngtonpost や Wasihington Times には拉致問題に関する記事は、トップページには確認できなかった。NewYork Times の記事が異例なのかもしれないが。(新聞は各誌のHPであることをお断り致します)

拉致問題には、第二次大戦中の日本と朝鮮の関係や補償問題、補償、拉致問題に関する歴代首相と外務省の無責任と無対応ぶり、北朝鮮脅威論と柔和策など多くの問題が絡んでいる。帰国報道のみが前面に取り上げられる報道には違和感を感じてもいる。


2002年10月10日木曜日

樹からエネルギーをもらう



悪意を前提に生きるということ

ネットでの書き込みを読んでいると、ネットで嫌な思いをしている人が意外に多いようだ。インターネットをやめてしまった人もいれば、自分の文章を利用されてしまっている人もいる。不特定多数を相手に公開している以上、HPの悪用という懸念はつきまとうし、迷惑メールも覚悟しなくてはならないし、ウィルスやハッキングも日常茶飯事だ。「ネットに存在する悪意」を前提にネット生活を送るということは、もはや常識であろう。

これはネット生活ばかりではなく、実生活においても同様の状況なのだと思う。以前は考えてもみなかった「悪意」を意識するということは、特に今までそういう意識のなかった私達には少しばかり気の重い作業である。特に性善説の立場を取る人には「悪意」を意識することには罪の意識さえ伴う。事故防御として当然と言われればそれまでなのだが。

最近の事件から感じることは、「悪意」の質が変わってきたように思えることだ。例えば少し前に起きた札幌西友元町店での偽装客問題。偽装肉を販売したと言うこと自体、販売行為における「悪意」であるが、その悪意を犯している者たちが、客に対しては「善意」を期待していたというのは皮肉な話しである。(売っていたのは皮肉ではなく牛肉だが)

犯罪者とて自分達の罪を棚に上げ、客の性善説を信じていたわけだ。そのようなバランスがもはや崩壊していること、更には自分達の悪意を、悪意とは感じていない倫理観の崩壊ということもこの事件は露呈しているように思えた。

ブッシュのイラクへの強行姿勢も、北朝鮮拉致問題にしても、相手国の「悪意」を前提にした政策が前面に打ち出されている。攻撃される前に撃つというのは鉄則ではあるにしても、別の方法がないものかと思わざるをえない。特にイラクへの強行姿勢にはブッシュと石油メジャーのつながりもちらほら見えるため、さらに気分が悪いのだが・・・

モラルハザードとも呼ばれるこれの意識の変容が、経済や教育と深い関わりがあるのだとしたら、暗澹たる気分は、さらに晴れることはない。

2002年10月5日土曜日

【音盤】マンハイム学派のフルート曲を聴く

秋らしく、しっとりと落ち着いたCDで音楽でも入手しようと、札幌駅前山野楽器(LOFT店)に行ったところ、ワゴン販売の中に5枚組ボックス1,750円という信じられない値段のCDを見つけた。内容は、18世紀のいわゆるマンハイム学派の作曲家のフルートコンチェルトを集めたものらしい。C.P.E.バッハ、クヴァンツ、シュターミッツ、ホフマンなどはフルートが好きな人などにはおなじみだが、ボッケリーニなどは名前を聞いたことがあるのみ、他は全くの初耳。


Flute Concertos
Danzi, Benda, Hoffmeister, Stamitz, Et Al CD Flute Concertos




    • BRL99745
    • Brilliant Classics

    フルーティストはアンドラーシュ=アドリアンとペーター=ルーカス=グラー、そしてイングリッド=ディングフェルダーの3人。激安もここまでくると、CDの有り難味が薄れるが安くて悪いわけはない。廉価版にありがちで解説は薄い見開きのものが1枚のみだが、これは仕方がない。

    マンハイム学派のフルート

    マンハイム楽派とは18世紀のドイツのマンハイムにおいて、Karl Theodor(1724-99)の頃に花開いたもので、作曲家としてはJohann Stamitz(1717-1757)などが有名だろう。マンハイムの宮廷音楽のためにオーストリアやイタリアなどから作曲家や演奏家が集められ、高い芸術性を誇ったとされている。中でも、マンハイム楽派の功績としては、現代の交響曲や協奏曲の基礎を築いたこととされている。18世紀中盤といえば、バッハ、ハイドン、そしてモーツアルトなどが活躍した時代である。マンハイム楽派は、当事のヨーロッパから終結した優秀な才能が、バロック音楽とは袂を分けた音楽形式を確立させたといえよう。

    その詳細は音楽史の書籍に譲りたいが、特徴的な点を何点かあげるとするならば、クレッシェンドやディミヌエンド奏法、極端なフォルテやピアノ、そして交響曲における急-緩-急の三楽章からなる従来の形式から、四楽章形式の萌芽を見ることができるということになろうか。また、音楽を聴いた印象だが、従来のバロック音楽と比べても、より自由にして感情表現的な音楽になっていたのではないかと思う。そういう意味からはロマン派への橋渡しのような役割も果たしているのだろう。

    残念ながらマンハイム楽派はKarl Theodorがミュヘンに都を移した1778年頃から勢いを落とすこととなるが、同時代や後世の作曲家(もちろんモーツアルトやハイドンにも)大きな影響を与えている。実際、モーツアルトは1777年から翌年にかけてマンハイムを訪問しており、当時ヨーロッパ一とうたわれたマンハイマー・ホーフカペレ( Mannheim Hofkapelle ; court orchestra )の大編成オーケストラと新しい音楽に大いに刺激をうけたとされている。

    聴いてみたのは18世紀のヨーロッパのフルートコンチェルトを集めた5枚組のアルバムである。主な作曲家は、マンハイム楽派のCarl Stamitz(Johann Stamitzの息子)、プロシアのフリードリヒ大王の宮廷音楽家として活躍したC.P.E.Bach、フリードリヒ大王のフルートの師でもあったQuantz(「クヴァンツのフルート奏法試論~バロック音楽演奏の原理」でフルート関係者には有名)、バイオリン奏者のFranz Benda、そして当時ウィーンで活躍していたHoffmanなども含まれている。

    マンハイムにはイタリアからも何人かの作曲家を招かれている。5枚目のCDにはBoccheriniをはじめとして4名のイタリアの作曲家の手になるフルートコンチェルトが納められており、18世紀ドイツのフルート音楽を知るには格好の資料となっている。

    レーベルはBrilliant Classics(99745)、演奏はランパルの弟子でもある名手、Andras Adorjan、フルート関係者には教本でも有名な Peter-Lukas Graf、そして Ingrid Dingfelder 、上のジャケットの絵ははフランスロココ美術の代表作でフラゴナール(1732-1806)の手になる「恋人の戴冠」である。


    FRANZD ANZI ( 1763-1826 )





    1. CONCERTO No.1 Op.30 in G majo 
    2. CONCERTO No.2 Op.31 in D minor
    3. CONCERTO No.3 Op.42 in D minor
    4. CONCERTO No.4 Op.43 in D major
    • Andras Adorjan(fl)
    • Munchener Kammerorchester, Hans Stadlmar
    • Licensed from Orfeo International GmbH, Germany (1981)
    Franz Danziは作曲家であり、マンハイムオーケストラのチェリスト奏者であった。この頃のシンフォニーやコンチェルトは急-緩-急という構成が一般的であったが、No.4 (Op.43)は、短い緩やかなフレーズから開始されAllegroフレーズを導いていることが特筆される。これは、Haydn (1732-1809)のシンフォニーで顕著な特徴である。
    それ以外の3つのコンチェルトは当時の慣習に沿った形式ではあるが、バロック音楽とは異なった宮廷音楽の響きが聴こえている。音楽は煌びやかで劇的で、独特の明るさに満ちており、フルートの名人芸も充分に堪能できる曲である。
    興味深い作品と聞かれたならば、No.2 (Op,31)を挙げるだろ。弦楽器による不安気なテーマに開始され、フルートの音色がオーケストラとの対話の中からたち現れてくる。曲調はどことなくモーツアルトのドン・ジョバンニを彷彿とさせる部分がなきにしもあらずである。三楽章はPolaccaでありフルートが自在に駆け回るその快感。
    Adorjan のフルートは1点の曇りもなく磨き上げられた銀細工のような雰囲気、抑制の効いた芯のある音色はストレートにからだの隅々まで行き渡り、その一音目から天上の至福を与えてくれる。
    (2002.10.05)

    FRANZ(FRANTISEK)BENDA ( 1709-1786 )




    1. CONCERTO in E minor
    2. CONCERTO in A major
    3. CONCERTO in A minor
    • Andras Adorjan(fl)
    • Ars Redivia Ensemble Prague, Milan Munclinger
    • Licensed from Orfeo International GmbH, Germany (1984)

    Bendaはチェコ(ボヘミア)からドイツに亡命してきた音楽一族である。彼自身作曲家であり、またバイオリン、ビオラ奏者でもあった。 プロシア皇太子(後のフリードリヒ大王)に認められ、宮廷楽団のコンサートマスター(Kapelmeister)として活躍したとある。フリードリヒ大王のもとには、C.P.E.バッハやクヴァンツ(Quantz)や、グラウン兄弟(Graun Brothers)なども働いていた。


    上の絵はサンスーシ宮殿においてフリードリヒ大王がフルートの演奏を披露しているものだが、ハープシコードはC.P.E.バッハ、そしてバイオリンがFranz Bendaである。ここに納められている三つのフルート協奏曲も、こうした宮廷での演奏を前提としたものであろう。
    曲はは三楽章形式で古典的な形式に沿っているが、弦楽器の伴奏にハープシコードの音色が加わり、フルート独奏を際立たせている。それぞれの楽章に挿入されたカデンツァではフルートの技巧がフルに発揮されているようで聴きごたえがある。
    それにしても、Bendaの名前はこのCDで始めて知った。現在ではバイオリン協奏曲を含めてほとんど演奏の機会はないのではないだろうか。演奏会プログラムでもBendaの名前を目にしたことはない。当事の評判はかなりなものであったようだが、時代に埋もれてしまった作曲家ということなのだろうか。
    Adorjan の演奏はここでも冴え渡っているのだが、Franz Danzi の演奏と若干音色に変化が認められるのは録音のせいだけだろうか。3年という間にそれほど大きな変化が(このような大演奏家において)生じるとは思いにくいのだが、こちらの演奏の方が、どことなくふくよかな広がりを感じさせるものとなっている。
    これも蛇足だがジャケットの絵は、やはりフラゴナールの代表作「ぶらんこ」の一部である。
    (2002.10.06)

    FRANZ HOFFMEISTER (1754-1812) CARL PHILIP EMMANUEL BACH (1714-1788)




    1. FRANZ HOFFMEISTER / FLUTE CONCERTO in D major
    2. C.P.E. BACH / FLUTE CONCERTO in D minor Wq.22
    3. FRANZ HOFFMEISTER / FLUTE CONCERTO in C major

    • Ingrid Dingfelder(fl)
    • English Chamber Orechestra,Sir Charles Mackerras,Laurence Leonard
    • Licensed from ASV,UK,Recording:1979

    C.P.E.バッハは大バッハの次男であり、マンハイム楽派の音楽家たちとは離れ、フリードリヒ大王のもとに30年ほど仕え、その後、テレマンの後任としてハンブルグの5つの教会で音楽監督を務めている。当事はバッハといえばエマニュエルを指すほどであったという。
    一方、ホフマイスターは作曲家や音楽家としてばかりではなく、出版者やモーツアルトの後援者のような立場にもあったらしい。彼のためにいくつかの作品も書いているとのこと。
    どちらの音楽も、フルートの技巧と管弦楽の華やかにして自由で瑞々しい音楽を聴かせてくれている。ホフマイスターの音楽は、確かにモーツアルト的な響きに満ちているとも言えようか。ここでもフルート独奏によるカデンツァは聴き所で、まったくもって奏者の音楽性にはつくづくと感心してしまう。ただ、短調だろうと長調だろうと、深刻な感情表現をしているロマン派の音楽ではなく、やはり耳障りのよい宮廷音楽である、なんだか続けて聴いていると、どんなに名人芸であったとしても飽きてくることは否めない。(第一楽章でのフルートの登場の仕方、カデンツァの入り方・・・など、お決まりの安心感はあるが)
    余談だが、当時は王や皇帝が作曲家であるということは珍しいことではなかった。フリードリヒ大王はフルート(トラベルソ)も吹き、作曲もしていた。彼のもとに優秀な音楽家が集まり、多くの名品を残しはしたが、音楽の隆盛と創造は長くは続かなかったようだ。音楽家達がマンネリに陥ったり、フリードリヒ大王がフルートに執心すぎたことにも原因があるのだろう。何とフルートの師であったクヴァンツは、王のために296ものフルート曲を作曲したというのだから!
    この盤のフルート奏者はIngrid Dingfelder という方であるが、私はこの名前ははじめて聞く。音色は軽やかであるものの、Adorjanの芯のある音を聴いた後では、少し食い足りない印象を受けてしまう。まあ、録音のせいなのかもしれないかが・・・
    ちなみにジャケットの絵は、これもフラゴナールの「めかくし」。当時目隠しは「恋は盲目」の意味であったとか・・・。
    (2002.10.07)

    JOHANN JOACHIM QUANTZ (1697-1773) CARL STAMITZ (1745-1801) JOSEPH STALDER (1725-1765)




    1. JOHANN JOACHIM QUANTZ / FLUTE CONCERTO in G major
    2. CARL STAMITZ / FLUTE CONCERTO in G major
    3. JOSEPH STALDER / FLUTE CONCERTO in B flat major

    • Peter-Lukas Graf(fl)
    • Zurcher Kammerorchester, Edmond de Stoutz,Wurttenbergisches Kammerorchester,Jorg Faerber
    • Licenced from Claves Records SA, Switzerlandx(1978)

    このCDにはクヴァンツとカール・シュターミッツのフルートコンチェルトが納められている。カール・シュターミッツはマンハイム生まれの作曲家で、バイオリン奏者でもありビオラ奏者でもあった。若い頃からヨーロッパ各地で演奏活動をし、1794年から死ぬまではイエナで首席バイオリン奏者として勤めた。
    クヴァンツは以前も述べたようにフリードリヒ大王のもとで作曲およびフルート演奏、そして大王のフルートの師として活躍していた。フルートに取り組む以前はヴァイオリン、オーボエ、トランペット奏者としても傑出していたらしい。クヴァンツはフリードリヒ大王のもとで長年働らき大王のために多くのフルート曲を書きはしたが「最も従順なしもべ」では決してなかったと伝えられている。
    また、クヴァンツが「フルート奏法試論」(1752年)を大王に捧げる形で書上げた1年後に、同じく大王のもとで働いていたC.P.E.バッハも「正しいクラヴィーア奏法試論」を出版している。その両者に共通する規則を比べてみると、まるで内容が異なっているらしい。私は音楽を専門としていないので、その違いに言及することはできないが興味深い話ではある。
    さて、前置きが長くなったが音楽の方は非常に良い、曲も演奏も秀逸である。特にグラーフの笛は素晴らしい、低音から高音まで張りと力感に満ちており、フルートはかくあるべしという印象。音楽がかっちりとした骨格で浮き上がってくる。3つの曲の中ではクヴァンツも良いが、シュターミッツの曲が良いか。覚えやすい曲調は明るさと瑞々しさに満ちており、喜びに満ちた曲である。
    ジャケットはイギリスロココを代表するゲーンズボロの「画家とその妻」である。収録曲とのつながりは全く見出せない。
    (2002.10.11)

    ITALIAN FLUTE CONCERTOS GIOVANNI BATTISTA PERGOLESI (1710-1736) NICCOLO PICCINNI (1728-1800) LUIGI BOCCHERINI (1743-1805) SAVERIO MERCADANTE (1795-1870)




    1. GIOVANNI BATTISTA PERGOLESI / FLUTE CONCERTO
    2. NICCOLO PICCINNI / FLUTE CONCERTO
    3. LUIGI BOCCHERINI / FLUTE CONCERTO
    4. SAVERIO MERCADANTE / FLUTE CONCERTO
    • Peter-Lukas Graf(fl)
    • Orchestra da Camera di Padova e del Veneto, Bruno Giuranna
    • Licensed from Claves Records SA, Switzerland (1991)

    最後のアルバムは同時代のイタリアの作曲家のフルートコンチェルトである。
    PERGOLESIはオペラ(喜劇)や悲しみの聖母の歌で名前が知られている。ボーカルのみならず室内楽やオーケストラでも新しいスタイルの音楽を生み、現代のオーケストラのスタイルに影響を与えている。PICCINIはマンハイムから離れ、パリで長く活動していたが、グリュックのオペラ形式に対する敵対者として知られていたようだ。BOCCHERINIはDANZIと同様に最初はチェリストとして知られていた。彼はマンハイムでの滞在にて多くの影響を受け音楽的に飛躍した。後年はスペインのリズムにも影響されている。最後のMERCADANTEはロッシーニやヴェルディにつながる代表的な作曲家である。
    さて、曲の方だがイタリア的というのがどういう音楽なのかは説明できないが、明るく耳障りの良い音楽が、グラーフの笛によって聴くものを浮き立たせ、魅了してくれる。ただ、このテの音楽を5枚も聴いてきたので、やっぱり飽きてしまうこと否めない(^^;; 音楽の専門の方なら、5枚のCDを通して音楽様式の違いなどを聴き取ることができるのだろうが、私にはさっぱり、そういうことも分かりませんでした。
    さて、最後のジャケット絵もゲーンズボロの「アンドリュース夫妻」。なぜイタリアの作曲家にイギリスのロココを代表する作家のジャケなのかは理解に苦しむ。
    (2002.10.12)

    ◇
    18世紀中期の作曲家のフルートコンチェルトを聴いてきたが、改めてこの時代には多くの作品が埋もれていることを認識させてくれた。コンサートプログラムや発売されるCDは、バッハ、モーツアルトなどの作品が多いが、ここに紹介された作曲家などはもっと取り上げられても良いのではないかと思うのだった。

    「バッハやモーツアルトと比べると音楽の深さが違う」という評はよく耳にするのだが、あまり難しいことを考えなくてもよい場面もあるのではないかと思わないでもない。


    2002年9月27日金曜日

    《マイスタージンガー》のべックメッサーについて

    《マイスタージンガー》に登場するベックメッサーは、ユダヤ人をカリカチュアライズしたもの(《指輪》のアルベリヒ,ミーメ,ハーゲン,クリングゾール,クンドリーもそうらしい)、と指摘しているのは「ワーグナーの世紀」を書いた三富明氏ばかりではない。もっとも、ワーグナーは匿名の著書「音楽におけるユダヤ性」において、ユダヤ人批判をあからさまに行ってはいるが、作品において人物をユダヤ人と特定したり、ユダヤ人批判を行っているわけではない。ベックメッサーがユダヤ人であると指摘されなければ、聴衆は気づくことはないだろう。エドワード・W・サイード(Edward W. Said)は、「ワーグナー唯一の喜劇作品『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の中で愚弄されるベックメッサーと、当時ユダヤ人について言われていたカリカチュアとの類似が明らかであるとしても、ベックメッサーという劇中人物はドイツのクリスチャンであって、ユダヤ人とはされていない。」*2と指摘している。

    ユダヤ人を徹底的に排除(抹殺)しようとしたヒトラーが、ワーグナーの音楽をこよなく愛したという事実を(特に、《マイスタージンガー》はことさらお気に入りだったようだ。そもそもニュルンベルクそのものがヒトラーと結びついている)作品と合わせて考えると複雑な気持になるものだ。イスラエルにおいて長らくワーグナーの作品が上演禁止であったこと、2001年7月7日にイスラエル・フェスティバルに客演していたバレンボイム率いるベルリン・シュターツカペレが《トリスタンとイゾルデ》の一部ををアンコールに演奏し話題(スキャンダル)になったことも記憶に新しい。

    我々のように島国に住む者にとっては、ユダヤ人差別、ユダヤ人蔑視という感情を、知識として理解はしても実感としては納得できないものだ。「ベニスの商人」のシャイロックはあまりにも有名だが、西欧人がユダヤ人を蔑視する理由のひとつに、実は彼らの優秀さへの裏返しがあるのではないかと思うこともある。

    以上のことを踏まえた上でだが、作品鑑賞上ベックメッサーにユダヤ人の隠喩を嗅ぎ取るか必要があるかどうかについては論が分かれるように思う。実際、ベックメッサーは、最初からかわいそうな役どころとして登場している。第1幕においても、いつも苛立ち、怒っている。ヴァルターの才能に嫉妬し、古い因習を振りかざして新しい芸術を理解しない野暮な男として描かれている。第2、3幕となると更に悲惨な書かれ方をするのだが・・・。ワーグナーと敵対する音楽評論家のカリカチュアライズであったとしても、辛辣すぎるという気がしないでもない。

    ワーグナーの意地の悪さというのはかなり徹底しており、一見善良そうなザックスについても、彼の陰謀と策略の陰湿さが気にかかるようになる。これらを「喜劇」として笑えるかどうかは、ドイツ的心情の有無により決まるようにも思える。

    ドイツ的心情とはニーチェの言葉を引用するとよく雰囲気が分かると思う。

    「人がよくて、悪賢い」この二つの性格が併存することは、他の全ての民族では矛盾であるが、ドイツにおいてはしばしば正当化されてしまう。(中略)ドイツ人は「率直さ」「愚直さ」を愛する。率直であり、愚直であることはなんと快いことか。ドイツ的実直さの人なつっこさ、親切、あけっぴろげなところ、これは今日ではひょっとすると、ドイツ人が心得ている最も危険で最も幸福な仮装であるかも知れない。この仮装はドイツ的メフィストフェレスの技巧であって、これによって彼らは「もっと成功する」こともできるのだ。
    ニーチェ 『善悪の彼岸』


    このような視座から《マイスタージンガー》を聴くならば、単純なる明朗な喜劇とばかりには響いてはこないものである。予備知識や薀蓄の弊害と言えようか。

    (*2)「バレンボイムとワーグナーをめぐる論争に寄せて」エドワード・W・サイード

    2002年9月26日木曜日

    北陸の名刹にて


    名刹の

    古い山門をくぐると

    いま生きていた世界と

    レイヤが変わる


    CLASSICA JAPAN でのワーグナー人気投票

    CLASSICA JAPAN(衛星TVでない)のHP企画、QuickVoteにおいて「ワーグナーの舞台作品、一番好んで聴くのはどれ? 正直に答えれ。」という人気投票が行なわれている。

    現時点で有効投票総数1627、ニーベルングの指環、さまよえるオランダ人、一切聴かない、トリスタンとイゾルデ、ニュルンベルクのマイスタージンガー、タンホイザー、ローエングリン、パルジファルという順になっている。《指輪》が20%程度の得票率で第一位になっているのだが、ワグネリアン恐るべしという印象を受ける。あんなに長い音楽を聴いていて、いったいぜんたいワグネリアンというのは飽きる事がないのだろうか・・・(^^;;;

    まだ未聴なのだが《パルジファル》に人気ないというのも分かる。悟ってしまったワーグナーになど、興味は沸かないものだ。


    2002年9月16日月曜日

    N響アワー「ワーグナー ふたつの顔」

    N響アワーでワーグナーについて取り上げていた。題して「ワーグナーふたつの顔」。ワーグナーの持つ二面性について、作曲家の池辺晋一郎氏が解説するという趣向のもの。 

    最初は「リエンチ」序曲と「トリスタンとイゾルデ」前奏曲を続けて聴かせ、単純さと複雑さ、俗っぽさと聖なるものの対比を説明していた。次にはトリスタン和音をピアノで響かせ、これを「20世紀音楽幕開けの和音」であると紹介しながら、それと対極にあるような「ニュルンベルグのマイスタージンガー」序曲での単純極まりない和音を用いた体位法を紹介、古典的な音楽をひきずっている面も持ち合わせていると説明する。曲の長さにおいても、「指輪」のような4夜にも及ぶ曲もある一方で「ジークフリート牧歌」のように20分程度の曲があることも示し、その音楽の極端なことを説いていた。 

    ワーグナー音楽に少しは親しんできた身においては、なるほど最もだと思う反面、そのような二律的な要素だけでは、ワーグナーという巨人にして怪物を表現することなど、全く適わないのだと思うのであった。ワーグナーは、このような人物が存在したことそのものが(モーツアルトと同様に)奇跡であるとさえ思われるのだ。 

    最近入手した、三富明による「ワーグナーの世紀」(中央大学出版部)*1の序章に『ある時代の精神がひとりの人物の中に集約的に現れることがある。(中略)十九世紀のヨーロッパの時代精神をよく代表する芸術家もしくは思想家は誰だろう(中略)、ドイツ語圏に限るならば、私はワーグナーの名をまっ先にあげる』と書かれている。とにかく近現代ヨーロッパ思想史を専門とする大学の先生をしてそう思わせるだけの広がりと大きさがあるのだろう。 

    ワーグナーの音楽というものは本能の深いところで反応する。「マイスタージンガー」や「ジークフリートの葬送行進曲」などの有名な曲は、私の場合、中学の吹奏楽時代に知った曲だ。「マイスタージンガー」はひょっとしたら、練習くらいしたかもしれない。久しぶりにこれらの曲がTVから流れてくるのを聴いて、私はフラッシュバックを起こすと共に、音楽のもつ本能的な快楽にも似た感情を覚え慄然とし言葉を失ってしまう。「マイスタージンガー」の単純な盛り上がりも捨てがたいが、「ジークフリートの葬送行進曲」の不安定な音階と、弾けるようなシンバルからの響きなど、まさに血が騒ぐという感興を覚える。 

    それに反して、「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲だけというのは、いかにも間が抜けている。緊張感や音楽としての連続性が断ち切られているようで、感興を覚えるよりも「つまらねー音楽」と思う気持ちが先に立ってしまう。ブルックナーではないが、まさにどこで終わっても聴いているものには分からない金太郎飴的な音楽であるなあと思うのだった。
     
    (*1)「ワーグナーの世紀」オペラをとおして知る19世紀の時代思潮 ワーグナーの周辺の時代思想やら背景を知ることができるかもしれないと、インターネットで見つけて注文した本なのだが、たとえば《トリスタン》の解説は題名とは裏腹に、主観的にして下世話なワーグナー解説本という趣だ。三富氏が中央大学でワーグナーについての講義をしている(していた?)らしく、その講義を母体としてこの本が成立している。学生達のワーグナーに関する感想も載せられており、興味深いのだが、少し固めの内容を期待していた私には肩透かしな内容であったことは否めない。

    2002年9月3日火曜日

    楽劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」全3幕 ショルティ指揮/シカゴ交響楽団

    マイスタージンガーを聴く (2002.09.22)

    《トリスタンとイゾルデ》を聴くのに、3ヶ月という(自分でも考えてもみなかったような)長い時間を費やしてしまった。ワーグナーにはほとほと疲れきっているのだが、気が付くとつい次のCDに手が伸びている。こいつは中毒か?と思うのだが、《トリスタン》の後に、ワーグナーの超大作の《指輪》を聴くことは、さすがに躊躇する。

    そこで、ちょっとした気晴らし(!)に「喜劇」である《マイスタージンガー》でも聴くことにしようと決めた。《タンホイザー》や《トリスタン》は、神聖化された悲劇であった。《マイスタージンガー》において、ワーグナーがどのような「喜劇」を演出したのかを聴くことは、(気が重いことも否定できないが)興味深いものがある。

    ただし、《トリスタン》のようなマジメな聴き方は今回はやめようと思っている。あくまでも、さらりと、1回程度聞き流すだけにしようとかなと・・・・


     ■ 登場人物と配役
    ジョゼ・ヴァン・ダム(ザックス)
    ベン・ヘップナー(ワルター)
    カリタ・マッティラ(エヴァ)
    イリス・フェアミリオン(マグダレーネ)
    アラン・オーピー(ベックメッサー)
    ヘルベルト・リッペルト(ダヴィッド)
    ルネ・パーペ(ポーグナー)
    ロベルト・ザッカ(フォーゲルゲザング)
    ゲイリー・マーティン(ナハティガル)
    アルベルト・ドーメン(コートナー)
    ジョン・ハートン・マーレー(ツォルン)
    リチャード・バイアン(アイスリンガー)
    スティーヴン・サープ(モーザー)
    ケヴィン・デス(オルテル )
    ステファン・モーシェク(シュワルツ)
    ケリー・アンダーソン(フォルツ)
    ケリー・アンダーソン(夜警)
    サー・ゲオルグ・ショルティ指揮
    シカゴ交響楽団&合唱団(合唱指揮:デュエイン・ヴォルフ)
    1995年9月20日~27日
    マイケル・ウールコックのプロデュース、ジェームズ・ロック、ジョン・ペロウ、ニール・ハッチンソンのエンジニアリングによるシカゴ、オーケストラ・ホールにおける演奏会形式上演のライヴ録音(デジタル)
    255分収録

    ■ HMVの評価
    前回の録音から20年ぶりとなる演奏で、ショルティのワーグナーでは初のライヴ録音となります。ライヴとはいっても演奏会形式なので、声が聴こえなくなったり、足音がどかどか入ったりというようなことは無いので、サウンド面ではまったく問題ありません。
    それよりもここではむしろ実演ならではの高揚感が嬉しいところで、特に終幕の大円団は、人間賛歌ともいうべき肯定精神の発露がダイナミックに表現されて、改めてショルティのすごさが実感されるところ。もちろん、それも歌手陣、オケ、コーラスのバランスよく高水準な技術力が背景にあるからこそ可能だったことですが。
    ■ あらすじ

    《マイスタージンガー》は《トリスタンとイゾルデ》と《ニーベルングの指輪》の間の時期に作曲されている3幕の喜劇である。あらすじは、《タンホイザー》でも描かれた歌合戦である。登場人物は沢山いるのだが、要は騎士のヴァルター(Walther)が歌合戦でエヴァ(Eva)を勝ち取るという物語である。エヴァは金細工師のポーグナー親方(Pogner)の娘であり、聖ヨハネ祭での歌合戦において、その勝者に自分の財産とともに娘を差し出すという条件を付けたわけだ。

    ヴァルターとエヴァは、会ったその時から既に互いに惹かれあっており(いつも恋は一目惚れ)、ヴァルターは是非とも歌合戦の勝者にならなくてはならないわけだ(というより、その歌合戦に参加する資格を得るところから始めなくてはならないのだが)。 かくして、ベックメッサー(Beckmesser)というヴァルターの恋敵や、実在の人物である靴屋の親方(マイスター)にして、新しい芸術の潮流を支持するハンス・ザックス(Hans Sachs)なども登場し、またしても4時間にも及ぶ長大なる劇が繰り広げられるというわけである、やれやれ・・・(^^;;; こうして書くと、ヴァルターとエヴァの物語のようだが、実際はハンス・ザックスが主人公の楽劇という様相であるらしいのだが、さてさて・・・

    ■ 第一幕への前奏曲を聴く

    《マイスタージンガー》の前奏曲はあまりにも有名だ。分かりやすいメロディ、堂々とした朗々たる旋律そしてハ長調という曲調の明るさ。金管群が活躍する曲であるだけに吹奏楽編曲版で学生時代演奏した経験のある人も多いだろう。

    しかし、改めてワーグナーの楽劇の前奏曲として聴いてみると、驚くほど多くのライトモチーフがちりばめられていることに気付かされる。「作曲家別名曲解説ライブラリー ワーグナー」(音楽の友の社)によれば、以下のようなライトモチーフが前奏曲に現れる。

    「マイスタージンガーの動機」 冒頭の金管群による堂々とした動機、一番印象的なヤツ
    「愛の場景の動機」 フルートではじまる柔和な旋律でワルターとエヴァの愛を示す
    「行進の動機」 マイスターたちの行進の動機、「ダ・ダダ・ダーン、ダーン、ダーン、ダーン、ダーン、ダーン、ダーン」てヤツである。(ああ、何度口真似して歌ったことか・・・>楽器で歌えよ)
    「芸術の動機」 最初は弦であらわれる、後には金管などでも高らかにうたわれるアレ
    「仕事の動機」 こいつは歌うのは難しいな(笑)
    「愛の動機」 ヴァイオリンで優美に歌われる、これも本編で有効に使われる
    「情熱の動機」 8分音符と三連譜による焦燥感のある不安定な動機、「愛の動機」とペア。命名からしてトリスタン的な動機だなあ
    「陽気の動機」 低音弦により奏せられる、次第に高揚してゆくアレ。
    とまあ、こんな具合なのだ。それが対位法的に入り乱れ、大きなクライマックスを形作って第1幕になだれ込むわけだ。前奏曲だけの演奏の場合は、終結音にて曲を終わらせるが、実際は第1幕第1場の「洗礼の合唱」がかぶるような形で歌われる、そこがよいのだよなあ。

    しかし、《トリスタン》のような曖昧模糊としたウネウネ音楽を描いた作曲者が、こうも明朗な(単純ではないと思う)音楽を描きえたとは。「《トリスタン》のパリ版の上演も失敗だし(1861年頃)、ここは一つ民衆に分かりやすい、明るく健康的な曲を書いてやるっ」とワーグナーが考えたとしても不思議ではない。

    ■ 第1幕を聴く

    各場ごとにリブレットを読み解き作品について理解してゆくような《トリスタン》での聴き方には疲れきったので、気ままに聴いてゆくことにしたい。従ってストーリーの説明や各場面の説明も、今回はやらない。興味があれば各自CDなり書籍であたってもらいたい。

    ■ 第1場

    さて、第一場の聴き所はどこだろう。私はまず、前奏曲が終わった後の教会のコーラスの場面が最高に好きである。信徒たちが「洗礼の合唱」を歌うそのフレーズの合間に、前奏曲で聴かれた甘くせつない「愛の動機」と「情熱の動機」が挿入されるのだ。ここはヴァルターとエーヴァが目と目で互いを呼び合っている場面である。そのロマンチックさと美しさときたら、通俗的といってしまえばそれまでなのだが音楽的には見事としか言いようがないと思う。信徒たちの合唱は次第に高まり最後はパイプオルガンの強奏により締めくくられるが、それが二人の感情の高まりと次への展開の準備となっており、この数分間だけで陶然としてしまう。

    第一場の最後に歌われるヴァルターとエーヴァの二重唱も(二重唱という枠組みでは一般的な形式なのだろうが)なかなか聴かせどころだ。甘くせかすような「仕事の動機」(本当にこういう名前のライトモチーフなのか? もっと重要な意味があるように思えるのだが)に導かれ「愛の動機」に乗って高らかに歌う、う~ん、

    Walter
    Fur euch Gut und Blut, (For you my possessions and blood)
    fur euch (For you)
    Dichters heil'ger Mut ! (the poet's sacred resolve)
    Eva
    Mein Herz, sel'ger Glut, (My heart, blessed glow)
    fur euch (for you)
    liebeshei'ge Hut ! (love's holy protection !)

    ■ 第2場

    第二場は、ダーヴィットの一人舞台である。ヴァルターにマイスターになるための(うんざりするくらい多くの規則に縛られた)歌の法則を延々と教える場面だ。しかし、音楽はワーグナーの「喜劇」だけあり、コミカルにテンポよく進む。ダーヴィッドがこれでもかとばかりに、細かな規則を列挙して歌う場面は、どことなくブロードウェイのミュージカル風でさえある。

    たとえば「Mein Herr ! Der SInger Meisterchlag~」で始まるところなど、伴奏の音楽さえ、あたかも「メリーポピンズ」を聴いているようではないか。または「歌の法則の動機」に乗って歌われる「Der Meister Ton und Weisen~」で始まる部分もよい。劇中のヴァルターはうんざりしているが、聴衆は楽しめる部分だ。《トリスタン》と違って「ああ、オペラを聴いている(^^)」という気にさせてくれる、ワーグナーの意図や考えがどうであってもだ。

    ■ 第3場

    第三場は長さの点でも、また劇中の主要人物が登場する点でも重要である。劇としては「マイスターケザングの試験の席」において、ヴァルターが試されるという場面である。

    ここでは、聖ヨハネ祭の歌合戦に娘と財産を提供すると言い出した、金細工師のポーグナー、ヴァルターの支持者となる靴屋のザックス、ヴァルターを恋敵と見るベックメッサ-が主要人物である。テキストと背景に立ち入ると、再び迷宮から出ることができなくなるのだが、ここでザックスがワーグナーの分身であること、最後までとことん悪者扱いされるヴェックメッサーがウィーンの有力な音楽評論家エドゥアルト・ハンスリッ(ワーグナーと敵対していた)をモデルとしており、かつユダヤ人という設定であることくらいは頭に入れておいて良いかもしれない。ワーグナーは《マイスタージンガー》を「喜劇」として仕立てたが、そこは偏屈にして自身過剰なワーグナーである、ひとくせも、ふたくせもある伏線を張っているようなのだ。さて、そういうことはワーグナー研究者や純正ワグネリアンに任せるとして、曲を聴いてみよう。

    まずは「Das schone Fest, Johannistag, (聖ヨハネ祭りの素晴らしい祭典は)」ではじまる「ポーグナーの演説」。財力も地位もあるマイスターだけあって、立派なバスを響かせてくれる。堂々とした歌なのだが、伴奏は随分と複雑なことをしているように聴こえる。バスの単純さとは全然異なるような響きが随所に聴かれ、はっとさせられる。

    次はヴァルターの「Am stillen Herd in Winterszeit (冬のさなかの静かな炉辺で)」で始まる有名(らしい)な歌である。ここではヴァルターは自分の先祖が12世紀の貴族で有名なミンネゼンガ-のヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデであり、四季折々の自然を歌うのだと語る場面だ。ベックメッサ-にたびたび野次とともに中断されるものの、非常に美しい歌だ。歌の前にホルンなどで導かれるフレーズがなんとも言えずによい。実に夢見るような、そして暖かい日差しの春の訪れのようだ。歌のフレーズも自由奔放にしてのびのびとした旋律が用いられていて開放的だ。

    次に面白いと思うのは、パン屋のコートナー(テノール)が、ヴァルターに歌の教則「タブラトゥ-ル」を教える場面だ。がんじがらめの規則に縛られた歌からの解放という劇のテーマに、自らの芸術の潮流をだぶらせたワーグナーである、コートナーの歌そのものが揶揄に富んだ滑稽な響きに聴こえる。

    もう一つは、やはりヴァルターの試験となる歌で「"Fanget an !" ("始めよと")」に始まる歌だ。ここも、一聴すると、古典的な形式を取っているように思われるのだが、不思議なことに、やはりというべきなのだろうか、《マイスタージンガー》は《トリスタン》以降の音楽なのである。そして、単純な旋律の背景にも、なにかトリスタン的な響きが聴こえないでもない。不安とか死を連想させるという種類の旋律ではないのだが、何か本能の深いところに染み込むような、そういう音楽が聴こえるところが実にワーグナー的であると思う。

    しかしこのヴァルターの歌も途中でベックメッサ-にさえぎられてしまい、実は最後まで聴けない。第三場のラストは、ザックスがヴァルターを弁護し歌を最後まで聴こうではないか、と提案したあとから勝手に歌うヴァルター、邪魔をするベックメッサ-、てんでに騒ぎまくる親方達、独り言をつぶやくポーグナーが入り乱れ、リブレットを追っていても何を歌っているのか全く分からない乱痴気騒ぎにだ。遠くから「マイスタージンガーの動機」まで聴こえてきて混乱のうちに幕となる。

    考えてみれば歌手が舞台の上に勢ぞろいで、思い思いに歌いまくってくれているのだ、大きな聴かせどころであり、第一幕の山場とも言えるような演出になるのかもしれない。なんだか分からないが、大きな満足のもと「ああ、第一幕が終わった」という感慨も得ることができるのであった。こういう満足は《トリスタン》には一度もなかったものなあ(笑)

    それにしてもベックメッサ-がヴァルターの歌の非をあげつらう部分の音楽も、何とまあカリカチュアライズされていることだろう。ワーグナーの皮肉と相当意地の悪いところが底見えるようだ。

    ■ 第2幕を聴く

    第二幕は全部で7場に分かれている。舞台はザックスとポーグナー家の前で展開される。

    ■ 第1場

    前奏曲に導かれ、三拍子の愛らしくも祝祭的な音楽が奏でられる。そして使途たちが「Johannistag ! Johannistag ! Blumen und Bandaer, so viel man mag ! (ヨハネ祭、ヨハネ祭 花も、リボンも好きなだけたくさん!)」という歌が聴こえる。

    この使徒たちの歌は、メロディーも印象的で華やかな雰囲気なのだが、リブレットを読むと、ダヴィッドやザックスをからかう皮肉に満ちている。ダーヴィッドが恋人のマグダネーレからご馳走をもらいそびれてしまったことや、ザックスが実はエーヴァに恋心があることを揶揄している。

    Der Alte freit ( The old man woos )
    die junge Magd ( the young maiden, )
    der Burshce die alte Jumbfe ! ( the apprentice the old maid ! )
    Junchhe ! Juchhei ! Johannistag ! ( Hurrah ! Jurrah ! St John's Day ! )
    表向きの愉快さや華やかさに隠された、ちょっとした毒というものがここにも示されている。これもまたドイツ的ということなんだろうか。

    ■ 第2場

    ザックスの家の前で、ポーグナーと娘のエーヴァが明日の祭りのことを話したり、ヴァルターが予備審査で失敗してしまったことなどを知る。

    そもそもポーグナーが自分の財産と娘を、祭での歌の勝者に与えようと考えたのは、芸術と美を愛するが故で、自分達市民が商取引と金にしか興味がないと非難されていることをかわすためであった(第1幕第3場)。それでも、ポーグナーは迷っている。まあ、そりゃそうだよなあ・・・

    ■ 第3場

    ここは、ザックスの「にわとこのモノローグ」という部分だ。歌は最初、ヴェックメッサーの靴を直す仕事をののしり(「靴屋の動機」が聴こえる)、その後、審査でのヴァルターの歌を思い出し、彼の新しい歌に戸惑いながらも、新鮮にして非常に感銘を受けたことを吐露している。

    ich fuhl's und kann's nicht verstehn, ( I feel it and cannot understand it )
    kannn's nicht behalten, ( I cannot hold on to it, )
    doch auch nicht vergessen; ( nor yet foeget it ; )
    und faβ ich es ganz, kann ich's nicht messen ! ( and if I grasp it wholly, I cannot measure it ! )
    Kein' Regel wollte de passen, ( No rule seemed to fit it, )
    und war doch kein Fehler drin. ( and yet there was no fault in it )
    今までの規則からは外れた歌だが、自らの気持ちを歌ったからこそ見事な出来栄えになったと褒め称えている。これは、ある意味でドイツロマン主義そのものを示しているようにも思える。ザックスがワーグナーの分身だとするならば、自らの芸術観を託したと考えることもできるかもしれない。

    ヴァルターの歌が鳥たちが歌うような歌であった、といいながらも、

    Wer ihn hort ( anyone who heard a bird singing )
    und wahnbetort ( and, carried away by madness, )
    sange dem Vogel nach, ( imitated its song, )
    dem bracht es Spott und Schmach: ( would earn derision and disgrace !)
    「あの歌を聴いてやたらな思いに取り付かれ、鳥たちの真似をしようものなら、罵りを受け恥をかくだろう」とも歌わせている。これもある意味、ワーグナーの皮肉なのだろうか。
    そういう歌であるので、音楽は非常にワーグナー的である。ザックスの歌の背後のオーケストラからはさまざまな音の断片が、狂おしくも響いている。「情熱の動機」がここでも聴こえてくるが、その効果的なことと言ったら、私の文章では言語化が不可能である。

    ■ 第4場

    この場面はエヴァとザックスの会話である。昼間の審査の様子をザックスに聞きにやってきたのだが、ここではザックスとエヴァの鞘当にも似た会話が、甘美な旋律に乗って奏でられている。タブレットからは、ザックスが昔エヴァに恋心を抱いていたことが分かる。しかしザックスは、自分の年齢を考え、また騎士の出現もあってか身を引いている。エヴァはそういうザックスの心を知りながらも、もはや騎士のヴァルターにご執心で審査の様子を聞こうとするものの、ザックスははぐらかすかのような答え方だ。

    第4場は、ほかの場面から比べると重要度は低い部分かもしれないが、トリスタン以降のワーグナー的ウネウネ旋律を聴く事ができる部分で、私は非常に気に入っている。特段聴きどころとなるような盛り上がりはないのだが、というよりも、この場面全てが聴きどころと言っていいかもしれない。

    マグダネーレが迎えに来て、ザックスが何とか良い知恵を搾り出そうと「Das dacht' ich wohl. Nun hieβt's: schaff Rat! ( I thought so. Now we must find a way ! )」と歌うところにかけて、これ以降、さんざんと聴かされることになる「靴屋の動機」と「ヴァルターの動機」が聴こえてくる。ここも非常にスリリングで面白い部分だ。

    さてさてザックスはどのような知恵を働かせることとなるのか。

    ■ 第5~7場

    さてさて、第ニ幕にばかり拘泥していてもはじまらない。マイスタージンガーは何と言っても、第三幕が長いのだ。実のところ、第ニ幕も各場面は独立したものではなく音楽も劇も連続している。細かいとろろははしょって、さっさと終わらせてしまおう。

    第5場以降は、ヴァルターとエヴァがお互いの愛を確かめ、駆け落ちを企てるのだが、ザックスに邪魔をされてしまう。ヴェックメッサーは明日の審査に向けて、エヴァの気持を自分に傾けるため、彼女の家の下で求愛の歌をうたおうとやってくる(夜更けに迷惑なヤツだ・・・)。しかし窓辺に写る女性の影は、実はエヴァではなくエヴァの服を着せられたマグダネーレだ。(エヴァはヴァルターと駆け落ちしようとしているんだから)

    一方ザックスは、明日履く予定のヴェックメッサーの靴を治している。ヴァルターがエヴァに向って歌うのを、奇妙な歌で邪魔をしたり、あるいは昼間の騎士への審査の仕返しとばかりにヴェックメッサーの歌をいちいち酷評する。

    そこへマグダネーレの恋人ダヴィットがやってきて、愛するマグダネーレを誰かが誘惑していると勘違いし、ヴェックメッサーと喧嘩を始めてしまう。すると、この騒ぎを今まで耳をそばだてて聞いていた住人たちが、ここぞとばかりに飛び出してきて、街中で大喧嘩を始めてしまう・・・という筋書きだ。

    下の絵は、アンジェロ・クワリーオによる初演時の舞台画(1868)である。(「オペラ対訳ライブラリー」音楽之友社~表紙より)




    手前でランプの明かりのもと靴を治しているのがザックス、後姿でハープを持っているのがヴェックメッサー、右手の建物2階の窓辺にたたずむのが、エヴァに扮したマグダネーレ、木陰でトリスタンとイゾルデしているのがヴァルターとエヴァである。

    「マイスタージンガー」というのは、その成立過程やテーマからして、実はヴァルターとエヴァの恋物語では全然なく、新しい芸術の潮流を認めている芸術家職人ザックスの物語である。ここでもザックスは大活躍である。ヴァルターとエヴァの恋物語は刺身のツマのようなものというと言いすぎかもしれないが。

    音楽的に面白いのは、やはりヴェックメッサーが少しでも明日の歌合戦を有利に持ち運びたいと、エヴァの住む家の前で歌を歌う場面だ。それを、とことんヴェックメッサーが邪魔をする。そのしつこさと、意地の悪さときたら! ヴェックメッサーが歌うたびに、靴屋の動機とともに、意味不明の大声をがなりたてる。(Jerum ! Jerum ! Hallahallohe ! O ho ! Tralalei ! Tralalei ! O he ! ) ~ このフレーズは一たん聴いたら、当分耳から離れないというタチの悪さだ(笑)

    あるいは、自ら持ってきたハープを弾きながらヴェックメッサーが歌い始めると、靴を直す槌の音で歌の審査を始める。減点部分があると槌をならすのだが、それが歌のリズムをとるかのごとくひっきりなしに鳴り続けるおかしさ。ヴェックメッサーもいいかげんにしてくれと怒るが、まったく聞く耳もたずである。(第三幕では、靴底が薄すぎると文句をつけるヴェックメッサーに、ヴァルターは採点のために靴底を叩き過ぎた=ひどい歌だったと、さらに手厳しいのだ)

    ここで歌われるヴェックメッサーの歌も奇妙な節回しである。第1幕で審査員たちが歌ったような、最後を大きく震わせるような歌い方で、実にイヤラシイ響きだ。ここでも、ワーグナーの皮肉たっぷりな演出が感じられるような気がする。前にも書いたように、ヴェックメッサーはワーグナーと敵対していた批評家(ハンスリック)をモデルにしているのだから。とどのつまり、ザックスの意地が悪いのではなく、ワーグナー自身がかなり性格がワルイのである。

    ここで、ハンスリック(Hanslick)のことを少し書いておこう。ワーグナーはマイスタージンガーを彼の音楽に対する批判へのリベンジとして意図したようである。ワーグナーは当初、ヴェックメッサー役の名前を「Hans Lich」と名づけたほどである。マイスタージンガーが遂に上演されたとき、ハンスリックはまたしても、辛らつな批評を書いたのだが、ワーグナーは次のように言ったという。「今日、エドワード・ハンスリックは彼の批評や文章によってではなく、無粋で学者ぶったベックメッサー ( as the inspiration for the boorish and pedantic Beckmesser ) として記憶に留められるだろう」 いやはや・・・第二幕でのヴェックメッサーなど、第三幕で遭遇する悲(喜)劇に比べれば良い方だとさえ思うが・・・



    さて、少し離れてしまったが、上の絵もザックスとヴェックメッサーの絵である。最初の絵と比べてほとんど舞台設定が同じで、同一人物が描いたのではないかとさえ思ってしまう。16世紀ドイツの都市と市民風景というものがかくのごときであったと思わせるもので興味深い。

    第2幕の最後の第7場は、夜中の大乱闘である。ひょんなことから生じた喧嘩沙汰であるが、日ごろの不満をここぞとばかりに噴出させたかのようだ。リブレットだけ呼んでいると、それこそ殺人でも起きかねないかのような殺伐とした乱闘劇が繰り広げられている。



    上の絵で倒れているのはヴェックメッサー、殴りかかっているのがダーヴィッドである。実際第三幕第三場でヴェックメッサーは、あちこち痛そうにして登場し「危うく命にまでかかわるところだった、だがこうやって九死に一生を得た」と言っている。喜劇なので許されるドタバタなのだろうが、そんな酷い目に会っていても、歌合戦に出ようとするのだから、呑気というか、そういうものなのかと、昔はね。

    死人でも出そうな大乱闘なのだが、しかしながら音楽のほうはちょっと様相が違う。街じゅうの男どもがてんでに相手をみつけて殴り合い、それを止めることもできず恐れる女たちの慌てふためく様が、渾然一体となって、すさまじい緊張と独特の統一感と、ワーグナー的ハーモニーを作りながらクライマックスへと一気に駆け上って行く。その音楽的な感興と快感ときたら見事としか言いようがない。

    実際の劇においてはどのような演出をしているのだろう、この混沌劇はある意味で演出家の腕の見せ所かもしれない。

    ワーグナーは乱闘場面をかなり早い時期に着想していたらしい。実際に体験した突如として起こり、あっという間に幕引きを迎える大乱闘というものが、相当印象に残ったのだろうか。しかしながら、何故にここに暴力的な乱闘場面が登場するのかは、疑問に感じないわけでもない。マイスタージンガーはワーグナーが生身の人間や市民を描いた唯一の楽劇である。当時の生き生きとした市民生活を描写していると言われれば、それはそうなんだけど・・・・

    最後は、男どもが女たちに水をぶちかけられ、夜警が23時の刻を告げて第ニ幕は静寂を取り戻して終わる。私はこの夜警の歌を聞くと、トリスタンとイゾルデの第1幕冒頭に現れた水夫の歌声を思い出す。どちらも場面を転換する役割を果し、それがしかも現実世界から響いてくるように聞こえないという点でも、何か共通するものを感じる。

    ■ 第三幕を聴く

    2002.11.16

    ここまでに、ずいぶん時間をかけてしまったが、マイスタージンガーの聴きどころはやはり第三幕にある。簡単に筋を確認しておこう。

    歌合戦の朝になり、ヴァルターとザックスは二人で試合の歌を検討する。途中まで出来たところでヴァルターは規則に縛られることに嫌気がさし止めてしまう。ザックスは後はまかせてとヴァルターと部屋を出て行く(第2幕)。

    そこへヴェックメッサーがやってきて、先ほどのヴァルターの歌詞を盗んでしまう。それを見つけたザックスは、彼にその(不完全な)歌を進呈するから歌合戦で歌いなさいと勧める。暗にヴェックメッサーではヴァルターの歌は歌えないと踏んでいるからだ。(第3幕)

    さて、いよいよ歌合戦である。まずヴェックメッサーがヴァルターの歌詞に節を付けて歌い始める。しかし、これが歌詞も間違えたとんでもない歌で、惨めにも聴衆の失笑をかってしまう。次ぎに、その歌の真の作者であるヴァルターが正しい歌詞で朗々と感動的に歌い、マイスターをはじめニュルンベルグの市民皆に認めらる。そして見事マイスターの称号とエヴァと財産を獲得するというわけである。(第5幕)

    筋だけ書くと、ヴァルターの物語のようであるが、実際は第三幕も最初から最後まで、新しい芸術の潮流を理解するザックスの物語になっている。

    ■ 前奏曲

    第三幕への前奏曲は、チェロによるくらいテーマで始まる、「諦めの動機」だ。これはザックスがエヴァの恋心を諦めたことを示すライトモチーフである。中年の渋い役どころにふさわしい音楽になっている(か?)

    その後に続く「の動機」とは良い対象となっており、軽いジャブにて第1幕へと突入することになる。

    ■ 第1場

    ここでは、ダーヴィッドとザックスの会話で展開されるのだが、実はザックスの物思いが全体を支配している。いわゆる「迷いのモノローグ」である。

    ここは、昨日の乱闘騒ぎに対する反省や、これから自分がやろうとしていることに対する迷いなどと解釈されている部分なのだが、リブレットを読むと一筋縄で解釈できる内容ではない。ザックスの言っていることが分かるようで分かりにくい部分だ。ワーグナー研究家は、この部分をワーグナー自身の芸術に対する考え方と重ね合わせ、深読みするかもしれない。もっとも、内容はわかりにくいが音楽的にはザックスの歌が朗々と歌われる部分で聴かせどころだ。

    「迷いのモノローグ」は難しいのだが、前半のヴァルターのボケ役は、ワーグナーの喜劇の中で、数少ない笑える部分だ。今日のヨハネ祭の歌を歌えとザックスに言われ、間違えて昨日のヴェックメッサーの奇妙なコロラトゥーラの節で歌ってしまうところなどだが。もっとも、笑えると言っても、古臭いコントかギャクのようなサムさもあるのだが…やはりワーグナーに喜劇は似合わない。ワーグナーは「ニーチェが笑ってくれない」と嘆いたらしいが、ニーチェの感性は正しい。

    ■ 第2場

    ヴァルターとザックスが歌合戦の歌を吟味する部分だ。第5幕で歌われる「朝の薔薇色の輝きにつつまれて…」が形作られてゆく。あまり面白い場面ではないのでパス、この歌の完成形は第5場で聴くことができるし。

    ■ 第3場

    ヴェックメッサーが、昨日の乱闘で受けた傷をさすりながら、痛々しい様子で登場するところは、非常に有名な部分である。ひたすらヴェックメッサーのパントマイムが続くのだが、音楽的には極めてワーグナー的なものになっているらしい。

    ワーグナー解説本を読むと、《マイスタージンガー》は新旧の音楽様式が混ざっている、あるいは古典的な音楽形式をとりながら、実は極めて20世紀を先取りしたような音楽の素顔を隠し持っているとされている。

    それは第2幕第3場のザックスの「にわとこのモノローグ」でも、「 Es klang so alt, und war doch so neu, (古くて懐かしい響きだが、とても新鮮でもあった)」と言っていることそのものである。

    しかしながら面白いのは、ヴァルターが歌う歌は、その新しい様式ではないことだ。ヴェックメッサーの歌うコロラトゥーラは、非常に奇妙で誇張された歌いになっていると思うのだが、ヴァルターの歌がそれに比して極めて新しく聴こえるかと言えば、そうではない。例えば、《トリスタンとイゾルデ》で聴かれたような半音階旋律も、表立って登場しているわけではない。

    しかし、ところどころに、楽譜を見ているわけではないので詳細は分からないが、裏旋律で、あるいはちょっとした断片として、トリスタン的な響きが耳をつくことがある。その瞬間、《トリスタン》の音楽に触れたことのある者ならば、おそらく間違いなく、今までの音楽とは違うということに気づかされるのだ。それはまるで、潜在意識に作用するサブリミナル効果のように、さり気なく、しかししっかりと聴く者に刻み付けるられる。

    ■ 第4場

    さて、いよいよクライマックスが近づいてきた。まずはザックスとエーヴァの会話から始まる。

    エーヴァの靴を直すザックス(ザックスは靴屋だからね)の背後から、ヴァルター表れ、熱い視線と共にエーヴァに愛を歌いかけるシーンが強烈だ。エーヴァはザックスに脚を差し出し靴を直してもらいながら、ヴァルターの愛を受けとめているのだ。なんだかエロチック!

    ザックスは本当はエーヴァに恋心があるくせに、「トリスタンとイゾルデのお話の、マルケ王にはなりたくないからね」などと話すのだ。(ここで一瞬、トリスタンの半音階上昇旋律が流れ、思わずはっとしする。マルケ王とは、心ここにあらずのイゾルデをめとってしまったという不幸なる男性のこと)

    まあ、イロイロドラマはあるんだが、第4幕はなんと言っても、ラストのザックス、エヴァ、マグダネーレ、ダヴィットによる四重唄が圧巻である。ワーグナーはこういう手の、従来の歌劇の形式を捨てたはずではあったのだが、マイスタージンガーにおいては臆面なく復活させているところが、わざとらしい。

    場面はワルターの勝利を期待し歓喜の歌を歌い上げているところだ。音楽的な見事さときたら眩暈がしそうなほどだ。

    ■ 第5場

    第5場はいよいよ歌合戦である。第5場冒頭はお祭りの開始であり、華やかさが演出されたまさにクライマックスを予感させるような音楽である。歌劇「アイーダ」の行進のような雰囲気だ。ある意味、陳腐に堕しているとも言えるのだが、ワーグナーは意図的にこうした構成をしているのだと思う。「おいらの楽劇の評判が全然よくないけど、やりゃーできるんだよ、やらねーだけだよ」と言っているかのようで、流行歌は作らない主張しているミュージシャンが、たまにヒットソングを作る姿を彷彿とさせる。

    さて歌合戦においては、最初はベックメッサ-がザックスからもらった歌を歌うのだが、最後まで歌を理解もできず覚えもできず、さんざんな目にあってしまう。その後、この歌の真の作者として紹介されたヴァルターが見事に歌いきるわけである。

    それにしてもヴェックメッサーの歌は悲惨だ。ヴァルターの歌と比較してみよう。(ヴァルターの歌は第2場、第4場、そして第5場で少しずつ形を変えながら歌われる)

    第2場でのヴァルターの歌 ヴェックメッサーの歌 第5場の完成されたヴァルターの歌

    Morgenlich leuchtend im rosigem Schein, 
    von Blut und Duft, 
    geschwellt die Luft, 
    voll aller Wonnen 
    nie ersonnen, 
    ein Garten lud mich ein, 
    Gast ihm zu sein. 

    Morgen ich leuchte in rosigem Schein, 
    von Blut und Duft 
    geht schnell die Luft; 
    wohl bald gewonnen, 
    wie zerronnen; 
    im Garten lud ich ein 
    garstig und fein. 

    Morgenlich leuchtend im rosigem Schein, 
    von Blut und Duft, 
    geschwellt die Luft, 
    voll aller Wonnen 
    nie ersonnen, 
    ein Garten lud mich ein, 

    朝のばら色の輝きにつつまれ、 
    花の香りに 
    大気は満ち満ちる。 
    歓喜に溢れた、 
    夢想もしなかった 
    庭園が私を 
    客になれと招いた 

    朝、私はばら色の光につつまれ、輝いた 
    血の臭いの風が 
    速やかに吹く。 
    勝ち取ったかと思うと、じきに 
    溶け消えてしまう。 
    園の中に、私は招きいれた。 
    卑しく、上品に 

    朝のばら色の輝きにつつまれ、 
    花の香りに 
    大気は満ち満ちる。 
    歓喜に溢れた、 
    夢想もしなかった 
    庭園が私を 
    客になれと招いた 

    ベックメッサーの歌詞は、ヴァルターのそれと似ているようでいて、メタクタなものになってしまっている。ドイツ語圏の方ならば、歌を聴きながら笑い転げているのかもしれない。劇中でも観客はベックメッサーが一体何を歌っているのか訝る歌が挿入される。続くベックメッサーの歌はさらにめちゃめちゃになってゆく。


    Wonnig entragend dem seligen Raum, 
    bot gold'ner Frucht 
    heilsaft'ge Wucht, 
    mit hodlem Prangen 
    dem Verlangen, 
    an duft'ger Zweige Saum, 
    herrlich ein Baum. 

    Wohn'ich ertraglich im selbigen Raum, 
    hol'Geld und Frucht, 
    Bleisaft und Wucht... 
    Mich holt am Pranger 
    der Verlanger, 
    auf luft'ger Steige kaum, 
    hang'ich am Baum 

    dort unter einem Wunderbaum, 
    von Fruchten reich behangen, 
    zu schaun in sel'gem Liebestraum, 
    was hochstem Lustverlangen 
    Erfullung kuhn verhieβ, 
    das schonste Weib: 
    Eva - im Paradies !  

    この至福の園から喜ばしく聳え立つのは 
    たわわに実った果汁ゆたかな 
    黄金の木の実を 
    輝かしく美しく、 
    私の願いに向かって 
    香り豊な枝という枝の端々から差し出す 
    ひともとの素晴らしい樹 

    同じ園になんとか、かんとか私は住まい、 
    金と木の実を 
    鉛汁と重りを取ってくる。 
    曝し台で私を呼ぶのは 
    願いを抱く人、 
    風通しのいい坂道ではなく 
    私は樹で、首を吊る 

    その庭の奇跡の樹の、 
    たわわに木の実のなる下に立って、 
    さながら至福の愛の願いを 
    叶えると大胆に 
    約束してくれたのは 
    こよなき美女、 
    エデンの園のエーヴァ! 

    混迷の度を増すベックメッサーの歌はさらにナンセンスな内容になってゆく。一方ヴァルターの完成された歌は"Eva - im Paradies ! "と高らかに愛を宣言している。

    Sei euch vertraut, 
    welch hehres Wunder mir geschehn: 
    an meiner Seite stand ein Weib, 
    so hold und schon ich nie gesehn: 
    gleich einer Braut 
    umfaβte sie sanft meinen Leib; 
    mit Augen winkend, 
    die Hand wies blinkend, 
    was ich verlangend begehrt, 
    die Frucht so hold und wert 
    vom Lebensbaum. 

    Heimlich mir graut, 
    weil es hier munter will hergehn: 
    an meiner Leiter stand ein Weib; 
    sie schamt und wollt'mich nicht besehn; 
    bleich wie ein Kraut 
    umfasert mir Hanf meinen Leib; 
    mit Augen zwinkend 
    der Hund blies winkend, 
    was ich vor langem verzehrt, 
    wie Frucht so Holz und Pferd 
    vom Leberbaum! 

    Abendlich dammernd umschloβ mich die Nacht; 
    auf steilem Pfad 
    war ich genaht 
    zu einer Quelle 
    reiner Welle, 
    dei lockend mir gelacht: 
    dort unter einem Lorbeerbaum, 
    von Sternen hell durchschienen, 
    ich schaut'im wachen Dichtertraum, 
    von heilig hodlen Mienen, 
    mich netzend mit dem edlen Naβ, 
    das hehrste Weib, 
    die Muse des Parnaβ ! 

    あなた方に伝えたいのは 
    わが身に起こった気高い奇跡。 
    私のかたわらに立ったのは 
    世にも優美な女。 
    花嫁のようにしっとりと私を抱きしめた。 
    まなざしで教え、 
    輝くような手で指し示したのは、 
    私の憧れ求めていた、 
    生命の樹の恵みゆたかに 
    貴い木の実 

    ひそかに私は戦慄を覚える。 
    なにしろ、ここは大変に陽気だから。 
    私の梯子にもたれて一人の女が立っていた。 
    恥じ入って、私を見ようとしなかった。 
    キャベツのように色の褪せた 
    麻糸がほつれて私の体に巻きつく。 
    両目をぱちくりさせ、 
    犬は合図しながら吹いた。 
    私がとっくの昔に、 
    木の実も、材木も、馬も、 
    肝臓の樹から食らっていたものを! 

    たそがれゆく夕暮れの闇が私を包んだ 
    けわしい山道を 
    辿り行く私は 
    泉に近づき 
    清らかに打つその波は 
    私に笑いかけ誘った 
    そのほとりの月桂樹の下に 
    星たちの明るい光に照らされて、 
    私が、現ともつかぬ詩人の夢の中に見たのは 
    優しく、清い表情を浮かべて 
    貴い泉の水を私に滴らす 
    こよなく気高い女 
    パルナッソスのミューズ! 

    聴いて頂けばわかるが、ヴァルターの歌合戦での歌は、それはそれは見事な美しき歌である。韻もしっかり踏んでいて、劇中ではなくても完璧の出来と言えようか。

    対してベックメッサ-の歌は、ワーグナーの悪意が底見えてくるような変形のされ方をしている。歌詞をうまく覚えられなかったという設定なのだが、少しずつ間違えた唄は、とんでもない台詞になってしまっている!

    劇中で彼は大爆笑どころか、おそらくは街における自らの地位さえ危うくなるような失笑をかってしまうのだが、これをワーグナーの『喜劇』と考えると、あまりにも仕打ちは手酷く、残酷でさえある。ベックメッサ-が、どこかマヌケで憎めないキャラクターとして登場するだけに、ここまで叩きまくることに違和感を感じないわけでもない。さらにベックメッサーのモデルが、ユダヤ人であるという説はおいておくにしても、批評家ハンス・リックを指しているわけで、ワーグナーの執拗さと意地の悪さというものが、イヤと言うほど分かるではないか。

    ヴァルターの歌は、仔細に見てみると、第2場の唄よりも一層完成されたものとなっている(らしい)。ザックスに散々歌の規則を教えられただけあり、ヴァルターの歌を聴いている民衆もマイスターたちも、ただただ感心し感動しきってしまうのだ。高らかに歌われるエーヴァへの愛はストレートに心に染みわたる。ヴァルターの歌にかぶさる民衆達の感動の歌と共に劇のテンションは一気に高まる部分だ。

    もっとも冷静に歌詞を読むと、「よくぞここまで言うなあ」というカンジではある、私など少々恥ずかしくなってしまうほどだ。エヴァはかくも素晴らしい女性ということなのだろう。ヴァルターは情熱的な一目惚れをしたことから類推するに、エヴァは相当物凄いフェロモンを撒き散らしている女性なのだろう(>バキ)。ヴァルターの歌に「清らかな泉」というフレーズを聴くと、《タンホイザー》のヴェヌスを不謹慎にも思い浮かべてしまうのだが・・・(>バキバキ)。

    さて、満場一致でヴァルターは歌合戦の勝者となる。ポーグナー親方がヴァルターをマイスターとして迎えると言うのだが、ヴァルターはこれを固辞する。

    そこで歌われるのが、ザックスによるドイツ芸術を称えまくる歌だ。

    und gebt ihr ihrem Wirken Gunst, ( And if you favour their endeavoures, )
    zerging'in Dunst ( even if the Holy Roman Empire )
    das heil'ge rome'sche Reich, ( should dissolve in mist )
    uns bliebe gleich ( for us there would yet remain )
    die heil'ge deutsche Kunst ! ( holy German Art ! )

    そして、マイスターの働きに好意を惜しまなければ
    たとえ、神聖ローマ帝国が
    霞となって消えうせようとも
    神聖なドイツの芸術は
    変わらず、我らの手に残るでしょう!

    そうして、最後にかの有名な「マイスタージンガーの行進の動機」に乗って、ドイツ芸術とニュルンベルク、そしてザックス(つまりワーグナー)を称える民衆の大合唱が高らかに歌われ、この4時間にも渡る楽劇に幕が降りる、やれやれだ。

    ヴァルターの歌からラストまでは圧巻と言うしかない出来だ。民衆の大合唱を聴くために延々と今までがまんしていたような気にさえなる。私は何度目かにこの部分を聴いているときに、明るい音楽にしてハッピーエンドの結末であることを熟知しているにも関わらず、不覚にも感極まって落涙するのを止めることができなかった。このような音楽的な体験は、またしても巨人ワーグナーにからみ取られてしまった瞬間と言えるかもしれない。

    ワーグナーはザックスの台詞を借りてドイツの芸術を称えているのだが、ヒットラーがこれをゲルマン民族とドイツ帝国を称える歌として利用したことは有名である。ヒットラーはことさらにマイスタージンガーを好んだらしい。全曲を通して聴かずとも、このラストを聴くだけで政治的プロパガンダとして利用したくなる気持ちが分るというものだ。日本人の私でさえ、こんなに感極まってしまうのだから、ゲルマンな方々にとってはたまらない音楽なのだろう。

    冷静に聴くとあざといほどに単純な音楽だ。裏では色々と難しいことをしているということは先にも書いたが、それでも聴こえてくる音楽は明朗にして分かりやすい。にも関わらず精神の深いところに作用してしまう音楽だ。私もそうだが、ゲルマンもヒットラーも単純な奴らなのだなあと思うのであった。



    上の絵は結びの合唱の間、エーヴァがヴァルターの額から冠を取ってザックスにかぶせているところ。まさに大団円の結末である。

    今更ながらとも思うが、マイスタージンガーもとてつもない音楽である。覚えきれないほどのライトモチーフ、それが音楽的な仕掛けとなって楽劇全体を縦横に編みあげている。一聴して明るく素朴な音楽であるようでいながら、裏には連綿とした別の情熱が流れている。それをトリスタンティズムとでも呼ぼうか。まさに古く聴こえる様でいながら、実は非常に新しい音楽であるのだ。ワーグナーがザックスに語らせたこと、そのものが、まさに実現されているように思える。


    ---------------------
    今回は対訳は「オペラ対訳ライブラリー ニュルンベルクのマイスタージンガー」(高辻知義 訳 音楽之友社)のものを採用いたしました。


    2002年8月16日金曜日

    【音盤】シドヴィル 忠実な羊飼い IL PASTOR FIDO

    この曲は、かつてはヴィヴァルディの作とされていた。私の持っているベーレンライター版の楽譜でもヴィヴァルディの名前が表紙に書かれている。楽譜の解説は1955年、Dr.Walter Upmeyer とある。それによると《忠実な羊飼い》は、ヴィヴァルディの名前を冠しながらも長い間省みられなかったらしい。その理由を、この曲が楽譜タイトルにあるように、特殊な楽器 ( musette や viele ) のためとされていたことや、customary catalogues から作品13が失われていためと指摘している。だからといって、ヴィヴァルディの作であると疑うことは賢明でなはいと続け、曲は期待にそむくものではないと締めている。(musette:手風琴、バグパイプのような楽器)




    ランパルがこのCDを録音したのはまだ1968年、ヴィヴァルディの作であると疑われていない頃だ。

    最初にそれを疑ったのはPeter Ryomで、1974年のことであった。1737年版楽譜に書き添えられた文章から疑いを持ったらしい。最終的に1989年になって、Philippe Lescatが、ヴィヴァルディ作とされていた《忠実な羊飼い》が、フランスの作曲家ニコラ・シェドヴィルの作で、1737年にパリで出版したソナタ集であることを突き止めた。ヴィヴァルディの作ではないとする出版者本人の文書を、パリの The National Archives で見つけたのだ。

    当事はヴィヴァルディは流行作家であったそうなので、ヴィヴァルディの名前を借りて楽譜を出版した方が知名度も高く、よく売れると判断したたのだろう。右は1737年版の楽譜表紙であるが、しっかりとヴィヴァルディの名前が記されている。(解説、写真ともPHILIPS グラフェナウアーのCDより)

    「忠実な羊飼い」に含まれる各楽章にはヴィヴァルディの協奏曲(op4-6、4-7、6-2や7-2)のほか、J.メックのヴァイオリン協奏曲(RV Anh.65)やG.M.アルベルティのヴァイオリン協奏曲からの引用が含まれている。標題には「ミュゼットまたはヴィエール、フルート、オーボエ、ヴァイオリン、および通奏低音のためのソナタ」とあり、どの楽器でも演奏可能なように書かれているとのことだが、今ではフルート演奏が一般的なのではないかと思う。

    全部で6曲からなるこのソナタは、ヴィヴァルディの作ではないとは言っても優雅さと素朴さ、そして推進力に富んだ名曲であると個人的には思っている。そして、どの曲にも楽天的な明るさを感じる。当事のパリはバグパイプやミュゼットといわれる楽器が流行していたらしく、この曲にも表現されているような田園情緒が好まれていたのだろう。作品背景に思いを巡らせたり、あるいは何となく浮かないときについ取り出して聴くのには最適な一枚である。



    フルート曲ということなので、私の手元にはベーレンライター版の楽譜がある。いつかは全曲きちんと吹けるようになりたいと思う曲だ。




    フルート:ジャン=ピエール・ランパル
    Jean-Pierre Rampal
    チェンバロ:ロベール・ヴェイロン=ラクロワ
    録音:1968年
    ERATO WPCS-4611/2(国内版)

    このCDを何度聴いたことだろう。フルートを始めて間もない頃この演奏に接し、曲の魅力とランパルのフルートに魅了されたものだ。少しでも吹いてみたいと思い、楽譜を買い、第1番ハ長調や第6番ト短調などに挑戦してみるも、技術力なさにあえなく敗退(><) 以降は聴く事に専念している。

    単純な音型に付けられる装飾音符の美しさや品のよさときたら、フリフリのレースのような趣さえあり聴き惚れてしまう、まさに黄金の響きと言えようか。一方で速いパッセージの流麗さには舌を巻く。ランパル特有の軽やかさと明るい響きに心ゆくまで浸ることができる演奏だと思う。田園風の曲調というよりも、もっときらびやかで高雅な雰囲気の漂う演奏だ。





    フルート:グラフェナウアー
    Irena Grafenauer
    harpsichord&organ:Brigitte Engelhard
    Philharmonisches Duo Berlin
    録音:1990年
    PHILIPS 432 138-2(輸入版)

    グラフェナウアーのフルートは、実のところこれしか聴いたことがない。初めて聴いたときは、ランパルの華麗な演奏に馴染んだいたため、骨太でしっかりとした演奏で男っぽい演奏だと思ったものだ。どこが骨太に聴こえるのかと考えたが、フレーズの切り方の短さ、音のメリハリのためなのかしらと思うがよく分からない。また、ランパル版よりも、ずっと「田園風景」の雰囲気を感じることができるように思える。

    一方で彼女の演奏を続けて聴いていると、どこからかチャーミングさも滲み出してくるようにも思える。いたずら好きな女の子が、楽しそうに戯れているような趣もある。伴奏もランパル版はチェンバロだけだが、こちらはオルガンや弦楽なども用いられていて、通して聴くと、ともすると飽きてしまうことから救っている。グラフェナウアーもフルートやピッコロを持ち替えて演奏しており、これも楽しめる。


    2002年8月15日木曜日

    【音盤】テレマン 無伴奏フルートのための12の幻想曲

    テレマン(1681-1767)という作曲家はJ.S.バッハと同時代に活躍し、数多くの作品を残している。当事の人気としてはバッハを遥かに凌ぐものであったということである。この作品は通奏低音を伴わないフルートの独奏曲。楽譜には鉛筆でテレマンの名と「ヴァイオリンのための通奏低音を伴わないファンタジー」と記されているらしい。しかし、音域や書法からトラベルソ(1キーのフルート)のための曲というのが一般的である。

    曲は全部で12曲からなる。音楽愛好家または器楽学生のために書かれたもので技巧的には難しくないと解説には書かれている。手元に楽譜があるので、時々思い出したようにさわりだけ吹いてみるのだが、とてもではないが私レベルのモノが吹きとおせるような曲では全くない。作曲当事はベーム式フルートではなくトラベルソであったことを考えると、当事のアマチュア楽器奏者のレベルの高さを垣間見る思いがする。

    フルート独奏曲というと、バッハの無伴奏パルティータが思い出されるが、テレマンのこの曲は、バッハほどしかめつらしくはなく、どこか自由な軽やかさがある。「幻想曲」という形式にも、そのような性質が現れているように思える。

    1曲が2分から5分弱と非常に短い曲であるが、通して聴いてみるとバロックやロココの雰囲気に浸ることができる。ひとりで暗い教会の中に座り、ガラスモザイクごしの光を眺めているような気にさせてくれる。それでいて、バッハのように内面的で宗教臭くならないところが、テレマンの良さだと思う。(逆にそれが限界であり、テレマンの音楽を深みがないと評する専門家もいるようだ)

    私はそういうテレマンのこの曲が、それゆえにこそ好きである。楽譜を追いながら聴いていても、単調な音の並びからどうしてこんなにも豊にして心地よい音楽が響くのかと驚きを感じ得ない。アルペジオと音の跳躍だけで出来ているような曲も多く、まるで練習曲を見ているような気になる。

    しばらく聴いていると楽譜を追うことをやめてしまう。小細工はいらない、ゆったりと羽根を伸ばすかのような気持ちで音楽に漬かるのが良いように思える。どの曲も良い、いつかはキチンと吹けるようになりたいなあ、と思うのであった。





    フルート:ジャン=ピエール・ランパル
    Jean-Pierre Rampal
    録音:1972年10月30日 埼玉会館大ホール
    DENON COCO-70461(CREST1000)~COCO-85024の再発売品

    この演奏はランパル50歳のときの演奏である。彼は数知れぬ録音を残しているが、テレマンの無伴奏全曲は、埼玉会館ホールで録音したこのライブ録音だけであるということには意外な念にとらわれる。

    現代の古楽器に慣れた耳でバロックを聴くと、ちょっと高いピッチときらびやかな音色に違和感を感じないわけではない。しかし、数分もすると、ランパルの音色や演奏は、決して嫌味のあるようなものではなく極めて素晴らしい演奏であるとことに気付かされる。誰が何と言っても、ランパルだ。今更、彼の演奏についてあれこれと言うべきものでもない。

    DENONのCREST1000というシリーズで再発売されているこの演奏が1000円で手に入るのだから、幸せな時代である。

    2002年8月6日火曜日

    個人データとプライバシー

    住基ネットとデータベースということについて、考えがバラけてきたのでページを改めた。

    住基ネットには本人確認情報(氏名、生年月日、性別、住所、新たに全国民にふられる11桁の住民票コード及びそれらの変更情報)しか載せないと政府は説明してる。しかし、リレーショナルデータベースを構築してしまえば、ひとつのコードに情報を付与するのは容易なことであろうし、様々なコードを関係づけることも難しくはないだろう。システム的には、各行政機関や施設が固有の情報とコードを持ち、それをキーとなる個人コードと結びつけるという管理も可能だろう。

    このようにさまざまな個人情報が電子的に結び付くことで利用しやすくなることは、IT技術を前提にすると当然の帰結かもしれない。為政者=管理者であれば多くの情報を芋蔓式に引き出せるシステムへの誘惑は避けがたいものがあると思う。「限定された事務処理」ではなく「広範なさまざまな処理」に使うことを、期待していると想像することはごく自然だろう。

    しかし、全てに効率を求めることが前提という発想には陥穽もあるように思える。特に「国家が国民を管理する」ということについて、よく考えなくてはならないと思うのだ。我々国民は、個人の履歴情報=プライバシーをどこかに保管し外在化させた存在であることは望んでいない。

    我々は個人情報を行政にサービスしていただいている、情報のユーザーでもないのだ。なぜなら個人情報は全て本人に帰するものだ。住基ネット=個人情報が必要なのは行政である。行政サービスを効率的に行うために個人情報が必要なのだ。前回も書いたが、行政がそんなに広範囲に、個人を特定する作業を行わなくてはならない、ということが理解できていないのだが・・・いったい、どういう情報が行政で流れているのかと、いらぬ不安を抱かぬわけでもない。

    逆にいうと、個人情報を個人がどこまで管理できているのかということも問題になってくる。ある人には住所さえ重要なプライバシーだろう。一方で知りたくてもアクセス不能な個人情報というものも存在する。つまりは、プライバシーとは何かという問題にも行きつくので根が深い。

    2002年8月5日月曜日

    住民基本台帳ネットワーク稼動開始

    「国民に十分な説明のないまま」住基ネットが本日から稼動を開始した。東京都 杉並区、国立市、神奈川県 横浜市、福島県 矢祭町などいくつかの行政単位は、個人情報保護に関する整備が不充分であることから住基ネットに不参加という立場を崩していない。
     
    「国民総背番制」などという呼称でマスコミは懸念を示してているが、わたしはIT化社会において個人がコードで識別されることは、ごく当然の成り行きだろうと考ている。「国家が国民を管理する」ということに関する議論がまず重要であるとは思うが、議論の前提が私には整っていないし、諸外国の事例もよく分かってはいない。住基ネットに関しては総論では賛成ということになる。
     
    だからと言って、現段階で諸手を上げて住基ネットに賛同しているわけでもない。以下の点を具体的に説明してもらった上で判断したいというのが本音だ。
    • 現在できることはどこまでなのか(10省庁・93事務)
    • 現段階での用途外利用の範囲は具体的にはどういうことか。
    • 利用範囲を拡大させることに関する手続きはどうなのか(264事務への拡大を含む)
    • 住基ネットを含め、政府が管理する個人データの将来像について(戸籍、年金、納税、健康保険、国勢調査レベル
    • の情報から公共施設利用状況などの情報などを含め)
    • 今回のシステム稼動に関する行政側のコストパフォーマンス(今までのコストとの比較、既にかかった投資額、今後のメンテナンス費用を含め)。行政機関は合理化されたのか(人件費、書類保管などに関わる経費を含め)
    • 今回のシステム稼動に関する住民側のコストパフォーマンス(時間およびコストメリットに関する評価)
    住基ネットそのものについて、あまりにも無知すぎるのだ。そもそも「行政が個人を確定させるための作業」が、そんなに膨大に行われているということさえ実感を伴って理解できないのだ。
     
    セキュリティやファイアーウォールについては説明は不要だ。聞いても専門的なところは分からない。おそらくハッキングも行われるだろうし、内部漏洩も生じるだろう。それについて今から懸念を表明してもムダなことだ、そんなことは私にはどうでもよい。まず、想定している効果とシステムコンセプトのみ簡潔に説明してもらいたい。総務大臣が「大丈夫、みんな便利になるんだから、使えば分かるよ」と力説しても説得力はない。当事者による数値が示され、さらにその数値の妥当性を第三者が客観的に評価するようになってはじめて納得できる。
     
    以上が明確であれば、住基ネットの発想には賛意を表わしたい。私の目に触れていないだけで、以上が説明されたものがどこかで公表されていたかしら? 私もヒマではない。毎日隅からスミまで新聞を読んでいるわけでも政府のHPをくまなく見ているわけでもないので、周知の事実なのかもしれないが。

    2002年8月3日土曜日