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2001年2月20日火曜日

武満徹を聴く



以前、尾高指揮・札幌交響楽団のCDの紹介を書いた。それ以来、武満徹という作曲家が気になっている。

彼の曲を聴くのはほとんどが始めてである。現代音楽もほとんど聴かないのに武満について何かを書くことは無謀とさえ思えるのだが、書くこを通して少しでも彼に近づいてゆきたいと願っている。

荘村清志/武満徹へのオマージュ

武満という日本の生んだ作曲家について、私の知るところは情けないかなわずかばかりである。彼が数年前に亡くなったとき、音楽界は大きな損失とその死を嘆き悲しんだが、彼の音楽を「現代音楽のひとつ」と考えていたわたしには、遠い世界の出来事であった。

武満の音楽に始めて接したのは、札幌KITARAホールで開催された「武満徹のメモリアルコンサート」であった。このコンサートの情報は、BBSでこのコンサートに実際に出演する札響のフルーティストから聴いた。直接の面識はないものの、いくつかの書き込みで知っていた演奏家が出るということに興味をそそられ、コンサートに足を運ぶことにした。

まったくの予備知識がない状態ではと思い、予習のため武満のフルート作品をひとつ手に取った。それが「武満徹へのオマージュ」というタイトルのCDであった。演奏会には荘村さんも出演するというので買ったのだと思う。



荘村清志/武満徹へのオマージュ




  • 荘村 清志(g) 金 昌国(fl)
  • TOCE-9463


まず、フルートの「海へ」を聴いた。聴いてびっくりしてしまった。これが現代音楽なのかと。自分の固定観念を覆すような曲であった。静謐にして多彩、曲の美しさと深さに驚きそしてCDを聴きながら「鯨岬」のところでは涙してしまった。
これはCDで聴く曲じゃあないと心から思った。自宅のステレオの前では、目に映るもの、雑音として聴こえるものが多すぎるのだ。目を閉じると、暗く青いインディゴ色をした海の中を、鉛色に鈍く光る巨大な体躯の鯨が、悠々と泳いでいる姿が浮かんだ。これが、始めて接した武満の音楽であった。
「森の中で」もすばらしいものだった。この曲は武満が荘村さんのために書いた曲だそうだが、技巧的にも難しいこの曲から、すばらしく音楽的な体験が得られるのであった。

武満徹 の世界 in KITARA ~1998年2月7日 Flute Music


  • フルート:山崎 衆
  • ギター:荘村 清志
  • ピアノ:高橋 アキ
  • 司会:小室 等

非常に期待を持って当日はコンサートに向かった。
KITARAの小ホールは収容人員が500人ほどで、音響も非常に良いことで評判のあるホールである。当日は、小室等さんの司会とトークで非常にアットホームな雰囲気でコンサートは開始された。
コンサートはすばらしい音楽的体験であった。物凄いまでの緊張感と、そして寂しさや、どこか包まれるような安らぎに満ちた世界が展開されていた。また武満徹を演奏家も聴衆も、いとおしむかのような雰囲気があり、それこそあっという間に過ぎた演奏会であった。
山崎さんの奏でる「海へ」は、CDで聴いていた予備知識もあったせいか、非常に多弁に音楽的世界を見せてくれた。鯨のささやく声さえ聴こえてくる様で、たった十数分の曲であったが聴き終えた後の充足感は格別のものであった。
演奏会の後BBSで山崎さんは、「海へ」も「エア」もCDで聴いているのとはだいぶん違う吹き方をした・・・みたいなことを書かれていたが、残念ながら、その「違い」が分かるほどに私は良い聴衆ではなかった。
途中で、高橋さんと荘村さんがスライドを数枚映し出しながら、小室さんと武満さんの思い出を語るという趣向も用意されており、武満ファンにはたまらない企画であったのかもしれない。
武満というと、近寄りがたい雰囲気を有した作曲家というイメージがあったのだが、この企画は彼を身近に感じさせるものであった。

武満という音楽家



まだ私は武満を語る言葉を有していない。彼の膨大なる著作群も読んだこともない。今年1月で「ゲネラル・パウゼ」を迎えた新潮社の「Gramophon Japan」は、武満特集であった。大江健三郎は、武満の音楽は60年から70年代のものが良い、それ以降は音楽のパワーみたいなものがなくなっている、と評していた。
その真意も私には判断がつかない。
そもそも、武満という音楽家はいったいどういう存在だったのだろうか?
彼と同時代に生きていながら、彼の生きている間に生の演奏を聴いてこなかった事は、もしかすると人生における大きな損失だったのではないかと漠然と思う。
何故そう考えるのか? その答えは分からない。ただ、彼の音楽は心の深淵に訴えかけるのだ。現在の猥雑な日常、自然への畏敬を忘れた生活。ただひたすら消費されるだけの音楽たち・・・・
「芸術」という言葉は80年ころをもって死語とさえなった感がある。真面目に取り組むことがばかばかしいといった風潮も、あの頃から醸成されたと思う。そういった中において、彼の音楽に接すると、あまりの高みと純粋さに心打たれるのだ。どこに茶化して誤魔化す要素が介在しようか。
いったいこれはどういうことなのだろうかと考えている。

Patrick Gallois/I Hear The Water Dreaming






Patrick Gallois/I Hear The Water Dreaming


  1. I hear the water dreaming <10:59>
  2. Toward the sea 1 <11:11>
  3. I hear the water dreaming
  4. Toward the sea 1
  5. Le fils des etoiles
  6. Toward the sea 2
  7. And then I knew 'twas wind
  8. Toward the sea 3
  9. Air


  • Patrick Gallois(fl)
  • Andrew Davis・BBC Symphony Orchestra


彼がフルートを特に好んだということも言われている。笛という機構特有の、素朴でありながら無数の音色を表現できる可能性に惹かれたのだろうか。
たとえば日本の伝統楽器の尺八にしても、オーバーブロー気味の複雑な音になっている。倍音の多いバイオリンなどとは違った音色が生み出す世界というものが、確かにあるのかもしれない。
武満はフルートという楽器に、音色に関しては限界とも言えるような要求をしているようにも思える。フラッターの多用やオクターブ倍音を含むオーバーブロー、またノーマルなフルートだけではなく4度ほど音程の低いアルト・フルートの使用など・・・

そこから生み出される武満のフルート曲は、饒舌とは正反対のところにあると思う。静謐と畏敬やミステリアスさを含んだ曲が多く、聴いていると別次元に連れてゆかれるかのようだ。武満の作品には彼独特のにほいがあり、「Takemitsu tone」と呼ばれる何かを感じることができる

現代音楽というくくりで聴いてしまうことにも意味がないと思う。たしかにメシアンに影響されたかもしれず、当時のセリエ音楽に関する理解も必要かもしれない。西洋音楽と日本の伝統音楽との対比など、色々な音楽を取り巻くテーマや現代性と無縁のところに彼の音楽がないのだろうとは理解する。しかし、聴くに耐えない現代音楽という印象の中にあって、彼の音楽が語りかける内容は非常に豊穣である。
このCDでは、うれしいことに「海へ」が1から3まで全て収められている。ご存知のように、それぞれのバージョンはアルトフルートと伴奏する楽器が変わる。1はギター、2はハープにオーケストラ、そして3はハープとの曲である。曲は3部に分かれ、1) The Night 2) Moby Dick 3) Cape Cod と名づけられており、題材をメルヴィルの「白鯨」から取っている。この曲を聴くと、はるか海原に鯨たちが泳ぐ様が目に浮かぶ。アルトフルートの深みのある音色は鯨たちの鳴き声さえ聴こえてくるようである。猥雑な日常とかけ離れた世界がたった10分間にこめられているのである。
この曲はどのバージョンもそれぞれ趣きがあり、違った曲に聴こえる。
遺作となった「Air」は、最初の出だしがドビュッシーのフルート曲「シリンクス」に似たところを感じる。しかし、曲が持つ内容は、もっと厳しいものでフルートのここでは鋭利で透明な音が何かを切り取り流れてゆくかのようである。