札幌交響楽団 第438回定期演奏会
日時:2001年9月9日
場所:札幌コンサートホール KITARA
指揮:尾高 忠明
ヴァイオリン:竹澤 恭子
シベリウス 交響曲第1番 作品35(没後50周年記念
シベリウス ヴァイオリン協奏曲 ニ単調 作品47
シベリウス 交響曲第2番 ニ長調 作品43
最初の尾高忠明(1911~51)は、指揮者・尾高尚忠の父の作品である。彼37歳のときの作品。解説には「札幌交響楽団初演曲」とある。
どんな曲かと思いきや、最初から打楽器などの激しい出だしでかましてくれる。始終緊張感に富んだ曲だが、現代音楽というような難解さは全くない。はじめて聴く曲だが心の中に徐々に入ってくる。激しく荒い部分や、暗く不安な部分があるものの、最後は希望が見えるかのような前向きな感情を残して音楽は終わる。
結構、かっこいい曲であるという印象。「通俗的」という評ももしかしたらあるかもしれないが、私としては好きである。聞くところによると、尾高のフルート協奏曲は指揮者の尾高忠明が手を入れているが、この曲は忠明の手によるものらしい(ある方からのメールで、教えていただきました)。こうなるとフルート協奏曲も聴きたくなってくる。
さて次は竹澤さんのシベリウスのVnコンチェルト。実は数年前にサントリーホールで、C・デイヴィス率いるロンドン響で、同じプログラムを彼女のヴァイオリンで聴いたことがある。そのときは、ロンドン響の音に負けてしまっているような感じで、音が届いてこない印象があった。そのため、若干不安をもち演奏にのぞんだ(失礼)。
しかし、そんな杞憂は最初の震えるような出だしの音で打ち消されたてしまった。そして、のっけから凄い音で聴かせてくれるのだ、オイオイというぐらい響いてくる。ヴァイオリンの音って、こんなに美しかったかしらと改めて感歎するほどだ。
私の席はRAだったのだだが、あの小さな楽器と小さな体かを用いて、それこそ全身を楽器とするかのような共鳴感を感じた。ぐいぐいと迫ってくる迫力は見事であった。
ひとつ気になったのは、札響の演奏である。竹澤さんの豊穣にして情感あふれる演奏とは少し一線を画した音つくりのように思えたのだ。ミスマッチというわけではない、しかし、最後まで何かしっくりこない違和感を感じたのは何故だろうか。最初に違和感を覚えてしまうと、それを打ち消そうと思っても、演奏に没頭でなくなってしまう、悪い癖だ。このように感じるのは、ごく個人的な印象でしかなく、「分かってね-な」と言われかねないのだが・・・
竹澤さんは、リサイタルなどあれば是非聴きたいと思わせてくれた、今までのマイナス印象払拭で満足というところ。
最後のシベリウスの2番、これは熱演であった。改めて思うが札響はヴァイオリンをはじめとし、弦楽器の音色の素晴らしさは眼をみはる。なんと流麗に、そしてあでやかに奏でることであろうか。チェロやコントラバスの支えもしっかりしており、特にコントラバスの力の入り方は見ていてあわ立つ思いさえした。
打楽器(といってもシベ2では真貝 さんのティンパニだけだが)も、打つところはしっかり打ち、つぼを得ている(なんて書いたら殴られそう、失礼!)。
金管群には若干の不安が残るものの、ホルンも立派であったしトランペットもしっかりとオケに溶け込み壮大なるドラマの重要なる役割を果たしてくれ非常に満足である。ただ、ときどき異様に耳につくチューバの響きには、首を傾げることもあったのだが、RA席のせいだろうか・・・
木管というのはオケの音色を左右する重要なセクションであると思う。特にオーボエとフルートは特にそうだと思う。このふたつについては、札響の音色はどちらかというとふくよかで豊かな音色であると感じた。その点がシベリウスとして期待する音色感と合致していたか、というと、ワタシの好みとしてはいまひとつだ。しかし、体勢に影響するような問題ではない。瑣末的な感想だ。
尾高さんの音作りなのか、それとも札響のオーケストレーションなのか、今回の演奏からは、細部の組立てが浮き上がるような構成美と対比感を強く感じた。もっとも、すべからく生演奏というのはクリアなものなのであり、いつもいい加減にCDばかり聴いているから、たまに生を聴くとそういう風に感じてしまうのかもしれない。これは、多くの演奏(札響を含め)に接していないだけに、なんとも言えない。
しかし、そのようなことを前提としつつも、主と従の対立関係というものが見事に浮き彫りにされ、音響的な立体感を感じさせる演奏であると感じた。また、音響的には厚みよりもお互いの共鳴感が際立ち、フライパンの中ではじけるポップコーンのような粒立ちを感じた。(比喩がなっとらーーーーーん)
シベリウスの特集をしているせいで、最近この曲は何度も聴いていた。それにもかかわらず、具体的にその個所を指摘することは今となってはできないが、何度も「お、こんな表現だったか」と思わせる部分に遭遇し、眼を見張り耳をそばだてた。
一方で、これを若干オーケストラとしてのまとまりに欠ける、という具合に解釈することもできるのかもしれない。例えば、突出して聴こえたチューバの響きにしても、どちらとも取れるかもしれない。クラシック初級者の私には、それらの点については、指揮者と団員の意図はわからない。
ただ、このように非常に興味深い演奏であり、熱のこもった演奏(と聴こえる)であるにも関わらず、非常に清冽なる印象を受けるのはどうしてなのだろうか、尾高のシベリウスに対する解釈なのか、札響の特質なのか。アッチェレランドやリタルダンドも多い(ように感じた)、強弱の巾も大きい、しかしそこから表現される世界は透明なる大容量の水が堰をきってあふれるかのような盛り上がり方なのだ。
そして、もうひとつ、シベリウスの音楽に私が始終聴いてきた「上からあふれてくる光」というものを感じさせてくれる演奏であることには、大きな喜びを感じた。この光とは、尾高の交響曲でもその裏に感じたが、「希望」というものを思うのだ。ラストのコーダに向けての部分は、やりすぎるといやらしくなるのだが、抑制の中に素晴らしい盛り上げを聴かせてくれ、個人的には心が震撼するのを止めることができなかった。
シベ2といえば人気の名曲だが、覚えやすいフレーズの間にはさまれた部分が、美しいくも複雑な動きをしていて驚かされる。霊感に満ちた音楽であることにも気づかされたのである。
そういうわけで、非常に満足のいく演奏であったのだが、冷静に考えればオケを聴くのは実に半年振りで、過剰に反応してしまっただけなのかもしれない。演奏会に行かれた皆さんは、どのように聴かれただろうか。