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2001年9月30日日曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 ヴァンスカ指揮 ラハティ響による交響曲第5番(1915原典版)


指揮:オスモ・ヴァンスカ 演奏:ラハティ交響楽団 録音:May 1995 BIS KKCC-2206
交響曲第5番 オリジナル1915版での演奏としては、この演奏が最初で最後のものかもしれない。演奏するに当たって、遺族の許可を得て一度だけという条件付きで録音されたらしい。
オリジナル版と現在耳にする原稿版との違いをひとつひとつあげつらうことはここではしない。CDを買うと吉松 隆氏による二つの違いが細かく書かれているのでその必要もないだろう。
ただ、この曲を聴くと原稿版との印象がまるで異なって聴こえてくることに少なからず驚きを覚える。たとえば楽章構成を4楽章から3楽章形式に変えた構成的な違いは大きな変更点だろう。もっともここでの演奏は1楽章から2楽章への移行をごく自然に行っているため、不自然さを感じないのだが。
全体を通して聴こえてくるのは、よりピュアな響きで、さらさらと流れ行く風の音を聴くかの感がある。これはオリジナル版のオーケストレーションの特徴なのか、あるいはヴァンスカ&ラハティの独特さなのかは今の段階で断定することができない。決して「軽い」というのではないが、明らかにここにはシベリウスの核心に近い精神があるように感じられる。
厳密に聴き比べて書いているわけではないので、正確さに欠けるとは思うが、気になる点をいくつか挙げてみたい。
まず冒頭のフレーズから「あれ」と思わせる。何か音が足りない、そうホルンの旋律がなく、よりもやもやした感じなのだ。それでもオリジナル版が原稿版と比べて劣っているとか、悪いという気はしない、むしろすがすがしさを感じさせ好ましい始まり方であると思うこともできる。
また、2楽章の終わり方なども原稿版のようにさらに一歩踏み込んだ壮大さを示すのではなく、比較的あっさりとまとめたという風に感じる。
ほかにも特徴的な違いはあると思うが、最大の印象の違いは終楽章の終わり方にであることには異論がなかろう。あの特徴的な断続的和音による終結が、この版では聴かれないのだ。はじめて原稿版のラストを聴いたときは、その唐突さと不自然さに違和感を覚えたものである。それでも、ああいう終わり方をせねばならなかったシベリウスについて、思い馳せるのだったが、それが初稿版ではないのである。
吉松隆はこのオーソドックスな終わり方の方が「自然のような気がする」と書いている。確かにそうなのだが、やはりそうならば、考えてしまう。どうしてあんな不自然さを最後に持ってきたのかと。
この曲を聴いた後に、誰のでもよい、原稿版を聴くと音楽的和音とか構成がしっかりとした輪郭を得ているように思うかもしれない。そしてより感動的に仕上がっている。逆に言えば、オリジナル版はどこか不安気な印象や捉えどころのない茫漠たる印象を受ける。ひんやりとした空気を漂う妖精の音楽を、水滴を集めるかのように一粒一粒、葉に受けて音楽をつくっているかのような霊感と神秘性を漂わせていると感じるのは私だけだろうか。それゆえにオリジナル版として気に入らず、破棄したのだろうか。
曲を聴きながら、同時並行に文章を書いているので脈絡がなくなって恐縮だが、4楽章は吉松隆の解説によると「ホルンが二分音符で呼応する『大自然の呼吸』のような印象のテーマ」とあるが、なるほどと思わせる表現だ。そうやって聴いてみれば、木々深き霧の森のなかでの息吹をひやりと肌で感じたような気になる。確かにオリジナル版のこの楽章は長い、しかし、吉松も指摘しているように「ブルックナーを思わせるような壮大で充実したオルガン的響き」が続き、それはそれで面白いと私は思う。
音楽的な完成度という点では、やはり原稿版の方に軍配が上がるのであろう。しかし、オリジナル版からは、何か世俗的なものを一枚はぎとったピュアさを感じとることができ、シベリウスファンであれば聴いてみる価値はあると考える。
二つの版の違いの詳しい解説などは、だれかがどこかでしてくれないものだろうか。

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