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2001年9月30日日曜日

カルテット 事前練習する

さて、結成するが早いか練習しようということで、本日集まれる3人が中島公園ヤマハ店に集結し合わせてみた。練習は、先の曲集から比較的易しいものをいくつか吹いてみる。やってみて分かったが、アンサンブルは難しい!!

「人の音を全然聴くことができない」「勝手に走ってしまう」「易しい楽譜なのに落ちてしまう」「リズム間違えて小節がずれていても平気で吹いてしまう」などなど・・・ヒョエー(@◇@)て感じ。他のひとが何やっているのかなんて、ぜーんぜんわからなかったぞ。

ワタシ個人の課題がいろいろあることを身にしみて感じる・・・しかしリズム音痴だなあ、アウフタクトの入りがぜんぜんだあ。

��時間の練習(?)というのはあっという間である。適度の緊張を感じながらもアンサンブルをする楽しさを味わうことができた。音色やリズム、最後のコーダなど息があった瞬間の快感は格別だものね。こういう機会を与えてくれた皆さんに感謝!

いままでは、ずっと一人のレッスンだったし、レッスンの1時間というのはケッコー地獄を見ることもあったのだけど、複数で吹くのはいいものですね。

��さんは、「少しはハモリが聴こえたね」と言ってくれたが、あのフルート独特の眩暈のするような和音は実現するだろうか? また、今後このカルテットは発展をるのか、それともかけ離れた実力のメンバーのため霧散してしまうのか?4人以外期待しないで待て!といったところか。 (て、いったい誰が読んでいるんだ?ココ)

次回までにやる曲は以下に決定。


  • ヘンデル・・・・<水上の音楽>より
  • バッハ・・・・・コラール「目覚めよと呼ぶ声あり」
  • ジョルダーニ・・カロ ミオ ベン
  • ヘンデル・・・・ラルゴ(歌劇セルセより)      


ヘンデルのラルゴは、指使いは難しくないが、意外とこういう曲を合わせるのは至難のわざなんだよな。


【シベリウスの交響曲を聴く】 ヴァンスカ指揮 ラハティ響による交響曲第5番(1915原典版)


指揮:オスモ・ヴァンスカ 演奏:ラハティ交響楽団 録音:May 1995 BIS KKCC-2206
交響曲第5番 オリジナル1915版での演奏としては、この演奏が最初で最後のものかもしれない。演奏するに当たって、遺族の許可を得て一度だけという条件付きで録音されたらしい。
オリジナル版と現在耳にする原稿版との違いをひとつひとつあげつらうことはここではしない。CDを買うと吉松 隆氏による二つの違いが細かく書かれているのでその必要もないだろう。
ただ、この曲を聴くと原稿版との印象がまるで異なって聴こえてくることに少なからず驚きを覚える。たとえば楽章構成を4楽章から3楽章形式に変えた構成的な違いは大きな変更点だろう。もっともここでの演奏は1楽章から2楽章への移行をごく自然に行っているため、不自然さを感じないのだが。
全体を通して聴こえてくるのは、よりピュアな響きで、さらさらと流れ行く風の音を聴くかの感がある。これはオリジナル版のオーケストレーションの特徴なのか、あるいはヴァンスカ&ラハティの独特さなのかは今の段階で断定することができない。決して「軽い」というのではないが、明らかにここにはシベリウスの核心に近い精神があるように感じられる。
厳密に聴き比べて書いているわけではないので、正確さに欠けるとは思うが、気になる点をいくつか挙げてみたい。
まず冒頭のフレーズから「あれ」と思わせる。何か音が足りない、そうホルンの旋律がなく、よりもやもやした感じなのだ。それでもオリジナル版が原稿版と比べて劣っているとか、悪いという気はしない、むしろすがすがしさを感じさせ好ましい始まり方であると思うこともできる。
また、2楽章の終わり方なども原稿版のようにさらに一歩踏み込んだ壮大さを示すのではなく、比較的あっさりとまとめたという風に感じる。
ほかにも特徴的な違いはあると思うが、最大の印象の違いは終楽章の終わり方にであることには異論がなかろう。あの特徴的な断続的和音による終結が、この版では聴かれないのだ。はじめて原稿版のラストを聴いたときは、その唐突さと不自然さに違和感を覚えたものである。それでも、ああいう終わり方をせねばならなかったシベリウスについて、思い馳せるのだったが、それが初稿版ではないのである。
吉松隆はこのオーソドックスな終わり方の方が「自然のような気がする」と書いている。確かにそうなのだが、やはりそうならば、考えてしまう。どうしてあんな不自然さを最後に持ってきたのかと。
この曲を聴いた後に、誰のでもよい、原稿版を聴くと音楽的和音とか構成がしっかりとした輪郭を得ているように思うかもしれない。そしてより感動的に仕上がっている。逆に言えば、オリジナル版はどこか不安気な印象や捉えどころのない茫漠たる印象を受ける。ひんやりとした空気を漂う妖精の音楽を、水滴を集めるかのように一粒一粒、葉に受けて音楽をつくっているかのような霊感と神秘性を漂わせていると感じるのは私だけだろうか。それゆえにオリジナル版として気に入らず、破棄したのだろうか。
曲を聴きながら、同時並行に文章を書いているので脈絡がなくなって恐縮だが、4楽章は吉松隆の解説によると「ホルンが二分音符で呼応する『大自然の呼吸』のような印象のテーマ」とあるが、なるほどと思わせる表現だ。そうやって聴いてみれば、木々深き霧の森のなかでの息吹をひやりと肌で感じたような気になる。確かにオリジナル版のこの楽章は長い、しかし、吉松も指摘しているように「ブルックナーを思わせるような壮大で充実したオルガン的響き」が続き、それはそれで面白いと私は思う。
音楽的な完成度という点では、やはり原稿版の方に軍配が上がるのであろう。しかし、オリジナル版からは、何か世俗的なものを一枚はぎとったピュアさを感じとることができ、シベリウスファンであれば聴いてみる価値はあると考える。
二つの版の違いの詳しい解説などは、だれかがどこかでしてくれないものだろうか。

2001年9月26日水曜日

憎しみの源泉

昨日のテレビ朝日「ニュースステーション」で、タリバン政権下のアフガニスタンの状況が、進入したカメラのもとに映し出されていた。かなりショックを受ける状況だ。

タリバンは、アフガニスタン国民には「恐怖政治」でしかない、暗黒時代だと言う。「自分の国でありながら囚人と同じだ」と答える店の主人。「金も夫もいずに、どこに幸せなど感じられるか」とインタヴューに答える女性たち・・・

地雷で足を(両足も!)失った多くの人たち。公然と行われる公開処刑。子供の教育にまず教え込む「ジハード」。子供達にまず憎しみを植え付けようとしているのだろうか、公教育として。この世は不幸なので、ジハードで命を捧げ、あの世で幸せになろう、などという宗教観は末世成仏と同じで人間に未来を提示しない。

これらすべて、タリバンという圧制による民衆の抑圧だ、そこから開放してあげることこそ、(西、イスラムを問わず)我々の役割だという意見は、おそらく正しい。

しかし、そこの論理から、テロ組織を根絶やしにすることが正なのかとなると私は混乱する。テロ組織とその土壌は、日本の曖昧なる「周辺」への定義と同様に、まわりにどこまでも広がってゆく・・・・

ふと思ったが、「憎しみを植え付ける教育」の存在である。例えば、韓国や中国では、日本の戦争での悪逆を繰返し教えている。「憎しみ」を教えているつもりはなかろう。しかし、その教育の先に、相互理解の道は見えないと思う。「憎しみ」や「差別」を植え付けられた子供達を、真に救うということなど可能なのだろうか。

我々の西側寄りの社会には、昔風の論理を踏襲すれば「搾取する側」と「搾取される側」が今も厳然と存在している。 誰も、もはや「搾取される側」にはなりたくない。そう全ての国民が気づいた瞬間に、私はアメリカ的資本主義の終焉を見る思いがするのである。決してオーバーな話ではなく。


フルート・カルテット結成・・・・・か???

ヤマハを辞めたら、ちっとも練習しなくなってしまっていた。やはり目標がないと駄目なものだなあと思っていたそんな折、ネットで知り合った方たちとフルートカルテットを結成しないかという話になった。

集まったメンバーは男性2名と女性2名。Oさんは中学高校と札幌生まれのフルーティストM.K氏と同じ学校、学生時代に徹底的にしこまれたという実力派。Nさんはフルートをご専門にされている方。Mさんはブランクはあるものの中学生時代に吹奏楽でフルート吹いていた経験の持ち主。おそらく私が一番、ヘタッピのようですっごく不安。

家人に「今度にネット知り合いの仲間4人で演奏(練習)することになった」と話したら、「あなたの実力、他の人分かっているんでしょうね?」とさとされてしまった・・・・さらに不安は募る!

��さんの話ではフルートカルテットの曲集は探す気で探してみると意外と見つからなく、仮にあったとしても難易度がかなり高いらしい。まずは、「フルート・カルテット60選」(内田有洸 編曲)という曲集を見つたとのこと。私は札幌フルート協会で佐々木先生が編曲してくださったものを、いくつか借りれないかななどと、虫の良いことを考えたりしているが、あれはあれで難しかったよな。(それにこのごろ協会に出ていないし・・・)


2001年9月25日火曜日

狂牛病とテロ

公私忙しく、ニュースをじっくりと熟読している時間がない。

思ったことをメモる程度に今回は留めるが、狂牛病である。いままでは遠く、ヨーロッパの話であるという認識しかなかった。日本は安全なのだと、過信していた。

しかし、今回の狂牛病の発覚により、世界の中で日本だけが特別ではないことを知らされた。

これは、アメリカへのテロ問題についても同様の認識を持たねばならないことを示唆している。ニュースキャスターも指摘するように、米国がテロ社会に報復をすると、日本へのテロが発生しないとは言い切れないのだ。テロ対策としての政府の対応はどうであろうか。

数日前の朝日新聞に、民主党議員が、テロの翌朝の永田町ののんびりと珈琲をすすりながらテロについて話す風景に、危機意識の薄さを嘆いた一文がよせられていた。テロの後、国民への呼びかけや、迅速な対応が日本にあっただろうか。

テロも、狂牛病も、イスラム問題も、すべて自国のこととして考える主体性が必要なのだ。米国に付いていきます、自衛隊を新法つくって派遣します、ということで、国際的地位の回復を図ろうとすることは、本来の方向からずれたものだと私には思えてしまう。米国は、決して日本を対等などとは見なしていないだろうし。

日本政府や官僚は、日本国民を守るというという意識が、抜け落ちているのではなかろうか。

2001年9月23日日曜日

基礎て重要だよな・・・

基礎て重要だよなと改めて思い、タファネル&ゴーベールだのアルテスの1巻(!)とか昔やった練習曲とか、引っ張り出してきて吹いてみたのだが・・・・

��&Gは音階練習(EJ1~4)のところしかやっていないから、数度離れた音階とか分散和音などに挑戦してみるも見事に跳ね返されてしまう。臨時記号なんてつけている余裕がなく、練習になりやしない。

暗澹たる気分で、アルテスの1巻(なぜ1巻なのかを書き始めると長くなるので書かない)を取り出してみた。指定速度にメトロノームを合わせて吹こうとして愕然! 「なんだなんだ、こんなに速かったのか!」 と叫んでしまう。

アルテス2巻もやるにはやったが考えてみれば速度記号は全く無視してのハナシ。1巻なら出来るかなと思っていたら甘かった!

我が手の中のフルートをぢっと見つめ「ぜんぜん、進歩してないぢゃん・・・・」と、くら~い気持ちになり、愛機ヘインズを箱にしまってしまうのであった(>しまわないで、練習しろよとか思うけど)


2001年9月22日土曜日

ブッシュの報復演説

アメリカは、今回のテロの首謀者をビン・ラディンと特定し、アルカイーダ組織の撲滅を宣言した。実質的な戦線布告である。アルカイーダとそれをかくまうタリバン政権とは、もはや一切の交渉はないという一方的かつ強硬な姿勢だ。議会はほとんど満場一致でブッシュを支持、ABCの世論調査でも国民の90%が報復攻撃を支持しているという。私は、こんなに過激な演説は生まれてはじめて聞いた。こんなことを話す国家主導者が現在生きていることに恐れをなした。

タリバン政権は、「証拠を示せ」というが、アメリカはそれを拒否している。

昨日のテレビ朝日では、「アメリカが(協力各国に)証拠を提示していないのに、日本も協力すると言っていいのか」と久米宏が自民党 阿部氏に問うていた。それに対し「証拠を提示してくれなければ協力しない、というのは通る話ではない」と答えていた。もはや協力が前提だ。

「敵」は状況証拠からアルカイーダなどの国際テロ組織、米国を中心とする西側資本主義社会に攻撃をしかける彼らだ。それを武力を使い「根絶やしに撲滅」するのが目的だ。「Justice will be done!」という超極太のゴシック文字がアメリカの新聞に踊っている。

ちょっと待って欲しい。確かに5000人近い人たちが、それも民間人が、狂気のテロ行為により殺された。でも、そこまで憎しみを持つのはどうしてなんだ。彼らとの対話は、本当にもはやないのか、残されていないのか。テロ組織を撲滅して、新たなテロの芽を生むことにはならないのか。

テロ組織の作ったビデオが放映されていた。彼らは訓練している。肉体的にも、精神的にも。子供達にも「アメリカが悪である」と教育している。

今回は、そういう子供達も「根絶やし」にするつもりなのか? 最終的な勝利は何をもって宣言するのだ? そういうことが提示されない作戦に、やすやすと「協力」という言葉を口にする政治家は誰か、われわれはしっかり覚えておかなくてはならない。これを機に、集団的自衛権とか周辺事態法案などを有利に持っていこうとする人たちを覚えておかなくてはならない。

そして、「自国の主体性に基づいたテロ対策」や「アメリカ追従でない自国の平和的安全保障と国際外交戦略」というテーマで論じる人が誰なのか、見極めなくてはならない。おそらく、私たちの安全保障の将来がかかっている。

 いま、日本は湾岸での恥さらしの汚名を挽回しようと、あせっていないだろうか。

日本フィルハーモニー交響楽団 北海道定期を聴く

日時:2001年9月21日
場所:札幌コンサートホール(KITARA)
グスタフ・マーラー:歌曲集《さすらう若人の歌》
グスタフ・マーラー:交響曲 第1番 ニ長調 「巨人」
指揮:井上 道義
ソプラノ:下原 千恵子
演奏:日本フィルハーモニー交響楽団

日フィルの第25回北海道定期札幌演奏会に行ってきた。この前の札響の時と同じような(もっとひどい)悪天候。偶然今日の演奏会のあることを知り、仕事を途中で切り上げ駆けつけた。天気のせいなのか客の入りは7割くらいといったところだろうか。

日フィルも井上さんの指揮も聴くのが始めてであるので期待をもってでかけた。演奏は、ソプラノの下原さんもすばらしく、演奏の出だしをあでやかに彩ってくれた。ソプラノの声の凄さに改めて感心。すばらしい。もっと聴きたかったが、演奏時間16分というのはちょっと短すぎなかったろうか。

休憩をはさんでの「巨人」は、これもダイナミックにして若々しさを感じる演奏だった。ラストへ向けての盛り上げも素晴らしく、コーダにとてつもないクライマックスを用意するあたり、井上さんはけっこうショーマンだなと思った。

金管群を聴くと、これは札響よりもうまいと感じたのだが、このあいだの札響の弦セクションの音を思い出すと、比較することに意味があるのかは不明だが、札響の弦てすごく美しいのだと思った。日フィルが悪いというのではない、誤解しないでもらいたい。

ただ、今週は体力的にも精神的にも疲れていたせいか、最後まで演奏が体に浸透してくれなかった。何度か、鳥肌立つような部分もあったが、心から震撼できなかった。ブラボーの声はあちらこちらからあがっていただけに、残念に思った。

こういう重量級のプログラムの後にはアンコールはいらないのだが、会場の誕生日の人に向けて「ハッピバースデー・ボレロ版」というものを演奏した。これは、井上さんがよくやるものなのかは分からないけど、洒落ていて素晴らしかった。ここでやっと緊張が解けた感じ。

本当はもう少し細かなレヴュを書きたいが、適うだろうか?

蛇足になるが、今日は2階CB席7列という絶好のポジション(当日券)。斜め前で、女性が演奏にあわせて体を動かしたり、ティンパニをたたく動作を繰り返していたけど、女性でもいるんだなあ、そういう人。



2001年9月16日日曜日

いくつもの世界

ここまで書いてきてひとつ気づいたことがある。私の場合だが、中東やポスニア紛争の報道に接してもここまで暗澹たる気分に陥ることはないと思う。

なぜか。それは、彼らの紛争を「別の世界の出来事」ととらえているからではなかろうか。中東問題やアラブ諸国も日本から見ると「別世界である」。

逆に、アメリカを敵対視するアラブ諸国やビン・ラディンも「西側世界が我々の世界を抑圧している」という見方かもしれない。彼らとは別の世界にわれわれは住んでいるのだ。

ふたつある(あるいは複数)の、そのひとつの中にしか、われわれは属していない。他者の痛みなど決して分からないのかもしれない。

他者の痛みなど決して分からない国に、他者の扮装の仲裁などどうしてできようか。人道的には正しいと思ったとしてもだ。だとすると、対米追従型の路線を貫くしかないのだろうか。今の私にはわからない。

2001年9月15日土曜日

テロを境として

テロの報に接し、謹慎しているわけにも、不謹慎な言動を取ることもできない。では、何ができるのか、ということになる。

��機目がWTCに突入したのをNHKの生放送で接し「これはテロだ、大変なことになるぞ」と思った。数十分後に国防総省へのテロの報を聞き、もはや日本も傍観者ではいられず、我々の生活にも大きな影響を及ぼす重大なる局面を迎えるという予感を感じた。

傍観者ではいられない、ということは、何をすることなのだろうか。

昨日の朝日新聞の「視点」で小田実が書いていた。こういうときこそ、平和憲法を有する日本のするべき立場があると。米国の武力をもった報復攻撃に協力支援することではなく、中東問題の解決に向けての尽力をするべきなのだと。それが真の「構造改革」ではないかと。

いかにも小田実的な意見である。しかし、世の動きは米国追従である。小泉首相は「いかなる協力も惜しまない」という主旨の発言をしているが、それは、自衛隊を動かし後方支援するということなのか。あるいはもっと踏み込むのか。もはや人は出さずに金だけ出すということは許されないだろう。

テロを境として、今までの防衛論の根底からなし崩し的に変革する恐れさえはらんでいるように思える。タカ派的な意見がこれから、巾をきかせるだろう。いままで防衛論について先送りしてきただけに、これからの成り行きが不安である。

こういう風な世の中の気配を感じると、音楽を聴きいたり、日々家族と何気ない生活をしているというだけのことが、どんなに幸福なことか、ということを身にしみて感じるのである。

2001年9月14日金曜日

蝕まれる心

有事という異常事態が、いかに人間としての人間らしい感情を阻害してしまうものかということを、ここ数日思い知らされている。

阪神大震災のときもそうだった。仕事の関係で震災後、神戸入りし二日ほど現地調査を行った。壊滅的な都市状況がそこに展開されているにも関わらず、隣町の大阪は何も変らない日常がそこにあったことに不思議な違和感を感じた。たった電車で数十分の距離(分断されていたのでバスや徒歩が混じるが)に厳然とした不連続線が存在していた。

今回も同じような断層を感じる。まさに戦場状態のNYの一地域、大リーグや証券取引が停止しているとは言っても、世界は日常を過ぎることを止めはしない。

しかし、私たちの心にはどこか浮かないしこりが深く沈んでしまったのではないだろうか。TVでふざけた番組が流れると、あるいは、スポーツ番組が放映されていると、違和感を感じてチャンネルを回してしまう。本当はそんなことをする必要はないのに。不謹慎というと言い過ぎだろうが、心にブレーキがかかるのを止めることができない。

2001年9月13日木曜日

文化とか芸術って

文化とか芸術は、人間にとって欠くことのできないものなのだろうか。音楽に限らず、絵画や文学、エンターテイメントまでを含めてもいい。サブカルチャーという少々古い言葉を持ち出すまでもなく、この手のものは容易にいくつも列挙できる。

いざ有事となったとき、これらの活動は著しく制限されるだろうと思っていた。「今はそういう場合じゃないから、国民一丸となって・・・」という具合に扇動されるのだと。でも、米国へ同時多発テロの報に接し、扇動されるのではないと思い知った。個人がそういう気になれなくなってしまうのだ。理不尽な暴力により、そんな気にならなくなってしまう。

身内に不幸があって何もする気になれない、ということはある。そこまで極端ではなくとも、仕事が気になり、音楽なんて聴いてられない、という場合もある。でも、有事のときの感情というのは全く別物なのではないか、という気がして慄然としてしまった。

芸術や文化は平和でなければ育たないというものではない。過去の歴史において、戦争中でも芸術活動というのは存続しているし、むしろ利用されている場合もあることは枚挙にいとまがない。

しかし、恐怖や驚愕は生命の存続に対するシグナルであるため人間の中で最上位に位置しているらしい。トマス・ハリスの「ハンニバル」という小説の中で、「脳の中で味覚は憐憫の上位を占めている」というコメントがあるが、芸術はいったいどこに位置しているのだろうか。


2001年9月12日水曜日

テロの映像を見て

世界貿易センターに航空機が突入するシーンを、まるで映画のロケのように多方向のカメラアングルで、いやというほど繰返し放映している。また、本当に信じがたいことに、その400mもある世界有数の超高層ビルがダイナマイトでのビル破壊を見るかのような具合に崩壊するシーンを見る。

映像を見ながら慄然とするとともに、「映画を観ているかのような」非現実感を伴い、大いなるカタストロフにカタルシスを感じている自分にふと気づかされる。そう、これはまだ自分の身に起こった悲劇ではないから、傍観者たれるのだ。

このような映像(表現)に慣れすぎているが故に「映画的」と思う心を止めることができない、不謹慎と思ってもだ。心の中に固いしこりとともに、大いなる断層を感じながらニュース映像から眼をそらすことができない。 

テロの映像や写真は、間違いなく21世紀の一頁に(世界が21世紀まで存続していれば)残るだけのニュースバリューを持ちつづけるだろう。

しかし、この映像の持つ恐怖は心の奥に澱のように沈んでしまったのではなかろうか。仕事をしながら、ふと窓の外をよぎる影に気づき、あるいは不穏なジェット機のエンジンのような音を耳にし、不安気に窓の外に視線を泳がせる自分に、今日気づくのである。まさか・・・・と、一瞬後に自分を笑い飛ばしながらも。

2001年9月9日日曜日

尾高忠明指揮 札幌交響楽団のシベリウス

札幌交響楽団 第438回定期演奏会
日時:2001年9月9日
場所:札幌コンサートホール KITARA
指揮:尾高 忠明
ヴァイオリン:竹澤 恭子

シベリウス 交響曲第1番 作品35(没後50周年記念
シベリウス ヴァイオリン協奏曲 ニ単調 作品47
シベリウス 交響曲第2番 ニ長調 作品43

最初の尾高忠明(1911~51)は、指揮者・尾高尚忠の父の作品である。彼37歳のときの作品。解説には「札幌交響楽団初演曲」とある。

どんな曲かと思いきや、最初から打楽器などの激しい出だしでかましてくれる。始終緊張感に富んだ曲だが、現代音楽というような難解さは全くない。はじめて聴く曲だが心の中に徐々に入ってくる。激しく荒い部分や、暗く不安な部分があるものの、最後は希望が見えるかのような前向きな感情を残して音楽は終わる。

結構、かっこいい曲であるという印象。「通俗的」という評ももしかしたらあるかもしれないが、私としては好きである。聞くところによると、尾高のフルート協奏曲は指揮者の尾高忠明が手を入れているが、この曲は忠明の手によるものらしい(ある方からのメールで、教えていただきました)。こうなるとフルート協奏曲も聴きたくなってくる。

さて次は竹澤さんのシベリウスのVnコンチェルト。実は数年前にサントリーホールで、C・デイヴィス率いるロンドン響で、同じプログラムを彼女のヴァイオリンで聴いたことがある。そのときは、ロンドン響の音に負けてしまっているような感じで、音が届いてこない印象があった。そのため、若干不安をもち演奏にのぞんだ(失礼)。

しかし、そんな杞憂は最初の震えるような出だしの音で打ち消されたてしまった。そして、のっけから凄い音で聴かせてくれるのだ、オイオイというぐらい響いてくる。ヴァイオリンの音って、こんなに美しかったかしらと改めて感歎するほどだ。

私の席はRAだったのだだが、あの小さな楽器と小さな体かを用いて、それこそ全身を楽器とするかのような共鳴感を感じた。ぐいぐいと迫ってくる迫力は見事であった。
ひとつ気になったのは、札響の演奏である。竹澤さんの豊穣にして情感あふれる演奏とは少し一線を画した音つくりのように思えたのだ。ミスマッチというわけではない、しかし、最後まで何かしっくりこない違和感を感じたのは何故だろうか。最初に違和感を覚えてしまうと、それを打ち消そうと思っても、演奏に没頭でなくなってしまう、悪い癖だ。このように感じるのは、ごく個人的な印象でしかなく、「分かってね-な」と言われかねないのだが・・・

竹澤さんは、リサイタルなどあれば是非聴きたいと思わせてくれた、今までのマイナス印象払拭で満足というところ。  

最後のシベリウスの2番、これは熱演であった。改めて思うが札響はヴァイオリンをはじめとし、弦楽器の音色の素晴らしさは眼をみはる。なんと流麗に、そしてあでやかに奏でることであろうか。チェロやコントラバスの支えもしっかりしており、特にコントラバスの力の入り方は見ていてあわ立つ思いさえした。

打楽器(といってもシベ2では真貝 さんのティンパニだけだが)も、打つところはしっかり打ち、つぼを得ている(なんて書いたら殴られそう、失礼!)。

金管群には若干の不安が残るものの、ホルンも立派であったしトランペットもしっかりとオケに溶け込み壮大なるドラマの重要なる役割を果たしてくれ非常に満足である。ただ、ときどき異様に耳につくチューバの響きには、首を傾げることもあったのだが、RA席のせいだろうか・・・

木管というのはオケの音色を左右する重要なセクションであると思う。特にオーボエとフルートは特にそうだと思う。このふたつについては、札響の音色はどちらかというとふくよかで豊かな音色であると感じた。その点がシベリウスとして期待する音色感と合致していたか、というと、ワタシの好みとしてはいまひとつだ。しかし、体勢に影響するような問題ではない。瑣末的な感想だ。

尾高さんの音作りなのか、それとも札響のオーケストレーションなのか、今回の演奏からは、細部の組立てが浮き上がるような構成美と対比感を強く感じた。もっとも、すべからく生演奏というのはクリアなものなのであり、いつもいい加減にCDばかり聴いているから、たまに生を聴くとそういう風に感じてしまうのかもしれない。これは、多くの演奏(札響を含め)に接していないだけに、なんとも言えない。

しかし、そのようなことを前提としつつも、主と従の対立関係というものが見事に浮き彫りにされ、音響的な立体感を感じさせる演奏であると感じた。また、音響的には厚みよりもお互いの共鳴感が際立ち、フライパンの中ではじけるポップコーンのような粒立ちを感じた。(比喩がなっとらーーーーーん)

シベリウスの特集をしているせいで、最近この曲は何度も聴いていた。それにもかかわらず、具体的にその個所を指摘することは今となってはできないが、何度も「お、こんな表現だったか」と思わせる部分に遭遇し、眼を見張り耳をそばだてた。

一方で、これを若干オーケストラとしてのまとまりに欠ける、という具合に解釈することもできるのかもしれない。例えば、突出して聴こえたチューバの響きにしても、どちらとも取れるかもしれない。クラシック初級者の私には、それらの点については、指揮者と団員の意図はわからない。

ただ、このように非常に興味深い演奏であり、熱のこもった演奏(と聴こえる)であるにも関わらず、非常に清冽なる印象を受けるのはどうしてなのだろうか、尾高のシベリウスに対する解釈なのか、札響の特質なのか。アッチェレランドやリタルダンドも多い(ように感じた)、強弱の巾も大きい、しかしそこから表現される世界は透明なる大容量の水が堰をきってあふれるかのような盛り上がり方なのだ。

そして、もうひとつ、シベリウスの音楽に私が始終聴いてきた「上からあふれてくる光」というものを感じさせてくれる演奏であることには、大きな喜びを感じた。この光とは、尾高の交響曲でもその裏に感じたが、「希望」というものを思うのだ。ラストのコーダに向けての部分は、やりすぎるといやらしくなるのだが、抑制の中に素晴らしい盛り上げを聴かせてくれ、個人的には心が震撼するのを止めることができなかった。

シベ2といえば人気の名曲だが、覚えやすいフレーズの間にはさまれた部分が、美しいくも複雑な動きをしていて驚かされる。霊感に満ちた音楽であることにも気づかされたのである。

そういうわけで、非常に満足のいく演奏であったのだが、冷静に考えればオケを聴くのは実に半年振りで、過剰に反応してしまっただけなのかもしれない。演奏会に行かれた皆さんは、どのように聴かれただろうか。

税金返せ

今日の朝日新聞の「声」のところで、40代の主婦の意見が寄せられていた。外務省の税金詐取事件に心底怒った声だ。

いわく、自分たちは少しでも安い商品を買うために、安売りの情報を仕入れ苦労しているというのに何たることか、消費税分をレシートをもって税務署に押しかけて返してもらわないと気がすまない、という内容だ。

先に私は、外務省の詐欺事件を日本人に蔓延している公私の境界のあいまいさという観点から書いたが、この投書を読んで、いかに企業的な観点にアタマが毒されているかということに気付かされた。

そうだよな、冷静に考えれば「税金返せ」といって暴動起こしたっていいくらいだよな。

【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第5番


指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 録音:Dec 1996 FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
ベルグルンド&ヨーロッパ室内管の演奏の素晴らしさは今まで何度も述べてきた。シベリウスの音楽の特徴とも言える抑制され余分なものを殺ぎ落とすように形作られるあり方や簡素さ、それでいて曲の内部に包括する複雑さや襞など、彼らの演奏を聴くと新しい音楽に接するかのように新鮮に響いてくる。
この演奏も、派手さや華麗さなどを全面に出すことなく淡々と演奏しているのだが、しかしどうだろう、雲の合間から幾重にも重なる光の筋とともに降り注ぐきらびやかな光を浴びるかのような演奏だ。表現として比喩を用いることの不適切さを承知しながらも敢えて書くとすると(ケーゲルの4番でも書いたように)、上からバーと降り注ぐ光のようなイメージなのだ。しかも非常に硬質な煌きをもった光だ。
上方から降り注ぐ光を全身に浴びるうちに、からだの内側から得も言われぬ至福の喜びがこみ上げてくる。例えばこの演奏の第三楽章を聴いてみるといい。次第に高まる音楽が、あたかも呼吸のように身体と同化し、極めて音楽的な境地に達することができる。
ラストに向けてのテンポの落としてゆく部分など、演奏の美しさはもはや言葉にならないほど壮大なドラマを演出している。孤高の高みはキリスト教的な大伽藍ではなく、山岳の頂に重なる太陽の陽光のような宇宙的な広がりと大きさを感じることができる。冒頭の霧の中の音楽から、ここに至って一切の靄は消えうせ光の世界に突入したかのようだ。
このようなシベリウスの世界を、輝く煌きでベルグルンドは表現しつくしている。いやはや素晴らしい。 彼の演奏を何度も聴いていると、決してノーマルで正統的な演奏に終始はしていないことに気付く。
強烈なアタックやリタルダンド、や多少癖のあるフレーズ作り(一楽章4分半のtpの響き)、金管を十分に鳴らしたクレッシェンドとフォルテでの表現、逆にピアノ部分での弦のトレモロの美しさや木管の音色など、オーケストラの色彩感は非常に多彩である。強弱のダイナミズムの幅も大きい。
それでいて演奏が重くない、あるいは、どろどろとした情念のようなものを感じず、さわやかな透明感と凛とした涼しさに彩られた演奏だ。これは不思議な感覚と言ってよい。
例えば1楽章の終わり方の迫力を比べたら、さきの2枚の中ではデイヴィス盤の方が圧倒的と言えるかもしれない。しかし、ベルグルンドの演奏を通して聴いてみると、そんなに大げさな表現をしなくても十分であると思えてくるのだ。シベリウスはそんな恥ずかしい、あからさまな音楽を書いたのではなかったのではないか、という気にさせられる。それでも音楽は深く心に入ってくるのだ。
もっとも、これは演奏者の解釈、聴く者の受け取り方次第だとは思う。とはいえ、私としては清冽な美しさと力強さを湛えたベルグルンドの演奏に聴くほどに引き込まれてしまうのである。

2001年9月8日土曜日

景気回復の暁に・・・

長くなったので項を改めるが、構造改革なって景気回復したとき、皆さんどういう生活をしたいのだろうか?
 
会社に勤める人なら、夜のクラブでドンペリ飲んで、ゴルフ場に通いまくりたいのだろうか(私は経験ない)? あるいは、経費で韓国や東南アジアに行ってカジノに行きたいのだろうか(これもない)?  女性なら、ブランドバックやコートを身にまとい、海外旅行や香港買い物ツアーに毎年のように行きたいのだろうか?
 
そういう生活が、豊かな生活なのか?・・・・確かに豊かだとは思う。
 
でも、私はそんな生活をしたくはない。
 
情報や流行に追われず、家族や友人と、自由に豊かに、安心して過ごせる環境と時間をください、と言いたい。
 
隠居するということじゃない。イベント的な派手な楽しみではなく、日々の生活での楽しみみたいなものが少なすぎると思うのだ。
 
いまの日本の社会で、子供の成長を十分な余裕をもって、ともに喜んで見守ってあげられる大人はどのくらいいるだろうか。

2001年9月7日金曜日

外務省の詐欺容疑事件に思う・・・日本の体質

外務省のホテル代水増し請求事件(外務省の元課長補佐が詐欺容疑で逮捕された事件)に、皆さんはどのような思いで接しておられるだろう。地位を利用して詐欺まがいの着服をして本当にけしからん、というの感想が多いと思う。金額といい、外務省の体質といい、われわれの感覚とはかけ離れたものを感じて、憤りを感じるのだと思う。
 
しかし、思うのですよ。官僚に限らず企業においても、公私の別がつきにくい体質というのは、日本全国に蔓延しているのではないかと。
 
例えば、会社では接待費というのは経費でおとせることになっている。しかし、接待しているのか自分で自分を接待しているのか分からないような状態は現実にはあると思うし、部課内の同僚と飲み食いしたものまでも、接待したとの名目で領収書を差し出すこともないわけではなかろう。コンプライアンスや経費節減がうたわれるご時世、何の理由もなく社員が飲み食いしたものに金を払うところはなくなってきているが。
 
うちの会社のハナシをして恐縮だが、接待には事前承認が必要で、一人いくらまでという上限がある。また去年まで存在した、部署長なら持てたタクシー券も遂に廃止になった。しかし実態としては、そのような社内規定が有名無実化している部署もある。(だから、古い体質の会社なんだよな)
 
このような意識が生まれる背景には、サービス残業のあり方や、会社への拘束度というものが大きく影響しているように思える。自分だって「タダ働きしている」のだから「少しくらい経費を使ってもいい」という感覚だ。言い換えれば、企業は経費の横領を半ば黙認しつつ、個人を安いサラリーで雇っているわけで、労使暗黙のいわば飴とムチのようなやり方といえない事もない。
 
これは、日本の企業精神風土として公私の別がないことを表す一つの例といえまいか。欧米式にビジネスライフと個人の生活を厳然と分けるような生き方とは、根本的に異なる気がする。欧米にも残業しまくるトップビジネスマンはいる。しかし、彼らは企業に縛られているのではなく、自分の地位向上の為に企業を利用しているようなイメージだ。
 
日本のビジネスマンは、会社に住宅ローンまで借りてしまい、褌(ふんどし)のヒモをつかまれたまま公私の別なく働かされているという気がする。夜は夜で、接待という名の際限のない飲食、土日も客や関係会社との親睦という名のゴルフという例もあろう(さすがにバブルはじけて、客足は遠のいていると思うが)。
 
いったい個人の自由な時間、家族のための時間がどこにあるというのだろうか。
私は、このように考えた場合、元課長補佐の罪は消えないまでも、日本社会の代表として逮捕されたという気がして仕方がないのだ。そして、こと外務省だけの問題ではないため、問題の根は一向に改善されないと暗澹たる気分になるのであった。
 
構造回復や景気回復のことで、何度も書いているが、結局行き着く日本人の「幸福論」。これは、案外、個人の個としての自立と家族重視の考え方ということから始めないといけないのかもしれない。日本の病理の全ては、ここらあたりに根があるのではなかろうか。
個人の自立意識により企業体質が変るのか、その逆かは分からないが。おそらく外資系企業やIT系企業は(知らないけど)かなりドライだと思う。
 
まあしかし、大上段に書いているけど、私だって経費で飲み食いしちゃうし、同じ穴のムジナなんですよ。哀しいですね。

2001年9月5日水曜日

職業訓練の報道

9月3日の朝日新聞朝刊に、再就職における雇用のミスマッチと、職業訓練あるいは技術を学ぶ学校において「学級崩壊」が生じていることに触れていた。

学級崩壊の原因はふたつのケースがあるらしく、ひとつは教える内容が難しすぎて分からないというもの、もうひとつは、自分のやりたい内容が十分に得られない(易しすぎて実務に使えない)というものらしい。どちらもIT関連産業における技術者養成の教室として取り上げていたが、確かにキーボードを触ったことがなく、ワープロや表計0算を覚えてたいというニーズと、表計算とデータベースソフトを使ってプログラムを組むような、今風のシステムエンジニアを目指すニーズは同じ教室では扱えまい。

さらに、それらの職業訓練をたったの数ヶ月で終え、再雇用の道が開かれているのかということにも疑義を呈していた。福祉関連の職業にしても、3ヶ月やそこらで「プロ」になれるものではなかろう。数年から数十年を実務で働いていた正社員とどうして渡り合えようか。

ここに、セーフティーネットの限界が見えてくる。4日の朝日新聞(だったかな)では、中高年技術者にアジア方面からの雇用ニーズがあることを報じていた。これから技術的に発展しようとしている国が、例えば松下の大量リストラ要因を吸収するという構図だ しかし、これも給与面で満足のいく結果が得られる人は極わずかであるらしい。

ここまで雇用情勢が悪くなると「一度入った会社に、なんとしてもしがみつこう」という意識が強くなることも否定できまい。企業とて、自己啓発だ資格取得義務だの個人の付加価値を上げるように尻を叩く。付加価値の低い社員は出世させないとまで言い切る。

またしても企業論理での人としての付加価値。企業至上主義である以上は、再就職の道は極めて狭いというのが実感である。すんなり希望職に就ける人は、おそらく会社の中でも成功するタイプの人だろう。

2001年9月3日月曜日

失業時代を迎えて

IT関連企業のリストラなどを新聞で見るにつけ、恐ろしい時代に突入しつつあるという実感が湧いてくる。リストラされる対象社員(国内・国外を問わず)は、企業の狭い価値観の中で「不要」という烙印を押されるわけである。

この企業の価値観というものが今のの社会を支配しているわけだが、仮にこれを「正」とした場合、企業が求める人物像が教育などを通して育成されているのかという疑問が湧いてくる。

勉強しなくなった大学生(かくいう私も昔はそうであった)や、勉強をさせなくなってきた義務教育など、こと基礎学問に関しては教育は荒廃の一途を辿っているように思える。(というよりも、文部科学省は「できるもの、使えるもの」と「それなりの人」の二極化を図ろうとしているように思えるのだが、これは以前も書いてきた。)

さて、企業にとって有用とはいかなることであるか、少しだけ考えてみた。

企業が求める人物像を考えるに、まずタフであること(これは体力・精神力ともにである)が第一条件である。 次に、対外折衝能力に長けること。タフネゴシエーターであることは、一方的に自分の論理を展開するのではなく、人から信頼されることが必須であり、このような資質が最も重要であると考える。学習で得られるスキルとしては、専門分野におけるゆるぎなき知識があり、専門外の分野にもある程度明るいことが求められるだろう。公教育はこの点を担っているのだろうと思う。これらを有した上で、内政重視の組織型人間ではなく、外向きで前向きかつ独創的な発想ができ、思考の柔軟性と確たる意思を有し(相反する資質だが)、ジョブにおけるリスク管理ができており、いくつかの考えられるケースに対応可能な用意をしておけることなどなど・・・。そして、人物的には、人から好かれ他者への配慮と思いやりがあり、仕事オンリーの人物ではないこと、などなど。(列挙してきて うんざり してきた。「そんな奴いねーよ」てね)

こういう人物を企業が求めるとしたら、学校教育や家庭教育でできることは少ないと思えてきた。企業側は、大学まで出ていながら、使える学生が少ないと嘆くが、大学側はそれには抵抗を示しているようだ。企業への就職予備軍を作るのが教育の役割ではないと、仮にとなえるならば、教育の役割とは何か。ゆとり教育で何を見出させるのか。

失業率5%というと、すぐにセーフティーネットというが、不幸にもリストラされた方に再就職させ企業で成功するほどの「スキル」を後から身につけさせることなど可能なのだろうか。といって、学習で得られるスキル以外で自分を売り込めるとしたら、上にあげた資質を含めて他に何があるだろうか。自分を振り返ってみると、いまの立場が砂上の楼閣でしかないことに慄然とする。

一方で、企業の価値観から「正」とする人物像を否定する人物像というのは考えられるだろうか。企業=組織として捉えているわけではないので、独立した事業家みたいなものはそれには入らないような気がする。

このような社会で生きてゆく上での、道しるべが見えないのは私だけだろうか。

【シベリウスの交響曲を聴く】 ケーゲル指揮 ライプチヒ放送交響楽団による交響曲第4番

指揮:ヘルベルト・ケーゲル 演奏:ライプチヒ放送交響楽団 録音:1969 BERLIN Classics 0031432BC(輸入版)
この演奏を聴こうとする、あるいは既に持っているのならば、私の下手な解説よりも「奥座敷」で展開されている、この演奏に対する解釈を読む方をお奨めする。この評があれば、これ以上何を付け加えるとい言うのかという気になる。また須田さんによるシベリウスのページの中の交響曲第4番の解説においても、この盤がとんでもない演奏であることに触れ、数ある4番の演奏の中で最も優れた演奏という位置を与えている。
しかし、私としてはケーゲルのこの演奏が4番として非常に優れた演奏であることは認めるものの、シベリウスの演奏として名演奏であるかという点になると賛同することには躊躇してしまう。この演奏はシベリウスの当時の陥っていた苦境を、ケーゲル独自の世界観で解釈し音楽にしたという点においては非常に優れていると思う。
特に、一楽章の圧倒的な迫力と力強さ、そして第三楽章の人生への諦念と黄泉の国から響くかのような音色は、聴いていて重苦しく心を打つ。その一切の妥協のなさは深い慟哭とともに音楽を特徴付けている。強引に強い綱か何かに縛り付けられ、暗い海の底へと引きずりこまれるかのような錯覚さえ受ける。
演奏の音色の重心も当然低く、コントラバスやチェロのの響きの重さといったらこれ以上のものはないと思わせるほどだ。
奥座敷では『ケーゲル盤は、死の恐怖と生への葛藤という事をまさに実感させてくれる演奏』という誠に的を得た表現でこの演奏の特徴を見事に言い当てている。妥協のない演奏解釈は、捉えどころのないこの曲に、しっかりとした縁取りと輪郭を与えていると思う。
しかし、私はふと思うの。今まで4番の演奏を四つほど聴いてきた。そのどれも、どちらかというと、ここまで暗くはなく、希望というものを垣間見せてくれる演奏であったように思える。それぞれの組み立て方は違っても、曲のフレーズの中に硬質な煌きが垣間見えたものである。それは、シベリウスがこの時期に、深い嘆きと諦めの中にありながらも、また死の恐怖に抗いながらも、どこかに透明な希望を捨てていなかった気持ちの表れに思えるのだ。どんなに苦境の中にいても、ふと我に返って光をみることがある、そんなイメージを抱かせる。それは人間の心の襞の複雑さというものなのではなかろうか。
ケーゲルの演奏は、解釈の点において分かりやすく迫力があるものの、そのような襞や複雑さに欠ける気がするのである。
ここで改めてベルグルンド&ヨーロッパ室内管の演奏を聴きなおしてみたのであるが、演奏に込められた透明さは格別で、暗い色調を帯びているものの北欧の淡い光と影が、雲の中で交錯するような煌きを感じる。どちらかというと音楽とイメージが上から降ってくる感じだ。それに対し、ケーゲル盤は地の底から湧きあがるかのような暗黒を湛えている。この解釈の違いは大きい。
どちらの演奏を好むかといえば、シベリウス的には圧倒的にベルグルンド盤だと思う。ただ、機会があればケーゲル盤も聴いてみることはお奨めする。