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2003年6月1日日曜日

高村薫:神の火(文庫版)



いったい、彼らは、ドラマの終わりまでに何本のウォッカを空けたのだろう。ウォッカという酒は、どこか他を寄せ付けない厳しさと純粋さを持っている酒だと思う。辛口であり、かつ強いスピリッツだ。冷凍庫に入れてボトルに霜がつくほどに冷やしておくと、グラスに注いだときにトロリと粘度を帯び、一くち含むだけで、芳醇なる甘さと清涼感、そして妬けつくような香りを感じることができる。当然、水で割ったりしない。

しかし、何本ウォッカを空けたところで、小説の主人公たちの空虚さは満たされることはない。ウォッカなどで満たされるわけがないほどの空虚さとは、いったい何なのか。

物語は、島田というスパイを中心にした男たちの物語だ。彼らの抱えた過去について、あるいは、なぜ彼らがスパイあるいは二重スパイにならなくてはならなかったのか、そういうところは、全く描かれていない。最初から彼らはそういう存在として登場し過去を多く語らない。高村氏の小説のこういうところを、不満に想う読者もいるようだが、私は気にならない。過去を語れば現在が見えてくるほど単純なものではなかろうと想うからだ。

スパイを演じることの悲哀は、主人公島田の姿を追っていると、痛々しいまでに重くそしてつらい。

一部分だけの裏切りというのはあり得ないんだよ。妻を愛しているスパイ、親を慈しむスパイ、親友を持っているスパイ。そんなものは言葉の正しい意味で、あり得ないのだ

とは江口が島田に語った言葉だ。島田が最後に元同僚のベティさんと対峙するシーンは痛々しさを通り越している。

また、CIA、KGB、《北》、日本の政府・・・入り乱れての駆け引きからは、日本の政治の生々しい実像や、国家と言うものの危うさ露呈させれてくる。こんな着想を、高村氏はどこから得たというのだろうか。

あるいは、これは男たちの愛の物語でもある。いかにも高村氏のテーマだ。友情なのではない。例えば島田と良(パーヴェル)、島田と島田をスパイに仕立て上げた二重スパイの江口、島田と屈折した幼なじみの日野、島田と島田をスパイとして育てたヴォリス・・・。これらの島田を中心とした男たちは、巨大な虚構と虚無を抱えながら、何かを守るために策謀し、世間からはずれたギリギリのところで己を生きている。彼らの間にあるのは、狂おしいまでの男の愛憎の感情だ。なぜに、島田が良を、そこまで想うようになったのか、そのわけは一度読みとおしただけでは、見えてこなかった。おそらくは、彼の空虚さに嵌まり込んでしまったのだろうか。

この作品も文庫本化に当たり、大幅に改稿されてしまっている。単行本作品において、彼らの関係がどのように書かれていたのか、興味はつきない。というのも、男たちの愛憎というものが、原作ではもっと生々しく書かれていたのではなかろうか、と思ってしまうからなのだが。

あるいは、これは、男たちの、止むに止まれぬ精算の物語でもある。それが自分の不実の過去なのか、男としての頑固な思いこみなのか、埋めることのできない空洞の故なのか、単純な破壊衝動なのか、または社会の脆弱性に対する反抗なのか、愛への証なのか。そのどれと特定することはできない。しかし、もはや理由も問えず、しかも止めることもできない感情の奔流は、おそるべきカタストロフとしてのクライマックスと、救いのない破滅のラストに向って行く。

こういう小説を「エンターテイメント」とか「スパイ小説」と読んで良いのだろうか。果して、この作品は、先の「黄金を抱いて翔べ」との類似点が非常に多い。ほとんど設定は同じではないかと思う部分も多い。しかし、「黄金を抱いて跳べ」の方がまだ軽く、そして救いがあった。「神の火」を読み終わった後の感想は、虚しさとそして開放感による安堵が支配する、何もない世界だった。こんな哀しさはめったにあるものではない。

彼女の小説が、熱烈なる人気があるわけが、本小説を読んで分かった気がする。細部が凄い、全体のプロットが面白い、そして人間たちが魅力的だ。ひとりひとりの顔や姿が目に浮かぶようだ。マニアックにこの小説を語り始めれば、一行一行を追いながらウォッカの瓶を傾けなくてはならないだろう。物語の意味を問い始めれば、深夜からじっくりと読み据えなくてはならない。そういう意味からは、まさにエンターテイメントの極致である。

レビュを書いたが、語ろうとしても語りたいことの十分の一も語れなかった。何かの機会に反芻したい。

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