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2005年9月17日土曜日

関岡英之:「拒否できない日本」


関岡秀之氏は1961年生まれ、大学を卒業後、東京銀行(現・東京三菱銀行)に入稿し証券投資部門ほかを経た後に退職、1999年に早稲田大学大学院理工学研究室に入学しているという一風変わった経歴の方。早稲田大学ではある建築家の研究室に所属し、それがきっかけとなって参加した北京での国際建築家連の世界大会に参加します。そこで感じた一抹の不可解さから、彼は建築界をも超える壮大なテーマに挑むことになってしまいます。

それは一言で言えば本書副題の「アメリカの日本改造が進んでいる」ということです。アメリカの対日圧力要望書である「年次改革用要望書」の存在と、十数年の日本の歴史を振り返ると、まさにその要望書が描くように「改革」が進められてきた実態が明らかになり、アングロ・サクソン(米英)系の個人主義的価値観により日本を塗り替えようとする(ほとんど理解不能の)野望について知ることになります。



本書の内容は、建築、金融、司法、商法などあらゆる分野に「年次改革要望書」の影響が読み取れることを指摘しております。それは日本の国際化とか自由化、国際標準への準拠とか消費者、国民のためと表面的にはされているものの、結果的には米英を中心としたごく一部の勝者が日本で「自由」に動けるようにするための周到な施策と圧力であると看破します。

フリードマン(経済学者、市場原理主義の教祖的存在、1976年ノーベル経済学賞受賞)的な自由主義とは、万人の自由というよりは、投資家や企業経営者たちの自由、つまり平たく言えば金持ちがさらなる金儲けに狂奔する自由を説くものにほかならない (P.204 5.キョーソーという名の民族宗教)



ロナルド・ドーア(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)特別研究員)は『日本型資本主義と市場主義の衝突 日独対アングロサクソン』のなかで、こんにちの「自由化」と言われているものは実は「英米化」にほかならず、それが求めているのは貧富の差を拡大すること、無慈悲な競争を強いること、社会の連帯意識を支えている強調のパターンを破壊することであり、その先に約束されているのは生活の質の劣化である、と述べている。(P.220)


上記の主張や引用のように、関岡氏が現在の「構造改革」の行く末に疑問と警鐘をならしています。

私事になりますが、私自身日々の「無慈悲な競争」の前線で、従来の談合も強調も崩れたゼロサムゲームに似たビジネスを強いられていますが、結果的には「貧者」から「富者」へ単に「所得移転」する役割を担わされてるだけのように感じることがあります(正直、自分達の身銭まで削って真の「勝者」に「貢いで」いる状況)。「富者」はもはや絶対的な「強者」になっており、スタンダードは「強者」が牛耳っています。契約の条件は最初から「片務」です。

関岡氏は「米英」系のやり方について、「法」に対する考え方の違いにまで言及していますが、ここで塩野七生氏の「ローマは一日にしてならず」の一文を思い出しました。

政治体制とは、単なる政治上の問題ではない。どのような政体を選ぶかは、どのような生き方を選ぶかにつながるのである。(P.168 第二章 共和制ローマ 「ローマは一日にしてならず(上)」文庫版)



改革とは、かくも怖ろしいものなのである。失敗すれば、その民族の命取りになるのは当然だが、成功しても、その民族の性格を決し、それによってその民族の将来まで方向づけてしまうからである。軽率に考えてよいたぐいのものではない。(P.172 第二章 共和制ローマ 同上)

蓋し同感。