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2006年6月20日火曜日

町田康:告白


時代劇の好きな町田氏が、近代的自我を持たない社会の中に、極端に自意識過剰な自我と思弁を持ち込んだら、両者に生ずる摩擦とかズレがさぞ面白かろうに、と思って描き始めたのかどうかは分かりません。しかし内容は、そういう単純な意図をはるかに越える内容を描ききっています。

小説は近代的過渡期に生まれた悲劇を描くに留まりません。人が成長してゆく過程の中で、思弁的かつ自己弁護的なるものを捨て「大人」に成ることに付いてゆけない者の圧倒的孤独をも描いており、そういう点においては、現代的かつ町田的テーマでもあります。


熊太郎の持つ存在の哀しさ。それは近代的自我持つ主人公と他者との間に横たわる深い溝として説明されます。彼だけが思弁的内向性を有していたが故に、他者に自分の考えが「伝わらない」ということ。しかし、彼の考えだけが伝わらないのではなく、他者の思弁も、熊太郎はそんなものは存在しないとアタマから否定していことによって、彼には一生理解することができないのです。存在しないと考えるものを理解することはできません。

他者と自分の痛いまでの違いの認識、自己認識あるいは、極端なる自意識。行動よりも思弁が圧倒するということ。決して埋まらない自己と自己、そして自己と他者との間の断絶の中で、分裂と不信、甘さと自己愛に支配された彼は、救いと自己の解放、現実との整合などを求めて、どこまでも、どこまでも、捩れていきます。

現実と折り合いのつかなさ、世渡りのヘタさ、真面目にやればやるほどに、ズレてゆく主人公の姿は全ての町田文学の典型です。しかし、「告白」で描かれた狂気の結末は、不条理やユーモアという笑いのオブラートを取り除いたが故に、彼の他のどの小説にも似ず悲劇的です。最終的に熊太郎は救わなかったような描かれ方をしています。彼の見つけた自己の内部の「曠野」、果てしない虚無と絶望。銃声は彼の何を殺したのか。

もう一度、いやしかし、彼は本当に救済されなかったのだろうか、と考えます。ここには、「人は何故人を殺すのか」ということ以上に、「人は何故に生きるのか」「何故に死すのか」という命題をも含んでいます。熊太郎のダメ姿を自己投影する読者も多いはずです。そこに町田文学に対する共感があり、そして深く考えさせられます。

改めて思う、町田氏は凄いです。classicaのiioさんに教えられて町田道に入りましたが、最初からこの本を読まなくて、つくづく良かったと思います。感謝の意を込めてTBしておきます。

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