2004年3月7日日曜日

これも言論の弾圧ですか?

言論弾圧といえば、こういう記事もみつけました。『社保庁職員が「赤旗」配布容疑で逮捕 国家公務員法違反』(3月3日朝日新聞 電子版)。事件は見出しのとおりですが、国家公務員法の違反容疑による警視庁の強制捜査は21年振りだそうです。短い記事によりますと、


公安部は今回の逮捕理由を「中立性を求められる国家公務員が、政党機関紙を反復継続して配布するなど守るべき規範を超えている」と説明している。



とのことです。「赤旗」が問題ですか。では、公明党と創価学会の繋がりなどは良いのですかね。

言論弾圧というと過敏すぎるかもしれませんが、例えば、教育基本法改正促進委員会における民主党 西村真悟衆院議員(たけしの「TVタックル」によく出演されている極右議員です)の次の発言はいかがですか。


教育基本法の改悪を目的とした、自民、民主両党国会議員の議員連盟。二月二十五日に設立、両党の有志議員二百三十五人が参加しています。教育基本法改悪法案の早期国会提出へ向け、国会議員の過半数まで議連を拡大することなどが当面の方針です。委員長は自民党の亀井郁夫参院議員。二〇〇〇年五月に「神の国」発言をした森喜朗元首相らが最高顧問になっています。
 民主党から同議連に参加した西村真悟衆院議員が、設立総会で「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す」などと発言。教育基本法改悪の目的がどこにあるのかをあけすけに語りました。〈2004・3・6(土)〉「しんぶん赤旗」


あまり話題になっていませんよね。西村議員ですから確信犯として許容範囲内ですか。この報道は、大手新聞では朝日新聞と赤旗(赤旗が大手かはさておき)でしか報じなかったそうです。こういう発言は野放しで赤旗を取り締まりますか。(そろそろ「日本共産党」とか「赤旗」という名前を降ろしたらいかがでしょうかね。個人的には私も「共産党」と「赤」には、どんなに正当な事を述べていても、色がついてしまいますからね。自ら自己矛盾をさらしているのですし。)


もはや政権与党と野党の対立はなく、オール与党で言論は改憲と右傾化に一直線という見方もできますが、ここは慎重にならなくてはなりません。はてさて・・・

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2004年3月6日土曜日

年金問題ふたたび

今週の「週刊!木村剛」は『厚生年金はネズミ講か? [コラム]』と題して、公的年金制度のおかしさを、怒りを込めて書きつづっています。



年金問題は私も気になっているのですが、どこか徹底的に騙されているのではないかという気持ちが抜けきれません。先に触れたグリーンピアに代表される施設ひとつ取っても、全く理解の域を越えています。木村氏は、『若者に年金脱退権を認めよ!』と主張しています。結論だけ引用してしまいますと、


要するに、「年金脱退論」というのは、インチキな「保険方式」から明確な「税方式」への移行を展望した政策なのである。私は、各人のインセンティブにしたがって、年金のあり方を自由に選択していく結果としての「税方式への移行」を目指すべきだと考えている。


ということです。ここで思い出すのが大前研一氏のメールマガジンです。『「年金、要りません!」という人には「名誉」を』と題した第1回のメルマガは、年金からの脱退を勧めています。年金脱退者には「名誉」や「その後の所得税を免除するなどのメリット」を与えるべきだと説きます。彼の主張も年金改革にあります。


年金脱退権という点においては両者共通しています。お上の制度に一律にという時代は終わったようですし、自己責任が言われる時代において、個人はもっと賢くならなくてはならないということでしょうか。

2004年3月5日金曜日

これは治安維持か言論弾圧か?


朝日新聞を見て驚いてしまいましたが、東京都立川市の防衛庁官舎へ自衛隊派遣に反対するビラを配った市民グループ3人が先月27日に警視庁公安第二課と立川署により逮捕されていたそうです。逮捕理由は、「住居侵入」罪だそうです(派遣反対ビラを自衛隊官舎で配って逮捕 憲法学者ら抗議)。


記事によると憲法学者たちは以下のように、今回の公安の行動を批判しています。




地元の大沢豊・立川市議らは3日午後、立川署を訪れ、「反戦運動への弾圧だ」として3人の釈放を要求。署側は「法律に基づいて正当に捜査している」と答えた。

 奥平康弘・東大名誉教授、水島朝穂・早大教授、阪口正二郎・一橋大教授ら憲法学者や刑法学者ら56人も「住居侵入罪によって保護される法益は平穏な私生活。郵便受けは外からの情報を受け取る通路でもある。今回の措置は自由な民主主義社会の基礎を揺るがす」との声明を発表し、抗議している。


まったく慄然とする思いです。逮捕されたのは立川自衛隊監視テント村という市民団体です。逮捕された上に、事務所から書類、パソコン類も押収されたというから、念が入っています。公安は以前からこの市民団体に目をつけており、今回のビラ配りで「時期が時期だけにひとつお灸を据えてやろう」という意思が働いたのでしょうか。

朝日新聞5日の社説は「ビラをまいた人たちに非が全くないわけではない。自衛隊員や家族の複雑な気持ちへの配慮が足りないのではないか、という意見もあるかもしれない」としながらも、


 支援者らの抗議に対し、警察は「法律に基づいて正当に捜査している」と答えた。しかし、今回のような強引な摘発が続けば、市民が自分の意見を言ったり、集会を開いたりすることをためらいかねない。私たちはそのことを心配する。


 自分と違った価値観を認め合い、自由に意見を交わすことができる。それが民主主義の社会であるための前提だ。


と主張しています。私も件の市民団体の活動について熟知しているわけではないので、結果だけから判断することは危険であるとは思いますが、全体的な印象ですと「言論弾圧」に近い、あるいは最近ではオウム真理教で戦後初めて適用された破防法、すなわち戦中の治安維持法に繋がる糸が見えてしまうというのは過剰な反応でしょうか。やはり見えないところで、世の中は間違った方向に進んでいませんか。


私は朝日新聞(電子版)で記事を見つけましたが、産経や読売はどのように記載する(あるいは無視する)でしょうか。

2004年3月4日木曜日

札幌市長の君が代斉唱中止

本日の読売新聞によりますと、札幌市の上田市長が新年互礼会での君が代斉唱中止の件で、ごたごたしているようです。上田市長といえば、昨年の市長選挙民主党はじめ市民ネットが推薦した元弁護士で、史上最多の7人の候補者が乱立する中、勝ち上がった方です。

記事によりますと、上田市長が君が代斉唱を中止した理由は「多様な価値観を認めることが民主主義」であるとの持論によるものだそうです。自民は「公人ではなく個人的思想に基づく行為」と反発を強めて予算特別委員会で追求をしているという図式のようです。新聞記事は更に、

(上田市長は)戦前、国旗・国歌が国家への忠誠心を表す対象とされたことに触れ、「私が恐れるのは公権力が一つの価値観を強要する社会」と指摘。「精神的自由の尊重が重要で、そのためには(新年互礼会の)君が代斉唱は必要ない」と従来の見解を繰り返した

2日の朝日新聞北海道版では、

日本が第2次大戦を回避できず、自国他国を問わず、悲惨な結果を招いた最大の原因は国民に精神的自由が保障されていなかったからだ

精神的自由に影響を与える可能性のある事柄には、国家は中立的で、できる限り抑制的であるべきだ

という上田市長の言葉を引用しています。

問題は国旗、国歌ということより、個人の信念と公人と私人としての役割、そして「精神的自由」ということに集約されそうです。たとえば小泉首相の靖国神社参拝も、個人の信念としてならば非難されるべきものではないかもしれません。

互いにひっかかるのは、政治家としての歴史認識を言動として表さずに、表層的な結果だけで動いているために余波を呼ぶのかなと思うのですが。君が代を斉唱することが法的に定められた国家意思であるという考え方は、いわゆる人を殺してはいけないというようなものとは違って、やはり違和感を感じずにはいられません。

ちょっと違いますが、住民基本台帳に反対する自治体がありますよね。東京都ですと杉並区とか国分寺市ですが、行政が行政のやり方に反対することはけしからんことで、違法なことなのですか。もっと言えば、会社において「社長の意見や会社の規律に馴染めないのなら、辞職しなさい」というのは一見正しいようで、組織的にまっとうな組織といえるのでしょうか。いろいろ考えてしまいますね。

ちょっと脱線しすぎましたか。

(参考)

2004年3月3日水曜日

アメリカ大統領選の行方

スーパーチューズデーが始まりましたね。今後ブッシュ政権からケリー氏でも誰でもいいのですが民主党政権になった場合、小泉政権のイラク派兵に対し不利になることはないのかと考えていたら、そうでもないようです。



ロイターの記事によりますと、


民主党はもともと保護主義色が強いが、選挙後は通商政策が中道路線に戻ることが多い。安全保障政策については、民主党候補が政権奪取後はより国連重視に転じるとみられる。自衛隊のイラク派遣に対する国民の支持を取り付けたい小泉政権にとって、米政権交代は外交上困ることはなく、むしろやりやすくなるとの指摘も出ている。 (吉川 裕子記者 リンダ・シーグ記者)

ということのようです。なるほど、今度は国連ですか。アナン事務総長と日民主党の管代表は

イラク戦争を始めることについては国連は一貫して査察の継続を主張し、反対であったことを明言された。アナン氏が自衛隊派遣を評価したことで、戦争の大義名分が認められたかのような論陣を張ろうとしているが大間違いだ

と話していたのは先月24日でした。これからの情勢を見極める必要がありそうです。

国歌、国旗についての読売新聞


本日の読売新聞社説は『[国旗・国歌]「卒業式も国際的標準を視野に」』とした上で、国旗国歌の重要性を説いていました。私を含めて、国旗、国歌に複雑な思いを抱く人は多いと思います。



読売新聞いわく


 先進諸国は共通して、学校での国旗、国歌教育を重視している。アメリカでは法律で、学校などの公的機関に国旗を掲揚することが定められている。自分たちの歴史や文化、アイデンティティー(自己同一性)を確認し、国の将来を構築していく意志を示すためだ。

 国旗、国歌を通じ子供に精神的な支柱を形成する取り組みが、グローバル化が進む今、以前にも増して重要だ。

国旗、国歌に限らず、国家とは何かという認識が重要であること、(国家なくして個人は国際社会で存在できませんから)国家によるアイデンティティの確立も重要であることは認めます。


学校においては、国旗掲揚及び国歌斉唱の実施は義務付けられていますから「国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われる」らしいです。


再度読売新聞に戻りますが、


 日本では、戦前の軍国主義体制への嫌悪感などから、国家について突き詰めて考えることを避け、国旗、国歌への態度も曖昧(あいまい)にする傾向が続いてきた。


とあります。嫌悪感とともに出されるのが贖罪意識あるいは自虐史観に基づいた歴史認識です。やはりそういう歴史を総括して清算しない限り、国歌、国旗問題、ひいては憲法9条問題も解決しないのではないでしょうか。外圧や対外的な脅威のみに依存した、安易な解決や改革しなくてはならないような雰囲気つくりに流されること、こういうことはやはり避けるべきだと思いますが、いかがでしょう。

若い歌手が「アカペラで国歌を歌いたい」と言う発言には、どう受け止めるべきでしょう。以前、忌野清四郎が国歌を歌いましたが、変にカッコよかっただけに不気味でした。


サッカーW杯などで無邪気に国旗を振る海外選手を見ると、うらやましいと思いますが、日本は何故国旗を振ることに罪悪感と抵抗感があるのでしょう。サッカーのオリンピック予選が始まりましたが、どうしてあんなに「国を挙げて」熱狂する雰囲気をマスコミは作り、それにまた皆乗ってしまうのでしょう。


アメリカは占領地に星条旗を立てて歴史を作ってきましたが、彼らには贖罪意識はありませんね。やっぱり連合国だからでしょうか・・・


右傾化や改憲派が与野党で趨勢を占めてきましたが、彼らや彼女らは徴兵制を前提(1)に議論しているのですか? 彼や彼女らは、自分たちの子供や孫を戦地へ送る覚悟ができているのですか?  戦地での彼らや彼女らに、相手が敵なら銃剣で刺し殺せと教えるのですか? 日本人が海外で銃弾に当たって死ぬことや、地雷や爆弾に当たって吹き飛ばされることを許容できているのですか?


国旗、国歌問題から飛躍しすぎかもしれませんが、こういう問題を考えると己の勉強不足と認識不足に、はっきり言ってうんざりしてしまいます。


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(1) 安直に徴兵制度と書きましたが、調べてみると現在の主流は志願兵制度ですね。現在の防衛強化の方向を、「徴兵への移行」などと考えるのは短絡すぎるようです。ドイツは徴兵制を残していますが、イギリス、フランス、スペインでは徴兵制は廃止されています。イタリアも2005年には完全志願制に移行する予定です。勿論アメリカも志願兵性ですね。日本が軍隊を持つとしても、志願制で人が集まらない状況にならない限り、徴兵制は採用されないという議論もあります。また、現代の近代化した兵器を扱うのに、期間兵では役に立たないとか、徴兵されたものを教育する体制にないなどの現実的な問題もあるようです。おっと、このエントリーは「国旗、国歌問題」でしたね。この手の問題は、まだまだ勉強不足のようです。

2004年3月2日火曜日

アイノラ交響楽団の演奏会

アイノラ交響楽団の第1回演奏会に行ってきました。アイノラ交響楽団というのは、シベリウス愛好家が集まって、シベリウスの音楽を演奏するために結成したそうです。今回の演奏会にこぎつけるまで3年を費やしたそうです。
 
アマチュア団体でしかも特定の音楽家に特化するというのは、ユニークでありながら非常に冒険でもあるように思えます。シベリウスの曲は私も好きですが、二つの組曲はあまり馴染みがないためどのような演奏になるのか、期待と不安を持って聴き始めました。 アマチュアとは言っても在京のオケですから技量は高いオケのようです(比較対象なしの独断)。ffにおける音量も十分で、ダイナミックレンジの大きな迫力のある演奏を聴くことができました。特に、金管群の音量は十分すぎるほどで、想いの丈が伝わってくるかのようです。弱音や弦楽器による細かなトレモロなど繊細な動きもなかなか聴かせてくれました。多少表情が固いかなと思うこともありましたが、オケとしての初々しさなのでしょうかね、あるいは私の勝手な思い込みでしょうか。 

さて、肝心のシベリウスの音楽ということに関しては、これは表現するのがなかなか難しいものがあります。というのも、シベリウスの何を好きかということになるのかと思うのですが、これはオケの想い、団員個々人の思い入れ、そして指揮者の解釈、聴衆の求めるもの、それぞれが「シベリウス」というキーワードのもとに微妙に異なるからです。そういうわけですから、自分の中の勝手な「シベリウス像」を演奏からどこまで聴くことができるか、ということに興味は尽きるたわけです。巨匠の演奏やプロの名演と比較してということではなくて、ですが。 

私が好きなシベリウスというのは、どこか曖昧であり自然と一体化したかのような喜びと霊感を感じさせてくれるようなところ、よくマーラーと対比されますが、ギリギリまでに鋭敏に贅肉を落としたところの澄みやかなる美しさと冷涼さ、キリスト教の神とは違う意味での神聖さを感じさせるところなどなどです。演奏を聴きながら考えたのは、上とは逆のシベリウスの持つ愛国心と大衆性ということで、それはそれでシベリウスが愛されてやまない理由だとは思うのですが、個人の中でどう音楽的に両立していたのだろうということです。 

本日の演奏会のプログラムは、さすがに第一回の演奏会と銘打つだけあり、よく練られていると感心するとともに、シベリウスの両面を上手く表した曲が選曲されていると思いましたが、最初の組曲ふたつは馴染みがないせいか、どうも焦点を絞りきれず、実は余り楽しめませんでした。「フィンランディア」だけがあまりに有名ですから、そこだけ浮き上がって聴こえてしまったのは私の経験不足というところですね。(世のシベリウスファンは、この曲を生で聴くために足を運んだ人も多いことでしょうに) 

それでもシベリウスの考えている音楽やアイデアがそこかしこに断片のように散りばめられているのを聴く事もでき、曲を再認識した次第です。 シンフォニーの方は、よくまとまっていたと思います。第2番についでポピュラーな曲ですが、終楽章の6つの和音による決然とした終わり方は釈然としない思いが常に付きまといますが、それもそれとして聴かせきってくれたように思えます。指揮の新田さんは和音と和音の間をかなり長めにためて振っていましたが、彼女なりの想いがあるのでしょう。この不自然なまでの間が、かえって曲に一貫性を持たせたように私には感じられました。

 アンコールのアンダンテ・フェスティヴォは非常に良かったですね。フェスティヴォという題名とは裏腹な静けさと清涼さ、まさにシベリウスの音楽を堪能することができました。 まあ、そういうことで、いろいろと楽しむことができた演奏会でした。えらそうにいろいろ書いてしまいましたが、本日の演奏会に至るまでには関係者の方々には並々ならぬご苦労があったと思います。ごくろうさでしたと思うとともに、今後の活躍を期待しております。 ちなみに開演を告げる鐘の音はシベリウスの作品65の「カッリオ教会の鐘の調べ」だったのですね、さすが!! 
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アイノラ交響楽団 第1回演奏会 2004年2月29日(日) 14:00開演(13:30開場) 
大田区民ホール アプリコ大ホール ��JR蒲田駅から徒歩3分、京急蒲田駅から徒歩7分)) 
指揮:新田ユリ 
シベリウス/組曲「白鳥姫」 作品54 
シベリウス/「歴史的情景」組曲第1番 作品25 
シベリウス/交響詩「フィンランディア」 作品26 
シベリウス/交響曲第5番ホ長調 作品82 
(アンコール) アンダンテ・フェスティヴォ 交響詩「フィンランディア」 作品26

2004年2月29日日曜日

【本棚】辺見庸:単独発言


辺見氏の本は重い、しかしあまりにもめちゃくちゃな世の中だからこそ、氏のようなジャーナリストにして作家が居ることを、僥倖であると思わないわけにはいきません。麻原氏の死刑判決に対する一文を書いたのも、彼の本を読んでいたことと無関係ではありません。

辺見氏の本は現代の精神的なカンフル剤、あるいは踏み絵かもしれないと思うことがあります。日々の情報と生活にまみれ思考停止状態になっている中で彼の文章に接すると、紙面の奥から読むものの嘘と真実を見抜くような視線さえ感じます。

本書は「私はブッシュの敵である」と副題にあるように、911テロの後のアメリカの有様や、彼が1999年問題と指摘するように、日本の21世紀に向けての祖型がつくられた頃の日本の精神的風景を書いています。彼の前ではエセ改憲論者や俄か軍事評論家はひとたまりもなく吹き飛んでしまのではないでしょうか。彼の持つ言葉の重みの前では、自らの怠惰を恥ずるのみです。

歴史が、突如、激しい痙攣を起こした。それを前にしては、いかなる作家や哲学者の、どのような表現も、凡庸のそしりをまぬがれないほど、光景は、突出し、ねじれ、熱し、歪み、滾り、かつ黙示的でもあった。(「私はブッシュの敵である-言説の完膚なきまでの敗北について-」P.1)

彼は一貫して現代の体制に従事してしまったマスコミを批判し、言説が力を持たなくなったことを嘆いてはいますが、彼は真のジャーナリストであり作家ですから、言葉の強さ、行動を伴った言葉の力を信じています。これほど端的に911テロを言い尽くした言葉があるでしょうか。

本書の中で辺見氏は映画「コヤニスカッティ」に触れています。F・コッポラ製作、ゴッドフリー・レジオ監督、フィリップ・ダグラスの音楽による、文明の廃頽のようなものを、一切のナレーションもなく延々と映像と音楽だけで延々と2時間近く流し続けるという、驚くべき作品です。私がこの映画を映画館で観たのは高校生の終わりの頃だったでしょうか。ものすごい衝撃を受け、今でも鮮明に映像が脳裏に焼きついています。あれは一体なんだったのでしょう、おそらくは高度に肥大化した資本主義の断末魔の叫びを観せられていたのかもしれません。辺見氏の哲学の向こうには、米国帝国主義と米国性資本主義を超えた世界観が見据えている点で、同時代の発言とは一線を画しています。

辺見氏は今の時代は、明らかに間違った方向に進んでいる、特に小泉政権のもと、彼を支持する国民とそれをもてはやすマスコミたちとともに、改憲気運が高まっていることに警鐘を鳴らしています。それを「実時間における作家の時代認識について」として、野間宏氏の例を取りながら、自らを内省してみせます。私たちに今見えていないことは何なのか、今何を言うべきなのかと。

彼の本は、一言では言い表せず、彼の投げかけたテーマと罠は、ふとした局面で自らを試すリトマス試験紙あるいは踏み絵のように、また舞い戻ってくるのだと思わずにはいられません。彼の本を読んで、自らのものさしの目盛りが正しいのか、時々確認せざるを得ません。

2004年2月28日土曜日

チャイコスキー:交響曲 第5番/ガッティ

  1. チャイコフスキー:交響曲第5番ホ単調
  2. チャイコフスキー:幻想序曲『ロメオとジュリエット』
  • ダニエル・ガッティ指揮、ロイヤルpo.
  • 2003/8/31-9/1 Abbey Road Studios,London

ガッティの新作であるチャイコフスキーの交響曲第5番を聴いてみました。チャイコフスキーの第5番は私の非常に好きな曲です。

ダニエル・ガッティといえば数年前に発売された、マーラー交響曲第5番が思い出されます。衝撃のマーラーみたいな売り出し方で、私も乗せられて聴いてみましたが、確かに素晴らしい熱演で、特に終楽章の終わり方など凄まじいものがありました。しかしその後の演奏はあまり話題に上らず、私もあの1枚で忘れ去っていたというのが本当のところです。そういうガッティが今回 harmonia mundi に録音したのがチャイコフスキーの第5番と知り、HMVが宣伝しなくても気になっていました。

さて二度ほど聴いてみた印象としては、熱く押しまくる激情型の演奏とは若干違うもののように感じました。激しくないというのでは、全くないのですが、それでも情よりも知の方が勝っているのではないかと感じるのです。

激しくないわけではないと書いたように、始終テンションは高い演奏です。ガッティは緩急を織り交ぜ、自在にテンポを操りながら演奏を進めてゆきます。表現も豊かで、激流とその裏腹のよどみのような柔らかな表現を交錯させるさまは見事です。こういう明暗の描き方はあざといほどで、躁と鬱を複雑に移り変わる感情を表しているようでもあります。ロミオとジュリエットでもそうですが、音楽の造詣は彫が深く秀逸な録音のせいもあるのか情報量が豊富な盤だといえます。こういう演奏を「キレの良い演奏」と言うのでしょうかね。

私はチャイコフスキーのこの曲は昔から非常に好きな曲でありまして、この曲のレビュを書くために「チャイコフスキーの交響曲を聴く」というシリーズを数年前に立ち上げたほどです。この曲はベートーベンと同様に「運命」がテーマとされているように言われますが、私はむしろ特徴的に現れる上昇音型と下降音型に示されるように、引き裂かれた自我の二面性を感じるのです。第二楽章の圧倒的な静謐と美しさも、喪失した美しさや、訪れるであろう(または訪れた)哀しみと虚無を感じます。終楽章もそういうコンテクストで聴くと、自らを鼓舞する駄目押しの祝祭のように思えます。

ガッティの演奏は、激しさと緩やかさの色彩変化が鮮やかで、チャイコフスキーの泣き笑いが透けて見えるようです。演奏は熱演のようでありながら計算と抑制が効いており、単なるお祭り騒ぎに終わらせていないように思えます。テンポの変化も情に訴えるというよりも、聴きなれたこの曲に新たなエネルギーと息吹を与えるような効果であるように思ったのですが、いかがでしょうか。(何度も聴いていたらわけが分からなくなってきたのでここらへんで止めます)

麻原被告の死刑判決

オウム真理教の麻原被告に東京地裁は27日午後、求刑通り死刑の判決を言い渡しました。あまりにも長い裁判に憤りを覚えたり、なぜ即刻死刑にしないのか、という声も多いと思います。かくいう私も、疑問に感じるひとりです。

しかし、これほど影響力のある事件だからこそ、しっかりと裁判を行い事実認定を行い法が裁くという姿勢こそが大切なのではないかという気もしています。最近、宮部みゆきの「クロスファイア」を読んだばかりなので、こういう輩こそ私刑に処すべきという感情論も分からないわけではありません。
死刑制度の是非については、賛成とも反対とも言いがたい気持ちです。国が法のもと犯す国家的暴力としての殺人という意味は、しっかり考える必要があると思うのです。被害にあわれた方々の気持ちを考えると複雑ですが、殺人で報復したところで最終的には救済されることはなく、事件の全面解明と再発防止のために私たちがどうするか、ということこそ重要なのだと私は思うのです。
今のように麻原被告の黙秘と心神喪失のフリのような不遜な態度には、理性を超えて怒りを覚えることも確かなのですが、そこで負けると、映画「セブン」のブラッド・ピットと同じことになってしまうのではないかと思うのでした。

2004年2月26日木曜日

【本棚】宮部みゆき:クロスファイア、燔祭


私は読書家でもなければミステリファンでもありませんので、実を言うと宮部みゆき氏という押しも押されぬ人気作家の作品をほとんど読んだことがありません。従ってこれから書くことは、見当はずれな感想となるかもしれないためご容赦願います。また内容にも触れますので、ご注意ください。 

さて、まず「クロスファイア」から読みましたが、念力放火(パイロキネシス)という超能力を扱う女性が主人公が、凶悪犯罪を犯しているのに法的に大きな罪を得ることなく生きている者たちを、被害者たちに成り代わって復讐することが自らの使命であると信じて殺りくを繰り返す。その設定に乗ることができず、安っぽさとB級サスペンスを読む思いで、実はゲンナリしてしまいました。(読んでいるときは面白いのですがね)

宮部氏は、超能力を題材にした作品はほかにもあるらしいのですが、能力に対する必然性や、何故それを行使するに至ったのかが不明で(いくら悪を滅ぼすとは言っても、立派な殺人ですから)、暗さと殺伐とした雰囲気が漂います。悪い奴らをやっつける、という勧善懲悪的なカタストロフも感じることができません。作品イメージは炎が象徴するものとは裏腹に陰湿です。ラストのあり方にも解放とか救いを私はそれほど見出しませんでした。

主人公である青木淳子のラブストーリも挿入されたりし、法を逃れて生きる犯罪者を私刑する行為や人が生殺与奪の権を持つということに対する問題提起らしきものも見えるのですが、それらは付け足しのようにしか感じられません。

この作品で宮部氏が書きたかったのは、強力な破壊兵器である超能力をもった女性=「装填された銃」という設定に魅せられ、それを書ききったのだなと読み終わって思いました。内容とテーマが微妙な齟齬をきたしているようで、しっくりこないという印象さえ受けました。ぼろくそですね。

ところでこの作品のもととなったのは「燔祭」という中篇小説です。まあついでですから、こちらも読んでみました。主人公も同じで、「クロスファイア」で挿入された事件の発端を書いた作品です。「クロスファイア」だけならば、私は宮部みゆき氏を見限っていたかもしれません。しかし「燔祭」は全然質の違う小説でした。


文庫本には「朽ちゆくまで」「鳩笛草」とふたつの中篇がおさめられているのですが、どちらも超能力を持ったが故に、その能力と折り合いをつけてゆかなくてはならない、個人の軋みを書ききっています。「クロスファイア」よりも小説の重心が低く、文体も落ち着いています。それが個人としての悩みや苦しみ、能力を持つゆえの喜びなどが、沁みるような語り口で描かれています。私はこの作品を読んで、やっと落ちるべきものが落ちたと感じました、これならば納得できます。(文庫本解説の吉田伸子さんとは全く逆の感想ですね)

こうして考えると、「クロスファイア」はエンタテイメントに重心を移し、万人受けするような派手さを持った小説に仕立ててしまったが故に、話も大きくなってしまい、隠されたテーマとの間でアンバランスさを生じたのではなかろうかと思った次第です。読むならば迷うことなく「燔祭」から読むことを勧めます。それにしても青木淳子というヒロインの哀しさよ。

2004年2月20日金曜日

新生銀行の再上場

新生銀行が再上場したことが話題になっています。新生銀行といえば破綻した日本長期信用銀行。バブルの時の乱脈融資が破綻の引き金で、国会でも何度も答弁を繰り返していたことを思い出します。

買収したのは、米投資ファンドのリップルウッド・グループなど。上場に伴う株の売却で約2300億円を得ています。1210億円
余りだった投資資金の2倍近い収入を得て、なお時価7千億円以上の株式を保有するわけです。国が投入した公的資金は約7兆9000億円、そのうち債務超過分の穴埋めとして金銭贈与した約3兆6000億円は損失が確定。悪名高く批判された「瑕疵担保条項」を積極的に利用して、三年間で300社以上の債権を国に買い取らせての再生です。旧長銀の連鎖倒産は民間信用調査機関の調べによると、152社、負債総額約11兆円に上っているそうです。(以上、日経、朝日、読売新聞より)
この企業再生劇を成功と見るのか、苦い経験と見るのか、経済に疎い私には判断ができません。国民負担は4兆とも5兆円とも言われています。確かに新生銀行は徹底した業務改善などに取組んでいるようで、日本の銀行が出来ないようなサービスを提供しつつあります。銀行では多くの優秀なインド人を雇って効率化に取組んでいるという話も聞いたことがあります。
釈然としない思いは残るものの、外資だからこれほど早く再生させることができたのでしょうか。まさに竹中金融相の思い通りになったわけえですから、成功というように受け止めるべきなのでしょう。私には分らないことだらけですが、非常にエポックメーキングなことで記憶にとどめておくべきことだと思っています。

2004年2月19日木曜日

米タワーレコード破綻

ちょっと古い話題ですが、今月9日に米タワーレコードを運営する「MTS」が破綻したようですね。連邦破産法第11章の適用というのは日本の民事再生法のようなものだそうです。

従来型のソフト販売の大手が破綻というのは象徴的な出来事のように思えます。

ネットでの音楽配給というビジネスモデルは、これからますます盛んになると思われますから、CDやDVDを売るという従来型のビジネスモデルは、転換を余儀なくされるということでしょうか。
もっとも、ネットの大手アマゾンでさえ、経営的には実は苦しいという話も聞いたことがありますので、ネットを媒体とした企業が「勝ち組」と単純に言い切れるわけでもなさそうです。
私はどちらかというと、CD店に行ってぶらぶらと迷いながら選ぶというスタイルが非常に好きなのですがね。

2004年2月15日日曜日

【音盤】テンシュテット/ドヴォルザーク交響曲第8番

  1. ドヴォルザーク:交響曲第8番ト長調
  2. スメタナ:歌劇『売られた花嫁』序曲
  3. ヤナーチェク:シンフォニエッタ
  • クラウス・テンシュテット(指)ロンドンpo.
  • ロイヤル・フェスティヴァルホール(ステレオ・ライヴ)
  • 1991年4月2日ロンドン

昨年、ベートーベン交響曲第9番のリリースで話題になったテンシュテットによる、オールスラブプログラムです。演奏は1991年4月1日ロイヤル・フェスティヴァルホールによるライブ録音です。


1991年4月2日のライブ録音はテンシュテットによるオールスラブプログラムです。テンシュテットのスラブものというのは珍しく、スメタナに限らず、ドヴォルザークの交響曲第8番でも、あまりスラブらしさを感じさせませんでしたが、それでもテンシュテットらしい演奏を満喫できる盤であるとは思います。

■スメタナ:「売られた花嫁」序曲

冒頭はスメタナの「売られた花嫁」序曲から始まります。のっけからオケを煽るかのごときスピードと躍動感に圧倒されます。メロディの裏の弦の刻みが凄まじく秘めたエネルギーを蓄えているかのような感じで、それだけに蓄積されたエネルギーの放逸は凄まじいものです。まさに爆発といってもいい響きを聴くことができます。低弦の刻みなど堂々としすぎていて、ドイツものを聴かされているような印象を受けないわけではありません。スラブ的とはどういうことか、と問われると答えに窮するのですがね。

■ドヴォルザーク:交響曲第8番

ドヴォルザークの交響曲第8番も、これはこれは素晴らしく堂々とした演奏でした。一瞬ベートーベンを聞いているのではないかという気にさせてくれる点でも稀有の演奏かもしれません。(特に第2楽章の後半を聴いていてそう感じました。)

それでもスラブ特有(?)の弾け方や体の内側から、固い殻を突き破って溢れ出るかのような生命力というものを感じないわけでは全くなく、むしろ演奏のダイナミズムと相まって劇的なまでに興奮が増幅された演奏になっているように思います。ここらあたりは、さすがにテンシュテットというところなのでしょうか。

エネルギーの放逸という点では、本当にもう脱帽するほどで第一楽章ときたら壮大なドラマさえ感じます。第2楽章などは、十分に歌を聴かせてもらいたいところですが、HMVのカスタマーズレビュにもあるように、ちょっとやりすぎという気がしないでもありません。この楽章にこんな劇的さを私は求めていませんよと(笑)。

誰が演奏しても「スラブ的」になるはずの第3楽章も振幅の大きさは凄まじいですね。実は、ドヴォルザークの8番というのは、高校時代に私は非常に好きだった曲で、久しぶりに聴きましたが、フレーズのひとつひつを口ずさんでしまうほどなのです。ここでも頭の中に刷り込まれた演奏(誰のでしょう?)を反芻しながらテンシュテットの演奏を聴くのですが、体の芯が痺れてしまうような演歌的な臭さはついぞ感じません。

この勢いで怒涛の終楽章に突入するのですが、ロンドン・フィルハーモニック・オーケストラの金管群とティンパニの猛打が印象的ですね。ヤナーチェクでもそうですが、狂ったような木管の吹奏もかなりすごいです。この明朗なドヴォ8をここまで追い込むとは、テンシュテットっていったい何なんでしょうね。

■ヤナーチェク:シンフォニエッタ

私はクラシックファンのようなフリをしていながら、ヤナーチェクのような作曲家の曲を実は聴いたことがありませんでした。したがって、これまた凄い演奏であったとしか書けないところが情けないです。

2004年2月13日金曜日

年金は誰のものなのか


先日、年金問題についてちょっとだけ書きましたが、本日の読売新聞は『[年金改革]「“保険料流用”の廃止が先決だ」 』とする社説を掲載していました。社説は以下のように書いています。



 国民が納める保険料は、現在の高齢者の給付を支えるとともに、将来に備えた積立金となる。それを官僚は湯水のごとく浪費し、目減りさせている。


 「無駄遣いの象徴」とされるのが、広大な敷地に豪華なホテルやプールなどを備えた大規模年金保養基地(グリーンピア)だ。一九七〇年代から八〇年代まで全国十三か所につくられた。


 経営難のため二〇〇五年度までに全廃されるが、それでも建設費や借入金の利払いなど、最大で約三千八百億円の損失が年金資金に重くのしかかる。




 これだけではない。病院やホール、スポーツセンターなど、年金資金で建設された福祉施設も、合わせて二百六十五に上る。建設費も維持管理費も、すべて保険料に“おんぶにだっこ”だ。累計では一兆五千億円を超えている。

この手の話題について、マスコミは時々思い出したように記事や番組にしていますが、今ひとつ国民(私たちですが)の憤りにまで結びつかないような気がしています。いわゆる「年金たれ流し」問題は、ジャーナリストの櫻井よしこさんも鋭く著書で批判していますし、あまり好きな雑誌ではありませんが、「週間ポスト」などでも特集記事をみかけます。


いったい納めている年金がどのように使われているのか、国民をはじめほとんどの人が知らない、知らされていない、知ろうとしない、知ろうとしても分らない、という状態は、やっぱり怒るべき自体なのだと思います。そういう実態があるから最近の年金情報が「目くらまし」に見えてくるのですが。